カルチェ・ラタン
the New Testament
【前編】





 ただ私は、あなたのことが知りたいんです。
 そう思ってしまったから、もうどうしようもないんです。



1.

 予想外の位置から、死角から。
 攻撃を喰らうことがある。

「モエちゃん、ファンくんは?」
「えっと、朝帰ってきてから、コンピューター端末のある部屋に籠もっちゃってて」

 まさかこんな痛みを感じることになるなんて、思ってもみなかった。

「コンピューター端末?」
「なにか、調べ物があるみたいですよ。データベースに接続していたみたいですから」
「ふぅん」


 暗い。
 もう日は高く昇ったのだろうか? 地面の下に深く潜ると、光も届かない。
 照明は一切無い。
 人ひとりが入ると窮屈な部屋には、上下左右に所狭しと並んでいるディスプレイの液晶のあかりが溢れている。
 椅子のすぐ後ろには横滑りの扉があるが、今は内側からロックをかけてある。
 画面には先程から同じページが表示されている。教会のデータベースだ。
 機械に関しては無敵を誇るサイジョウ・ヒイラギが組み上げたシステムなので、向こう側から気取られることはない。
 正規軍幹部クラスの個人データ。

 元帥、ユダ・ゴート。36歳。
 細かい出生などは不明。15のときにゴート伯爵家の養子となる。
 類稀な軍師的才能を認められ、26歳で西軍少佐。28歳で同大佐を経て、31歳より現職。
 幼い頃に火事に遭っているようで、体の左半分はほぼ機械化されている。
 現在は主に現教皇ケルビーニ8世につき従っていることが多い。

―――アザゼル、お前、どうしてここに……!
 昨晩、キリヤ・レスターの住まいに尋ねてきたこの女に、知らぬ名で呼ばれた。
 左の掌で、右の二の腕あたりを擦る。まだ感触が残っているような気がした。
 まるで握りつぶすように、何かに縋るように掴まれた痛み。
『五年間もどこで何をしていた、一言ぐらい断りがあっても……』
 手の形までもがしっかりと、肌に残っているような気がする。
 気がつけば、その腕を力任せに振り払っていた。
『人違いじゃ、ないですか? お会いした覚えはないですけど』
 怯えたように後ろにあとずさって、言った。体が何故か小刻みに震えている。
 すると、正規軍元帥の肩書きを持つ女は、何かのまじないが解けたかのように居住まいを整えた。
『申し訳ない。顔見知りに瓜二つだったもので。考えてみればそうだな、ここにあいつがいるはずもないな。済まないことをした』
 僅かに乱れた襟元を整えながら、一度深く頭を垂れる。
 再び顔を上げたときには、感情の揺らぎなど一切表れない、揺らぎのない顔に戻っていた。
『それではキリヤ殿にお伝え願えるだろうか。本日は我が軍の東軍少尉ガスト・ゴーラムが失礼を働いたこと、大変遺憾であり申し訳ない。しかし、少々御自分の立場をお考えいただきたい。我々は教会の手足。教会の威厳を汚されたとなれば、動かぬわけにはいかない。お気をつけ召されよ、と』
 以上だ、と断るともう一度軽く一礼をし、踵を返した。
 何も言わずにその背中を見送っていると、扉を閉める刹那に、ユダが半ば振り返った。
『愚問と知って訊く。―――アザゼル・ケルビーニという名に、聞き覚えは』
 言い逃れを赦さない、刺すような鋭い視線に射抜かれて立ち尽くす。
 圧しきられぬように目に力を込めて見つめ返し、搾り出す。
『……いいえ』
 そうか、と小さく言葉を返し、ユダは後ろ手に扉を閉めた。


「ユダ……ゴート」
 ディスプレイに並んだ文字を視線でなぞって、口唇から落とした。
 ざらりと、その言葉が舌に乗った感覚を確かめる。
 その響きは、よそよそしくはなかった。むしろ、なめらかに感じられた。
 呼び慣れた名前なのか?

―――五年間もどこで何を……。

 五年。年月の、奇妙な符合。
 キーボードに指を伸ばし、いつもの入力スピードからは信じられないほどにゆっくりと、キィを叩いた。
 Azazel.
 並んだ文字の字面を眺める。見覚えがあるようで、錯覚のような気もする。
 椅子の背もたれにぼすりと体重を預ける。焦点を失って、視界がぼやけた。
 この部屋の椅子は、アジトの主の好みを反映してか、酷くやわらかく、心地よい。
 あまり眠っていないことも手伝って、強い睡魔が引きずり込もうと腕を伸ばしてきた。
 誘われるままに、身を委ねる。

―――これが本当に、秩序になるのか。
 どこか遠くで、女の声が聞こえる。
―――これは統治の中の秩序のひとつだ。
 聞き覚えのある声が切り返す。
―――そのドラッグが本当に、秩序になるのか。
―――ユダ、俺は父とは違うことを目指しているんだ。利用できるものは利用する。以前と違って人々の、宗教に対する依存度は弱まってきている。今までのような方法では教会の威厳を保つことはできない。
―――"アザゼル"。


―――貴様、俺を嵌めたな、ラジエル!


 スイッチを切り替えるように意識が覚醒する。
 座り心地のよい椅子から、飛び出すように跳ね起きる。
 まどろんでいたのは、ほんの一瞬のはずなのに、びっしょりと汗をかいていた。
 額からこめかみの方へ、気持ち悪い雫が伝って落ちてゆく。
 目の前にぼんやりと、青白いディスプレイが浮かび上がっている。
 狭い室内に荒い呼吸が響き渡る。烈しい鼓動の音が鼓膜の内側に響き渡った。
 今は一体何時だろう。
 頭の片隅でそんなことを思う。
 ここには光がない。
 光の見えぬ場所では、どんどんと沈んでゆくばかりだ。
 深い深い心の闇。今はまだその底を覗くには早いと。覗くのは怖いと。
 そう思うのに。
 ディスプレイのあかりが目に痛くて、両手で目を覆う。子どものように、背を丸めた。
「……やめてくれ」

 パズルのように何かのパーツがかちりと、嵌ったような気がする。
 それと共に、膨大な量のざわめきが、この体の内側でさざめき始めた。

―――汚染するんじゃない、コントロールするんだ。
 ざわめきが囁く。"自分とよく似た声"で。
―――これは、俺が目指す楽園への扉の鍵になる。天国への扉の。


 アザゼル・ケルビーニ。
 現教皇ケルビーニ8世の一子。
 15で教会の司祭の資格を得、16で同司教と正規軍特務審問官を兼任。
 が、5年前に突然の失踪。
 その後現在まで、行方は杳として知れない―――。


            *


 背中に硬い感触を感じている。
 高い天井から、刺すような白い光が落ちてきている。
 鋼鉄の床に大の字で転がって、天井を見上げていた。
 もうどのぐらいの時間が経ったのだろう。
 3日過ぎたといわれればそういう気もするし、まだ3時間だといわれてもきっと納得する。
 ゆっくりと目蓋を閉ざすと、床から伝わってくる僅かな振動だけが体感する感覚の全てになる。
 唸るような小さな振動が、絶え間なく続いている。
 胎動のようにも思える。
 この、体育館のようにがらんどうな部屋の隅で、一台の巨大な機械が絶えず動いている。
 この胎動は、その音なのだ。

 一定の音を聞いていると、睡魔に襲われる。それは人間の本能なのだそうだ。
 仕組み。原初のシステム。
―――植物の、何が面白いってんだ?
 その決まりごとに抗わずに身を委ねると、ふわふわと意識の奥底から声が浮かび上がってくる。
 水面に、水底から浮かんでくる泡のように。

―――死なないんじゃ、なかったのかよ。なんだよこれ……!
―――なんなんだろうね。
―――薬を飲むのを、止めてたのか? なんでだよ!
―――本当に、なんでだろう。急に、欲が出たんだよ。
―――欲?
―――あの薬物を作り出して、自分のエゴの為に幼い子どもを犠牲にまでして、三百年以上。生き続けることが僕の義務であり贖罪だと、思っていたんだ。だけどなんだか……。
―――わからねぇよ。人の言葉を話せ……!
―――死にたくなってしまったんだ。君より先に。

 なんなんだ? その意味不明な歪んだわがままは。
 決して消えはしないのだと。突然消えてなくなったり、できない。
 "死ねない"のだと。
 言っていたのはお前だ。
 中途で責務を投げ出して死んじまうぐらいだったら、はじめからこんな薬物なんか作らなければよかったんだ。
 そうすればお前は望みどおりに寿命で、100年も生きないうちに死ねた。
 200年以上後世の人間と、付き合うこともなく。
 そもそも出会うこともなく。
 お互いの道は交わらずに、勝手に生き、死んだはずなのだ。


