銀糸の聖女
〜ange〜
1.
やばい、と言おうと思ったが、口が動かなかった。
元々大きい相手の瞳が、限界まで見開かれてこちらを見ていた。
「……お、お嬢様……」
ジャンヌの傍に控えていた使用人が、主と見知らぬ男とを見比べて不安げに呟いた。手綱を掴まれている栗毛の馬が少し苛立ったように前足で石畳を蹴った。
「良い、下がれ」
真っ直ぐにハルトを見たまま、ジャンヌは使用人にそう告げる。
「し、しかし……」
「いい。"知り合い"だ」
訝しげにハルトを見たまま食い下がる使用人に、有無を言わせぬ強さで言い放つ。
しぶしぶといった体で、使用人は馬を引いて歩き出した。
雨が強くなってきた。
伸びた前髪が視界を遮るように肌に張り付く。ざっと無造作に掻き上げると、真正面から歩いてくる相手と目が合った。
本降りになってきた雨に逃げ惑う人の足音や声が少し遠くに聞こえる。
(なんで、逃げなかったんだよ、俺)
真っ直ぐに相手を見据えながら、心の中では既に逃げ腰になっている。
最近は、想定した最悪のことが起こることが多い、気がする。
「見間違いかと思ったが」
強くなる雨に銀の髪を打たせたまま、ジャンヌが酷薄に笑って見せた。
「どうやらそうではないらしいな」
黒衣の腰に下げた剣の柄に、その白い指を絡める。
「この街に何の用だ、ハルト・シラギ」
すらりと抜いた剣の先を、ハルトの咽喉元に突きつけ、低い声で言う。傍に鞘を放った。
「言う義理はねぇな、"お嬢様"」
ジャンヌの冴えた双眸に、一瞬、ぎらりと苛烈なものが走った。
何でお前は毎回そうやって相手を必要以上に挑発するんだ、と言われるが、本人も別にそんなつもりはない。
なりゆきなのだ。
しかし当然相手は、「なりゆき」だとは取ってくれるはずもない。
「うわ!」
純白の剣が突然、横に綺麗な弧を描いた。
慌ててあとずさったものの、切っ先が僅かに咽喉を掠めた。びち、と足元で水が鳴る。
「屋敷に入ったほうがいいんじゃねぇの? 風邪ひくぞ」
「煩い。戯言ばかりがすらすらと出てくる口だな」
一歩踏み込んで鋭く突き出される刃の先を、後ろに飛んで避ける。濡れた草に足を取られ、膝と手をついた。膝に、雨水が染み込む。
「くそっ……!」
「往生際が悪いぞ」
立ち上がる前に、頭の上に影が落ちた。鼻先に、僅かに血に濡れた剣が突きつけられる。絶え間なく落ちる雨を滴らせ、冷たく輝いていた。
「観念しろ」
ゆっくりと顔を持ち上げると、銀の瞳と目が合った。
数瞬の、空白。視線での威嚇。
沈黙を破ったのは、ハルトが先。
「ひとつ、教えろよ」
「命乞いなら……」
「"猊下"は、一体どういうつもりなんだ?」
剣の切っ先が僅かに揺れた。
「ミンスター大学の教授と学生とを"粛清"するらしいじゃねぇか」
あきらかな動揺が見えて、内心ハルトの方が驚いた。目に見えて強張ったまま、ジャンヌは黙っている。
「なぁ」
先程まで威嚇の攻防を続けていた瞳が、驚いたように、怯えるように、見開かれていた。
「"猊下"、何がしたいんだ?」
長い銀糸が頬に張り付いて、紫になりかけた口唇が、かすかに震える。
怯える? 何に? 何故?
「ガイアズメール研究なんて、もうずっと行われてきたことだろ。今更―――」
見上げる瞳に、容赦なく雨の雫が染みた。強くなるばかりの雨が邪魔だ。痛い。
―――猊下は"何"を。
「……い」
「は?」
かすかな声。口唇の動きが見えなかったら、何か言ったことすら分からなかったかもしれない。
四方八方。周りで、びちびちと生の魚が跳ねるような、雨音が煩くて。
「わからない」
"女"の声が言った。わからない。
「あの方が」
閃光。空を裂く稲光。
「一体何を望んでいるのかなど、私には……」
ばり、とすぐに雷鳴。近い。
『わからない』?
雨に打たれ続けた、剣の柄を握る指先が。冷えて感覚を無くしてゆくのをぼんやりと感じながら。
ジャンヌは胸の内で繰り返した。
わからない? 猊下のことが?
そもそも、理解したことなど、あっただろうか。
一度でも。
それほど近くに行ったことが。行けたことが。
一度でも?
私は一体あの人の何を知っている?
何か、知っていることなどあっただろうか。
ひとつでも。
―――マリアが死んだの、ショックだった?
違う。違うんです、閣下。
心配そうな、幼い子どもの姿をした上官には、言えなかった。
彼女の死は、別段衝撃ではなかった。それほど深く知らなかったし。
ただ、稲妻のようにこの体を突き抜けた直感が、確信が。絶望に摩り替わっただけ。
私は決して、彼女のようには死ねないだろう。
あの方の腕の中では。
雨、なのだろうか。
ハルトは、陶器のように白い女の頬を伝い落ちる雫を見て、思った。
泣いているように見えた。
ふっと、鼻先に突きつけられていた剣が下がり、ジャンヌの目が自分から逸れたその一瞬に、ハルトは後ろに跳んだ。
「っ! このっ……!」
我に返ったジャンヌが動くよりも早く、ハルトは、右腕の内側に仕込んだ"引き金"を引いた。何か細いものが勢い良く放たれて、ジャンヌの剣に絡まりつく。
じゃらり、と音を立てるそれは、先端に三股に分かれた黒い爪のついた、細い鎖だった。
しっかりと剣に絡まりついた鎖を、左手で掴み、下に引いた。
ぐっと強く引きずられて、ジャンヌはその場に膝をついた。
「久しぶりだけど、結構使えるな。―――卑怯でいいだろ」
してやったり、という顔でハルトは笑って見せた。
「貴様っ……!」
いくら鍛えているとはいえ所詮男と女の力の差だ。剣を力で引きずり戻すことは出来ない。
かっ、と昏い空に一瞬のプラズマ。
「いい加減にしろよ。落ちたら死ぬぞ」
すぐ傍に停滞する雷雲。直下で金属を晒すのは危険だ。
「くっ……」
ジャンヌは、地面にその剣を突き立て、絡まりついた鎖を強引にほどくと、傍に転がっていた鞘を拾い上げ、おさめた。
「……つくづく、運のいい男だ」
憎々しげに吐き出し、ジャンヌは背を向ける。
雨に濡れに濡れた銀髪が、ばさりと束のように翻った。
「消えろ。次はないぞ」
「なぁ、あんた本当に……」
地面にとぐろを巻くような鎖を拾い上げながら、ハルトはその背中に声をかける。
ジャンヌは立ち止まらなかった。
―――あんた、本当にこの街を売ったのか。
問いは届かずに終わった。
雨は弱くなるそぶりすら見せず、乱暴に上から叩きつける。
視界を邪魔する黒髪を、もう一度掻きあげた。もはやシャワーを浴びたのと何ら変わらない。
指先が雨で冷えて、随分と白くなっていた。
躊躇いない足取りでジャンヌが屋敷の中に消えるのを見届けてから、ハルトは盛大に溜息をついた。
「やってらんねぇ」
もう、濡れた濡れないを気にするのすら馬鹿らしい。
(あ、でも言い訳が……)
雨に濡れたから宿屋に先に帰った。よし、これで行こう。(というよりも、ほぼ事実ではあるのだが)
そうと決まれが、善は急げだ。何よりここ最近、片目で機械を弄くるという重労働を強いられているせいで、慢性的に眠気が抜けないのだ。
風呂にでも入ってから一眠りを……。
「待って!」
