ルシフェルの徒
〜死海文書〜





―――ルシフェルの徒。それは悪魔に魂を売ったものの名だ。
 神と、その子らに厄災をばら撒くものの名だ。
 私もやがて、そう呼ばれることになるだろう。
 それでも私は、確かにあのとき、見たのだ。
 契約を―――

         マーロイド・ダンタリアン『神の姿と契約の匣』



1.

 水の流れる音がずっと聞こえている。
 ゆるやかにアーチを描いた橋の真ん中に立って、レイは眼下に広がる光景を見つめた。
 どうどうと、橋の下を透明な水が流れる。運河と呼んでも差し支えない広さの河の上に、その橋は建っている。
 空の高いところに上った太陽が、水面にうつくしい光を落としていた。
「水の都―――か」
 呟く声も水の音に掻き消され、ようやく自分の耳に届くほど。
 眼下に広がる運河を、小型の船が通過してゆく。この街では水路が道路。船が移動手段だ。

 水の都、ソロモン。
 背教者ダンタリアンが生まれ、そして火刑に処された街。

『この街の地下にはね、迷宮があると言われてるんですよ』
 ぼんやりと水面を見つめながら、先程宿屋で耳にした話を思い出す。
『迷宮?』
『ええ。正確には背教者の隠れ家らしいんですがね。探索に入っていった人間は、誰一人戻ってこないんですよ』
『背教者』
『マーロイド・ダンタリアンです』
 宿屋の主と、商人らしい客のやりとり。偶然その場で宿泊手続きをしていたレイの耳にもぐりこんできた名前。

 マーロイド・ダンタリアン。
 今から300年程前の人物だ。
 カルチェ・ラタンと並ぶとも言われるこの大都市ソロモンで生まれ、地元の神学校を主席で卒業。神童と騒がれた。
 その後、学園都市カルチェ・ラタンでも殿堂といわれるサン・エノク大学へ進学。
 30代で助教授にのぼりつめ、宗教史の研究をしていた。敬虔な信仰の持ち主であったとも言われ、一説では神の声すら聞いたといわれているが、それは定かではない。
 30代を半ば過ぎた頃から、地方伝承に興味を持ち、あまり表には出てこない口頭伝承を、自らその地方へ赴いて集めて回ったことでも有名だ。
 輝かしいばかりの、経歴。
 約300年程度後輩であるレイも、彼と同じ宗教史を専攻していたのだが、彼の研究資料などを何度も手に取ったことがある。
 人柄がわかるような論文、とはあのようなことを言うのだろうか。綿密で、細部にまで神経が行き届いているような。一方で全てを説明しきらなければ気がすまないというような、神経質さも目に付いた。
 しかし、彼は突然大学助教授の地位を捨て、この街ソロモンに舞い戻る。
 外界との接触を一切断ち、著書の執筆に入ったのだ。
 悪魔が憑いたと、言われる所以。


 レイは、きらきらと輝く水面からようやく視線を引き剥がし、右手側に歩き出した。
 運河沿いにあるという、その隠れ家の入り口まで行ってみようと思っていたのだ。
 なだらかに下った橋を歩く間も、絶え間なく水の流れる音がする。
 街に入ったときは、この絶え間ない水音が耳について仕方がなかったが、さすがに半日も聞き続けていれば慣れた。
(確か、この橋を渡り終えて、左手の階段を降りる……んだったよな)
 宿屋の主に聞いた道順を反芻する。
 主には散々反対され、止められたが。ただ見に行くだけだとの約束を取り付けられ、ようやく教えてもらうことができた。
 その慌てふためいた様子から、どうも入り込んだ人間が帰ってこないというのはただの噂だけではないようだ。

 橋を渡り終えると両側に階段が見えた。その階段を降りると、川沿いを歩けるように土手が舗装されている。が、左側だけやけに煩雑に木箱などが積み上げられ、無言で侵入を拒んでいるように見えた。
 しばらくそこに立ち止まり、積み上げられた木箱を見つめていたレイだが、やがて決意したように木箱の隙間を縫うようにして階段を下りはじめた。
 木箱に体がぶつかるたびに、かたん、と軽い音がする。中身は何も入っていないようで、非常に不安定だ。
 10段ほどの階段を下りきると、舗装された石畳が広がっていた。
 足元のすぐ傍では水面が流れている。一歩前へ踏み出すと、かつりと踵と石畳が音を立てた。
 数メートル先の、右手。土手をくりぬいたように地下へと続く、洞穴のような入り口が見えた。
 傍に寄って覗き込むと、崩れかけた階段が続いている。数段先はもう、暗闇が広がっていた。
 喰われそうな、そんな気がした。

―――ダンタリアンの呪いだよ。
―――いや、契約していた悪魔が住んでいるんだ。
―――研究の結果産み落とされた化け物がいるんだそうだ。

 宿屋で聞いた主と地元の人間たちの話では、現実味のない仮説だけが飛び交っていたように思えたのだが。
 この場にこうして立ってみると、そんな噂が流れるのも仕方がないのかも知れないと思ってしまう。
 粘着質の闇が、すぐ目の前に広がっているから。
 呆気なく発見してしまった"迷宮"の入り口から視線を引き剥がし、レイはそれを反対側の水面に転じた。
 澄んだ水が全てを押し流すように流れているのを見て、何故だかほっとした。
 水際のぎりぎりまで近づいて、ゆっくりと視界を横切ってゆく大小様々の船を眺めた。
 育った街もカルチェ・ラタンも、水とはほぼ無縁の内陸地で、海はおろか大きな川さえ目の当たりにしたことがなかった。
 知識を持っていることと、目の前にそれがあることは、全く別の話だ。
(水って、なんだか凄い……)
 人の体の7割は水分で占められているという。そのせいなのかは分からないけれど、水を見ているとなんとなく、落ち着く。
「……とりあえず一度、宿屋に戻ろうかな……」
 見に行くだけなら荷物は全て置いていってくれ。人のよさそうな宿屋の主にそう言われれば、こちらも人のよいレイのこと、断ることなど出来もしない。いつも身に付けている2丁の拳銃もまた然り。宿屋に預かられていた。
 この"迷宮"を探索するのは、おそらく日が落ちてからになるだろう。宿屋を抜け出すのもなんだかお手の物になってしまった自分が、少し悲しいような気もする。
「なんだかなぁ……」
 溜息をひとつついて、レイは煩雑に木箱の並べられた階段へ向かって歩き出―――したところで、突然目の前に現れた白い影にぶつかった。
「うわ……っ!」
 体勢を立て直すことが出来ず、やばい、と思ったときにはもう既に遅い。
 ばっしゃん、と激しい水音を立てて、レイは水の中に、落ちた。
(全く、どんどん不幸になる気がする……)
 冷たい水に体の大半を浸して、傍の石畳に手をかける。深々と溜息をついた。水難の相でも出ているのかもしれない。
 水底に足の届かない川から何とか体を引きずり上げようとするレイの上に、影が落ちた。人影だ。
 反射的に見上げると、真っ先に目に飛び込んできたのは鮮やかな翡翠色の瞳だった。
 次に白。
 びしょ濡れのレイを見下ろすようにしゃがみこんでいるのは、若い男だった。
 纏った白衣の内側に、黒いシャツと白いネクタイ。光の加減で金にも黄にもオレンジにも見えるざんばらの、鬣のような髪は、後ろで短い尻尾のようにまとめられている。
(この人……どこかで見たことが……)
 必死に記憶をひっくり返しているレイなど構わず、不遜なと表現できるような冷えた視線でこちらを見下ろす。
 ざぁざぁと流れる水の音だけがしばらく続いた後、その男が言った。
「助け、要るか?」
「……助けて、下さい」
 頼んでから気がついた。僕はこの人にぶつかって川に落ちたんじゃないんだろうか。
 いやきっと多分、絶対、そうだ。