 胎動のようなかすかな振動に、別の音色が混ざった。
 靴の踵が、床を打つ音。
 硬く、一定の周期で、僅かに反響する。独奏だった演奏に、別の楽器が加わったようだった。
 静かに、混ざる。
 アースはその足音に、目蓋を持ち上げた。
 白すぎる光をその翠玉で受け止めて、ゆっくりと一度、まばたく。
 足音が徐々に近づいてくる。
 両腕を突っ張って、上半身だけを起こした。すると、背後に聞こえていた足音が、突然止んだ。
「……教会に届ける分の薬物は、1番のマシンで作ってたよな。一定量を生成するようにあのジジイが残していったプログラムにしたがって製造されて、俺が確認したうえで教会に運んでる」
 アースは、床に胡座をかいたまま、向かい合う形になった機械を見つめた。
 先程からずっとかすかな唸りを上げているのは、その機械だ。
 "箱型"。
 巨大なサイコロのような黒っぽい機体から、まるでこちらがわに舌を伸ばしたようにベルトコンベアが伸びている。
 コンベアの上を、袋詰にされた白い粉が流れてきて、コンベアの先に置かれた箱にとさりと落ちる。
「ジジイが死んだあと、研究用に使われていた2から6のマシンは完全に凍結させたはずだ。そうだよな」
 唸り続けるマシンに目を細めつつ、アースはやけに淡々とした声で言う。
 背中に、ぴんと張った緊張を感じながら。
「このマシンのナンバーは6だったと思うんだが、違うか?」
 腰をあげ、立ち上がる。直線状にあるベルトコンベアの方へ近づいた。
「それに、この製造量は普通じゃねぇ。こんなに作ったら需要と供給がつりあわないだろ。じゃあこれはあれか? 巷で噂の白い粉、HGっていうわけか?」
 等間隔で流れてくる袋をひとつ拾い上げ、眼前にかざす。
 そしてようやく、アースは振り返った。
「俺はこの研究所でそんなドラッグ産業を行う許可をした覚えはねぇんだがな」
 白衣姿の男が一人、視線上に立っていた。
 左腕に、直属研究所研究員の腕章をつけている、れっきとした研究員だ。年の頃は30代前半。アースにとっては、見知った顔だ。
 メカ部門のチーフを担当している男だ。アースがまだ年端も行かぬ子供だった頃からここにいる。
「オウラン、てめぇは誰に使われてんだ? まさかてめぇの独断なんて言わないよな。こんな上等な手段を思いついたのはお前じゃないだろ。誰だ、ドイル・カートレットか?」
「今の依頼主は、そうだ。だが、はじまりは違う」
 苦々しく、オウランは吐き捨てる。
「"はじまり"?」
「私は、彼の方の理想に同調した。そのためにこの機械を五年前から……」
「"彼の方"、"五年前"。ハッ、なるほどな」
 侮蔑の色をエメラルド色の瞳に滲ませて、アースは手にしたHGをどさりと床に落とす。
「ひと悶着あったあの問題児か。そうだな、お前はあいつの取り巻きだったからな。年端も行かない餓鬼の理想に同調したって? ふざけるなよ。あの餓鬼に尻尾振ってれば、俺を踏み越えてここの主任になれたかもしれないからだろうが」
 容赦のない物言いに、オウランの顔にさっと朱が差した。
「その次期教皇猊下も5年前から行方不明だ。お前の努力も水の泡だな。餓鬼だ餓鬼だと思ってたが、このからくりを考えたのは教皇の息子ってわけか」
「アザゼル様が目指したのは、秩序ある統治だ!」
 瞳に狂気を宿して、オウランが咽喉を開いて叫んだ。周囲の金属に声が跳ね返る。
 が、逆にアースは冷静さの度合いを深めてゆくように見えた。汚いものを見るように、目を細める。
「薬を蔓延させて、ドラッグで民衆を操る統治が秩序? 笑わせんじゃねぇ。でも、それで納得がいったぜ。あの大司教猊下がわざわざ教皇の息子を"消した"理由が」
「な、消し……」
 予想だにしない言葉に、オウランは瞠目する。その様子に、至極おかしそうにアースは口元を緩めた。
「知らなかったのか? 教皇の息子アザゼルが消えたのは、失踪でもなんでもない。ラジエルが消したのさ。当時はその理由は分からなかったが、なるほど、これで納得がいった。ドラッグを使っての秩序は、大司教猊下のお気に召さなかったらしい」
「大司教猊下が……そんなことを」
「信じる信じないは、てめぇの勝手だ飼い犬」
 アースはくるりと踵を返して、黒い箱型の機体と向かい合う。右手でその表面に触れると、僅かな熱と、かすかな振動が掌に伝わる。
「……本当に気がつかなかったのか、五年も。がっかりだな"主任"」
 アースは無防備に、オウランに背を向ける。その背に、オウランは嘲弄を滲ませた声を投げつけた。
 なめらかな機械の表面を撫でていた手を、止める。
 視線だけを、侮蔑の声の方へ流した。
「あんたの家といってもいい、この研究所で五年。あんたの足元で絶えずHGは生成され続けていた。ずっとだ。あんたは何の異変も疑問も、抱かなかったというのか? 五年もだぞ」
 視線だけではなく、今度は体半分をオウランに向けた。右手は相変らず機体に吸い付いたように離れない。
 かすかな震えが絶えず伝わってくる。体中に。響いてゆく。
「神童、天才。化け物とまで呼ばれた男が、気配も察知できない? そんなに、このラボのことを考えるのは苦痛だったのか? 俺はてっきり、あんたは察知してるもんだと思ってたんだがな!」
 体の内側。裡側(うちがわ)に、冷たいものが生まれ、体中に孤を描くように広がってゆく。
 冷えてゆく。
「間の抜けた話だな! まるで子供だ。見たくないものには蓋をして、それで無かったふりか? 俺はいつだってひやひやしていたさ、いつばれるんだろうってな。それがこの有様だ。あの掌紋照合の扉で封印してから、一度もここには来なかったわけだろう?」
 五年も、としつこいほどにオウランは繰り返す。
 アースは、まるで射殺すようにオウランを凝視する。
 すみずみにまで冷たいものが広がってゆく。
 髪の先から爪先まで。
 残虐で冷静で冷徹な。つめたい炎。
 度を越した怒りは、熱くはない。
「そんなに思い出したくなかったか? そりゃそうだろうよ、博士が死んだのはこの地下ラボ―――」
 そこから先の言葉は、発せられずに咽喉の奥で消えた。
 正面から飛び込んできた大きな塊を受け止めることができずに、そのまま仰向けに床に倒れこむ。硬い鋼鉄に強かに背と頭を打って、一瞬だけ息が止まった。
 どっと腹部に重みが乗る。打ち付けた後頭部のせいで、視界はぐらりと揺らいだ。
 何かが上から覆い被さったことだけは、体に落ちてきた影で分かる。
「くだらねぇこと、ぐだぐだ並べてんじゃねぇ。耳障りなんだよ」
 ようやく眩暈から開放された視界に、冷たい光をたたえた翠が映った。
 搾り出すような低い声が、耳に強引にねじ込んでくる。
 強い力が胸倉を掴み、まだ自由の利かない体を無理矢理に半分だけ引きずり起こす。
 咽喉元に、冷たいものが触れた。鋭い、刃だった。
 腹部にはアースの膝が乗っている。内臓を上から圧迫されて、嘔吐感が込み上げる。
 オウランの顔を自分の顔と同じ位置まで引きずり上げ、右手の内に仕込んでいた刃を咽喉に押し付ける。うっすらと糸のように細い傷が横に走り、そこから赤い色が胸の方へ流れて落ちる。
 怒りが度を越すと、逆に冷静になるということを、初めて体で知った。
「そうは見えないかもしれねぇが、俺は今、相当頭にきてるんだぜ」
 体の裡で、冷静に自分の行動を観察しているもうひとつの意識に気付く。口と体は、先程からほぼ自動的に動いていた。
 口の端が卑しく持ち上がる。

