カルチェ・ラタン
the Old Testament
―――これは、統治の中の、秩序のひとつだ。
温度のない声がつぶやく。
さまざまなものを上手に扱って、うまく転がすんだ。
別に私腹を肥やすためでも、支配欲にひたるためでもない。
秩序ある統治に、正義のみはありえない。
日が照れば、影が出来る。
父は駄目だ。
あれは欲に浸ってしまった。
あの得体の知れない天使のようなうつくしい化け物の意のままだ。
おまえなら分かるだろう。父がどういう男なのか。
自分の座る椅子を守るために必死で、あとは何もできないのさ。
俺は違う。
決して"ああ"にはならない。
おまえなら分かるだろう。
所詮あれは、おまえを見捨てた男なんだ。
*
珍しい。
すっかりと引いていった眠りのあと。余韻の中でユダは思う。
夢を見るなど。滅多にないことだ。
眠りが残したけだるさを引きずったまま、簡素なベッドの上で体を起こす。
特にあんな夢を。なぜ、何の前触れもなく、見たりしたのだろう。
つい昨日までは、綺麗に忘れていたのに。
深くひとつ、呼吸をしてから、フローリングの床に足を下ろした。
そこは、見慣れた殺風景な部屋だ。
あまり大きいともいえない簡素なベッドがひとつと、ベッドサイドに置かれた木製の机。その上に乗せられたスタンド。その他は何もない。
人が三人も入れば、窮屈に感じるぐらいの、その程度の空間だった。
壁際に寄せられたベッドの側面と、向き合うような配置の扉に、真っ直ぐと歩み寄る。
ドアノブを捻って押し開くと、その先にも部屋があった。
ベッドルームよりはいささかものが多いが、それでも無機質だ。
真正面の突き当たり。クローゼットの傍に置かれた姿見の前まで歩み寄る。羽織っている程度だった、白い上着をぱさりと肩から下へ滑り落とした。
血の気のあまりない肌色と、銀色とが混ざり合う体が、姿見に赤裸々に映し出される。
左半分は、鉄だ。
あれはひどい劫火だった。
こうして生き残っていることが奇跡と呼べるほどに、容赦のない炎だった。
私は何故、生きているのだろう。こんな場所で、こんな体になってまで。
―――ユダ、お前なら分かるだろう。
「……それならばお前は」
幻聴に、問い掛ける。
ぼんやりと薄れ掛けた面影に。
「お前はどこへ行っているのだ。もう、五年になるのだぞ」
1.
「いやぁ人生、紆余曲折だねぇ」
どこか達観したように、サイジョウが言った。中指で眼鏡を押し上げる。
広くもなく、決して狭くもない部屋だ。
8人がけの、長方形のテーブルを中心にした、剥き出しのコンクリートの部屋だ。サイジョウのアジトでの"居間"だという。
入り口からすぐ右手にあるサイドボードにはカップが並び、コーヒーメーカーが湯気と香りをたてている。
口の端に煙草を挟んだまま、サイジョウはそのコーヒーメーカーからカップに黒い液体を注いだ。
「……お前が言うと、なんか癪に障るな」
入り口に背を向ける形で椅子に座ったハルトが、そろそろ疲労に重くなってきた目を擦りながら呟く。ざっとシャワーを浴び、真新しいシャツに袖を通したら、コーヒーを飲んだ直後だと言うのに眠気が襲ってきた。疲れている。
夜もすっかり更けてから転がり込んだアジトのこの部屋で、ハルトとレイがお互いの知らない時間を埋めるように報告を終えた直後だ。
「失敬だなぁ。思ったそのままを言っただけだよ」
「口調がことごとく、嫌味なんだよ」
だらしなくテーブルに上半身を投げ出して、眠気を絡ませた声でハルトは尚も不平を漏らす。
失礼しちゃうなぁ、とぼやきながら、サイジョウはカフェインが混入された黒い液体を口に運ぶ。入り口の傍の壁にもたれかかった。
「モエちゃん、ファンくんとリョウコちゃんは?」
レイとひとつ間を空けて座り、ミルクをたっぷりと入れたコーヒーを飲んでいたモエは、呼びかけに顔をあげる。
「ファンくんは疲れたからもう寝るって。リョウコちゃんは戻ってきたときにもう寝ちゃってたみたいです」
簡潔な答えに、サイジョウはふぅん、と大げさに頷いた。
そして。
「時にレイくん」
「はい?」
ハルトのちょうど向かい側に座っていたレイが呼びかけに顔を上げる。持ち上げていたカップをテーブルに置いた。
「アズマおじさんはご健勝だったかな」
口の端に相変らず煙草を挟んだままで、もごもごとサイジョウが言う。
「え……? あ、はい」
「ティフェレトとマルクト。それをリュウが預けてくれるってことは、よっぽど気に入られたんだねぇ。人徳だね」
はぁ、と訳も分からずにレイは頷いた。
「母方の伯父なんだ」
サイドボードの上に乗せた、銀色の、円盤のような安っぽい灰皿に煙草を押し付けて、突然サイジョウがプライベートの話をした。
今まで一切、自分の内側について話したことのない男の告白に、レイは瞠目し、ハルトはだらしなくテーブルに投げ出した上半身を起こした。
「びっくりされてますよ」
固まってしまったふたりのかわりに、モエが言った。
「本当に隅から隅まで失礼だよねぇ。僕だって人の子だよ?」
憤懣やるかたないと言ったふうに嘆息し、サイジョウはブラックのコーヒーを口に運ぶ。
「あんたはそういうこと、人前で言わない人間だと思ってた」
ハルトは、テーブルに頬杖をついた体勢で、後ろにいるサイジョウを振り返る。
「僕はね、必要のない話はしない主義なんだ。時間の無駄だしね。でも、この場合は必要なやりとりでしょ?」
レイくん、僕とおじさんの関係を聞きたそうな顔してたしね、と付け加える。
知りたかったことは事実だが、こうも簡単に答えが放り投げられるとは思わなかった。びくりして、受け取り損ねた。
「それに、訊かれたことになら答えるよ。訊かれなければ話さないけど」
カップに残った液体を煽るようにしてから、サイジョウはカップをサイドテーブルに置いた。
白いワイシャツの胸ポケットから、煙草のケースを引きずり出した。
「……どうして、カルチェ・ラタンに?」
質問を投げかけたのはレイだった。
真っ直ぐ。逃げ道を塞ぐようにサイジョウを見据える。視界の中に縫いとめた。
本拠地であるバベルにどっしりと腰を据え、少々のことでは腰をあげないように思えたのに。レジスタンスと言いながら、半ば世捨て人のようにも思えた。
間を置いてしばらく視線を合わせたあと、軽く口の端を引き上げてから、右手で眼鏡を抜き取った。
「―――契機(きっかけ)は……」
眼鏡を胸のポケットに押し込み、煙草に火をつける。僅かな沈黙で、間を置いた。
「そう、契機は、HGが広がり始めた報せが届いたことからだね」
「ヘヴンズゲート」
レイは、そのドラッグの正式名称を反復した。刻み込むように、ゆっくりと。
「ふたりとも、随分と所々で目にしているようだし、今更そのドラッグについての説明は要らないね」
先程済ませたふたりの報告会の中にも、そのドラッグの名前は頻繁に出てきていたし。
「あのドラッグを作ったのは、僕なんだよ」
のほほんと笑って見せながら、サイジョウは爆弾を投げた。
不意打ちの爆発に、再び場は凍る。構わずに続けた。
「まぁ、僕の人生も色々と紆余曲折だからねぇ。説明すると長くなるんだけどさ。僕は教会直属の研究所に、研究員として在籍していた時期がある。首席で試験を突破してね」
首席で、とやけに強調するので、ハルトが胡散臭そうに眉根を寄せる。ただの自慢話なら、聞くつもりはない。
「その時の主任研究員―――つまり研究所のトップが、HGの元となった薬物を作った人間でね。そのメカニズムが知りたかったんだ。だけど、博士はその薬物に関するデータを一切公開してくれなくてね。仕方がないから、現物をお手本に自分で色々弄くってみた。結果はまぁ、見ての通りだよ」
出来損ないの、弊害ばっかりのドラッグが出来上がったと言うわけだ。
「そのデータをマヌケなことに盗まれてしまってね。はじめは別に気にしていなかったんだ。本当のアンダーグラウンドで、破格の値段でやりとりされていただけだったからね。だけど、最近の蔓延の仕方は目に余る」
そのドラッグは、ここ数年で一気に広がった。特に最近の勢いにはさすがに目を瞑ることが出来ない。
「あともうひとつ。―――粛清はやめさせる」
「マジかよ?」
気軽にサイジョウが言うので、反射的にハルトは訊き返した。
「シュクセイ?」
ぎこちなくレイが反復する。まるで初めて聞いた言葉のように。
「レイくんは、もしかして知らないかな? 明後日、粛清が行われることになっているんだよ。"公開処刑"」
説明をしても、告げられた言葉がいまひとつ明確な像を結ばない顔を、レイはしている。
「ミンスター大学の神学教授と、その研究室の学生数名が対象なんだよ」
サイジョウのほうからぐるりと首を前に戻して、ハルトが説明を引き継いだ。幼馴染と向かい合う。
レイも、サイジョウから視線を戻して、幼馴染の赤い目を見た。
「は……? なんだよそれ、理由は?」
「神の船研究」
レイは絶句した。
「……冗談だろう?」
「残念ながら、本当らしいぜ」
そっけなくハルトが言えば、レイはそのまま何も言わずに黙る。視線を、テーブルの上に組み合わせて置いた、自分の手に落として俯いた。
「教会の、横暴だと思うだろう?」
ハルトの右隣の椅子を引いて、サイジョウがそこにするりと座り込んだ。
「神の船の研究だけなら、ずっと行われてきたことです」
相変らず、組み合わせた指先に視点を落としたまま、ぼそりとレイが呟く。
「今更ですよ」
そうだね、とサイジョウは頷いた。
「最近教会は今まで以上に強引な手段を使うようになってきた」
青い双眸をするりと細めて、サイジョウはレイを見遣る。
自分の手元から顔をあげて、レイはその、冷たさすら感じる双眸と視線を合わせた。
「今回の粛清は看過できない。粛清は、やめさせるよ」
*
何度も寝返りをうつ。
決してやわらかいとはいえないベッドだが、疲れた体を優しく包み込むだけの包容力はある。
うつぶせに、枕に顔を押し付けると、ずぶりと沈みこむ錯覚さえある。
酷く疲れていた。けれども、頭の芯が冴えていて、泥のようには眠れない。
―――記憶、戻るといいね。
モエの声が、先程から耳もとで繰り返し谺している。
記憶。
サイジョウに拾われるまでの記憶が、ファンには無い。
自分がどこで生まれ、どこで育ったのか。名前すら。
何ひとつ覚えていなかった。
ファンという名前は、名無しでは都合が悪いからと、拾い主が決めた。
それから五年。
忘れかけていた不安が、再びもたれかかってくる。
自分は一体何者なのだろうか?