            *


「最近は随分と活動的だな、ラジエル」
 自らの吐き出す紫煙に軽く目を細めながら、長身の女がそう言った。
 場所は教皇庁。大司教の執務室である。
 地方教会の視察に赴いていた教皇の護衛の任務を、たった今終えた女がラジエルに報告に訪れたところだった。
 報告を終えた正規軍元帥ユダ・ゴートは、怪訝そうにこちらを見る大司教と視線を合わせ、口元だけで笑った。
「表舞台に出るのは嫌いだとばかり思っていたが」
 彼女の言葉が暗に指しているものが、あと数日後に迫った粛清のことであることを、ラジエルは察する。
 またその話か、とばかりにひとつ嘆息を落とした。
「別に私は反対しているわけではないよ」
 手に持ったガラスの灰皿に灰を落としながら、ユダが言った。
「私は貴方との契約が守られるのならば、特に貴方のすることに口を出すつもりはないし、それこそ興味もない。ただ、可哀相だと思っただけさ」
「可哀相、だと?」
「猊下に入れ込んでいる私の部下たちが、だよ。特に東のちいさいのがね」
 最近やたらと元気がないんだ。あのお調子者がね。
 わざと知らしめるように言われなくとも、そのぐらい分かっている。
「嫌味を言いに来たのか」
「そう感じるのは、何か疚しいところがあるからだろうさ」
 ユダは咽喉の奥だけで笑う。が、すぐに真顔に戻った。
「そういえば、あの男、前からあんな感じだったか?」
 短くなった煙草を揉み消す。
「あの男?」
 デスクに座ったまま、ラジエルが聞き返した。
「ルーイン。ベリヤール・ルーインだ」
 灰皿をデスクの上に置き、ちらりと視線だけを入り口の方へ向ける。
 執務室に入る前には、もうひとつ小さな部屋がある。大体は秘書官が来客の取次ぎをするための部屋なのだが、今はそこにベリヤール・ルーインという男がいるはずだ。ここ2週間ほど前からラジエルの秘書官代わりをしている。
 彼は正規軍西軍少佐という地位についているから、実質ユダの部下になるのだが、ここ数年遠方配備についていてあまり顔を合わせる機会がなかった。
「随分、雰囲気が変わったように思えるがな」
 少し気弱そうな、真面目な官僚気質。ユダの彼に対する認識は、ずっとそうだった。
 けれど、カルチェ・ラタンに呼び戻されたその男は、どことなく自信に満ちた物腰や不遜な態度が内側からにじみ出ているように思える。
「数年経れば、人も変わるだろう」
 別段気にするふうもなく、ラジエルはそれだけ告げる。
「……そうか。それもそうだな」
 早く会話を終わらせたい。相手の醸し出すその空気を察知して、ユダは会話を切り上げることにした。
「用は済んだ。失礼するとしよう」
 軍服に揃いの白のコートを翻して、ユダはラジエルに背を向けた。
「お前との」
 その背に、不意に声がかかった。うつくしいアルトの声だ。この男は、声にまで隙がない。
「お前との契約は、覚えている。今はまだ、時ではない」
「分かっているさ」
 苦笑交じりに応じて、ユダは執務室を辞した。
 静かに閉まった扉をしばらく見つめて、ラジエルは席を立った。
「……猊下? どちらへ?」
 ちょうど部屋に入ってきたベリヤールと、すれ違う形になる。
「少し、出てくる」
 それだけを言い残して、ラジエルは執務室を出た。



2.

「カルチェ・ラタンの地下にはこんなふうに、まるで蜘蛛の巣のように通路が張り巡らされている。だけど、大概の人間は足元にそんなアンダーグラウンドがあるってことを知らない」
 闇に塗りつぶされた通路に、サイジョウの声が響いた。
「元々は、反乱軍がカルチェ・ラタンを侵攻するために作った抜け道だけど、今は教会の持ち物だね」
 どのぐらい、日の光を浴びていないのだろう。列の一番後ろを歩きながら、リョウコは思う。
 二日前。本当にものの2時間ほどでカルチェ・ラタンについてからというもの、サイジョウたちの活動場所はほぼ地下だった。
 サイジョウがアジトだといった場所も地下にあれば、出かける際もこの地下道経由。
 基本的に活動は日が沈んでから。必然的に、太陽の光を浴びることが少なくなる。
 今日は久しぶりに昼間から出かけるというから、どこへ行くのかというと。
「ええと、研究所は教皇庁の西だから……、左かな」
 T字方の曲がり角で、サイジョウがそんなアバウトな判断をして左に折れる。
「……よく迷わないですよね、それで」
 溜息混じりにファンが突っ込む。その声が周囲の壁に反響して消えた。
 そーですよ、といつもなら同意するはずのモエが、全く口を開かない。リョウコはその背中を見て、声をかけるのをためらう。
 カルチェ・ラタンに入ってからというもの、モエは常に"戦闘モード"で、周囲にも分かるほど緊張していた。
 声をかけると思い出したようにいつものモエになるのだが、張り詰めるようなオーラにリョウコは声をかけることすら出来ずにいる。

―――どうしてモエさん、そんなに強いんですか。
 本当に他意も何もなく、純粋な興味だけで一度、訊いたことがある。
 するとモエは、一瞬だけ物凄く驚いた顔を―――見開かれた瞳には怯えすら滲んでいるように見えた―――して、すぐにふふふと笑った。
 これはね、この力はね、ズルなのよ。本当に、ズルなの。
(私はきっと、触れてはいけない部分に触れた)
 一瞬でそれが分かった。触れた部分のその先におそらく、何らかの痛みを伴う傷口があるのだ。
 それ以上は訊けなかった。

