カルチェ・ラタン
蝶とロザリオ





―――なに、少し気持ちよくなれるだけさ。

 上から強い力で押さえつけられる。
 木のテーブルの上にうつぶせに乗せられ、左右の腕を両側から押さえ込まれる。
 顎を捕まれ、上向かされた。
―――随分いいご身分におなりだな。軍の上層部とは、大出世だ。
 テーブルの上に乗り上げ、跪いた男が顎を掴んでいた。
 そんなお前に、今日はプレゼントがあるんだ。
 つよい力が顎を無理矢理開かせる。男は薄い笑いを浮かべたまま、その口の中へ。
 手に持っていた紙包みの中を開いて。
 粉を。
 白い粉を。
 さらりと流し込んだ。
 続いてぬるい水が流し込まれ、口と鼻を塞がれる。
 ごくりと咽喉が動いて、嚥下した。


―――どうだ、神の兵士。背徳の薬の味は?
 男の声もすぐにあまり聞こえなくなる。
 鼓動が早くなり、体が指先のほうから冷えてゆく。錯覚。
 視界が暗く。体は重く。

 そこには。
 闇だけがある。
 腕に足に絡まりつく、のっぺりとした影。
 逃れようともがいたところで、体が上手く動かない。
 主よ。

 冷たい闇に飲み込まれながら、必死に叫ぶ。神よ。
 どうか、どうかお救い下さい。死んでしまう。
 私は貴方をただ、愛しているのです。

 そのとき。
 一条の光が闇の中に差し込んだ。
 まぶしさに視界が灼けてしまう。
―――この世界は腐敗しているのだ。
 声が聞こえた。
 男なのか女なのか。若いようで老いているよう。
 透明で歪んでいる。高く、そして低い。
(応え、だ)
 確信した。これは応えなのだ。私の呼び声に対する。
 光は、体に絡まりつく闇を裂き、周囲を満たした。


「……かなさいましたか、少佐殿」
 控えめに傍から声をかけられて、ふと我に返った。
 声の方を見ると、黒いスーツの胸元に金のロザリオをかけた若い女が立っている。
 大司教の秘書官のひとりだ。そうだ、今は打ち合わせの途中だったか。
 いつものことだ。
 いつもの、白昼夢。ただの夢だ。
「なんでもありません。それで、猊下の今日の予定は、夜からの教会でのミサで―――」
 ベリヤールは、絡まりついてくる幻覚を払いのけるようにして、秘書官の方に向き直った。



1.

「簡単に言えば、観光名所ってところだな」
 机の上に、カルチェ・ラタンとその周辺の地図を広げながら、ハルトは言った。
 警備省本部内にある会議室には、3つの人影がある。広い会議室の端でひそひそと額を突き合わせているのは、なんとなく貧相だ。
 ハルトの指が示しているのは、カルチェ・ラタンから南に5キロほどの、荒野の中だ。
「アイレの遺跡と呼ばれてる。今のところ、カルチェ・ラタンから一番近い遺跡だ。発見も早く、調査もずいぶん前に終わってる。今はカルチェ・ラタン―――つまりは教会の管理下に置かれていて、一般人の出入りも可能。申し出と手続きさえあれば、ホールみたいに貸し出しも可、だ」
 観光案内よろしく、とうとうと説明をするハルトの横から、クリスが地図を覗き込む。
「遺跡発掘をする人間から言わせてもらえば、もう魅力のない場所だな。もう調べるもんもねぇし、入場料が教会の懐に転がってるのも気に入らない。本当に、こんなところでドラッグの取引があるのか?」
 HGというドラッグの取引が、今晩、カルチェ・ラタンから一番近い遺跡で行われる。
 警備省にもたらされた密告の内容は、そうだ。
 本部長ラハティエ・バレンシアは、場所が遺跡ということで、ハルトに助言を求めた。
 だが。
 アイレは他の遺跡とは違い、一般に広く開かれている。開かれすぎている。
 今さっき、自分が並べた情報も、それこそ観光案内からの引用のようなもの。少し調べればすぐに知れる情報だ。助言などではない。
 そもそも、そんなところで本当に取引があるのだろうか?
「取引が行われるかどうかは分からんが、今晩そこで集会があるのは確かだ」
 傍らの壁に背を預けたエークが、いつもどおりの抑揚のない声で言う。
 集会? ハルトは訝しげな視線をエークに流した。
「貴族様の道楽さ。仮面で顔を隠し、普段の生活の付き合いは全て無しにして、一晩限りの社交を楽しむんだ」
「仮面舞踏会(マスカレイド)? 遺跡でか?」
「貴族様方は退屈がお嫌いだ。新しい刺激が欲しいんだろう」
「お気楽なことだな」
 ハルトは深々と嘆息する。
「この集会は、まぁ当然といえば当然だけど、完全招待制。貴族の方々は警備省がお嫌いだし、潜入するとして、正面からは無理よね。ということで、助言が欲しいのよ」
 童顔をすっかりと調査官の顔にして、クリスが言う。
「正規ルートではなく、内部へ侵入する道はある?」
 貴族連中の立場は教会寄り。ゆえに、基本的に警備省が自分たちの領域に踏み込むことを嫌う。完全招待制の娯楽パーティなら尚のこと。真っ向からの潜入は無理だろう。
「なるほど」
 ようやくそれで腑に落ちる。助言を求められる意味が。
 なにやら悪巧みをしている気がしてきて、自然と口元が緩んだ。
「道はある。正確に言えば、"道"じゃないがな」
 曖昧な言葉に、何よそれ、とクリスが顔をしかめる。
「遺跡は大抵地下だろ。人間が生活するためには新鮮な空気が必要だ。遺跡には大抵、そのための空気の通り道ってもんが、循環してるんだよ」
「通風孔か」
「ご明察。―――ところどころに点検用の出入り口があるはずだ。そこから降りれば、何とかなる。機械のセキュリティが動いてると厄介だが、貴族様方はセキュリティに、今も大勢の人間を投入することが大好きだから、機械警備はおそらくほとんどないだろうな」
「なるほどね。侵入経路は大丈夫、と。じゃあ、準備に入るわよ」
 手早く机上の地図をたたむと、クリスはヒールの踵を鳴らして扉へ向かって歩き出した。
「は? 準……」
「いいからついてきなさいよ。調達するものがたくさんあるの」
 なんとなく、嫌な予感がする。確証はない勘というものだが、こういうときの勘はやけに当たるから性質が悪い。
 立ち止まったままのハルトを振り返って、満面の笑みをたたえたクリスが、止めを刺した。
「潜入って言ったでしょ。勿論、正装してもらうわよ」


            *


 泰然と足と腕とを組み、白衣の男はディスプレイを眺めている。最新鋭の通信機器だ。
「……わざわざあんたから連絡をつけてくるとは、どういう風の吹き回しだ?」
 友好的とはとても思えない態度でアース・フィラメントが言えば、ディスプレイの向こうの男は、口の端を少し困ったように持ち上げる。
≪他意はないさ。君もHGの動向は気になるだろうと思ったのだよ。博士の研究の結果があんな形で利用されることを良しとはしないだろう?≫
「ジジイのことなんざ、どうでもいいんだよ。重要なのは、研究結果が外部に持ち出された事実だ。研究所の沽券に関わる。恩を着せようったって、そうはいかないぜ」
 あくまで攻撃態勢のアースに、通信相手は苦笑する。
≪だから、他意はないと言っただろう。今回は私が勝手に判断して、連絡をつけた。それでいいじゃないか≫
 エメラルド色の瞳を剣呑に細めて、アースはディスプレイを睨む。この男の"他意はない"は信用ならない。
「……まぁいい。せっかくのお誘いだ。じっくりと見学させてもらうさ」
 告げて、アースは一方的に通信を切った。ディスプレイが一瞬にして黒く染まる。沈黙するディスプレイには、自分の不機嫌絶頂の顔が映っていた。
 しばらくして、プリンタがなにやらかたかたと紙を吐き出し始めた。
 プリンタが沈黙するのを待って、腰をあげる。
 吐き出されたものを手に取り、その部屋を後にした。


