カルチェ・ラタン
GOD'S VOICE/GOD'S HAND





―――サツキさんが死んだら、あの子どうするの。
 狭い家の、狭い寝室の、スプリングのいかれたベッドの隅に膝を抱えて蹲る。
 膝に額を押し付ける。
 少し開いた扉の向こうから、女の人の声が聞こえてきた。
 秘密の会話にしたいのか、それともこちらに聞かせたいのか分からない。陰口の音量の声。
―――父親ももうずいぶん前に死んでるし、何せあの子、目が。
 膝を抱えていた腕を外して、両の掌で耳を覆う。

 あの子、目が赤いでしょう。

(聞きたくない)
 黒い髪に赤の目なんてねぇ。
(聞きたくない)
 隔世遺伝かしら、サツキさんは別に髪は黒かったけど、目は赤くなかったし。
(聞きたくない)
 不吉よねぇ。

 耳を塞いでいるのに、どうして聞こえてくるのだろう。
 体を更に小さく縮めると、スプリングがぎぃぎぃと鳴った。


―――巫女(シャーマン)なのですって。
 どろどろとした言葉を振り払うように、母の言葉を思い出した。
―――黒髪に赤い瞳を持つ人間は、この星と対話する力を持っていたのですって。貴方には、その血が流れている。今はもう血も薄れて、ほとんどその力はなくなってしまったみたいだけれど。貴方はきっとその力が強いのね。母さんに、力が無かった分。
 祖母も、黒い髪に赤い瞳を持っていたと聞いた。
 ただ、それが母には遺伝しなかったのだと。
―――ごめんね、リョウコ。
 時々母は、この体を抱き寄せてそう繰り返した。抱き寄せる腕は、少し震えていた。

―――私も、赤い瞳を持って生まれればよかった。貴方の痛みを、分け合ってあげられなくて、ごめんね。
 最期にそう言い残して、母は死んだ。


 バベル。由来の無い町。
 謎の遺跡ばかりが横たわる、荒涼とした大地に、ひっそりと在る町。
 都、カルチェ・ラタンから遠く離れている分、教会の勢力は弱い。それは逆に、民間信仰が根強く残っていることを意味する。
 黒髪に赤い瞳は、悪魔の象徴だという。
 母を失ってからは、バベルに多く存在する発掘組織で雑用をしていた。
 この髪と瞳と、生まれついて持っていた不思議な能力の所為で、ひとはあまり近づかなかった。
 時折ふと、この目を潰してしまおうかと思ったこともある。
 この瞳が全て、悪いのだ。そう思っていた。
 今になって考えてみれば、私は甘えていたのだ。
 自分の境遇を自分で哀れんで、自分から他人に境界を引いていたのだ。
 悲劇の主人公でいて、いずれ救世主がやってきて、救い上げてくれることを願っていた。
 今までの悲しみ苦しみ全てを、慰めて哀れんでくれるのを。
 今になって考えてみれば、きっと方法なら、いくらでもあったはずなのだ。
 ただ、その時の私には、全てを瞳の所為にするしか思いつかなかった。

 私はただ、飢えていた。
 人のぬくもりに。


―――リョウコさんって、あなた?
 発掘場の隅で廃材を集めていると、不意に上から影が差した。
 見あげれば、ぴしりとスーツを着こなした女がかがみこんで、こちらを覗きこんでいる。
 髪は短く、表情は神経質そうだ。女は後ろに、若い男をひとり、従えている。
 はじめは、話し掛けられていることが信じられずに、黙っていた。
 すると、女は、視点を合わせるように隣にしゃがみこんだ。
―――私はホウリョウ・ナツコというの。あなた、不思議な力があるんですってね。
 女は口元だけを緩めていた。まるで営業用の笑いだった。
 しばらく女は一方的に話を続けていた。
 色々と難しい単語が飛び交って、話の半分も、理解は出来なかった。
 あなたの不思議な力を、人のために使おうとは思わない?
 ねえ、あなたが。
 必要なの。


 その言葉だけでもう何もかもが良かった。
 私はただその時、誰かに必要とされたかった。

 受け入れられたわけではなかった。
 キモノを着せられ、この赤い瞳を隠され、むずかしい言葉づかいを覚えさせられた。
 受け入れられたわけではないことは、知っていた。
 ナツコさんがほしかったのは、この力、この器。
 私個人ではなかったことぐらい。
 それでも、道具でも良いから。居場所が―――。

 ただひたすら、飢えていたんだ。
 人のぬくもりに。
 けれど今は―――。



1.

「何でここにいるんだよ!?」
 同時に声を上げた二人は、同時にまた口を噤んだ。
 たっぷりと数秒間黙り込んだあと。
「元はと言えば、お前が川に落ちたりするからいけないんだろ」
 お互いがお互いに銃口を突きつけあったまま固まって、ハルトがぼそりと零す。
「なんだよそれ! あれは別に好きで落ちたわけじゃないじゃないか!」
「一歩後ろが崖だってことぐらい、分かっとけイキモノとして! いくらなんでもあの落ち方はマヌケだろ!」
「そ、それは、お前が鬼気迫る表情で追ってきたからじゃないか!!」
「ほぉ。責任転嫁とはまた恰好悪い逃亡手段を覚えたもんだな、一ヶ月やそこら会わないうちに」
「そっちこそ、性格の悪さに磨きがかかったんじゃないかと思うけど」
 一ヶ月と数週間ぶりに顔を合わせたというのに、これでは感動も何もあったものではない。
 そもそも、お互いがお互いに殺傷能力の高い獲物を向けている時点で何かが間違っているような気もする。

「おい」
 最後のキィを弾き終えて、アースが機械端末から顔を上げた。ハルトの背後で呆然と立ち尽くしているクリスを見遣る。
 しゅっと空気のような音を立てて、閉ざされていた扉が横滑りに開いた。
 その向こうに、下へと続く階段が現れる。
「こいつら、なんなんだ」
 不快感も露に、アースはまるで害虫でも見るような目をして、不毛な諍いを続けているふたりを顎でしゃくった。
 何故突然顔を合わせた二人が口論を始めるのか、そして何故見ず知らずの男が自分に話を振ってくるのか。
 何もかも分からずに、クリスは愕然と立ち尽くす。
「そんなの、私に聞かれたって……」
 分かるわけないじゃない。
 呟きは、発せられる前に途切れた。
 ばらばらと乱れた足音が、こちらに近づいてくる。

 冷静になれ、今自分たちは追われていたのではなかったか。
 駆け抜けてきた道を振り返れば、黒服の仮面集団がようやく角を曲がってなだれ込んできたところだった。
「しつこいんだって言ってんだろ!」
 舌打ちしつつ、叫ぶ。
 さすがに子どもじみた諍いを繰り返している場合ではなくなって、ハルトは、銃口をレイから後方の追っ手に向けた。
 一瞬置いて。
 追っ手の足並みが、急に乱れた。先陣を切る男の体がぐらりと前に傾いで、そのまま前のめりに崩れ落ちた。
 まだ、引き金を引いたわけじゃない。
 どうなってんだよ、とハルトが口の中で呟くうちにも、黒い人波は乱れ、ばらばらと崩れ、床に沈んでゆく。
 貴族たちに雇われたガードマンたちが、例外なく床に沈んで動かなくなるまで、時間はかからなかった。
 累々と積み重なる気絶した黒服たちの群のただなかに、ぽつりとひとつ、人影があった。
 ハルトは、未だ銃口をそちらに向けたままでいる。威嚇するつもりではなく、ただ単に、呆気に取られて下ろすのを忘れていただけだ。
 白いシャツの上に黒のベスト。襟元には黒い蝶ネクタイ。
 会場内に溢れかえっていた、基本的なウエイタールック。
 やわらかそうな焦げ茶の巻き髪を、肩より少し下で遊ばせながら、その人影が、非常階段の前に固まっている一行を見た。
「痴話喧嘩はあとにしないと。気を抜いてると、やられちゃいますよ」
 ハルトは、口を「あ」の形に開いたまま瞠目した。
 会場の通用口で顔を合わせた女だった。先程と違うことは、仮面をしていないこと。それだけ。
 しかし、それは甚大な変化だった。
 男たちを叩き伏せたらしい、そのお世辞にも太いとは言えない腕をほぐしながら、女は器用に足元に転がる体を避け、近づいてきた。
「モエ、さん」
 先に名前を呼んだのはレイのほうだった。
「お久しぶりです。なんだか恰好よくなりましたね」
 かわいらしく首をかしげて、モエはレイに微笑みかけた。
「なんでお前ここに……」
 ようやくピストルを懐にしまいこんで、ハルトが訊いた。
 が、その問いが全て発せられる前に、別の声が割り込んできた。
「モエひとりで片付くし、楽でいいな」
 おっとりと、あまり抑揚のない声だった。
 モエとは違い、少々危なっかしい足取りで気絶体のむれを乗り越えながら、ウエイターがもうひとり近づいてくる。黒目がちの、犬のような青年だった。
「ファン、お前まで……ってことは、あいつもいるわけか?」
 居並んだふたりを交互に眺めてから、ハルトは更に別の人影を探す。このふたりがいるということは、奴がいないはずがない。
「サイジョウさんなら、先に下です」
 モエは、その細い指先で下を指差して、言った。
「下?」
 レイが訊き返す。
「エレベーターはあそこ一基だろ。扉にはロックがかかってたし。それ以外はこの階段しか……」
 途中まで言いかけて、ハルトははたと口を噤む。
 忘れていた。
「サイジョウさんには、ロックはあってないようなものですから。エレベーターから先に下に」
 モエの簡潔な説明に、ハルトはそうだったな、などと納得している。
「ヒイラギ、来てんのか」
 機械端末をしまい込みながら、アースが会話に割って入った。視線は真っ直ぐにモエをとらえている。
 その視線を真っ直ぐに受け止めて、モエは、しっかりと頷いた。