訪れた覚えもないのに見覚えがある街。奇妙な郷愁。
体の中で何か小さないきものが駆けずり回っているように、ざわざわする。落ち着かない。
再び押し寄せた不安は、恐ろしいほどまでに大きくそして重く、気を抜くとすぐさま押しつぶされそうになる。
記憶を取り戻したとき、何も変わらずにいられるだろうか。それとも。
ただそれだけが怖い。
*
朝と呼ぶには早く、かといって夜と呼ぶには憚られる微妙な時間帯、街は静まり返っている。
カルチェ・ラタン郊外。建物が随分まばらになったあたりに、高いコンクリート塀で囲まれた一角がある。
その白い壁と有刺鉄線に囲まれたその領域の奥に、鬱蒼と茂る木々の合間から、白く角張った建物が見え隠れしている。
動かぬ巨大な化け物のように静止するその建物の、等間隔で並んだ窓ガラスのいくつかは、まだその内側に人がいることを誇示するように黄色い光を漏らしていた。
こんな時間に、救えない馬鹿もいたもんだ。
大変に研究熱心で、結構なことだ。
皮肉をこめて胸中で独白すると、まるで牢獄の鉄格子のような黒い鉄で出来た門の前に立った。
あまり音も立てずに流れる夜風に、膝あたりまである白の上着の裾が翻った。後ろ側の裾が、赤黒く汚れている。
古めかしいデザインの門は、しかし、強く掴んでゆすったりするとすぐに警備に連絡が行くつくりになっている。
男はそれに触れずに、門の右手側にあるカードリーダーにIDカードを飲み込ませた。
小さな電子音のあと、カードが吐き出される。静けさをぶち壊すように派手な音を立てて、門が横滑りに開いた。
カルチェ・ラタン教会直属研究所。
科学をはじめとして、様々な研究が進められているガイア最高の研究機関。
この強固な塀の内側では、血生臭い人体実験が行われているのだなどと、人々は口々に噂する。それもそれで仕方がないかと、男は思う。
街の中心部から離れた郊外の一角に、物々しく聳える病的に白い建物を見れば、そう感じるのも仕方のない話なのかもしれない。
完全に開かれた門の、内と外の敷居を跨いで、男は一度立ち止まる。
目の前に舗装された道が一本だけ伸びている。通り過ぎる風に周囲を取り巻く木々の葉が鳴った。
ここは昔から変わらない。
巨大な建物に向かって歩き出しながら、アースは記憶の底を探る。
この場所に初めて連れてこられた7つの頃から、この場所は全く変わらない。
ここだけ、外界の時間の流れとは別の基準で時を刻んでいるような気がする。
確か、はじめてこの門をくぐったときも、直感的にそう思った。ここは、時間というものがあまり重要ではない場所なのだと。
―――僕を憎めばいい、アース。
のんびりとした声が物騒なことを言う。
その時の、相手のへらりとした笑顔さえ、今もまだ鮮明に思い出すことが出来る。
―――そんなふうに、何もかもを憎もうとしたら辛いし、周りも迷惑だしね。君を金で買って連れて来いと要請したのは僕なんだ。僕を憎む理由は、それで充分だろう?
カルチェ・ラタンに連れてこられたばかりの頃の話だ。
周りを取り巻く全てのものが総じて愚かで、くだらないものに見えていた。
目に映るもの全てが苛立たしく、何もかもが癪に障った。
―――親元を離れて、寂しいのかな。
白衣姿の男はそう話を切り出した。
馬鹿なことを言ってんじゃねぇよ。
噛み付くように叫び返せば、今度は。
―――金で売られたことが、辛いのかな。
尚もそんなことを言う。
声をなくしたのは、図星だったからではなく、呆れてしまったからだ。
何で俺が、あんな奴らに売られて悲しまなければいけないんだ? 己の貧しさと不幸を嘆くばかりの人種なんて、下らない。俺はあいつらを、憎んでいたんだ。
それでも、と。難しい言葉を多用する7つの子どものと向かい合わせた男は、繰り返す。
それでも、血を分けた親だよ。君がここに来て当り散らすのは、執着するものをなくしたからだ。
憎むという事も、執着のひとつだ。
僕にしてみれば君は、何か必死に"特別たるもの"を探しているように思える。
特殊な感情を向ける先を、探しているように見える。
それなら、僕を憎んだらいい。
僕は簡単に、君の目の前から消えたりしないよ。何せ、もう300年以上生きているだからね。
消えないものの方が、憎みやすいだろう。突然失って、呆然とすることもないよ。
不健康に青白く光る蛍光灯に照らされた色は全て白。
壁から床までもが全て白い空間だ。研究所特有の、どこか薬品くさいにおいも、もう慣れた。
静まり返っている細い廊下を靴音を響かせて歩く。それは迷宮のように入り組んでいる。突き当りを折れ、階段を降りる。
人気はないが、どこかしらから気配は感じる。無人ではない。
ただしそれが、人間なのか、それとも別の何かなのかは分からない。
「オオボラ吹きにも程があるぜ、ジジイ」
声に出して独白し、アースは目的の扉の前に立った。
先代の主任研究員の死去と共に、閉ざされた研究棟への入り口。更に地下へと下る階段の前だ。
「てめえは、呆気なく死にやがったじゃねぇか。―――俺の目の前で」
扉の表面に掌で触れる。ちりり、と電流が走る僅かな痛みを感じた。
この扉はIDカードではなく、掌紋照合で開くようになっている。今現在、この扉を開くことが出来るのは、現主任研究員であるアース・フィラメントのみ。
―――パンドラの匣は、開くべきだ。
翠玉の瞳の前で、扉はゆっくりと横滑りに開いた。
目の前に広がる階段の数歩下は、のっぺりと重い闇に包まれている。
2.
