銀糸の聖女
〜diable〜





―――私、この街が好きなの。この街を守れるなら、そんな素敵なことはないわ。



1.

 街よりも少し高い位置にある、その豪奢な建物の扉の前に立ったそのとき。
 向かい合った中年の女性の、驚愕に見開かれるその瞳の菫色に、鍵をかけてしまっておいた箱の蓋が開いた。
 なつかしさ。
「ジャンヌ―――!」
 震える腕が、しっかりとこの体を抱いた。肩に押し付けられた顔からもれる細かい嗚咽。
 5年。
 時の力は残酷だ。この人をこんなにも老けさせた。自分と同じ色であるはずの銀糸がくすんでみえる。
「急の訪問、お許しください」
 強く掻き抱きたい欲求を押し込め、ほそい背中に腕を回すだけにとどめた。
 その一線を越えたらもう、張り詰めていた糸など、簡単にぷつりと切れてしまうと思った。
 案の定、顔をあげた気弱そうな中年の女性は、傷ついた顔をする。
「そんなこと……構わないに決まっているじゃないの。どれだけ私が貴方に―――会いたかったか。どれだけ……」
 ジャンヌは、幾分か細くなったように思える女性の肩の向こう、巨大な屋敷の扉の前に立つ初老の男を見つけた。
 何を言うでもなく、じっとこちらを見つめているその目と、視線が絡まる。
 もう一度だけ女性の肩を抱いて、ジャンヌはその男の方へと足を踏み出す。
 決して狭くはない間隔を置いて、向かい合う。
 男は何も言わなかった。

「お久しぶりです、父上」


            *


 どのくらい、眠ったのだろう。
 昼頃にベッドに入って、起きてみたら朝だった。
 丸一日近く眠っていたらしい自分に、リョウコは驚いてしまう。
 モエに呼ばれて食堂に入り食事を摂っていると、作業着姿のファンがやけに薄汚れて入ってきて、モエに言った。
 "あれ、本当に動くの?"
 もはや相当疲れているらしいファンの前にコーヒーを置きながら、モエは"さぁ"と肩をすくめた。
 あれ? あれってなんですか? 首を傾げるリョウコにファンが説明しようと口を開くより早く。
「準備は?」
 聞きなれた声が乱入してきた。
 声のした方へ目線を移動させたリョウコは、一瞬固まってしまう。食堂の入り口だ。
「あ、リョウコちゃんが固まっちゃったじゃないですか。珍しいもの見せるから」
 モエはもう見慣れているらしく、深々と溜息すらついて見せた。
「珍しい? 何が?」
 言われた本人はきょとんとして聞き返したりしている。
「髪。服。目。心意気」
 長テーブルの端に座っているファンが、わざわざ指を折って列挙すると、サイジョウは眉をひそめた。失礼な。
 しかし、ファンの指摘した点についてリョウコは妙に納得してしまった。
 いつもは寝癖がついたままだったり、ばさばさに乱れている髪がしっかりと整えられている。前髪も結構長かったのか、顔の半分あたりまでかかっていた。
 無精ひげも見る影もなく、いつもならかなりだらしなく着崩しているシャツも、ぱりっと。ネクタイまで締めている。
 何より、いつもは開いているのかすら分からない目。目つきが違っていた。鋭い。
 眼鏡も外されていた。
「そうしてると、5歳は若く見えますよ」
「その台詞を聞くのも久しぶりだ」
 モエが言葉と共に差し出したマグカップを受け取りながら、サイジョウは僅かに苦笑した。
(声も違う)
 半分以上がミルクで構成されている自分のコーヒーを口に運びながら、リョウコはそんなことを思った。
 いつもは眠そうな、間延びした声が。ぴんと張っている。
 ただそれだけのことなのに、なぜかこちらまで背筋が伸びるような気がしてしまうから不思議だ。
「ファンくん、点検ご苦労様。見たきたけど、あれで十分だよ」
 入り口の近くに立ったまま、サイジョウがファンを労った。
「本当にあれで動くんですか」
「僕を信じるなら」
 その切り返しに、ファンは黙った。不服そうな顔で。
 そう言われたら、なんて返せばいいんですか。
 それを満足そうに見やってから、
「さて」
 マグカップ片手に、サイジョウはぐるりと周囲を見渡す。その瞳は、深い青の色が分かるほど、しっかりと開かれていた。
「ここのことはコウくんたちに頼んだ。シャトーのジェイクにも連絡は入れてある。僕たちは、準備が整い次第、カルチェ・ラタンに発つ」
 食堂の中はしん、と静まり返っていた。
 いつものアットホームの雰囲気がかけらもない。痛いぐらい、空気が張り詰めていた。
 窓から差し込む、暖かいはずの朝の日差し。しかし、リョウコは寒かった。
「カルチェ・ラタンでは、"HG"に―――僕の過去にケリをつける。障害は決して少なくない。ファン、モエ、サポートは頼む」
 いつもはサイジョウに向かって軽口ばかり叩いている二人が神妙な顔をして頷き返した。
「リョウコ」
 突然呼ばれ、リョウコは反射的に背筋を伸ばした。「はい」と返事する声も、少し上擦っていたかもしれない。
 サイジョウは、リョウコの赤い瞳を真っ直ぐに見つめ、ふっと表情を和らげた。