 研究室の扉を開けると、ソファーに座り込んでいる人影を発見する。
 その体がやけに重そうなので、アースは何故か笑ってしまった。
「この世の終わり、って面だな」
 ソファーの前を横切り、煩雑な自分の机の前に立つ。
 携えてきた紙切れを机の上に投げ出し、場違いに置かれた一輪挿しの薔薇に触れた。
 ソファーに沈んだ人物が、俯かせた顔を重そうに持ち上げてこちらを見る気配を敢えて無視し、真紅の花弁の艶を確かめる。
 天然のものではなく品種改良を施されたその花は、栄養さえ与えていれば随分と長持ちする。
 出かけたときとさほど変化のないその様に、理解はしていても呆気なさを感じずにいられない。別に、枯れた花が好きなわけではないが。
「アースさん……」
 何かを決意したような、堅い声で金髪の青年が呼ぶ。
 ソファーを立つ気配がした。
 聞こえていながら、アースは尚も"シカト"する。机の上に散らばった書類を集め始めた。
「HGって、なんなんですか。なんのために……」
「さっき説明しただろ」
「本当は何のために……」
 つれなくしても、レイは食い下がる。
「教えてやる義理はねぇな」
 相変らずそちらは見ないまま、突き放すように冷たく言えば、レイはぐっと言葉に詰まる。
「それは……そうですけど」
「……タダ、じゃぁな」
 付け加えて、アースは口角を持ち上げる。
 品定めをするように、アースはじっと、レイの顔を見つめる。そしてまた何事もなかったかのように目を逸らした。手元に集めた書類に軽く目を通し始める。
 その言葉と、意味ありげな視線が何を示しているのか分からず、レイはその場に固まった。
「俺は今晩でかける」
 しかし、アースはそれにこだわらず、さっさと新しい話をはじめた。
 そのペースに乗り切れず、レイはその場に立ち尽くしている。
「招待状をもらったんでな」
 書類を眺めたままで、先ほど机上に投げ出した紙を顎で示す。
 レイはそこではじめて、傍らにある紙を見下ろした。言いかけた文句を全て飲み込んで、黙る。
「付き添いについてきたら、交換条件として教えてやらないこともない。HGについて」
 黙り込んだレイに向かって、アースは含み笑った。
 仮面舞踏会のしらせだった。


            *


 おでかけしてくるよ。と唐突に言われた。
「おでかけ、ですか?」
 きょとんとして、リョウコは反復する。
 アジト内部の、居間と呼ぶべき空間。とりあえず皆が集まって座れるだけのスペースがある。
 中央に据えられた簡素なテーブルに座って、リョウコは何度か瞬いた。
 部屋の隅に立てかけられた姿見の前に、異様なものがいる。
「そう。おでかけ」
 上等な黒のスーツを身に纏い、襟元に黒の蝶ネクタイをしながら、サイジョウ・ヒイラギは応じた。
「ごめんね、リョウコちゃん。今晩はおるすばんをたのむよ」
 姿見の前で蝶ネクタイの位置を直している。
 わかりました。とりあえず答えて、リョウコは口をつぐむ。
 おかしい。

 別に、連れて行ってもらえないのは気にならない。仕方のないことだ。
 それについて文句を言うつもりはさらさらない、が。
 そんなにめかしこんで、一体どこへ行くというのだろう?
 いつもぼさぼさに乱れた髪も、今日はしっかりとセットされ、前髪は後ろに綺麗に流されている。
 彼は普段からもっぱらスーツ姿のことが多いが、今日着ているそれは、どう考えても"よそゆき"なのだ。
 おでかけにおるすばんにおめかし。なんだか、おかしい。
「あの……」
 好奇心が勝って、リョウコは口を開いた。問いかけようとしたところで、タイミングよく扉が開く。
 反射的にそちらを見たリョウコは、更に混乱した。
 開いた扉の向こうから現れた二人も、同じように正装していたからだ。
 普段見慣れていないせいか、まるで他人のように見える。
「あれ、モエちゃん」
 しつこく蝶ネクタイを弄りながら、サイジョウはモエを見る。ふわふわの髪を、綺麗な巻き髪にセットしたモエは、小首を傾げて隊長と視線を合わせる。
「バニーガールの恰好じゃないの?」
 ひどく落胆した様子でサイジョウが嘆く。
 発せられたその言葉に、その場の一同は一様に固まった。
 唐突に何を言い出すのだ?
「その発言はセクハラですよ、オヤジ発言ですよっ!」
 噛み付く勢いで憤然と抗議するモエに、サイジョウは苦笑して「冗談だよ」と取り繕う。
 冗談と思えないから言ってるんです! いやだなぁ、付き合いが長いから察してくれると思ったんじゃないか。
「あ、あの……」
 ふたりの言い合いに、リョウコはたまらず口を挟んだ。
「どこに、行くんですか?」
 躊躇いがちな質問に、3人はお互いに顔を見合わせる。そして、お互いの服装が普段からあまりにもかけ離れていることを改めて確認した。
 これでは、どこへ行くか不審がられても仕方がないな。
 苦々しく、自嘲気味に笑ってから、サイジョウは答えた。
「パーティだよ」



2.

 窓からは沈みかけた夕日の、橙の光が斜めに差してくる。
 やわらかい絨毯を敷き詰めた廊下を歩いていると、前方から見知った人影が近づいてきた。
「無断欠勤ですよ」
 目の前まで来ると、軍服の男がそう言った。
「ああ、ごめん。起きたら昼を大分過ぎてたんだ」
 人によっては天使の笑みと形容する微笑をたたえて、ミカエルは部下を見上げた。
「その辺は優秀な部下が取り仕切ってくれるだろうな、と思って全然なにも心配してなかったけどね」
 付け加えれば、アフライドは顔を渋そうにしかめた。この天使の笑みに騙されてはいけない。
「いつものことですから、慣れっこですけどね。ふっといなくなる大将の代理などは」
「頼りにしてるよ」
 有無を言わせぬ勢いで語尾にかぶせてくる。畜生、皮肉の意味がなくなるじゃないか。
 溜息をつきたくなったが、そこはぐっと堪えることにした。ただでさえ少ない幸せが逃げたら困るのだ。
「それで、今日は何かあった?」
 大将閣下が止めていた足を自室に向かって動かし始めたので、アフライドもその背中に従う。言葉づかいは上司にもぞんざいなくせに、隣に並ぼうとしないのは律儀な男だ。階級の差を意識するのは、叩き上げでここまで上ってきたからだろうか。おそらく無意識なのだろうが。
「特には何も。何かあったら呼びに行ってます。書類が何枚か教皇庁側から回ってきたぐらいで」
「書類?」
「簡単な伝達事項、教皇猊下のご公務の予定と、その護衛の要請。それから―――また来てましたよ、捜索願」
 指折り数えるようにして、思い出したかのようにげんなりとアフライドは付け加えた。
 もういい加減、諦めればいいんじゃないかと思うんですけどねぇ。
 ミカエルは苦笑しつつ、自室の扉を押し開けた。
「そうもいかないんだよ。大事な跡取殿だからね。―――アフライドは会ったことはなかったんだっけ?」
 扉から正面に据えられている自分のデスクに回り込んで、ひょいっと少し高い椅子に座る。足が床から少し浮いた。
 机の上には、主の閲覧を待っている書類が数枚、アフライドの言ったとおり乗せられてあった。
「ええ。俺がまだ、この地位に上がる前の話ですからね。実物には会ったことはないですけど、噂はたくさん聞いてますよ。なにせ、10代で特別部隊を任された正規軍幹部兼司教殿、ですからね」
「本来なら、中佐あたりの地位―――そう、丁度君ぐらいの地位を与えられるはずだったんだけどね。本人が嫌がったんだよ。誰かにへりくだるのは嫌だったんじゃないのかな? だからわざわざ特別部隊を作ったわけだ」
 その書類を拾い上げ、ミカエルは目の前にかざした。上等な椅子の、やわらかい背もたれに身を預けて沈みこみ、クリップで留められた書類の束をはらはらとめくってゆく。
「……随分といい性格ですね」
「そういうふうに育てられてきたのだから仕方がないよ。僕もしっかりと顔を合わせたのは数回だけどね。出世のためには肩書きがたくさんあったほうがいいってだけで、実質、特別部隊もただの取り巻きみたいなもので、あってなかったようなものだけど」
 手早く書類の点検を済ませ、さらさらとなにやらペンで書き込んでから判を押してゆく。
 小さな手に、検閲済みの判はやたらと大きく見えた。
 そうして、ミカエルは問題の書類にたどり着いた。