 そんなに、この場所のことを思い出したくなかったのか?
 自問。
 そうだ、と。自答。
 この場所に誰も。
 触れて欲しくはなかった。

―――死にたくなってしまったんだ。君より先に。

 幻聴が耳元で回る。眩暈がした。
 幻視。
 敷き込んだ白衣の男が、別な生物に見える。
 僕を憎んだらいいと言った、あの日の男に。
「気付かなかった自分にも腹が立つが、足元で好き勝手やられたことで腸が煮えてんだ」
 口は勝手に、オウランへの恨み口上を並べる。
 その間ずっと、意識は別の場所に遊離していた。
―――僕を憎んだらいいんだよ。
(どうして死んだ)
 もはやぶつけることなど適わぬ問いかけを、気がつけば何度も繰り返している。
 どうして全てを投げ出して、死んだ。
(てめぇが死んでから俺はこの)
 怒りを。痛みを。
 どこへぶつければいいのか分からなくなってしまった。
 この胸の裡の混沌に、いったいどうやってケリをつければいいのか。
「お前の言うとおり、こんな場所なんざ思い出したくもなかったんだよ」
 酷く残虐になる。血が見たくなるのはこういうときだ。
 胸の裡の混沌に、整理がつけられなくなったとき。
 簡単なのだ。右手に装着した刃の先を、露出された男の咽喉笛に突き立てて、強く引く。
 そうすれば、人体の構造上、必要不可欠な血管が裂け、おびただしい血が流れる。そして、人は死ぬ。
 簡単に。
 咽喉笛に、バイオリンの弓のように押し当てた刃が、かすかに震えている。
 恐怖にではなく、沸きあがるどうしようもない昂揚感に。
「や、やるならやれ……!」
 怯えきった声で必死に虚勢を張る引きつった顔に、更に自制が効かなくなる。一気に沸点を超えて、苛烈な熱が体中を灼いた。
「ああそうかよ、なら望みどおりに―――!」
「やめておけ」
 込み上げた衝動に任せて右手に力を込めようとすると、突然横から腕を掴まれた。はっとする。
 聞きなれた声が右手側から聞こえる。
 袖を掴む感触にそちらに視線を流すと、研究員には向かないような綺麗な指が目に入った。それと、スーツの袖口。
 オウランの胸倉を掴んでいた左手の力を抜けば、その男の体はどさりと仰向けに床に沈む。咽喉の皮膚が切れて、鮮血が僅かに流れていた。
「邪魔すんじゃねぇ、どういうつもりだ、オルウェン!」
 振り返り様、いらつきに任せて怒鳴りつけた。つかまれた腕を強く振り払う。
 体中の冷たさは一気に失われ、かわりに腹のあたりからふつふつとした熱が込み上げてくる。
 苛々する。気に食わない。
 振り返ると、オルウェン・ドーソンが立っていた。相変らず癪に障るほど涼しげな顔をしている。
 体を蝕む怒りの熱に任せて、左手でオルウェンの胸倉を掴み上げた。
 だが、冷静沈着で名の知れた副主任は、僅かに迷惑そうな顔をしただけだった。
「どういうつもりはこちらの台詞だ。掌紋照合ロックがかかっているはずの扉は開きっぱなしになっているし、様子を見に来てみれば主任自らが流血沙汰だ。何を熱くなっているんだ」
 嗜めるような物言いは、更にアースの感情を逆撫でにする。
「こいつはここで、例のドラッグを堂々と製造していやがったんだよ! 熱くならないほうがおかしいだろうが!!」
 流石のオルウェンも、告げられた事実に僅かに眉をひそめる。きりきりと締め上げられた襟首の息苦しさに耐えながら、アースの肩越しに無様に床に転がったオウランを見る。
 それならば、この男の激昂も納得できるような気がした。
 アース・フィラメントにとってのHGは、竜の逆鱗のようなものだ。
 そこで初めてオルウェンは、この部屋全体に低く響く、振動に気がつく。
「6番のマシンが動いているな。本当なのか、オウラン」
 返事はない。
 咽喉元から血を流しながら、オウランは高い天井を見上げている。胸が上下しているということは、死んでいるわけではないようだが。
「話は分かった。刃を収めろ、アース」
 オウランからアースに視線を戻し、相も変わらず冷静さを保ったままでオルウェンは言った。
「ふざけるんじゃねぇ。今の話を聞いただろ、ことの重大さがわからねぇのか!? てめぇの指図は受けない……」
「頭を冷やせ。殺して何になる」
「足元でこんな事をされて、黙っていられるか」
「"殺していいのか"?」
 会話の微妙な食い違いに、アースは怪訝そうに眉をひそめる。一体この、執事出身の副主任は何を言おうとしているのだろう?
「なんだって?」
「殺していいのか、と言ったんだ」
 胸倉を掴み上げるアースの力に、僅かに息苦しさを感じながら、オルウェンは尚も続ける。
「殺すのは一瞬だろう。本当にここで例のドラッグが造られていたとして、そんな一瞬が贖罪になるのか? 生かしておいたほうが、裁く手段は無限にある。俺ならそうする」
 たとえば死の恐怖と苦痛よりも、生きることが。"生き続けること"が、苦痛になるような。
 そのような手段ならば、たくさんある。
「わざわざお前が手を汚すこともないだろう」
 当然のように、殺人は犯罪だ。
 オルウェンの言葉の意図をようやく汲み取って、アースは舌打ちをした。
 突き飛ばすように、掴んだ胸倉を離す。
「今更なんだよ」
 人殺しなんて。
 もはや、まっさらな掌ではないのに。
「興醒めだ。てめぇに任せる」
 ふてくされたようにオルウェンから顔をそむけ、すれ違う。真っ直ぐにマシンのある方へ歩き出した。
 首を廻らし、オルウェンは主任研究員の背中を視線で追った。
 未だに礼服のまま。白衣のような上着の裾は、赤茶けた色で汚れている。血だろうか。
 掌紋照合でロックされた扉が開かれたのは、記録によると昨日の午前4時。
 今は昼頃だから、彼は一日以上、この部屋にいたということだろうか。
 妙に殺気立っているのは何故だ?
 普段から、爆発物のような男ではある。感情の起伏が烈しく、まるで癇癪持ちの子どものように機嫌が変わる。それはいつものことなのだが。
 それにしても、何かが少しおかしい。
 HGの取引が行われたというパーティで、一体何があったというのだろうか。
 いつもはなりを顰めている獣じみた凶暴さが、抑えきれずに滲み出している。

 マシンの表面に、小さな突起物が等間隔に並んでいる。遠目からでは見落としてしまうような、小さなボタンだった。
 マシンの傍らに立ったアースは、その突起物のいくつかを慣れた手つきで押した。

 まずは、ベルトコンベアの動きが停まる。
 そうして、絶え間なく続いていた唸りのような振動が止んだ。
 黒い匣は沈黙した。



2.

 剥き出しのコンクリートと、裸の蛍光灯。
 延々と続く廊下を、右手を壁につけて歩く。
 重い体を引きずるようにするのが精一杯だ。
 寝かされていた部屋を出て、まだものの五分も経っていないのだろうが、額はすっかりと脂汗に濡れていた。
 ずるりずるりと重い体を引きずるようにしながら進んでゆく。
 壁には張り付いているような扉が、ぽつりぽつりと並んでいた。

 突然、右手側前方にある扉のひとつが開き、貧弱そうな男がひょこりと廊下に顔を出した。
 右掌をつめたい壁に這わせたまま、ドイルはその場に硬直した。
 フレームなしの眼鏡の奥で、眠たそうな目を瞬かせたのは、三十がらみのスーツ姿の男だった。
 僅かな沈黙を置いて両者が見詰め合った後。
 唐突に。
「やぁ」
 暢気な声で眼鏡男が言った。「お目覚め如何」
 あまりに場違いな言葉だった。
 男は、扉を開いたままの体勢で、口の端を緩めて笑う。
「無理をすると傷口が開くよ。血も足りていないはずだけど」
「……どういうつもりだ」
 ようやくドイルは声をしぼりだした。
 戸惑っていた。
 この空気はなんだ?
 想定していたどのシチュエーションとも違う。イレギュラーで、応用が効かない。
 とぼけるように、男は首を斜めに倒した。
 心なしか楽しそうに細められた男の瞳の色が、黒ではなく濃い青なのだと、その時気付く。
「何の思惑があって、私を助けた。恩でも売ったつもりなのか?」
「さぁねぇ。僕はただ、"おとうさん"に反抗したいオトシゴロなんだよ。だから拾ってきちゃったのかもね。まぁ、拾いものにしては、由緒正しいお家柄の御方だったけどね、君は」
 "父親"?
 その言葉の響きに、ドイルは目を細めて、眼前の人物を見据えた。
 どこかで。
 そう、つい最近どこかで見た何かと、同じ気配。
「割のいいビジネスじゃないよねぇ。それとも君にとってはただの道楽だったのかなぁ? ひまつぶし?」
 ぬるま湯のようなだるだるとした声が、ざらりとあからさまに感情を逆さに撫でた。
 さっと、熱が頭に駆け上る。
 すると男は、酷く冷静な眼差しで、こちらを見つめた。
 見えぬ内の裡までも、探るような鋭い眼差しで。
 圧される、と。直感で思った。
 恐怖は少し遅れてきた。
 危険だ。何かが、とてつもなく。
 衝動的で突発的で本能的な。恐怖。
 畏怖にも似ている。
「俺を、どうするつもりだ」
 右の掌が、無意識に冷たさを求めて傍の壁を彷徨った。
 傷口を中心に体中に広がる熱のせいで、頭が上手く働かない。
 強烈な、頭痛と眩暈。
「別に、どうにも?」
 軽く、擦り抜ける。男は薄く笑った。
「僕は君の進路を塞ぐつもりは全くないよ。お帰りも御自由にどうぞ。ただ、こっちは反対。君の来た方向に戻って、ずっと真っ直ぐにいくと、出口だよ」
 愕然と。ドイルはまばたきを忘れて眼前の男を見る。
 一体何を言っているのだ?
 狂っているような気がした。
 誰が、ではなく、何が、でもない。
 この場所を構成する全てのものが、皆、少しずつ狂っていて、あと一歩で全てが崩壊するような危うい均衡の最中にいる。
 そんな気がした。
 三半規管に狂いが生じたときのような、天と地が歪んで混ざりあったような不快感。
 目の前の男の姿が、ぐにゃりとゆがんで崩れたような気がした。だが、それは錯覚だった。意識が僅かに遠退いただけ。
 小さく舌打ちをして首を振る。眩暈を軽く振り払うと、踵を返した。
 今度は左手を壁につけて、ずるずるともと来た道を戻る。

 背中に、視線を感じる。
 体が火照って熱い。
 男の言う通り、無理をすれば傷口が開くのだろう。
 重い体を引きずりながら、そんなことを思う。
 が、戻らなくてはならない。今すぐに。
 義兄に。
 知らせなくてはいけないことがある。

―――君の義兄は一体、何をするつもりなんだ?

 遺跡の地下で顔を合わせたあの壮年の男は、全てを知っていた。
 黒髪に濃紺の瞳の、蛇のような男。
 そうだ。先程の男の瞳は、あの軍人の目にとてもよく似ていた。
 そう、とても、よく。


            *


「胡散臭ぇなァ」
 ハルトが、サイジョウに声を投げた。
 サイジョウはにまにまと口元を緩めながら、居間の扉を閉めたところだった。
 今さっきまで交わされていたドイルとサイジョウとの会話は、その場に居合わせたハルトやレイ、モエやファンにまで筒抜けになっていた。
 扉にちょうど背を向ける位置。すっかり定位置となったその席に座りながら、ハルトは、左腕で後頭部を支えてぐるりと半ば振り返って、サイジョウを見る。
「何が反抗期だよ、ありえねぇだろ」
 呆れたように吐き出して、テーブルの上に両腕を敷いて、その上に突っ伏した。
「何がかな」
 ハルトの隣の椅子を引いて座りながら、サイジョウはまだ笑っている。
「いいんですか? この場所が外に知れても」
 ハルトの向かいで、レイが顔を曇らせる。
 ドイルをこのアジトから逃がして、一体何のメリットがあるというのだろうか?
 サイジョウがドイルをここに連れてきたことには、もっと深い理由があると思っていた。
 そのまま帰したりしたら、このアジトの場所が割れてしまう。
「いいんだよ」
 眼鏡の奥で目を細め、穏やかな声で、サイジョウは言う。
 机の上に、カルチェ・ラタン市街の地図をするすると広げる。
「僕は、自分の利益にならないことはしない男だよ」
 ハイ顔上げて、と促され、ハルトは仕方なく上体を起こした。
「読めないやつは嫌いだ」
 まるで負け惜しみのように呟けば、サイジョウに「それはどうも」と礼を言われてしまった。
 つくづく嫌味な男だな。
 心中で悪態をついていると、ふと、何処かから視線を感じた。
 そちらの方向に目だけを流し、視線の主を確かめる。
 ちょうど、机の一番端。
 だが、その視線の主は、ハルトを見ていたわけではなかった。
 真っ直ぐに。
 サイジョウ・ヒイラギを。
(……ファン?)
 感情のうかがえない、黒目がちな瞳で。
 凝視していた。