「ついておいで。君には見届ける義務がある」


            *


 とある、四方を鋼鉄で囲まれた部屋。
「盗掘屋って悪質なのね〜。もっとしっかり取り締まり考えなきゃだわ」
「企業秘密だから覗くなっつってんだろ」
 コンソールを相手に先程からかちかちと操作を繰り返しているハルトを、後ろから覗き込んだクリスが心底感心したように言った。
 無事なほうの右目にモノクルを装着して、先程からハルトは画面に向かっている。
「こうやってシャトーの端の遺跡も攻略したわけ?」
 何かを含むように笑いながらクリスがハルトの座る椅子の背もたれに腕を乗せた。
「………………黙秘権」
「なぁんだ。案外あっさりと自白してくれると思ったのに」
 どうやらハルトの余罪を探していたらしいクリスが、つまらない、と口を尖らせる。
「協力してる間は追求しないって言っただろうが」
「捕まえはしないって言ったのよ。共同戦線が終わったらどうかしらね〜」
「このっ……!」
「せいぜい頑張ってね〜」
 思わずハルトが振り向いたときには、クリスはもう既に部屋を出ようとしているところだった。
 そのうち、地下にあるこのコンピュータルームから、地上へ上がってゆく足音が遠のいていった。
「エーク、あれはどうにかなんないのかよ。このままだと例のドラッグの調査を終えた途端にお縄だぜ」
 再び画面に向かいながら、ハルトはげんなりと呟いた。ここのところずっとあの調子なのである。
 中断していた作業を続ける。
 部屋の隅で銃の手入れをしていたエークが、顔をあげずに「うむ」と一度だけ頷いた。無口な奴だ。
「そういえば、聞きたかったんだけど。なんであんたとクリスがコンビなわけ? なんとなくつりあい取れてないんじゃない?」
 最後のキィを叩き終え、ハルトは知らず知らずのうちに溜息をついていた。モノクルを外して立ち上がる。
 画面では、下から上へ向けて高速で文字が流れ、やがてメニュー画面に落ち着いた。これでデータが取得できる。
「彼女の父親が、俺の上司だった」
 ハルトが仕事を終えたのを見計らって、今度はエークが椅子に座った。別の端末を機械につけ、データを落とし始める。
「彼女の父親は教会の内部を探っていて、消された」
 エークの声には相変わらず抑揚がない。ゴーグルを模した義眼を画面に向けたまま、淡々と言った。
「……なるほど。彼女の教会嫌いはそういう一因もあるってわけか」
「俺は随分と彼女の父親に世話になった。初めは面倒を見るつもりでコンビを組んだが、なかなか楽しい。飽きがこない」
 ふっ、とエークが口元だけをかすかに緩めて笑った。
 飽きない。確かにな、とハルトは頷く。
「これは」
 しばらく画面を見つめて黙り込んでいたエークが、データを取得し終わったのか、端末を抜きながら呟いた。
「正規の手続きじゃないな。―――ハッキングに正規も何もないが。随分きわどい手法だ。今の盗掘稼業は皆このスキルを?」
 どうやらエークはクリスよりかは機械に強いらしい。ハルトは内心で「やばい」と呟いた。
 通常、遺跡と呼ばれる機械のデータを引き出すときは、もっともらしいデータを入れて、機械の思考を麻痺させる。
 "これは正規の手続きだ"と錯覚させる方法が一番確かだ。しかし、それにはかなりの時間を要する上に、小さなミスも命取りになる。
 今回ハルトが行ったのは、機械の抵抗を一切封じ込めてしまうという手法だった。完全に従順にしてしまう。この間手に入れたチップを利用して。
「いや、これは、俺よりもっとあくどい事してる奴から習った方法。盗掘稼業は今もこつこつと正規の手続きでデータの取り出しをやってるよ」
 それに、元々盗掘稼業というものはデータ収集が主ではない。その遺跡から発掘される化石、現在よりも更に高度な技術で保存されている過去の遺物。稀に見つかる貴金属、宝石などをやりとりしているものなのだ。機械関係のスキルは、主に閉ざされた遺跡に侵入するためのものである。
 遺跡の中に機械が発見されることは多々あるが、その中で無事に起動するものはほとんどないと言っていい。
 動くことは動いても、中のデータは消失している場合が多いのだ。なぜか。人為的なものを感じるほどに。
 それに、実は盗掘だけで生計を立てているわけでもない。遺跡は圧倒的に数が少ないし、中から見つかるものの質もばらつきがある。
 遺跡とはいうが、はるか過去に打ち捨てられた機械仕掛けの廃墟なわけで。そこに侵入するようなスキルを持っている人間たちは、総じて他のあくどいことにも手を染めているものなのだ。逆を言えば、その数々の仕事のひとつに「盗掘」というジャンルがあるだけの話。
 時には大規模な犯罪グループが「盗掘」に乗り出すこともあるが、それは稀だ。ハルトも、組織には属さず、その時々でパートナーを変えながら―――時にはひとりで―――仕事をしてきた。

 化石発掘に専念するには元手が足りなかったし、何より「神の船」を見つけたかった。
 時折聞こえてくる「神の声」の答えも知りたかった。
 その目的に添う方法が「盗掘」だっただけなのだ。

「あくどい?」
「……本人のためにノーコメントで」
 エークの"警備省的触角"が動いたのを感知して、ハルトはそれ以上、チップをくれた相手について語るのを避けた。
 ここで喋ってしまったところで、彼が警備省にすんなり捕まるとも思えなかったが。

―――これをあげよう。

 ハルトがゴルゴダを出る数日前だった。
 唐突に呼び出され、押し付けられたそれが、チップ。
 サイジョウ・ヒイラギは言った。"これで、遺跡内のデータはほとんど手に入るはずだよ"。
 遺跡の機械は、外部から侵入されたと感知すると、中のデータを飛ばしてしまう。それがどんなに高度な手続きであっても、間違いがなくても、だ。そう仕組まれているんだ。
 じゃあ、なんであんたは情報を知ることが出来るわけ?
 掌に乗せた小さなチップを見つめたまま、訊いてみる。
 するとサイジョウは、少し意地悪く笑って見せて言う。
―――君に特別に教えてあげよう。僕は機械と話が出来る。
 冗談めかして、そう言って見せた。
 冗談だろ? さぁ、どうだろうね。
 会話はそこで終わってしまった。


「さて。もうここに用はないだろう。出よう」
 機材をしまい終えたエークがすたすたと入り口に向かって歩き出した。
 ハルトは回想を終了させて、その背中について歩き出す。
「次に行く街はどこだったっけ?」
 階段を上りながら、ハルトはエークの背中に問い掛けた。
「ビレス。数年前、教会と小競り合いを起こした街だ」
 至極簡潔な回答が返ってきた。



2.

