カルチェ・ラタン
the calm before the storm
旅立ちの日が重なったのは偶然だった。
別に、話し合ったわけでもない。
その当時はお互いに忙しく、相手の状況を把握していたわけでもない。
偶然。ただの偶然。
まだ夜の明けきらない、薄暗闇の中。
町外れの教会の裏にある墓地の、とある墓標の前で。ばったりと顔を合わせたのだ。
これから育った村を後にする二人の手には、それぞれ決して少なくない荷物がぶら下がっていて。
本当にただの偶然で顔を合わせたのにも関わらず、なんだか別に不思議にも思わずに。朝の挨拶を交わした。
会うような気がしていた。心のどこかで。
お前、今日出発だったっけ?
そっちこそ。
そんなことは確認しなくても互いの荷物を見れば知れる。
旅立ちの日にちが重なったのは偶然としても、よりにもよって、最後の挨拶をする場所までも同じとは。
お互いに驚いてみるものの、少し考えれば納得がいった。
同じ日に同じ場所に捨てられ、同じ人間に見つけられ名を貰い、同じ屋根の下で育った十数年の年月は、決して短くは無いということ。
しばしの別れを言いたい相手は、同じで当たり前かもしれない。
敷地内に無数に立ち並んだ白い十字の墓標。そのひとつの前に並び、二人はしばらく黙っていた。
右手側の空から、細い光の矢が差し込んできた。薄暗闇は数分もしないうちにその光に飲み込まれ、朝が来る。
元気でな。
差し込んでくる朝日に目を細めながら、先に切り出したのは黒髪のほう。
そっちこそ。
金髪が切り返す。もう慣れた言葉の応酬だ。
そしてどちらともなしに右手を差し出し、軽く一度だけ握って離した。
今まで重なり続けてきた道が分かれることに、寂しさが無いといえば嘘になる。
けれど今は、目指す光の見える方向が全く異なってしまったから、それは仕方の無いことなのだろう。
光を追わずには、生きられなかったから。
別々の道を選んだ。
あれからもう、10年が過ぎた。
再びこの街で道が重なったのは、あの朝のようにただの偶然だったのか。
それとも―――。
1.
さながら病院のようだ。
あまり横幅の広くない廊下の、左右の壁に張り付いたような無数の扉も。磨き上げられたリノリウムの床も。
全てが白に統一されている。
街角のマンホールから地下に下り、入り組んだ地下通路を右に折れ左に折れ、時間と方向の感覚もなくなるぐらい歩いたあと。
唐突に目の前に扉が現れ、その扉を開いた先が。この廊下だ。
白が目に痛い。
「おい!」
二、三歩その白い廊下に踏み込んでから、アースは右側の壁に体を重そうに預けて叫んだ。
「そのへんに誰かいるんだろうが、出てこいよ」
傷口を左腕で押さえたまま、白い壁に右側のこめかみを押し付けるようにしてもたれかかりながら、できる限りの声を張り上げる。
すぐさま、左右に並んだ扉の幾つかがばたばたと開いた。
「しゅ、主任!」
飛び出してきた数人の男女はいずれも白衣姿で、左腕に教会直属の研究所の紋章が入った腕章を嵌めている。
彼らは口々に「主任」と叫びながら、アースの傍に駆け寄った。
「反応が早ぇな。上出来だ」
冴えない顔色で口元だけで笑ってから、アースは居並んだ白衣たちをぐるりと一瞥する。
「縫合が出来る奴は、医療部門のカークとイリリア……だな、東研究棟にいるだろうから、呼び出しをかけてくれ。早く連絡がついたほうでいい」
小柄で、顔に似合わないような大きな眼鏡をかけた若者に、アースは指示を出す。
はい、と威勢のいい返事をして、その眼鏡くんが踵を返す。ぱたぱたと一本伸びた廊下を駆けていった。
「それからその間に、ABの輸血用の血液を少し多めに用意しといてくれ。一番手近に処置が出来る部屋は?」
髪を首の後ろでひとつにまとめた女性が、すぐ傍にある扉を指差し、「簡易ベッドを運び込むだけでよろしいなら、そこででも」と言った。
「上等だ。少し急いでくれ」
「副主任に連絡は」
ゆるりと壁から体を起こして、女性の指し示した扉まで歩き出したアースに、思い出したように彼女が聞く。
アースは、歩き出した足をふと止め、数秒間考え込んだ。
「……要らねぇ。どうせ散々馬鹿にされんのがオチだ」
言うことを聞かない体を引きずるようにして、アースはすぐ傍の扉のノブを握って手前に引いた。
「ああそれと、そこの女顔のボーヤは俺の客だ。丁重にな」
言い残して、アースは室内に消えた。
ぱたり、と閉まった扉をレイは見つめていた。廊下に再び人気は無くなり、誰もいない真っ直ぐな廊下だけが目の前に続いている。
しばらくして、先程の女性が、担架よりも少し大きめな簡易ベッドを押して正面から近づいてきた。
その後ろに、黒いスーツを着用した男の姿がある。
女性は、レイに軽く会釈した後、アースが消えた扉の中に簡易ベッドを運び込んだ。束の間開いていた扉から二言三言、声がぼそぼそと聞こえてきた。
「顔色が良くありませんね、お疲れですか」
女性と共に近づいてきたその男は、レイの前で立ち止まる。
黒に見える髪の毛は、よく見ると深い青だ。天井から落ちてくる蛍光灯の光を反射する部分だけ、青く光っている。
髪と同じ色の瞳は酷く穏やかで、物腰はやわらかい。
「貴方、は?」
疲れているのか。そう訊かれて初めて、レイは自分が酷く疲労していることに気付いた。
目蓋の奥が重く、頭の芯がぼぉっとする。
「はじめまして。私は研究所の副主任を務めております、オルウェン・ドーソンと申します。うちの主任が大変ご迷惑をかけたようで」
男は穏やかに微笑んで、そう名乗った。
*
―――すっげぇ。なにこれ。
分厚い図鑑を覗き込む。そこには黒い羽根を広げた美しい生き物の姿があった。
光の加減で、瑠璃のように輝く。
それは"蝶"というんだそうだよ。
同じ部屋の中で書類を眺めていた聖服姿の男が答えた。
―――チョウ?