くるりと踵を返したその瞬間に、悲痛とも言える女の叫びが聞こえた。
素直に振り返ると、高価そうな服に身を包んだ中年の女性が屋敷の入り口に立っていた。
*
―――降伏なさい。神の前に懺悔すると、そう言えばいいのです。もう既に我々はこの城を包囲しつつある。貴方の騎士団は、知らぬようですがね。
―――正々堂々と、侵略すればいかがか。何故こうも回りくどいやり方をする。
何事かと縋る使用人を振り切って、びしょ濡れのまま自室の扉を閉めた。
思い出したくもないのに、5年前の晩がまざまざと蘇る。
見知らぬ声と、父との会話から、全ては始まったのだ。
この屋敷の地下にある祭壇。それは、遥か太古の遺物。この城が元々、その上に建てられたものなのだ。
それを突然、「異端審問」という文句を持ち出して、「悪魔との契約」と罵り、旗を上げたのは教会側が先。
誰だってすぐに分かっただろう。ビレスの自治権を取り上げるための、口実に過ぎないこと。
そんな横暴が許されるほど、教会の権力は強かった。今よりも。
しかし、ビレスの騎士団は、正規軍を押し返していた。かのように見えた。それを自分も疑わなかった。
それすら、相手の手とも知らずに。
教会は、イメージの低下を恐れている。
今まで優勢だったビレスが、突然目が覚めたかのように神に懺悔する。喜んで自治権を返上する。神に許しを乞う。
その筋書きを求めていたことに、どうしてもっと早く気づかなかったのか。他の街も、そうだったのに。
自分が所属してみて初めて知った。正規軍は統制の取れた軍隊だ。
彼らはまず、城の中枢へと続く、脱出用の秘密通路を探し出した。そこからもう、違っていた。
一領地の騎士団などとは、違っていたのだ。
全力で総攻撃をかけたならば、おそらく一日。城を制圧するにはそれで足りた。
―――領主を退くと、騎士団を解体すると。宣言なさい。
薄く開いた扉の向こう。父親と向かい合っているのは黒い軍服。左胸に、金十字。
―――この街を、どうするつもりだ。自治権の返上だけが望みではないだろう。
―――この地下の遺跡、一応調査しなければならないので、一時閉鎖することになるでしょうね。
なんだって? 心の中の声と、父の叫びがかぶった。
それは、この街に住む領民を追い出せということか。この街に、死ねということか。
ビレスの領民は大部分が特産のワイン職人と言ってもいい。この土地を離れては、生きてゆけない。
―――すばらしい貴方の宣言を、今日か明日かと思って待っていますよ。あまり遅くなると、我慢の効かなくなった部下が深夜にこの城に潜り込んで、誰かの寝首を掻くかもしれませんよ。
ずず、と暖炉が動く音がした。父の部屋から外へと通じている通路の入り口だ。相手はもう何度も、その入り口から出入りしているような、手馴れた手順で消えた。
教会は、何様のつもりなのだ。
私たちが、領民が、一体何をしたという。
元々地下にあった遺跡の、祭壇ごときで死ねと言うのか。
父上に、懺悔をさせ、騎士団を崩させ、民に出てゆけと言わせるのか。
神に懺悔しろ、と言っているのではない。
黒い衣を纏った教会の兵は、神の笠を着た教会に懺悔しろと。負けを認めろと。そういうのだ。
気づけば、大広間にあるもうひとつの通路から、城の外へと飛び出していた。
夜の闇を、かがり火だけを頼りに正規軍のキャンプに転がりこむ。
突然の侵入者を捕らえようとする兵士を振り切って、一際大きなテントへ飛び込んだ。
警備兵に、両側から片腕ずつを掴まれ、押さえ込まれる。首に剣を当てられた。
―――こんな深夜に、どうしたかね、お嬢さん。
父と話していた声が、嫌味なほど穏やかに言った。
指揮官は、軍服に"着られている"ようにしか見えない、卑屈な顔をした男だった。もはや顔もあまり覚えていない。
近づいてきて、顎に手をかけ、上向かせた。
―――ほう、どこかで見たことがあると思えば、領主のお嬢様。優勢のビレスの令嬢が一体何の御用でしょう?
吐き気がした。今すぐ切り捨ててしまいたい。この男を殺せるのなら、そのあと周囲の兵士に殺されても構わない。
―――自治権は、返上します。
ようやく咽喉からその声を絞り出した。
指揮官が、少し驚いたように目を見開いた。
―――父から、領主の地位を奪うのは、ご容赦ください。いいえ、せめて領民だけでもこの街で―――。
胸の下から這い上がってくる屈辱で、なぜか泣きそうになる。
ぐっと目に力を込めた。ここで泣くのだけは、嫌だ。
―――どうやら、私と父上との"取引"をお聞きになったようだ。
顎に手をかけたままで、指揮官は蛇のように目を細めた。何が取引だ、と吐き出しそうになるのを、必死に堪えた。
―――どうか、正面から城を攻略し、自治権を奪ってください。それ以上は、あんまりです……!
顎から、冷たい男の指が離れた。しばらく指揮官は腕組みをして何かを考え込んでいる様子だったが、やがて数度、頷いた。
おい、と控えていた兵士を呼び、何かを指示する。兵士は頷いて、テントを出て行った。
呆然と、指揮官を見上げた。一体、何がどうなったのだろうか。
しばらくして、指示を受けた兵士が戻ってきた。手に、何か黒いものを持って。
それを受け取り、指揮官は再びこちらに向き直った。
―――貴方は大層、剣の腕が立つそうですね。噂はかねがね聞き及んでいますよ。
まばたきを忘れ、じっと、男が手にしている布を見た。
次の瞬間、その布がばしりと叩きつけられる。
―――それを着て、お前が自分の城を攻略して来い。
驚くほど、何も感じなかった。体中が空になったのかと思った。
―――お前が自分で、父親の手から自治権をもぎ取って来い。そうすれば、領主の地位も保証しよう。この街も閉鎖せずにおこう。その後は、軍の中に地位を用意してもいいぞ。
投げつけられたのは、黒の服。
左胸に、金の十字がある。
正規軍の軍服。
ビレスの領主は、地位を欲しがる娘の裏切りによって、自治権を失う。
その筋書きは、教会が描いていたものとは違えど、結果は同じだった。
ビレスは自滅し、神の名は傷つかないのだ。
次の日の朝、作戦会議のために人が集まった大広間の扉を、破るような勢いで開け放つ。
熱い議論が、一瞬にして静まった。
たくさんの視線が突き刺さった。驚愕の、怯えの、そんな瞳。
―――お、お嬢様、その格好は……。
ざわめきを黙殺して、上座に据えられた段上に座る父の傍まで歩み寄る。人々がざっと道を開けた。
一体自分は、どんな顔をしているだろう。冷徹な裏切り者に、見えているだろうか?
驚愕に震える父の前に立つ。
―――ジャンヌ……。
驚きと悲しみと、負の感情がごちゃごちゃに混ざった父の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、剣を抜いた。
―――お嬢様!
―――動くな!
一喝。こんな声が出るのかと、自分でも驚いた。
座ったままの父の後ろに回り、首に刃を突きつけ、ぐるりと広間を見渡す。
―――今この瞬間より、この城を私の制圧下に置きます。
―――お嬢さん、一体何の冗談なんですか!