「ゆくゆくは、大司教クラス、そして教皇の名を継ぐはずだった人間だから。教皇猊下も随分な可愛がりようでね。まぁ、頭も良かったし判断力もあった。ただ、育ってきた環境ゆえか、人を見下したり顎で使ったり、簡単に切り捨てたり、そういうことが上手でね」
 "その人物"のためにつくられた特別部隊は、主に異端者の摘発を行っていた。
 およそ、慈悲という言葉とは関わりのない、容赦のない摘発だったと聞く。
 ミカエルはしばらくじっと、その紙面にプリントされた写真を見つめた。
 端正な顔だが、表情がない。瞳がたたえているのは冷静で冷徹な色ばかり。蔑むことが得意な瞳をしている。
 実物には数度しかお目にかかったことがないが、この紙面では幾度となく見てきた顔だ。もう見慣れている。


 現教皇ケルビーニ8世のひとり息子。
 数年前、突然消息を断ち、それから現在まで沙汰がない。
 数々の憶測が飛び交い、当時は大々的に捜索されたが、見つからなかった。
 教皇庁をはじめ、正規軍の人間たちももはや半ば諦めてはいるのだ。それこそ、草の根を掻き分けるように捜索しても見つからないまま数年が経っている。
 そして何より、失踪者の性格が、捜索から熱意を失わせていた。
 おざなりの王制や議会政治などはあるものの、事実上ガイアで権力を握っているのは教皇。そのひとり息子である彼は、珍しく馬鹿な放蕩息子ではなかった。
 しかし、生まれたときから多くの人間にかしずかれ、見下ろすことに慣れてきた人間は、他人に対する思いやりや遠慮というものをすっ飛ばして大きくなったようなもので。冷徹で冷酷。見下すことと蔑むことは、日常的に行われるものだと刷り込まれてきた。
 育った環境がそうだったのだ。
 若くして軍内部に地位を与えられたのも、司教と呼ばれるようになったのも、全て彼にとっては後々教皇の座を譲り受けるための肩書き稼ぎでしかなかった。
 その、人を人とも思わぬ態度に、出世を目論む取り巻き以外は辟易していたと聞く。
 ゆえに最近では、捜索もおざなりなのだ。
 しかし、教皇直々の命令となれば、動かないわけにいかないのもまた実情。何しろ、正規軍は表向きには「教皇の兵」なのだから。

「現状維持でいいよ」
 今までどおりの調査方法で構わない。
 ミカエルは部下にそう告げて、書類の上から朱の判を押した。
「悪魔の、名前か」
 再びその書類をまじまじと見つめて、ミカエルは独白する。
「悪魔?」
 横から手を伸ばして、処理済の書類を纏めながら、アフライドはその独白に反応する。
「うん、この名前はね、悪魔の名前なんだそうだよ」
 ミカエルは、そのちいさな指先で、教皇の息子の名をなぞった。
 へぇ、と相槌を打ちながら、アフライドは少し不快そうに眉をひそめる。
「どうかした?」
「いやね、子どもに悪魔の名前をつけるってのは、どうにも解せないような気がしただけですよ。名前って結構、重要じゃないですか」
 それだけです、と付け加えて、アフライドは纏めた書類を抱え、ミカエルの手から捜索願の書類を当然のように奪い取ると、踵を返した。
「提出してきますね。どうせすぐ忘れるんですから」
「ありがとう、有能な部下を持つと助かるよ」
 天使の微笑みで礼を言うと、アフライドは半ば振り返り、苦笑する。
「暢気な上官を持つと、しっかりするもんです」
 捨て台詞を残して、重厚なドアの向こうに消えた。
 扉が閉まる音のあとに、押し寄せた沈黙。肩の力を抜いて、ミカエルはやわらかい背もたれに沈み込んだ。


―――天使の名だよ。
 不意に、遠い遠い記憶が蘇ってきて、自分で驚いた。
 お前の名前は天使の名前だよ。
 そういえば、父親が。
 もう顔も思い出せない父親が、よくそう言っていたのだった。
 光を纏う、偉大な天使の名前だと。
「天使なんて……」
 零れ落ちたのは、自嘲だった。
 今の自分に、天使の名など―――。



3.

 欠伸を噛み殺す。
 立ちっぱなしでいるせいか、足の裏の筋が痛みを訴える。
 珍しく着込んだ黒いスーツも蝶ネクタイも息苦しいことこの上ない。
 目の前には鈍い銀色に光る、鋼鉄の廊下が続いていた。
 これが遺跡と言うものなのか、と彼はにじみ出た涙を拭った。
 何から何までが機械で構成されている。遺跡の中へ立ち入ったのは初めてだった。
 それもこれも、彼がガードマンとして勤めている屋敷の主が、この遺跡で行われているパーティを主催したからだ。
 仮面で素性を隠し、社交を楽しむ。
 年中暇な貴族様だからこそ思いつくような企画だ。しかも今回は何を考えたものか遺跡を使うという。
 とりあえず警備に回されている使用人たちも目だけを覆う白い仮面の着用を義務付けられている。
 目のあたりはしっかりと繰り抜かれているとは言え、視界が狭い。鬱陶しい。
 背にした扉からはかすかに音楽や雑踏が漏れてくる。パーティはまだ始まったばかりだ。
 いつまでここでぼんやりと突っ立っていればいいのか。もう一度欠伸を噛み殺した。
 ふと、手元の時計に目を遣った。時間を確認して、またげんなりと溜息をつく。
 交代の時間まで、まだ随分ある。時計なんて見るんじゃなかった。

 靴音が聞こえてきて、彼は慌ててぴしりと背を伸ばした。
 すっかりとだらけてしまっている。
 前方から黒い人影が近づいてきた。女だった。
 綺麗に巻かれた焦げ茶の髪に、彼と同じように仮面を着用している。
 会場係だろうか? 連絡用のインカムを装着していた。
「お疲れさまです〜」
 彼の目の前まで来て、彼女は言った。
 少し間延びした声だった。仮面の奥で、黒の瞳を細めて笑う。
 顔が少々あどけなさを残している気がした。仮面で顔が隠されているのが惜しい。
「あ、お疲れ様。会場係の子?」
 とりあえず居住まいを正して、彼は訊いた。
 彼女は何も言わずににっこりと微笑む。
「じゃあ、とりあえず、決まりだからIDを見せて……―――」
 言葉が終わらぬうちに、腹部に激しい衝撃を感じた。それと同時に、彼の意識はぷつりと途切れる。

 どさりとその場に崩れ落ちた男の両手と両足を手早く縛り上げる。手近にある小部屋の扉を、預かったハッキングカードで開くと、男の体をその中に転がした。扉を閉める。
 インカムを耳元に押し当てて、電源を入れた。
「こちらモエです。所定位置につきました」


            *


 緑のテーブルの上に、幾何学模様のカードが入り乱れていた。
 綺麗に整えられた山と、赤と黒の模様に数字が描かれたカードが乱雑に投げ出されている場がある。
「カードの交換は、もうよろしいですか」
 ドーナツを半分で切ったようなテーブルの、くぼみに立つ男がぐるりと周囲を見回した。円の外側に、上等な服と豪奢な装飾を纏った男女が腰掛けている。
「これでどうだ」
 上等なスーツに身を包み、黒の仮面をつけた男が、テーブルの上に5枚のカードを投げ出した。
 連鎖するように、外周に座る男女は緑のテーブルの上に自らの手札を広げた。
 ぐるりと場に出されたカードの"役"を見定めて、くぼみに立つディーラーは、口元を緩める。
 手をテーブルの上に乗せると、右に軽く滑らせ、自らの手札をさらした。
「Qのフォーカードでディーラーの勝ちですね」
 一瞬の間をおいたあと、ポーカー台には溜息や舌打ちがこぼれおちた。
「やってられるか!」
 声を荒げて席を立つものもいる。
「貴方、強いのね」
 黒のサテン地のパーティドレスに身を包んだ女が、横からディーラーを覗き込んだ。蝶をかたどった仮面で目元を隠している。
「運ばかりは少々強いようです」
 他の会場係と同じように、目のあたりだけを仮面で覆ったディーラーは、薄い口唇でかすかに笑った。
「運のいい男は好きよ」
「嬉しいお言葉です」
 ポーカー台に身を乗り出す女に、ディーラーは穏やかに返す。香水の匂いが強く薫った。