そう。昆虫だそうだよ。今はもう、絶滅してしまったみたいだけど。
勿体ないな。大きな図鑑を膝の上に乗せて、じぃっと見つめた。
こういう美しい生き物が、生きていたというだけで、素敵だと思った。
―――オレさ、コウコガクシャになりたいんだ。
にまっと笑うと、大きな手が頭を撫でた。
……やわらかい。
うつぶせた頬に触れる感触がとても心地よい。
この心地よさは、随分と久しぶりに感じる。
こんなにも、枕の感触がいとおしいと感じるのは、疲弊していたからだろう。
(……たった二日、だってのにな)
ベッドが懐かしいなど、一体どんな生活を送っていたのか。苦笑しながら、ハルトは体を仰向けに返した。懐かしい夢を見ていたような気がする。
盗掘を繰り返していたときも、それなりに過酷な生活はしていたと思うのだが、ここ数日の強行軍はそれを上回る過酷さだったのだ。
カルチェ・ラタンに入ってからは、エークの提案した『警備省本部で仮眠』という実に建設的なプランに、一も二もなく喰らいついて、現在にいたるというわけだ。
警備省本部は、コンクリート造りの6階建て。実に簡素で事務的な効率を非常に重視した、"役所"の雰囲気を漂わせていた。
これもまた、豪奢で、昔からの建築様式や美術的価値に重きを置く教皇庁とは対照的であるといえるだろう。
その4階にある仮眠室で、この世の天国とも思えるベッドに沈んでから、どのぐらいが経ったのだろう。
しっかりと熟睡できたらしく、だるさや疲れはない。強いて言うならば腹が減っているぐらいだろうか。
(それもこれもあいつが強行軍をするからだ)
上半身を起こして、ハルトは右隣のベッドを見やる。ベッドがその奥に3つ並んでいて、その向こうには窓があった。
「あれ」
間の抜けた声が自分の口から落ちた。目を遣った場所に、いるべきものがいなかったからだ。
「よく眠れたみたいね」
左手側から声が聞こえてきた。首を180度回してそちらを見ると、あまり丈夫そうとはいえない扉を開けて、クリスが顔を出したところだった。
「……寝坊か?」
仮眠室に踏み込んできたクリスがやけにすっきりとした顔をしているのだ。起きてからだいぶ経っているように見える。
ひとりだけのうのうと眠っていたのだとしたら、バツが悪い。
するとクリスは微笑んで、「そうでもないわ」と言った。
「ちょうど昼過ぎよ。私も一時間ぐらい前に起きたばっかり。上に報告があったから、そのまま寝かせておいたけど。―――いい? 本部長が会いたいってさ」
どうやらベッドから下りてついて来い、ということらしい。
「ああ、本部長ね。…………本部長?」
生返事をしながらベッドから降り、ハルトはようやくクリスの言葉を嚥下する。そして訊き返した。
クリスは、怪訝そうな表情のハルトに、笑顔で「そう、本部長」と繰り返すばかりだ。
愕然とその場に立ち尽くすハルトの首根っこをむんずと掴み、ずるずると引きずるようにして、クリスは仮眠室を出た。
「ちょ、ちょっと待てよ! 本部長!? 警備省のトップじゃねぇか! なに考えてんだ!」
「なにって? だって、本部長が会いたいって言ってるんだもの。―――あ。お疲れさまです〜」
ハルトの腕を引っつかんだまま、クリスは廊下を引きずってゆく。通りすがりにクリスに挨拶された同僚たちは、何事かと思わず立ち止まった。まるで珍獣を見るような目つきをして。
「お前、分かってるんだろうな、俺の立場!」
「何が? 異端者だってこと?」
「声がデカい!」
クリスの隣に並んだハルトは、ようやく右手をクリスから取り戻して、声を低めた。
「……警備省だって、見逃していいわけじゃないんだろ? それに……」
「それに?」
言葉尻をとらえて、クリスは含み笑う。何かをたくらむような上目遣いに見つめられて、ハルトはぐっと言葉に詰まった。
"それに、警備省に捕まるだけの理由も山ほどある"とは、とても口に出しては言えない。
「異端者の件に関しては、今回は目を瞑るってさ。……HGはそのぐらい深刻になってきているってことよ」
「……本当に仲悪いんだな、教会と警備省」
ぽつりとハルトが零すと、クリスは押し黙った。
教会が血眼になって捜索している"異端者"を、こうも簡単に、トップが目を瞑っていいものか。
ばれなきゃいいだけの話よ。クリスが投げ捨てるようにポツリと呟いた。
「目が覚めたみたいだな」
後ろから、抑揚のない声が追いついてきた。すぐに隣に並ぶ。
急落したテンションに少々困っていたハルトは、その機械の様な抑揚のない声でも、ありがたいと思った。
「エーク、ハルトを本部長室まで連れてってくれる? 資料、持ってくるの忘れたわ」
早口にそう言い残すと、クリスは突き当たりのT字路を右に折れた。
こっちだ、と何事もなかったかのように、エークは反対側を示す。
ハルトは、遠ざかってゆくクリスの後姿をしばらく眺めたあと、左に曲がった。
「……教会、か? クリスが臍を曲げたのは」
しばらくの沈黙の後、エークが真っ直ぐ前を向いたまま口を開いた。
ハルトはそのまま黙っていることで肯定の意を示す。
「確かにここと教会とはあまり友好的な関係とはいえないな。宗教と現実的な法律とは、相容れないことが多い。姿勢や考え方がそうだ。……が、クリスはまた別だ。自分の身のためにも、極力口に出さないほうがいい」
「別……?」
「あいつの父親は、正規軍のお偉方に殺されているんだ」
あまり抑揚のない声だから余計に、ダイレクトにクリアに響いた。
「そして俺も、助けることが出来なかった。この目は……」
エークは、両目に常時嵌めたままのゴーグルに、ふと触れた。
「この目はその時の傷だ」
ゴーグルを模した、それは義眼なのだった。
ハルトは何も言えずに黙った。軽々しく相槌を打つことは、はばかられた。
人それぞれに抱えた傷口の深さは、目分量では測れたものではない。簡単な慰めなど、不要だ。
そのままふたりは黙り込んだまま、その細い廊下の突き当りまで歩いた。
明らかに簡素な廊下とは不似合いな、光沢のある茶の扉が目の前に現れる。エークは指の関節でその扉を二度、ノックした。
「入りたまえ」
凛と張ったアルトの声が、扉越しに響いてきた。
2.