騎士団の中から声があがった。冗談はよしてくださいよ、笑えないですよ。
冗談に見えるのか。お前には? できるだけ冷たく言い放つと、相手の顔から表情が消えた。
ちょうどそのとき、扉から黒い軍服がなだれ込んできた。沈黙は、悲鳴に変わる。
―――ジャンヌ!
引き裂くような悲鳴に、一瞬身が竦んだ。母の、声。
いつの間に広間にきたのだろう、部屋の隅に母がいた。
堪えきれない涙を頬に落として、縋るような目でこちらを見ている。
―――あ、あんた、裏切ったのか!
母が何か言うよりも先に、騎士団から声が上がった。父親を、裏切ったのか。
共に剣の腕を磨き、街を愛し守り続けてきた、同志たちの声だ。
その声は、何よりも胸に刺さった。傷口を抉った。けれど、知らない顔をした。
―――私には正規軍内の地位のほうが価値があった。それだけだ。
―――殺してやる! 貴様、殺してやる!!
同胞からこんな罵声を投げつけられることを、昨日は想像していただろうか。
敵と憎んだ正規軍の軍服を着て、父に刃を突きつけ、裏切り者と罵られることを。
憎んでくれ。
何も感じていないような顔で、胸の内で何度も繰り返した。
もっと罵ればいい、もっと憎めばいい。
―――あんなに、この街を愛していたじゃないか!!
『先生私、騎士団に入れるかしら』
『私、この街が好きなの。自分でこの街を守れるなら、こんな素敵なことはないわ』
『こんな、素敵なことは―――』
捕らえられ、縄をかけられて連行される人々をぼんやりと見ながら、幼い頃の自分をなぜか思い出した。
部屋の隅で、母は泣いていた。
―――ジャンヌ、お前。知っていたのか。
真っ直ぐに前を向いたまま、蚊の鳴くような小さな声で父が言った。
―――父に刃を向けたこと、お許しください。
囁くと、父が何かを祈るように双眸を閉ざした。
なんてことだ。
―――ジャンヌ様! 許しませんぞ!
まぶしい朝の光の中、かつてこの身に剣術を教えた恩師が斬りかかってくるのが見えた。
「先生、私本当はあの時……」
自室の扉に背を預け、そのままずるずると滑り落ちた。
体温でぬくまった水が額から垂れて、まるで涙のように頬を伝って落ちた。
それは、本当に涙だったのかもしれない。
小刻みに震える肩を自分で抱き、抱えた膝に顔をうずめた。
「本当はあの時、貴方に斬り殺されたかった―――」
2.
「ばっかねぇ、だからついて来ればよかったのよ」
「煩い煩い煩い」
「何でそんなに濡れてるのよ。雨宿りするぐらいの場所ならあったでしょ」
「豪雨に打たれたいときもあるんだよ!」
「なに青春真っ盛りみたいなこと言ってんの。もう23でしょ」
「子どもみたいな27には言われたくねぇ」
結局、クリスたちが許可を取り付けて出てきたのは2時間後だった。
色々と事情があって宿屋に引き上げることが出来なかったハルトは、彼を嘲笑うかのように晴れ渡った空の下、散々クリスに馬鹿にされるのだった。
「で? 許可は下りたのか?」
「当たり前でしょ」
「その遺跡はどこにあるんだよ?」
「ここ」
「おい、馬鹿にしてんのか」
「そんなわけないでしょっ!?」
「おいお前たち―――」
お互いに掴みかからんばかりの勢いに、エークが割って入った。
「喧嘩腰で話をするのは止めろ。大人気ない」
ひとくくりにされてしまった。
その一言でぶすっとお互いに黙り込むさまも、なかなか大人気ない光景ではある。
「今回調査対象になっている遺跡はこの地下にある。長い間調査されていなかったものだ」
どうやらエークは自分が説明したほうがトラブルにならないということを理解したらしい。
「また城の下か。意図的としか思えないな」
生乾きの服が気持ち悪い。死人のように血の気を失った掌を、何度か握ったり開いたりしてみる。
何故か、遺跡の上には城が建っていることが多い。
それは、考古学を学ぶものの間では常識の話で。
領城の位置を定めるのは教会の仕事。ゆえに教会は、遺跡を隠しているのだとも言われている。
「今のところ手に入れているデータで、今回のドラッグに結びつきそうなのは最も古いものは150年ほど前だ。それより前のデータには現れていない……というか、そもそもデータ自体手に入れられていない」
「そもそもここは"寄り道"だったのよね。ビレスには、表立ってHGの気配はないし。ただ、長く調査されていないものがあるなら、見てみる価値はあると思ったのよ」
「……どうでもいいけどな、俺は一度宿屋に戻るぞ」
「あら、大丈夫よ」
「なにが」
「なんとかは風邪ひかないって言うでしょ」
「うるさいっ!」
あっけらかんと言い放つクリスを怒鳴りつけて、ハルトは歩き出した。
―――お願いだから、これ以上あの子を。
宿屋に帰れなかった理由は、銀髪の婦人に呼び止められたからだ。
―――傷つけないで、お願いだから……。
弱くなりつつも、まだ降り続ける雨の中に綺麗な服のまま。
よろけるように踏み出して、こちらの濡れた腕を掴んだ。細い腕だった。
呆気に取られて、しばらくそのままで固まって。
濡れますよ、と言った頃にはもう既に、銀の髪の先からたくさんの雫が落ちていた。
―――あの子はもう、十分苦しんだの。これ以上は……。
あの子はひとりで、生贄になりました。悪魔と、魔女と罵られ。
ひとりで。
彼女は、売ったんじゃないんですか。
震える指先が強く腕を掴む。苦労をしたことのないような、綺麗な指だった。
この街を、教会に売ったんじゃないんですか。
―――違うわ。
目元に涙を滲ませて、ゆるく首を横に振ると、綺麗にまとめた銀の髪がほつれた。
凍えたような、震える声で、言った。
私たちがあの子を売ったのよ。
生き残るために。
*
妙に騒がしくて、目が覚めた。
まず耳についたのは屋根を叩く激しい雨音だった。
すっかりと真っ暗になった闇を裂くように一瞬、稲光が走った。
しかし、それだけではないのだ。
多くの人の気配がする。夜の闇にまぎれて。
今は一体何時なのだろう。
宿屋に戻ってきて、熱い湯を浴びてそのままベッドに倒れこんだまでは覚えている。
中途半端に眠ったおかげで体中がだるい。うつぶせに寝ていた体を、両腕を突っ張るようにしてベッドから引き剥がした。
「起きて!」
勢い良く扉を開け放って、クリスが飛び込んできた。
「起きてる。なんだ? やけに騒がしくないか。……今何時だ?」
「騒がしいも何もないわよ、街の騎士崩れが集まってて……。夜の10時よ」
「騎士崩れ?」
「昼間会った、ビッドとか言う男が中核みたい。武器とか持ち出して、かなり物々しいわ」
もう一度稲光が走った。う、と僅かにクリスがひるんだような顔をする。