 白い部屋にいた。
 カーテンから、シーツ。天井の蛍光灯の色まで。
 純白の部屋にいた。
 部屋に二つほど並べられたベッドの横。パイプ椅子に腰掛けたままぼんやりと、窓から吹き込む風に揺れるカーテンを見ていた。
「眠ったら」
 ぽん、と後ろから肩を叩かれて、レイははっと我に返った。なんだか、起きたまま寝ていたような気がした。
 肩に置かれた、指輪のはまった大きな手を見、それを辿って相手の顔を見た。
「結局眠りもせずにぼーっとしてるんだもの。顔色も悪いし。ドクターストップね」
 レイの後ろに立ったJが、強い力でレイの肩を2度ほど揉んだ。痛くて、心地よかった。
「どうも、ありがとうございました」
 肩に置かれた掌から、何か暖かいものが染みてくるような気がした。
 凍り付いていた体が、溶けてゆくような。生き返るというのは、こんな感じだろうか。
「びっくりしたわよ。血相変えて飛び込んできて、"医者は!?"って」
 アベルの城から飛び出したレイは、結局Jを頼って69に駆け込んだ。Jに医者の居場所を聞こうと思ったのだ。しかし。
 当の本人が、「どこへ行けばいいの」と言い出したので、面食らった。
 ―――キアベルは、一命を取り留めた。今はしずかに眠っている。
 リラドは、城に着いたときにはもう既に、冷たくなっていた。
「でも、全く気づかなかったわ。考えてみればおかしいことだらけだったのに。リラドは、酷かったわね。あれじゃ、呼吸することも苦しかったでしょうに」
 相変わらずレイの肩にその大きな両手を置いたまま、Jが呟いた。
「あの火傷……なんだったんでしょうか」
 レイの脳裏に、黒いフードから開放されたキアベルの顔が浮かんだ。
 顔の半分が、醜く焼け爛れたその顔。しかし、火傷はそこだけではなかった。
 傷の手当てのため、服を脱がしたJが息を呑むほど、体中のいたるところに火傷の痕があったのだ。
 全身に纏った黒いローブは、正体を隠すためだけではなく、その火傷を隠すためでもあったのだろう。
「あれは、リラドに殺されかけたときのものでしょうね。リラドがキアベルに火をかけたっていう噂があったもの。だけど、次の日には死体が消えていたっていう噂。はじめはワタシも信じてなかったわ。よくあるじゃない、死体が消えるっていうオカルトチックな話。そういう根も葉もない噂だと思ってた。でもそうね、考えてみればそうかしら……。葬儀の棺に死体がなかったって聞いたもの。でもまさか、生きているなんて」
 私が逃がしたのです。
 憔悴しきった様子で、ノーマが言った。
 私がキアベルさまを、カインから逃がしました。
 余りにも哀れでならなくて。生き延びて欲しいと願いました。
 しかしそれが、こんなことになるなんて……。

 遠い地で生き延びるはずだったキアベルは、この街へ帰ってきた。
『久しぶりだね、と、フードを脱がれた瞬間のことを、私はおそらく一生忘れないと思います。―――恐ろしかった』
 全身を黒いローブに包んだ謎の人物を簡単に雇い入れたのは、ノーマだった。
 キアベルは彼女に自らの正体を明かし、協力をさせていた。
 思い出せば思い出すほどやりきれない気持ちが胸の内で増殖する。
 レイは重い頭をくたりと前に倒して、白い床を見つめた。
「落ち込むのも分かるけど。レイちゃんは何も悪くないのよ」
 ばしっと強い力でJがレイの背中を叩いた。
 背中が赤くなってるだろうな、と思いながら、これが彼なりの励まし方なんだろうと、レイは俯かせた顔をあげた。
「でも、Jさんが医者だなんてびっくりしましたよ」
 本心から、レイは言った。
 キアベルが一命を取り留めたのも、Jの迅速な対応があったからだろう。
 普段の彼からは想像もつかないほど、その手際はよかった。
「あら、ヒイラギちゃんから聞いてたんじゃなかったのね」
 いいえ、とだけレイは答えた。とても、「スキンヘッドの怪しい男がやっているバーが"69"」と説明されたとは言えなかった。
「ワタシの本業は医者。酒場は情報収集みたいなものかしら。まぁ、楽しいけどね。元々は教会の研究所で研究していた身だから、純粋な医者とも少し違うのかもしれないけどね」
「教会の研究所?」
 レイは、部屋の隅に置かれたポットの近くでお茶の準備をしているらしいJを肩越しに振り返った。
「そう。研究機関としては最高峰の、ね。昨日酒場で会ったアースって男も、ヒイラギちゃんも、同期よ」
「サイジョウさんも……?」
 頷きながら、Jは紅茶のカップをレイに差し出す。
「ワタシは医学、アースは生命工学、ヒイラギちゃんは機械の専門だけれどね」
 何かを懐かしむような、少し遠い眼差しでJは風にたなびくカーテンの向こうを見た。
「3人とも、ひとりの博士の下で勉強していたのよ」



3.

「……なんなんだ」
 ハルトが言った。
「さぁ。知らないわよ」
 隣に立つクリスが、憮然と言い返した。
「何人目だ?」
 ちらりとハルトが赤い瞳でクリスを見下ろす。
「これで4人目よ。いいのかしらね、公務執行妨害でしょっ引いてもいいのよ」
 クリスはその青い瞳で真っ直ぐに前を見たまま、硬い声で返した。胸の下で腕を組んでいる。
「……そもそも、お前たちのその態度にも原因があるとは思わんのか」
 好戦的な雰囲気を前面に押し出しているふたりに、少し後ろでエークが呆れた様に溜息をついた。

 あれから3日。
 ハルトはクリスらと共にビレスに到着した。
 オゼとは違い、元々大きな町で、果樹栽培が盛ん―――とはいえ野生ではなくクローニングで人工的に作り出したものだが―――で、ワインが有名だ。
 しかしなぜか、街の雰囲気は沈んでいた。というより、なにやら物騒な空気が流れている。
 投げやりというのか、気が立っているというのか。
 そんなこんなで、ハルトたちは街に入ってから合計4度も、明らかに「ならずもの」といういでたちの男たちに、些細な理由で絡まれ続けているのだった。
(まるで八つ当たりでもしてるみたいだな)
 足を踏んだだの、肩がぶつかっただの、そんな些細な理由で突っかかってくる。それはまるで八つ当たりだと、ハルトは思った。
 今も、目の前に4人ほど、いかにも腕に自信ありという男たちが口元に薄ら笑いなど浮かべて立っている。
(そもそもこいつが前方不注意なのがよくないんだ)
 言葉にはせず、ハルトはちらりと隣のクリスを見た。
 言いがかりをつけられた4回とも、原因は彼女なのだから。