人の多さに眩暈すら覚えそうになる。
両腕で胸に紙袋を抱えたまま、リョウコは人波を縫って歩く。
数日ぶりに地上に出ることになったのは、食料その他の買出しが必要になったからだった。
「大丈夫? 重くない?」
少し前を歩いていたファンが、半ば振り返って訊いた。そんな彼も両手に荷物を抱えているのだ。
大丈夫です、と答えると、ファンはそれならいい、と笑った。
市場や商店街が建ち並ぶ界隈を抜け、これでも表通りから一本外れた道。
きれいに整えられた石畳が、緩やかに下っている。
行きは表通りを進んできたのだが、とてもこの大荷物では人の海を抜けられそうにない。するとファンが何気なしに脇道に逸れたのだった。
バベルから出たことすらなかったリョウコにとって、首都カルチェ・ラタンは未知の領域。どの道が一体どのようにどこに繋がっているのかなど、一度や二度通っただけでは分からない。
朝、昼、夜と。人の流れが違うだけで雰囲気が全く変わってしまうから尚更。
「ファンさんはカルチェ・ラタンに来たことがあるんですか?」
すたすたと、ショートカットできる道を選びながら郊外へ抜けるファンの足取りには迷いがない。
見失わないように、荷物を落とさないようについていきながら、リョウコは訊いた。
「え? 初めてだけど」
するとファンは少し驚いたような顔をして「どうして?」と訊き返した。
「だって、すごく地理に詳しいみたいだから……」
随分と中心部から外れてきたのか、人の姿が徐々にまばらになってゆく。
それにしたがって、ふたりの足並みも、一定のペースに落ち着いてきた。
「ああ、随分と地図と睨み合いしてたからね」
呟きながら、ファンはぐるりと周囲の建物を見渡した。
長方形の窓が等間隔に並んだ、4階建てほどのアパートメントが隙間なく立ち並ぶ、住宅街にいた。
ふと足を止めて、ファンはなだらかに下る石畳の先を見る。
カルチェ・ラタンは、丘陵地帯に出来た街だ。中央に聳え立つ中央議会と教皇庁のツインタワーを頂点にして、四方にゆるく下っている。街のはずれへ行けば行くほど、教皇庁が高く聳え立つ形になっているのだ。
左右をアパートメントに挟まれた細い道のその先は、左に緩やかに曲がっている。
ファンの瞳は、ぼんやりとそのあたりを見つめたまま、動かない。
高い建物に挟まれた道にはあまり日も射さず、少し遠くで人々の生活の喧騒が、他人事のようによそよそしく響いている。丁度人通りの絶えたその道に、いつのまにかふたりだけ取り残されていた。
外界からその部分だけ、切り取られたようにしずかだった。
銅像のように立ち尽くす青年の傍らに立って、リョウコはその横顔を見上げた。目先にある曲がり角よりも更に遠くを見るようなその横顔には、表情がなかった。
「ファンさん?」
「……あ、ああ。ごめんね」
控えめな呼びかけに我に返ったファンは、はっとリョウコを見下ろして、口元を少々無理にほころばせた。
再びファンの顔に表情が戻ったことは、リョウコを少し安堵させた。それでも、拭いきれない不安がざらりと残る。
知らない人の顔を彼はしていた。
少しの間傍にいただけで、相手の全てが分かるとは思わない。それでも、先程の顔は一度も見たことがなかった。いつも穏やかで、おっとりとしている彼特有の雰囲気が欠片も感じられなかった。
「戻ろうか」
いつもどおりのやわらかい笑みを浮かべて、ファンは先を促した。リョウコはぎこちなく頷いて、胸に抱いた紙袋を抱えなおした。
(この5年間、色々な街を渡ったけど、カルチェ・ラタンに来たことは一度もない)
石畳を踏みしめて、その坂を下りながら、ファンは胸中で独白する。
それまでの記憶を一切失って、人形のように地面に転がって目が覚めてから、5年。
行動範囲の広い隊長に付き従って、色々な街を訪れたことがあるが、ここにはまだ一度も訪れたことがない、筈だ。
それなのに。
視線だけを廻らせて、周囲の風景をなぞる。
そうすると、何かが脳裏に。よぎる。
何かと被るような。違和感? 否。既視感だ。
(なつかしい? 一体……)
坂を下りきって、ゆるい角を左に折れると、アパートメントが途切れた。
中世的な街並みが、一本の道を挟んでがらりと変わる。四角い箱を並べたようなプレハブや、黒い煙を吐き出す工場が、見渡す限り続いていた。
この街を見たことがある。
いや、それどころかこの足とこの手とで、触れたことがあるような気がした。
一体、いつ。
*
煌々と、青白く輝く蛍光灯のせいで、時間の経過が分からない。
ここが地下と言う場所だから尚更か、とレイはひとりで納得する。
ちりちりと、落ちてくる光が"揺れる"ので、導かれたように仰ぎ見ると、天井にへばりついた4本並んだ蛍光灯の、右から二番目がぴりぴりと細かい点滅を繰り返していた。
根が少々神経質なレイにとって、その少しの揺れは大きい。
古ぼけた黒いソファーに身を沈め、気を紛らわそうとなんとなく周囲を見渡してみた。
目の前の壁一面に、灰色の金属で出来た棚がある。所狭しと並ぶ、ファイルやら専門書籍やらをゆるりとなぞるように眺めた。
部屋の中央に隣り合わせに据えられた、ふたつの事務用のデスクは、揃いの機械端末が鎮座しているほかは全く対照的で、片方は書類が乱雑に散らばっていて、もう片方は綺麗に片付いていた。
どちらがどちらの持ち物なのか、容易に知れる。所有物(もちもの)には如実に所有者(もちぬし)の性格というものが現れるらしい。
ただ、乱雑な方のデスクの上には、大輪の真紅の薔薇が、シンプルな硝子の一輪挿しに挿してあった。
「蛍光灯が駄目になっているな」
足音が背後から近づいてきた。
「すみません。気になるでしょう」
やわらかい声がそう詫びて、どうぞ、と応接用のテーブルに慣れた手つきでコーヒーカップを置いた。
「少しは眠れましたか」
レイの向かい側に腰掛け、穏やかにオルウェン・ドーソンは訊いた。
ダークグレイのスーツをぴしりと身に纏った、若い男だ。この研究所の副主任だと言う。レイを仮眠の出来る場所に案内したのも彼で、かしこまっているレイに「副主任とはつまり、雑用係のことですよ」と、笑った。
「はい。お陰様で。ありがとうございました。……ところで、ドーソンさん」
「オルウェンと」
口を開いたレイを制すように、オルウェンは言う。「名前で呼んでくださって結構ですよ」
言って、人好きのするような笑みを浮かべてみせる。