「領城へ乗り込むらしいぞ」
クリスの後ろから、エークが顔を出す。「随分声高に話していたな」
「なんだって?」
「どうやら、魔女狩りの様子だが」
「くっそ!」
中途半端にかかっていた布団を跳ね上げて、ハルトはベッドから飛び出した。
「ちょ、ちょっとどうしたのよ!」
轟く雷鳴に半ばひるみながら、クリスが叫んだ。ハルトは既に上着を引っつかみ、部屋を出ようとしている。
「ビレスの城に行くに決まってんだろ!」
「はぁ!? 何言ってんの、ジャンヌ・ビレスはあんたを追っかけてるんでしょ!? 何しに行くのよ!?」
「うるせぇ。色々こっちにも事情があるんだよ!」
―――あの子をこれ以上、傷つけないで。
腕を掴んだ、ジャンヌの母の指のちから。
頬を伝ったのは、絶対に雨の雫などではなかった。
傷つけないで。
「じゃあ私も行くわよ!」
部屋を飛び出そうとするハルトの片腕を掴んで、クリスが言った。
「何……」
「あんたの力が調査に必要なのよ! 死んでもらっちゃ困るの!」
クリスは、"頑として譲らない"表情になっている。
すぐ傍にいたエークと目が合った。
仕方なさそうに溜息をつく。どうやら諦めたようだった。
*
夜になって、また雨が降りはじめた。
「お嬢様、お茶をお淹れしましょうか」
ぼんやりと窓を叩いて流れ落ちる雨を眺めていたジャンヌは、その声で我に返った。
夕食を終え、一人で居間に残っていたジャンヌに声をかけたのは、長らくこの屋敷で執事を務めるモーリス・ドーソンだった。
視線を窓から室内に戻すと、穏やかな笑みをたたえた初老の紳士がそこに立っていた。眼鏡の奥の瞳が、やさしい。
「……ああ、ありがとう」
「紅茶とコーヒーの、どちらがよろしいですか」
「じゃあ、コーヒーを」
「かしこまりました」
小さく頷いて、モーリスは準備をはじめる。
「モーリス」
その背中に、思わずジャンヌは声をかけた。
「何でございましょう」
部屋の隅にある戸棚からコーヒーカップを取り出しながら、モーリスは背中で聞く。
「お前にずっと、申し訳ないと、思っていた」
窓際の椅子から立ち上がり、ジャンヌはモーリスの背中を真っ直ぐに見つめる。
モーリスは、戸棚からソーサーを取り出す手をふと、止める。
「……突然、何をおっしゃいますやら。お嬢様が何を申し訳ないと思われているのか、爺には分かりません」
止めた手を再び動かし、戸棚の傍にあるサイドテーブルにソーサーを置いた。かちん、と陶器の音がした。
「私はあいつの、人生を狂わせた。あいつは別に教会になんか、研究所になんか……」
やり切れずに。どこかに自分を傷つける痛みが欲しくて、強く拳を握った。掌の内側に、爪が食い込む。そんな痛みでは、足りない。
「ジャンヌ様」
呼ばれて、ジャンヌはいつのまにか俯かせていた顔をあげた。モーリスは相変わらず背中を向けたまま、そこにいた。
「"あれ"は、ジャンヌ様のお役に立っていますか」
全く、場違いな質問のような気がした。一瞬、なんと答えていいか分からずに、まばたきを繰り返した。
「私の馬鹿息子は、少しでも、貴方のお役に立っていますか」
半分開いた口唇から、熱のこもった吐息が落ちた。急に、視界が奇妙に歪んで、困った。
何か言おうとしてはじめて、奥歯が僅かにカチカチとなっていることに気がついた。
泣いてしまいそうだった。
「オルウェンは、よくやってくれている。助かっているよ」
それだけを言うのも、声が震えた。
奇妙に歪んだ視界の中で、モーリスが振り返った。
「それはよかった」
幼い頃と同じように、微笑んでいた。
呼吸の仕方が、急にわからなくなった。まばたきも忘れていた。
今、息を吐き出したら、一度でもまばたきをしたら。
きっと泣いてしまう。
「お嬢様が気に病まれることは何もありません。"あれ"が自分で決めたのですよ。自分で選んだのですよ。ですから、好きにさせてやってください」
貴方が気に病まれたら、あいつがかわいそうじゃありませんか。
ねぇ。
幼子に言い聞かせるような暖かい口調で言う。
何度も諭された声だ。その声は、昔と同じ温度だった。
「さ。お座りになってください。―――しかし、今夜は荒れますね」
窓の外では、自然のストロボが瞬き続けていた。
モーリスはかちゃかちゃと陶器の音をさせながら、居間の隣にある給湯室へ続くドアを開けた。
振り向くと、そこには自分がいた。夜だけ、鏡の代わりになる窓の硝子に映った、自分の顔があった。
情けない顔をしていた。
こんな情けない顔を、カルチェ・ラタンではしたことがないな。
そんな顔をしていること自体、この街に、この家に、甘えているんだな。
許している部分が、あるのだな。心の中に。
ゆら、と視界の中で何かが揺れて、反射的にそちらを見た。窓の向こう側。
自然界の夜の闇には、決してあり得ない色だった。
闇を遠ざける、獣を畏れさせる、赤だ。
炎。
ひとつ、ふたつ。それ以上の。松明だろうか。
ゆらゆらと揺れながら、叩きつけるような雨にも消えることなく、近づいてきている。
「―――様、お嬢様!!」
ノックもなく、不躾にメイドが扉を開け放った。息を荒げているのは、駆けつけたからだけではなく何かに緊張しているからだろう。顔が強張っている。
よくない知らせだ。
「どうした」
向き直って、問うた。
「お逃げ下さい!」
金切り声のような悲鳴は、そう聞こえた。逃げろ。
「なに―――」
「民衆が……。元騎士、団の人々を中心、としてここに……」
せわしなく呼吸をして、言葉を不自然にぶつ切りにしながら彼女が言った。そこまで聞いて、納得した。ああ、そうか。
魔女狩りが始まるのだな。
「父上と母上には、安全な場所にいて頂け」
先程まで心の中を占めていた憂鬱が、すうっと冷えて凍った。
代わりに昂揚感が腹のあたりから上ってくる。―――剣が要る。
「……え?」
メイドが掠れた声で聞きかえした。ジャンヌの指示が、まるで知らない言葉だったかのように。
「お前たちも、下がっていい。くれぐれも、父上たちには危害が及ばぬように衛兵を配置してくれ」
「ジャンヌ様、一体何を……」
話を聞きつけて給湯室から飛んできたモーリスが、部屋を出ようとするジャンヌを呼び止めた。
メイドは呆然と、震える指を組んでそこに立ち尽くしている。
「すまないな、モーリス。せっかくのコーヒーは飲めそうにない」
モーリスが見たのは、知らない人間だった。
少なくとも、十九までこの屋敷で育った令嬢ではなかった。
その端正な顔はつめたかった。そう、"軍人"の。
声をなくして立ち尽くすモーリスの横を通り過ぎ、軍人の女は部屋を出て行った。
3.