 ざらりと、耳元でノイズが走った。
 右耳に押し込んだイヤホンを更に強く右手で押し込んで、ディーラーは耳を澄ます。
「少々失礼します」
 扇情的な視線を送ってくる貴婦人から離れて、ディーラーはポーカー台に背を向ける。
 間をおかず、雑音を含んだ声が耳に届いた。
≪こちらモエです。所定位置につきました≫
 会場内通信用のインカムに"良く似せた"通信機の、マイクを口元に引き寄せて、サイジョウは小さく頷く。
「了解。相変らず仕事が速いね、助かるよ。―――ファンくんは?」
 同じ電波を通じて別な方向に問い掛けると、即座に。
≪こっちも準備は万端です≫
 と、あまり抑揚のない声が返ってくる。
「じゃあ、そのまま待機」
 小声で指示を出し、サイジョウはくるりとポーカー台の方を振り返った。

「お待たせいたしました。ゲームを再開いたしましょう。―――パーティはまだ、始まったばかりですから」


            *


 息が詰まる。
 ぴしりと整えられた襟元に、左の人差し指を突っ込んで広げた。
 着慣れない服を着ると、肩が凝って仕方がない。
「まぁ、見られるモンね。お子様のお遊戯会みたいだけど」
「うるさいな。こんな動き辛いもん、そうそう着てられっかよ」
 ハルトは、子どものように噛み付いた。
 着慣れない正装のせいで、先程から落ち着かない。
 昼過ぎ、準備をするとクリスに引きずられていった先は衣装室だった。そこで"よそゆき用"のスーツを押し付けられたのだった。

 日が落ちる前にカルチェ・ラタンを出、荒野の中に突き出た通風孔のロックを"非合法"に解除して、パーティが始まる前にもぐりこんだ。
 日が暮れるまで無数にある小部屋のひとつで待機したあと、先程押し付けられた衣装に着替えるよう強要されたのだった。
 かくいうクリスも先程から物陰でごそごそやっていたかと思えば、目が覚めるような蒼のドレス姿で現れる。
「へぇ、馬子にも……」
「それ以上言ったら殴るわよ」
 その姿をまじまじと見つめて思わず呟きかけたハルトを、クリスが鬼の形相で牽制する。
「なんだよ、褒めてんじゃねぇか」
「それのどこが褒めてるって言うのよっ!」
 露出した肩をいからせて、クリスはドアの方へと向かう。用意してきた仮面を装着する。
鼻のあたりまで隠れる、白の仮面だった。
「あんたもさっさと着けなさいよ。そろそろ時間なんだし」
 横滑りの扉を開いて、クリスは鈍い銀色に光る廊下に出た。
「時間、ねぇ……」
 手にした仮面をまじまじと眺め、ハルトは独白した。目のあたりだけを覆う黒の仮面は、何処かの間抜けな怪盗もどきのようで、正直気に入らない。
 が、そんなことを言ったらまた殴られるに決まっている。彼女は口と手が神速で飛び出すのだ。
「ところで、エークはどこで待機するって?」
 仕方なく仮面を装着して廊下に出ると、苛々と腕組みをしてクリスが待っていた。そんなに待たせたつもりもないのだが、短気な奴だ。
「遺跡の、正規の入り口の近くで待ってるってよ。私の仮面のほうに通信機が仕込んであるから、連絡はすぐ取れるわ」
 クリスは、一本長く伸びる廊下の、左右を確認してから右手に歩き始めた。
 金属にヒールの音が高く響く。
 パーティに招待されたのに、3人じゃ変じゃない、と変なところにクリスが拘ったので、エークは外で待機となった。元々そういう華やかな場所が得意ではないらしいエークとしては、願ってもなかったことだったようだが。
「で、具体的に何をどうするんだよ? 潜入したのはいいとして」
 少し遅れてクリスの背中を追いながら、ハルトは訊いた。
 潜入してからの具体的な行動を、まだ聞いていない。
「とりあえず、現場を押さえないと何もはじまらないのよね。疑惑だけじゃお縄にかけられないのよ。向こう方の動きを待つしかないわね」
「動き……?」
「それは、会場に入ってから説明するわ」
 現場を見ながら説明した方がわかりやすいと思うし、と付け加えて、クリスは突き当たりを左に曲がる。そして、立ち止まった。
「どうした?」
「あそこ、会場の入り口よね?」
 クリスの指差す先を、ハルトは目を凝らして見遣る。
 確かに、廊下の突き当たりに一枚の扉がある。潜入する前に散々アイレの内部地図と今日の会場地図を見比べて頭に叩き込んできたから、間違えるはずはない。
「だろ? 今更何言ってんだよ」
「あの服装、多分警備の人だと思うんだけど、身分照会されると思う……?」
 扉の傍には、こちらに背を向けた小柄な人影がひとつある。服装からして接待係や警備員の類のようだ。
「そういうことはそっちが調べとけよ、先に」
 げんなりとハルトは呟いた。
 いくら仮面舞踏会とは言え、会場に入る前の段階で身分照会されればひとたまりもない。
 正規の入り口を通過する際には招待状の提示があるとは聞いていた。そこを非合法に擦り抜けて入ってきたのだから、別に平気だという気もするが、万が一という場合もある。
 自分ひとりならば、なんとか潜入する事もできるだろうが、今回は警備省に協力という形で動いているのだ。
 武力に物を言わせてた強行潜入は、隣に立つ警備省調査官が決して許してはくれないだろう。現場を押さえたとして、その後に差し支える。
 ハルトはしばらく立ち止まって考えた。
「……ま、その時はその時だろ。ここで考えたってしょうがねぇ」
 根が楽天的であるためか、思考時間はそれほどかからなかった。
 立ち止まっているクリスを追い越して、歩き出す。
「ちょ、ちょっと……!」
「平然としてろよ。怪しいだろ」
「平然としてられる精神が分かんないわ」
 溜息を落としつつ、クリスが独白した。少し調子が戻ってきているようだ。
「いざとなりゃ、ちょっと眠ってもらえばいいだろ」
「絶、対、だめよ!」
 思ったとおりのカウンターに、ハルトは思わず苦笑した。
 そういう調子でいてもらわないと、こちらとしても色々とやりづらい。

 漫才のような問答を繰り返しているうちに、扉が目の前に迫った。足音に気付いて、小柄な人影が振り返る。
 女だった。
 会場係用のウエイターの恰好をしている。男女を問わずパンツルックだ。肩よりしたほどの髪は丁寧に巻かれ、連絡用だろうか、頭にはインカムを装着している。
 ハルトは仮面の奥で両目を細めて、同じように素顔を隠した女を見た。
 どこかで。
 女は仮面の奥で少し目を見開いてハルトを見たあと、ほほえんだ。
「どうぞお通り下さい」
 扉のカードキーをスキャンに通して、まだ少し幼さの残る声でそう言った。
 思った以上に呆気なく扉が開かれて、極秘潜入をしたはずの二人は面食らう。
「ちょっと、何してるのよ!」
 クリスが小声で言う。相変らずじっと会場係を凝視しているハルトの背中を力いっぱいにつねった。
「てっ! そうやってすぐ暴力に訴えるなよ!」
 およそ貴族とは思えない行動だが、相変らず女はにこにこしている。
 このまま立ち止まっているとクリスに蹴られそうだったので、ハルトは開かれた扉の境界を踏み越えた。
 見覚えがあるが、まさかな。そんなはずはない。
 すれ違う一瞬にもう一度だけ女を見遣った。彼女も何故か、こちらの方を見ていた。
 数歩歩くと、背後で扉が閉まる。
 なんだか引っかかるな。ひとりで首を傾げていると、右側の耳が思いっきり引っ張られた。
「ててて! てめぇ、何するんだよ!?」
「会場係の子に鼻の下伸ばしてる場合!?」
「はぁ? そんなんじゃねぇよ。ただ……どっかで見たことあるかな、と」
 しかし、素直に答えたはずのハルトの回答は、およそクリスの満足とは程遠いものだったらしい。
 下手な言い訳を聞いたような顔で、クリスは目を細める。仮面の上からでも分かるぐらいに、露骨に。
「そっちこそ、そんな些事に構ってる場合かよ。もう本番は始まってんだぜ」
 呆れ気味に、ハルトは顎で会場の方をしゃくる。
 今まで気にも留めなかったが、扉をくぐってから、どっとざわめきが押し寄せてきていた。音楽に談笑に、ヒールの音、食器類がぶつかり合って立てる高い音。
 ぐるりと周囲を眺めて、更に天井から釣り下がっているシャンデリアを仰いだあと、クリスは溜息をついた。
 贅を尽くした衣装に、きらびやかな宝石類。顔を覆う仮面も、装飾の一部とばかりに仰々しい。
「平日の夜よ、今日」
「ああ、そうだな」
 体育館ほどの広さがあるそのホールには、溢れんばかりの貴族たちが真夜中の社交を楽しんでいた。
「暇人なのね、本当に」
 脱力したように、クリスは呟いた。