人を安心させる笑い方をする人だなと、ふと思う。それは同時にこちらの警戒心を緩めさせるということでもあるが。
オルウェンという男は元来、そういうことに慣れているように思えた。来客に相対する態度が、研究者とは思えないほど堂に入りすぎている。
「あ、はい。じゃあ、オルウェンさん。ここは、カルチェ・ラタンの教会直属の研究所、でいいんですよね?」
コーヒーカップを持ち上げて、その褐色の液体を嚥下する。散々水に浸かったり濡れたりしたが、咽喉はひどく渇いていた。
適度な熱さが咽喉元をゆっくりと下ってゆく。
「その通りです」
膝に乗せた両腕の先で指を絡め、オルウェンは頷いた。
「そうか……」
レイは、両手でカップを包むように持ちながら、独白する。何かがすとんと落ちてきた。
納得したというよりは、実感したという感覚の方が近い。
"帰ってきた"。
13で孤児院を出、それから10年、暮らした街。
聖都カルチェ・ラタン。教皇の膝元。
「ただ、ひとつだけご理解いただきたいことがあるのですが」
手中におさめたカップをぼんやりと見下ろしていると、声がかかった。
俯かせた顔を持ち上げると、深い青の瞳と目が合う。
「レイ・クレスタさん。私たちにも情報網というものがあるので、貴方の事情は色々と知っています」
思わずレイの体が強張った。
そうだ。ここは"教会の機関"だ。言うなれば、敵の懐の内。今のレイはさながら、俎上の魚ということなのかもしれない。
「ご安心を。今は手出しをするつもりはありません。ここの責任者が客だと明言した以上は。ただ、ここを一歩でも出たあとは、その保証は出来ません。そのことはご理解ください。我々にも立場というものがある」
「それは……はい。分かっています。でも……いいんですか?」
この建物の中から出すということは即ち、見逃すということになりはしないか。
「私の責任じゃありません」
さらりと言って、オルウェンは笑って見せた。「だから大丈夫なんです」
完全無欠の笑顔に、それ以上何も言えなくなったレイは、とりあえず「そうですか」と相槌を打って沈黙した。
「……アースさんは、大丈夫でしょうか?」
ふと思い出して口にすれば、オルウェンは口唇の端を引き上げる。
「死にゃしませんよ、あの男は」
オルウェンの顔には相変らず穏やかな笑みが浮かんでいるのに、その声には瞭かに刺がある。
「餓鬼でもない癖に、我儘と無茶ばかりする馬鹿者にはいい薬です」
「…………」
「それにここはガイア最高の研究機関ですから。医療スタッフは優秀ですよ」
「はぁ……」
さわやかに言い切るオルウェンに、レイは、この人もどうやら一筋縄でいくような相手ではないようだと悟った。
あまり居心地が良いとは言えない沈黙が落ちた。
どうにかそれを取り除く手立てが欲しくて、レイは素早く周囲に視線を廻らせる。カップは疾うに空だ。
(あれ……?)
そして、レイは不意に捉えた。違和感を。
「オルウェンさんは、白衣じゃないんですね」
素直に聞いてから、少し幼稚な疑問だったかと思う。が、オルウェンは気にするふうもなく、「ああ」と応じた。
「別に、白衣がここの正装というわけでもないんですよ。白衣は責任者の趣味です。彼には信者が多くてね。破天荒な光には、皆惹かれるらしい」
言って、オルウェンは苦笑した。アースを差していることは、訊かなくても分かる。
「もしよろしければ、研究所の中をご案内しますよ」
呟いて、オルウェンが席を立った。
提案に甘えるようにして、レイもソファーから腰を上げた。
「オルウェンさんの専門って、なんなんですか?」
磨き上げられたリノリウムを踏んで、不健康な蛍光灯の下を歩く。
「私ですか? 生命工学ですよ。……とは言っても、研究の方は、ほぼ相棒の独壇場ですがね」
助手みたいなものです、とオルウェンは口の端で自嘲した。
「恐ろしい男ですよ。だから崇拝するものもいる。だから教会も、あいつの我儘を見て見ぬふりを決め込むんです。努力して研究所に入った私からすれば、破格の扱いですよ。教会が自ら求めただけはある」
薬品の匂いが鼻につく。オルウェンは慣れたものなのか、よどみない足取りで先を行く。
「彼の専門は生命工学ですが、医療、機械、その他一通りやってのけますよ。研究室に入ると別人です」
「伊達に7つからここにいるわけじゃねぇさ」
声が割って入ってきた。文字通り、真横から。
ふとそちらを見ると、壁に張り付いた無数の扉のうちの一つが、内側に少しだけ開いている。声はそこから聞こえてきていた。
「本人不在でべらべらと勝手なこと喋ってんじゃねぇよ」
「呆れたな。もう起き上がっているのか」
レイの隣で、オルウェンは深々と溜息を零す。
「不在の場所で噂されたくないのなら、煙のようにふっといなくなる癖を改めろ。迷惑をかけられれば、不平も出る」
オルウェンは、僅かに開いたその扉を開こうともせずに、冷たく言い放った。
「何だよ、怒ってんのか?」
うすく笑う声が、隙間からここまで流れてくる。
「どれぐらい研究に支障が出たと思っている。責任者の自覚を持て」
「俺が三日で片付けりゃ、上も文句は言わねぇだろ」
「意識の問題だと言っているんだ。結果論じゃない」
「お前も、"お嬢様"に似て、生真面目だな」
苦虫を盛大に噛み潰したような顔をして、オルウェンは黙り込む。
しばらくしてから、嘆息して、「言っていろ」と諦めたように吐き捨てた。
「おい、お尋ね者」
今度は、矛先がレイに向いた。
レイが思わずその隙間を見つめると、皮肉っぽいエメラルドの瞳がこちらを見ていた。
「来いよ、いいもの見せてやるぜ」
一瞬踏み込むことが躊躇われて、レイは隣に立つオルウェンを見る。副主任は困ったように笑ってから、右手で扉を示し、「どうぞ」と促した。
一歩踏み出し、拳ひとつぶんほど開いた扉を、更に押し開いた。何故か、冷たい空気が正面から吹き付けてくる。
少し窮屈な、縦に細長い部屋にその男は立っていた。
「もう、起き上がって大丈夫なんですか?」
こちらに向けられた背中に近づいて、訊いた。
アース・フィラメントは、素肌の腹部に何重にも白い包帯を巻き、前をはだけるようにして白衣だけを羽織っている。研究者にしては、やけに締まった体を外気にさらしていた。
「研究所の医療スタッフは、優秀なんだよ」
それでもまだ血の気の薄い顔で、笑う。顔は正面に向けたままで、レイのほうを見ようとはしなかった。
獣と対峙するように、その眼差しは一点だけを見据えている。