ばりばりと空がうるさい。
「鬱陶しい! 雷が怖いなら宿屋に残ってろよ!」
ハルトは、堪らなくなって後方に向かって叫んだ。大粒の雨が口の中に入る。
足元でびちゃびちゃと水音が響き渡る。靴の底が徐々に冷たくなってきていた。そのうち浸水する。
「平気よ、寧ろ、克服するわ、今日!」
気力だけでそう叫んだ警備省の捜査官(女)は、先程から立て続けに鳴る雷に威嚇されっぱなしだ。
どうだか、と投げやりに言い捨てて、ハルトは足を速める。
耳には絶え間なく、びしゃびしゃと水を跳ね上げる足音が響いていた。たくさんだ。
漆黒の闇に、煌々と耀く松明がところどころ揺れている。
まるで何かの儀式のように、連なってこの坂道が続く向こうへとむかっていた。
―――あの日のことを、俺は一度だって忘れたことがねぇ。
松明を掲げる人々を追い越すハルトの耳元で、昼間のビッドの声が蘇った。
―――あいつ、止めようと飛び掛った親父さんを斬ったんだ。躊躇いなく。幼い頃から剣術を教えてもらってた親父さんを。
貴族の、領主の娘だって言うのに、高飛車なところがなくて。
小さな頃から騎士団の訓練場に出入りしてて、本当に俺は、妹みたいに。妹みたいに……。
―――あの子は、生贄になったんです。
また、別の声が言った。
―――この街を守るために、悪魔になったんです。たったひとりで。
私は母親なのに、あの子を庇う盾になれなかった。
―――だからもうどうか、あの子を傷つけないで。傷つけないで下さい。
入り乱れる人々の波を縫うようにして、ハルトは領城の前の広場まで出た。
無数の松明が、門の周囲を埋め尽くしている。
「もう封鎖されてやがる……」
さすが元騎士団だ。やることが早い。振り返ると、転々と松明が続いていた。まだこちらへ近づいてくる。
「入り口、塞がれてるじゃない」
追いついたクリスが少し息を切らしながら言った。近くを通った松明の明かりに、金の髪が光る。
「ああ、面倒だな。ぐるりと回り込めば、どっからでも入れるだろうが……」
屋敷の周りを囲っているのは2メートルほどの柵だ。侵入者を防ぐために、先端が尖っているが、何とかすれば乗り越えられなくもないだろう。
「お前は無理だな」
ハルトは、クリスを見下ろして言った。どう考えても150センチ前半の身長しか持ち合わせないクリスは、柵を乗り越えるとしたら大変だろう。そして、手助けしてやるような余裕もなかった。
「な、なによ……」
クリスが反論するよりも早く、ハルトは屋敷の門へと近づいていった。
数人の男たちが、いつもは広く民衆に解放されている門を閉ざして、その前に立ち並んでいた。
「悪いが今は出入り禁止だ」
美しい庭に、ぽつぽつと松明が揺れていた。もう主力の"元騎士"たちは中に入ってしまったようだ。
知らぬ顔であるハルトが門を通過できるわけは、勿論なかった。
「くそっ……」
絶え間なしに体を打つ雨が、容赦なく体温を奪っていく。頭から額を伝って落ちてきた雫が目に染みた。
突然、右腕を掴まれ強く引かれた。咄嗟のことに、そのままずるずると引きずられる。
夜の闇に同化するような、黒いフードをすっぽりとかぶった男が、ハルトの右腕を掴んでいた。
「お、おい、なんだよ……」
「ついてこい」
フードの中から、少ししわがれた声がした。聞き覚えのあるその声に、ハルトは抵抗を止める。
どうしてだ? なんであんたが?
気がついたら訊いていたけれど、返事はなかった。
抵抗を止めても、フードの男はハルトの腕をしっかり掴んで離さない。ずるずると、わき道へ引きずり込む。
細い路地を奥へ奥へと進むと、袋小路だ。少し遠くで、高揚した男たちの声が聞こえる。
「どうしたんだよ、じいさん」
突き当りまでたどり着いて、ようやく男はハルトの腕を放した。
ばさりと下ろしたフードの中から現れた顔は、ガルノフのものだった。
「お前さん、ビレスの城に何の用だ。警備省が」
訝るように目を細める。眼光は、未だ鋭い。
「正確に言うと、俺は警備省じゃないんだけど」
「ちょっとハルト、いきなりどこ行くのよ……!」
いきなり広場から消えたハルトを追って、クリスたちが追いついてきた。二人は、ハルトと向かい合って立つ初老の男を見て、驚いたように黙り込んだ。
ぴんと張った、緊張感がそこにあった。雷鳴が轟いても、絶え間なく雨が肌を打っても。微動だにせず。
向かい合って見つめあい威嚇して、探っていた。相手の空気を。
クリスとエークは、そんな空気の邪魔を出来ずに、少し後ろで立ち尽くしていた。
「俺は、ジャンヌ・ビレスに危害を加える気はさらさらない。ただ、あいつが安っぽいヒロイズムに駆られてもう一度生贄になろうとするなら、そういう馬鹿らしいことは止める」
「安っぽい、ヒロイズムだと?」
ガルノフが訊き返した。怒っていたのではなかった。微かに眉をひそめて。ただ訊いた。
「自己犠牲は本人にはきれいかもしんないけど、残される側は不幸だ」
土砂降りの雨に、掻き消されそうな静かな声で、ぼそりとハルトが言った。
「今度は死ぬぜ」
5年前は、悪魔になってこの街を売り飛ばすフリで、済んだかもしれないけど。
今夜はきっと違う。
弁解なんかせずに、真相なんて一言も口にせずに、命乞いなんてもってのほかで。
向けられた元同胞の刃を全部体に飲んで、死ぬよ。そういう奴だと思う。
「あんたもよく知ってんだろ」
ここにこうして、ハルトを引きずってきたのは。あの魔女狩りに参加しないのは。
知っているんだろう、ほんとうのことを。
だってあんたは一度も、領主の娘を罵らなかったじゃないか。
「……どうして知った」
寒さのせいか、それとも他の何かのせいなのか、震える声でガルノフが訊いた。
「母親」
そんな、たった一つの単語だけで、ガルノフは何かを飲み下すようにきつく瞼を閉じた。
「―――このマンホールは、領城の地下にある遺跡に通じている」
足元の丸い鉄の板を指して、ガルノフが言った。
「そこから城に入れるはずだ」
「……ああ、悪いな」
ハルトはしゃがみこんで、マンホールに手をかけた。
*
闇の中、幾筋も白い光が煌いた。僅かな光を反射して耀くのは、ぶつかり合う剣。
「冗談じゃない!」
民衆の剣を押し返して、ビレス城の衛兵が悪態をついた。
後ろについた足が雨で滑った。
「剣が重い……」
民衆は、ただのならず者ではなかった。少なくとも5年前まで統制の取れた騎士団で鍛錬を積んでいた連中だった。
「そこを退け」
目の前に、剣の先端を突きつけられ、衛兵は息を呑んだ。
ぎらぎらと熱を帯びた瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。中途半端にかぶっていたフードをずるりと引き摺り下ろす。
無精ひげのまばらに生えたその男の顔には、見覚えがあった。
「ビッド、隊長……」
衛兵の手から、剣が落ちた。彼もまた、騎士団の人間だった。騎士団が解体を余儀なくされた後、衛兵としてこの城に残ったのだ。
目の前にいたのは、彼の小隊をまとめていた隊長だった。短い黒髪から雨を滴らせ続けている。
「俺は城の誰にも手出しするつもりはねぇんだ。あの女以外にはな……!」
ずるずると、衛兵はそこにへたり込んだ。そのすぐ傍をビッドが確かな足取りで通り過ぎる。
周囲を見渡すと、既に庭は制圧されつつあった。圧倒的な数の違い、そして昔の同胞に剣を向けることをためらった衛兵たちの精神力の弱さが原因だった。
ビッドは硬く閉ざされた城の扉に手をかけた。押し開くと、闇の中に光がどっと溢れ出した。
玄関ホールの、見慣れた光景が広がった。もう5年、見ていない風景だった。正面に見える大階段も、見上げた場所に輝くクリスタルを使ったシャンデリアも。以前はこの城を守るためにこの剣を振るっていたのだ。
「ビッド、庭は制圧した!」
追いついてきた男が耳元で言った。ぱつぱつと髪の毛から雫が落ちる。
「あの女を捜せ。逃げられねぇうちに」
「ビッド」
聞き覚えのある声が穏やかに呼んだ。はっと声に導かれるようにそちらを見る。
「どういうことだ、ビッド」
仰ぎ見た階段の中ほどに、夜着とガウンを纏った初老の男が立っている。白銀になった髪が、シャンデリアの光を跳ね返す。
「領主様、夜分にお騒がせします。しかし、もうこれ以上は我慢が出来ません。彼女と話を……」
「それが、話をしに来たものの姿か」
抜かれたままの剣には、僅かに血の色が見えた。目を細めるようにして、ビレスの領主はその剣を見た。
「どうして、庇われるのですか! 貴方を……この街を裏切った娘を!」
堪えきれずに、ビッドが叫んだ。
叫び声に、雷鳴が被さる。開かれたままの扉から吹き込む雨が、容赦なく男たちを打つ。
「俺たちは、この街を守りたくて騎士団に……それを」
妹のように、思っていたのだ。
お互いにこの街が好きで、強くなりたくて。それが。
―――お嬢さん、一体何の冗談なんですか!