「で。レイくんはそのサウル教授に会ったことはあるんだっけ?」
 サイジョウの声で、現実に引き戻される。
 サイジョウは、テーブルの端に両手をついて、屈みこむような体勢のまま、レイを見ていた。
「そうですね、他大学との合同講義のときに何回か。でも、僕が専攻してたのは宗教史なので、サウル教授が研究していた聖遺物研究とは別の分野だから、多分向こうは覚えてないと思いますけど」
「どうかなぁ、サン・エノクの宗教史学部で何度もトップを取ったことがあるレイ・クレスタだからねぇ」
「マジで!?」
 驚きの声を上げたのは、幼馴染だった。
「なんだ、君は知らなかったのか。冷たい幼馴染だなぁ」
 軽蔑の眼差しで、サイジョウはハルトを睨んだ。
「優等生なのは知ってたさ。でも、こいつの性格考えろよ。自分でそういうこと言わないだろ」
「まぁ、謙虚なところはレイくんのいいところだよ。でもとにかく、学生街では結構有名な秀才なわけだ。その上、今は異端者だ。話題性は充分だと思うよ」
 素直に喜ぶ事もできずに、レイは渋面を作る。
「別に、試験でいい点を取ることが偉いと思ってるわけじゃありませんから」
 捨てられた子どもであり、両親の後ろ盾のない状況では、学費を払うことすら覚束ない。
 ただでさえ裕福とはいえない孤児院に援助を頼むことなどできるはずもなく、そうすると自ずから手段は限られてくる。
 良い成績を収めて国や大学からの援助を得ること。
 それが、カルチェ・ラタンでも有数の大学で学問を修めるための、唯一の方法だったと言ってもいい。
 それを実行できたからといって、誇る気にもなれない。

 生真面目なレイの表情に、サイジョウは苦笑した。
「君たちふたりには、粛清の邪魔をしてもらいたいんだ」
 サイジョウの指が、机の上に広げられた地図の、ある一点を指差した。
 カルチェ・ラタンの中央部。巨大な噴水と数々の聖人の銅像が立ち並ぶ、サン・ピエトロ広場。
「粛清は、ここで行われる。明日の、正午」
 たくさんの視線が、サイジョウの指のあたりにあつまった。
「ふたり? ふたりだけで何しろって言うんだよ? 公開処刑ってことはギャラリーもたくさんいるだろうし、それに比例して黒服の軍人方も警備に出るわけだろ? 忘れてるみたいだけど、俺たち一応、そいつらに追われてるんだけど?」
 最悪の場合一緒に処刑されかねない。
「まぁ、そうなったらそれはそれだねぇ」
 のほほんと、サイジョウは言った。冷酷に。
「冷血動物」
 ハルトの悪態を聞こえないふりで流す。続けた。
「詳しいことはあとで説明するけど、そんなに難しいことじゃないんだ。要は、大きな騒ぎにしてくれればいい、ということだ」
「陽動、ということですか?」
 地図から視点を持ち上げて、レイがサイジョウの顔を見た。
「まぁ、その一面もある。お互いがお互いを補完するといえばいいのかな。お互いの騒ぎが大きければ大きいほど、カルチェ・ラタンは混乱する。こちらとしては、お互いにやりやすくなるというわけだ」
「お互いに……」
「言っただろう? 僕はけじめをつけにきたんだって。僕はその間に、別の場所にちょっと用事があってね」


―――サイジョウさん、ちょっといいですか。
 頭の中で組み立てた"明日の日程"を説明しながら、頭の一部分で別なことを考える。
 先程、このアジトの奥の奥、サイジョウの私室を訪れた人物のことを思い出していた。
 ハルトとレイのふたりだけに任せるつもりは、実はなかった。
 こちら側からもひとり、サポートにつけようと思っていたのだが、予定が変わった。
 いつものように、寝起きの眠い目を擦りながらコンピュータ端末に座っていると、ちょうど背を向けている扉がノックされた。
 くるりと椅子を開店させて振り返ると、見慣れた姿がそこにあった。
 五年、絶えず傍にあった姿だった。
『やぁ、ファンくん。どうしたの』
 いつものようにのほほんと応じながら、嫌な予感がしていた。
 虫の報せと言うやつだろうか? 理由の分からない不安と悪寒だった。
『サイジョウさん、明日』
 いつもよりも幾分か緊張した面持ちで、ファンが切り出した。
 入り口から一歩入っただけで、近づいてこようとはしない。
 その距離が、不安を煽った。
『明日、研究所に行くのなら、俺も。俺もそっちに連れてってください』
『どうして?』
 穏やかに訊いた。
 少し考え込むように、ファンは目を伏せた。充分に考え込んでから、顔を上げる。
『それが、俺の、けじめだと思うから』
 ああ、そうか。
 知らず知らずのうちに、呟いていた。
 ファンくん君は、もしかして。
 訊こうとして、できなかった。
 もしかして君は。
『……分かった。君が決めたことなら、連れていく』
 すると、ファンは少し口元をほころばせた。
 ありがとうございます、と他人行儀な礼を言って、踵を返す。
 扉に手をかけたところで、ふと、振り返った。
『サイジョウさん』
 叱られることを怯えているように、呼びかける。
『全部、知っていたんですか。何もかも』
 鈍い痛みを堪えるような顔をして、ファンが訊いた。
 だが、その答えは既に、彼の中にあるような気がした。
 訊かなくても。

 そうか。君は、やっぱり。
 胸の内側に広がってゆくつめたさ。

 何と答えるべきだろう?
 彼を安心させてあげられるような、そんな"嘘"を?
 いや、そんなものはもう無意味なのだろう。
『知っていた』
 この答えがどれだけ君を傷つけるだろう。
 傷ついてくれるのかな。
 傷がつくくらいこの場所を、大事に思っていてくれただろうか。

『全部知ってたよ。何もかも』

 悲しそうな顔をしたように見えたのは、僕の願望が生んだ幻覚かもしれない。
 そんなことを思う僕はきっと、相当病んでいるんだろう。



3.

「それでは明日のミンスター大学の教授および学生の粛清について、確認する」
 巨大な会議用のテーブルが、部屋の中央に鎮座している。
「ベリヤール、説明してくれ」
 上座に座したユダが、左手側の一番隅に座っている男を促した。
 はい、と歯切れのよい返事をして、軍服をぴしりと着こなした男が席を立つ。手にした資料の表紙をはらりとめくって、室内を見渡した。
 上座のユダを中心にして、彼女から右手側が東、左手側が西という配置になっている。
「お手数ですが、お手元の資料をご覧ください」
 デジタルのような抑揚のない声が、場を促す。
 それぞれがそれぞれ、手元に配られた資料の束を手に取った。
「ミンスター大学の教授、サウル・クリストフとその研究室に出入りしていた学生3名に、粛清が適応されます。場所はサン・ピエトロ広場中央、時間は正午。粛清は一般公開となります。そこまではこの間伝達した事項と変更はありません。あとは、当日のカルチェ・ラタンの警備なのですが……」
「元帥閣下」
 まだあどけなさを残した声が、ベリヤールの説明を遮った。
 ユダは、声のした右手側に視線を流す。
 そちら側の、一番ユダに近い位置に座っている愛らしい子供が、その華奢な腕で挙手をしている。
「なんだ、ミカエル」
 呼びかけることで発言を許可すると、ミカエルは席を立つ。
「明日(みょうにち)のカルチェ・ラタンの警備の任、我が東軍が拝命したい」
 ユダは軽く目を見開く。少々意外な申し出だった。
 東の幹部の面々は、今回の粛清に乗り気ではなかったはずだ。
 粛清に関して全権を任されているのも、西の少佐ベリヤール・ルーイン。
 ゆえに今回は西に大まかな仕事をすべて任せようかと思っていた。
 ユダは、居並ぶ東の面々をゆっくりと視線でなぞった。
 10かそこらぐらいにしか見えない食えない大将を筆頭に、美貌の銀髪の女大佐、真面目なのかそうでないのかいまいち分かりかねる叩き上げの中佐に、のほほんとはしていても伝統の暗殺秘術の体得者である少佐がいる。
「何か、思惑があってのことか? ミカエル」
 机についた両肘の先で指を絡ませ、ユダは訊いた。
 すると、少年にしか見えない大将は、愛らしい顔に微笑を浮かべて見せる。
「そういうわけじゃない。今回はずいぶんと西がご活躍のようだから、東が黙っているわけにもいかないと思ったんだよ。警備ぐらいなら、任せてもらっても支障はないはずだよね?」
 言いながらミカエルはベリヤールのほうへ顔を向けた。
「え、はぁ」
 押し切られたかのように、ベリヤールは首を縦に倒す。
「……という話だが、西に依存はないか、ランドウ」
 ユダが西の大将に同意を求めると、沈黙を守っていたランドウ・アンティクリストがその濃い青の瞳を元帥に向けた。
「東軍大将閣下自らのお申し出ならば、安心してお任せできますよ。依存はありません」
 口元に穏やかな笑みさえ浮かべて、ランドウはそれだけを口にした。
「ありがとう。そう言ってもらえると助かるよ」
 相変わらず華やかな微笑をたたえたまま、ミカエルは向かいに座したランドウに礼を言う。
 ただ、お互いに笑みは浮かべていても、空気が穏便であるとは言えなかった。
 刺々しく、冷たい空気が室内に重く漂っていた。
「ごめんね、遮って。続けてくれてかまわないよ」
 説明を途中で遮られたまま、呆然と立ち尽くしているベリヤールに謝ってから、ミカエルは席についた。
「……それでは、警備の件は東軍にお任せいたします。あとで詳しい配置などをお教えしますので、大将閣下が割り振りを決めてくださればよろしいかと思います。では次に―――」

 淡々と続くベリヤールの説明を耳に流し込みながら資料に目を落としていると、ふと、正面から視線を感じる。
 ミカエルは、顔を上げた。
 すると、真正面の男の、濃紺の瞳と目が合った。
 その視線はまるで値踏みするかのようにミカエルを凝視してから、ふっと口の端を歪めるようにして笑みを作った。
 その嘲弄するような笑みを真っ向から見つめ返し、ミカエルもまた、口の端を持ち上げた。


            *


―――人は神に、なれると思いますか?