"寒い"と、レイは思った。
確かにこの部屋は、他の部屋とは違う空調になっているようだし、冷気がひたひたと漂ってはいる。けれどそれだけではなく。
冷気は自分のすぐ傍からも発せられていた。つまり、アースから。
「アースさん?」
「見ろよ」
顎で前方を示しながら、アースは言った。遠ざかってゆく、オルウェンらしき靴音を聞きながら、レイは示された先を見遣る。
例えるならば、それはカプセル錠のような形をしていた。部屋の隅に寄せるようにして、横たわっている。丁度人ひとりが横になれるぐらいの大きさだ。
丸みを帯びた両端からは、チューブやらコードやらが絡まりあうようにして伸び、右手側の壁際にある、箱のような機械に繋がっていた。
「何ですか、これ……」
「死体」
やけに呆気なくぽんと言い返して、アースはそのカプセルに近づく。
ヘぇ、死体。と、こちらも呆気なく口の中で繰り返して、レイは一瞬遅れてその言葉を理解した。
「死体!?」
声を上擦らせるレイに、アースはくっと咽喉で笑い、右手の人差し指でレイを傍へ招く。
数歩の間合いを詰めて、レイはアースの傍まで行く。周囲を取り巻く冷気が一気に増したように感じるのは、おそらくは精神的な作用なのだろう。そこに横たわっているものの、正体を知ったせいだ。
白衣の傍らに立って見下ろすと、カプセルの上部―――レイから見て左半分は、透明なガラスで覆われている。
そこから、横たわった人の上半身だけが覗いていた。
白衣を纏い、襟元でしっかりとネクタイを締め、まるで眠っているだけのように穏やかな顔をしている。白っぽい金髪の男だった。
「先代の、ここの主任研究員さ。名前は、フィーメル・オズメント」
体の前で腕を組み、首を斜めに傾けるようにして、アースはその顔を見下ろしている。
ふと、視線だけをレイの方へ向けた。
「いくつに見える」
その鋭い眼差しを受け止めて、レイは質問の意図を考える。頭の回転が鈍くなっていた。言葉が直通で伝わらない。
「30代後半か、40代ぐらいに、見えますけど……」
生気のない男の顔を凝視して、レイは素直に告げた。
若くはない。けれど、老いてもいない。
繊細そうな顔立ちの、目元や口元に、僅かな皺が見て取れる。今まで目にしてきた人間の顔の中で、分類した。経験則。
すると、アースは声を上げて面白そうに笑った。何が可笑しかったのか。レイはぽかんとして、傍らに立つ研究者を見た。
「こいつはな」
笑いをすぐに咽喉の奥に収めて、アースはレイに向き直った。左拳の、指の関節でカプセルの顔のある当たりを軽く叩く。
「330年、生きたのさ。この姿のままでな」
レイは、目を見開いて絶句した。おそらく間抜けな表情をしているのだろう、アースがまた少し、皮肉っぽく笑った。
「信じられない、って面だな。それが普通の反応だろうよ。まぁ聞けよ。こいつだって、ただ何もしないで300年以上を生きたわけじゃない。自分で作り出した薬物の実験体に、自分の体を使ったのさ」
「薬物……?」
「細胞を再生させ続ける。簡単に言えば、人を"不老"にさせる薬物だ。摂取し続ける限りは、老いることがない」
冴え冴えとしたエメラルドの瞳で男を見下して、アースは言う。
「HGというドラッグ、聞いたことがあるか?」
「"HG"……?」
さっとレイの顔色が変化するのを、研究者は敏感に察知する。
「どうやら、知ってるみたいだな」
ロレーヌ、カイン、二つの街で見た白い粉。
通称ヘヴンズ・ゲートと呼ばれる、ドラッグ。
「その名の通り、随分高く"飛べ"るらしい。俺は生憎と世話になったことがないから分からねぇけどな。その代わり、依存性と中毒性、副作用が強い」
くるりとカプセルに背中を向け、背をもたれかけさせながら、アースは何もない宙を見る。
「幻覚、幻視、幻聴。トリップ効果に加えて、不老や再生能力も付加される夢のようなドラッグだがな、適量を摂取し続けることが必要なんだ。過分に摂取すると体がついていかなくなる。摂取を止めると、細胞が壊れて、体が"くずれて"死ぬ。一度摂取したあとは、地獄さ」
アースの淡々とした説明を耳に流し込みながら、レイは先日訪れたカインの街を思いだしていた。
くずれて、溶けかけた肌。焦点を失い、彷徨う目。
本能的に怯えを感じたのを、なまなましく覚えている。
「そのドラッグの大元が、この爺が作った薬物というわけだ」
「大元?」
「ああ、そのものじゃない。ここから持ち出して、ドラッグとして改良した奴がいるんだよ。同じものを作ろうとして失敗したところが、上手くドラッグになったってところだろうが……。その持ち出した野郎は既にこの世にはいないが、薬物だけは順調に流れている」
求める奴がいるんだろうさ、とアースは口元を歪めて嘲笑した。
「それが最近やけに流行っていてな。気に食わないんだよ。―――大元は、ただ"不老"になるだけであって、幻覚作用も、トリップ効果もない。摂取し続けなければ死ぬのは確かだがな。元々HGは、たった一人のためだけに作られた薬物なのさ。実験体も、俺が知る限りではふたりしかいない」
「ふたり、ですか……?」
宙から視線を引き戻して、アースはレイに向けた。人を小馬鹿にするような、相変らずの笑みで口元を緩める。
カプセルにもたれかからせた体をゆっくりと起こす。
「ひとりはこいつ、もうひとりは、お前も知ってる奴だぜ」
ぱちくりと、レイはまばたきを何度か繰り返した。アースは含むように笑っているのだが、全く持って見当がつかないので、困る。
「軍服を纏った、可愛らしいお子様さ。268歳のな」
どん、と一瞬心臓が大きく跳ねた。目が一瞬焦点を失う。視界で、アースの姿がぼやけた。
栗色の髪に金の瞳を持った愛らしい少年の、あどけない顔がよぎって消えた。
絶句するレイに、アースはうすく笑った。
「主任殿」
軽いノックが扉を叩いた。まだ扉はすこし内側に開いたままだったが、ノックの主は別に扉を開けようという意志はないらしい。
「なんだよ、副主任」
おどけた調子でアースもそれに応じた。
「お前が欲しがってた、取引の情報が入ったが、どうする」
アースの表情が豹変した。先程までの余裕が掻き消える。
大股に入り口の方へ近づいて、扉を内側に勢いよく引いた。
その動作にもあまり驚いたふうもなく、オルウェンはそこに立っている。
「教えろよ、今すぐ」
氷のように冷えた声で、アースは副主任をにらみつけた。
3.