「お嬢ちゃんが粋がって。痛い目見たって知らねぇぞ」
 言いがかりをつけた男が、クリスにむかってそんなことを言った。
(……あーあ。地雷踏んだな)
 ハルトは同情した。勿論目の前の男たちに、である。
 クリスは無表情のままつかつかと目の前の男に向かって歩いてゆく。
 その突然の行動に戸惑う男の鳩尾に、一発。拳を埋めた。
「だれが、お嬢ちゃんだって? ボウヤ」
 口元に残虐な笑みすらひらめかせて、クリスは低い声でそう言った。
 男はそのまま、後ろにどさりと倒れた。
「……だから、先に手を出すなと言っただろう」
 後ろのほうで、エークが頭を抱えて嘆息する。
 喧嘩というものはそもそも、先に手を出したほうが悪いのである。
「じょ、条件反射よ」
 少しばつが悪そうに振り返って、クリスが言った。
「本当にお前、27なのか?」
 疑いのまなざしでハルトがクリスを見やる。
「失礼ね! 27と5ヶ月よ!」
「何をしている、お前ら!!」
 不毛な言い合いを引き裂いたのは、男の声だった。その声が響いた途端、目の前のごろつきどもが急に落ち着かないそぶりをし始める。
 壁のように立ちはだかる3人の男たちを掻き分けるようにして、ひとりの男が顔を出した。
 年の頃は初老といっても構わないだろう。頭髪は白く、体は痩せていたが、目が異様に力のある男。
「親父さん……」
「またお前か」
 クリスの一撃で地に伏した男が、現れた老人を仰いで情けない声を出した。老人は深い溜息をつく。
「見たところ、旅の方のようだが、迷惑をかけたようだな」
「いや……」
 この通り、と頭を下げる老人に、ハルトは困る。どっちかというと、こちらのほうが加害者になるのではないだろうか?
「ビレスで何が起こっている」
 口を開いたのはエークだった。相変わらずの無表情のまま、老人と向き合う。
「前にきたときは、このような物々しい雰囲気ではなかったはずだが」
「"何が"だって!?」
 叫んだのは、まだ地面に座り込んだままの、あの男だった。
「投げやりにならずにいられるか、これが! あの女、どういうつもりで……」
「ビッド!」
 喚く男の言葉を、老人が鋭く制した。
「あの女?」
 それを聞きとがめて、ハルトがくりかえした。
 老人は、言いにくそうにハルトの赤い瞳から僅かに目を逸らす。
「ええと、よかったら聞かせて欲しいんだけど。この街で何が起こっているかの現状把握が出来ないと、動きにくいから」
 動いたのはクリスだった。胸元から警備省のIDカードを抜き取り、さらす。
(嘘だ。絶対好奇心だ)
 ハルトは決め付けた。クリスはただ、任務でもなんでもなく、この町で何が起こっているのか知りたいだけなのだ。職権濫用もはなはだしい。
 しかし、老人はそのIDカードに僅かに目を見開くと、くるりと踵を返した。
「ちょ、ちょっと……」
「ついてこい」
 一言だけ残して、老人はすたすたと歩き出した。


            *


 オルウェン・ドーソンは、自分の研究室で機械の端末に向き合っていた。
「それで、お前は今どこにいる」
 机に頬杖をつき、やや斜めに画面を見やる。明らかに気乗りのしない体勢だ。
≪カルチェ・ラタンに戻る途中だ≫
 相手は、至極さっぱりと言った。
 正確には、答えになっていない。自分は「どこにいる」と聞いたつもりなのだが、とオルウェンは思った。
「それで、お前が珍しく通信を入れてきた用件は?」
 画像があまりよくない。ちらちらと揺れる相手の酷くカラフルな髪が、目に痛い。
 紙コップに入ったコーヒーを口元に運びながら、訊いた。
≪お前が参っていないかと思ってな≫
「何?」
 訊き返したのは、聞き取れなかったからではない。相手が言っていることが、信じられなかったからだ。
 唯我独尊。彼をあらわす四文字熟語なら、それ以外思い浮かばない。アース・フィラメントとは、そういう男だ。
 5年程前、オルウェンがこの研究所にやってきたときには、もう既にトップを張るほどの実力を誇っていたが、その性格のおかげで敵が多い。
≪聞いたぜ。お前の"お嬢様"、今里帰りしてるそうじゃないか≫
「……お前はどこからそういう情報を仕入れるんだ」
≪情報網は公開しないことにしてる≫
 ああそうかよ、とオルウェンは吐き捨てた。こいつと話をしていると、本当に疲れる。
≪HG。名前ぐらい、お前も知ってるな≫
 オルウェンは、二度ほど瞬いた。アースの急激な話題転換には、もう慣れたつもりだったが。
「通称ヘヴンズゲートか。お前の大嫌いなドラッグじゃないか」
≪急激に広まりつつある。特に、カルチェ・ラタンから遠いところから、だ。そっちの様子はどうだ≫
「いや、一週間後に控えた例の処刑問題以外は、静かなものだ。HGが出回っていることすら、俺の耳には入ってきていない」
 そうか、と頷いたきり、アースは何かを考えるように黙り込んだ。
≪……西の大将に何も動きはないのか?≫
「アンティクリスト閣下、か。特には」
≪おかしいな≫
「何がだ」
 アースは答えなかった。俺の読みが間違ってるのか、とぶつぶつ独り言を繰り返している。
≪まぁ、あいつの父親じゃ、そう簡単に尻尾も出すまい≫
 独り言の最後にそう繋げて、アースは一人で納得したようだった。
≪じゃあ俺の用は終わりだ。邪魔したな≫
「待て、アース」
 通信を切ろうとしたアースを、オルウェンは反射的に呼び止めた。そんなことを言っても、どうせ通信を切ってしまうのがアースだから、あまり期待はしなかったのだが。
≪なんだ≫
 珍しく、アースは素直に引き止められた。
「前から一度、訊こうと思っていた。HGとは何のためのものだ。―――いや、正確に言えば、"HGの元になった、お前の師匠が作り出した薬品"は、一体……」
≪オルウェン≫
 アースは珍しく真顔だった。感情の一切浮かんでいないその顔が、何故だか恐怖を呼び起こすほどの威圧感を持っていて、思わずオルウェンは黙った。
≪世の中にはな、知らないほうが倖せでいられることがごまんとあるんだ。自分から不幸になろうとするな≫
 言ってから、アースは口元にいつもの人を小ばかにしたような笑いを浮かべた。
≪全ては今の状況が笑い話になってから訊け。そうなってからなら、俺はいくらでもお前に話してやるさ、あのクソジジイのことなんてな。俺は今の状況を笑い話にするために、忙しく飛び回ってんだぜ。後悔したくねぇからな≫
「アース……」
≪だからお前も、後悔しないように好きなことしな≫
 ぷつり。
 通信は途絶えた。