「あれ、おかしいなぁ」
 俯いていたリョウコの耳に、前から情けない声が響いてきた。
 顔を上げると、いつのまにか皆立ち止まっている。目の前は突き当たりだった。のっぺりとした黒い壁が行く手を阻んでいる。
「だから言ったじゃないですか」
 不機嫌を声に表して、ファンが首のあたりのゴーグルを引きずり上げた。「こうして、しっかり経路を確かめたほうがいいって」
 ただのゴーグルに見えるが、あれもコンピュータのひとつだ。背中に背負ったカバンから端末を引きずり出して、コードをゴーグルのこめかみあたりに繋ぐ。
「ごめんごめん」
 前もここ、通ったはずなんだけどねぇ。
 あまり誠意の感じられない謝り方に、ファンがゴーグルで物凄く冷たい眼差しをした。
 闇の中に、ファンのいじくる機械端末の光が溢れ出す。液晶の光は、闇に慣れている目には痛い。
 リョウコは、その光に背を向けた。自分のすぐ後ろにある、突き当たりの壁と向かい合う。
 のっぺりとした黒い壁。闇の色。触れたら、本当は壁なんてないんじゃないのか。そう思うほどに。
 リョウコは手を伸ばして、それに触れた。
 途端。
 ずるりと何かに、引きずられるような感覚。"引きずり込まれる"。そう思ったときにはもう遅く―――。


 ファンの傍で端末を覗き込んでいたモエは、小さな悲鳴を聞いた気がして、振り返った。
「リョウコちゃん―――?」
 そこにはただ、沈黙する袋小路。
 闇の色。


            *


 光だ。
 上から降り注いでくるのは光だった。
 闇から光。急激な変化に体がついてゆかない。きつく目をつぶった。まぶしすぎる。
 何しろここ数日、日の光を浴びることすら皆無だったのだから。
 反射的に目を閉じても、目蓋の裏に確かに沁み込んでくる明るさ。

 ここはどこだろう。

 恐る恐る、目蓋を持ち上げた。
 注ぐ光の帯を遡るように顔を上げると、遥か高みに天窓があった。十字架を模した形に切り取られている。
(十字架……?)
 天窓を見上げたまま、リョウコは立ち上がった。
 とりあえず、振り返ってみる。すると自分の赤い瞳と目が合った。大きな姿見がそこに置いてある。おそらくあそこから放り出されたのだろう。空間転移、だろうか。
 次に、ぐるりとあたりを見回す。広間のようだった。
 そう広くはない。休憩所のようなものだろう。円形の壁に寄せられるように、いくつかベンチが見えた。
 随所に宗教画や石像が配置されている。十字型に差し込む光も相まって、空気は荘厳だった。
(何処かの教会かな……)
 天窓から射す光に導かれるように、リョウコは広間の中央に進み出た。
「そこで何をしている」
 突然聞こえた声に、リョウコはびくりと固まった。美しい声だった。
 声は、後ろから。やけにゆっくりと振り返る。

 まず感じたのは、金色の光。
 リョウコは、半分振り返った体勢のままでそこに立ち尽くした。射すくめられたように動けない。
 冷えた青の、うつくしい双眸が、こちらを見ていた。
 黒の聖服を纏い、胸に金のロザリオを抱き、凛と立つ。

(大司教―――)
 ラジエル・エレアザールだった。


            *


「"呪い"。実にこの街に不似合いな言葉だな」
 ホテルの一室。堂々と一脚しかない椅子に腰掛けた男が言った。
 運河に面した窓際に寄せた椅子に泰然と座っているこの男は、この部屋の主ではない。
「呪い、ですか?」
 洗ったばかりの髪をバスタオルで拭きながら訊き返した男の方が、今夜この宿を借りているのだ。レイは立ったまま、椅子に腰掛けた白衣姿の男と向き合う。
「美しい街じゃないか。そうは思わないか? こんな街に呪いだなんて、全く美しくない」
 右の肘掛についた頬杖に顎を乗せ、背後の窓から運河を見下ろす。
 獅子の鬣のようにざんばらの、オレンジっぽい髪を持つこの男は、アース・フィラメントと名乗った。
 この世界に存在する研究機関では最高位に位置する教会直属の研究所の、主任研究員だという。
「アースさんはカルチェ・ラタンに行くんじゃなかったんですか?」
 この前まで滞在していたカインの街で、レイは一度この男に会っていた。会った、というよりも見かけたと言った方が適切かもしれないが。
 カインで世話になったJという人物の経営する、酒場で顔をあわせたのだ。そのとき彼は、「カルチェ・ラタンに逆戻りだ」とは言っていなかったか。
「……ああ。ジャガーのところで一度会ってるんだったな」
 一瞬だけ「何でそのことを知っているんだ」という顔をしたあと、すぐにアースは納得したように頷いた。「何、野暮用さ」と付け加える。
「俺も、"ダンタリアンの迷宮"に用があるんだ」
 組み合わせた膝に手を重ね、不敵な笑みを浮かべて、アースはレイを見上げる。
 レイは、髪を拭く手をふと止めて、相手のエメラルド色の瞳と目線を合わせる。
 しばらく値踏みするような視線が上下するのに、レイは耐えた。
 やがて。
「迷宮の役割とはなんだ?」
 アースが言う。
 急にレイは、自分の内側が冷静になってゆくのを感じた。大学の教室に戻ったような心地になる。アースのそれは、ディスカッションし慣れた者の口調に聞こえた。白衣や主任研究員という肩書きは、決して伊達ではないのだろう。
「迷宮がそこに、存在する意味は?」
 エメラルドをそのままはめ込んだような瞳を細めて、アースがまるで詩でも暗誦するように続けた。
「外界からの侵入を、防ぐため?」
 しっかりと、レイが応えた。するとアースは、上手く計算を解いた子どもを褒めるように、満足そうに頷いた。
「そうだ。それで当たりだ。迷宮は、外界からの侵入を防ぐ役割を持つ。が、同時に―――」
 そこでアースは一度言葉を切った。片手で、耳にたくさんぶら下がる、棒状のピアスを弄りながら、窺うようような、試すような顔をする。
 レイは、自分でも気付かないうちに飲まれていた。彼の言葉と、雰囲気とに。
 この人はとても頭がいい。直感的に悟った。
 ぞくぞくとした快感が這い上がってくる。知的好奇心を満たしてくれるやりとりがレイは好きなのだった。アースからも同じ雰囲気を感じる。
 お互いの目が、探り合いをしている。
「遥か昔」
 先程の話題にわざと結論を出さずに、アースは別の話を切り出した。
「クレタ島にクノッソスという迷宮があったと言われている。その迷宮の最深部には、ミノタウロスという、半牛半人の化け物がいたんだそうだ。―――聞いたことはあるか」
「……ダンタリアンの」
 レイがそこまで言っただけで、アースは了解したように頷いた。
「そうだ。ダンタリアンが集めた口頭伝承の一部に出てくる。これだけ一神教が浸透した世界じゃぁ、そんなのはただの背徳者の戯言だがな。だが、興味深いことに、そういう伝承は鋭く真理を付いている場合も多い。つまり―――その迷宮は、"中の化け物を封印しておくためのものだった"ということさ。迷宮の存在意義は、そういう二面性だ。侵入を拒み、脱出をも拒む」
 それは、一切の拒絶だ。レイは知らぬうちに、息を呑んでいた。
「何だと思う? 手配犯」
 レイは、一瞬呼吸を忘れた。相手は自分を、「異端者」で「手配犯」であると知っていたのか。
 レイの驚きも気にするふうもなく、アースは不敵に笑って続けた。
「ダンタリアンが、侵入も脱出も拒み、封じ込めておきたかったもの。それは一体なんだ?」
「封じ込めておきたかったもの……」
「どうだ、俺と手を組んでみる気はないか?」