 なんとなく進行している会話に、取り残されているのはレイとクリスだ。
 特にクリスは、ここで顔を合わせたハルトと金髪の青年が口喧嘩を始める理由も、突然現れたウエイタールックのふたり組みの事も、何ひとつとして理解できずにいる。
 頭の上にぽっかりと疑問符をたくさん並べているレイとクリスに、ようやっとハルトが気付いた。
「……話すと、長くなるんだよ」
 面倒くさい、と顔に書いて、ハルトはその一言で済ませる。
 すると、金髪の男女は揃って渋い顔をした。なんだか行動が似ている。
「おい、いつまでそうしてるつもりだ」
 膠着状態を破ったのは、開かれた非常階段の、すぐ手前に立っている男だった。
 まるで見下すかのように、その翠玉色の瞳を細めて、暢気に居並んだ一行を一瞥する。
 くっと顎で階段の下を示す。
「もう始まってんだぜ」


            *


 エレベーターの扉が開くと、その先は倉庫としか呼びようの無い場所だった。
 天井は高く、奥行きもかなりある。昔はここに、たくさんのコンテナなどが並べられてあったのだろう。
 今は、遺跡調査の名残だろうか、木箱などが煩雑に並べられているだけだ。
「こんばんは」
 木箱に背を預けていたらしい人影が、ゆっくりと体を起こした。来訪者に向き直る。
 エレベーターから降りてきたのは、オーソドックスな礼服を纏った、壮年の男だった。
 相対する男は、派手な仮面で顔を完全に覆っていた。極彩色に彩られた面の周囲には黒い羽根が貼り付けられてあった。
「君がバイヤーかね」
 壮年の男が言った。
 極彩色の仮面の男は、僅かに首を傾げてみせる。その動作が肯定の意味らしい。
「HGをお求めですね」
 仮面の奥から、くぐもった声が届いた。
 客人は、口元を僅かに引いて笑みの形を作った。
 その笑みを確認してバイヤーはすっと右手を持ち上げる。
 すると、バイヤーの後ろから、アタッシュケースを持った男が現れた。
 ピエロのような奇妙な笑みをたたえた仮面で顔を覆っている。
 付き人は、バイヤーの足元にアタッシュケースを置き、客人に向けて蓋を開いてみせる。
 中には、袋詰された白い粉がびっしりと詰まっていた。
「……取引の前に、ひとつふたつ、訊きたい事がある」
 客人は、進みかけた取引に水を差す。
 バイヤーは一瞬だけ動きを止める。表情は、奇妙な仮面のせいで読み取れない。
「なんでしょう?」
「君の義兄(あに)は、一体何をするつもりなのか、教えてもらえないか」
 一瞬にして、緊張が走り抜けた。
 極彩色の仮面の奥で、バイヤーが瞠目したのを確かに見とめて、客人は顔から仮面を引き剥がした。
「一応、私の部下に当たるのだが、どうも最近の行動は読めなくてね。少々困っている」
 露になった客人の素顔に、バイヤーは息を飲んだ。
 仮面の奥から、深い青の瞳が現れた。それは、冷徹な色を湛えている。
「アンティクリスト、大将……。西軍大将の貴方が、何故……」
「何、下らない仕事だよ。闇取引の、摘発さ」
 ランドウは、憐れむように双眸を細める。
 色めきたったピエロ面の付き人が、腰のホルスターに手を伸ばす。その隙の無い動きは、素人ではなかった。
 だが。
 その手がピストルを抜くことはなかった。
 ぐらりと体が傾いだかと思えば、そのままぐらりとアタッシュケースの上に倒れこむ。灰色の床に、鮮血がおびただしく散った。
 バイヤーは、何が起こったのか分からずに、事切れた殺し屋の骸を見下ろす。
 急に周囲が冷たくなったことだけは感じた。その空気を、殺気と呼ぶことには、まだ気付かない。
「まだ早い」
 ランドウは、その様を見て一言だけ言う。
「話の途中だ。少し大人しくしていなさい」
 誰ともなしに告げて、バイヤーの方へ向き直った。
「何故そんなに肩入れする。我儘且つ残忍で名の知れた、カートレット家の嫡男、ドイル・カートレット。それほど、妾腹の兄に固執する理由が?」
 名を呼ばれ、バイヤー―――ドイルは仮面を顔から引き剥がして、床に放り出した。
「兄は、被害者だ。出世を妬んだ同僚にこの白い粉を盛られたんだ」
「そのトリップで、神の啓示を受けたと錯覚したのだろう? 選ばれたのだと。そして、皆が皆、このHGを使えば、真の信仰に目覚められるはずだと、錯覚していると言ったところか」
「知っているんじゃないか、全て……」
 苛立たしげにドイルは搾り出した。
「大事な義兄ならば、どうして殺してやらなかった」
 躊躇い無く間合いを詰めて、ランドウは、アタッシュケースの上に転がった男の遺体を足で退ける。
 ケースの蓋を持ち上げて、白い粉を一袋、手に取った。
「天国の扉(ヘヴンズ・ゲート)とは、よく言ったものだな。この快楽の先にあるのは奈落だ。奈落に落ちている事も分からぬうちに引き返せなくなるのだから、言いえて妙な名前なのかも知れん」
 ドイルの足元に無防備にしゃがんで見せて、ランドウはケースの中のドラッグを物色する。
 血の気の引いた顔で、ドイルはそろそろと、懐に収めた獲物に手を伸ばした。無防備に項を晒している男ひとりなど。なんとかなる。

「動かないほうがいい」

 しゃがみこんだままで、ランドウが言った。
 まるで雷に打たれたかのようにふるえて、ドイルはびくりと固まる。
 まるで、後頭部に目でもついているかのようだ。気味が悪い。
「この男のようになりたくないのなら、動かないほうが身のためだ。―――"あまり見境が無い"」
 主語も無く、ランドウは告げた。
 得体の知れない何かが、自分と、この男以外の何かが、この空間の中にいる気配だけは、確かに感じていた。
 その気配を感じる部分だけ、やけに冷たい。

「憐れむなら、殺してやるべきだった。永らえれば永らえるほど、苦しみと飢えは増してゆく。兄のことを思うなら、お前が殺してやるべきだったんだ」
 指先に僅かに付着した血液が、徐々に固まってゆく様を眺めながら、ランドウは続けた。
「まるで飼い殺しじゃないか。狂信者に成り果て、こんな粉がなければ生きられない体になり……。それとも、これが君の新しい趣味かね。昔はずいぶんと、女を"飼っていた"そうだが」
「黙れ! 貴様に何が……!」
 一瞬で沸点を超えた怒りに、ドイルは絶叫した。
 怒りが、恐怖を超え、体の金縛りを解いた。
 反射的に懐に手を差しこみ、ピストルを引きずり出そうとする。

 どっ、と激しい衝撃を感じたのは次の瞬間だった。
 後ろから。
 腹部のあたりがかぁっと、まるで焼けたように熱くなり、少し遅れて壮絶な痛みがふくれあがった。
 何かが込み上げて、思わず吐き出すと、口の中に鉄の強い味が広がった。
 血液を吐き出すと同時に、ドイルは絶叫してその場に崩れ落ちた。