 地下から地上へ出ると、工場区だった。
 あまり歩き回ることのない区域を彷徨いながら、何とか大通りで馬車を拾う。
 やわらかい座椅子に身を沈めると、途切れそうになる意識を保つことに必死になる。
 貴族街の、自宅の住所を告げてから、腹部を押さえて体を縮めた。
 早く家に戻り、義兄に連絡をつけなければならない。

 西軍大将ランドウ・アンティクリスト。
 仮面舞踏会の会場で出会ったその男は、義兄の直接の上司に当たる。
 彼は全てを知っていた。これからどのような行動を起こすのか、予測は不可能だ。
 今軍内にいるのは危険だ。
(あのひとだけは)
 たとえ、どんなことがあろうとも。
 苦しめてはならないとそう思うのだ。
 疼く傷口を抱えてうなだれる。気持ち悪い汗がこめかみから顎へ流れ落ちた。

 血を見たかった。
 あの、黒とも見紛う赤に、強い鉄の匂いと。
 生物の体から、その液体があふれ出てくるのと、徐々に失われてゆく体温に喘ぐ悲鳴と。
 幼い頃からずっと。死に行く生物を観察するのが好きだった。
 親は奇異な目で息子を見、金を与えることで黙殺する。
 貴族にはたくさんの道楽がある。そのひとつでいいだろう。
 そう、納得する。
 自分でも何故そんなにまで血が見たかったのか。理由など分からなかった。
 ただ無性に、人の生き死にの傍にありたかった。
 上からの歯止めを失うと、制御は効かなくなる。観察対象が、動物から人へと摩り替わるのに時間はあまり要らなかった。


 脳裏に蘇るのは、薄暗い地下室だ。
 床にはおびただしい赤が広がっている。
 その中心に、すっかりと息絶えた女の体が転がっていた。
 扉と向かい合うように床に座り込み、じっとその死体を見ていた。
―――またか、ドイル。
 あきれた声と共に扉が開かれる。
 顔を僅かに持ち上げて、扉の方を見上げた。
―――いい加減にしろ。いつまでもこのままでいられるわけがないだろう。
 両親さえ匙を投げ、誰もが見捨てた狂人を、いつまでも見捨てずに叱り続けたのは、父の愛人が産んだ腹違いの兄だ。
 使用人として、家に出入りをしていた。
 はじめは、鬱陶しかったのだ。ただ。
 義兄とは言え、妾腹の、庶民の血が混ざった男に何故、諭されなければならない?
 それでも、諭されるたびに。泣きたくなったことは事実なのだ。
 幼い子どもがあたたかく叱られたあとのように。
 どうしようもない惨めさと、安堵。
 親身に、誰かに。叱られたかったのかもしれないと。
 見捨てずにいて欲しかったのかもしれないと。

―――兄さん!?
 場面が切り替わる。
 雨の強い夜の話だ。
 夜も大分更けた頃に、ずぶ濡れのまま部下に抱えられた義兄が戻ってきた。
 外傷はない。酔いつぶれた気配でもない。
 傍らの部下から説明を受けて愕然とする。
 出世を妬んだ同じ西軍の人間に、白い粉を。"ドラッグを"盛られたのだと。
 HG。ヘヴンズゲート。
 そのドラッグの存在は知っていた。そしてその効力も。
 定期的に摂取しなければ、死に至る。

―――光を、見た。
 縋りつくようにこの体に掴まった兄が、うめいた。
―――あれは、神の、啓示、なんだ。
 ずぶ濡れの、冷たい指から伝染してくる悪寒。
 背筋が凍るような。
 何もかもが音を立てて狂ってゆく。

 何故、殺さなかったのか?
 アイレの遺跡の地下でランドウから向けられた問いは、自分でもずっと繰り返してきた問いだった。
 HGを一度でもその身に入れたということは、殺されたも同じこと。
 強い幻覚幻聴幻視に、依存。中毒症状。
 そう。彼のためを思うのならば、殺してやったほうが良かったのかもしれない。
 だが、あれだけたくさんの生物を殺してきたというのに、どうしても義兄に刃を向けることはできなかった。

―――人は神に、なれると思いますか。カートレット殿。
 神の啓示を受けたと信じる義兄の為に、HGの確保に躍起になっているうち、大元と接触することになった。
 教会直属の研究所でチーフを務める、オウランという男だった。

 HGは人の命や意思までも左右する。
 ゆえに、このドラッグを上手く使えば、人は神になれるのですよ。

 HGを広めることを条件に、HGの定期的な提供を約束する。
 そのような契約で、HGは広まり始めた。


「お客さん、着きやしたぜ」
 がくりと乱暴に馬車が止まり、御者から声がかかる。
 生ぬるくたゆたっていた意識を無理に引きずり上げられて、嘔吐感が込み上げた。
 荒い呼吸を繰り返していると、外側から扉が開かれた。
 眩しい光が襲い掛かってきて、思わずきつく目を瞑る。
「ドイル様」
 聞き慣れた声が馬車の中に飛び込んできた。
 しわがれた男の声。長くこの家に仕えている執事だろう。
「ドイル様、御無事でしたか……!」
 ふらつく体。腹部を押さえたまま馬車を降りる。
 ぐにゃりとやわらかい粘土の上を歩いている錯覚。視界に入るもの全てが定型を留めていない。
 揺らいでは、溶けて落ちてゆく。
「爺、金を払ってやってくれ」
 追いすがろうする老執事を振り払って、重い体を引きずって館まで歩く。
 父の住む本家ではないことを、これほどありがたく思ったことはない。
 門から館までの距離が短くて済む。
 ここは、父から与えられた邸宅だ。
 度の過ぎた遊びに辟易した父親が、用意した遊び場でもある。
「れ、連絡もなくアイレからいなくなられたと聞いて、どれほど御心配申し上げたことか。顔色が良くありません。すぐにお休みを……」
「通信機だ」
 馬車に料金を払い終えた老執事が、ドイルの背に追いついた。
「は?」
「通信機を持って来い」
 長い石畳を屋敷に向かって歩きながら、ドイルがうめいた。
「で、ですが……」
「早くしろ!」
 力任せに怒鳴りつければ、老執事はかすかな声で「かしこまりました」と呟くと、ドイルを追い抜いて館の入り口へ向かった。
 今にも崩れ落ちそうな体を引きずってようやく館の中へ入ると、紺のメイド服に身を包んだ使用人が数人、正面の階段の前に居並んでいた。
 上着を預かろうとするメイドの手も払いのけ、奥から現れた老執事の手から、通信機を奪い取る。インカムを頭に嵌めると、電源を入れた。
 居間の扉を乱暴に開き、ソファーに体を投げ出す。
 体の奥からじわりと、汗がにじみ出て、こめかみから伝い落ちた。
 既に登録してある相手にコールをかける。
 耳元でコール音が鳴り続けた。
(はやく……)
 朦朧とする意識のなかで、それだけを繰り返す。
 早く。
 早く繋がれ。
 しかし、切実な祈りも空しく、耳元でコール音だけが鳴り続ける。
「……兄さん」
 朦朧とした意識が途切れそうになったその瞬間に、コール音がぷつりと切れた。
≪なんだ、ドイルなのか?≫
「兄さん……」
 機械を通じて少し変調した声が聞こえてきた。
「良かった、無事で……」
≪何かあったのか?≫
「詳しく説明するよりも、まず軍を、離れてくれ……!」
≪? 何を言っているんだ? 明日の粛清にあわせて、今は忙しいんだ。話なら後にしてくれ≫
「兄さんっ……!」
 兄の声がすこし遠退く。通話を切られる予感に、ドイルは縋りつくように叫んだ。
 後頭部に鋭い痛みが走り、意識がくらりと遠退く。
≪ルーイン少佐。どうかしたのか? もうすぐ会議だ≫
 途切れそうな意識を引きずり戻したのは、聞き覚えのある男の声だった。
 低く、抑揚のない、底知れない男の声。
≪申し訳ありません、"大将閣下"。すぐに向かいます。―――ドイル、これから会議だ。後にしてくれ≫
「兄さん、兄―――っ」
 ぷつり。
 容赦もなく、通話は打ち切られた。
 義兄の後ろに聞こえた男の声が、鼓膜の内側で何度も繰り返していた。
「く、そ……」
 もはや目蓋を開いていることすらできそうにない。
 向ける先のない怒りがふつふつと込み上げてきて、ドイルは、頭から引き摺り下ろしたインカムを力任せに床に投げつけた。
 あの低い声は。
 ランドウ・アンティクリスト。
「貴様……なに、を……」
 そこで、ドイルの意識は途切れた。



4.