            *


「こんな場所で一人で、何をしている」
 重ねて尋ねられ、リョウコの金縛りがようやく解けた。
「えっと、あの、……迷子に」
 嘘ではなかったが、最後まで言うことは出来なかった。言葉は尻つぼみに消える。
 何処かの教会、どころの話ではない。彼がいるということは、ここは十中八九教皇庁だ。
 一般人がおいそれと立ち入れる場所でもない。どうやって迷子になったと言い訳すればいいだろう?
 しかし、リョウコはそんな言い訳まで頭が回らなかった。
(この人が……)
 傍まで歩み寄ってくる男を見つめて、リョウコは身構える。
(大司教ラジエル。教会の頂点に立つ人―――)
 すぐ傍らまで来て、ラジエルはリョウコを見下ろした。その髪と瞳の色に、少しだけ目を見開いた。
 嫌な予感がした。
 黒髪と赤い瞳のセットは、あまり好ましい印象を与えないのは、今まで生きてきて十分承知している。
「カルチェ・ラタンでは、珍しいな」
 拍子抜けして、リョウコは思わず「はぁ」と頷いた。
 カルチェ・ラタンのみではなく、この色の取り合わせは珍しいのだ。
「この建物は複雑でよく迷う。出口まで案内しよう」
「えぇっ!?」
 淡々と言って、ラジエルが歩き出した。やけに大声で反応してしまって、その声がやけに広場に響いたので、リョウコは慌てて口を押さえた。
「い、いいです、そんな……。道さえ教えてもらえれば、一人で出ますから……!」
 とりあえず、侵入は咎められなかったものの、それどころではない展開になろうとしている。リョウコは何とか、その状況から逃れようとした。
「丁度気晴らしに、歩こうとしていたところだ。気に病む必要はない」
 少し離れた場所で振り返り、ラジエルが言った。端正な彫刻のような顔には、表情のようなものは何も浮かんでいなかった。
 そこまで言われて、断れるはずもなく。リョウコは大司教の後ろについてゆくことにした。

―――聞いていた話と、違う、気がする。
 淡々と前を歩くラジエルの、斜め後ろを歩きながらリョウコは思った。
 斜め前をのぞき見る。柔らかな金の巻き毛が肩から背にかかっている。
 廊下に続く窓から差し込む光を反射して、きれいだ。
 澄んだ青い瞳は前を向いたまま、揺らがない。放つ光が、神々しい。
「大司教、猊下」
 気がついたら呼んでいた。
 ラジエルはこちらに、僅かに目線だけを向けた。
「お疑いに、ならないんですか」
 言ってから、自分が何を言っているのか分からなくなった。
 こうして無事に出られそうなのに、どうしてわざと波風を立てようとするのだろう。
「君が、私の生命を狙うとでも言うのか」
 厳かな声でたったそれだけを言った。端から疑っていないという様子だった。
「疑わないのは、人を信ぜよと、教会が説いているからですか」
 何故むっとしたのか。どうして食い下がるのか。
 リョウコには分からなかった。おかしい。どうしてこんなに―――。
 ラジエルはその切り返しに少しだけ驚いたような顔をしたあと。
「それ以前に私は私の目を、信じるようにしている」
 言った。
「すみません、変なことを訊いて……」
 急に恥ずかしくなって、リョウコは俯いた。どうしてこんなことを訊いたのだろう。
「疑われたことが、あったか?」
 今度はラジエルが訊いた。ふと俯かせた顔を上げると、彼は立ち止まって、半ばこちらを振り向いていた。
「疑われて、悲しい思いをしたことが?」
 彼の顔には、今も尚、何の表情も浮かんでいないのに、突然リョウコは泣きそうになった。
 声がやさしかった。
「ありました」
 それだけ言うのにも苦労した。言葉を押しのけて、嗚咽がこぼれそうになる。
「この瞳の色が、原因で。何か街に悪いことがあると……」
 赤の瞳は、悪魔の証と言われるから。
「とても、辛かった、です」
 どうして。
 こんなことまで喋ってしまうのだろう。このひとに。
 さっき出会ったばかりの、このひとに。口が止まらない。

「疑われることに怯えて、人を疑ってはいけない。全ての事象はは繰り返すのだから」
 ラジエルは、聖服の裾を翻すようにして再び歩き出した。
「信じられるものはまた、人を信じることが出来る」
 やがて巨大なホールに出たところで、ラジエルは立ち止まった。すっと白い指で指し示す先に、開かれた大きな扉がある。
「ここから大通りに出る。そこからの道は分かるね」
「あ、はい……。ありがとうございました……」
 リョウコは深々と頭を下げた。もっと色々と言いたい事はあるはずなのに、胸がいっぱいになって分からなくなってしまった。
 顔を上げると、額のあたりに白い指を突きつけられていることに気付く。その指が僅かに額に触れ、ちいさな十字を切った。
「神の加護を祈ろう」
 十字を描かれた部分だけが、熱くなったような気がしたのは錯覚だろうか。
「君の魂に、幸多からん事を」
 呟いて、ラジエルは僅かに微笑んだ。そして、踵を返した。
 リョウコはしばらく呆然と、その背中が遠ざかってゆくのを見ていた。



3.