「桔梗(キキョウ)」
 雨の雫のように降り注いできた鮮血に、ランドウは溜息を漏らす。嗜めるように、呼んだ。
「タイミングというものを知るべきだな」
 白い粉をアタッシュケースに丁寧におさめてから、ランドウは立ち上がった。
 すぐ傍に立っている、十六、七ほどの少女と目線を合わせる。
 桔梗と呼ばれた少女は、今まさにドイルの体からずるりと獲物を抜いたところだった。
 特殊な剣だった。
 地方の言葉で、「カタナ」と呼ばれる代物。
 透けるほどに白い肌に、腰に届くほどの艶やかな黒髪を持っていた。
 瞳は濃い紫の色をしている。正規軍の軍服を纏っていた。
「あれ以外にタイミングなどない。あと一瞬でも遅ければ、撃たれていた。あの至近距離では、即死する」
 カタナを伝う血を目線で追いながら、桔梗は言う。
「若いことだ。血気盛んで何より」
 ランドウの言葉になど耳も貸さず、桔梗はカタナを鞘に収めようとした。
 が、ひくりとその手を止める。
 エレベーターが下降してきて、止まった。
 がこん、とちいさな衝撃が聞こえ、扉が開く。
 正装をした、黒髪の男がひとり、エレベーターから降りてくる。仮面はしていなかった。
 幾分か眠そうな瞳でぐるりと、その空間を見回す。
 濃密な血の匂いに、僅かに眉をひそめた。
「少し遅かったですかね」
 正装しているというのに、だらしなくポケットに手を突っ込んだまま、乱入者はのほほんと呟いた。
 まるでお茶会に遅れてきた招待客のような、気安さで。

 たっ、と少女の小柄な影が地面を蹴った。
 一瞬で間合いを詰め、乱入者の、晒された咽喉下にカタナを突きつけた。
 うわぁ、と少々間延びした悲鳴を上げて、乱入者は両手を挙げる。
 眼前にまで迫った、息も詰まりそうな絶対零度の殺気に、笑ってみせる。その男は、濃紺の瞳をしていた。
「ずいぶんと刺激的なお出迎えですね。お知り合いですか?」
 相変らず緊張感のない声で、乱入者はランドウに話し掛ける。
「何、拾ったのさ」
 小動物に対する物言いのように、ランドウは言う。
 すると、乱入者は皮肉めいた笑みを口元に刻んだ。「母みたいに?」
「……桔梗」
 問いには答えず、ランドウは少女を呼ぶ。
 穏やかながら有無を言わせぬその響きに、少女は舌打ちをしてからカタナをおさめた。

「扉とエレベーター。どちらにもロックがかけてあったはずだが? ヒイラギ」
 一息置いて、ランドウが口を開く。
 教師が、生徒の悪戯を咎めるような口ぶりだった。
 サイジョウ・ヒイラギは、微笑んだ。
 しかしそれは、穏やかさやあたたかさとは無縁の、虚無の貌(かお)だった。
「いやだなぁ、忘れたんですか? あなたのせいなんですよ」
 虚無の微笑みはそのままに、あはは、と軽く声を上げてみせる。
「あなたが僕に、植え付けてくれた能力のお陰で、機械とはとっても仲良しなんです。フリーパスみたいなものなんですよ、お父さん」
 サイジョウは、刻み込むようにしっかりと目の前の男を、父と呼んだ。



2.

 何か、言わなければならない。
 そう思って焦れば焦るほど、思考がまとまらなくなって口が動かなくなる。
 刻々と時間は流れる。
 そんな悪循環に飲み込まれていた。

「この間の」
 祭壇と床の、僅かな段差を降りて、金色の髪を持つ大司教は呟いた。ちいさな声も、深夜の礼拝堂には良く響いた。
「あ……こんばん、は」
 上手い言葉が見つからず、ついつい挨拶をしてしまった。
 リョウコはまだ、入り口のあたりで立ち止まったままでいる。
 どうしても礼拝堂へ一歩踏み込めずにいたのだった。

「中に入ればいい。用があって来たのではないのか?」
 厳かな声に促され、リョウコは入り口から一歩、踏み込んだ。
 たかが一歩。踏み込んだだけだというのに。
 しんと空気が変わったような気がした。
 冷たい。そう感じるのは錯覚に違いない。けれど、瞭かに寒かった。
 冬の夜のように、空気が澄んでいた。
 祭壇へ続く一本の道。その道を形作る長椅子の両横には、、ひとつひとつ燭台が立てられている。ほのかな橙の炎が、道を作っていた。
 四方には暗い闇がわだかまっているのに、おどろおどろしくはなかった。その闇まで、厳かに見える。
 ほのかに揺れる光に導かれるように、その道の先に立つ聖職者に近づいた。
 天井は遥かに遠い。足音ひとつがとても響く。
「この間は、どうもありがとうございました」
 ラジエルと、人ふたりぶんほどの中途半端な距離を置いて向かい合い、深々と頭を下げた。
「ちゃんと戻れたようだね」
 穏やかな声が、垂れた頭に注いで、リョウコは顔をあげる。頷いた。
「こんな時間に、ひとりで?」
「教会を、見たくなって……それで」
 言い訳をした。
 眠れなかったから散歩をしていただけだとは言えなかった。
 貴方がいると聞いたから、とは。
 どうして、ここへ足が向いたのか。
 会いたいと思ったのか、分からなかった。
 体が勝手に動いていた。そんな自分に、誰よりもリョウコ自身が戸惑っていた。
 すると、ラジエルは少しだけ微笑する。
「何かわだかまりがあるとき、人はよく、大きなものや荘厳なもの、美しいものを見たくなるものだ。君にも、何かわだかまりが?」
 橙の、ぬくもりのある輝きに照らし出されているのは、白磁の、この世のものとは思えない美貌だ。
 澄んだ青い瞳に何もかも見透かされ、透視されているような気がして、ぞくりとした。
 どこか、何もかもを超越した高みから見下ろされているような。
(一体、どこにいるのだろう)
 唐突にぽろりと、どこからともなくそんな疑問が落ちてきて、リョウコは自分で驚く。
 何故そんなことを思ったのだろう。
 けれど、溢れ出した疑問は確実に根付いた。

 一体彼は、どこにいるのだろう?
 どこから私たちを。
 どんなふうに見つめているのだろうか。
 どうしてそんなふうに、この世の一切の痛みも苦しみもかなしみも知ったような目を。
 その目を見るたびに何故か、あまりにもリアルに伝わってくる大きな虚無が、絶望があって。不意に泣きそうになる。

「わがままなんです」
 そしていつも、心の留め金が外れて、中に詰まったものが垂れ流しになってしまう自分に、怯える。それでも止まらない。
「私、わがままなんです」
 繰り返した。
「ずっと寂しかった。労働とか契約とか、何もなしで、無条件に受け入れてくれる場所が、ずっとずっと欲しかったんです」

―――サツキさんが死んだらあの子。
 どうするの。

 橙の炎が、視界の中でぼんやりぼやけた。
「誰かに傍にいて欲しくて。理由なんて何でも良かった」
 あなたの力が必要なの。
 そう、求められるのがたとえ、この体に宿った力だけでも。
 そこにいていい理由にはなるでしょう?
 それで、満足していた。
 いいや、満足したふりをしていた。ただの妥協。
―――けれど、今。

「今、傍にいてもいいよって、言ってくれる人たちがいて。頑張れって、励ましてくれる人がいて。これが、私の望むことだったはずなのに……」
 口元を覆って、うつむいた。
 この静寂の中に、嗚咽になりかけた吐息はやけに響く。
「どうして……」
 口元を押さえた掌に、かかる吐息が、熱い。
「どうして今更、理由なんて欲しくなるんですか……!?」
 じわりと、目が熱くなった。

 わがままだ。
 汚い。

「居場所が欲しかっただけなのに、今は違う。理由なんてどうでも良かったはずなのに、違う。ただそこにいるだけじゃ……」
 足りない、なんて。
 いても良いよと、許されているだけじゃ。

 他の誰にも代用できない。
 本当の。かわりなんてない。
 自分だけの。
 居場所。
 そして、周囲の人々に必要とされる。
 理由。

―――何もしなくたって、そこにいても良いよ。だって、家族ってそういうものじゃないの?

