ルシフェルの徒
〜背教者の名〜
僅かに、女が目を見張ったように見えた。
だが彼女のその漆黒の瞳に宿った驚きは、すぐに消えた。
「何を求め、ここへ来た?」
女が、ふと力を緩める。銃に押し当てていた小刀をゆっくりと下ろした。
銃から腕にかかっていた圧力が、突然無くなる。じんとした痺れだけが残った。
「背教者の迷宮に求めたのは、あの書物か?」
顎で、机の上に開かれたままの本をしゃくり、女が言う。
「貴方は」
背にした椅子を後ろに押すようにして、レイは彼女と間合いを取る。
「貴方は一体……」
「私は処刑人。教会に徒為す悪魔の使いを、粛清するもの」
「粛、清……?」
女は床に座り込んだままのレイの咽喉元にその小刀を突きつけた。切っ先が闇の中で光る。
「私の使命は、この書物を手に取ったものを葬ることだ」
レイは、女の指し示す書物に、視線を流す。
あの本には一体何が。
―――確かに見たのだ。聖櫃を。
一体何が書かれているというのだ。
女は温度のない瞳でレイを見下ろした。
「異端者よ、覚悟を決めろ」
1.
遠巻きに喧騒が耳に届く。
ここは繁華街からずいぶんと離れた工場が立ち並ぶ界隈なので、そう煩くもない。
喧騒の方へ目を向けると、そのあたりの空がほのかに白い。朝方まで消えないあかりだ。
ガイアの首都、カルチェ・ラタン。
政治の中心であり、宗教の中心であり、学都。
この社会の中心だ。
この街は、変わっているようで何も変わらないところだな、と紫煙を吐き出しながら思う。
人や建物の流れが変わったところで、根幹を流れる雰囲気や空気は何ひとつ変わらない。
まるで時が止まっているかのように。様々な事象を繰り返す。
らせんの都。
確かに最高級の施設が揃う街ではある。
最高の裁判所、最高の学府、最高の研究所、最高の教会―――。
人々は夢や野望を抱きこの街を訪れ、そうしていずれまた去ってゆく。
ふと空を見上げると、星も見えない夜空にぽっかりと赤い月が浮かんでいた。
その月を背景に聳え立つ、巨大な二つの建物の、尖塔。
中央議会と教皇庁。
(研究所は、教皇庁を越えた、あの、向こう)
目を細めて、向かって右側の塔を見据え、サイジョウは思う。
セキュリティは以前のままであるはずがない。自分が研究所にいたのは、もう8年も前の話だ。
(まぁ、どんなセキュリティであろうと、突破は出来るけどね)
工場や倉庫の立ち並ぶ下り坂をゆっくりとくだりながら、煙草の灰を落とす。
この街をこうして歩くのも、ずいぶんと久しぶりだ。
―――サイジョウ・ヒイラギさん。今回の研究員募集試験、主席合格でした。おめでとうございます。
自分の足音以外聞こえてくるものはないはずなのに、男の声が聞こえた。
名前も知らない、ただの研究員。説明に借り出されただけだ。もう顔も覚えていないのに、耳につくような高い声だけは残っている。
淡々と続く説明なんて、あとで資料を読めば分かる。適当に相槌を打って、聞き流す。
あれは確か、17の頃だったか。ずいぶんと昔の話だ。
―――……フィーメル博士が、サイジョウさんにお会いしたいと言っていました。
聞きなれない名前に、相槌を打つのをやめた。フィーメル? 訊き返す。
―――この研究所のトップの方です。目をかけてもらえるのは本当に一部。凄いことですよ。
語気荒く、興奮した様子で目の前の白衣が言った。おそらく彼にとっては憧れの人物なのだろう。
この研究所に入るだけでも相当難しいといわれている。そのトップか、なんだか想像がつかなかった。
何でもいい。高いところに行けば行くほどチャンスは増えるだろう。
説明を終えて、手渡された書類を携えて、来た道を戻る。その途中で、だらしなく壁にもたれかかっている少年を発見した。
―――やめといたほうがいいぜ。
エメラルド色の瞳をこちらに向けて、不遜に言い放った少年は、まだ年の頃12ほど。
白衣を身に纏っているが、大きいのか、腕のあたりで何回も折り返してある。
金と黄とオレンジと茶とが雑多に混ざったような髪の色をしていた。
―――君は?