 オルウェンは、しばらく呆然と、画面の中の砂嵐を見つめていた。
(お嬢様、あの街は―――)
―――お前の"お嬢様"、里帰りしているそうじゃないか。
(あなたの故郷は、あなたの癒しになりますか)
 答えはおそらく、否、なのだろう。
 それでも彼女が―――ジャンヌ・ビレスがここを離れたのは、疲れていたからなのだろう。
 あと一週間後に控えたミンスター大学の教授及び学生の処刑には、批判の声が多い。
 しかし彼女がその批判の声に傷ついたのではないことを、オルウェンは知っている。
 その処刑を決定したのが、ラジエル・エレアザール大司教であること。
 それを見届けることがとても出来ないのだろう。自ら「捨てた」と言う故郷に戻るほど。

 オルウェンは、眼鏡を抜き取りデスクに置くと、端末の電源を落とした。


             *


「この街が自治権を失ったのは、5年程前のことだ」
 老人―――ガルノフはそう始めた。
 場所は、ガルノフが切り盛りする宿屋の一室である。
 ベッドの横や窓際、入り口の傍の壁など、その部屋にいる各々は、各々の体勢でその話に耳を傾けた。
 部屋の中央あたりに据えられたテーブルについたガルノフは、視線を斜め下、白いテーブルクロスに落として淡々と言葉をつむぐ。
「それまでビレスは、完全な自治領だった。教会の影響を受けない―――な。しかし教会はあの通りだ。強力な正規軍に物を言わせ、数々の街を制圧し、自治権を奪い取る。ビレスがその標的になったのも、当然といえば当然だな」
 窓枠の傍にもたれかかったハルトは、懐から取り出した煙草を銜え、火をつける。
「5年前だ。大規模な衝突が起こったのは」
「ちょっと待ってよ。何の理由もなしに、教会が正規軍を動かせる? その上侵略なんて、許されないわよ」
 ベッドの横に腰掛けていたクリスが口をはさんだ。
「理由は簡単だ。"異端審問の結果"」
「馬鹿げてるわ。自治権をもつことが異端だとでも言うの」
「城の地下に祭壇がある。それが悪魔を呼び出す……という理由だったかな」
「呆れた……」
 そんなもの、こじつけた理由ではないか。結局は、この町を制圧下に置きたかっただけに他ならない。
「だが、元々ビレスは自治領だからな。独自の騎士団を持っていた。実を言うと、わしもこのビッドも、騎士団の出身でな」
 思わずハルトが老人の後ろに控えたビッドを見ると、彼は照れくさそうに視線を外した。
「むざむざ城を明け渡すほど、騎士団は弱くなかったさ」
「弱いどころか!」
 突然ビッドが声を荒げた。押さえても押さえきれない激情がふつふつと湧きあがったようだった。
「押し返していたんだ! あと数日持ちこたえれば、奴らは食料が切れて引き返した。絶対にそうだ! それを、それをあの女が―――」
 あの女? 紫煙を吐き出しながら、ハルトは僅かに眉根を寄せた。まただ。
 一体どんな女が何をしたというのか?
「……その、さっきからあんたが言ってる、"あの女"って誰なのよ」
 いい加減痺れを切らしたらしいクリスが、据わった目でビッドを睨んだ。先程のクリスの一発がよほど聞いたのか、ビッドは反射的に鳩尾をかばう。
「地位欲しさに、父親を人質に取った悪魔さ。正規軍内の地位を得るために、城の秘密通路から正規軍を導き入れた。この街を売った―――」
「領主の娘だ。領主を裏切り、正規軍を城に入れる手引きをした。それが理由で、ビレスは落ちた」
 感情論に走るビッドの言葉の残りを、ガルノフが引き取った。
「信じてたんだ、俺はっ! 気高くて、剣の腕も男に劣らない。あのひとと同じ騎士団でいられることに、誇りすら持っていた。なのに……」
 両手で顔を覆い、がくりとビッドはうなだれる。
「優秀な方だった。ただの領主の娘に甘んじることのない、な。だから、街の人間は彼女を恨まずにはいられんのさ。かけていた期待が大きい分―――。その領主の娘が今、この街に戻ってきている。だから、騎士団崩れの男どもはこんなふうに、投げやりにならずにはいられんのさ」
「領主の……娘」
 クリスが、口の中で小さく繰り返した。
「今は、正規軍の東軍大佐という大層な地位についているらしい」
「なんだって?」
 聞き覚えのあるその肩書きに、思わずハルトが身を乗り出した。ガルノフは穏やかな目でハルトの方を見てから、言った。
「名はジャンヌ―――ジャンヌ・ビレス」



4.

―――本当に飲み込みが早いですね、ジャンヌ様。
―――ねぇ先生、私、騎士団に入れるかしら?
―――騎士団、ですか? ジャンヌ様、あなたは領主のご息女なのですよ。そんな危険な……。
―――私、この街が好きなの。自分で守れるなら、それほど素敵なことはないわ。

 窓の外。眼下に広がるビレスの街並みを見下ろして、ジャンヌはゆっくりとその銀の双眸を閉ざした。
 街は、領城を中心になだらかに下っている。
 幼い頃から見慣れてきた風景が、なぜか少しよそよそしくて、ジャンヌは知らずに笑ってしまった。
 昔もこうして2階の窓からよく、街を眺めていたものなのに。
(私は、こんなにも遠く離れてしまった)

「ジャンヌ、お茶にしましょう」
 背中にかかったやわらかい声が、ジャンヌを現実に引き戻した。
 振り返ると、穏やかな笑みをたたえた母が、自ら紅茶の準備をしている。
「母上、私が……」
「いいのよ、ジャンヌ。―――いいの」
 慌てて代わろうとするジャンヌを手だけで制し、娘の二の腕あたりを両手で掴んで、ソファーに沈ませた。
「この家にいるときは、貴方は正規軍の大佐でもなんでもなくて、ただの私の娘なのだから。過保護にさせてちょうだい。5年分」
 やさしく、けれども有無を言わせぬ強さで母―――カトレアは娘をなだめた。
「母様……」
 ジャンヌは思わず、幼い頃のように母を呼んだ。カトレアはそれに少しくすぐったそうな顔をする。
 しばらく室内には沈黙が満ちた。
 かちゃかちゃと母が紅茶の準備をする音だけが聞こえる。

 昔から。
 普通なら、メイドにやらせてしまえば済むようなことを、母は自分からやりたがった。
 料理が好きで、一人娘に甲斐甲斐しく菓子を焼き、お茶を淹れた。
 それはなんとありふれた、そして贅沢なしあわせだったのか、今になって沁みるのだ。
 今になって。