―――冗談に見えるのか、お前には、ビッド。
どうしてこんなふうに。
「ジャンヌは」
段上で、領主は言いよどんだ。言葉を探すように口を開いては、空しく開閉させる。
苦味や痛みをいっぺんに飲み込んだような顔をした。
「私の娘はこの街を―――!」
「父上、ここは危険ですから、お下がりになってください」
思わずぶちまけようとした父親の声を遮って、通る女の声が言った。
ホールに居並んだ男たちが一斉に剣を構える。
石になったように硬直する領主の肩に、手が触れた。化け物を確かめるかのように、恐る恐る振り返ったその先に銀色が揺れた。
綺麗にまとめ上げた銀の髪に、同じ色の瞳は鋭く階下に居並ぶ男たちを見据えていた。
「ジャンヌ……!」
娘は、黒い衣を纏っていた。
その左胸には、まばゆい金の、十字架。
「父上、どうかお下がりください」
父を背に庇うように何段か階段を下りると、ジャンヌは腰の剣に手をかけた。
「き、貴様……、この期に及んでその軍服でっ……!」
よくも我々の前に立てたものだな。
うめくビッドにむかって、ジャンヌはふっと微笑んでみせた。冷徹に。
「誰からだ?」
すらりと腰の鞘から剣を抜き取り、真っ直ぐに男たちに切っ先を向ける。
口元に残虐な笑みを浮かべたまま、ジャンヌは叫んだ。
「死にたい奴からかかって来い―――!!」
4.
石造りの地下通路をどのぐらい進んだのか分からなくなった頃、唐突に広い場所に出た。
「ここ……どこ?」
荒げた呼吸を整えるように、クリスが深く息を吸った。
円形の広間。中央に、ぽつんと台座のようなものがあった。巨大な杯のような形をしている。
「例の祭壇、か?」
エークが言った。
この街が、異端だと呼ばれた原因の。古代遺跡の残骸。
「遺跡らしく、ねーな」
生乾きの髪から落ちてくる雨の雫を払うように、ハルトが乱暴に頭を振る。犬のように。
「遺跡って言ったら、機械仕掛けのダンジョンがお決まりだろ」
「どうやら、ここはただの入り口らしい」
祭壇に近づいたエークが、僅かにそれを押した。途端、ぎりぎりと何か歯車の回るような音に、機械の発信音のようなものが続いた。
ちょうど右側にある岩壁が、音を立てて上に"開いた"。
「階段、だわ。上と、下の」
石畳にヒールの踵を響かせて、クリスが開いた"穴"を覗き込んだ。
開いた先には階段が二つあった。下へ続く鉄の階段と、上へ続く石の階段だ。
「下が遺跡で、上が城だな」
クリスの後ろから自分も階段を覗き込んだハルトは、上着の裏側を探り始めた。
指先で目当てのものを探り当てると、下方への階段を覗き込むクリスの顔の前にそれを突き出した。
「……え?」
クリスは突然目の前に突きつけられた5センチ四方ぐらいの黒い"板"を、寄り目になるぐらいに凝視した。何度かまばたきをする。
「このチップを使えば、特別な手続き無しで中のデータを読み出せる。エークにやってもらえ」
「ちょ、っと。ハルト、あんた……どこ行くのよ!?」
半ば無意識でクリスがチップを掌におさめるのを見届けてから、ハルトは階段に足をかけた。"上へ"。
「城に決まってんだろ。データは任せた」
言い終わる前に、ハルトは駆け出した。ちょっとあんたなんなのよ訳わかんない。クリスの声を背中で聞いた。
剣戟の音がする。上だ。
長く続く階段の先に、やがて光が見え始めた。金属同士がぶつかり合う音が、大きくなる。
最上段まで駆け上り、そのまま立ち止まらずに目の前の壁に体当たりを食らわせる。壁がぐるりと回った。
つんのめるようにして飛び出した先は、どこかの陰になっているらしく、薄暗い。耳障りな剣のぶつかり合う音と、男たちのうめき声は、すぐそこで聞こえている。
目の前には一本の巨大な柱、見上げると天井が斜めに下っている。
(大階段の、裏か)
城にありがちな、玄関ホールの正面にある大階段。どうやらその裏に遺跡への入り口があったらしい。
息を殺して耳を澄ます。激しい雨と、剣のぶつかり合う音。男たちのうめき。頭の上で、何かが動き回っている。
(階段で、立ち回ってんのか?)
仰ぎ見ると、ぱらぱらと埃が落ちてきていた。
「どうした!」
ホールに響くのは、鋭く通る声。
「この程度の体たらくか! これで元騎士団とは、笑わせてくれる!」
声に続いて、どどど、と何かが階段を転げ落ちた。男の悲鳴。
「なんだと、この悪魔め!」
男の声が叫び返した。ハルトはすばやく周囲を見回した。左右の壁に、玄関の傍まで等間隔で立ち並ぶ鎧が目に入る。
階段の裏にいては、状況が見えない。
「ほう。ならばお前たちの剣で祓うがいい。この城に取り付いた悪魔をな!」
再び剣がぶつかる。
ハルトは、一番手近にある右手側の鎧の影に滑り込んだ。
少しずつ、玄関の扉のある方へ、シャンデリアの光が照らすほうへと、移動する。
ようやく階段が真横に見えるところまでたどり着き、影からそっと様子をうかがった。
階段の下に、気絶した男たちの体が横たわっている。何かがシャンデリアの明かりを反射して煌くのを、視界の端で捕らえた。そちらを見る。
大階段の中ほどに、華奢な人影が見えた。黒い服の左胸に、金十字が見える。
(あいつ、ここでわざと正規軍の軍服なんか……!)
男たちを煽るだけになることを、知っていて。わざと。
怒りを全て、自分の身に向けるために。
ぶつかり合った剣を押し返されて、男のひとりが転げ落ちた。
少しの間うずくまって、剣を支えにして立ち上がる。
(階段を使うのは、正解だな)
この広間にいる騎士崩れの男たちは一ダースほど。囲まれれば終わりだ。いくら大階段とはいえ幅が決まっている。そこの上にいれば、一度に相手する数を制限することが出来るからだ。そうして、正確に一人ずつ仕留めていけば……。
(……なんだ?)
違和感。何かがおかしい。
なにか、辻褄が合わないことが、目の前にある。
"仕留めていけば"?
何かが足りない。違和感の答えを探るように、ハルトの右目が忙しくホールを行き来した。その間も剣戟の音は続いている。
そして、唐突にハルトは気づいた。
足りない色がある。
足りない"液体"がある。
足りない、鉄の匂いが。
広間には、血が流れていないのだ。
(馬鹿か、あいつ―――!)