―――あのじじいに、フィーメルに会うのはやめとけ。
―――名乗りもしない人間の忠告は聞けないな。
すると少年は、ふん、と鼻を鳴らしてからこちらへ近づいてきた。すぐ目の前まで立って、見上げてくる。
よくよく見ると端正な顔立ちをしているのに、眼光の鋭さと、にじみ出る不遜な雰囲気で、まるで野生の獣のように見える。
―――サイジョウ・ヒイラギだろ。俺はあんたの先輩だよ。先輩の忠告は聞きな。
不敵に笑って、少年はこちらとすれ違った。
それが、アース・フィラメントとの出会いだった。
(ずいぶんと昔のことを思い出したな)
かすかに足元に赤い月明かりが落ちてくる。やけに感傷的になっている自分に苦笑しつつ、サイジョウは立ち止まった。
「こんなところで、夜這いは嫌だよ?」
振り返らずに言うと、少し離れた背後で、小さく息を呑む音が聞こえた。
「いつから気付いていたんですか?」
足音が近づいてきて、すぐ後ろで止まった。苦笑いする女の声だ。
「はじめから。尾行は下手になったよね、モエ」
「尾行じゃないですよ」
いつ声をかけようか、迷ってただけなんです。
とん、と肩甲骨の下あたりに何かが触れた。
「おねだり、しに来たんです」
サイジョウの背に額を預けて、モエが言った。長い髪は下ろしてある。
「おねだり? 僕に出来ることかな」
背中にモエの頭の重みを感じたまま、別に振り返ることもなくサイジョウは言った。
「私にやらせてください」
体の横に下げた拳を、知らぬうちに握り締めていた。声に硬さが混じるのも、自分で分かった。
「研究所であの子に会ったら、お願いだから」
握り締めた拳が小刻みに震え始めた。声が震えないようにするのに必死だった。
今にも、縋りつきたい衝動は必死に押さえた。
もう子どもではないのだし。これは決意なのだから。
甘えられない。
「私に、やらせてください」
「認めないよ」
冷たい声音だった。冷たいものが体の内側に流れ込んだような気がする。
「死ぬつもりなら認めない」
心臓が一瞬、鼓動を止めたのは決して錯覚などではない。
「もう君は自由なんだよ」
一瞬動きを止めた心臓が、今度は激しく脈を打ち始めた。体が急に熱くなる。
視界が曇った。
「もうあの記憶に捕われ続けなくてもいい」
「生きていきたいから……。おねだりしてるんですよ、サイジョウさん」
震える手で、モエはサイジョウの背の服を掴んだ。
「私の中の、けじめだから」
指先の細かい震えは、服から背中に伝わってきた。
「知ってますよ、もう自由だってことなんか。サイジョウさんが、私を助けてくれた日から―――」
*
「ここに直結の空間転移装置があるんだろう?」
「……ここまで入ってきた人は、久しぶりだよ」
アースの問いには答えず、ミカエルは目を細めた。笑うわけでもなく、凝視するように。
アースは、嘲るように鼻で笑う。
「それなら、その手を汚すのも久しぶりか? あんた直属の処刑人たちは消したぜ」
わざと、感情を逆撫でするような言葉を選ぶ。冷静さを欠かない目の前の男に少しでも、動揺して欲しかった。
が、ミカエルは挑発に乗ることもなく、右手で左腕を撫でた。
「なまっていないといいけどね。―――久しぶりだから」
両腕を背に。軍服の上着に隠された、ベルトに回す。
ベルトに装着していた二つの革袋から、機械のコードのように束ねられたものを2つ、取り出した。
片方にひとつずつそれを握り、そのまま右腕を斜めになぎ払う。
すぱん、と空気を切って、鞭のようなものが床を叩いた。
しかしそれは鞭ではなかった。
3センチほどに細かくカットされた一本の長剣が、鎖でつながれているのだ。
左手のそれも、同じように床を叩く。床を這う刃の煌きが、まるで蛇の鱗のようだ。
双頭の悪魔。
その言葉は暗に、正規軍東軍大将ミカエル・シャイアティーンを指す。
見た目は10前後の幼い少年が、前線で大人に引けを取らないのは、この武器があるからだ。
鞭のように自在に動き、対象を切り刻む。双蛇剣。
「楽にしてあげるよ、アース」
両の腕を体の横に垂らしたまま、ミカエルはやさしい声音で言った。慈愛を込めるように微笑む。
「だから、さっきから言っているだろう。お前が死ねば、俺の苦しみも終わるんだよ」
アースは、エメラルドの瞳を嫌悪感も露に細めて、相手を見下す。
ミカエルは、僅かに苦笑したように見えた。だらりと下げた腕に蛇のような剣を引きずったまま、アースに歩み寄る。
「君がそんなに僕を憎むのが何故か。君は自覚しているのかな、アース」
一歩踏み込めば相手の懐、という間合いでミカエルは立ち止まる。嫌悪の滲むエメラルドを見上げる。
「寂しいんだよ。博士に置き去りにされたのが寂しいんだ。だから、しつこく生き残っている僕を憎む。違うのか?」
「誰が、寂しがってるって……?」
搾り出したようなアースの声には、憤りが込められていた。顔全体が嫌悪に歪み、瞳には殺気すら。
「君が、だよ。アース」
その視線を平然と受け止め、ミカエルは笑った。
「君は、博士が生み出した"おれ"が生き残っていることが、赦せないんだろう?」
刹那。
光が走るように、一閃。
アースが上から腕に生えた刃を振り下ろした。
きぃん、と金属がぶつかり合う音と小さな火花が空中に散った。
横からひらめかせたミカエルの右の剣が、アースの刃に絡まりついている。
つ、と赤い血を頬に流したのは、アースのほう。ミカエルが薙いだときに、嫌味のように掠っていったのだ。
「てめぇは、なんでここの番人なんかやってんだ?」
左の頬を伝う生ぬるい感触と空気に溶けてゆく鉄の匂いを感じながら、アースは不似合いなほど穏やかな声で訊いた。
「教会の基盤すら揺るがす禁断の書がここにある。そういう噂を流しているのもあんただろ、閣下。それに惹かれてほいほいやってくる"異端者"を始末するのが役目なのか?」
顎から一滴、血が落ちた。
ミカエルは何も言わない。ふと、アースはとても残虐な気分になった。
相手の冷静さを、砕いてやりたくなったのだ。
「父親を死に追いやった書物を餌に、魔女狩りとは。正気の沙汰とは思えんな」
口唇の端に邪悪な笑みが浮かんだのが、自分で分かる。相手の端正な愛らしい顔が、僅かに歪んだのが見えたからだ。
そうだ。苦しめ。
「どんな気持ちなんだよ。"ここ"で人殺しを続けるのは。あの本を守り続けるのは。なぁ―――ミカエル・ダンタリアン」
ミカエルの表情から、温度が消えた。
左の蛇が空気を切る。アースは、刃を一旦仕舞いこみ、後ろに飛んだ。すぐ目の前を、しなる剣の先端が通り過ぎてゆく。そのきらめきが残像のように目蓋の裏に残った。
ためらいのない動きだった。一瞬のうちに、爆発的に高まった怒りを、アースは肌で感じた。
ざっと肌を撫でてゆく緊張感と殺気とを。粟立つ感覚を。殺すために動かした剣だ。
間合いを取って、闇の中でも浮かび上がる、黄金の瞳を見据える。
明るく飄々と愛らしい東軍大将の仮面はもう既に剥がれ落ちている。鋭い眼光だった。
そうだ。こうでなくては面白くないのだ。この、"余裕のなさ"が見たかったのだ。
「おれの名は、ミカエル・シャイアティーンだ。他は無い」
「自らにサタンの名をつけるか。酔狂なことだ」
くく、と咽喉の奥で笑うアースに、ミカエルもまた、自嘲するように口の端を吊り上げた。
「それはおれが、悪魔に魂を売った者―――ルシフェルの徒だからさ」
2.