怒涛の歓声が、下から吹き上げてくる。
コロッセウムの来賓席。ぐるりと会場を取り巻く階段状の客席さえも見下ろす位置にある、高いバルコニーだ。
本日、カルチェ・ラタンの中心部にあるこのコロッセウムで行われる武闘大会を観戦に訪れた人々は、バルコニーに現れた人影に歓声を上げ、胸元で十字を切った。
人々を高みから見下ろす男は、ゆったりとした黒衣に身を包み、肩から白い帯のようなものを胸に垂らしている。
穏やかな笑みを浮かべ、人々に応えるように緩やかに手を振る。
「武闘を観戦とは、珍しいですね」
民衆に応え終え、用意された豪奢な椅子に身を沈めた教皇ケルビーニ8世に、すぐ後ろに控えたユダは声をかける。
「レスター卿の招待だ。邪険に蹴るわけにもいくまい」
贅沢に肥えた体を深々と椅子に沈め、先程の笑みとは似ても似つかない狡猾な顔で「下界」を見下ろした。
「……そういえばユダ、正規軍は本当に"あれ"の捜索を続けているのか?」
剣戟の音と、人々の歓声を耳に流し込みながら、正規軍元帥を振り返らずに教皇は問う。
「猊下は御自分の兵をお疑いですか」
試合を見るでもなく、扉のすぐ傍に控えたユダは、椅子の背に声を返した。
「疑いたくもなるだろう。もう5年になる」
「成果をあげられず、申し訳ありません。しかし、御理解ください。少なくともわたくしは、全力でご子息をお探ししております……」
「お前とあれは、随分と親しく付き合っていたからな。お前を疑いはしない」
どっと歓声と罵声が同時に上がった。どうやら決着がついたようだ。
「名をつけるということの意味を、お前は知っているか、ユダ」
すっと目を細め、眼下に広がる米粒のような人々を見下ろしながら、教皇は唐突に話題を変える。
「は?」
質問の意図が汲み取れずに、聞き返す。
「名をつけるということは、その存在に意味を与えるということだ。その存在を手に入れ、支配下に置くことだ。人が生まれてすぐに与えられる、最も古い契約だ」
「契約、ですか……」
「そうだ。だからユダ、お前も息子も、私のものだ」
くっ、と。咽喉の奥で笑う声がユダの耳にも届いた。
はい。小さな声で頷いてみせた。異議はないのだと。
私はあなたの持ち物なのだと。
それに異論はない。
けれども時々、発作のように問い掛けたいと思う。
何故あなたは私にこの名前を付けたのか。
Judas。
その響きは、裏切り者を意味するのだと言う。
(お前が傍らにいるのならば、訊いたかも知れないな)
悪魔の名を与えられた、教皇の息子に。
(お前はどう思っているのか……)
生まれてすぐに与えられる名という戒めを。
*
うつくしく舗装された石畳。人がごった返し、上手く自分のペースで歩くことができない歩道。
古風なアパートメントや店が並ぶ街並み。
懐かしいと思う。
カルチェ・ラタンの西。
中央広場を抜けて、石を積み上げて作られた砦のような巨大な門をくぐると、大学や学生宿舎が立ち並ぶ界隈に出る。
カルチェ・ラタンの西のほとんどは、学生の生活空間だ。無数の大学が立ち並び、若者たちの活気に満ち溢れている。
この街が学都と呼ばれる所以である。
「変わってない。……当たり前か」
学生街への入り口である西門をくぐったあたりでふと足を止めて、レイがひとりごちる。
「ほんの二ヶ月と少しだぜ。そんなに劇的に変わってるわけないだろ」
レイの隣で立ち止まって、ハルトが口を出す。もっともなお言葉だが、レイとしては少々感慨に浸っていただけなのだ。
誰も二ヶ月ほど見なかっただけで、街が丸まま変わってしまうとは思っていない。
「……でも、二ヶ月ぐらいしか経ってないのか。信じられないな」
改めて明確な数字を引っ張り出されると、愕然とする。
体感してきた時間の密度が濃すぎるせいか、もっと長い時間が経過しているように思えるのだが。
「それは俺も異議なしだな」
サングラスで両目を覆い隠したハルトが嘆息交じりに同意した。
「色々あったからな」
色々、という言葉一つに凝縮しきれないほどのことが、この短い間に立て続けに起こった。
「で、どうする? アテはあんのか?」
未だ西門の傍で立ち尽くしているレイにハルトは問い掛ける。
「うん。……ミンスター大学に行ってみようと思ってる」
今朝。レイは随分早くから起きだしていた。
よく眠れなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。
昨晩サイジョウから聞いた話について考えれば考えるほど落ち着かず、ベッドの中でうつらうつらと寝返りを打っているうちに、夜が明けてしまった。
目を覚ましてからも悶々と落ち着かず、意を決してアジトから地上へ出かけようと腰をあげたところで、ハルトに声をかけられたのだ。
出かけるなら、俺も行く。
寝起きなのかそれとも眠っていないのか分からない、寝ぼけ眼のサイジョウ・ヒイラギに「夕飯までには戻って来るんだよ」と送り出され、現在に至る。
西門にたどり着くまで、別に会話らしい会話を交わしたわけではない。
門から真っ直ぐになだらかに下る道をレイが歩き出せば、再び沈黙が降りてきた。
きっちりと隣に並ぶわけでもなく、後ろにつくわけでもなく。微妙な間合いを置いて気配がついてくる。
このような沈黙も距離感も、慣れたものだ。別に不快でもない。
黙っていても、別に嫌悪されているのでも気まずいわけでもないし、不安定な距離を置いていても裏切られる不安はない。
気を許すというのは、こういうことだ。
粛清。
それは、教会の名の元に行われる処刑。
別にこれが初めてではない。何度も行われてきたことだ。
納得が行かないのは、その理由。
過去に行われた粛清の"被告人"は、教皇の暗殺未遂、快楽の為に大量殺戮を繰り返した殺人鬼。それなりに説得力のある処刑だったと言える。
しかし、今回行われる粛清の対象は、大学教授とその研究室の学生だと言う。
『神の船をめぐる研究』が理由だと。
(それだけ? まさか……)
あまりにもそれは強引過ぎる。
何故そんなに過敏になる必要がある?
情報が少なすぎて、判断がつかない。
しばらく歩くと、大きな道が目の前でV字にきれいに分かれていた。
右手側はどちらかと言うと、アパートメントが多く立ち並ぶ住居街。左手が、更に下る坂道。
この道を更に下ると、建物の密集度はぐっと下がる。このあたりでは珍しい青々と茂る緑が増える。
大きく区切られた敷地がいくつも現れ、その敷地の中央にはそれぞれ形の違う巨大な建物が鎮座する。いくつもの学園が集中している区域だ。それぞれの学園によってレベルや取り扱う学問が違うが、ことカルチェ・ラタンでは神学の力が強い。
坂を下るうちに、すれ違った16、7の少年たちの口から何気なく専門用語が聞こえてきて、レイは僅かにそちらを見遣った。
そう、これが。
この嫌味なほどにインテリの空気が、この学生街の特徴だった。
2ヶ月ほど前までは、自分もこの街の雰囲気を構成するひとりであったはずなのだ。
しっとりとなじんでいたはずのこの街の空気が、何故か今は少しよそよそしい。
変わったのはきっと街ではなく、自分のほうだ。
「ってか、大丈夫なのか?」
「何が?」
「確かミンスターの傍に、サン・エノクがあるだろうが。お前の学校だろ? 顔見知りもいるんじゃねぇのか」
「サン・エノクはカルチェ・ラタン随一のマンモス校だよ。僕は神学部にしか顔を出してないし、そんなに確率は高くないと思う。ゼロじゃないとは思うけど」
「へぇ」
声に笑いを含ませてハルトが漏らした。
「なんだよ」
なにやら馬鹿にされたような気がして、レイは半ば後ろを振り返る。
「いや、素直にふてぶてしくなったと思ったんだよ。感心したんだぜ?」
「感心されているようには思えないんだけど」
諦めたように溜息を漏らして、レイは首を前に戻した。
しかしハルトとしては本当に感心していたのだ。
少しでもマイナスの要因があるのなら、近づかない。レイ・クレスタという人間は、そういう慎重さを持っていた。
危険度と利益とを引き比べて、自分にプラスになると思った方を選ぶという上等な手段を、いつの間に身に付けたのか。その過程を見られなかったことが少々残念でもある。
なにやら少し遅れてついてくる幼馴染がいつまでもにやついている気配に、レイは露骨に眉間に皺をきざむ。決して気分のいいものではない。
確かにここは数ヶ月前までレイが通っていた大学のすぐ傍だ。見慣れた通りだ。
この通りを真っ直ぐ下った突き当たりに、巨大な門を構えているのが、数々の神学校を抱えるカルチェ・ラタンでも随一の神学部を誇るサン・エノク大学。
もしも、数ヶ月前のあの晩、この幼馴染と会わなければ、きっと今も尚この街で神学の勉強を続けていたのだろう。
もしかしたら、一人でもガイアズメールを発見した幼馴染が異端者として手配されるのを傍観して、失望すらしていたかもしれない。
何も知らずに。
(色々な意味で、僕はもう、ここから離れてるんだな)
見慣れていながらどこかよそよそしい街に胸中で独白する。
そうだ、もう、何も知らなかった頃に戻るわけにはいかないのだ。
触れられそうで届かない位置で、見え隠れしているものがある。
伸ばした手のすぐ傍を、嘲笑うように擦り抜ける。
けれど一度その輪郭を見つけてしまったら、全容を見るまで引き下がるわけには行かないのだ。
―――このような教会の横暴を許し続けていいのか―――!