「ジャンヌ、ごめんなさいね」
 紅に近いほど鮮やかな紅茶をジャンヌの前に置き、唐突にカトレアが言った。
 口元には穏やかな笑みが浮かんでいるが、声は少し震えていた。
 え、とまるで幼子のように聞き返した。"ごめん"?
「貴方が身を呈して守ってくれなかったら、私たちはきっと死んでいたんでしょうね。けれど……」
「母様」
 少し強い声で呼んだ。それ以上は、言ってくれるな。
「貴方に甘えたのよ。まだ19だった貴方に。そして今も領民に弁解すら出来ないの。私たちは生き残るために、貴方を売」
「母様、やめてください……!」
 ジャンヌは思わずソファーから立ち上がった。テーブルに膝が当たり、ティーカップから紅の茶があふれた。
「つらいなら」
 すぐ傍に立ったままだったカトレアが、ジャンヌを見上げて笑う。その目元がうっすらと光って、ジャンヌは眩暈すら覚えた。
「いつ戻ってきても、構わないわ、ジャンヌ。貴方はお父様と、私との大事な娘ですもの。街の人々だって、お父様が弁解すればきっと分かってくださるわ」
「……父上に、そんなことを、させたく、ありません」
 そして、果たして分かってもらえるだろうか、とも思う。
 たとえ、民から好かれる領主の言葉だろうとも。娘を庇ったようにしか見えないのではないだろうか。
「私はもう、決めたのです。5年前に。自らの、生きる道を」
 急に。
 目の前の母の顔が歪んで。慌ててジャンヌは目を逸らした。
 噛み締めた口唇の奥で、かたかたと歯が鳴った。
 どうして。

 唐突に。
 立ち尽くすジャンヌを何かやわらかいものが抱いた。
 幼い頃から、物心すらつかぬ頃から知っていた、母の腕。
 何も言わず、カトレアは強くジャンヌを抱いた。
 こらえ切れなかった雫が重力に引かれて頬を滑って落ちた。
 無意識に抱き返そうとする腕を、押しとどめる。
(私はこの街を売って、捨てた)

―――私は一度も。

 嗚咽がこぼれそうに鳴る口唇を噛んで、あふれそうに鳴る言葉を殺した。
 記憶しているよりも、幾分か硬い母の体に、胸の奥だけで呟く。

―――5年間一度も、この街のことを忘れた日はありませんでした。

 幼い頃から、ずっと私の剣は、この街を守るためだけにあったのに。


―――しばらくカルチェ・ラタンを離れるかい?
 穏やかな声でそう促したのは、10ぐらいにしか見えない、愛らしい顔をした少年だった。
 その言葉に何故あんなにもほっとしたのだろう。
 私は彼を嫌ってはいなかったか? 自分よりも高い立場にありながら、幼くてあまりにも無邪気で。
 自由すぎて。
 妬ましくはなかったか。
 そんな男の言葉を、上官の助言だからとすんなりと受け入れたのだろうか、自分は?
(違う)
 そんなに器用にはできない。
 きっと。
 いつもは幼いその瞳が、自分と同じように傷ついていたからだ。
 あの人の、出した答えに。

 それでも、私は我儘だ。
 促されるままに逃げてきても尚、傷ついているのだ。
 もはや既に、捨てたはずの過去に。


            *


「ジャンヌ・ビレス。正規軍東軍大佐。24歳」
 クリップでまとめた資料を片手に、クリスが室内をうろついた。
「銀髪に銀の瞳の女性。剣の名手として知られている。あまり表に現れない東軍大将ミカエル・シャイアティーンより、東軍の全権を託されることも多く、同大将よりも東軍の顔として知られている。その怜悧な美貌から、戦女神と名高い―――まぁ、美人は美人よね」
 最後はクリスの個人的な感想だ。
「確かにな」
 部屋の中央に据えられた会議用の色気も何もないテーブルについて、ハルトが同意する。
「なんだ、見たことあるんだ?」
「見たことあるも何も……」
 げんなりと、ハルトは言った。
 思い返せば、彼女には痛めつけられた思い出しかない。
 極端に整った顔立ちは、人形か何か、作り物めいた印象しか与えてくれなかった。
「ああ、そっか。あんた、異端審問の結果、お尋ね者なんだものね」
「さらりと言うな」
「事実でしょ。認めなさい」
 クリスは、機械から吐き出された紙をホチキスでぱちんと束ねると、ハルトの前に投げ出した。
 彼女と口喧嘩をしてもしょうがないので、黙る。逆切れされて困るのはこちらだし。知り合って一週間も経たぬうちにそこまで相手の扱い方を悟ってしまうのはいかがなものか。

 ビレスの端にある、警備省支部の一室。
 先程からクリスはくるくると資料集めに忙しい。
 ハルトはというと、することもなく同じ部屋で2杯目のコーヒーを飲み干したところだった。
「いい? 読み終わったら、シュレッダーにかけてよ」
 何の前触れもなしに目の前に投げ出された資料の束。なんだ、この資料は俺に差し出されたモンなわけ?
 一瞬何のために渡されたものか分からず―――そもそも目の前に投げ出されたのだし―――その資料を手に取って、うわ、とわけもなくうめいていた。

 出生地や正式な生年月日等は不明。現在50代と思われる。
 資産家の養子として育ったといわれるが、定かではない。
 正式に公的な文書に名前が現れるのは、カルチェ・ラタンでも1、2を争う有名大学サン・エノクで助教授として神学の教壇に立ったときである。
 その後、正規軍の数々の要職を経て、現在は西軍大将として実権を握る。
 過去、教会に背いたものや公人の暗殺などで、彼が絡んだと囁かれるものはたくさんあるが、どれひとつとして確証のあったものはない。
 身体的特徴としては、黒髪に濃紺の瞳で、身長は170後半と見られる。