闇だけがある。
腕に足に絡まりつく、のっぺりとした影。
逃れようともがいたところで、体が上手く動かない。
主よ。
冷たい闇に飲み込まれながら、必死に叫ぶ。神よ。
どうか、どうかお救い下さい。死んでしまう。
私は貴方をただ、愛しているのです。
そのとき。
一条の光が闇の中に差し込んだ。
まぶしさに視界が灼けてしまう。
―――この世界は腐敗しているのだ。
声が聞こえた。
男なのか女なのか。若いようで老いているよう。
透明で歪んでいる。高く、そして低い。
(応え、だ)
確信した。これは応えなのだ。私の呼び声に対する。
光は、体に絡まりつく闇を裂き、周囲を満たした。
―――救いたまえ。清く、正しい使徒よ。
闇が光に破られたその一瞬。私は悟ったのだ。
選ばれたのだと。
神は私の声にお応えくださったのだと。
父はこの世界の堕落を憂えている。
私のように、神との合一を果たせば、きっと誰もが悟るのだ。
きっと見るのだ。あのとき、私が見た光を―――。
唐突に目が覚めた。
妙にはっきりと、スイッチを切り替えたように意識が冴える。
しばらく天井を見上げた後、ベッドで上体を起こす。カーテンから僅かに射しこむ光は、赫月のひかり。
すっかりと意識は冴えてしまい、眠れそうに無かった。ベッドから下りる。
ここはカルチェ・ラタンの中央広場に近い、彼に与えられた邸宅だ。
が、彼は仕事の都合上、ほとんどこの家を空けている。この街に戻って来たのは、ほんの数週間前だ。
仕事の都合で呼び戻されたのだ。
夜着の上にガウンを羽織り、階下に降りる。屋敷の中は静まり返っていた。
廊下を歩いていると、とある扉の隙間から細く、光が漏れていた。
彼は廊下で少しだけ立ち止まり、その光に目を細める。あの部屋は居間だったはずだ。
その扉に近づき、静かに開いた。まるであの夢のように、わっと光が押し寄せてくる。
「兄さん、どうしたんだこんな時間に。何かあったのか?」
光の中から声がした。そちらに顔を向けると、ソファーに弟の姿がある。
いや、と彼は首を小さく横に振る。目が覚めただけだよ。
「帰っていたのか、ドイル」
弟は、スーツの襟元をだらしなく崩してソファーに沈んでいた。顔には疲労の色を滲ませている。
その疲れた顔に彼が眉をひそめると、ドイルは苦笑する。
「この間、ロレーヌで白衣の男に奪われたHGの埋め合わせが忙しいんだ。俺の不手際だよ」
それで忙しいんだ。
「白衣……か」
「おそらく、研究所の主任研究員、アース・フィラメントだと思う。兄さんのところには研究所からの接触は?」
「フィラメント。フィーメル博士の秘蔵っ子か……。今のところ研究所からの接触はない」
「それならいい。HGは順調に広まりつつある。オゼは混乱を極めているし、その他の街にも"覚醒者"は増えている。そろそろ、カルチェ・ラタンも―――」
「そうか」
目の前にいる弟は、ほんの数日前までオゼという辺境の街にいた。
元々、黒髪に赤い瞳を持つ悪魔が多く住んでいた街だ。おぞましい、悪の巣窟。
弟はその街を、解放に導いた。彼の指図で。
「俺はそろそろ出かけるよ」
そういうと、ドイルはソファーを立った。緩めていたスーツの襟元を正す。
「これから取引がある。兄さんは早く休んだほうがいい。5日後の粛清決行まで、忙しいだろう?」
ドイルは、兄のすぐ傍を通り過ぎ、廊下に出た。
「そうだな」
彼が頷くと、あまり似ていない弟も頷き返す。そして、闇に満たされた廊下を歩き始めた。
彼―――ベリヤール・ルーインは、遠ざかる異母弟の姿が闇の中に溶けてしまうまで、そこに立っていた。
*
荒い呼吸がただ、耳につく。鼓動がまるで早鐘のようだ。
血の匂いがするのは、あちこちに出来た小さな切り傷のせいだろう。
「逃げてばかりか? その銃は飾りではあるまい」
大きな書棚を背に、レイは立っていた。
椅子やら机やらが引き倒され、レイと女との間に横たわっている。
あの書物は今、女の左手の中にあった。右手には小刀を持ったままで腕を組み、斜に構えている。しかし、隙は無い。
レイと違って、呼吸は少しも乱れてはいなかった。
彼女は右手一本でレイと相対していた。態度にも余裕が見える。それなのに。
襲い来る彼女の攻撃を避けるのが精一杯だった。
―――品種改良さ。
不意に、アースの声が蘇って、ぞっとした。