「一体何がどうしたって言うんです」
 上司の部屋の扉を開くなり、アフライドは言った。
「今回の粛清、乗り気じゃなかったじゃないですか―――、と。皆さんお揃いで」
 見慣れた東軍大将閣下の執務室には、既に顔なじみの左官ふたりが揃っていた。
「遅いよアフライド。呼んでからもう10分も経ってるよ」
 入り口の正面にある執務机に体を静めた愛らしい大将閣下が、ぷくりと頬を膨らませる。
「そうですよー、大将に呼ばれたらもっと迅速にに集まらなきゃ!」
 と、ミカエルに紅茶を淹れていたトクヤマが口をそろえる。
「"10分しか"経ってませんよ! こっちはお隣の教皇庁まで用事があって出向いてたんです。これでも急いできたんですよ」
 名誉毀損だ、とばかりにアフライドは食ってかかった。
「やめろ、アフライド。お前まで付き合ったら話が始まらない」
「ジャンヌ、その言い方は酷いよ」
「酷いですよー」
「閣下。この突然の招集はなんなんですか。それに、今回の粛清に、東はノータッチだと、この間仰っていたと思うのですが」
 能天気なブーイングをまるで聞こえなかったかのように流して、ジャンヌが切り込んだ。
 先程の合同会議の後、東軍大将ミカエル・シャイアティーンは、左官クラスの部下を自分の執務室に呼び寄せたのだった。
 さすがにもうふざけているわけにはいかないと、ミカエルは居住まいを正した。やわらかい椅子に沈ませていた背中を、凛と伸ばす。
「少々、状況が変わった。だから、シノブにも戻ってきてもらったわけだし」
「……説明していただけますか」
 このように招集をかけたということは、そのつもりがあるのだろう。
 そう踏んで、ジャンヌは促した。
「君たちは、ロウエンを知っているだろう?」
「ロウエン、ですか?」
 口の中で繰り返して、ジャンヌとアフライドはほぼ同時にトクヤマを見る。
 ロウエンという地名を聞いて真っ先に思い浮かぶのは、この少佐だ。
「嫌だなぁ、ふたりして見ないで下さいよ。照れちゃうじゃないですか」
 と、のほほんと見当はずれなことを返すが、こう見えてこの男はそのロウエンに伝わる伝統的な暗殺秘術を完璧に会得している男なのだ。
「このカルチェ・ラタンから最も遠いところにある、独自の文化を保ち続ける街、ですか」
 勝手知ったる執務室、とばかりにアフライドは後ろの戸棚から灰皿を引きずり出す。
 ジャンヌはその動作に露骨に眉をひそめて見せたが、部屋の主は咎めない。
 アフライドさん、会議室にライター忘れてましたよ、と抜け目のないシノブが安物のライターをアフライドに放った。
「ロウエンは、カルチェ・ラタンから遠いせいもあって、根強く独自の文化を保っていると聞きます。民族衣装のキモノ然り、特殊な剣であるカタナ然り。独特の体術と素早さを生かした諜報活動と、暗殺秘術を持つ一族がギルドを取り仕切り、むやみやたらとその技術や秘術を流出させないようにしていると」
「その通りです。さすがジャンヌ様」
 ぱちぱち、とトクヤマが手を叩いてみせる。が、当の本人こそ、ギルドを取り仕切り、暗殺秘術を守り続けているという一族、トクヤマ家の直系なのだ。
 どうして正規軍に、と問い掛けたことがある。
 するとトクヤマはいつものようにへらへらと笑って、「僕は末っこですからねぇ。それにこの通りどこか一本ネジが抜けてるんで、ほったらかしです」と流された。
「そのロウエンが、どうかしたのですか?」
「カタナ使いがどうとか、シノブが言ってましたけど」
 煙が他の人々に届かない位置までとりあえず遠退いて、アフライドが口を挟む。
「ランドウが最近、"拾ってきた"らしいんだ。カタナ使いの美少女をね」
「拾って……、ですか?」
「ロウエンで武術を体得した人間は、例外なくギルドに登録されます。仕事はそこから派遣、という形になるんですけど。彼女はギルドに登録されていませんでした。おそらく、ロウエンの麓に広がるスラム街―――奈落の出身でしょう」
「あの、ガイア最大のスラム街、ねぇ」
 アフライドは、中空に向かって白い煙を細く吐き出す。
「閣下は、その少女が、今回のことにも絡むと、お考えなのですか?」
 ジャンヌは意志の強い銀の瞳をミカエルに向ける。
 まだ、全容が見えてこない。
「直接は、関わらないと思ってる。ただ、あの男が何の意図もなく拾い物はしないと思う。しかも、ロウエンの武術を使う少女を、だ。ロウエンの武術は、元を辿れば暗殺術だ」
「誰かを、殺すと……?」
「ありえない話じゃない」
「閣下がそこまで警戒なさるのは、その刃が、身内に向くものだとお考えだからですか」
 そうでなければ、ここまで警戒するのはおかしい。
 ミカエルは、その質問に曖昧に苦笑して見せる。「可能性としては」
「それで、今回の警備に名乗りを上げたってわけか」
 アフライドは、手に持った、鈍い鉛色の円盤型灰皿に煙草を押し付けて消す。
 ミカエルは、部屋の隅で細々と煙草を吸っていた部下に視線を流した。
「相変らず皆、察しが良くて助かるよ」
 もしも誰かを秘密裏に始末するためだとしたら、明日は恰好の暗殺日和だ。
 明日、カルチェ・ラタンは粛清という名の公開処刑一色に染まる。
 今回粛清を担当するのは西軍だ。
 明日の粛清の全権は、西軍大将であるランドウ・アンティクリストにある。
「外側にいては、僕たちは手の下しようがない。だから、せめて警備だけでも、と割って入ったんだ」
 いつものように執務机に頬杖をついて、ミカエルはそれに顎を預ける。
 上目遣いに、居並ぶ部下を見回した。
「明日は、ジャンヌとアフライドに警備の権限を委ねる。シノブには、バックアップに当たってもらおうと思ってる。僕が自ら動くと、さすがに向こうは警戒するだろう。とはいっても、もう遅い気もするけどね」
 先程の会議室での無言のやりとりを思い出して、ミカエルは深々と溜息をついた。
 が、次の瞬間には、幼い顔に似合わない鋭さを含ませて、もう一度一同を見回した。
「何かが起こったときは、君たちが正しいと思ったように動いてくれ」
 黄金の瞳を細めた。

「全ての責任は、僕が負う」


            *


 空は、薄紅色に染まっている。
 アジトの隠れ蓑であるプレハブから外へ出たハルトは、ふと、足を止めた。
「ちょっと、なんだよ、いきなり立ち止まるな……」
 前を歩いていたハルトが急に立ち止まったせいで、その背中にぶつかってしまったレイが、悪態をつこうとして。
 目の前に立つハルトの肩越しに前方を見て、黙り込んだ。
 工場街の、崩れかけたブロック塀。大人の膝あたりまでの高さしかないそれに、ぼんやりと座っている人影があった。
 ゆるやかな風に、肩の下あたりまで伸びた黒髪がさわさわと揺れていた。
 無言のまま、ハルトはその人影に歩み寄る。
 自分の上に落ちた人影に、ブロック塀に腰掛けていた少女は顔を上げた。
「よぉ。なんだかひさしぶりだな」
 いたずら好きの少年のような顔で、ハルトは笑いかける。
 ハルトと同じ、血に濡れたような赤い瞳で彼を見あげて、リョウコはこっくりとひとつうなずいた。
 アジトについてからというもの、立て続けに色々なことがあって、しっかりと顔をあわせるのはこれが初めてだった。
「どうかしたの? なんだか元気ないみたいだけど。具合でも悪い?」
 ハルトに続いてリョウコに近づいたレイが、気遣うように訊いた。
 リョウコは慌てて、首を横に振った。
「そう言うわけじゃ、ないんです。ただ、こんなに人が多いところにきたのも初めてだし、それに……」
 リョウコはそこで一度、言葉を切った。
 考え込むように、ゆっくりと視線を地面に下ろす。
「……なんだかちょっと、気になることがあって。それでちょっと、ぐるぐるしてて、落ち着かなくて」
 知らず知らずのうちに、ハルトとレイはお互いに顔を見合わせていた。
 気になることがあるだけ、という割に、リョウコの肩は落ち込んでいるように沈んでいる。
「話して楽になることなんだったら、誰かに話してみたほうがいいよ」
 やわらかく笑って、レイが、視点をあわせるように屈みこむ。
「別に僕たちに、ってわけじゃない。話してくれるなら、聞くけど」
 リョウコは、俯かせた顔を持ち上げて、レイと視線を合わせる。
 穏やかな深い緑の瞳が、こちらを見ていた。
 口唇を、開きかけて、閉じた。
 言おうとして、黙る。
「まだ、全然まとまらないから、もう少し自分で考えたい、です」
 そっか、とレイは頷いて、体を起こす。
「でも、無理しないほうがいいよ。思いつめると、気が滅入るから」
「そうそう。こいつもいつもそうだから。あんまり深く考え込むんじゃねぇぞ」
「……どういう意味だよ、それ」
「ネガティブになって、回りに要らない迷惑をかける奴もいるっていう話だよ」
 ハルトの言葉尻を聞きとがめて、レイが憮然と眉をひそめるが、ハルトはしれっとそれを受け流す。なれたものだ。
 相変らずのやりとりに、リョウコはわずかに口元をほころばせる。
 けれども、その笑みはすぐに消えた。
 再び重たそうに俯きかけたその頭に、ぽん、と掌が乗ったのはその時だった。
「思いつめんなよ」
 ハルトの右手が、乱暴にリョウコの黒髪を混ぜた。
 自分と同じルビーのような瞳が、僅かにいたわりの色を湛えている。
 ありがとう、と呟けば、ハルトは、いたずら小僧のように笑ってから、リョウコの頭を軽くぺしりと叩いた。
「ちょっと出て来る。何か聞かれたら、夜中までには戻るってサイジョウに言っとけ」
「じゃあね」
 黒髪と金髪は、口々に呟いて身を翻した。
 そのまま、住宅街、そして歓楽街へ続く方向へ歩き出す。
 口の減らないハルトの軽口と、それに対するレイの悪態が、しばらく聞こえていた。