 珍客を2名、扉の向こうに通した後、ウエイタールックの女は、インカムの電源を入れる。
「ちょっといいですか?」
≪ん? なに?≫
 しばらくして、ざわめきにまみれた声が返る。
 歓声とどよめき、そして舌打ちなどが聞こえている。また結局、勝ち続けているのだろうか。
 イカサマだと思うのだが、「イカサマはばれなきゃイカサマじゃない」という使い古された言い訳を使われるので、モエもいまいち、彼がイカサマをしているのか、それとも本当に勝負運がいいのか、判断しかねている。
 なんだかんだ言いつつ、要領のいい男だ。
≪どうかしたの?≫
「ええと、ちょっと面白いお客さんを発見したので、報告しようと思って」
 モエは、先程通り過ぎた男の、ルビーのような赤い瞳を思い返した。



4.

 いくつかの、疑問がある。
 細かいことを上げてゆけばキリがないのだが、最後にたどり着くのはひとつ。
 何故ここにいるのだろうか。
「なんだよ、息苦しいのか?」
 白衣にも似た上着を翻して先を行く男が、少しだけ振り返って訊いてきた。
 温度の感じられない、白いなめらかな仮面の奥で、エメラルドの瞳が皮肉に細められている。
「そういうわけじゃないんですけど……」
 レイは歯切れ悪く答えた。
 出かけるからついてこい。半ば強制的に連れられてきた場所は、カルチェ・ラタンからさほど離れていない古代遺跡の中だ。
 よそゆき用の正装に仮面の装着まで義務付けられて、確かに息苦しさも感じるのだが。

 受付を済ませ、会場へと続く廊下を歩く道すがら。
「……ここで、何があるんですか」
 白のスーツに赤いシャツ、その上から更に白の上着を羽織った男の背に問い掛ける。もう何度目かも忘れた。
 返事はない。
 項のあたりでひとくくりにされた金にも黄にもオレンジにも見える髪と、両耳に下がった棒状のピアスを揺らして、ただ、すたすたと歩いてゆくのみだ。


「おい、神父見習い」
 唐突に、アースが口を開いた。
 もう名前を呼ばれないことには慣れたので、レイは「はい?」と返事をする。
「お前は何故、神父を志した」
 この、アースの突然の話題の飛躍には慣れたつもりだった。が、あまりにも場違いで、レイは一瞬言葉を失う。
 声音はふざけてはいなかった。
「……目指すひとが、いたからです」
 レイは答えた。
 アースはしばらく黙ったあと、「へぇ」とどうでも良さそうに頷いて、話題を終わらせた。
 一体何のための問いだったのか。アースのことだ、そもそも理由がないということもあるかもしれないが。
「アースさんは、なんで研究者に?」
 当然の切り返しのように、レイは訊いた。
 すると、迷いのなかったアースの足が、一瞬、止まる。その反応にむしろ驚いたのは、レイのほうだ。
 彼でも驚くことがあるのか?
「生きていくためさ」
 かすかに声音に笑いを孕ませて、アースは簡潔に答えた。
 その笑いは、どこか自嘲の響きがした。
「6つか7つの頃、頭の中身の良さで、買われたのさ」
「買われた?」
「文字通りだ。親に研究所に売られたんだ」
 レイは絶句する。
「貧しかったんだ、それだけだ」
 それだけ。その四文字でアースは話を終わらせた。それ以上の問いなど、拒むつよさで。
「でも、これで良かったんだろ。俺の天才的な頭脳は活かすべきだったしな」
 最後にお得意の自信を覗かせるのを忘れはしなかったが。
「信仰は自由だ。信じるものは信じればいい。だが、俺は確信してる。―――神なんて、いない」
 曲がりなりにも神学を志していた人間の前で吐き出すには、過ぎた暴言を吐いた。
「全てを識(し)って、見通せる万能者がいるんなら、許されたはずがない」
「神は……」
 レイが口を挟んだ。
「万能なんでしょうか」
 全知全能なんて。
 本当に?

 すると、アースはものすごく面白い冗談を聞いたように、小さく吹き出してから声を上げて笑った。
「お前の方がよっぽど不信心だな」
「僕は何もかもを救って欲しいとは思いません。全てを委ねる気にも……」
「失(な)くすな」
 アースが乱暴に声を割り込ませた。
 主語のない言葉に、レイは首をかしげる。
「それはお前の強さだ。失くすな」
 レイは何度かまばたきを繰り返す。
「何もかも、委ねちまいたくなる奴もいる。何もかも、救われなければ気が済まない奴も、いるのさ」
「アースさん……」
 レイの呼びかけを、アースは人差し指を口に押し当てて制した。
 気付けば、会場への入り口が目前に迫っていた。
 ウエイター姿の会場係が深々と頭を垂れて、横滑りの鋼鉄の扉のロックを外した。
 開かれた扉の向こうから、どっと光とざわめきが溢れてきた。
 きらびやかな音楽に、煌きが揺れ、踊る。
「せっかくのパーティだ。楽しませてもらおうぜ。―――取引が始まるまでな」


            *


「青?」
 等間隔に並べられたテーブルの上から、カクテルグラスを持ち上げて、ハルトは訊き返した。
「ちょっと、何やってんのよ」
「これくらいで酔うかよ、―――で?」
 職務時間中の飲酒を咎めるクリスに、ハルトは憮然と言い返す。
 しょうがない、とクリスは深々と嘆息した。
「……見てもらえば分かると思うけど、このホールには扉がむっつ。その中で今日使われている通用口は、ふたつ。さっき私たちが入ってきた場所と、その向かい合わせの反対側ね」
 余計な説明は省く、とばかりにクリスは早口でまくしたてた。
 長方形方のホールの側面に、左右3つずつ扉がついている。
「日付が変わる時間、会場の照明が落ちるわ。その時、むっつの扉の上についた非常灯が、それぞれ別の色に点灯するらしいの。それで、使われていない4つの扉は、ロックされてるらしいんだけど、非常灯が青に点滅する扉だけは、ロックが外れるらしいわ。取引先は、その向こう」
「……で、事前にどこの非常灯が青く点灯するか、分かんねぇのか」
「それは知らされてないわ」
「なるほどな。考えたもんだ」
「それで、私たちは呼ばれてるわけじゃないから、ひょこひょこついてく訳には行かないでしょう? それで、再びあんたの出番、って訳よ。内部の構造は、大体分かってるんでしょ?」
「大体はな。どこも似たようなつくりをしてるしな。最悪、もう一度通風孔を通るっていう手もある。要するに、別ルートからその青い扉の向こう側に潜入すりゃいいんだろ」
「そういうこと」
 よく出来ました、とクリスは笑った。
「……ってことは、日付が変わるまですること無しか。でもよ、本当に大丈夫なのか?」
「なにが?」
 煌々とかがやく、この日の為に運び込まれたというシャンデリアを見上げて、クリスは返した。
「密告(タレコミ)の出所は割れてないんだろ。正しい情報なのかよ?」
「まぁ、経験上から言わせて貰えば、タレコミのほとんどはガセね。でも、今回はガセにでも縋りたい気持ちよ。何でもいいから、HGに繋がる糸が欲しいの」
 背中を鋼鉄の壁に預けてもたれかかると、クリスは腕を組んだ。
 上品な談笑の声と、アルコールと煙草の匂い。
 煌きが揺れて、まぶしい。
 ふうん、と相槌を打って、ハルトは掌のグラスを煽った。甘味にごまかされた濃いアルコールが咽喉下を過ぎて落ちてゆくのが分かった。
 ぐるりと視線をめぐらせて、会場内を見回した。
 煌びやかな装飾ののっぺらぼうが溢れかえっている。
 仮面の造作や服装の差異はあれど、皆表情がない。
 どこを見ても無表情が語らったり踊ったりしていて、アルコールよりもそちらに酔いそうだった。
(これを楽しいと思えるんだから、貴族様ってのはある意味凄い人種だな)
 始終相手の顔色を伺って生活しているからか、顔色を見ずに済む談笑は、きっと楽なのだろう。
(俺には分かんねぇけど)
 視線を彷徨わせている途中で、一人のウエイターと目が会った。
 この集会ではウエイターや警備係までも仮面の着用を義務付けられているようだ。
 白い、目のあたりだけを覆うそれは、彼らの着用する黒の服に良く映えてはいる。
 かわいそうになぁ、とハルトは同情した。
 ご主人様たちはいいだろうけど、仕事であれの着用を義務付けられるには辛いものがあるだろうな。
 すると、そのハルトの心中を察したかのように、そのウエイターは軽く会釈をして見せた。
 濃い茶の髪の、温和そうな細身の青年だった。
「知り合い?」
 怪訝に目を細めるハルトに、端から見ていたクリスが小声で訊いた。
「いや……」
 曖昧に否定を返した。会釈をしただけで立ち去った、ウエイターの背中を視線で追う。
 見覚えがあるような気もするが、中途半端な距離では、弱っている視力のせいでうまく判別がつかない。
 それ以前に、こんな社交場で顔を合わせるような知り合いはいないはずだ。
 おかしいな、人違いか?
 既に、ウエイターの姿は人波に飲まれて見えなくなってしまっている。
 諦め悪くそちらの方向を眺めながら、新しいグラスに手を伸ばすと、上からパシリとクリスにはたかれた。