彼女は一体、何者なのだろう。
「レイ」
女の口唇が、確かにそう動いた。
「レイ・クレスタだな」
向かい合ったまま、彼女は壁に背を預ける。
「シャトーの傍にあるキトの村出身。サン・エノク大学神学部に在籍、宗教史を専攻。23歳。2ヶ月ほど前、聖域ファレスタ山脈に侵入。神の船ガイアズメールに接触。―――間違ってはいないはずだが」
「どうして……」
すらすらと、まるで文面でも読み上げるように彼女の口からこぼれる自分の経歴。
一体何故。
驚愕に言葉を失うレイに、女は笑った。
「覚えるのさ。Aクラス以上の異端者の顔、容姿、身体的特徴、年齢、経歴すべて。発見したらすぐに始末できるように。ハルト・シラギは一緒ではないようだな」
Aクラス以上。即ち、粛清対象となる異端者だ。犯罪者でもAクラス以上に認定されることは少ない。が、決して数が少ないわけではない。
その顔はおろか、名前、容姿、経歴まで、全て?
唖然とするレイに構わず、彼女は続ける。
「聖域及び、聖遺物への侵入。ならびに正規軍への度重なる抵抗。それに、今回の"禁断の書"への接触。粛清対象だ、レイ・クレスタ」
呼吸もだいぶ落ち着いてきた。滲み出してきた汗が冷えてきて、気持ち悪い。
きっとその気持ち悪さは汗が冷えただけではなくて。込み上げてきた得体の知れない恐怖のせいだ。
女は、組んでいた腕を解くと、壁から体を起こした。
左手には例の本を抱えたまま、下げた右手の先に小刀を持っている。
真っ直ぐに向けられる視線の鋭さが、体の中身、内臓までも刺すようだ。
静かな殺気だった。
レイは、右手を持ち上げる。金に鈍く輝くティフェレトを、直線上に立つ処刑人に向けた。
銃口を向けられても、女は怯むそぶりすら見せない。その態度に、レイの方が怯んだ。
安全装置は既にはずしてある。
落ち着きを取り戻した体の中で、心臓だけが煩かった。
引け。本能は、そう命じている。引き金にかけた人差し指に力を込めろ。撃て。
接近戦では分が無い。スピードはあちらの方が上なのだ。こちらの生命を保護するために、生き残るために。
撃つのだ。
けれど、動かない指先。
腕が覚えているのだ。なまなましく。
引き金を引いたときの衝撃、痺れ、音。肉体を貫通するさま。
絶叫、血液。
それがフラッシュのように目蓋の裏で点滅して体が動かなくなる。
人を、撃つこと。それは殺すことだ。
(そんなこと―――)
迷いが腕に伝わり、照準がぶれる。その一瞬だった。
目の前から女の姿がふっ、と消えた。まばたきの、一秒もない間に。
見張った眼前に、黒の瞳が現れた。
一瞬で懐に飛び込んできた女は、下から小刀の柄でレイの腕を上に弾いた。
乾いた、銃の咆哮音が天井に刺さり、金の銃身は宙を舞った。少し離れた床に落ち、カラカラと音を立てて転がる。
その全てが、ほんの一瞬に起こったことだった。
気がつけば、咽喉に刀を突きつけられていた。
腰にはもう一丁、銀のマルクトが残っている。が、指一本動かせない。
すぐ傍にある女の瞳が、まるで金縛りでもかけているようだ。
「最後にひとつだけ、訊こうか」
咽喉元に近いところにある口唇が、まるで囁くように言った。
「お前は、あの女を知っていたな」
「あの、女……」
鸚鵡返しに呟くと、咽喉仏のあたりに冷たいものが触れた。それほどまでに近くに、刃はあった。
「そんなに似ている?」
小首をかしげるようにして、彼女は笑った。可愛らしい声音だった。
「貴方は、何者なんですか……?」
女は、レイの問いに僅かに眉を持ち上げる。
「貴方はモエさんと、どんな関係があるんですか?」
カスガ・モエ。
レジスタンスとして活動する、あの謎の多い男サイジョウ・ヒイラギの、片腕として動いている明るく快活な女性だ。
栗色の、緩やかなウエーブを描く髪に黒い瞳。どこかマイペースでつかみ所の無い女性に思えた。
ただ、その華奢な体に似合わないほどの、戦闘能力を兼ね備えている。
彼女もまた、謎の多い女性だ。
そのモエに瓜二つの、処刑人と名乗るこの女性は、一体。
「そうか」
なにやら納得したように頷き、女が言った。
「あいつは、生きてるんだな」
ふっと、少し伏せた顔の、口元に僅かに苦笑のようなものが浮かんでいる。
「教えてやるよ。あの女は」
再び上げた彼女の顔には、一切の表情が無かった。
「あの女は逃げ出したのさ。私を見捨てて」
3.