「ダンタリアンの書物は4冊ほどあったな。発禁にされた物を除けば、だが」
 夜闇にまぎれて巨大な橋を渡る影が二つあった。
「宗教史の研究書が2冊、口頭伝承が2冊、です」
 すたすたと前を行くアースに、お供よろしくついてゆくレイが答えた。
「全部読んだか?」
「……一通りは」
 一応はダンタリアンと同じ宗教史を専攻に学んでいたのだ。資料として読んだこともあれば、授業に用いたこともある。
「そうか。じゃあ知識的にはお前の方がストックは多いわけだな。俺は拾い読みした程度だから」
「ダンタリアンの基礎知識が、どうかしたんですか?」
「これから分かるさ」

 結局は深夜になるのを待ってから、宿屋を抜け出すことになってしまった。
 あの気のいい宿屋の主人を騙すことになってしまうのには気が引けたが、こればかりはどうしようもない。また荷物を預かられたら面倒だ。
 料金はしっかりと部屋のテーブルの上に置いてきた。

 橋を渡り終え、左手に折れる。
 昼間見た、木箱の積み重ねられた光景はそのままだった。
 アースが先陣を切るようにその隙間を縫うように下りてゆく。
 一体あのひとは、この"迷宮"に何の用があるのだろう?
 夜の闇の中、ぼんやりと浮かび上がる白衣の色を追いながら、レイは思った。
 結局、彼の目的は聞いていない。信じていいのかも分からない。
 このダンタリアンの迷宮に、一体何があるというのだろう。彼は何故、異端者と呼ばれた?
 耳鳴りのような運河の流れを耳に注ぎ込みながら、慎重に階段を降りる。
(そうだ、理由は知らないんだ)
 マーロイド・ダンタリアン。彼が何故異端者と呼ばれたのか。
 少し前まで、"異端者"といえばとてつもない犯罪者を想像していた。凶悪で、残虐な。
 けれど振り返ってみれば、自分も数ヶ月前から"異端者"ではないか。

―――ルシフェルの徒。
 それは、ダンタリアンの書物の中にあらわれる言葉だ。
 ルシフェルとは、強大な悪魔の名。すなわち、ルシフェルの徒とは、悪魔に魂を売ったものの意だという。
 今では異端者の別称として用いられる場合も多い。
 異端者の烙印を押されてしまえば、社会的に殺されたも同然だ。けれどその理由は、明かされないことが多い。
(多分僕ももう、大学からは除籍されてるんだろうな)
 頑張っていたのに。そのことを思うと少し気が重い。しかし後悔はしていなかった。
「下りるぞ」
 考え事をしているうちに、いつのまにか洞窟の入り口に立っていた。
 足元には地下へ続くらしい階段が数段。そこから先は闇の中だ。
「転ぶなよ」
 まるで子どもに忠告するように言ってから、アースが歩き出した。
 他にも言い方があるだろうに、なんとなくカチンとくる。それがアースの地なのだと悟るまでには、少し時間が要った。
 悟ったところで、カチンとくるのはカチンとくるのだが。


 ぴち、ぴち、とどこかで雫の落ちる音がする。
 洞窟の中は酷く湿っていた。気をつけないと、すぐに滑る。
 階段を下りきったあたりで、アースが懐から万年筆のようなものを取り出した。
 かちりと捻ると、光が溢れ出す。その大きさからは想像もできないほど明るい。
 スポットライトのような光が、闇の中を何度も回遊する。目の前に、道は3つ。
 どれもこれもしっかりと石畳で舗装されている。洞窟というよりもやはり、迷宮のようだ。
「さて、なんて書いてある」
 ライトが一点で止まった。
 一枚の石版のようなものがはめ込まれ、細かく字が彫られている。
 隣に並んだアースが、皮肉っぽい笑いでこちらを見ている。どうやら"読め"ということらしい。
 その表情からして、彼自身も読めるようなのだが。
 レイは不本意ながらその石版に近づいて、文字の上を指でなぞる。溜まっていた埃を払った。
(神聖文字だ)
 大本の聖書がこの文字で書かれていたので、そう呼ばれている。
 現在の聖書は、誰でも読めるように共通語に訳されているが、神学を専門に学ぶ人間にとって神聖文字は基礎知識であり、その文字で綴られた聖書を持つことが一種のステイタスでもある。
「"答えを求むる者よ、戦いの女神に導かれて進め"……?」
「さっそく、問題みたいだな」
 レイの訳に疑問も抱かないあたり、やはりアースもこの文字が読めるようだ。
「さて、神学生。戦いの女神は、どれだ?」
 再び、ライトがあたりを回遊する。よく見ると、3つに分かれた道の、それぞれの入り口に石像が立っていた。
 が、それは女神の像なのではなく。どれも鳥。
 右から鳩、白鳥、ふくろう。
「どれ……って……」
 かわるがわるスポットライトに現れる鳥の像を見て、レイは困惑する。
 戦いの女神?
「拾い読みした中で、どれかで読んだ覚えはあるんだがな」
 アースのコメントで、何かがぐっと咽喉元まで出かかった。
 そうだ、自分も見たことがある。どこでだったろう、おそらく、ダンタリアンの著述だ。
 女神の名が出てくるということは一神教である宗教史ではあり得ない。とすると、口頭伝承。
 神話に登場する、戦の女神の名―――。
「……"アテネ"だ。ダンタリアンの、口頭伝承の書の中に出てきます。戦の女神で彼女は―――」
 レイは、三羽の鳥を見比べてから。
「彼女は、知恵の象徴として、ふくろうを寵愛していた」
 左に伸びる道には、ふくろうが座っている。
 アースのライトが、レイの視線を追ってその像を闇の中に浮かび上がらせた。
「信じるぜ」
 軽く言い放って、アースが再び先に立って歩き始めた。