「……ランドウ・アンティクリスト」
 書類の冒頭に書かれている名前を、ゆっくりとハルトは読んだ。
 クリスに協力する代償として、情報提供を依頼した。レイの消息と、それからこの男の、経歴。
「これ、シュレッダーにかけるほどのモンか?」
 2枚目3枚目とめくったところで、有益な情報は何も得られなかった。写真が幾つか並んでいるぐらいの。
 何度かめくったところで、ハルトはそれをテーブルの上に投げ出した。
「調べたって言う事実が問題なのよ」
 もういいの? とクリスが目線で訊いた。答えることすら億劫だというように、ハルトはその書類を指先でクリスの方へ押しやった。
「間諜行為だと思われたら厄介なわけ。教会と警備省、仲悪いけど、表立って対立するのは避けてるんだから」
 クリスは資料から几帳面にホチキスの針を外して、部屋の隅に置いてあるシュレッダーにかけた。
「でも、その西の大将は、正規軍の中でも特別よ」
 細い麺のように機械から吐き出される資料の末路を見守りながら、クリスが言う。
「あれぐらい情報が流れてこない人も珍しいわ」
「へぇ?」
「"猊下"並よね」
「―――猊下? ラジエル・エレアザール?」
「そう。でも最近、ちょっと妙なのよ。なんというか、活動的っていうか。今まで彼、全くといっていいほど表に現れてこなかったのに」
 新たに吐き出された書類をまとめながら、てきぱきとくるくるとクリスが動く。
 小柄なおかげで、まるで小動物のように見えて、ますます27歳と5ヶ月だとは思えなくなってしまう。
「今、カルチェ・ラタンは揺れてるわ。知ってる?」
「揺れてる?」
「そう。あと一週間もないわね、ミンスター大学の教授と学生が、ラジエル・エレアザール大司教猊下の名前で粛清される」
「なんだって!?」
 思わずハルトは腰を浮かした。
 最近はとんと情報に疎かったが、そんな大きな情報を見逃していたとは。
 教会の名で人間が粛清―――つまり、処刑される。
 今まで、粛清は全く皆無ではなかった。教皇の暗殺を企てたもの、教義に異を唱えたものなど、信仰の名の元に生命を奪われたものも多い。
 しかしそれは、ある程度納得のいく理由がついていた。
 が、カルチェ・ラタンが揺れている、ということは……?
「理由は……?」
「ガイアズメール研究」
「……"だけ"か?」
「"だけ"、よ」
「まさか」
「だから、揺れてるのよ」
 学問の自由は、認められているはずだ。
 きわどいテーマは、研究者のほうが避けるだけで。
 学問すら上から押さえつけるというのは、一体どういうことなのか?
「変なのよ」
 コーヒーメーカーから自分のぶんだけコーヒーを注いで、クリスが眉根を寄せた。
「最近、教会内部……というより正規軍内部が、少しおかしいのよ」



5.

「これ、は?」
 目の前に立ちはだかる、鈍い銀の壁を見上げ、リョウコが呟いた。
 岩壁に取り囲まれた空洞に、照明は一切ないのに。目の前の壁が発するほのかな光で、周囲はぼんやりと明るい。
 バベルにたくさん存在する坑道のひとつを、奥へ奥へ。下へ下へと降りた先の巨大な空洞に、その壁はあった。
 縦横4メートルほどあるその鋼鉄のプレートは、真ん中あたりで横に一本、線が入っている。

 ここは坑道だ。元々、土の中に埋まっていた場所だ。
 あたりはごつごつとした岩ばかりで、その側面に貼り付けられたような鈍い銀の壁は、人工的で不自然で、違和感すら覚える。
「この街は、今は廃墟だけど」
 扉の右横にある小さな操作パネルへと歩きながら、気合十分のサイジョウが口を開いた。
「はるか昔、"反乱"の拠点だったんだよ」
 そのパネルの上を、サイジョウの指が撫でるように辿った。まるで、触れていないかのような。
 がこん、という音のあと、銀の壁が真ん中の線から上下に"分かれた"。
 そこで始めて、目の前の巨大な違和感が、扉であったことに気づく。
「反乱の拠点にするには、ここは中央から離れすぎている。だから"これ"があるわけだ」
 扉が完全に開かれた向こうには、何かカプセルのような細長い機械が一台、置かれている。列車一両ぐらいの大きさはある。
 まるみを帯びたその物体。今まで見たことのあるどれとも違っていた。
 呆然とそれを見つめるリョウコなどには構う様子もなく、サイジョウの背中はその機体に近づいてゆく。
「普通の機械と同じようにメンテしましたけど、動く気配ないですよ、これ」
 まだ眠そうに目をこすりながら、ファンが言った。
 先程食堂で彼が言っていた「あれ、本当に動くの?」の"あれ"は、この機械のことなのだろう。
「普通の人が、普通に起動しようとするなら、多分動かないね」
 見様によっては巨大な卵にすら見えるその機体に撫でるように触れながら、サイジョウが事も無げに言った。「ロックがかかってるから」
「これ、なんですか?」
 何か獰猛な獣に触れるときのように、恐る恐るリョウコがそれに触れる。つめたかった。
「空間転移装置」
「……え?」
 訊き返した。うまく、意味が伝わってこなかった。
「つまるところ、転送機、かな。ワープする機械。まだ宇宙船の原理が封印されていない頃の遺物とでもいえばいいのかな。離れた場所に短時間で移動するための手段」
「……宇宙船の技術が封印されていない頃、って。何千年も前の話だって言ってましたよね? そんな昔のものが、まだ動くんですか?」
 栗色の髪を綺麗にまとめ上げた、"戦闘モード"のモエが、訝しげにその機体を眺める。
「考えてもご覧よ。まだ遺伝子通信は動いてるんだよ。この機体も壊れていないから、大丈夫。ただし、これは"反乱軍"の最高機密だったから、最後まで厳重に隠されていて、ロックも厳しいけどね。でも、ロックぐらいなら何の障害にもならないことを、君たちは知っているだろう」
 そう呟くサイジョウの蒼の双眸が、絶対零度の光をたたえている。それは、胸の内側に一瞬にしてつめたいものが広がるような、そんな強さをもった光だった。
 ぞっとする。

 サイジョウは、その機体に左手を触れさせたまま、一度だけゆっくりと目を閉じた。それはもしかしたら、ただの瞬きだったのかもしれない。それほど、何一つとして特別なことはしなかった。
 ピピ、と、普通ならば聞き逃してしまうような小さな電子音のあと。
 機体の中央あたりの一部分が、静かに上に向かってめくれあがった。まるで鳥が、ゆっくりと片方の羽根を広げるような動作だった。
 入り口。
 目が乾いて痛むほど、瞬きを忘れてリョウコはそれを見た。
 開かれた先は闇。ぼんやりと浮かび上がる内部もまた、たくさんの端末やパネルで埋め尽くされている。
 これが、"遺物"―――。
 遥か太古の産物だというのか。
「多分、カルチェ・ラタンまでなら2時間かからないよ」
 宣言して、何の躊躇もなくすたすたと、サイジョウは機体の中に入ってゆく。
 2時間? 陸路を使えば1週間ほどかかるというのに?
 やがて、内部の照明が点いた。おそらくサイジョウが操作したのだろう。"彼の方法"で。