思わず床に膝をついた。反射的に舌うちが落ちる。畜生。
「もう終わりか? 案外だらしないね」
上から、余裕を滲ませた声音が降ってきた。視界に小さな靴の先が入る。
「流石に伊達じゃねぇんだな、双頭の悪魔の異名は」
腹を左手で庇うように押さえて、アースは顔をあげた。すぐ傍に、あどけない顔をした少年が立っている。
少年が手からぶら下げた蛇のような剣の片方が、闇の中でも分かるように赤く濡れている。
「だから言ったじゃないか。おれは悪魔に魂を売ったんだって」
何度も言わせないでよ。困ったようにミカエルが笑った。
白衣の左側がざっくりと切れている。その白は赤に塗り替えられつつあった。
薙いだ剣の先端が、左から右へ、腹の表面を綺麗に切り裂いていったのだ。
傷口を押さえた左腕の内側に、なまなましい感触。じわりと染み出す生ぬるさだ。
くそ、と口をついてまた悪態が落ちた。
「仮にも、処刑人の統率を任せられているんだし、それに添うぐらいの力は要るよ」
「任せられてる? 猊下にか」
呼吸が次第に荒くなる中でも、アースはその口を閉ざさなかった。
「処刑人、か。その存在は秘密裏に囁かれてはいても、誰もその正体を見たことがない。そいつの姿を見たときは、死ぬときだからな。まさか、お高い正規軍の東軍大将閣下がその統率だなんて、誰も思ってないだろうな。―――なぁ」
流れ出す血液とともに、力が徐々に抜けてゆく。ぐったりと落ちてくる頭を意地だけで持ち上げて、アースはミカエルを見上げた。
「あんたの過保護な保護者たちは、知ってるのかよ?」
ゆっくりと二度、幼い顔が瞬きをする。知らないよ、と小さく笑って零した。
「彼らには何も言っていない」
部下たちには。この体や年齢や名前の秘密や、抱えているもの何ひとつ、明かしたことはない。きっとこれからも、明かすことはないだろう。
「可哀相だな」
肉体的な痛みと、精神的な哀れみが混ざった顔で、アースが笑った。
ひとり。
人の生き死にや老いの規格から外れた場所で時を渡る。
死に様を何度も見届ける孤独。
幼いままで。終わりのない闇を生きる。
「そうまでして、どうして生きる?」
270年近い時をどうして渡る?
「ついてゆこうと、決めた」
ミカエルは、アースの左腕を染めて、床に池を作り始める赤い流れを見た。
「人であることを捨て、悪魔のように永らえようと、ついてゆこうと、決めたのだ」
「……俺には、わからねぇな」
忙しなく呼吸を繰り返しながら、がくりとアースはうな垂れた。僅かにかすんだ視界に赤い池が映る。
こんなに出血していたのか?
「そうだね。おれ以外の誰にも、分からないことだから。分からなくてもいいよ、アース」
子どもを嗜める声だった。幼い声なのに、深い。
「もういいよ、アース。可哀相なのはおれよりも君だよ。もう、終わりにしたらいい」
ざり、と俯かせた視界にきらめき。刃だった。双蛇剣。
鞭のように重力に引かれて、床に流れている。
「そうやってお前はまた、殺し続けるんだな」
可哀相なのは、いい勝負だ。
ふふ、と場違いな小さな笑いがこぼれてきた。しゃり、と床を這う蛇が音を立てる。
「さよなら」
帰り道で分かれるときのような呆気ない挨拶で、ミカエルは右手を持ち上げた。
そのとき。
ドォン―――。
遠くで大きな爆発音がした。地面が揺れ、天井からぱらぱらと埃が降ってくる。
「な……!」
足元が揺れたと思ったその時だった。左肩に激痛が走って、ミカエルは思わず叫んでいた。
刃だった。それが、左の肩に僅かにめり込んでいる。一瞬遅れて裂くような痛みが押し寄せてきた。
ざあっと左腕から流れ落ちてゆく生暖かい液体の感覚。
「アース……!」
その怪我で立ち回るのは、自殺行為だ。
しかし、今ミカエルの左肩にうずまっているのは、アースの右手から伸びている刃だ。
「覚えてるか? 俺が改良した、光苔」
ミカエルの肩から刃を抜いて、荒い息でアースが言った。
ざああああと、どこかで水の流れる音が聞こえる。
「光、苔……?」
「昼間みたいに、明るくなるやつな……」
相変らず左腕で傷口を押さえたまま、それでもアースは何とか立つ。
だらりと垂らした右腕の先に伸びた刃から、たつたつと赤い雫が落ちていた。
「そして、長い間酸素に触れていると、爆発する」
水音が徐々に迫ってくる。その音が、ミカエルの背筋をざぁっと撫で上げた。悪寒がした。
「この上は、運河が通っているんだったよな? どっかに穴があいたら、どうなるのかぐらい分かるだろ」
「アース……!」
「沈むんだよ。この迷宮は」
「正気なのか!?」
ミカエルは思わず叫んだ。左肩に激しい痛みが走る。けれど、それどころではない。
苦痛と苦笑の中間あたりの表情で、アースは口唇のはしを持ち上げる。
「勿論。元々、この迷宮は沈めてやるつもりだったんだ。だが、予想外に時間がかかっちまったな」
「死ぬのは、君だよ。おれは逃げようと思えばどうにでもなる」
「ショックだろう?」
「?」
「ずっと一緒に生き残ってきたこの迷宮が沈んじまうのが、あんたにはショックのはずだ。だから、沈めてやりたかったんだよ」
ここはあんたにとって、父親の墓場と同義だろうから。
水流の音が、近づいてくる。
*
―――ドォン。
遠くに爆発音を聞いた。
少し置いて、地面が揺れる。
ふと、女の注意が自分から逸れたのを感じて、レイは目の前の女の体を思いっきり突き飛ばした。
間合いが取れたのを確認しながら、もう一丁のピストルを抜く。
「貴様っ……!」
女が体勢を立て直そうと身構えたとき、甲高い絶叫が扉越しに聞こえてきた。
男の声では決してない。女でもない。例えるとするならそれはまるで子どもの……。
「閣下!」
叫んで、女は広間に通じるドアから外へ飛び出した。
閣下!?