             *


「美味しいお菓子があるんだけど」
 部屋に入ってくるなり、満面の笑みを浮かべて上官がそんなことを言ったので。
 ジャンヌは執務机についたまま固まった。
「お茶に呼ばれない?」
「閣下、もう深夜ですが」
「ああ、ごめん。こんな時間にお菓子の話なんて、女の人にする話じゃないね」
 しまった、という顔で、ミカエルは溜息を落とした。
「違います」
 そうではなくて。一体こんな時間に―――当然ながら勤務時間外だ―――仕事場にいるのだ。
「何をなさっているのですか、こんな時間まで」
「それはお互い様じゃないのかな、ジャンヌ。結局皆少しずつ、忙しいんだよ」
「私は、先日の休暇の埋め合わせです」
 ジャンヌの場合は、少々強引に休暇を取ったせいで、そのしわ寄せなのだ。
 しかし、前までと違ってここ数週間というもの、東軍大将は真面目にデスクワークに取り組んでいる。
 こんな深夜まで教皇庁に隣接する正規軍本部に居残る理由は、無いように思えた。
 真面目にそのことを説明すると、幼く見える上官は苦笑した。
「ジャンヌをごまかすのは無理だなぁ。アフライドみたいにはいかないよ」
「彼は閣下に甘いんです」
 簡潔に、ジャンヌは真実を告げる。しかし、違和感を感じてもいた。
 前はもっと、この上官と話すのが、苦手ではなかっただろうか。
 ミカエルは笑ってから、確かにそうだね、と頷いた。
「たまたま、忘れ物を取りに来たんだ。そうしたら、ここに明かりがついていたから。お茶に呼ぼうと思ったのは嘘じゃないよ。ジャンヌとはいつでも親交を深めたいと思っているしね」
 にっこりと微笑む上官に、ジャンヌも思わず苦笑してしまった。
「それなら、私がお淹れしますから、お座りになってください」
 ミカエルは素直に、応接用のソファーに腰掛けた。
「先日は、無理に休暇をいただいて申し訳ありませんでした」
 執務室から続きになっている給湯室で紅茶の準備をしながら、ジャンヌが言った。
「いいよ。半分以上僕が強制したみたいなものだしね」
 ソファーに沈んだまま、ミカエルが返す。
 しかし、彼女が不在の間、仕事の肩代わりをしたのはこの上官なのだという。
 普段なら仕事を放って化石発掘に旅立ってしまう―――そのしわ寄せはアフライドに行く―――というのに。
「でも逆に、そのせいで悲しい思いをしたんじゃないかって、気になっていたんだよ」
 故郷に戻ったんだろう?
 その言葉に、ふとカップを用意するジャンヌの手が止まる。
 この人はもしかして、そのことを気にしているのだろうか?
 もしかしたら、忘れ物をしたというのすらごまかしかもしれない。わざわざ訪ねてきた? それは考えすぎかもしれないが、そうも思ってしまう。


 紅茶を応接テーブルの上に置いて、ジャンヌは上官と向かい合わせに座った。
「閣下」
 自分の紅茶には手をつけず、ジャンヌは口を開いた。
「お気遣い、感謝します。けれど私は、帰郷したことを後悔してはいません」
 なくしたとばかり思っていた場所が、心の中で。いつか帰るべき場所に変化したこと。
 それは大きな変化だ。
 一口紅茶を口に含んでから、ミカエルは、金の瞳を細めて笑った。
「それなら、良かった」
 実は、本当に気になってたんだよ。

「なんだか綺麗になったね、ジャンヌ」
 カップをテーブルに戻して、唐突にミカエルがそんなことを言った。
「力が抜けた感じだ。あ! でも、今までが綺麗じゃなかったって言っているわけじゃないからね!」
 慌てて上官が訂正する間にも、ジャンヌは呆気に取られて何も言えずにいた。
 まさかそんなことを言われるとは思っても見なかった。
「僕はこんな"なり"だから、こんなことを言っても真実味はないかもしれないけど。君を心配していたよ」
 穏やかな微笑みをたたえたままで、ミカエルは続けた。
「君があまりにも一本気で頑なだから、傷つき過ぎないかって。勝手に心配していた。だけど、取り越し苦労だったみたいだね。凄く今、いい顔をしているもの」
「閣下……」
「迷惑かもしれないけど、僕は君やアフライドや他の部下たちが大事なんだ。だから、心配もしたいし、世話も焼きたいんだよ。―――結果としては、世話を焼かれる方が多いんだけどね。僕は、今、どんなめぐり合わせであったとしてもたった今、近くにいてくれる人たちをとても愛おしく思うし、大事にしたいと思ってしまうんだ。年寄りのおせっかいだと思って、大目に見てね」
 ソファーに深く座ってしまうと、床に足が届かない。そんな小さな体で年寄りだなんて。
 けれどもその言葉を冗談などには出来なかった。
「変なことを、言ってしまったね」
 言葉もなくこちらを見つめているジャンヌに、照れ隠しのようにミカエルが呟く。

 ピピピピピ、ピピピピピ。
 突然、機械音が鳴った。
「あ!」
 慌ててミカエルはカップを持ち上げると、残りの紅茶を一気に飲み干す。
 それから、服を弄って、何か小型の機械を取り出した。一部が赤く点滅しながら、まだ鳴り続けている。
「ごめんねジャンヌ、呼び出しだ!」
「え?」
「違うんだ、軍の仕事じゃなくて、"私用"なんだよ。だからジャンヌは気にしなくていいよ」
 お茶をご馳走様! と言い残して、ミカエルはジャンヌの執務室を飛び出していった。
 閉めたときの勢いが余ったのか、跳ね返って少し開いた扉を見つめて、しばらくジャンヌは動けずにいた。


            *


 ベッドの上で、片膝を抱えたままもう何時間もこうしている。
 どのぐらい経ったのか、今が何時なのか。地下であるこの場所では分からなかった。
 昼間から、胃のあたりが気持ち悪い。それは別に具合が悪いということではなく、何かがわだかまっている感じがするのだ。


―――リョウコちゃん! 良かったぁ……!
 覚えている道順を辿ってアジトまで辿り着くと、モエが抱きついてきて出迎えをしてくれた。
 大丈夫だった? とファンが視線を合わせるように顔を覗き込む。
 そして、いつになく余裕のない顔で出てきたのはサイジョウ・ヒイラギ。
 ごめんなさい、と自然に言ってしまった。
 ごめんなさい、突然いなくなったりして。
 すると、サイジョウは少し気抜けしたように笑った。
―――いいよ。不可抗力だったんだろうし、僕の監督が不行き届きだったこともあるし何より、無事なら。
 本当は、叱られるのではないかと思っていた。それに怯えてもいた。
 けれど、想像以上に温かく迎えられて、ホッとした。

(なのになんで、言えなかったんだろ)
 抱えた片膝に額を押し付けて、リョウコは何度目か分からない自問をする。
 どうやって、教皇庁からここまで戻ってきたの?
 そのサイジョウの問いに。
―――親切な人に道を教えてもらって、教皇庁を出たんです。あとは記憶を頼りに……。
 嘘をついたわけではない。けれど、言えなかったことがある。
 本当なら言った方がいいのかもしれないけれど。何故か口が動かなかった。
(大司教、あのひとが―――)
 ラジエル・エレアザール。リョウコが出会ったのは、事実上この世界の頂点に立っているような相手だ。

 リョウコは戸惑っていた。
 サイジョウから聞いた話と、今日出逢った相手との間に、あまりにギャップがありすぎるような気がして。

―――君の魂に幸多からん事を。

 十字を切られたあの感触がまだ、額に生々しく残っている。



4.