わけのわからない怒りが、突然体の下から頭へ駆け上がった。
あれだけ挑発しておいて。かかってこいと煽りながら。
ジャンヌ・ビレスはかつての同胞の誰一人も、斬っていないのだ。
悪魔と罵られ、殺されかけても尚。誰一人として、その剣で斬ろうとはしないのだ。
なんて、馬鹿。
「くそっ!」
腰に回した手で、ハルトは松かさのような黒い塊をつかみ取った。頂点についている栓を口で抜く。
そのまま玄関ホールに投げ入れた。
「な、なんだ……?」
突然床に転がった手榴弾に似た物体に男たちがひるんだ次の瞬間、全てのものを灼きつくすような光が爆発した。
「発光弾……一体……!」
鎧の影から飛び出し、階段状で目を押さえている女の腕を、強引に掴んだ。
「なっ、貴様っ……」
まだ目の奥にちらつく残像に苦しみながら、ジャンヌは目を開いた。
「うるせえ! 死ぬつもりか、馬鹿野郎っ!」
ハルトは、足元に転がっていた誰のものかもわからない剣の鞘を掴むと、階段を上りきった踊り場の向こうの、ステンドグラスに向かって思いっきり投げつけた。
がしゃん、とけたたましく硝子が割れる音が響き渡った。
*
「おい、ステンドグラスが割れてるぞ」
「まさかここから飛び降りたわけじゃ……」
「いいから、早く探せ!」
男たちの足音が入り乱れるのをハルトは耳をそばだてて聞いた。
ハルトは、大階段の裏の、遺跡へ続く階段の中にいた。回転式の壁に背を預け、耳を押し当てている。
やがて男たちの足音がホールから聞こえなくなってから、深々と溜息を吐き出した。
「何のつもりだ」
ハルトよりも何段か下で、ジャンヌが言った。抜き身のままの剣を、ハルトの首に突きつける。
「この街を出て行けといったはずだ。それに、貴様には関係のない話だろう」
「みすみす殺されてやるつもりだったのかよ。一人も斬らずに」
咽喉元に刃を突きつけられながら、ハルトはジャンヌを見下ろした。まとめてあったはずの髪はいつのまにかほつれて背に流れ、頬や額に僅かな傷が見えた。
相手はお前を、殺すつもりだったんだろう。
「それこそ、貴様には関係のないことだ」
「なぁ。何で今、戻ってきたんだ?」
5年経ったとは言っても、人々の胸にはまだ怒りがくすぶり続けている。
どうしてわざと、油を注ぐような真似をしたんだ。
ジャンヌは黙って、口唇を引き結んだ。何か、屈辱を耐えるような顔だ。
「言ったはずだな。次はないと」
問いには答えずに、ジャンヌは言った。闇の中で光を放つものは、全て銀だった。
向けられる刃も、それを向ける女の髪も瞳も。
「お前、何のために正規軍にいるんだ? 人質なのか?」
異世界の言葉で話し掛けられたかのように、ジャンヌが僅かに首をかしげた。
「お前からこの街を奪った軍隊に、どうして今もいるんだ?」
闇の中でも分かるぐらい、ジャンヌの瞳が大きく見開かれた。
「貴様、どうしてそれを……」
叱られた子どものように、怯えた目をする。この女のそんな顔を、ハルトは初めて見た。
「あんたの母親から、聞いた」
あの子は、私たちの盾になったのだと。必死に訴える細い腕のつよさ。
あれは母の力なのだ。
ジャンヌの顔が泣きそうに歪んだ。咽喉元に突きつけられる剣が小刻みに震える。
「何でお前ひとり、痛い目見るんだよ」
―――お嬢様、どうして貴方だけ犠牲になるんですか。
「うるさい!」
ジャンヌが叫んだ。剣を一度引き、渾身の力で突き出した。ハルトはしゃがみこんでそれを避けると、背にした壁を思いっきり押す。ぐるりと回ったその隙間から、すっかりと静まり返った玄関ホールへ飛び出した。
黒い軍服がそれを追う。剣が空を斬った。
大階段の下へ転がり出たハルトを、容赦のない剣が襲った。切りかかるジャンヌに向き直り、振り下ろされる銀の刃を"手の甲"で受けた。
キィン、と硬いもの同士がぶつかり合う音がホールに響いた。
ハルトの手の甲には、黒く鍵爪が装着されていた。爪は伸ばした指の倍ほど長く、鋭い。それで、ジャンヌの剣を受け止める。
「危ねぇ……」
ぎりぎりと、ぶつかり合う表面が音を立てる。額から顎に向かって、汗が一筋流れ落ちた。
「貴様に……何が分かる……!」
剣に力を込めたまま、ジャンヌはうめいた。痛みを堪えるように、眉をひそめる。
「この街で、代々ワイン職人として生きてきた民がこの街を離れることが、どういうことか……」
声が震えている。小刻みに。
「代々領主として生きてきた人間に、領主の地位を捨てろということが、どういうことかお前に分かるか」
あともう一息で、嗚咽になってしまうような荒い呼吸で、軍服を着た領主の娘は吐き出した。
「死ねということなんだぞ!!」
金切り声のような悲鳴。彼女からこんな声が出るなんて、知らなかった。
「じゃあなぁ!」
下から思いっきり爪を跳ね上げて、銀の刃を払いのける。反射的にジャンヌは後ろに跳んだ。
「街の人間はそれでいい、お前の両親もそれでいいだろうさ!」
獲物を狙う獣のように体制を低く剣を構えるジャンヌに、どうしていいのか分からないほどハルトは苛立っていた。
「お前はどうなんだよ、お前だけ、泣き見るのかよ!」
「そんなものっ! 私が耐えればそれで済む!!」
「お前の生まれた街だろ! 故郷だろ!!」
ふるさとは、どんなときでも受け入れてくれる場所ではないのか。暖かく。
いつかは、戻ってくる場所ではないのか。最後の砦のように。帰るべき場所。
「黙れ……」
―――しばらく、カルチェ・ラタンを離れるかい?
閣下。行く場所など、なかったのです、私には。
生まれた街に戻ってみたところで、ここももう既に。
私の帰るべき場所などではなかった。
「あんたはそれで……!」
「黙れェ―――ッ!!」
絶叫と共にジャンヌが懐に飛び込んできた。まともに体当たりを食らって、ハルトは仰向けに倒れる。
起き上がろうとした腹に、ジャンヌの膝がめり込んだ。ハルトの腹に乗り上げ、左手で胸倉を掴んだ。
「お前に、分かってたまるかっ……」
雨が、降ってきたのかと思った。ぱた、ぱたと頬に落ちてくる雫。
けれど、すぐに気づいた。ここは室内で、雨など降るはずもない。
クリスタルのような、つくりもののような。冷たい瞳から落ちたのは。
あたたかい涙だった。
からん、と音がした。重力に引っ張られてだらりと下がった右手から、剣が床に転がったのだ。
胸倉を掴んで、縋るように強く掴んで、顔を俯かせて。ジャンヌは嗚咽を殺していたけれど。
涙は次から次にこぼれて、落ちてきた。
ほら、お前はそんなふうに。
痛い思いをしているんじゃないのか。
自分だけ耐えればいいなんて言って。
我慢できずに泣いてしまうくせに。
「お前の母親、泣いてたぞ」
ゆっくりとジャンヌはうなだれた首を持ち上げて、ハルトを見下ろした。
「泣いてたぞ。今のお前みたいに」
嗚咽をかみ殺して。
「叱られた。お前を傷つけるなって」
耐えているのは、ひとりではないんだ。
傷ついているのは、お前ひとりではないんだ。
射るような赤い瞳がそう言っていた。
真っ直ぐに見据えられて、体に穴が開くような気がした。
どんな嘘も見透かされて、暴かれてしまう。気持ち悪かった。
「今更……どうにも……」
こんな瞳は嫌いだった。真っ直ぐの、強い力を持った瞳だ。
ただ、自由な。自らの力で先を切り開くものの瞳だ。
ジャンヌは、右手で床をまさぐり、先程離した剣の柄を掴んだ。
両手で、逆手に持ち替えて、振り上げた。敷き込んだ相手の、丁度顔の上に。
「今更どうにも、なるわけないじゃない―――!」
その剣を、勢い良く突き下ろした。
遠くに、落雷の音―――。
5.