 でもね、ファンさん。
 私はとてもそんなふうに割り切れない。
 私には、あなたたちのような、強い絆が無いから。

「わがまま、なんです。誰かに、"私を"必要として貰いたいなんて……」
「まずは君が、求めることから全てははじまる」
「え……?」
 注いだ声に顔を上げると、こちらを見下ろす白磁の美貌と視線が絡んだ。
 頬を、涙が伝って落ちる。
「何かを、本当に必要だと思ったとき、その何かを手に入れるため、失わないために、人はあえいでもがく。必死にだ。そうなったら、悩んでなどいられないよ。自然に求めるんだ。どうしようもない」
 どうしようもない、と。大司教は困ったように笑った。
 そのとき、リョウコは初めて、彼の顔に表情を見た気がした。
 生きた人の、確かな温度を。
「求められる前に、こちらが求めなければ、きっと何もはじまらないんだ。本当に、自分に必要な何かを」

―――ひとと水みたいだなって思うんだ。

 いつか。
 並んで空を眺めていたときに、ファンが言っていた。
 そこにあることが当たり前だと思うんだけど、無くなったら生きていけない。
 それほどに。体を形作る栄養素のように。必要不可欠だと。
 体が勝手に、求めてしまうのだと。そんな。
 唯一無二の。なにか。

「誰しも、願うことだよ」
 潤んだ瞳で、瞬きもせずに見あげてくる少女に、ラジエルは言う。
「誰かに、確かに必要とされたいと願うことは、どうしようもないことだ」
 すとんと、声が胸に落ちてきて。

「君だけの、わがままではないよ」

 安堵した。とても。
 何故かとてもほっとして、安心して、気付かぬうちに涙が溢れた。
 嗚咽もなく、込み上げる激情もなく、ただ湧き水のように溢れた。
「あなたもですか」
 気がつけば、訊いていた。
 訊かなければならないような気がした。わけもなく。
「あなたも何かを、求めているんですか」
 狂おしく、まるで飢(かつ)えるように。
 何かを。求めたり求められたいと願ったり。
 あなたでも?
 ラジエルは僅かに瞠目して、そのあとさびしそうに苦笑した。
「そうだね、私も求めたことがある。随分と、昔―――」
 呟いて、ラジエルはその澄んだ青玉のような双眸を、ゆっくりと閉ざした。


            *


「愚かな子だ」
 子どもの悪戯に困った親の顔で、ランドウが呟いた。
「罠と、すぐに知れただろうに」
 ええ、とサイジョウは簡単に頷いた。
「あなたの息子ですから、仕方ないんです。あなたの張った罠と知ったら、見過ごせないんです」
「因果だな。可哀相に」
「可哀相でしょう? そのうちの原因の大部分は、あなたなんです」
 傍らの、小柄な少女など視界に入っていないかのように、サイジョウは父親を見据える。僅かな笑みを浮かべる口元とは裏腹に、瞳は鋭い。
「どのぐらい網を遠くまで投げたんですか? 随分と、僕と同じような愚かな鼠が引っかかってますよ」
 襟元の、ぴしりとしまった蝶ネクタイに右手の中指を差し込んで、ずるりと引き抜きながら、呟く。
「それは驚いたな。君だけではないのか。皆、等しく愚かで命知らずで、血気盛んなことだ」
 ランドウは苦笑する。
 その表情でさえ、演技なのだと、息子は思った。
 全て計算されている。ひとつも無駄な罠など張らない。
 皆、導かれるままに足元の穴に落ちたのだ。等しく。
「死にに来たのかね?」
「とんでもない。死ぬのは怖いですよ」
「何故カルチェ・ラタンに来た?」
「けじめをつけに」
 穏やかに微笑んで、サイジョウは言った。
「HGが生まれたわけを、あなたならご存知でしょう。オズメント博士は、例の薬物についてのデータを一切漏らさなかった。天才の誉れ高い彼の、厳重なセキュリティは僕は愚か、神童と呼ばれたあのアース・フィラメントにさえ突破することは出来なかった。もちろん今も出来ていないでしょう」
 ランドウは黙っている。
「だから、そのデータを得るために、僕は自分でそれを作ってみようと試みたんですよ。まぁ、出来上がったのは副作用の強すぎる、ただのドラッグでしたけど。そのデータを、不注意で盗まれたわけです」
「ヘヴンズ・ゲートとは、君がつけた名前かね?」
「まさか。あのドラッグは地獄の扉しか見えませんよ。―――HGがどこで作られているか、知っていますか」
 相対する父は、何も言わない。
「あれはただのドラッグですが、それなりに設備の整ったところでなければそのただのドラッグすら作れませんよ。そして、その設備を作り、運営し続けるとどれほどドラッグを捌いたって利益は望めません。それなら、元々ある設備を利用するのが賢い。僕からデータを盗んだ男は始末しましたけど、データの回収は不可能でした。データを盗んだ男の意思を継いで、なにくわの顔でこの教皇のお膝元で、背徳のドラッグを生成し続けている人間がいる」
 ランドウはさして驚いた顔も見せない。その全てが、元々了承済みの事項だったのだろう。
「場所が分かっていながら僕が今まで手を出さなかった理由は、その設備を破壊することによる被害が甚大だからです。ですが、そうも言ってられなくなりました」
 これだけ世界にHGが蔓延し始めたからには。
 四の五の言っている場合ではなくなった。
 例えもう二度と、戻らないと誓った場所だろうと。
「潰すつもりか」
 そこではじめて、ランドウは眉をひそめた。
 父親の表情を曇らせたことに、僅かながらサイジョウは喜びを覚える。
「ぶっ潰します」
 口の端を引き上げて、サイジョウは笑った。

 どんっ、と鈍い衝撃音が響き、足元がぐらりと揺れたのはその瞬間だった。
 がしゃん、と壁の高いところにある通風孔の鉄格子を蹴破るようにして、黒い人影がいくつも倉庫に降ってきた。
 警備員ではない。黒を基調とした服の左胸元に、金の十字の刺繍がある。
「もうそんな時間か」
 蹴破られた通風孔の方を見上げ、ランドウがぽつりと漏らした。
「部下までお連れですか」
 四五人ほどの兵が自分の周りを囲むのを見回しながら、平然とサイジョウは呟く。
 ランドウは、周囲に自軍の部下を数名従わせて、黙っている。
 銃口が一様に、サイジョウに狙いを定めた。
 円形に軍服に取り囲まれ、サイジョウはゆっくりと両手を挙げた。口元に笑みを浮かべたまま。



3.


「もうはじまってんだぜ。くだらねぇ言い合いなら、後にしろよ」
 蔑む視線で一行を順に舐め、アースは吐き捨てる。
 不遜なその態度に、ハルトは盛大に眉をひそめる。感情を逆なでする響きを感じた。
「そりゃそうだろうけどよ、あんたにそんなふうに言われる筋合いはねぇな。大体おたく何者? それにこの頑固者、どこで拾ったのよ?」
 右の親指で傍らのレイを差し、ハルトは歯に衣着せずに思ったそのままを口にする。
 隣で、「頑固者ってなんだよ」と批難が上がるが、それは聞こえないふりをする。
「川」
 簡潔に答え、アースは薄く笑ってみせる。
 ハルトは更に、眉間の皺を深めた。基本的に、ソリが合わない相手だなと直感する。
「お前も、何でこんなのに拾われてんだ、馬鹿っ!」
 苛つきの矛先は、レイに向く。
「八つ当たりにむちゃくちゃ言うなよ!」
 レイは反射的に、幼なじみの暴言に噛み付いた。
「アース・フィラメント?」
 子どものような言い争いを押しのけて、クリスが前に出た。
「研究所の主任研究員、アース・フィラメントね」
「へぇ」
 心底感心したふうに、アースは僅かに目を見張る。
 小柄な女を興味深そうに見下ろした。
「……プラント・コレクター? あんたが?」
 主任研究員の名前に過剰反応したのはハルトだった。無遠慮に指を指す。
「他人が勝手にそう呼んでるだけだろ。自称してるわけじゃない」
 植物蒐集者(プラント・コレクター)。
 それは、現教会直属研究所主任研究員、アース・フィラメントの発掘業界での別称だ。
 その名のとおり、化石化したものから現存するものまで、幅広く植物を蒐集している。
 本業である研究の分野は生命工学中心。それなのに何故そこまで植物に固執するのかは、未だに知られていない。
 発掘業界に身を置くハルトにとっては、著名人のひとりだ。
 といって、彼に対する印象が変わったというわけでもないが。
「主任研究員自らこんなところに?」
「大したことじゃない。野暮用さ。―――もういいだろ、俺は先に行く」
 完全に聞き込みの体勢に入ったクリスをさらりとかわし、アースは階段に足をおろした。
 次の瞬間、鈍い衝突音と共に、床が横に揺れた。
 あまり間を置かずに収まった揺れのあとは、ざわめき。
 人の、廊下を走る靴音がいくつも乱れながら近づいてくる。
 モエが身を低くして、構えた。
 やがて近づく足音の先陣が角を折れて現れたとき、ハルトとレイは同時に息を呑んだ。
 皆同じ服を纏っていたが、雇われたガードマンではなかった。
 黒地の上下に、左胸に金の十字の刺繍がある。
「正規軍……!?」
 思わずレイがうめいた。
 どうしてここに、その軍服を纏った人々が現れるのか。
「畜生、やってくれやがったぜ、あの野郎!」
 口汚く吐き捨てて、ハルトは懐から獲物を抜き出す。背後にクリスを庇った。
「あの野郎って?」
 すっかり臨戦体勢に入る周囲に流されるように金のピストルを構えながら、レイが訊いた。
「お前もバベルで一回会っただろ、正規軍の西の大将だよ。会場に来てた。あいつが絡んでて、ろくなことになったためしがねぇんだ!」
「西軍の大将?」
 鸚鵡返しに訊き返したのは、レイではなかった。
 弾かれたように振り返ったモエの表情に、一瞬だけ怯えのようなものが走ったのを、ハルトは見た。
「モエ?」
 その表情の理由を問い質すよりも先に、モエは動いていた。
 軽々と床を蹴って、近づいてくる兵の只中に着地する。一瞬の怯みを利用して、瞬く間に正規軍の兵たちを叩き伏せた。
 再び累々と気絶体の山を築くと、モエはひらりと踵を返して戻ってきた。
 呆気に取られているハルトとレイを押しのけるようにして、階段へ向かう。そこには、いつものほわほわとした雰囲気は欠片もなかった。
 何かが鋭く尖っている。
「モエさん、どうしたんですか!?」
 その尋常でない様子に、レイが大きな声をかける。
「サイジョウさんは平気だと思ってましたけど、"あのひと"がいるなら話は別です!」
 階段の手前で一度振り返って、普段は考えられないような厳しい声でモエが言った。
「あのひとがいると、サイジョウさん、見境がなくなってしまうから……!」
 それだけを言い残すと、もはや一秒の猶予もないとばかりに、モエは階段に駆け込んだ。
「俺も、先に行かせて貰いますね」
 再び後ろから押しのけられて、ハルトは少し前によろめく。
 普段はおっとりしているはずの声にもどこか張りがある。いつもはどこか緩やかな動きも、今は切れがあった。
「ファン……」
 振り返らずに、階段を降りてゆくファンの足音が、徐々に遠ざかっていった。
 張り詰めている。何かが。