 ふたつの背中が角を曲がって見えなくなるまで見守ってから、リョウコは空を見上げた。
 もう茜色は随分と薄れ、空は紫色に支配されつつあった。

 考えても考えても、ひとりで答えの出るような問題ではない。
 それは分かっている。
 けれど、考えずにはいられないのだ。

―――あなたも何かを、求めているんですか。
 夜の闇にひっそりと静まり返る礼拝堂。
 月の光を受けてぼんやりと輝くステンドグラス。
 周囲を彩る燭台のひかり。
 その中で、僅かに笑う、金糸のつくりものめいた美貌の聖職者。
―――そうだね、私も求めたことがある。随分と昔。
 自嘲めいた笑みを口の端に浮かべて、美しい青い双眸を閉ざす。
―――かけがえないものをこの手に……。
 そこから先は、言わなかった。
 ただ、持ち上げた右手で、胸にかかった金の十字架を握る。

 貴方は一体、誰なんですか。
 冷え始めた風に吹かれるまま、空を仰ぐ。
 伝え聞いた話と明らかに違う、貴方のその違和感は。

 私は、貴方のことが、知りたい。
 本当の貴方が知りたい。



5.

 待ち合わせの時間よりも早く、指定された酒場に辿り付いた。
 クリスは、奥まった席にひとりで座り、とりあえず頼んだカクテルを口に運ぶ。
 失敗した、と嘆息する。
 元々あまり酒が強いほうでもないので、滅多に飲みになど出ない。その上、とりあえず頼んだ酒が、この色。
 琥珀色。
 この色を見ると、嫌なことを思い出す。

 同僚の、エーク・H(ハシモト)の本来の瞳の色。
 飲む気が失せて、クリスはグラスを机の向こう側へ押しやった。
 覆い被さってくる金の前髪を、右手を突っ込んで掻き上げる。
 警備省に入ってから、髪を伸ばしたことはない。
 今では短くないと落ち着かないけれど、それでも昔は長く伸ばしていた頃もあった。
 父が、綺麗な金だと褒めたからだ、

 考えたくもないのに、土砂降りの雨音が鼓膜の内側で鳴り始める。
 病弱な母を幼いうちになくし、父ひとり子ひとりで育った。
 酷い雨の晩だった。
 数日前から任務で家を空けていた父が、戻るといってなかなか戻らずに。
 深夜になり、日付が変わり、落ち着かないので、起きて待っていたのだ。
 居間のテーブルに座ったままうとうととしていると、ようやく呼び鈴が鳴った。
 鍵は開けてある。いつもならそのまま入ってくるのに。
 けれども、深く考えずに席を立つ。酔っ払ったときにわざと呼び鈴を鳴らす事も、時折あった。
『なによ、随分遅かったじゃない……』
 扉を内側から押し開けて、声をなくした。
 背の高い、がっしりとした男が扉の向こうに立っていた。父ではなく。
 雨の中、そのまま歩いてきたのだろうか。ずぶ濡れだった。
 エーク、とクリスは呼んだ。
 父のパートナーとして動いていた、新米捜査官だった。父に連れられてうちを訪れたこともある。父は彼のことを随分と気に入っているようだった。
 何かがおかしくて、クリスは目を凝らす。違和感だ。いつもと違う。
 そして、愕然と息を呑んだ。
 ぼんやりと開かれた瞳に、光がない。
『エーク、ちょっと、その目……どうしたの……!』
 亡霊のように突っ立ったままだったエークが、まるで縋りつくように飛びついてきたクリスの肩を、手探りで掴んだ。
 強く、握る。
 すまない、と地鳴りのような低い声で呟く。
 なに、とクリスは訊きかえした。嫌な予感がする。ねぇ、なにが?
 何を謝ってるの?
 ことりと、エークの頭がクリスの左肩に落ちてきた。
 水気を含んだ髪の毛に、服が濡れる。
『ねぇ、エーク、何があったのよ!? そう、父さんは? 父さんはどう……』
『守り切れなかった』
 肩のあたりから、くぐもった声が聞こえた。
『待って、よ。よく分からない』
 本当はきっと、分かっていた。ただ、結論を先延ばしにしたかっただけだ。
 知りたくなかった。
『殺された』
 上擦った声が、それだけを零した。
 途端に、足の力が抜けた。
 上手く立っていられなくなって、思わずエークにしがみつく。眩暈がした。足元が揺れている。
 嘘、そんなの。
 気がつけば、うわごとのように繰り返していた。
 嘘よ。
 どうして、何で。誰が……。
『正規軍、だ。正規軍の、"双頭の悪魔"』
 目の前が一気に暗くなった。
 足の力が抜けて、ぺたりとその場にへたり込んだ。
 吹き込んでくる雨に、どんどんと髪が、服が、体が濡れてゆく。

 双頭の悪魔。
 その単語が指し示すのはひとり。
 東軍大将、ミカエル・シャイアティーン―――。


「随分と早いな」
 ふと、聞き覚えのある声がクリスを現実へと引きずり戻した。
 気付けばぐったりとうなだれて、木でできた丸テーブルの表面を凝視していた。
 声の主は、クリスの向かい側の椅子を引いて座ったところだった。
 黒い影。
 黒いジャケットに、黒のパンツ姿。腰のあたりにじゃらじゃらと銀の鎖がついていた。
 伸びかけた黒髪を後ろで括っている。
 一見味気のない黒ずくめに見えて、一際鮮やかなのはその瞳だ。
 ルビーをはめ込んだような鮮やかな赤。
「遅いわよ」
 クリスは、待ち合わせ相手に悪態をついた。
「こっちは時間通りだぜ。お前が早すぎるんだよ。あ、それと、連れ」
 ハルトが親指で指し示す先に、もうひとつ人影があった。
 どうも、と小さく会釈をして見せたのは、クリスと同じような綺麗な金髪の青年だった。
 深い緑色の瞳の、繊細そうな顔立ちをしている。
 白地のシャツにベージュ色のパンツ姿と、簡素な恰好をしているが、それでも少し目立って見えるのはその整った顔立ちのせいだろう。
 その顔には、なんとなくだが見覚えがあった。
 そう、つい先日アイレの遺跡の地下で。
「この間の……。知り合いだったみたいだけど、もしかして前に言ってた、途中で別れたって言う……」
「レイ・クレスタといいます。はじめまして」
 ハルトの隣に腰掛けて、青年は丁寧に言った。
 とても好感が持てる態度に、クリスは思わず瞠目する。
「あんたの知り合いとは、とても思えないわ」
 出会ってから今まで散々不遜な態度を取ってくれた男に向き直って、クリスは言った。
「悪かったな、昔馴染みだよ」
 拗ねたようにハルトが返した。


「ということで、聞かせてもらいましょうか。この間のこと」
 改めて、クリスは同じテーブルに座る二人を交互に見た。
「本部に報告に来るって言っておきながらまんまと約束破ったハルト・シラギくんに申し開きはある?」
「だからこうして今会ってんじゃねぇか」
 悪びれもしないその態度に、クリスはこめかみのあたりをひくつかせた。
「私、そんなに怒ってるわけじゃないけど、とりあえず謝罪のひとつは欲しいわけよ」
 引きつった笑顔で訴えかけると、ハルトは少し困ったような顔をする。
 もしかして、何か複雑な事情でもあって、来られなかったというのだろうか。
 すると。
「……やっぱり警備省、肌に合わないみたいでさ。一回行ってみたけど気が乗らないんで帰ってきた」
「あんたねぇ……」
「……すみません、本当に」
 声に怒気をはらませて凄むクリスに、情けない声で謝ったのはレイだった。
「いいわ、そのことについては聞かなかったことにする! だからほら、私の心がまだ広いうちに、この間のことを教えて」
 不毛な言い争いに突入する前に、何とかクリスは軌道修正する。
 引きつった顔をもう一度引き締めた。
「ドイル・カートレット」
 ジャケットの内側から煙草を引きずり出しながら、ぽつりとハルトが言った。
「カートレット? カルチェ・ラタン有数の貴族様の名前じゃない。それがどうかしたの?」
 あまりの唐突さに、クリスは頭の上に疑問符を飛ばした。
 が、すぐに顎に右手を当てて、考え込むように俯いた。
「ちょっと待って。ドイル・カートレット? カートレット家の嫡男……?」
 クリスは俯いたまま、記憶の底を洗った。
 何か引っかかる。その名前について、何か覚えている知識があったはずだ。