不意に聞こえてきた声に足が止まる。
拡声器を通した、エフェクトがかかった声だった。
「おい、今の……」
隣に並んだハルトが、声のしたほうに首を向ける。
それはまさに、二人が目的地にしていた場所からだった。現在位置から少し下ったところの右手側に、石造りの門が道にせり出している。
その門を中心に、黒い人だかりがあった。
≪今回の粛清に、人々は納得するのだろうか!? 学問の自由すら教会は奪おうとしている!!≫
ふたりは、どちらとも無しに顔を見合わせると、人だかりの方へ駆け出した。
何の集会かは、火を見るより明らかだ。
学生たちは他のどの人種よりも貪欲で、不条理なものに噛み付く力を持っている。
その行動力が時に、様々なものの起爆剤になることすらあるのだ。
≪サウル教授が何故捕らえられなければならなかったのか。そして何故、民衆の目の前で殺されなければならないのか。納得のいく説明の出来る奴はいるか!?≫
人垣の外周に辿りつくと、無数の頭の向こう側に人の姿があった。
演説用の舞台に上がったその人影は、まだ10代に見えた。亜麻色の髪の、少年らしいあどけなさをまだ顔に残した、育ちの良さそうな男だ。しっかりした顔の造形は、かなり離れているせいでよくは見えない。
線の細いその体に重そうな拡声器を持ち、集まった学生たちを前に声を張り上げている。
「おい、あいつ誰だ?」
ハルトが、傍にいた学生の一人を捕まえて訊いた。
「え? ああ。サウル教授の研究室に出入りしてたキリヤっていう学生だよ」
「研究員も一緒に捕まったんじゃなかったのか?」
「あいつは親が随分と地位のある貴族だったから、捕まらなかったんだよ」
「キリヤ……。キリヤ・レスター!?」
何かが引っかかるその名前を口の中で何度か繰り返してから、レイは弾かれたように、演説を続ける青年を振り仰いだ。
「なんだ、知ってるのか、お前……」
「多分……。思い違いじゃなければだけど……」
目の前に立ちふさがるたくさんの人の壁を何とか擦り抜けて、レイは演説台に近づこうとする。
もしも思ったとおりの人物だったとしたら、詳しい話が聞けるかもしれない。しかし、がっしりと聳え立つ人の波は、簡単に通り抜けることを許してはくれない。
「お前らここで何してやがるんだ!!」
決して品がいいとは言い難いだみ声が叫んだ。
校門前の広場が、一瞬にして水を打ったように静まり返る。
ざっと、すぐ傍で人波が割れた。黒い服を纏った男たちが10名ほど、学生たちを押しのけて演説台の方へと肩をいからせて歩いてゆく。
ハルトがレイに顔を近づけて、耳元で「正規軍だ」と囁いた。
見慣れた黒い服の左胸に、金の十字の刺繍。見紛うことなく、正規軍の人間だ。
壇上のキリヤは、右手に拡声器をぶら下げたまま、近づいてくる軍服の男たちを見下ろしている。その顔に、表情はなかった。
一般兵を背中に従えたリーダー格の男は、とても幹部の器には見えなかった。正規軍と言う巨大な権力を笠に着ているのが、端から見てもあからさまに見えすぎている。
本来ならば、ここで偵察を切り上げて、さっさとこの場から離れたほうが賢い。
何しろ自分たちは追われている身なのだ。
が、ハルトもレイも、その場から動きはしなかった。
「これは何の集会ですかね」
下卑た笑いで口元を歪め、リーダー格の男が壇の下から青年を見上げる。
「いくら自由な身分の学生さんとは言え、言葉には気をつけたほうがいいんじゃないかね」
「僕は、思ったとおりのことを言ってるだけだ。思想や言論まで統制されるのか?」
きつく、足元の軍人をにらみつけながら、キリヤは言い放つ。
「私たちは神と教皇猊下の手足なのでね、神の力を信じずに教会を疑う方々には、正しい道を教えて差し上げる義務がある」
「たかが研究を異端として、学者を公衆の面前で処刑するのが正しい道なのか!?」
気色ばんで、キリヤが叫んだ。
「それが神の御使いたる上層部が決めたこと」
歪んだ笑みを更に深くして、軍人が笑った。
右手を持ち上げて、後ろに控えた部下に合図する。
「お連れして、じっくりとお話し合いをさせてもらおうじゃないか」
合図に従って、一般兵たちが演説台を取り囲んだ。
キリヤは右手から拡声器を地面に放り投げる。
「捕まえるなら捕まえろ! 僕は何も間違ったことなんて言ってない! どうして教授と先輩たちを捕まえた! 何故僕を捕まえなかった! 僕だって研究室に出入りしていた人間だぞ! 親の名前があったからか!? 教会の飼い犬ッ!!」
一息でキリヤは吐き捨てた。
リーダー格の軍人の顔から、笑みが消える。獰猛で雑食な獣の容貌になる。
「言うじゃねぇか、餓鬼」
屈強な腕を伸ばして、壇上に立つキリヤの腹のあたりをむんずと捕まえる。そのままぐっと力を込めて壇の下へ引き摺り下ろした。
勢い余ってキリヤは地面に転がる。その胸倉を、男は掴み上げた。
「口が達者だからって良いもんじゃないぜ? 長いものには巻かれろって言うだろうが。少しは痛い目に遭って社会勉強したほうがいいみたいだなァ?」
強い力で胸倉を握られて、キリヤは噎せる。
その苦痛に満ちた表情を、酷く気持ち良さそうに男は見下した。そもそも人をなぶるのが好きな人種だ。
キリヤの胸倉を掴んだまま、ぐるりと周囲を一瞥する。
遠巻きではあるが、集会に集まっていた人々は皆、その場に残っている。不安と好奇心とがない交ぜになったその聴衆(ギャラリー)に、また口の端をいやらしく持ち上げる。
「二日ほど早いが、てめぇの敬愛する教授や先輩たちと同じ目に遭わせてやろうか? ちょうどギャラリーもいい感じだ。軍や教会の不満を大声で叫ぶってことは、それなりの覚悟はあるってことだろう?」
「下衆……!」
襟首を締め上げられながらも、キリヤはきつく、男を睨んだ。
いやらしい笑みを顔から消して、男は思いっきり顔を不快そうに歪めた。
力に屈しない市民が、一番きらいだ。
「いい度胸だ」
握り締めた右の拳を、力任せにキリヤの顔に叩き付けた。
鈍い音が広場に響き渡った。
「おいおい、これじゃただの私刑(リンチ)じゃねぇか……!」
見るに見かねて、ハルトがうめいた。
「……僕たちは一応もうお尋ね者のわけだから、今更少し暴れたところでどうとでもなるわけだよね」
レイが無表情に呟いた。
その横顔を隣から覗きこんで、ハルトは小さく嘆息する。怒ってる怒ってる。
この頑固者を怒らせるとあとが怖い。
「そんじゃ、まぁ、少し暴れに行くか?」
袖の内側に仕込んだ黒い鉤爪を服の上から撫でて、ハルトが人垣から一歩前へ足を踏み出しかけた、その時だった。
突然、キリヤを殴っていた男の右肩から、パッと赤い液体が散った。
「うわぁぁ!? なんだ!?」
キリヤの襟首を掴んでいた左腕を反射的に離し、血を吹いた右肩を押さえる。
力を失ったキリヤの体が、どさりと地面に崩れた。
右肩を押さえた手をすぐに顔の前で開く。べっとりと血に濡れていることに、男は動揺した。
「だ、誰だ!? いきなり何しやがる!?」
取り乱して首をめぐらす男の背中に、小柄な体が近づいた。
「相変らずだなぁ、ガスト。そのサド気質と権力を笠に着る態度はどうにかしたほうが良いよ。誰の許しを得て、ここで暴力を振るっているんだい?」
まるで女のように高い声を発したのは、軍人の背中に近づいた、160センチほどしかない男だった。黒い前髪が視界の半ばあたりまでかかり、更に黒ぶちの眼鏡までかけている。
白いシャツにズボンという実に簡素で目立たない服装だった。
見るからに軍人と分かる屈強な男からしてみれば、まさに赤子のような相手だったろう。
「なんだと!?」
ガストと呼ばれたその軍人は、がなりたてて、その小柄な人影を振り返った。
が、次の瞬間まるで、氷付けになったかのように動かなくなる。
「君は、どちらの所属だったかな」
眼鏡をかけた目立たない青年は、20センチは身長の違うガストを臆することなく見あげた。そして、男の軍服の襟元に、青と銀で作られたカフスがつけられているのを見とめて、嘆息した。
「まだ東にいるのか。全く、考えて欲しいものだね。末端の責任は全て上層部の責任になるんだってことをさ。部下の下劣な行為は全て上官の品位を落とすことになる。僕は別に誰に何と思われようが何と言われようが構わないけど、君のそういう下劣な行為が、僕よりも上の方々の品格を下げるようなことがあったら、許さないよ」
「ト、トクヤマ少佐、何故ここに……」
ガストの声は小刻みに震えていた。
トクヤマと呼ばれた青年はふっとかすかな笑みを口元に浮かべてから、くるりと踵を返した。
「そういう詳しい話は全部本部で聞くよ。引き揚げだ。早くしてくれ。何度も同じことを言うのは嫌いなんだ」
さぁっと血の気の引いた顔で、ガストが部下をどやしつけた。
おら、てめぇら本部に戻るぞ!
まるで逃げるように軍服の男たちが校門から出てゆくと、トクヤマと呼ばれた小柄な成年は、まだ地面に蹲って荒い呼吸を整えているキリヤの背をいたわるように撫でた。
「部下の非礼を詫びる。正規軍本部に申し出てくれれば、治療費も出すよ。ただ、もう少し言動には気をつけたほうがいい。君ももう、子どもじゃないだろう?」
「……何も、要りません」
擦れた声で、キリヤはようやくそれだけを吐き出した。
トクヤマは「そうか」と呟いて、腰をあげた。
「お騒がせしました皆さん」
劇的な展開に取り残されているギャラリーに深々と一礼してから、トクヤマは、未だ割れたままだった人波の間を通って、ミンスター大学を後にした。
「キリヤ……!」
よろよろと立ち上がるキリヤに、レイが駆け寄った。崩れそうになる体を横から支える。
腫れあがった目蓋で、視界が効かない。キリヤはすぐ傍にあるレイの顔を目を細めるようにしてじっくりと見てから、息を呑んだ。
「……!」
叫びそうになるキリヤを、口元に人差し指を当てて制する。
「ごめん。ちょっと色々と事情があって、名前は呼ばないでおいてもらえるかな……」
「……先輩、なんで」
軋む肋骨を押さえながら、キリヤはレイの顔を覗き込む。
「先輩が異端者になって追われているって聞いて、信じられずにいたんです……」
囁くような小さな声で、キリヤが呟いた。
「……キリヤのところまで、そういう話が行ってたんだね。随分と広まっているんだ」
「だって先輩は、有名じゃないですか……」
少し笑いを含ませて、キリヤが言う。
「馬鹿正直で糞真面目ってことでだろう? 筆記の試験でいい点が取れたって、別に偉くなんてないよ」
「そういうところが……」
レイの肩に腕を預けながら、キリヤは苦笑した。
「そういうところが先輩の、有名なところじゃないですか」
「?」
「なんだ、お前の後輩だったのかよ」
ひょいっとレイの反対側からキリヤの体を支えて、ハルトが言った。
「あの……貴方は……?」
突然現れた見知らぬ男に、キリヤは僅かに警戒した気配だ。
「あー、気にすんな。そこの金髪の昔馴染みで、今は一緒に追われてる身のモンだから」
「はぁ……」
流されるままにキリヤは頷いた。
「キリヤ、今回の粛清のことで、聞きたいことがあるんだ……」
深刻そうな口ぶりでレイが切り出すと、キリヤは少し黙り込んだあと、はい、と頷いた。
3.