            *


 人波を上手く縫うようにして、白い背中が前を歩く。アースは会場内を横切ってどこかを目指していた。
 全く他人が見えていないかのような威風堂々としたその態度に、貴族の方々も慌ててざっと道を開ける。
 開かれてゆく人波を、それもまた当然のように肩で風を切って歩む。その後ろを、レイもつき従っていた。
 改めて、この男の放つ雰囲気に舌を巻く。
 人を威圧する空気。鋭いナイフのような尖った雰囲気に、人々は容易に呑まれてしまうのだ。

 ざっと人波が割れたその先に、一人の男が立っていた。
 人々の動揺にも全く動じず、近づいてくるアースの気配に気付いて、軽く手を挙げて見せた。
 壮年の男だった。
 黒の服に白の仮面という、オーソドックスな服装ながら、周囲からは瞭かに浮いていた。目立つ男だった。
 ところどころ白髪の混ざる髪も品がいい。
「お招きに与り、どうも」
 男の前で立ち止まって、アースは形ばかりの礼を述べる。
 それが社交辞令であって、本人に全くそんな気はないのだということは、態度を見るだけで知れた。
「こちらも、来てくれて嬉しいよ」
 手にしたグラスを軽く掲げ、男も応じた。僅かに微笑する。
 それが社交辞令なのか本心なのか、わからなかった。
「あんたが自分から出向いてくるなんて、相当ご執心だな」
「ここでは日常の立場や責務なんて、関係がないんだよ」
 男は、仮面の奥の瞳を少し細めてから、アースの肩越しに、レイを見つけた。
 しばらくまるで値踏みするようにレイを眺めてから、少しだけ口元を緩める。
「彼は?」
「俺の助手さ。気にするなよ」
 アースが言うと、男は簡単に、そうか、と引き下がった。
「それでは、私は失礼するよ。まだ挨拶をするところがあるんだ」
 男はそう告げると、まだ動揺から立ち直れずにこちらを気にする人込みに向かって歩き出した。
「地下だ」
 すれ違う刹那、男はアースの耳元で、かすかに囁いた。
 アースは一瞬だけその瞳を見開いて、そしてにやりと口の端を持ち上げる。
「君も、色々と気をつけたほうがいい」
 レイの傍らで立ち止まって、男は呟いた。
 深い青の瞳に見つめられて、レイは咄嗟に言葉が出なかった。
「……いずれ」
 驚きに立ち竦むレイにかすかに笑ってから、男は通り過ぎた。

「知り合いか?」
 声に我に返ると、アースが訝しげにこちらを見ていた。
「いえ、あのひとは……?」
「いや、いいんだ。よく考えてみりゃ、お前が奴を知ってるわけがねぇか。気にするな」
 アースはひとりで納得した様子で一方的に話を打ち切ってしまう。それ以上何も訊くことも出来ずに、レイは疑問を飲み込んだ。
 ついて来い、と一言投げかけてから、アースが踵を返したからだ。
 再び、平静を取り戻しかけた人波を割って、入り口の方へと歩き出す。
「どこに……」
 ためらいのない背中に問い掛けると、薄い笑いが返ってきた。
「本日のメインイベントがあるところだよ」



5.

 大通りなんかはまだ治安もいいほうだから、出歩くならそのあたりにしておいたほうがいい。
 美しい街だけれど、一本裏通りに入ったら掃き溜めだよ。

 戸口を出てから忠告を思い出す。
 あたりはすっかりと闇に包まれていた。
 おるすばん、と。言われたのに。
 うつくしく整えられた石畳を踏みながら、リョウコはひとつ、溜息を落とした。
 こんなふうに夜に、フラフラと出歩いたりしたら、きっとみんな良い顔はしないんだろう。
 分かっているのだけれど。
 ひとりでいてもどうしても落ち着かないから、少し夜風に当たろうと外に出た。
 大通りを一本、歩いたら帰ろう。
 道はしっかり覚えているし、大丈夫。
 それでもなんだか足取りが重いのは、後ろめたいからだろう。
 自分で自分の身を守る技量もないくせに、ふらふらと彷徨いだしたりして。
 けれどここ数日、落ち着かなくて仕方がないのだ。
 何故だろう、自分の足元を見ながら、なだらかな坂を広場に向かって上る。
 街灯に照らし出された自分の影を踏みながら考える。
 何故だろう。
 そうすると、何故か自然に、前髪に隠れた額に触れてしまうのだった。
 額の中央だけ、何かが違う。
 温度差がある。十字の形に。

 あのひとに会ってからだ。
 この心のざわつきは、彼に―――大司教ラジエル・エレアザールに会ってから続いている。
 ぐるぐると胸をめぐるこの感情が一体なんなのか、どういう名前なのか。それすらもわからずに鬱々とする。
 悪循環ばかりだ。
 こうしてひとりで街を歩いてみたりすれば、少しでも気が晴れるかと思った。
 まわりになにも、人のやさしい温度のないところで、頭を冷やしたいと思った。

 気がつけば、傾斜は既に終わっていて、中央広場に踏み入れていた。
 昼間は車が縦横無尽に走っていた広場も、今はひっそりと静まり返っている。
 盛り場から遠い所為もあるのか、人通りも少ない。
 ふと、リョウコは立ち止まって、少し離れたところにそそりたつ、尖塔を見上げた。
 教皇庁とはまた別に、カルチェ・ラタンに住む人々に開かれている教会だという。買出しに出かけたときに、ファンに教えてもらった。
 バベルという、あまり教会の影響の届かないところで生まれ育ったリョウコには、この街が纏う雰囲気は異質だった。
 神学生の都と呼ばれることもあるように、立ち並ぶ大学とそれにともなってその大学固有の聖服を纏った学生の多さにもびっくりする。
 どれだけ、外の世界を知らなかったのか。
 そのなかでも、カルチェ・ラタンは異質なんだよ、とサイジョウ・ヒイラギは説明する。
 ここは、つくられた箱庭と同じなんだ。
 理想や夢を全てつぎ込んで、その調和を必死に守っている。だからここはこんなにも、神聖で美しくて、穏やかに見える。
(誰の理想、誰の……)
 ここが箱庭だというのなら、一体誰が作り出したというのだろう。