―――僕は昔、教会の研究所にいた頃、実験のサンプルにされたことがある。
 知っていた。
―――簡単に言えば、"機械と話が出来る"とでも言えばいいのかな。
 知ったつもりになっていた。けれど、この目で目の当たりにするまで、決して自分は信じてはいなかったのだと、リョウコは気づいた。
 彼の能力を。
―――いかなる状況においても、機械の中枢と直接コンタクトできる。ロックもパスも関係ない。ある一定のレベルまでなら、無条件に支配下におくことも可能だ。そういう"もの"が、体の中に埋まっている。
 自らの掌を見つめて、苦笑交じりに言ったサイジョウの言葉が、耳元で回った。

―――だから僕は、全てを知ることが出来たんだ。


            *


 どろどろと遠くで雷鳴が轟いている。
 先程から、何度も。
 見上げた空は低く、灰色で重たい。
「雨になるな」
 普段どおりの至極簡潔な調子でエークが言った。別に雨になろうと構わない、という口調だ。
「雨か。面倒だな。なぁ、宿に戻」
「却下」
 先頭をすたすたと歩くクリスがにべもなく切り捨てた。
「往生際悪いわよ。大丈夫だって言ったでしょ」
 石畳をヒールの踵で打ちながら、クリスはなだらかな坂を上ってゆく。
「大丈夫なもんかよ、次会ったら間違いなく殺されるって言ってんだろ」

 一行が目指しているのは、何を隠そう丘の上の領城である。
 ビレス領内の遺跡を調査するには、領主の許可が必要だということで、ハルトも引きずられてきたのだが。
 先刻からまるで子供のように、ハルトは駄々をこねていた。
 つまり、会いたくないのである。領城にいるであろう、ジャンヌ・ビレスに。
 何しろ斬りかかられ、剣の柄で頬を殴られと、痛い思い出しかないのだ。
「大丈夫よ。ここにいるってことは、休暇中のはずだもの。休暇中に手を出したらそれはただの私闘だからね。私がばっちり逮捕してあげるわよ」
「……手を出された結果俺が死んだらどうしようもないと思わないか、お前」
「あら、そんなにすぐ死ぬの、あんた」
「殺されたら死ぬぞ、普通は。人間だからな」
「そう」
 取り付く島もない。
 速度を緩めずに―――むしろもっと早足で―――クリスは坂を上り続ける。
「覚悟を決めておいたほうがいい」
 隣のエークが抑揚のない声で、容赦のないことを言った。
「ああなると頑として譲らんぞ」
 抑揚や感情をはさまない分、その言葉は冷静で真実味がある。ハルトは溜息をひとつ吐き出して、肩を落とした。
 これはもう、諦めるしかなさそうだ。
「……お姉様なら少しは年下に譲れよな」
「何か言った」
「いーえ。何でもございません」
 ぐるり、と振り向いたクリスから目を逸らし、あまり誠意のない口調で言った。

「とにかく、俺は領城には入らんぞ。庭は一般に開放されてるっていってたよな。庭で待つ」
「そのぐらいで妥協したらどうだ、クリス」
「……仕方ないわねー……。それでいいわ」
 領城の門が見えてきたあたりで、ようやくクリスは譲り合いの精神を思い出してくれたらしい。
 ほっと人知れず胸を撫で下ろすハルトの耳に、信じられない言葉が飛び込んできた。
「つまんないの」
 それはまるで、楽しい遊びを途中で邪魔された少女の言い草だ。
「……お前な、嫌がらせしてんのか?」
 ひと一人の生命がかかってんだぞ。
 返事は返ってこなかった。


            *


 広い前庭の中央あたりに据えられた噴水は、今は沈黙している。
 どうやら一定の時間に噴きあがるもののようだ。
 噴水の傍に据えられているベンチで、ぼんやりとしていると。
 ぱつ、と頬に一瞬だけ冷たさが落ちてきた。
 ふと我に返って、鏡のように静まり返った噴水の水面を見た。
 そこに、小さな波紋がひとつ、ふたつ。
「うわ」
 波紋が少しずつ増えてくる。今度は額にも雫が落ちてきた。

 クリスたちが領城に入ってから、まだ10分と経っていない。
 ただ待っているだけなら1時間でもなんでもいいのだが、雨が降ってくるとなると話は別だ。
「なんだか、最近俺、ついてねぇよな」
 一瞬空に閃光が走り、少し遅れてどろどろと雷鳴。
 首を一度ぐるりと回してから、ハルトはベンチから立ち上がった。
 どこかで雨を凌がねば、と思っているうちに、頭や腕に雫が落ちてくる。
 こうなったら宿まで帰ってしまおうか、とすら思う。後でなんとでも言い訳すればいいだけだ。
 そうだ、決まったら帰ってしまえ。
 さっさと決定して、ぐるりと踵を返したところで、かつ、と硬いものが地面を蹴るような音が聞こえた。
 馬の蹄、だ。地を蹴る、馬の蹄の音。
 背中の左側、城の向こう側にある、丘のほうから。
 半分振り返った視界に、鮮やかな銀が揺れた。栗毛のしなやかな馬上にあるのは、黒衣に銀糸の姿だった。
 石畳に乗り上げると、ひらりと優美に地に下りた。
 城の入り口に近いところで、使用人と思われる男がその手綱を受け取る。
「……普通じゃねぇか」
 妙に呆気に取られてしまったのは何故だろう。
 手綱を手渡すときに不意に見せた表情は、柔らかい笑みだった。
 教会正規軍東軍大佐。その肩書きはあまりに大きく、任務中の彼女の表情はあまりに厳しい。
 だが、その任務を離れると、あまりに普通の貴族の令嬢ではないか。

―――領主を裏切り、正規軍を城に入れる手引きをした。それが理由で、ビレスは落ちた。

 悪魔とすら罵られる、領主の娘。
 本当に、彼女なのだろうか?
 いまいち信じ切れない自分がいる。
 顔を合わせたのは数度。その剣さばきは確かにうつくしく、任務に徹する態度は冷徹とすら感じるものの。
 芯の一本、通っている。そんな印象があった。
 裏切りや、策略とは無縁の、孤高の場所に立っている。
 自らの放つ、銀の光。それと同じように。

 街の教会が、正午を告げる鐘を鳴らした。
 その合図を待っていたかのように、目の前の噴水が勢い良く水を噴き上げる。小さな虹が出来た。
 扉の近くに立っていた華奢な人影が、背中まである銀糸を翻して、噴水を振り返った。
 クリスタルのような銀の瞳が、真っ直ぐにハルトを見た。






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