調度品の一切ない、やわらかい絨毯だけが敷かれた狭い部屋に、鈍い打撃音が響いた。
耳障りな喚き声を上げて、大きな体が床に転がる。
激しく咳き込み、屈強な男が、腹部を押さえて床に蹲る。
「散々大口を叩いておいて、その体たらくか。所詮雑魚は雑魚なんだね」
床に跪いた軍服姿の小柄な男は、無様に転がったガストの短髪をその細い指で掴んで、ぐいっと掴みあげた。
「覚えておいてもらおうか? 軍の品位を落とすような行動は、今後控えるように。さもないと、次はこのぐらいじゃ済まないよ?」
「おいおい、何をどたばたやってんだ?」
背後で扉が開く音と、間延びした男の声が聞こえてきた。
職務時間中だがお構いなしに欠伸を噛み殺している。
ガストの短髪を掴みあげたまま、トクヤマは背にした扉を振り返る。
そして、掴んでいた髪を潔く離して、勢いよく立ち上がった。
「アフライドさんっ……!!」
嬉々として叫ぶと、トクヤマはその小柄な体をアフライドにぶつける。
「うわー、お久しぶりですー! 会いたかったですよー!」
「……シノブ?」
タックルを喰らった形になって、数歩後ろによろめいてから、アフライドはその小柄な人物を確かめる。
「お前、北のレイトモルトに行ってたんじゃなかったのか? いつ帰ってきたんだよ」
「さっきです」
トクヤマは子どものような顔で笑う。
「……というか、相変らずだなァ、お前。ちょっとは手加減してやったのか?」
トクヤマの肩越しに、部屋の隅で蹲っているガストを眺めて、アフライドが嘆息した。
「手加減してなかったら今頃生きてませんよ。嫌だなぁ、忘れちゃったんですか?」
「そうかそうか。だけどな、少しは容赦してやれよ。部下なんだから。嫌われちまうぞ」
「いいんですよ。別に何と思われても。僕は誰かの上官である前に、あなた方の部下なんです。無差別に跳ね返る泥の盾になって汚れるのが僕の仕事なんです」
子どものようにあどけない表情で紡がれるトクヤマの言葉に、アフライドはもう一度苦笑混じりに嘆息する。全てがアンバランスだ。
「そういえば、大将にはもう挨拶済ませたのか?」
「これからなんですよ。楽しみだなぁ」
長い間離れ離れになっていた恋人同士が再会するように、トクヤマは瞳を輝かせている。
「というか、お前は何で呼び戻されたんだ? レイトモルトで不穏な動きをしてる大富豪の牽制は終わったのか?」
「そんなもの、部下を置いて戻ってきましたよ。大将から直々にお達しがあったとあれば、飛んで戻ってくるのは当たり前です!」
「……大将から?」
あとで救護班をこの部屋に呼んでやろう、と思いながらアフライドは狭い部屋を後にする。その後ろにトクヤマが続いた。
「ああ、アフライドさんも知らないんですか? カタナ使いの噂」
トクヤマは、外していた黒ぶちの眼鏡を装着する。
「カタナ使い?」
「西軍の御大が、最近連れているみたいなんです。剣舞のようにカタナを扱う少女をね」
「知らねぇな。そんなことを俺に喋っちまっていいのか?」
「いいんです。僕は上官には秘密を作らないようにしてます。信じてますから」
疑うことを知らない純粋無垢な瞳を向けられて、アフライドは渋面を作った。
「卑怯な男だな、お前も」
ひたむきな忠誠を示されると、普通の感覚を持っている人間ならば、裏切れなくなってしまうものだ。
するとトクヤマはにんまりと笑う。こいつは確信犯だな。
本当に俺は上官にも部下にも恵まれていると言うか、恵まれないと言うか。
突き当たった角を左側に折れると、見慣れた銀色と出くわした。アフライドの姿を見とめると、いつもどおり気難しそうな顔をして、つかつかと近づいてきた。
「アフライド! お前どこに行っていたんだ。すぐに会議が……」
「ジャンヌさま〜!!」
奇声を発して、トクヤマは今度はジャンヌに飛びついた。
「な、お前……トクヤマ!?」
「嫌だなぁジャンヌさま、そんな他人行儀にしないで、シノブって呼んでくださいよぉ」
「お前一体いつ戻って……」
「さっきです」
先程アフライドとしたようなやりとりを繰り返し、トクヤマはにっこりと微笑む。
「離れろっ、暑苦しいっ!」
ひっつくトクヤマをべりっと引き剥がして、ジャンヌは一喝した。
引き剥がされたトクヤマは、寂しそうに「相変らずつれない」と呟いた。
「派遣任務はどうした? レイトモルトにいるはずだろう?」
「少々事情があって、大将に呼び戻されたんです」
「閣下に?」
「うーん、ジャンヌ様も知らないんですねー。それについては後で説明します。とりあえずは大将に会わないと……!」
重大な使命であるかのように力んで、トクヤマは丁寧に敬礼をすると、奥の扉に向かって歩き出した。
その背中が遠退いてゆくのを見送りながら、ジャンヌが嘆息する。
「相変らずだな」
「全くだ。にしても、あいつが呼び戻されるほどの事情って言うのは、なんだろうな? 心当たりは?」
ジャンヌはゆるりと首を横に振った。
*
大きな観音開きの扉の前で立ち止まり、指の角でノックする。
「東軍少佐トクヤマ・シノブです。失礼します」
扉を向こう側に押し開くと、大きな机と、それに座った小さな体が見えた。
「シノブ!」
机の上で書類を弄んでいた手を止めて、ミカエルはひょいっと椅子から飛び降りた。
「早かったね!」
小走りにトクヤマのほうに駆け寄ると、その腰に抱きつく。
「大将に呼ばれたとあったら、駆けつけるに決まってるじゃないですか。これでも自分としては遅いぐらいですよ」
その小さな体を抱きとめてから、トクヤマは視線を合わせるように床に跪いた。
黒ぶちの眼鏡を外して胸ポケットにしまいこみ、切れ長の瞳を露にする。
「お久しぶりです。お元気でしたか」
栗色の髪に黄金の瞳を持つ、愛らしい少年の顔を覗きこんで、やさしく、トクヤマは訊いた。
「相変らずだよ。シノブこそ、元気だった?」
「いやー、レイトモルトは寒いですねー。雪の降らない地方で育った人間には厳しい土地ですよ。でもお陰様でこの通りです」
「元気そうだね。良かったよ」
ミカエルは、穏やかに微笑んで、久しぶりに見る部下の顔を見つめた。
「ジャンヌたちには?」
「さっきお会いしました。どっちもばったり。運命感じましたよ。幸せだなぁ」
ひょいっと小さな大将の体を抱え上げると、彼専用のデスクまで運び、椅子に下ろす。
そうして自分は、デスクを挟んで向かい合わせるように立った。
(別に、お茶を飲むように雑談をしながら報告でも、いいとは思うんだけどね)
こうして頑なに上官と部下の立場を保とうとするのは、"うち"の部下の特徴だな、とミカエルは苦笑する。
ジャンヌにしろアフライドにしろ、えてしてそういう傾向にある。
「それでは、遅くなりましたが、ご報告申し上げます。レイトモルトでの不穏な動きには、信用を置ける部下を置いてきました。引き続き調査を行いますが、それほど脅威になるとは私には思えません。それで、先日御相談を請けた件なんですが……」
「ギルドに問い合わせてくれたのか?」
「ええ。ロウエンのギルドに問い合わせましたが、そのような少女は登録されていないということです。ですからおそらくは、ロウエンの麓に広がるスラムの生まれではないかと」
「カタナやその他諸々の武器に関しては、ロウエンのギルドが全てを牛耳ってると思ったんだけど。スラムだと、簡単にカタナなんかも手に入るもの?」
「表向きには全てをギルドが取り仕切り、その販売の履歴全てを管理していることになっていますが、さすがに完璧とまではいきません。たとえば商人が途中で襲われて殺され、商品が強奪されたりした場合などは……」
「そういう商品が、闇ルートに流れるって事か……」
「ロウエンの麓のスラムは治安がめっぽう良くないですから、逆に手に入りやすいでしょうね、カタナの一振りぐらい」
なるほどねぇ、と溜息を漏らして、ミカエルはデスクに頬杖をついた。
「それで、ロウエン特有の暗殺秘術を守り続けているトクヤマ家の人間としては、どう思うのかな?」
すると、トクヤマはぼんやりと宙を見て、「そうですねぇ」と少し考え込んだ後。
「ギルドに登録されていないカタナ使いだとしたら、所詮は我流。そこまで実力的に脅威とは思えません。まぁ、怖いのはスラムで生まれ育ったって言う、環境かなぁ」
「環境?」
「あそこは、感情が欠如した街です。損得勘定が何よりも上位に来るんです。生きるための盗み、生き残るための殺人が日常茶飯事の場所ですからね。人を斬ることに、ためらいがないほうが怖い」
「問題は、そういう子を何でランドウが拾ったかと言うことなんだよ。本人はきっと、成り行きだと言うだろうけど、彼が自分の利益も何も考えずに拾い物をするなんて、とても思えない」
「誰かを殺すためだとお考えなんですか」
切れ長の瞳を細めて、トクヤマが訊いた。
「その可能性がないわけじゃないだろう?」
右腕だけの頬杖で顔を支えて、ミカエルは面倒くさそうに吐き出した。
「そうなってしまった場合、いくら我流と言ったって、ロウエン出の人間の特殊な動きとか、特殊な秘術とかには対応しきれないなぁと思って。本家本元を呼んだわけなんだよ」
「ということは大将は、その刃の先は外側ではなく……」
トクヤマは一度言葉を切り、顎のあたりを指先で撫でた。
「身内に向けられるものだと―――?」
ミカエルは言葉を返さずに溜息交じりに微笑して見せた。
明確な言葉よりも雄弁な回答に、トクヤマはげんなりと肩を落とした。
「……なんでしょうね、しばらく離れてたうちにこれですか。随分と東と西の間の溝は深く広くなっちゃって、まぁ……」
そんなことになったら、軍隊内部での内乱必至じゃないですか。面倒くさい。
「とりあえずシノブには、その子に注意していて欲しいんだ」
有無を言わさぬ天使の微笑で、ミカエルはトクヤマを黙らせる。
トクヤマはしばらく黙ったあと、根負けしたように吐息をひとつ落として、重たそうな黒髪を後ろに掻きやった。
「まぁ、大将が決めたことならば僕は従いますけどね。僕は軍と言うよりか、東軍の上官の方々に従っているわけですし」
「ごめんね、いつも厄介なことばっかり頼んで」
胸ポケットから眼鏡を取り出して装着しながら、トクヤマは「いえいえ」と笑う。
「トクヤマの人間は、自分で主を選びます。その主のためならば、ロウエンのギルドの掟を破ることすら厭いはしません。僕は自分でこの面倒くさい道を選んだわけですからね」
眼鏡をかけると同時に、妙に厚ぼったい印象になる部下に、ミカエルは微笑みかける。
その、一見とろそうな外見も、ひとつの武器ではあるのだろう。
「頼りにしてる」
「光栄です」
トクヤマは、右手を左胸の金十字の上に重ねて、深々と頭を垂れた。
4.