 残った三人を一瞥してから、無言のままにアースも階下へ足を進める。
 取り残されたハルトとレイは、どちらともなしに顔を見合わせた。
「どうする? 正規軍だぜ? お尋ね者はお尋ね者らしく、逃げるか?」
 伺うように、試すように、僅かに笑ってハルトが訊いた。
 こんな状況で何故笑えるのか、理解に苦しみながらレイは溜息を漏らした。
「ここまで来て? 目の前に入り口があって? 本気で言っているとは思えないけど」
 最も、逃げ出す人間の顔なんて、していないじゃないか。
「上等! ちょっとは根性据わったじゃねぇか」
 ハルトは悪戯が成功した子どものようににんまりと笑った。そして、傍のクリスに向き直る。
「エークに連絡取って、お前は先に戻れ。会場はおそらく正規軍が封鎖する。正式な調査でもないのに調査官が単身潜入してるのは立場が悪いだろ。入ってきた通風孔ならここからすぐだし、ならまだ間に合う」
「ちょ、ちょっと待って……!」
「悪いが今度は待ってやれない。何か分かったことがあったら俺が本部に報告に行く。これ以上の譲歩は出来ない。―――意地張るなよ。正直ヤバいだろ? 正規軍に捕縛されてみろ、要らない腹まで探られるのがオチだ」
「でも、あんたたちは……」
「俺たち? 俺たちはいいんだよ、元々お尋ね者だしな。今更だよ今更」
「まぁ、今更は今更だね」
 どうしてこうなったのかは分からないけど、とレイは軽く嘆息した。
 クリスは、しばらく瞠目して目の前のふたりを交互に眺めていた。が、やがて。
「……そうね、正直ちょっとヤバいし、自分の身を守れる自信もないわ。足手まといになるのは嫌だし、言う通りにするわ。ここで取引が行われていたのは事実みたいだし、収穫が零でもない。引き際ね。でも、いい?」
 ぐっとハルトの胸に人差し指を突きつけて、詰め寄る。
「何か分かったら、ちゃんと報告してよ」
 念を押して、クリスは踵を返した。
 迷いのない足取りで、ここからすぐ近くにある通風孔へと歩き出す。
「送ってってやろうか? ひとりじゃのぼれないんじゃねぇの?」
 その背中に敢えてハルトが軽口を叩く。
 すると、クリスは肩越しに半ば振り返って、不敵な笑みを浮かべて見せた。
「誰にもの言ってるの? これでも一応、警備省本部所属の調査官よ。ここからひとりで脱出ぐらい、わけないわ。敵の陣中に飛び込んでいくような馬鹿な人たちと違って、危険度も低いでしょうしね」
 言い切って、クリスは駆け出した。積み重なるガードマンと一般兵の体を乗り越えて、すぐに角を曲がって姿を消す。
「大丈夫なの、彼女?」
 クリスの背中が消えた方向を眺めながら、レイが訊いた。
「逃げるだけなら平気だろ。あれでもエリート調査官だ、何とかするさ。俺たちが侵入した通風孔はすぐ傍だし。地下についてくるっていうなら、話は別だったけどな」
 手にしたピストルのシリンダーを開き、残弾を確認しながら、ハルトは軽く答える。
「さてと。覚悟はいいか?」
 がしゃりと音を立ててシリンダーを元に戻す。
 ふたたび、伺うようにレイを見た。
「川に流されてからどたばた続きなんだ。もう今更覚悟も何もないよ」
 根性が据わったというよりかは、環境に適応することや諦めることが上手くなっただけのような気もする。
「ま、それはこっちも同じだけどよ、お互いの報告は、後でだな」
「そうだね」
 レイも、懐の中の、二丁の拳銃の感触を確かめる。

 お互い正装という慣れない恰好で、思いもかけない場所で再会したものの、驚くほど違和感はなかった。
 決して前と同じではない。けれど、その変化もなにやらくすぐったいようで心地いい。
 不変の生きものなど、どこにもいない。

 はじまりはカルチェ・ラタンだった。
 数年ぶりに再会して、神の船ガイアズメールの探索をはじめたのは。
 再びここで道が交わったのは、偶然だったのか?
 それとも―――。


            *


「もう休みなさい」
 夜更かしの過ぎる子どもを諭す声だった。
 慈悲深く、穏やかにすら聞こえる。
 その声を合図に、四方を取り巻く銃口が、しっかりと生命に狙いを定めた。
 額、後頭部、左胸、脚。訓練を受けた銃口が、確実に人間としての機能を奪おうとする。
 両手を挙げた降伏体勢のまま、サイジョウはふっと笑みを浮かべた。
「あなたは、手を下してもくれないんですか」
 何かをねだる、そんな顔をした。
「あなたはいつもそうだ。一思いに殺したりしない。傷つけるだけ傷つけてそのまま投げ出すんだ。人間の壊れてゆく過程は、そんなに面白いんですか?」
「私は私なりに、"マコト"を愛していたよ」
 簡単に、ランドウは言う。
 無の貌をして、サイジョウはしばらくまばたきを忘れた。
「……それは」
 自失からなんとか立ち上がり、サイジョウは首を重たそうにもたげた。挙げたままだった右手を懐に差し込む。
「そんなことは、彼岸で母に直接、言ってやってくださいよ」
 自分ではあまり持ちなれないピストルを引きずり出して、銃口を父に向けた。
 回りを囲む数名と、ランドウの傍らに立つ兵士たちが一斉に銃を構え、小柄な少女がカタナの柄に手をかけた。

―――柊。ヒイラギ。あなたの名前はお父さんが……。

 かわいそうに。
 そんな些細なもらいものを大事に慈しむしかなかった、それ以外縋るもののない女(ひと)だった。
 そんな女の哀れな末路も知らずに、愛していたなどと。

 血を流させたい。
 目の前の、決して揺らがぬ男に、血が流れているのかどうか。
 本当に生きていて、死ぬものなのか。確かめたい。
 殺傷能力の高い武器で確実に左胸を狙いながら、思った。
 このままでは、一発を父にくれてやったところで、四方八方から蜂の巣にされるのは目に見えている。
 それでもいいか、と。何故か思った。
 怖くはない。
 あの男がその体から赤い血を吹くのなら、それをこの目で見れるのだとしたら、一斉射撃に死刑囚のように無様に倒れるのも、悪くはない。
 笑っている自分に、遅れて気がついた。


 どん、と爆発音が上がったのはその時だった。
 視界の右端で、壁の一部が爆風に吹っ飛ばされるのを、サイジョウは見た。
 そこには、非常階段に通じる通用口があったのではなかったか。
 濛々と上がる煙の中から、小さく鋭いきらめきが、空を切った。
 かすかなうめき声を上げて、サイジョウを囲んでいた兵の一部が、膝から床に崩れ落ちる。
 その背中や脚に、小型のナイフが刺さっていた。
 爆煙にまぎれて、飛び込んできた黒い影が、ふたつ。
 ひとつはサイジョウの方へ、もうひとつはランドウの方へ、二手に別れた。