レイは、少し離れたところに転がっているティフェレトを拾い上げ、自分も転がるように広間へ出た。
血の匂いがする。
広間の中央で、二つの影が相対していた。こちらに背を向けている白衣と、それと向かい合わせの小さな影。
(あれは……)
見たことがある。いや、会ったことがある。
「閣下、ご無事ですか……!」
女が、その見覚えのある少年に駆け寄った。レイは、ドアを出たところで金縛りにあったかのように動けなくなってしまった。
血だまりがいくつもある。
「貴様、閣下に……!」
「イヴ」
女がアースに食って掛かろうとするのを、静かな声でミカエルが止めた。
「退こう」
「ですが……!」
イヴと呼ばれた女は、ミカエルとアースとを交互に見比べて、食い下がる。
「もうすぐ、ここは水没する。その前に帰りたいし、それに……」
かちゃん、と音がして、ミカエルの左手から剣が落ちた。だらりと下がった腕を何とか持ち上げる。
「こんなふうにあんまり、力が入らないしね」
小さく白い手は真っ赤に血で濡れている。
痛いんだよねぇ、とまるで他人事のようにミカエルが言う。
「分かりました」
幼い手を汚す赤に目を細めて、イヴは頷いた。
右の剣を先に仕舞ってから、地面に落ちたそれを拾い、ミカエルは腰のベルトにおさめた。
くるりと、アースやレイに背中を向けてから。
「そうそう。そのダンタリアンの書斎の傍にも、ひとつ転送機がある。空間転移といってね、ワープみたいなものだよ」
まるで独り言のように言った。
「ただ、少々不具合があって、来るときはここに直結だけど、どこに出るかは分からないんだけどね」
「なに……言ってやがる……!」
どことなく暢気な声に、アースが噛み付いた。
少し歩いてから、ミカエルが肩越しにアースを振り返った。
「別にただの独り言だよ。また会えたら良いなと思って」
「閣下……。お怪我に障ります」
イヴに促され、ミカエルは再び歩き出した。その後を辿るように、血痕が続いてゆく。
そうしてその二つの影は、レイたちも辿ってきた通路の先に消えた。
「アースさん!」
がくりとアースの膝が崩れる。レイの金縛りは、やっとそこで解けた。
その場にうずくまるアースに駆け寄ると、アースは何度か咳き込んでからかすれた声で「だらしねぇな」と呟いた。
むせ返るような血の匂いと、床に広がる血の海に、レイは息を呑んだ。
轟々と、水音が迫る。
緩やかな水音は心を落ち着けるというのに。荒れ狂うその響きは本能的な恐怖を呼び起こす。
どっと、ミカエルたちが消えた通路から、堰を切ったように水が飛び込んできた。
「悪いな。結果としてお前を利用させてもらったよ。ここまで巻き込むつもりは無かったんだがな」
謝罪など。この男には似合わないのに。
まるでそれは、遺言のような響きがした。
かっと苛烈な苛立ちが下のほうから脳天にまで駆け抜けて、レイは、アースの右腕を引きずるようにして立ち上がる。
ぴちゃぴちゃと足元で水が鳴った。
「おい!?」
引きずられるように立ち上がったアースが、思わず叫び、途端に腹に走った痛みにうめいた。
「少しですから、歩いてください」
「おま、まさか……! あいつの言ったことを鵜呑みにするってのか!?」
不具合があるという転送機のことだ。
ダンタリアンが書斎として使っていた部屋にあるという。
「あの女の人も突然現れたんですよ。その、転送機があるって言う話は嘘じゃないはずです」
半ばアースを引きずるようにして、レイは先程の部屋へ戻る。
どこかで何かがぷつりと吹っ切れていた。
「不具合があるってことは、どこに飛ぶか分からないってことだぞ!」
「じゃあここで水没しろって言うんですか!?」
噛み付く勢いで、レイが反論する。すると、流石のアースもぷつりと黙った。
「溺れたいなら、置いていきますけど」
普段ならば絶対言わないような言葉が口をついて出た。語気も荒い。
どうして憤っているのか、自分でも意味が分からない。
ただ、そんなに簡単に生きることを諦める男には見えなかった。アース・フィラメントは。
「いや、それもそうだな……」
アースは嘆息交じりに吐き出し、そのあとすぐに咳き込んだ。
医学の知識など無いレイにも分かる。かなり血を失っている。早くどこか、治療できる場所に行かなければならなかった。
4.