 暗闇の中でぽつんと立ち尽くしていると、どこからともなく突然に、ざわめきが湧いてきた。
 ざわめきとは言っても、喧騒ではない。
 多くの人々の足音と、少し押さえた話し声だ。
 ざわめきの元を視線で辿ると、教会の入り口が開いたところだった。
 ひとが、溢れ出してくる。
 人々は手に燭台を持っていた。橙の光が闇の中で揺れている。
 ミサが、あったのだろうか。
 流れてくる人波に逆らって、リョウコは教会の方へ歩き出した。
 ゆらりゆらりと揺れる橙の炎が、体の横をいくつも通り過ぎる。

 集会も終わった時間にふらふらと教会に近づく少女の姿を、行過ぎる人々はものめずらしそうに眺めた。
「お嬢さん」
 そのうちのひとり、初老の男性がリョウコに声をかける。
 はっと立ち止まって、リョウコは男性の方を見た。そして気付く。今日は眼鏡も何もしていなかったことに。
 この街では、この瞳はあまり歓迎されない。
 が、男性は顔色一つ変えず、微笑んで、開かれた教会の扉を指差した。
 慈愛の貌(かお)で。
「まだ猊下はいらっしゃるよ。何かお話があるなら急いだほうがいい」
「……え……?」
 一瞬、言葉の意味が分からなくなった。声は聞こえているのに、理解できない。
 呆然と、リョウコは訊き返した。
「今日はミサに猊下がいらしているから、お会いしに来たんだろう?」
 鼓動が。
 爆発的に高まってゆく。左胸が、苦しいぐらいに。
「あ、ありがとうございます」
 礼を言う声が震えていた。勢い良く頭を下げると、男性は微笑んで立ち去った。

 広場はまた、先程の静寂を取り戻していた。
 気付けばひとり、闇の中に取り残されている。
 鼓動はまだ、おさまらない。
 右足を踏み出す。つられて左足も。
 いまだ開かれたままの教会の扉が、徐々に近づいてくる。ぼんやりとした、ろうそくの明かりが漏れてくるばかりで、照明は何もない。
 けれど逆に、そのほのかな灯りが、誘っているように揺れている。
 リョウコは、扉の片方に手をかけて、教会の中を覗きこんだ。
 つくりは大体どこも似ている。
 長椅子が整然と並び、入り口から真っ直ぐに一本伸びた道の先に祭壇がある。
 祭壇の後ろには十字架と、ステンドグラスと。
 ステンドグラスが今は、ほのかな灯りに照らし出されて、昼間とは違う色合いにかがやいていた。
 祭壇に、人影が見えた。
 僅かな光も跳ね返す金糸が、肩から背にかかっている。
 こちらに背を向けて、ステンドグラスを仰いでいた。

 呼吸が困難になる。胸のあたりが、きもちわるい。
 ふと、踏み出した足の、踵が床を打った。
 とても小さな音でも、静寂には良く響いた。
 金糸を揺らし、人影が振り返った。
 何故か、リョウコは泣きそうになった。


            *


「そろそろ……ね」
 右手首に下げた、鎖状の時計を確かめて、クリスが呟いた。
「お嬢さん、ここで時間を気にするなんて、無粋ですよ」
「は?」
 その腕を、横から無遠慮に掴んだ手がある。
 クリスの手を軽く握ると、口元に運んで、軽く接吻けた。
「は、はぁ?」
 金髪の若い男のようだった。ほぼ顔の全てを仮面で覆ってしまっている。お陰でこえがくぐもって、聞き取り辛いことこの上ない。
「よろしければ向こうでお話など」
 よろしければ、とは言うものの、向こうは半ば強引に腕を引こうとする。
「いえ、ちょっと私……」
 と、近くにいるはずのハルトの姿を探す。が、見つからない。
(あの馬鹿、どこ行ってんのよ! もうすぐ時間なのに!)
「遠慮などなさらずに、さあ」
「えっと、ちょっと、あの……」
 断る間にもお世辞にも弱いとは言えない力で引っ張られ、クリスはついつい逃げ腰になる。こんなときにこんなところで、こんな坊ちゃん相手に時間を無駄にするわけには行かないのだ。
「すみません」
 一方的に繋がれたふたりの腕の上に、別な腕が割って入った。
 片方は救世主を見つけたように、もう片方は邪魔者に不快そうに、声の方を見る。
「連れなので、手を離していただけますかね」
 突然現れた男が、仮面の下の赤い瞳で男をにらみつけた。乱入者の無言の威圧に、男は慌ててクリスの手を振り払うと人波にまぎれて消えてしまった。

「……何やってんだよ」
 男の背中が完全に視界から消えてから、ハルトは深々と嘆息する。
「そ、そっちこそどこ行ってたのよ!? もうすぐ時間じゃない」
 照れ隠しなのか、必要以上に声を荒げて、クリスが反論する。
「だって、ここにいたってすることなかっただろうが。他の通用口がどこに通じてるのか、確認してきたんだよ」
 別にさぼってたわけじゃない、とハルトは不服そうに言い返した。
「あ、そうなの……」
 てっきりどこかをふらふらと徘徊していたと思い込んでいたクリスは、すっかりと毒気を抜かれてしまった。
「そうならそうと、ひとこと言ってくれればいいじゃない」
「面倒だった」
 さらりと一言で済まされて、直りかけたクリスの機嫌はまたしても斜め方向に傾く。
「あんたねぇ……!」

 がつん。
 クリスの声を遮って、鈍い音が場内に響き渡った。
 音と同時に場内の照明が落ちる。
 一瞬遅れて、天井に美しいホログラムが映し出された。はらはらと、無軌道に何かが舞っている。
 ハルトは思わず目を見張って鋼鉄の天井を見上げた。
 たかが映像だ。それは分かっている。
 だが。
 はらはらと舞うのは、金色の蝶だった。
 思わず、我を忘れて見蕩れそうになるハルトの腕を、クリスが横から強く引いた。
「非常灯……!」
 耳元で釘を刺されて、ようやく我に返る。
 ぐるりと視線をめぐらせて、青を探した。
 途中どうしても金色を追いそうになるのを自制する。
 青が、見えない……?
 ぐるりと探した視界の中には、青の非常灯は見えない。
「ね、ハルト」
 横からクリスが服の裾を引っ張った。
 なんだよ、と振り返りかけて、ハルトは自分のすぐ後ろに青い色を発見した。
 背にした壁の、ごくごく近くにひとつ、扉がある。その上部の非常灯が、青く輝いていた。
「マジ、ここかよ……」
 愕然とうめくハルトの耳に、足音が近づいてきた。
 振り返ると、すぐ傍に男の姿があった。
 オーソドックスな正装に、簡素な白の仮面をつけた、壮年の。
 視線が絡まった。相手は少し驚いたように、目を軽く見開いて、ハルトを見た。
 そして口元を、笑みの形にゆがめる。
「奇遇だね、実に」
 ハルトは、視力の弱った瞳を細めて、仮面の奥の男の双眸を凝視する。
 まさか。
 左目の、こめかみについた傷が急に、火照りだしたような気がする。全ては錯覚には違いないが。
 体が覚えている。眼前に立つ男のことを。
「てめぇ、ここで何を……」
 男は、深い青の瞳を細めて微笑した、ように見えた。本当の表情は、仮面の奥に押し包まれて見えない。
 ただ、口元のゆがみだけは確かだった。
「失礼するよ」
 男は問いには答えずハルトの隣を擦り抜けた。青い非常灯が点灯する扉をするりとくぐった。