 小柄な女が、サイジョウを取り巻く兵士たちにナイフを投げる。
 慌ててそれを避ける一人の懐に飛び込んで、腹部への一発で叩き伏せた。振り返り様、しなやかに脚を横に薙ぐ。脇腹に入ったその脚で、軍服姿の男は横に吹っ飛ばされた。
 床に片手をついて、臨戦態勢の猫のように構えると、地を蹴って高く跳んだ。女がいたあたりを弾丸が空しく突き抜ける。
 発砲した男の背後に着地し、手刀で項をしたたかに打ち据える。
 まるで舞うように兵士を三人叩き伏せた女は、サイジョウに駆け寄ると、その背に自分の背中をぶつけた。
「サイジョウさん、私」
 まだ数名残った兵士から視線を外さずに、モエは張り詰めた声で言う。
「私、怒ってますよ」
 背中あわせになったまま、サイジョウは何も言えずに黙る。
「あのひとがいるなんて一言も、言ってくれなかったじゃないですか」
 モエの声がすこし上擦っているのを聞き取って、サイジョウはうん、と頷いた。
 そしてようやく。
 小さな声で「ごめん」と謝った。



 けたたましい炸裂音と共に、眩しい光が足元から膨張して、爆発した。
「うわ……! 閃光弾か……!」
 上官を庇うように並んでいた兵士たちは、突然爆発した光にきつく目を瞑る。目蓋の裏に残像が強く灼きついた。
 ゴーグルを装着した青年が、視界の効かない兵士を手にした銃身で殴りつけて昏倒させてゆく。
 瞬く間に正規軍の一般兵は地に臥した。
 一般兵を叩き伏せたファンは、右側から突如として膨れ上がった殺気に、反射的に後ろへ跳ぶ。
 ざっと白銀の刃が光の線を引くように、真横にひらめいた。
 閃光弾の光を防ぐためのゴーグルを、ずるりと目から首元まで引き摺り下ろし、今度は勢いをつけてしゃがみこむ。頭のあったあたりを刃が通り過ぎた。
(カタナ使い……)
 次々と間髪置かずに繰り出される剣舞のような優美な攻撃を避けつつ、ファンは対峙する相手を見た。
 女だった。いや、少女だった。おそらくは自分よりいくつも年下の。
(表情が"無い")
 少し不揃いで、動くたびに派手に翻る黒髪の、小柄な少女。
 その顔には、表情が無かった。
 いつも無表情だと言われるファンでさえ、そう思う。
 零(ぜろ)。空(くう)。

 咄嗟に捻った顔の、左の頬を鋭い痛みが走り抜けた。少し遅れて、ぱっと散る鮮血。
 避けきれずに、カタナの切っ先が、頬をかすった。
 手練(てだれ)だ。
 近づけない。
 少女がカタナを振るうたびに空気を切る音が耳元で鳴る。
 後ろへ飛びのいて、唐突にファンは、自分に注がれている視線に気付いた。
 軍服を纏った壮年の男だ。正面から見据えられていた。濃紺の瞳は、ファンの"拾い主"と同じもの。
(ランドウ・アンティクリスト……)
 敵の名前。
 その男が、こちらを見ていた。
 口が動く。
 その口唇の形を読んで、ファンの動きが止まる。
 一瞬、感覚が遠退いた。
「馬鹿野郎っ! よそ見してる場合か!!」
 その感覚を引きずり戻したのは、その罵声と風を斬る刃の音。
 きぃん、と金属同士がぶつかり合う音が、すぐ傍で聞こえた。
 ちっ、と少女の口唇から舌打ちが零れる。
「ぼーっとしてんなよ!」
 自分に向かって振り下ろされたカタナの刃を、受け止めたものがある。
 黒い鉤爪だった。
 桔梗とファンの間に割って入ったのは、黒い礼服に、右手から鉤爪を生やした男だった。
「ハルト、さん……」
 ハルトがカタナを下から撥ね退けると、今度は桔梗の方がふたりと間合いを取った。
「どうした? お前変だぞ?」
 彼は元々おっとりとしていてマイペースだが、今日は何かおかしい。
 動揺している?
「い、え。なんでもないんです、大丈夫です」
 結果的にハルトの背に庇われている形になっていたファンは、慌てて体勢を立て直すと、頬を伝う鮮血を拭った。
 正面に対峙する、凍えるのほどの殺気を纏った少女の肩越し。
 値踏みするようにこちらを見る男の濃紺の瞳と、視線を合わせる。
(―――なところに)
 男の口唇は、先ほど確かに、そう動いた。
 ざらりと意識の表層を何かが唐突に逆撫でしていったような気がする。

 ランドウは、後ろから桔梗に歩み寄ると、その耳元で何かを囁いた。途端、桔梗は不服そうにその顔を歪めて見せたが、特に反論はしない。
「ロウエンの出なのか?」
 再びカタナを構える桔梗に、声をかけたのはハルトだった。その赤の瞳で少女を真っ直ぐに見据えたまま。
「カタナを作れるカタナ鍛冶がいるのも、カタナを使う技術を修得できるのも、基本的にはロウエンだけだ。違うか?」
 楼炎(ロウエン)。
 うっすらと聞き覚えのある固有名詞から、ファンは記憶を辿った。
 脳裏に描いた地図が急激に拡大して、荒涼とした、禿山のビジョンを引きずり出してくる。
 カルチェ・ラタンから最も遠い、荒れ果てた山の中にあるといわれる街の名前だ。
 独自の文化を多数持っていて、カタナもそのひとつ。伝統的に伝わる暗殺術を守り続ける一族がいると言われている。
 また、カルチェ・ラタンから一番遠く離れているせいで、スラムが多く治安も良くない、とも。
「だったら、何だ」
 初めて少女の声を聞いた。
 まだ幼さの残る、けれども抑揚のない、混沌とした声音だ。バランスが悪い。
「いーや、別に何でも。ただ、ロウエンの出にしちゃ、動きが鈍いと思ってよ。純粋なロウエン生まれの、暗殺秘術を会得した奴が、まさかこのぐらいって訳もないだろうし」
 ぴりり、と空気が更に張り詰めるのを肌で感じる。
 土壇場での、自分を劣勢に追い込みかねないハルトの挑発はいつものことだが、それに明らかに少女が乗ってくるとは思わなかった。
 何かの傷口に、ふれた。

 視界の中で、ふっと突然少女の姿が消えた。
 しかしそれは、速度を目が追うことが出来なかっただけだ。
 一瞬で間合いを詰め、桔梗はハルトの懐へ踏み込んでくる。横に凪いだカタナの一閃を、ハルトは紙一重で後ろに跳んで避けた。礼服の一部が、切っ先に巻き込まれて、ぴっと宙に舞う。
 間をおかず、更に桔梗はカタナを振るった。

 援護を。
 自分の体のいたるところに仕込んである薬品の種類を確認しながら、ファンは思う。
 桔梗は速い。ハルトはああやって挑発して見せたものの、余裕があるわけでは決してない。
 数々の爆薬の在り処に手で触れながら、それでもファンはまだ動けずにいた。
 動揺している。
 先程見た光景が何度も、脳裏で繰り返し再生されている。
 壮年の、礼服の男の口元が、刻んだ言葉のかたち。

―――まさか、こんなところに君が。



4.

 周囲の雑魚をあらかた地に伏したところで、モエは近づいてくる人影に気がついた。
 殺気を十二分に孕ませて、気配の方向に振り返り様蹴りを繰り出しかける。が、金の煌きに、動きが止まった。
「レイ、さん……」
 反射的に降伏体勢で両手を挙げて固まっている相手の名を、モエは呼んだ。
「出来れば蹴りは、遠慮したいんだけど……」
 少々怯えたように、強張った声でレイが言った。
 あ、ごめんなさい、と咄嗟に謝って、モエは気配から殺気を抜いた。
 見知った気配を判断できないほど、自分が殺気立っていたことに、モエは自分で驚く。
 周囲に転がった人影が動かないことを判断してから、レイはサイジョウに向き直った。
「ひさしぶりだね」
 口を切ったのはサイジョウが先だった。
「ゴルゴダでも君には会ってないから、通信画面での会話を除いたら、バベル以来か」
「はい」
 全ての内容を肯定するように、レイは一度頷いた。
「これからどうするんですか」
 少し離れたところから聞こえる剣戟の音を気にしながら、レイは訊いた。
「分も随分と悪いし、逃げるよ。大体のことは把握できたし」
 簡単に、サイジョウが言った。
「逃げるって言っても……」
 鈍い鉛色の天井を見上げるようにして、レイはその上を思い描く。
「封鎖されているんじゃないですか? 正規軍の兵士がうじゃうじゃといるとしたら、難しいですよ」
 さすがに、訓練された兵士を複数相手にするのは、荷が重い。
「でも、ひとつところに密集して配置されているわけじゃないだろうし、応援を呼べない形にしてしまえば、各個撃破で何とかなるよ」
 レイの疑問に抽象的に応えながら、サイジョウはぐるりと首をめぐらして何かを探しているように見えた。
 やがて、「そうだそうだ」と独白して、背にしたエレベーターの方へとすたすた歩いてゆく。
「?」
 疑問符を頭の上に浮かべたまま、レイはその背中を追った。
 サイジョウは、エレベーターの右横にあるパネルを上に開いて、テンキーのように数字の並んだボタンと、その下にあるカードの差込口を露出させていた。
「5分後」
 背後にレイの気配を感じ取って、サイジョウは肩越しに振り返る。ゆっくりと眼鏡を抜き取ると、濃紺の裸眼を晒した。
 眼鏡というフィルターを失ったその赤裸々な双眸は、冷酷な色をしていると、レイはいつも思う。
「5分後に、この遺跡の正規の電源を全部落とす。それと同時に、ここからの脱出経路以外の道は、隔壁で封鎖する。それで随分と、相手にする兵士の数は減るはずだ。ただし、暗闇だから気をつけて」
 まるで、遊園地のアトラクションの説明だ。
 疑似体験の、ゲームを始める感覚に似ている。
 撃たれると負けだから。気をつけて。