「多分、教会の検閲に引っかかったのは、『ガイアズメールは宇宙船であった可能性がある』という、サウル教授の論文の一説じゃないかと思います」
カルチェ・ラタン郊外の、工場区のはずれに、工事現場によく建てられるようなプレハブがいくつか並んでいる。
そのプレハブのひとつに、人ひとりが生活してゆけるような生活用品がそろえられたものがある。その室内。
「なんだそりゃ」
右側の壁に寄せられたベッドの縁に座り込んだハルトが渋面を作って吐き出す。
「多分、普通の人はそう思うんですよね」
顔中にバンソウコウやら湿布やらを貼り付けたキリヤは、部屋の中央に引きずり出してきたパイプ椅子に、同じ椅子を並べたレイと、向かい合わせるようにして座っている。
「神学を研究しているものには、結構重大な仮説なんです」
間にレイを挟んだ向こう側で、なにやら眉根を寄せているハルトの方を見て、キリヤは続けた。
「神の船はその名のとおり、神の作ったもの。神の手による奇跡でなければいけないものなんです。人間の技術が作り出したものだなんて言うのは言語道断。神の力への冒涜になるんです」
「だからって処刑、か? 殺されるほどのモンだっていうのかよ?」
「それは……」
キリヤは口ごもって俯いた。膝に乗せた両腕の先で絡ませた指を、強く握り締める。
「それは確かに、教会の横暴だと思うよ」
黙り込んだキリヤのかわりに、レイが口を開いた。
「汚いですよ……!」
搾り出すようにキリヤが叫んだ。
「問答無用でただ捕まえて、何の説明もなしに処刑だなんて!」
「キリヤ……」
「僕は一人だけこうして……逃れてしまって……。どうして……」
握り閉めた拳を額に押し当てて、キリヤはがくりとうなだれた。
かける言葉を探しあぐねて、レイもハルトも黙り込む。
コツコツ、とノックのような音が、静まり返った室内に響き渡ったのはそのときだった。
うなだれた体を起こして、キリヤがぐるりと周囲を見回す。すぐ右手側にある扉を見るが、そこから音は聞こえない。
するとまた、コツコツと。
耳を澄まして、音の出所を探り、キリヤは視点を床に落とした。確かに、下から音が響いてくる。床の下から。
「ここの上に何かもの置いてるんなら、どけてくれないかなぁ」
すると今度は、キリヤが座っている真下から、くぐもった男の声が聞こえてきた。
「持ち上がらないからさぁ」
どことなく間延びした、緊張感のない声だ。
相変らずコツコツと下から床を叩く音は続いている。
「……ちょっと、キリヤ、ごめん」
呆然と床を見詰めたままのキリヤに、申し訳なさそうにレイが声をかける。
あいつ一体どういうつもりなんだ? と、ベッドに腰掛けたままハルトがぼやいた。
椅子からキリヤを立ち上がらせ、床の上から椅子を除ける。
そして、躊躇いがちにレイが、いいですよ、と声をかけると、床がぱかりと上に持ち上がった。
「うわぁ!」
その下からひょこりと人の首が出てきたので、叫び声と共にキリヤがあとずさった。背にした壁にへばりつく。
その"首"は、周囲の反応など気にもかけずに、ゆるやかにぐるりと一周あたりを見回した。
「いいのかよ? 秘密の入り口が一般人にばれても」
全く動じもせずに、ハルトが上からその首を覗き込んだ。
黒髪の、眠そうな顔に眼鏡をかけた男の首だった。
すると首はハルトに視点を定めて、いいのいいの、と軽い声で言った。
「ちょっと、僕も詳しく話を聞きたいと思ってね」
ぐいっと両腕の力だけで体を持ち上げて、サイジョウはプレハブの床に這い出す。
皺の寄ったワイシャツと、黒のズボン姿で、どことなくひ弱そうだ。
服の埃を払いながら、部屋の隅に避難しているキリヤの方へ向き直った。
「キリヤ・レスターくん。中央議会の議員、レスター卿の御子息でよかったのかな?」
今までレイが座っていた椅子に我が物顔で座り、小首を傾げるようにして問い掛ける。
「え、あ、はい。そうですけど、貴方は……?」
まだプレハブの壁にへばりつくようにして逃げ腰のキリヤが、乱入者に恐る恐る声を返す。
「僕はサイジョウ・ヒイラギという、しがないレジスタンスの一人だよ」
「……レジスタンス?」
「なんというのかな、教会の政治体制に反発している反抗期のこどもみたいなものだと思ってくれればいいよ」
いまだに警戒態勢のキリヤに、サイジョウは胡散臭いぐらいの笑顔を向けてみせる。居場所を奪い取られたレイは、仕方なく背にした壁にもたれかかった。
「ここ最近、随分と精力的に活動しているみたいだね。教会の、粛清への反対運動。こっち側―――つまりレジスタンスのネットワークでも、君の名前は結構有名だ」
べったりとへばりついていた壁から離れ、キリヤは肩を落とす。重たそうに首をうなだれて、俯いた。
「君は有名な貴族の家柄だけど、あまりおおっぴらに動くと危ないよ」
「家柄に甘えたくないんです……」
自分の爪先を見つめたまま、独白のようにぽつりとキリヤが零した。
体の横にだらりと下げた腕の先で、拳を握り締める。
「本当に禁忌なら、どうして僕だけ見逃したりするんですか。教授や先輩たちは処刑されるって言うのに……。こういう活動をして、具体的にどんな意味があるかは分からない。だけど、このまま何もしないでいるなんて、そんなこと……」
「分かった。じゃあ協力してもらおう。僕は今回の粛清を潰すつもりなんだ」
「……は?」
いつもの軽い調子で堂々とサイジョウが宣言する。
俯かせていた顔を反射的に持ち上げて、キリヤはきょとんと訊き返した。
協力?