 そうだ。ドイル・カートレットの屋敷から、やけに人死にが出る、だ。
 あまりの頻度に警備省が一度マークをかけたことがある。が、流石の警備省もカートレット本家からかけられた圧力に、調査を打ち切ったのだった。
 それだけではない。
 ドイル・カートレット本人の残虐な性格は、噂として色々なところから聞こえてくる。
「まさか」
 まだ二十歳前後にも見える童顔に緊張を走らせて、クリスはハルトを見据えた。
「そいつが今回のHGの首謀者だそうだぜ」
「…………」
 冗談でしょ、と言いかけて、やめた。
 ありえない話ではないと思った。
「どうして?」
「……さぁな。そこまで詳しくは俺も知らない。色々調べるのはあとはあんたたちの仕事だろ」
「簡単に言ってくれるわね。お貴族様を調べるのって、大変なのよ」
 げんなりとクリスは吐き出した。
 何しろ相手は財力と権力をもつ特権階級だ。
「そういえば、明日、警備省はどうやって動くんだ?」
 煙草に火をつけながらさりげなく切り出したハルトに、危うく呆気なく答えてしまいそうになり、慌ててクリスは口をつぐんだ。
「……そんなこと聞いて、どうするつもりなのよ」
「別に? 教会の粛清に対して警備省がどういう対応を取るのか気になっただけだよ」
「嘘つかないでよ。今度は何を企んでるの?」
 あからさまに言い逃れようとしたハルトの脱出口をぴしゃりと封じる。
 何の目的もなしにそんなことを聞く男ではないはずだ。
「いいじゃねぇか、別に。そんな対した機密じゃないんだろ? さっきの情報と交換ってことで」
「粛清というのは教会の旗の元に行われますよね。警備省は介入できるんですか?」
 今まで黙っていた繊細な顔立ちの青年が口を挟んできた。
 しかも、ハルトよりも具体的に切り込んでくる。
 澄んだ青の瞳でそちらを見ると、意志の強そうな深い緑の瞳と目が合った。それはどう説明したところで揺らがない色に見えた。
「痛いところをついてくれるわね。確かに、今回の粛清に、警備省は介入できないわ」
 クリスは諦めたように肩の力を抜く。
「だけど、だからってハイそうですかって黙ってるわけにもいかないのよ。明日のサン・ピエトロ広場は人が集まるわ。何が起こっても不思議じゃない。治安維持という名目で、私服捜査官は何人か広場に配置されるし、何かあったらすぐに動けるようにほかの部隊も待機させる予定よ。……それが精一杯ね」
「軍は動きますよね」
「当然そうでしょうね」
 そこまで言って、クリスは突然何かを閃いたように目を見開いた。
 向かい合わせて座る二人の青年を、改めて見比べた。
「って、あんたたちまさか、何かするつもりなの!?」
 そうでなければ、ここまで詳しく聞いてくるほうがおかしい。
 いつの間にか、情報を引き出されていたのではないだろうか。
 すると、黒髪と金髪はお互いになにやら顔を見合わせた。なにやら視線でやりとりをしているようにも見える。
 嫌な予感がした。確証はないが、捜査官的第六感というものだ。
「……まぁ、それについては、ノーコメントということで」
 黒髪のほうがどうでもいいように呟いた。
 それじゃあ何かすると言っているみたいなものだ。
「ちょっと、やめておきなさいよ。笑い話じゃ済まないのよ」
 ぐっと二人の方へ身を乗り出して、声を低めて忠告する。
「悪いけど、こっちも笑い話のつもりじゃねぇんだ」
 鋭い切れ長の、真紅の瞳を細めるようにしてハルトが応じる。
「覚悟の上、ってわけ」
 クリスは、その青の瞳で目の前の青年ふたりを見つめた。
 どちらの瞳も、ふざけているわけではないようだ。
 もう何を言っても聞き分けはしないだろう。
「……まぁ、今回のことについては警備省はほぼノータッチだから、教えてあげるわ。あんたが言ったように、そんなに機密ってわけでもないし」
 諦めの溜息を今日何度ついたことだろう。
 一気に疲れた。酒を飲んだせいかも知れない。
「粛清の総指揮は西軍大将ランドウ・アンティクリスト。実際の執行役は、同軍少佐のベリヤール・ルーイン。明日のカルチェ・ラタンの警備の責任者は東軍大佐ジャンヌ・ビレス。補佐官として、同中佐アフライド・ゼインよ。サン・ピエトロ広場を中心に、軍服の兵士と私服の兵士を配置する予定。明日は、一般兵でも銃の携行の許可が下りるはずよ」
 本日上から受けたばかりの報告を、クリスは饒舌に語り始めた。


            *


 切れかけた蛍光灯がちらちらと揺れていた。
 コンクリートがうちっぱなしにされた廊下は人気もなく、しんと静まり返っている。
 その廊下を、ヒールの音を響かせて歩いている影があった。
 やわらかい栗毛の巻き毛を二つに分けて結わえ、手にトレイを抱えている。
 トレイの上にはマグカップひとつと、大量の吸殻に占領された安っぽい鉛色の灰皿がひとつ。
 ここは地下だから、時間の経過ははっきりとは分からない。けれど、もう深夜を回っているのだろう。
 夕食を終えると同時に早々と、「明日のため」と宣言して奥まった自室に引き揚げたサイジョウ・ヒイラギに、新しいコーヒーを届け終えたところだった。
 明日のため、とは言いつつ別に眠ったわけではない。
 コーヒーを持って部屋に入ったら、サイジョウはコンピューター端末とにらみ合っていた。
 何を言っても生返事だったので、中味の僅かに残ったコーヒーカップと限界容量まで煙草の吸殻を押し込まれた灰皿を、それぞれ新しいものと交換してきたところだった。
 あれ?
 奥まったサイジョウの部屋から、曲がりくねった複雑な道を居間のあたりまで戻ってきたところで、ふと、モエは足を止めた。
 居間の扉から、細く光が漏れている。
 その細い黄色い線は、床と壁を切るように伸びていた。
 ハルトさんとレイさんはまだ戻ってきてないはずだし、リョウコちゃんも先に寝ちゃったし。
 今現在このアジトに生息する人々を順々に消去していって、モエは最後のひとりに行き当たる。
「ファンくん?」
 呼びかけながら、居間の扉を開いた。
 案の定、見慣れた影が、部屋の中央に据えられた横長のテーブルの隅に座っていた。
 モエの呼びかけにふと、物思いに沈んでいたような顔を上げる。
「どうしたの、こんな時間に。眠らなくて平気なの? 明日は忙しいのに」
 ファンは、黒目がちの瞳でじっとモエを見た。
 モエは手に持ったトレイをサイドボードに置くと、ファンの隣に立つ。
「ああ、もうこんな時間か」
 壁にかけられている時計を確認して、おっとりとファンが言った。
 時計はもう、0時を大分回っている。
 ついぼぉっとしていた、とファンが言った。
「考え事?」
 隣の椅子を引いて腰かけ、モエが訊く。
「昔のこと」
 いつもはあまり表情を表に出さないその顔に、憂いのような色を湛えて、ファンが呟いた。
「むかし?」
 首を傾げてモエがくりかえす。
 その言葉に違和感を覚えた。彼がいうところの「昔」とは、一体いつのことだろう。
「モエも随分変わったという話」
「なによそれ」
 ぷぅ、とモエは頬を膨らます。
 その様子に、ファンがまたくすりと笑った。
 どうしたのだろう。今日はやけにくるくると表情が変わる。燥?
「そんなに変わったかな、私」
「変わったよ。はじめて会った頃は、人見知りが激しくて、警戒心が強くて、サイジョウさん以外の人とはあんまり喋らなかった」

 あの頃。
 まだ少女を脱しきらないあどけなさを残した瞳は、飄々と今とほとんど変わらないあの狸然とした男を盾にして、全てのものを威嚇していたような気がする。
 その頑なな瞳を、まだ覚えている。まだ。

「ファンくん、"どうしたの"?」
 何かをなつかしむような表情に、モエは思わず訊いていた。
 怯えて、訊いた。
 不安になった。何故か突然。
 その、色々なものを思い出すような、なつかしむような表情が、まるで知らない人のように見えた。
 ざわざわする。
「"その名前"。どうやって決めたんだっけ?」
 まるで他人事のように言うので、モエは困惑に顔をゆがめる。
 どうしたの、とはもう訊けなかった。
 危うい場所に立っていた。あと一歩でも踏み出したら、ばらばらになるような気がした。
「ああそうか、"漢字"だ。サイジョウさんが、古代語の辞典を引っ張り出してきたんだっけ。それで、本当はヒイラギっていうのは"柊"って書くんだとか。モエは"萌"という字を当てるんだとか、教えてくれたんだ」
「ファンくん……」
 やめて、とまでは言えなかった。縋りつくように名前を読んだ。
「"煌"っていう字が好きだって言ったら、それは"ファン"って読むんだって、それでだよね」
 どうして今、その話なの。
 どうして今更、それを確かめるの。
 不安に、今にも泣き出しそうに、モエの眉がハの字に下がってしまっている。
 怯えたその色に、ファンは苦笑して口を閉じた。
 けれども。
 その苦笑に、モエは更に愕然とする。
 微笑が、つめたかった。
 そんな顔、五年も傍にいて、見たことなんてない。
 どうしたの。
 その疑問符だけが、ずっと繰り返している。
 何があったの。そしてこれから、一体何が起こるのだろう。

 誰?

「……もう寝るよ。明日は―――大事な一日になるだろうから」
 愕然と声をなくすモエを置いて、ファンは椅子を引いて立ち上がった。
 そのまま、何も言わずにすたすたと扉の方へ向かう。
 扉を外側に押し開けて、それから、肩越しに半ば振り返った。
 こちらをじっと見守っていた、女の不安そうな瞳と目が合った。
「モエ、もしも俺が……」
 呟きかけて、途中でやめた。
 不思議そうに首を傾ける童顔の女に、首をゆるく横に振って応じた。
「なんでもない。おやすみ」
 静かに挨拶をしてからは、もう振り返らなかった。
 ぱたり、とモエの目の前で扉が閉ざされる。
 コンクリートの廊下を打つ靴音が、徐々に遠ざかり、そして聞こえなくなった。

 まばたきを忘れていたことに気がついたのは、乾いた目の表面がちりちりと痛み出してからだ。
 慌てて何度か瞬くと、乾いた眼球に涙が染みた。
 胸のあたりが、きもちわるい。
 胃もたれにも似た感覚だ。重い。

「どうしよう」
 訳も分からずに、口唇から零れていた。
 どうしよう。何かが狂ってしまっている。壊れかけている。
 大きな不安に、体が小刻みに震えていることに、モエはようやく気がついた。


 夜が明けなければいい。









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