「ただ逃げるだけなら、そんなに難しくない。己の身は己で守ればいいだけの話だし。ただし、僕はこれから君に、無理難題を押し付けたいと思うんだけど、どうする」
 並んだボタンの上に右の掌を乗せたまま、サイジョウは試す視線でレイを刺した。
「難題……?」
 どうする、と一応尋ねられたところで、選択権はないのだろうが。一応聞き返す。
「人命救助を頼みたいんだ」


            *


 空を切る音と、金属のぶつかり合う音を耳に流し込みながら、ランドウは傍にある木箱に背を預けた。
 目を少しばかり細めて、ある程度はなれた場所で繰り返される剣戟をぼんやりと眺める。
 その視界に唐突に、目が覚めるような白が混ざって、ランドウはそちらに視線を流した。
「君か。遅かったな」
 白衣を思わせる白の上着を翻して、颯爽と近づいてきた男の、赤いシャツが目に痛い。
 ちらりとランドウに視線を寄越しただけで、その男は目の前を通り過ぎる。
 無造作に床に投げ出されたアタッシュケースの前に屈みこみ、その蓋を押し開けて、中身の袋を確認する。
 そして、唐突に立ち上がったかと思うと、右足でそのアタッシュケースを力任せに蹴った。
 血まみれの床にそのまましゃがみこんだせいで、白い上着の裾が赤く濡れている。中味の袋をばら撒くように遠くまで流れていったアタッシュケースを、翠玉の瞳がにらみつけた。
 まるで、そう。親の敵を見つけたような鋭さ。その瞳が湛えているのは煮えるような怨嗟だ。
「知っているかね」
 追い討ちをかけるように、ランドウは青年に声をかける。
 高いビルの屋上の、縁に立った無防備な背中を、両手で力いっぱい押すような、残虐で少し甘美な衝動。
 アースは、殺気すら混ざった視線を、ランドウに寄越した。
 何も言わない。
「HGは、研究所で作られているらしい」
 とん、と無防備な背中をその言葉で押した。
 あとは、落下するだけだ。
 すぐには言葉を飲み込めなかった男の表情に、やがて驚愕がじわりと広がった。
「研究所だと? ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ」
「ふざけているわけじゃないさ。HGを開発してしまった張本人から聞いた話だ。君だって薄々感づいてはいたんだろう? あのドラッグは、よほどの設備が揃わないと作れない。その設備があるところといえば―――」
「"開発してしまった張本人"」
「それもおそらく、目星はついているんだろう? 認めていないだけで」
 確かめるように反復する研究者の、意識的な逃げ道を、やわらかい言葉で徐々に奪う。目を逸らしたところで現実はずっと存在し続け、決して消えはしないのだから。
「だから、なんだ?」
 平静な声だった。否、平静を装った声なのかもしれない。
 なんでもないふりをしたって、今更遅いよ。
 たったさっき、目の前で、ありったけの憎しみを込めてアタッシュケースを蹴りつけたばかりじゃないか。
 慌ててとりつくろって見せたところで。もう遅い。
「まるで君は子どもだな。いや、まだ子どものままなのかな」
 その虚勢の張り方が。気の強い子どもによく似ている。
 天才と呼ばれる頭脳と、その体躯と、それにつり合わない精神の、アンバランスさ。危うい。
 子どもの虚勢を笑うようなランドウの行為に、瞭かにアースはいきり立った。その反応すら、あまりにもストレートで、予想できたカウンターで、ランドウは口の端を持ち上げて笑う。
「置いてきぼりを食らわされて、迷子になって喚いているみたいに見えるよ」
「てめぇに何が、分かるってんだ」
「博士は死んだよ」
 現実からそむけた顔を、痛々しい真実に引きずり戻す。
「パンドラの匣は、開けるべきだ」
 蝋人形のような表情のない貌で、アースはランドウを見据えた。
「てめえこそ、回りくどい方法ばかり使わずに、欲しいものは欲しいと、はっきり言えよ。てめえの手段はいやらしいんだよ」
「私の目的を達するための、必要な手段だと、思ってくれていい。すべては」

 がつん、と音を立てて一切の照明が"落ちた"。
 周囲に闇が落ち、ぶつかり合う剣戟が止んだ。
 光に馴れた瞳は急激に押し寄せた闇に周囲を探る術を無くす。
 声をかわせば位置は知れよう。それでも、言葉もなかった。
 必死に安否を確かめるように、馴れ合っているわけじゃない。

 ふっと近づく気配に、アースは右の腕を振り払う。
 服の内側に仕込まれた刃が飛び出して、横に空を斬った。
 気配は、素早くそれをしゃがみこんで回避する。
 闇に次第に適応した瞳が、ぼんやりと浮かび上がる白い肌を捉えた。
 懐に、小柄な影が飛び込んでくる。
 が、それをなぎ払うことなく、アースは赦した。
「聞きたいことが……」
 アースの脇腹のあたりに小刀を押し当てて、少女がつぶやいた。
「なんだ?」
 僅かに刺さる先端の痛みを気にしながら、アースは促した。
「……まだ、あの子は、あそこにいるんですか」
「ああ」
 短く肯定を返せば、モエはぐっと言葉に詰まる。
 少し離れたところでずるずると、何かを引きずるような音が聞こえた。闇の中でちらちらと金色が揺れているような気もしたが、あまり興味もそそられない。勝手にすればいい。

「後悔してんのか」
 囁くように、問い掛ける。
「研究所を出たことを、後悔してんのか、モエ」
「いいえ」
 きっぱりと、否定が返った。
「なら、受け容れろ。自分の選んだ結果だ。お前は、あいつを裏切って一人で逃げた。その結果だ。受け容れろ。後悔してないなら、進むしかないだろう」
 それが、たとえ、どれほど険しい道でも。悲しみの海でも。
 後戻りなど出来ない。
「はい」
 かすかな返事が耳に届くと、脇腹から小刀の先端が離れた。
 そのまま、少女の気配はふっと離れ、深い闇の中に飲み込まれて、消えた。

 がつん、と音を立てて、ようやく非常電源に切り替わる。
 闇の支配する静寂を、緑色の光の明滅が照らし出した。
 累々と積み重なる兵士たちの脱力した体と、足元に広がる血だまり。蹴り飛ばしたアタッシュケース。
 その他の人影は、もう見えなかった。
 ヒイラギだな、とひとりごちた。
 こんな芸当を短時間でやってのけるのは、今のところあいつだけだ。

 鋼鉄の床を叩くヒールの音が、徐々に近づいてきた。
 波のようにゆるやかな明滅を繰り返す、緑の光の中、凛とした容貌の少女が近づいてきて、アースの傍を通り抜けた。
 ふっと、その刹那に押し寄せた冷気は、少女のまとう、殺伐とした殺気なのだろう。
「追うか?」
 まだ傍にいたらしいランドウの目の前に経ち、少女はその顔を見上げた。
 血の伝う、白い刃を右手にぶら下げたまま、主語もなく問い掛ける。
「いや、やめておこう」
 相も変わらず木箱に背を預けたままで、ランドウは応じた。
 闇の中、僅かな光に照らし出された少女の顔は、瞭かに不服に歪んでいる。
「楽しみはなるべく長く持続させるべきだろう? ―――面白いことになりそうだ」



5.