「何、別に大したことじゃぁないし、取って食べたりしないから安心して!」
意気揚揚と、先程レイが片付けたパイプ椅子を持ち出してきて、地下通路への入り口の上へセッティングすると、キリヤを手招く。
「おい、お前、協力って一体何……」
「外野は黙ってらっしゃい」
「なんだと!?」
話がなにやら怪しい方向に向かい始めたのを察知してハルトが声をかけるが、さらりと切り返される。
「今僕はキリヤくんと大事なお話があるんだよ」
邪魔しないでくれる? と不服そうに肩越しに振り返るサイジョウが、憎たらしい。
「あの、サイジョウさん、あんまり危険なことに巻き込むのは……」
可愛い後輩の身を案じて、レイが恐る恐る声をかけた。
「いえ、僕にできることだったら……!」
正義感の強い後輩は、先輩の心配もどこ吹く風と身を乗り出した。
「キリヤ……」
レイは哀れみの籠もった瞳で後輩を見つめる。
君はこの人の怖さを知らないからそんな……。
「さすがだね、キリヤくん。僕が見込んだだけあるよ。さぁ、そこに座って。聞かせてくれないかな」
企業面接か何かのように、ごくごく近くに向かい合わせたパイプ椅子の、黒い表面を掌で叩いて、サイジョウが促す。
心なしか少し硬い表情をしたキリヤは、促されるままにその椅子に腰掛ける。
「何を、お話すればいいんでしょうか。僕が答えられることだったらいいんですけど……」
「簡単なことだよ。君は研究室に出入りしていたといったね。だったら教えて欲しいんだ。サウル教授は、どこまで仮説を深く掘り下げていたのかな?」
フレームのない、繊細な眼鏡の奥で、サイジョウはその瞳を細めた。
「……掘り下げ?」
「"神の船は宇宙船だった"。そこまでの仮説を教授は論文に書いたと言っていたね。一概には言えないが、一流の人間が書く論文というものは大抵、自分の仮説を説得できるだけの証拠を盛り込んでいるものだ。サウル教授は神の船が宇宙船だったというところまでは説明できたから書いたんだろう。だが本当にそれだけか? そこまでたどりついていたなら、更にもっと深い仮説を立てていたはずだ。読み手を納得させるだけの証拠が揃わずに、論文には書けなかった仮説。憶測の域から出ない、予想だとしても僕は聞きたいね」
一息でそこまで喋ると、サイジョウは中指で眼鏡を押し上げた。
キリヤは、ぽかんと呆けたようにサイジョウの顔を見つめた。
「誰も、口外していないはずです。あまりに飛躍しているからと、教授が……。どうして貴方は……」
「僕も、神の船に関してはいろいろと考えたんだ。自前の仮説もある。それがサウル教授のものと同じかどうか、気になるのさ」
やわらかい笑みを絶やさずに、本音か建前か分からない声音でサイジョウはすぐに切り返してくる。
キリヤは、今更ながら目の前の男をおそろしいと感じ始めていた。
全く読めない。
けれど。
粛清を潰すつもりなのだと、この男は言った。
それが現実に可能なことなのかどうか、そもそもこの男が信用に足るのかどうか、それすらも判断はつかない。
繋がっている鎖は、中等学校時代の先輩である、レイ・クレスタのみだ。
昔の記憶を頼りにするならば、レイは信用できる。そう思う。けれど、別々の大学に進んでからもう、五年以上が経っているのだ。それだけあれば、人は変わることができる。劇的に。
危険な橋を回避する生き方をしてゆくならば、この場から逃げたほうが賢いのだろう。
でも。
ここから逃げ出しても、何も変わりはしない。
あと二日だというのに、ただ騒ぐだけの集会を開いたとしても、それから何が変わるというのだろう?
リスクも背負わずに、何かを変えようだなんて。
虫のいい話だ。恩師や友人は、殺されようとしているのに。
何かを変えたいといいながらここで、安全な道に引き返していいのだろうか?
笑顔の奥底に、獰猛で狡猾な動物を飼っているような、サイジョウ・ヒイラギの気配。
その後ろ側の壁で、こちらを不安そうに窺っている、レイ・クレスタ。
その両方を見比べてから、キリヤはようやく、サイジョウに視点を定めた。
「お話します。サウル教授は、ガイアズメールが宇宙船であったことを、ほぼ確信しています。そして、宇宙船で移民してきた人間たちが、内部で二分して争っていた、その上、この星の先住民たちと争って、彼らからこの星を奪い取ったという仮説を立てていました。全てがまだ憶測の域を出ない段階で、証拠は不十分です。それにとても、論文に書ける内容ではありません……」
一息で話し終え、大きく一度深呼吸をすると、キリヤはサイジョウを窺い見た。
「なるほど、ね」
キリヤが話し終えるまで一度も口を挟まなかったサイジョウが、少し間を置いてから納得したように頷いてみせる。
口元にはなにやら、悪戯を思いついた子どものような笑みが浮かんでいる。
「……それで、何か分かったのかよ?」
ひとりで納得しているようなサイジョウの背中に、ハルトが問い掛ける。サイジョウが猫背になって楽しそうにしているのが気持ち悪い。
「ああ。分かったよ。分かっちゃいましたよ、僕は」
パイプ椅子の背に右腕を乗せてぐるりと振り返り、サイジョウはにんまりと笑って見せた。
「どうしてあんなに教会が焦っているのかがね。なるほどなぁ。そろそろ佳境だね」
「はぁ?」
「夜になったらちゃんと話してあげるよ。どっちにしろ明日一日は準備に回すから、時間はたっぷりあるわけだし。君たちふたりにも色々と頼みたいこともあるしね」
含み笑いをしたまま、サイジョウは断言を避ける。時間があるなら今話せ、とハルトがつついても全く動じない。
「これ以上彼を巻き込むわけには行かないでしょう」
「え……? 僕は何もしなくていいんですか!?」
既に部外者にされているらしい気配を感じ取って、キリヤが勢いよく立ち上がった。
「だって、僕はまだ何も……」
「充分だよ。君は何もしていないと思うかもしれないけど、君が僕に与えてくれた情報は実に有意義だった。それで充分なんだ」
「でも……!」
泰然と組んだ足を組みなおして、サイジョウは言い切る。
キリヤは尚も食い下がった。納得が行かない。これで協力したとは、とても思えない。
「……危ないんだよ」
ゆっくりと、そしてはっきりとした発音は、駄々をこねる子どもを嗜めるような響きがした。
「庇っても、守ってもあげられない。自分の身だって危ない。そういうことをするつもりだから、できるならこちらの負担になる要素は外しておきたい。君の仲間を助けたい気持ちはよく分かるつもりだ。でも、残酷かもしれないけど、強い気持ちだけでどうにかなる問題でもないんだ」
頭ごなしに怒鳴りつけるだけが、相手を引き下がらせる手段ではない。
理知的で頭がよくて真面目な人間ほど、冷静に説得されたほうが熱が下がる。
「そうかも、しれません……」
事実、飛びかからんばかりだったキリヤの勢いは明きらかに削がれていた、
空気が抜けた風船のように、椅子に座りなおしてうなだれた。
「……君は、今は貴族街の生家に住んでいるのかな?」
「? いいえ、今は学生街の近くに一人で住んでます。……父が宛がってくれた家ですけど。それがどうかしましたか?」
突然話題を変えられて、キリヤは不思議そうに首をかしげる。
が、サイジョウは特に説明をする気もないらしく、自分ひとりで納得するように何度か小さく頷いた。
眼鏡の奥で、切れ長の青い瞳を細めた。
「じゃあ今日は、お土産を持ち帰ってもらったほうがいいかもしれないなぁ」
*
「で、お前どういうつもりなんだよ?」
場所は地下に移る。
アジトの「居間」で、椅子に逆向きに座ったハルトが、背もたれにだらしなく体重を預けながら、聞いた。
質問の相手は、入り口の傍で本日何杯目か分からないコーヒーを嬉々として製作しているこのアジトの主である。
「え? なにが?」
こぽこぽと小気味よい音を立てるコーヒーメーカーを飽きもせずに上から覗き込んで、サイジョウが上の空で返事をする。
「それについては僕も説明が欲しいんですけど、サイジョウさん」
もはやすっかり定位置となった、扉の真向かいに腰掛けて、レイが硬い声で言う。
目が据わっているのは決して気のせいではないのだろう。
無遠慮で不遜な態度を始終崩さないハルトでさえ、レイと向かい合わないようにわざと椅子に逆に座っているのだ。レイに背を向ける形で。
長い間一緒に過ごしてきた勘ゆえか、触らぬなんとかに祟りなしの精神らしい。
疑いようもなく、レイは怒っているのだった。
「キリヤを巻き込んだり利用したりするつもりじゃないでしょうね」
「ま、まさか。僕がそんな卑怯なことをするように見えるのかなぁ、かなしいなぁ」
「見えるから言ってるんです」
一瞬の間もおかず、にべもなく切り返されて、サイジョウは深々と嘆息した。
専用のマグカップに自分の分の液体を注ぎ恐る恐る振り返ると、普段からは想像もつかないような温度のない緑の瞳と目が合う。
「酷いなぁ、巻き込んだり利用しようとしたなら、もっと早く色々やってるよ。チャンスはいくらでもあったわけだし」
何しろ相手は議会での発言権も大きいレスター卿の子息。その上、現在注目度トップクラスの教会の「粛清」の関係者でもある。
利用価値ならば、いくらでもあるのだ。
「それは、そうかもしれませんけど……。じゃあ何で、ファンくんを付き添いにつけたりしたんですか?」
あのあと、サイジョウは自宅に戻るキリヤにファンを付き従わせた。
一切の説明がなくとも、ファンは全てを了解しているようだったが、すっかりと話題に取り残されたレイとハルトには、その意図が全くわからない。
「ああ、あれは本当にただの護衛だよ。今日のミンスター大学前での騒動は結構大事だからねぇ、危険視されても仕方がないし。レスター卿の自宅の中なら奴さんたちも無理はできないだろうけど、一人暮らしじゃね。賊が侵入したとか言われたら、どうしようもないからね」
サイジョウは、レイの真向かいの椅子を引いて座る。
ことりと音を立てて、テーブルの上にマグカップを置いた。漆黒の液体が僅かに波立つ。
サイジョウのどことなく遠まわしな言い回しに、レイがはたと黙り込む。
「それって、狙われるってことですか?」
「最悪それもありうるという話だ。ここに留めておいてもよかったんだけど、それだったらきっとキリヤくんは君に色々訊くだろうし。中等学校の先輩と後輩の仲ならね。そして、あの正義感の強い勢いで迫られたりしたら多分、君は答えるだろうなと思った」
無遠慮にレイに人差し指を向けサイジョウは続ける。
「君たちは、自分で意気揚揚と飛び込んできて、もう馴れてしまったかもしれないけど、"こちら側"に―――」
その人差し指で、サイジョウは自分の傍のテーブルの表面をこつりこつりとつついた。
「少なくともいくつか、世界ぐるみで隠匿されている秘密を知っている側にいるということは、危険なことなんだ。分かるだろう? 君たちだって、今までよく生きてるよ。できるならこちら側には、来ないほうがいい」
全く、君たちはこちら側に飛び込んできてしまった人種だけどね、と嘆息交じりにサイジョウは付け足した。
「知らないで生きてゆくほうが、いい場合もある」
この二ヶ月があまりに早いと感じたのは、それだけ密度の濃い時間を過ごしてきたということだ。
密度が濃いというのはどういうことか?