頬を、生暖かいものが伝って落ちる感覚だけがあった。
ハルトは目を見開いたまま、自分の体の上に崩れ落ちた女を見た。
左側の、顔のすぐ傍に、剣が突きたてられている。紙で切ったような痛みが左の頬にあり、僅かに血の匂いがした。
視界の端で、銀糸の髪を持つ女がゆっくりと、床につきたてた剣を杖にするようにして、起き上がった。
「私は時々、お前たちをうらやましいと、思うことがある」
バラバラに乱れた髪で、顔は覆われていた。それでもまだ、瞳からは涙が落ちていた。
「けれど時折、切り刻んでやりたいほど、憎い―――!」
酷く緩慢な動作でハルトの上から退くと、突きたてた剣を重そうに抜いた。
「おい、どこ行くんだよ」
鞘に剣を戻し、開かれたままの扉から、未だ雨の降り続ける外へと出てゆこうとする背中に、ハルトは問うた。床で、上体を起こす。左頬から、顎に向かって血が伝って落ちた。
「戻る」
「"戻る"?」
「カルチェ・ラタンだ」
結局戻るべき場所は、そこしかなかったのだから。
「"猊下"は、あんたに応えてくれるのか」
ここで報われない分の報いをくれるのか。だから正規軍に今も在り、そこへ帰るのか。
ハルトの問いに、ジャンヌは笑ったように見えた。
「馬鹿馬鹿しい。応えなど……。私は、ただの駒だ」
ジャンヌは、そのまま歩き出した。黒いその軍服は、すぐに闇に飲まれてしまった。
しばらくハルトはぼんやりと、ジャンヌの消えた闇を見つめていた。
*
街は、恐ろしいほどに静かだった。
何故だろう? 先程までがまるで悪夢のようだ。
変わらないのは、上から叩きつけてくる雨。時折空を裂く雷光。
長い髪が頬に張り付いた。徐々に体温が抜けてゆくのが分かる。
頬を伝っているのがもう、涙なのか雨なのか、わからなくなってしまった。
何故この街に帰ってきたのだろう。
自分でも、良く分からなかった。
街の人々の心を煽ることなど、重々承知だったのに。
もしかしたら、奇跡でも期待していたのだろうか。
やさしくしてもらうことを。
城から真っ直ぐに下る坂道を、中ほどまで降りたところで、人影を見つけた。
道端に停めた一台の車にもたれかかり、体を雨に打たせるままにしていた。
まさか、と思った。人違いか、そうでなければ幻覚だろう。
ここに、いるわけがない。
が、ずぶぬれのジャンヌを見止めて、その人影はゆっくりと体を起こした。
黒い髪を雨に打たせ、ジャンヌに向き直って立った。
おまえ、どうして。と言おうとしたが、口が動かなかった。
「休暇中で、旅行中なんです。偶然ですね」
雨に濡れて、ほとんど役目を果たしていないフレーム無しの眼鏡を、ゆっくりと抜き取った。
そういえば、今日は白衣姿ではないな。
そのスーツ姿のほうが、代々執事の家に生まれたお前には、似合っていると思うんだが。
ジャンヌは思わず、笑ってしまった。
氷のように凍っていた何かが、急に溶けてゆくような気がした。
変な偶然もあるものだな。
「ちょうど……お前の顔が見たかったところだ、オルウェン」
泣き笑いのような顔で言うと、そうですかとオルウェンが頷いた。それはよかった。
「帰りましょうか、お嬢様」
停めてある車の、後部座席の扉を開いて、オルウェンが促した。
「オルウェン、この街は……」
促されるままに後部座席に乗り込み、運転席の扉を開ける幼なじみに呼びかけた。
「この街は、まだ私の帰るべき場所ではなかったみたい……」
そうですか。エンジンをかけながら、穏やかにオルウェンが頷いた。
そういうところは、父親に良く似ているな。言ってやると、苦笑した。父に似るのは嫌ですね。
「いつか」
アクセルを踏み込みながら、オルウェンが言った。
「いつか、帰る場所になりますか」
ジャンヌは、濡れた髪を掻き上げて、ふふ、と笑った。
「そうなればいいな」
そうですね、とまた頷いた。
「オルウェン、お前……」
問いかけようとして、やめた。
―――私は、納得できません。
お前は、悔いてはいないのか。
教会の研究所など、行きたいと思ったこともなかっただろう?
私の後を追うようにカルチェ・ラタンへきて。
その後の人生を棒に振って。悔いていないのか。
「自分で決めたのですよ。貴方と同じように」
唐突にそう言ったきり、オルウェンは何も言わなかった。
今度はジャンヌが頷いた。
そうか。
*
濡れ鼠のまま宿屋へ戻ると、子犬のようにクリスが飛んできた。
「どうしたの、その頬」
「ああ、ちょっとな」
血は、とっくに止まっていた。このぐらいの傷ならあとも残らないだろう。
「そう。何事もなかったみたいで、よかったわ。疲れているところ悪いんだけど、ちょっと見て欲しいデータがあるの」
いつになく"常識的"かつ"大人"な対応で、クリスが踵を返した。顔が強張っているように見えたのは、気のせいだろうか?
「騎士崩れの人はね、ガルノフさんが説得してくれて収まったわ」
客室へ続く階段を上りながら、やや硬い声でクリスが説明した。
ああ、なるほどね。どうりで街が静かなわけだ。
「それで、データは取れたのか?」
「お蔭様で」
笑いながら、クリスが客室の扉を開けた。
「出てきたのは、昔の心理学か何かの研究書類だけで、薬のデータは見つからなかったわ」
「へぇ? 心理学の研究書類?」
「催眠療法みたいよ」
「いつだ?」
「特定は出来なかったけど、数千年単位で昔ね」
部屋の中では、エークが携帯用の端末ディスプレイに向かっていた。
濡れ鼠のハルトに向かって、軽く片手を挙げてみせる。
「じゃあ、何が問題なんだよ?」
同じように片手を挙げて応じながら、クリスに訊いた。
「その研究書類のね、記入者名」
「記入者名?」
既にクリスはエークの傍でディスプレイを覗き込んでいる。
ひらひらと、扉の傍で立ち尽くすハルトを手招きした。
訝しげに眉をひそめたまま、ハルトはディスプレイを覗き込んだ。
「どう思う?」
問題の部分を指差しながら、クリスが訊いた。
「同一人物……なわけないわよね、いくらなんでも」
ハルトは答えなかった。
瞬きも忘れて、ディスプレイの名前を見た。
「……次は、カルチェ・ラタンだったな」
脈絡もなく、画面を見つめたままでハルトが言った。
「え? あ、そうだけど……」
「いい加減、化けの皮剥がしてやらなきゃ気が済まねぇぜ、大司教猊下」
記入者名。
ラジエル・エレアザール―――