辿り着いたのは、自分の執務室だった。
もう夜が明ける頃合なのか、空が白んでいる。
手当てを、と言うイヴを無理矢理下がらせ、ミカエルは自分の執務机についた。
途中散々水を浴びたせいで、頭から爪先までびしょ濡れだ。服が重い。
もうどうでもいいから、ベッドに沈んでしまいたい。
いや、この執務机の椅子でもいいから、このまま眠ってしまいたい気分だった。
確実に風邪はひくだろう。いや、もしかしたらこのまま二度と目が覚めないかもしれない。
そんなことをぼんやりと考える。
そのとき不意に、執務室の扉が開いた。
「やっぱりここに……何やってるんですか!?」
聞こえてきた声にびっくりして、ミカエルは閉ざしていた目蓋を開いた。
「君が……何をしてるの、アフライド」
椅子に沈み込んだまま、ミカエルは早朝の訪問者に問うた。
「ジャンヌの様子を見に早朝に来てみれば。深夜に大将に会ったっていうから、寄ってみたんです。というか、なんなんですか、そのザマは?」
大きな溜息を吐き出しつつ、アフライドは椅子の隣に立つ。全身びしょ濡れの上官を見下ろした。
えへへ、と笑いながら、ミカエルは左腕を後ろに庇う。
「年甲斐もなく、水浴びを……ね」
その回答は至極部下を不機嫌にさせたらしく、アフライドは眉間に盛大に皺を刻んだ。
「なんですかそれは」
やれやれ、と顔に書いてアフライドはまた溜息を落とす。
「しっかりしてくださいよ。俺よりも年上のはずじゃないんですか」
くるりと踵を返し、備え付けの洗面所に勝手に入り込む。持ち出したバスタオルを上官の頭の上にぼすりと乗せた。
そのままわしゃわしゃと少し乱暴に栗色の髪を拭く。
「うん。ごめんね。シャワーを浴びたら一旦家に戻るよ」
「送りましょうか?」
「いいよ。すぐだから一人で戻るよ。こう見えても君より年上だし、平気だよ」
右手だけで濡れた髪を拭きながら、にっこりとミカエルは笑う。
「ほら、着替えるから出てって!」
「何思春期の少女みたいなこと言ってるんですか」
悪態はつきながらも、基本的に従順な部下は、呆れ顔でミカエルに背を向けた。
「大将」
入り口のところまできて、アフライドは肩越しに振り返る。
相変らず彼の上官は机に沈み込んだまま、こちらを見ていた。
「本当に、なんでもないんですね」
しつこいぐらいに念を押して確かめる。するとミカエルは、一度愛らしい瞳を大きく見張ってから、しっかりと頷いた。
「何かあったら、言ってくださいよ」
「うん。ありがとう」
執務室の扉を閉めて、しばらく廊下を歩いたところで、アフライドは立ち止まった。
僅かに水に濡れて冷たい右手を、視界に入れる。
小指のあたりが、赤く汚れている。
気付かないふりをした。
庇った左肩に、決して軽症とはいえない傷口があること。
黒い軍服だろうと、血が沁みれば分かるのだ。
あのひとは時々ふらっといなくなり、そして気がつけば帰ってきている。
本人は化石発掘だと言っている。それが嘘ではないとしても。きっとそれだけではない。
一体どこで何をしているのかなど、アフライドには分からない。
(大体俺は、あの人の何も、分かっちゃいねぇんだけどな)
右手にこびりついた血は、もはや乾き始めていた。
―――何かあったら、言ってくださいよ。
ミカエルはしばらく扉を見て黙っていた。
本当に世話焼きな部下の顔を思い出して、苦笑する。
「言えないよ、君には……」
右手で左肩を押さえた。ずるりと滑る。びりっと裂くような痛みが走った。
何ひとつ、言えはしないだろう。これからも。
この体で生き延びる理由や、本当の年、本当の名前。
たびたび本部を抜け出してこなしている副業も。
口にするつもりはない。
(きっと君たちは、僕よりも先に死ぬ)
年月を重ねれば、人並みに老いて、そして人並みに生命を終えるのだ。
ただ一人ここに、取り残されて自分はまた、生き残る。
この姿のままで。
「だから、知られたくないじゃないか」
一人で置いていかれることが分かっているのに。
取り残されると知っているのに。
わざわざこの手を汚す理由や、化け物じみた年齢の話なんて、そんなもの敢えて話したり。
君たちの、僕を見る目が変わるのだと知っていて、わざとそんな話。
誰もしたいなんて思わないよ。
僕は、今、どんなめぐり合わせであったとしてもたった今。
近くにいてくれる人たちをとても愛おしく思うし、大事にしたいと思ってしまうんだ。
それは限られた時間だから。
「我儘だな……」
椅子の背もたれに体重を預け、天井を見上げて。
自嘲するように呟いた。
*
闇に慣れすぎた瞳が急に光を感じると、眩暈がする。
それが例え、そんなに強くない光であってもだ。
白み始めたばかりの空。まだ決して明るいとはいえない時刻だ。
場所は野外。
レイはまばたきを繰り返しながら周囲を見回した。
左右を高い壁で挟まれている。どうやら路地裏のようだ。
ダンタリアンの書斎にあったもう一つの扉の奥に、見たことも無いような機械が一台あった。
エレベーターのようにも見えるそれを、アースの言うように操作して、一瞬目も眩むような光に飲み込まれたかと思えば。
気付けばここにいる。