たくさんの血が流し流され、消えてゆく命や、壊れてゆく心などを目の当たりにしてきたということだ。
本当なら、しがない盗掘屋を続けているはずで、相変らず神学の試験に頭を悩ましているはずだったのに。
「そうだな。その領域を越えないほうが、しあわせっちゃしあわせだったのかもしれねぇな」
相変らず椅子の背もたれにもたれかかって、顎まで乗せたままでハルトが言う。
レイの首も自然と下に傾く。
知らなければ。
「そういう後悔をしても遅いんだな、君たちは」
右肘だけで頬杖をついて、サイジョウは小馬鹿にしたように笑う。
「どうせもう全てが今更なんだ。最後まで付き合ってもらうよ?」
顔を斜めに傾けて、勝ち誇ったように言い放つ。
一度境界を踏み越えたらあとは、落ちるところまで落ちるだけだ。
5.
「おかまいなく」
来客にお茶の用意をしようとすると、短い言葉で制される。
「夜が明けたら勝手に帰るんで。仕掛けてくるとしたら今晩だろうって、隊長も言ってたし」
あまり表情を変えずに、青年が言った。年は二十歳を少し過ぎたくらい。焦げ茶の短髪を逆立ててある。
中等学校の先輩であるレイ・クレスタに連れられていったプレハブ。あれが建っている工場外から自宅までは、歩くと裕に1時間以上はかかる。その道のりを市街地に張り巡らされている路面列車やらバスやらを利用してたどり着くまでの間、全くといっていいほど会話はなかった。
はじめは嫌われているのかと思った。しかし、元々口数が少ない人らしいと気付くまで、あまり時間はかからなかった。
確かあの、レジスタンスのリーダー格は、「ファンくん」と呼んでいたっけ?
放っておくといつまでも黙り込んでいるのだが、よくよく見てみると無愛想なのではない。ぼーっとしているのだ。
今も、一人で暮らすには随分と豪奢な一軒家の中をしげしげと見回している。
「……ファンさんは、いつからあそこにいるんですか?」
とりあえず手持ち無沙汰を解消しようと、自分の分の紅茶を淹れながらキリヤが訊いた。
いくら無口とは言え、これから朝まで何も話さずに過ごすというわけにも行かないだろう。
「あそこ?」
普通の一人暮らしの部屋ならば三つ分ほどすっぽりと入ってしまうような広い居間の、扉から向かって右手側の一番奥と、入り口の傍。
ほぼ対角線上に立っていたファンが肩越しに振り返る。
彼は、ちょうど入り口の傍に寄せられたサイドボードの中の、アンティーク時計を眺めていたところだった。
部屋の一番奥のほうで紅茶のカップをふたつ並べていたキリヤも、体半ばほどをファンのほうに向ける。
足元には幾何学模様の絨毯が敷かれ、部屋の中央には猫足のテーブルと、それに合わせたソファが4脚分。
テーブルの上には、うつくしい薔薇が生けられていた。
水晶の下がった豪奢なシャンデリアが、天井からやわらかい橙のひかりを落としている。
「レジスタンスの、組織です」
穏やかに問い掛けた。はずだった。
が、質問された方はとても難しい質問を受けたかのように考え込んでしまった。
「あ、あの、別に言いたくないなら言わなくていいんですけど」
「……五年前」
「え?」
「……五年前、森の中で倒れているところを隊長に拾われて。それが始まりで。他にいくところもなかったし。それで」
「そう、なんですか」
それ以上は踏み込めないと察知したらしく、キリヤは口を閉じた。紅茶淹れに専念する。
ファンは、壁に寄せられているサイドテーブルの上から、青い硝子細工を持ち上げる。
ダイヤのように複雑にカットされているだけだが、シャンデリアのひかりを跳ね返して、うつくしい。
図体ばかりが大きい赤子が、突然外界に投げ出されたようなものだ。
今になってみれば、そう思う。
赤子よりましだったのは、自分のことは自分で出来るし、生きるための基礎知識―――言葉や様々な道具の使い方―――は覚えていたことだろうな。
不自由はしなかった。
けれど不安だった。
今まで生きてきた実績が何ひとつない。覚えていない。
自分の周りの、誰も知らない。それはもしかしたら、生きてこなかったことと同義じゃないのか?
自分さえ覚えていないなら。
手の中で、硝子細工が光を跳ね返す。
じっと見つめていると、何もかもが堂々巡りで、何もかもがループしているような気がしてくる。
(だけど、最近の不安は少し違う)
自分が何者か分からないという不安ではない。
自分が一体、何者なのか。それを知るのが怖い。
それを知ったときに自分が一体どんな―――。
コツ、コツ。
無限ループのような思考回路が現実に引きずり戻したのは、扉を叩く控えめなノックの音だった。
キリヤがティーポットをがちゃんと乱暴に置く音。
ファンは、咄嗟に腰のホルスターや、ジャケットの内側に隠し持ったいくつかの武器を手早く確認する。
「俺が出るんで、動かないで下さい」
動こうとするキリヤを、低めた声で制して、ファンは居間の扉を開ける。
短い廊下を隔てて、すぐそこが玄関だ。照明はついていない。
右手をホルスターにかけて、足音をさせないように近づく。
すると、反応がないことに焦れたのか、もう一度ノックの音。そして。
「警戒しないで下さい。私は貴方に危害を加えるつもりはありません。ただ、少しだけ話を。お父上にもお宅を訪問させていただく旨はお伝えしておきました。本日のミンスター大学前での騒ぎ、部下の暴行について、謝罪を」
"部下"の"謝罪"?
扉越しに伝わってくる、低めの女の声に、ファンはホルスターから手を離す。
(正規軍の人間……? 扉の向こうの気配はひとり、もしくは多くても二人。部下、というからには少なくとも人を纏める地位にいる人間……)
仕官クラスか?
「キリヤ・レスター様。お話だけでも聞いていただけませんか」
扉越しに伝わってくる女の声は、揺らがない。冷静で、一本の線のようだ。
「私は教会直属正規軍の元帥を務めております―――」
正規軍元帥―――!?
「元帥閣下がわざわざ謝罪とは、どういうことですか」
思わず、声を返していた。
「キリヤ氏が、有力貴族の息子だから、元帥自ら足を運んで、点数稼ぎというわけですか?」
「……君は、キリヤ殿ではないな」
「キリヤ氏に伝言があるなら承ります。今日の昼間、正規軍が彼にしたことを思えば、簡単に会わせるわけには行きません」
「車と運転手はこの家の一本向こうの通りに待たせてある。私は一人だ。謝罪と忠告をしにきた。今回の行動は、軍本部とは何ら関係はない。私の独断だ。せめてこの扉は開けてもらえないか」
揺らがない、直線のような声に、促されるようにファンは玄関のロックを外す。
自分ひとりの身ながら、守れると思った。それと、何か、あけなければいけないような気が、した。
「ロックは外しました。そちらが開けてください」
不用意にこちらが扉を開ければ、その隙に襲われる可能性もある。それらの知識も、この5年の間に身につけたものだ。
ドアノブが、ゆっくりと回される。手前へ扉がゆっくりと押し開けられ、街灯の明かりがうっすらと、扉が開く角度に玄関に差し込んでくる。
開かれた扉の向こうに現れた人影は、言葉の通りひとつ。
女にしては随分と背が高い。あまり自分と変わらないのではないかと、見当をつける。
名乗ったとおり、正規軍の軍服に、揃いの白いコートを羽織っていた。長い髪は、首の後ろでひとつにまとめられている。
ただおかしいのは目が―――。
女の目が、驚愕に見開かれていることだった。
こちらを見て、愕然と声を失っている。
なにか、この世のものではないものを見たような。
ファンも、金縛りにあったように動けなくなっていた。
何故か。
*
「そちらが開けてください」
心なしか緊張した声に促されて、目の前のドアノブを握る。
掌の内側に金属のつめたさを感じながら、ゆっくりと回した。
扉を開く一瞬。相手が隙を狙うとしたら、その瞬間だろう。
ゆっくりと、奥へ扉を押し開く。
一人住まいとは思えない広い玄関が、ゆっくりと眼前に開かれた。
大理石を敷いた玄関の床に、さぁっと街灯の光の帯が伸びた。
近づきすぎず、尚且つ一歩で相手の懐まで飛び込める位置に、青年が一人立っていた。
間隔の取り方も悪くない。素人ではなかった。
細身ではあるが、脆弱ではない。
足元から舐めるように見あげて、息が止まる。
―――俺は違う。決して"ああ"にはならない。
一体どんな錯覚か幻覚だろうと、思う。
一瞬頭の中が真っ白になり、何も考えることができなかった。
ただ、目の前にいる焦げ茶の髪を持つ青年の顔を凝視する。
見間違い? 他人の空似か?
否。
こちらを見据えるその瞳の力を、見間違えるわけがない。
(私が、見間違えるはずが)
「お前、どうしてここに……」
うめきとも喘ぎとも取れる声が口唇から零れ落ちた。
動かずに対峙していた青年の体が、その言葉にびくりと震えた。
その反応に突然たががはずれ、大股に距離を詰めた。怯えた子どものように、慌てて戦闘体勢に入ろうとする青年の、両腕を掴んだ。
強く。
「"アザゼル"―――お前、どうしてここに……!」