 先程自分が出した答えが合っていたのか、それとも間違っていたのか。
 確認する手立てが何もない。
 一本道は適度に曲がりながらずっと続いている。後ろを振り向いてみても闇があるばかり。
 入り口の「ふくろう」のあと、3つほど分岐点を越えた。そのどれもがダンタリアンが集めたという口頭伝承や、宗教史の知識を試すような問題だった。
 "その足は、大地を支える"、という問題で5つに分かれた道の右から二つ目を選んでからは、なんの異変もない。道は単調に続いている。
 ちなみに答えは"象"。遥か太古の人々は、半球形の大地を象が支え、その象は更に亀に乗っている、と考えていたらしい。

 風景に代わり映えがないというのは、時間の感覚を狂わせる。どのぐらい歩いただろう?
 緊張もほぐれてそんな考え事をし始めた頃、突然前を歩くアースが立ち止まった。
「アースさん?」
「この道、正しかったみたいだぜ」
 あかりが消えた。かちりと、アースが例のライトを消してしまったのだ。
「この地下は、本当に迷宮らしい。入り口で残り二つの道を行くと本当に大冒険が味わえるって話だ」
 更に細かく枝分かれした道や、仕掛けられているトラップ。
 それすらもない、真っ直ぐの一本道というのが、正解の印。
 今も尚、道は一本真っ直ぐに続いているのに、アースは先に進もうとしない。
「無駄だとは思うが、先に言っておいてやる」
 しゃっ、という音が聞こえた。音のほうを見ると、アースの白衣の右腕だった。袖からいつのまにか刃が生えている。手首から肘までの丁度倍ぐらいの長さだ。
 仕込んであったのだろうか?
「"奴ら"は人間じゃない。躊躇ってると自分が殺られるぞ。構えとけ」
 言うなり、アースは白衣の内側から小さなガラス瓶を取り出した。
 え、と訊き返すレイを尻目に、足元の石畳に叩きつける。ガシャン、と硝子が割れる音。次の瞬間、周囲が昼間のように明るくなった。
「俺が品種改良した光苔だ。効力は約15分。その間にカタつけるつもりでやれよ。予備はない」
 レイは、今まで闇に閉ざされていた前方に人影を見た。黒い戦闘用スーツを纏った数人の男女が瞬きもせずにこちらを見ていた。
 感情のないその瞳に、咄嗟に体が動かない。
「こいつらが出てきたってことは、ゴールが近いってことだな」
 人とは思えぬ素早さで、一人がアースの懐に飛び込んできた。躊躇うことなく、アースは右手に生えた刃をその左胸に突き立てた。背中から、刃が飛び出す。
 勢いをつけてそれを引き抜くと、飛び込んできた男がどさりとそこに崩れ落ちた。しばらく痙攣を繰り返してから動かなくなる。
「何してんだ!」
 二人目の急襲を避けながら、アースが叫んだ。
 その声で、レイの金縛りが解ける。ようやくホルスターからティフェレトを抜き取った。
 安全装置をはずす親指が震えている。アースには、あまりにも容赦というものがなかった。
 躊躇いなく一撃で、心臓を貫いたのだ。
 その容赦のなさが怖かった。

 目の前に振り下ろされる拳を、あとずさって避ける。
 拳は地面にめり込み、石畳を割った。尋常な力ではない。
 相手が体勢を立て直す前に、ティフェレトの照準を合わせる。
―――狙うのは、額の真ん中。
 銃の扱いを教えてくれた少女の声が耳元で聞こえる。体は教えられたとおりに一度、相手の額に照準を合わせるのだが、レイはいつもそれを意識的に外してしまう。
 人の生命を奪うのは、嫌だ。
 そして、右肩に一発。
 パッと散った血液の色に、レイは息を呑んだ。
 白、だったのだ。


            *


 予定の15分よりも随分早く、その場には沈黙が満ちた。
 光苔のあかりは、まだあたりを明るく照らしている。
 照らし出された石畳には、合計で4体の遺体が転がっていた。
 体の下に白い血だまりを作って倒れている。
「"これ"は人工血液だ」
 白い返り血を浴びたアースが、足元に転がる一体を見下ろして言った。
「この光苔と同じ。品種改良さ。瞬発力、体力、腕力脚力その他。強化されてる。戦闘兵器だ。言ったろう、人間じゃないって」
 アースは、半ば振り返ってレイを見る。
「それでも……」
 レイは、床に散らばる4体の遺体、どれも見ないで済むように視線を床に落としていた。
 それでも、人の姿をしているのに。簡単に割り切ることなんて出来ない。
 簡単に殺すことなんて。
「……まぁ、だから無駄だと思ったんだ。お前にはできやしねぇんだろうなとは、思ってたさ」
 呆れるでも、怒るでもなく。寧ろ納得したというようにアースが言う。
「お前はいいな」
 そして、ぽつりと呟く。
 その声に導かれるように、レイは顔を上げた。アースはもうこちらを見てはいなかった。
 足元に転がる死体に、憐れむような視線を落としている。
「慣れるなよ」
 光苔の効力が薄れてきたのか、徐々にあたりが暗くなる。
 レイは、ティフェレトをホルスターにおさめながら目を凝らした。アースの表情が見えない。
「お前はそのままの方がずっといい。生命を奪うことに、慣れるなよ」
 やがて、その場は再び闇に包まれた。それを合図にしたように、かつかつとアースの足音が先に立って歩き出す。
 レイは後味の悪さと戸惑いを抱えたまま、その足音の後を追った。


 唐突に、広い場所に出た。長方形の、縦に長い場所だった。
 地面は今までの石畳ではなく、平らなコンクリート。
 20メートルほど先に、扉のようなものがひとつだけ見える。
「どうやら、ここが終着地点か」
 長方形の、ちょうど中央当たりに進み出て、アースはぐるりと周囲を見回した。「うってつけだな」と呟く。
「うってつけって、何……」
 何になんですか? と訊こうとしたところで、レイは言葉を飲みこんだ。
 足音が聞こえてきた。
 今さっき、自分たちが歩いてきた道から、だ。
「来たな」
 目を細め、アースは音のする方向を見据える。舌で軽く上唇をなぞった。
「おい。お前先に、あの扉のほうに行けよ」
 扉を親指で指し示し、レイに言う。
「でも……」
 確実に近づいてくる足音。なんだか嫌な予感がする。愉しそうな笑みを浮かべるアースの様子も気になる。
 笑いとは反比例するように、周囲の緊張感が爆発的に高まるのを肌で感じた。
 危険、なのではないだろうか?
「お前の目的はダンタリアンの禁断の書だろう。俺の目的は"こっち"なんだ」
 アースは、足音が聞こえてくる方向から目線を一瞬も逸らそうとしない。
 瞳がまるで、獲物を狙う獣のようだ。
「邪魔すんじゃねぇ」
 凄みの効いた声で一言。それ以上は何も言わなかった。
「……分かりました」
 もうこれ以上何かを言ったところで、聞き入れてはもらえないだろう。彼はきっと自分の目的の邪魔をするものは排除する人間だ。例えここまで一緒に来た人間であっても。
 レイは、奥の扉に向かって駆け出した。正直、アースの傍を離れてホッとしてもいた。
 先程の4人を躊躇いなく殺したときでさえ全く感じられなかった"殺気"が、こちらが鳥肌を立ててしまうぐらいにアースから発せられていたのだった。