「ラッキーだな」
アースが、片方の壁にもたれて立っていた。
光のもとで見ると、彼のありさまは酷いものだった。白衣は血で汚れ、顔色も悪い。
傷口は決して致命傷にはならないものの、このまま血を失えば危険だろう。
そんな彼が、何を「ラッキー」だといったのか、咄嗟にレイには分からなかった。
「見ろよ。見覚えあるだろ」
アースは、右手で路地の出口の方を指差した。どうやら別の、もっと大きな道に繋がっているらしい。
アースが指差しているのは、その大通りの向こうに見える、巨大な二つの塔だった。
「中央議会と、教皇庁……?」
見紛うことなく、その二つはこの世界の首都のシンボルだ。
神父を目指して大学に通う間も、毎日見続けてきた建物。
ということはここは……。
「カルチェ・ラタンに上手く帰ってこれたというわけか。―――この場所ならそう悪くねぇな。あてもある」
言うなり、アースは地面に視線を落とした。まるで落し物を探すように、地面を探る。
「そこの、マンホール開けてみろ」
レイの後ろ側を指差して、アースが言った。
「そのマンホールから地下通路に出る。ここからだと研究所は、そう遠くないはずだ」
*
「まだ夜も明けきってねぇってのに」
「しょうがないでしょ、着いちゃったんだから」
「腹減ってんのにこれじゃどこの店も開いてないじゃんか」
大体朝は機嫌が悪い。ハルトはぶつぶつと零しながら、煙草に火をつけた。
疲れた目に煙は痛いが、煙草でも吸っていなければやっていられない。
「本部に行くしかあるまい。そこで一眠りでもすれば昼だ」
冷静に、エークがプランを提案する。それがここ数日で一番建設的なプランに聞こえた。
それもこれも、ここ数日というもの強行軍をしすぎたのである。
カルチェ・ラタンに早く着きたかったのは山々だが、時刻表も見ずに一番早く着く列車を乗り継いできた結果が、これである。
まだ夜も明けきっておらず、空を見渡せば明るい星をいくつか見つけることが出来る時間に、到着してしまったのだ。
「そんなに急いで帰ってくる必要があったのか?」
「……あんた、急いでるって、言ったじゃない」
強行軍の引率をつとめたクリスも、まさかこれほどの早朝に辿り着くとは思っていなかったらしい。
恨みがましいハルトの視線をあさっての方向を向いてやり過ごす。
「まぁ、急いでいたのは確かだな。ここ数日入ってきた通信によると、カルチェ・ラタンでも極秘でなにやら取引が行われているらしい。それがHGの可能性もあるからな」
「それよ!」
エークのフォローに飛びついて、クリスが叫んだ。
「それもあって、急いでたのよ!」
今まさにとってつけたような理由にも思えたが、これ以上の言い争いは自分の体力の無駄なので、ハルトは黙った。
「それに、あと4日もすれば粛清が決行される。それまでには戻っていたかった」
先頭を歩くエークの言葉のほうに、ハルトは反応した。
粛清。
ミンスター大学の教授及び学生を、火刑に処すという内容だ。
理由は、ガイアズメール研究。神の船の研究だ。
元々それは禁忌とされている内容ではある。宗教裁判にかけられれば、間違いなく有罪だろう。
しかし、処刑とは。
以前ならば、在り得たことだ。教会の定めた禁忌を犯すことは、死刑という時代もあったのだから。
しかし今は、昔と比べて宗教の力が弱まりつつある。
今回の処刑に疑問を抱くものも、決して少なくはないだろう。それを、大司教が強行するというのだ。
何かある。
ゆるい坂道をのぼり、大通りに出た。
いくつもの道が交わり、その中央には広場もある。ここがカルチェ・ラタンの中心部だ。
ふとハルトは立ち止まり、少し上を見上げた。
更に坂を上っていた先に聳え立つ、大きな二つの塔を。
中央議会と教皇庁。
申し訳程度に残った王制など、全く意にも介さないといった体で威圧的に聳え立っている。
あれこそが権力の象徴だ。
「戻ってきた、か」
ぽつりと呟いた。
この街が全ての始まりだった。
ガイアズメールを探すことになったのも、異端者と追われることになったのも。
この星の真実を探ることになったのも、だ。
さすが首都というだけあって街の規模は半端ではない。が、ハルトは何故かこの街になじむことが出来ない。
(ごちゃごちゃしすぎだって思うのは、田舎モンだからなんだろうな……)
発掘仕事の関係上、よく立ち寄る街ではあったのだが、住み着いたことは一度もない。
顔なじみもいるし、居心地が悪いわけでもないのだが。
だから、キトの村を出てからついこの間まで、ずっとこの街に住み続けていたレイを、ある意味で尊敬している面もある。
(あいつもな……どうしてるんだかな……)
当然ながら今も、生命の心配はしていない。
ただ、彼は天性の苦労性なので、要らぬトラブルを呼び込んでいないだろうかとは思うが。
「ちょっとー! 置いてくわよっ!」
気がつけば、随分クリスたちとの間に距離が開いていた。
早朝から元気よく、クリスが叫んでいる。
「分かったよ」
短くなった煙草を揉み消して、ハルトは坂道をのぼり始めた。
通り過ぎた路地の奥で、カタン、とマンホールの蓋が鳴った音になど、全く気がつきもしなかった。