扉を押し開くと、光だ。
真正面に大きな窓があるようで、降ってくる昼の日差しがまぶしい。
ハルトは思わず、その赤い双眸をほそめた。寝起きの目には辛い。
窓を背にするようにして置かれたデスクから、人が立ち上がる。
逆行の中、小柄な人影がこちらに向き直った。
「ハルト・シラギくんだね。はじめまして」
高くはない、女の声が言った。
さほど驚きもせず、ハルトはこの執務室の主のもとまで歩みよると、差し出された掌に自分のそれを重ねた。
「噂の敏腕本部長に会えるとは思ってなかったんだけどな」
「噂? いい噂だと、嬉しいんだけれど」
軽く掌を握り合わせて、女はおどけた。すくめた肩に、漆黒の髪が僅かながらかかる。
ハルトは苦笑で返した。法の境界線あたりで生きている人間に、例外なく恐れられている人間の噂が、いいものであるはずがない。
通称、法の執行者。警備省初の女本部長、ラハティエ・バレンシア。
"奴ににらまれたら逃げられないぜ"とは、アンダーグラウンドでの、ラハティエのキャッチコピーのようなものだ。暗黙の了解。
隙がない。親交の証として握り合わせた手を離しながら、ハルトは舌を巻いた。
背丈は勿論、体型も女性の標準の域。それなのに、はみ出しもの(アウトロー)の本能が、ひっきりなしに警鐘を鳴らし続けている。
黄色がかった薄い緑。隙あらば噛み付いてやろうとする、よく訓練された猟犬の目だ。
ラハティエは、顎のあたりまである前髪を後ろへ掻きやって、右手で隣室の扉を示した。
「立ち話もなんだね。そちらへどうぞ」
「隅々まで簡素なんだな。―――あぁ、褒め言葉だぜ」
ソファに沈み込むなり、ぐるりと周囲を見渡してぽつりとハルトが零した。
いちいち律儀に説明するあたりが面白いらしく、向かい合わせたラハティエは、目を細める。
「ああ、分かるよ。ありがとうとでも言っておこう」
隣室は、本部長専用の応接室だった。
部屋の中央に据えられた、ふたりがけのソファーが、応接用テーブルを間に挟んだだけの。必要最低限を再現したような応接セットのみ。
シンプルイズザベストというものの、簡素すぎた。トップの応接室でもこうなのかと、素直に驚いた。
何度ぐるりと壁を見回したところで、青白い壁紙が張ってあるだけだというのに、やけに落ち着かないハルトを、ラハティエは面白そうに観察する。
「豪華な装飾や高級な茶で媚びる必要がある客なんて、私には居ないからね」
さらりと言って、ラハティエは紅茶を口に運ぶ。
彼女が一口飲み干す間、ハルトは絶句して警備省のトップを見つめた。腹のあたりから笑いが込み上げて、思わずくっと咽喉を鳴らした。
そりゃそうだ。公平と正義の天秤を持つ、法の執行者。
気分がいいということは、多分自分が目の前のこの食わせ物を気に入ったということなのだろうと、ハルトはひとりで納得した。
内側に虎を飼っていようとも、あくまでウサギで通そうとする。その態度が気に入った。可愛らしい姿から、獰猛な牙が丸見えになっている。
あけすけで、赤裸々で、小気味いい。
こういう人間と言葉を投げあうのは、駆け引きのようで楽しい。
「その、公平な警備省トップ、執行者バレンシアが異端者を見逃すって? お嫌いな教会の敷いた独自法には従えないってか」
とりあえず、こちらから仕掛けた。相手の意図が見えない以上、馴れ合ってオトモダチではいられない。
眼帯をしていないせいで、視界がぶれる。左右の視力に差がありすぎて、焦点が合わない。歪んだ視界で、ラハティエが仕方なさそうに笑ったように見えた。
「歯に衣を着せてやったほうがいいと、忠告されたことは?」
「思ったことは言わないと気が済まないんだ」
「お若いことだ、早死にするよ」
ラハティエは、血気盛んな少年を眺めるように目を細めた。
そしてすぐにその笑みを仕舞い込む。
「一般的に、教会と警備省は仲が悪いと言われているけれども、こっちだって好き好んでいがみ合ってるわけじゃない。お互いの立場や考え方が、あまりに違いすぎるのさ」
膝に乗せた両腕の先で指を絡め、ラハティエはテーブルの上にぼんやりと視点を落とす。
「何に結果を求めるか。その手段があまりに私たちと教会とでは違いすぎる。私たちは事実に、向こうは信仰という観念に、それぞれ価値と意味を見出そうとする。目に見えるものと見えないものを求める姿勢には、自ずから違いが出るものだ。何も警備省の人間全てが信仰を持たない人間というわけでもないしね。……最近の教会は、純粋な信仰の在り処とは、乖離してしまっているような気がしないでもない」
「乖離……?」
「思わないか。信仰とは人を支えるものであり、人を縛るものではない。しかし、教会が掲げる教義は人を縛る」
上目遣いにまるで射抜くように、ラハティエはハルトの赤い双眸を真っ直ぐに見た。