 樹木のない大地の、夜は冷える。
 昼の温度を保っておく術がないからだ。
 何箇所かある出口のうちのひとつ。まるでマンホールのような入り口を、力いっぱいに下から押し開けた。
 顔を出し、肌を撫でてゆく新鮮な空気に、無意識に深呼吸をした。
「これから、どうするんだよ?」
 狭い穴からはいずりだして地上に足を下ろすと、ハルトは足元に訊いた。
「早くどこかで手当てしないと、危ないよ」
 レイが次に地上に出て、その狭い穴から、ぐったりとした男の体を引きずり出す。
 ハルトは、見覚えのあるその男の顔に僅かに眉間に皺を寄せた。
 オゼで会った、あの男だった。
 確か、ドイルと言ったか。

 いくつか聞きたいことがある、と。
 サイジョウがこの男を連れて逃げると言い出したのだ。
 腹部に刺し傷があって、随分と出血しているようだが、まだ息はある。
「近くに、車止めてあるんで。ここからだったら20分もかかりませんよ。取ってきますね」
 早口でそういうと、ファンが荒野を駆けてゆく。
 ハルトは、頬に出来た細かな切り傷の、血を手で拭いながら、その背中を見た。
 なにかが、おかしかった。
 決定的な違和感だ。ただの感覚でしかないけれども。

「サイジョウ」
 しんがりに地下から這い出した男に、ハルトは向き直った。
「ん? ああ、ひさしぶり」
 のほほんとサイジョウは応じた。
 先程まで血の匂いが広がる場所にいたとは、思えない暢気な顔をしている。
「こんなところで会うなんて、運命だねぇ」
 いつもかけているはずの眼鏡が見当たらない。友好的に微笑みかけてくるようで、実は嘲弄されているような錯覚に陥る。
 この男にとって眼鏡というアイテムは、相手との間に距離を置くためのものなのかもしれない。
「今度は何、企んでんだよ」
 こんなところで会うなんて、それこそ出来すぎた話だ。
 率直に探りを入れてみても、「さぁ、なんだろうね」とするりとかわされる。
 さぁ、じゃない。食い下がろうとしたところに、車のタイヤの音が近づいてくる。
 大型のトラックがすぐ傍に停まった。
「じゃあレイくん、君たちはその怪我人の彼と荷台。とりあえず早く戻ろう。全ての話はそれからだ」
 戻ったところで全てを話してくれるとは限らないけどな、とあくまで懐疑的に心中で独白して、ハルトは幼なじみが怪我人を引きずりあげるのに手を貸す。
「にしても、危なっかしいな」
 意識を手放したドイルの体を左右から担ぎ上げながら、ハルトが呟いた。
「危なっかしい?」
「お前に銃っていう、組み合わせがだよ。神父が見たら卒倒するぜ?」
「……会った途端に失礼な奴だな。人をなんだと思ってるんだよ」
「間違って自分を撃ちかねないとか、思わないのか?」
 ああ怖い怖い、と嫌味たらしく呟くハルトに、レイは額に青筋を作った。
「でもまぁ、無駄に元気そうで良かったわ」
「……その台詞、そっくりそのまま返すよ」
 無駄に、は余計だ。
 毒気を抜かれてしまって、レイは嘆息した。
 そう言えば、一ヶ月以上顔を合わせていないのだった。
 それなのに、このブランクを感じさせない空気に、付き合いの長さを知らしめられる。何しろ、物心がつかないときからの付き合いなのだから。
 もしも二人揃って教会に捨てられていなかったら、きっと友人どころか知り合いにすらならなかった二人だろう。性質が違いすぎる。
 今はもはや、家族のようなものだけれど。多少の時間離れていたって、別に気まずくなるような要素は、全くない。

 荷台にドイルの体を横たえる。先程、モエがざっと止血だけは済ませたのだが、それでも危険な状態に変わりはない。
 運転席の裏側に背を預けて並んで座り込み、エンジンから伝わる小刻みな揺れに身を委ねるように、ハルトは目を閉じた。
 がくりと落ちた片方の視力を補うのに、もう片方は過酷な労働を強いられている。目が痛い。このままでは結局どちらも悪くなるだろう。
 耳鳴りがする。
 トラックはするすると動き出した。無音の荒野に走行音を響かせながら、一路、カルチェ・ラタンを目指している。
 レイは、完全に転寝の体勢を決め込んでしまった幼なじみとは裏腹に、空を見上げる。
 大きな赤い月と、小さな青い月が、ぼんやりと遠くに見える。
 これから一体、何がどうなるのだろう?
 自分の目的はとりあえずは、達せられたはずだ。
 隣に座る幼なじみと再会することだったのだから。
 しかしこれからは?
 荒野を渡る冷たい風に吹かれながら、またたく星星を見上げる。
 しばらくそのままぼんやりとしていると、視界の端で何かが唐突に動いた。
 伏せていた猫が、突然顔をあげるような動作だった。
「ハルト?」
 俯かせていた顔を持ち上げて、ハルトも空を見ていた。
「どうかした?」
「……いや」
 しばらくハルトは、走行音しか聞こえない荒野に耳を澄ましていたが、すぐにゆるりと首を横に振る。
「"いつもの"だ。眠れやしねぇ」
 右の人差し指でこめかみを僅かに押さえる動作に、レイは事情を察した。
 雑音だ、雑音。と言う割に、ハルトはそれに耳を澄ましているようにも思えた。
 神の声。特定の人間にしか与えられないという、福音。
「……何が聞こえるの?」
 羨ましいとは思わない。ただ、それが一体どういうものなのか、知りたいとは思う。
 レイの問いに、ハルトは少し驚いたように瞠目する。が、すぐにその表情を消して、空を仰いだ。
「日によってまちまちさ。聖書の一部を読み上げてるときもあれば、話し声が聞こえることもある。今は―――歌だな」
「歌?」
「途切れ途切れで良くは聞こえないけどな。賛美歌ではない。聞いたことない、女の声だ。結構頻繁に聞こえるんだよな、これ。何の歌かは知らないけど」
 聞きなれたメロディではある。それでいて、歌えと言われたらおそらく無理だろう。そんな、おぼろげな歌だ。

「頭痛とか、そういうものは?」
 その声が聞こえることによって、身体的に苦痛はないのだろうか?
 生まれてから今までの、23年の付き合いの中で、その事実を知らされたのはごくごく最近のことで、神の声については、レイはほとんど知らないに等しい。
 家族と呼んでも差し支えないレイにさえ、口を閉ざし続け、抱き続けてきたものとは。
「あー、別に具合が悪いとか、そういうものはないな。ただ鬱陶しい。もう慣れたけどな」
 いくら口で説明を受けたところで、共有できない感覚は、理解など出来ない。出来るのは、分かったふりぐらいだ。
「これから、お前どうする」
 立てた片膝に腕を乗せ、遠ざかるアイレの遺跡に目を細めながら、ハルトが訊いた。
 レイは、空に並ぶふたつの月から、視線だけをそちらへ向けた。
「教皇のお膝元で、正規軍の本部がある街で。長くここに住んでたお前だったら尚のこと、知り合いだって多いだろ。正直なところ、相当危険なんだよな」
「さっきから、らしくない話ばかりするね。危険だとか、逃げるとか」
 嘆息して、レイは自分の掌を見た。
 ドイルを運んだときにべったりとついた血が、乾き始めている。
「ハルトはもっと、猪突猛進じゃなかったっけ?」
 そして、そういう心配をするのは、いつもレイの役目だったはずだ。先だけを見て、危険は二の次。そういう強引さが、ハルトの特徴だったはずだ。いい意味でも、悪い意味でも。
「知ってた? 僕たちはもう、Aクラスの異端者らしいよ」
 水の都ソロモンで、モエによく似た女に告げられた。
 Aクラス以上。即刻粛清対象―――つまり、見つけたらすぐ殺しても構わないということ―――の異端者に認定されているのだと。
「どこに逃げたって、今更、同じなんじゃないのかな」
 軽く掌を握って、もう一度開くと、からからに乾いた血がぱらぱらと零れ落ちた。
「本当に逃げ通す気なら、地下とか隠れ家とか、そういうものにずっとこもって、ほとぼりが冷めるのを待つって言う手もあるけど。それをやるとしたらどれぐらい? 死ぬまでなのかな。正直言って、それは嫌だよ」
「……それは、俺も同じさ。ただ、もうちょっと落ち着いて暮らす方法なら、いくらでもあるって言いたかったんだよ。俺には、知りたいこともやりたいことも、この街にあるんだ」
「僕も、あるよ。知りたいことなら」
「へぇ?」
 この世界を絡め取る、数々のからくりを。
 人の、与えられた寿命すら狂わせる、白い粉の存在する理由。
(それから神父の……)
 教会に殺されたというのなら、その意味を。

 血の剥がれ落ちた掌を見つめたまま、レイは呟いた。
「全部、ここにある気がする」



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