 辿り着いた扉は呆気なく開いて、レイを迎え入れた。


            *


「よぉ。待ってたぜ」
 ズボンのポケットに両手を突っ込んだままの体勢で、アースは来訪者に向けて言った。
 人影が、広間に踏み込んだタイミングだった。
「どんなにこっちが努力してもあんたもあんたの回りもガードが固すぎて、なかなかこんなふうにサシで話が出来ないもんだから。こうして呼び出した。気を悪くすんなよ」
 口元にだけ笑みを浮かべて、アースはやさしい声音で言う。
 相手は、黙ったままアースを見つめ返している。
「なぁ。あんた、いくつぐらいになった? 300歳ぐらい?」
「残念、ハズレ」
 やけに若い声がそれに応じる。可愛らしい声音だった。
「そんなに年は取ってないよ。2百と、68ぐらいかな」
 勝手にそんなに、年取らせないでよ、と相手が言った。嫌だなぁ、とくすくすと笑う。
「―――なぁ、いい加減死んでくれねぇか? 俺のためによ」
 呆れたように溜息をつきつつ、突き離すようにアースは言う。
「いやだよ。君のためになんか、死ねないよ」
 相手の声が、ぐっと下がった。金の瞳が真っ直ぐにアースを見つめ返した。
「お前も可哀相な男だね、アース。いい加減、博士の呪縛から自由になってもいいんじゃないのか」
「ああ。自由になりたいんだがな、お前が生きている限り、そうもいかないんだ」
「その思考が既に、捕われているんだと気付かないのかな。哀れだよ」
「ミカエル」
 その名を、アースが呼んだ。
「お前をこの手で殺してはじめて、俺は楽になれるんだ」
 軽く、右手を下に振り下ろす。すると、先程仕舞い直した刃が再び、手に"生えた"。
「殺してやるから、大人しく死ね」
 その刃を真っ直ぐ、ミカエルに突きつけて、アースは宣言した。
 ミカエルは、普段は絶対に見せないような酷薄な笑みを口元に浮かべてから言った。

「ご免被る」


            *


 書斎のような部屋だった。先程の広場の半分もない。
 目の前に重厚な机がひとつ置かれ、その背後には書棚がびっしりと並んでいる。
 書棚には分厚い革表紙が並び、擦れかけた金の背表紙がところどころで光った。
 近づいた机の上に、一冊の本が置かれている。
 椅子の方に回り込むと、背にした書棚がまるで倒れてくるような圧迫感だ。
 黒い革の表紙に、金の文字。神聖文字だった。
「"神の姿と契約の匣"―――」
 名を口に出して、そのつづりの上に指を滑らせた。積もった埃が、指の腹でざらつく。
 その感触に、背筋を撫で上げたものがある。恐怖なのだろうか。それとも期待か。
 ようやく辿り着いたこの書物に、一体何が綴られているというのだろう。
 表紙を開いた。紙の質から言って、どうやら羊皮紙らしい。

―――ルシフェルの徒。それは悪魔に魂を売ったものの名だ。
 神と、その子らに厄災をばら撒くものの名だ。
 私もやがて、そう呼ばれることになるだろう。
 私は弾劾され、この体はやがて火にくべられることになるのかもしれない―――

 一ページ目に中央に寄せて、まずはそれだけが綴られていた。
 流麗な綴り文字。まるで飾り文字のようだ。"読まれる"ということをあまり期待していない文字に見える。
(ルシフェルの徒……)
 悪魔に魂を売ったものの、名前。
 ページを繰る。
 一ページ目と同じように、中央にそろえられた綴り文字。
 暗闇の中でレイは、目を凝らした。

―――それでも私は、確かにあのとき、見たのだ。
 契約を。

 もしもあれが、悪魔が見せた残酷な真実だというのなら、私は悪魔に感謝もしよう。
 私はそのお陰で、何十にも包み隠されたこの世界の真実を得たのだから。
 何も知らずに安穏と生を終えるよりも、この真実を得て火にくべられるほうを選ぶ。
 だからおそらく私は、ルシフェルの徒なのだ。

 人々に尊い教えを伝えるあの、最大の塔の奥深く。
 包み隠された聖櫃を。
 その内側に抱かれた、神と人とが交わした契約の石版を。
 私は確かに、この目で見たのだ―――。


 ひゅ、と空気を裂く音がした。
 反射的にレイはその場にかがむ。頭のあった位置を、鋭い何かが通り過ぎた。たんッ、と書棚に納められた本のひとつに刺さる。
 鋭い小型のナイフだ。
 ナイフの飛んできた方向を見る。そこは、レイがいる場所から右手側の壁だった。入ってきたときは分からなかったが、もうひとつ扉がある。
 その扉の前に、先程の通路で見たような、戦闘用のスーツを纏った女が一人、立っていた。
 体の横にぶら下げた両手の指に3本ずつ、器用にナイフを挟んで持っている。
 瞬きもせずに、大きな瞳がレイを見据えた。年の頃は20前後に見える。
 咄嗟に言葉が出なかった。
 肩の上あたりでざんばらに切られた栗色の髪に、細身の体。その端正な顔が。
 見知った顔にとてもよく似ていたからだ。
 3本のナイフを握った右手を、女はしずかに胸の前で構える。まるで縫いとめるようにレイを見据え、一瞬も視線を逸らさないその強い瞳。
 闇のような黒だ。
 見たことがある。けれど、まさか。
 空気を切る音が耳に届く。レイは、すぐ傍にあった重厚な椅子を盾にティフェレトを抜いた。
 カカカカンッと椅子の背にナイフの突き刺さる音。それに被さるように、地面を蹴る音。
 盾にした椅子を軽々と飛び越えて、女は無防備なレイの背中に降り立った。
 ざっと振り下ろされたものを、レイは振り向きざま、ティフェレトで受けた。
 キィン、と金属のぶつかり合う耳障りな音が響き、右手に重い痺れが伝わった。
(尋常な力じゃない……!)
 相手は小型の刀を右手だけで持っている。大して力を込めているふうでもないのに。
 黒い瞳には、何の感情も浮かんでいないように見えた。
 レイは、開いている左手で何とか銀のピストルも抜き出す。力で押され気味の金のそれに、×印のように重ねた。

「……モエ……さん……!?」
 思わず呼んでしまった。それほどに彼女は、カスガ・モエに良く似ていたのだ。







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