目を逸らすことすら躊躇われるような強さを、彼女の瞳は宿している。
ハルトはただ、何も言い返さずにその瞳を見つめ返した。
その睨み合いから先に離脱したのは、ラハティエのほうだ。かすかに口元を笑みの形にし、組み合わせた己の指を見下ろした。
「ここで個人的な意見を述べても仕方ないな。つまりは、教会と警備省とでは判断基準は違うということ。勿論異端者の手配を要請されれば協力しないこともないが、滅多にないことさ。通常は正規軍が動くだけで用が足りてしまうからね。ということで、君を捕まえろという要請は受けていない。よって、君を捕まえる義務は私たちにはないということだ」
「それって、屁理屈っていうんじゃないのか……?」
清々しい笑顔で段階を追うようにとんとんと説明するラハティエに、ハルトはげんなりと呟いた。
オトナの処世術を目の前で実演されている気分だ。理屈は通るが、それはどちらかというと、問い詰められたときの言い訳に近い。
「つまりは、相手に揚げ足を取らせなければいいだけのことだよ。年齢を重ねると上手い逃げ道を見つけるものさ。それとも、今すぐここで手錠をかけて教皇庁まで連行して欲しいのかな?」
それはごめんだ。
露骨に顔に出ていたらしく、ラハティエは見透かしたようににやりと笑った。
どうにもこうにも調子が悪い。大きな掌の上でころころと転がされてあがいているような気分になる。
「それで、俺はなにをすりゃいいの」
まだるっこしい遠回りを止めて、今度は直球で勝負した。
向こうからアポイントメントを取ってくるということは、何か用事があるからだろう。
さて、どんなふうに利用しようとしてくれているのだろう?
膝に頬杖をついて、背を丸めて上目遣いに警備省のトップを見据える。飛び掛る前の、猫科の生き物の恰好に似ている。
女は、超然と、泰然と頤を少し持ち上げて見下す視線だった。しばらくお互い黙り込む。
「HGの取引が、今夜あるという密告(タレコミ)があった。その件で、助言が欲しい」
「助言……?」
怪訝そうに盛大に眉をひそめると、目の前に小さな箱が差し出される。
「口に合うといいけどね」
こちらに向けて開かれた"煙草の箱"から、少々敗北感を味わいながら、ハルトは一本を抜き出す。
くそう、これは警備省お得意の懐柔策だ、とは思ったが口には出さない。煙草が切れたばかりだったし。
火をつけるまでの僅かな沈黙。
「君は、遺跡に詳しいみたいだしね」
「遺跡?」
紫煙を吐き出しながら聞き返すと、ラハティエは首肯する。
「取引の場所は、カルチェ・ラタンから一番近い、遺跡の内部らしい」
*
頼まれていたコーヒーを片手に、モエは扉を開ける。
そこは、彼女らが身を寄せている地下アジトの中でも特に奥まった一角にある離れだ。
好き好んで、彼女らの統率はここに引っ込む。狸が、ここに来ると土竜になるというわけだ。
コンクリートを打ちっぱなしにした、あまりぬくもりのない部屋には、簡素なベッドと、部屋にそぐわないほどの上等な機械端末しか置かれていない。
部屋の主は大体、その機械端末が据えられたデスクについていて、こちらに背を向けていることが多いのだが、今はその姿が見えない。
コーヒーを頼んだのは、ものの10分前だというのに。
真っ直ぐにデスクまで歩き、機械端末の傍に湯気を上げるコーヒーカップを置き、傍らにあるベッドに向き直る。
呆気ないほど簡単に、行方不明者をそこで発見した。
眠っている、というよりは倒れたと言った方が正しいのかもしれない。中途半端にベッドにうつぶせに転がったままだ。
結局ここ数日もろくに眠っていなかったのだろう。彼も人間なので、睡眠がなければ生きてゆけないというのに。そこのところをよく、自分で理解していないらしい。
どうやら、せっかく濃い目に淹れてきたコーヒーも無駄になりそうだ。眠りが浅いひとなので、こういうときは極力起こさないに限る。目が覚めたらまたどうせ、倒れるまで起きているのだし。
嘆息すると、デスクの上で機械端末がぴるぴると鳴り始めた。通信が届いた合図だ。
呼び出しに応じるまで鳴り続けるので、モエは慌ててキィボードのボタンをいくつか押した。耳に障る高音なのだ。
「通信……?」
くぐもった声と共に、むくりと起き上がる気配が右側から伝わってくる。
せっかく早く呼び出し音を切った努力が水の泡だ。結局起きてしまったではないか。
「通信文だけですよ、今すぐ読む必要もないと思いますけど」
無駄とは知りつつ、モエは呟いた。この機械端末を使って行う通信には、相手とモニター越しに会話をするリアルタイム通信と、向こうから送られてきた文書を受け取る二つの方法がある。
今回は後者で、別に今すぐ出なければならない、というものでもない。
が、既にサイジョウはベッドから降りている。結局20分も眠っていないのではないか?