 横滑りの扉が完全に沈黙すると、照明が戻った。
 天井から容赦なく降り注いでくる光の強烈さに、思わず目を庇った。
 瞳孔が収縮する痛みに耐えつつ、ハルトはその扉の前に立つ。が、すっかりとロックされていることに舌打ちして、身を翻した。
「ちょ、ちょっと待ってよ、今の何!?」
 慌ててその背中を追うクリスがハルトの片腕を掴んだ。
「悪いが、協力助言って言ってられなくなった」
 クリスから腕を取り返しながら、ハルトはスーツの内側を探る。獲物の硬い感触を掌で確かめる。
「なに、ちょっと待ってよ……! 全然分からないわよ……!」
 ピストルの有無を確かめているらしいその動作に、クリスは色めき立つ。
「俺も無関係じゃいられなくなったってことだよ」
 無愛想に吐き出して、ハルトは通用口の方へ荒々しく歩き出した。
 その勢いに、慌てて人々が道を開ける。クリスは小走りにその背中を追った。
「取引先は地下だ。あの通用口の先にはエレベーターがある」
 追いついたクリスに、早口でハルトは告げた。
「エレベーター以外で地下に降りるとなると、階段しかない。階段の位置は、俺たちが入ってきたところのもっと奥だ。おそらく警備員もいるだろ。悪いが俺は強行突破させてもらう」
「強行って!」
「これは俺の意思だ、曲げる気はない」
「さっきのって、もしかして……」
 ふたりが会場に入ってきた通用口から廊下に出ると、先程はいたはずの女がいない。
 が、気にしている暇もないので、そのまま通り過ぎた。
「くっそ、なんでここにいやがるんだよ」
 悪態をついて、ハルトは顔から仮面を引き剥がした。そのまま床に投げ捨てる。
「待ちなさいって!」
 ようやく追いついたクリスが、強引にハルトの腕を掴んで、その歩みを邪魔した。
 立ち止まったハルトが、気色ばんで睨むので、クリスは思わずたじろいだ。
「世辞にも安全だとは言えないんだよ。少しでも躊躇うんなら、ついてくるな」
 その一言が、クリスの逆鱗に触れた。
 気付けば、人気のない廊下に乾いた音が響き渡っていた。右掌の内側に痛みと熱を感じてから、クリスは我に返る。
「馬鹿にしないで」
 侮られた。それは侮辱だ。
 瞳に憤りの色を滲ませて、クリスはハルトを見据えた。
「行くに決まってるでしょ。私を誰だと思ってるのよ」
 言って、顔から白い仮面を剥がした。
 ハルトは、容赦なく打ち据えられた左頬が、じんと火照りだすのを感じながら、ほんの少しだけ平静を取り戻した自分に気付く。
「悪かった」
「分かればいいのよ」
 素直に詫びるハルトに、クリスは不敵に笑って見せた。


            *


 そろそろ時間だな、とアースが言った。
 ふたりは、会場からずいぶんと離れた、人気のない廊下にいた。息苦しい仮面などとうに外してしまっている。
 壁にもたせかけた体を起こし、アースは、眼前にある鉛色の壁を見つめた。
 一見ただの壁面のように見えるのだが、よくよく見ると、カードキィの差込口がある。
 ここに、地下に通じる非常用の階段があるのだと、レイは説明を受けていた。

 HGの取引がある。その取引時間は日付が変わった直後。
 それまではここで待機。
 完結に言い渡され、一切の質問を拒まれて、レイは仕方なく手持ち無沙汰に壁にもたれかかっていたのだが、アースが体を起こしたので、慌ててそれに倣う。
 どこから取り出したものか、アースはいつの間にか携帯用の機会端末を手にしている。
 端にコードのついたカードを、カードキィの差込口に押し込んだ。無言で、機械端末のこまかいボタンをいくつか操作し始める。
 レイは再び手持ち無沙汰に、その様子を眺めていた。

 ざわめきが聞こえてきた。
 入り乱れた足音と、怒声、罵声だ。時折、銃声が混じる。
 そして、それは次第にこちらに近づいてくる。
「おい」
 相変らず機械端末のディスプレイとにらみ合ったまま、アースがレイを呼んだ。
「俺はこっちのロックを外すから、邪魔者が来たら、お前に任せる」
「ええっ!?」
「せっかく、危険物感知のセンサー狂わせて銃器持ち込んだんだろうが。役に立て」
「それは、そうですけど……」
 レイは懐に収めたティフェレトとマルクトの感触を探る。銃器を持ち込めと言ったのは、アースだ。
「どうやら非公式に招待されたのは俺たちだけじゃなさそうだぜ。全く、西の大将は食えない奴だよ」
「西の大将ってまさか……」
「ああ、さっき会っただろ」
 エメラルドの瞳をディスプレイから離さずに、アースは言う。
「正規軍の……」
 言いかけたところで、乱れた靴音に阻まれる。
 はっと顔をあげれば、黒い人影が角を曲がってきたところだった。一直線に、こちらに向かってくる。
 レイは、懐に差し込んだ手で金のピストルを抜きさって、黒い人影に向けた。



6.

「どうなってんだ?」
 廊下を侵入経路と逆に辿りながら、ハルトは首をかしげた。
 要所要所に配置されている警備員たちが、軒並みすやすやと寝息を立てているのは一体何故だ?
 皆、壁に背中を預けてずるずると滑り落ちたように眠り込んでいる。
「先客がいるってことじゃないの? 多分、眠らされたんでしょ」
「厄介なことになりそうだな、全く……」
 乱暴に髪を掻き乱して、ハルトは嘆息した。
「お、お前たちそこで何をしている!」
 お決まりの文句が、右側から聞こえてきた。
 律儀にも仮面を装着した警備員がふたり、右手側の角から顔を出したところだった。
「さっそくね……」
 げんなりと吐き出すクリスに、ああ、と応じてから、ハルトは黒光りする銃口を男たちに向けた。
「怪我したくなきゃ、見なかったことにするんだな」
 血に濡れたような双眸を威圧的に細めて、ハルトは凄んだ。
 ふたりの警備員は一瞬怯みを見せたものの、すぐに耳元のインカムに叫んだ。
「き、危険人物発見。至急、応援を乞う!! H6ブロック!」
「やっぱりな」
 簡単に引き下がるとは思ってはいなかった。苦笑を漏らし、ハルトは身を翻す。目的地はここよりも、更に奥だ。
 走りにくいヒールを脱ぐと、クリスもそれに続いた。
 突き当たりの角を左に折れる。土産とばかりに一発、天井に向けて発砲した。鋼鉄の天井に跳ね返って、金属質な音を立てる。
 間を置いて、「待てェ」という声が追ってくる。
 待てと言われて待つわけには行かない。それは基本中の基本だ。
「その突き当りを右だ。その先に非常用の階段がある……んだが、問題は入り口のロック外してる時間があるかどうかだな……」
 いくら遺跡攻略はおてのものとは言え、一瞬で魔法のように出来るわけでもない。
 ここにサイジョウお手製のハッキングカードがないことが悔やまれる。
 手順を頭の中でシュミレートして、かかる時間を計算した。
(2分……いや、1分半でいけるか……?)
 その思考は突然ぶつりと遮断された。
 空気を引き裂くような銃器の咆哮と、弾丸が壁にぶち当たって跳ね返る金属音が響いた。うしろから。
「ふざけんじゃねぇよ、邪魔すんな! お前らには関係ないんだっつーの!」
 ぷつりと音を立てて何かが切れた。
 後ろに向けて怒鳴りつけると、2発ほど発砲した。
 黒い人波の足が、一瞬だけぴたりと止まる。
 その隙に、突き当りの角を勢いに任せて右に折れた。

「先客よ……!」
 息を乱しながら、クリスが叫ぶ。
 目を凝らすと、確かにその一本の廊下の先に、人影がふたつ、ある。
「構ってられるか!」
 半ば自棄になって吐き出すと、ハルトは一気に先客との間合いを詰めた。
 先客のうちの片方は、非常用の扉のロック解除をしているようだ。外してくれるならこちらの手間も省ける。
 心中で算段しているうちに、先客のもう片方が動いた。
 懐から金色に輝く銃器を抜き出して、こちらに向けてくる。
 あと一歩踏み込めば相手の懐、という位置で、ハルトも右手のピストルを相手に突きつけた。
 お互い、左胸に銃口が当たるほどの位置で。


            *


 時間が止まった錯覚。

 危険な状況だというのに、急に体が動かなくなった。
 お互いに銃を突きつけあったふたりは、呆然と固まっている。

 獲物を突きつけあう相手の顔に、見覚えがありすぎる。
 まさか。
 こんなところで。

「お前、その髪……」
 先に口を開いたのは黒髪のほうだった。
 愕然と、つぶやいた。
「そっちこそ、左目……」
 金髪の方が切り返す。
 微妙に焦点の合っていない、相手の赤の瞳を呆然と凝視する。
 そして、中途半端な沈黙が流れ。


「何でここにいるんだよ!?」
 ハルトとレイは、同時に叫んだ。





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