端末の傍に置かれている、少しぬるくなったコーヒーを持ち上げて、右手だけでキィをいくつか叩いた。
モニター画面に、びっしりと綴られた文字が表示された。
「差出人は、解析不可能……か」
机の上に投げ出したままの煙草のパッケージから一本抜き出して、口の端に銜えてもごもごと言う。
送信元が分からない。デスクに座り、空いている手で寝癖のついた髪の毛を掻き乱した。
「モエちゃん、君の意見を聞きたいな」
しばらく画面を視線でなぞった後、サイジョウは傍らに立つモエを見上げた。
はい? モエはデスクの上から一杯になった灰皿を持ち上げながら応じる。
「差出人不明の相手からの密告って、どう思う?」
まだ火のついていない煙草を銜えたまま、口角を持ち上げる。悪役の笑い方だった。
「……ふつう、罠だと思います」
分かっているくせに訊いているんだろう。ぼそりとモエは答える。
すると、サイジョウは更に口の端を引き上げて笑うと、瞳を閉ざして何度か頷いた。
そうだよね、罠っていうものだよね。呟きながら、楽しそうな顔をする。
この男がそういう顔をするときは、往々にしてろくなことがない。それは、モエがこの男と知り合ってから8年間の様々な体験により実証されている。
「その、罠にはまりに行こうとしている奴のことは、なんて呼ぶのかな」
サイジョウはようやく、どこからか取り出したマッチで煙草に火をつける。紫煙とともに吐き出した。
「ばか、って言うんじゃないですか」
モエは眉間に皺を寄せた。悪い予感がひしひしと迫ってくる。
「モエちゃん、その馬鹿に付き合ってくれる気はある?」
ビンゴだ。もうすっかり乗り気の隊長を見下ろして、モエは深々と嘆息した。あきらめの意を表するために。
「……"いまさら"じゃないですか。それに私がヤだって言ったら、やめるんですか?」
そんなわけがないのだ。
サイジョウは、面白そうに苦笑すると、それもそうだ、と呟いた。咽喉の奥でくっくっと笑っている。やけに上機嫌で、ハイだ。
寝起きの彼は、燥の場合と鬱の場合があるが、今回は完璧に燥の状態だろう。
「それで、何をするんですか?」
「ちょっと待ってね。具体的に色々と考えるから。とりあえず、今晩動けるようにしておいてくれると助かるんだけど」
そう言ったきり、サイジョウは黙ってしまった。機械端末のモニターを見つめながら、なにやらにやにやと気色悪く笑っている。
悪戯小僧が悪戯を考えているときの顔だ。
「じゃあ、詳しく決まったら教えてくださいね」
煙草が山盛りになった灰皿を片手に、モエは踵を返した。
んー、という間延びした生返事が返されたがが、おそらくはこちらの話など聞いてないだろう。
やれやれ、だ。
片手に灰皿を持ったまま、後ろ手に扉を閉めた。
目の前に一本伸びる、コンクリートが剥き出しの廊下。等間隔に配置された蛍光灯がつめたい光を落としている。
どこからも、天然の光が入ってこない。地下だから、仕方のないことなのだけれど。
空気自体が淀んで、籠もっているような気がする。地下は好きじゃない。
元いた場所を思い出して、憂鬱になる。
足跡や、人の話し声がやけに響く。近づいたり遠退いたりするそれに怯えたり安堵したりするのだ。
それは一体、どのぐらい前のことなのだろう。
「モエ」
名前を呼ばれて、我に返った。いつのまにか下を向いていた首を持ち上げると、廊下の延長線上に人影がある。
ちょうど、曲がり角のある場所だった。見慣れた立ち姿でこちらを見ている。
「ああ、おかえりなさい。おつかいご苦労様」
こちらが歩き出せば、向こうも近づいてくる。お互いの隔てた距離の、ちょうど中間あたりで向き合った。
「荷物は、台所のあたりにまとめておいたから」
「ありがと、ファンくん。ところで、どうだった? カルチェ・ラタンの街は?」
黒髪を少し逆立てたその青年は、モエの質問に僅かながら眉をひそめた。
元々あまり感情の起伏が激しくない青年であるので、モエはそれだけの変化も怪訝に思う。
眉間に皺を刻むこと自体、珍しいのだ。
「初めてだと思うんだけど」
彼なりに深刻な顔をしながら、ファンは言った。
「カルチェ・ラタンに来たのは、初めてだよな」
少し考え込んでから、モエは頷いた。少なくとも彼女の知る限り、ここ5年はカルチェ・ラタンを訪れたことはない。
それは彼も知っていることなのだが、今更どうしてそんなことを確かめるのだろう。
すると、更にファンは渋面を作って黙り込んだ。
「……どうかしたの?」
「いや、なんでもない。なんでもないんだけど……。ただ、前にも見たことがあるような気がして」
既視感、ともまた違う。空気や雰囲気を、懐かしいと思ったのだ。
「それってもしかしたら、"記憶が戻った"ってこと……?」
問えば、ファンはゆるく首を横に振る。
「ただ、懐かしいって思っただけなんだ。勘違いかもしれないしね」
記憶が戻ってきたわけではない。ただ直感的に、懐かしいと感じただけで。
一瞬、期待に身を乗り出したモエは、そっか、と少し落胆したように苦笑した。
記憶を持たない不安を、モエは知らないけれど。彼が何かを求めるように空を眺めることを知っている。
少しでも、手がかりが戻ればいいけれど。
「何もモエが悲しそうな顔をすることはないじゃない」
「……それは、そうなんだけどね。記憶、戻るといいね」
苦笑して、ファンは頷いた。
じゃあ、私は色々と準備があるから。今日の夜、何かするみたいだよ。
何かって?
さぁ。今サイジョウさんは悪巧みの最中だけど。
そんな会話を交わしてから擦れ違った。
遠ざかってゆくモエの足音を耳に流し込みながら、ファンは、正面にある扉をぼんやりと見た。現時点での、狸の隠れ家だ。
―――記憶、戻るといいね。
とっさに、ありがとうが出てこなかったのはどうしてなのだろう。
自分が本当は何者なのか分からない不安が、どこまで行ってもついてくる。それは確かに不快で不安で仕方がないことなのに。
5年前。大地に転がって目が覚めたときは、とにかく早く記憶を取り戻して、自分のあるべき場所に戻りたかった。
それが今はどうだ?
少なくとも、焦燥感はなくなっている。早く、早く取り戻さなければ。そんな焦りは。
それどころか。
記憶を手に入れたことによって今の状況や環境が何らかの形で変わってしまうのなら。
必要ないかもしれないとすら思っている自分がいることに、驚いた。
どれだけ依存しているのだろう?
踵を返した。
本当はこの不安を、拾ってくれた人物に吐露するつもりだったのだけれども。
相手にもきっと答えられないことを問い掛けたりするのは、ただの甘えだ。
それでなくても、今夜には動きがあるというし。
今は悪巧みの真っ最中で頭が忙しいだろう。
言い訳をつけて、もと来た道を戻る。
大丈夫だ。もし記憶が戻ったとしても、何が変わるわけでもない。
その自信があった。
天井でちらちらと、切れかけた蛍光灯が揺れていた。
to be contenued...