弟殺しの街
〜C〜



 お前だけが愛された。
 求められ、手を差し伸べられ、赦されてゆく。
 お前の光にかすむほど私は醜く、
 私の罪は、永久に赦されないだろう。

 何故お前だけが愛され、求められ、手を差し伸べられたのか。
 何故、その手は私には与えられなかったのか。

 何故―――。



1.

 砂塵が舞い上がる。
 頭の上からすっぽりと被ったフードさえ殆ど役に立たず、ばちりばちりと大きな砂粒が頬に当たった。
 荒地。そのような場所はたくさん通り過ぎてきたが、どこもここほどは酷くはなかった。遺跡だらけのバベルにすら似ていた。
 風を遮る木々はなく、吹きつける風に運ばれて砂埃が襲い掛かってくる。
 街の入り口の門まで辿り着いて、レイはばさりとフードを下ろした。
 庇ってはきたものの、砂を含んで髪はばさばさになり、舞い上がった砂の攻撃を受けた目は、恐らく充血していることだろう。

 地方都市ロレーヌから西に、鉄道で2日。列車を降りたところでもう既に目の前に広がるのは渇いた大地だった。
 そこからさらに駅から徒歩で1時間ほどでレイが辿り着いたのは、荒野の町「カイン」。
 門の前に立って目の前の街を見た。ここに向かう途中、幾度も聞いた不思議な光景が目の前に開けている。
 街の四方は3メートルはあろうかという壁で囲われていた。砂から街を守るためだろう。
 それは分かるのだが、何より奇妙なのが街を真ん中でふたつに分断する壁だった。
 街の周囲を覆うそれよりかは幾分か低いが、とても人が乗り越えられるような高さではない。
 門を入ったところでさらに、二つの入り口。ひとりずつ、道を塞ぐかのように頭からすっぽりとヴェールのようなものを被り、目だけを外に出した門番が立っている。砂から顔を守るためだろうか?
 入り口の前に立ったレイに、門番のひとりが話し掛けてきた。

「兄と弟、どちらを尊ぶ」
 うわ、本当に聞かれた、と思いながら、レイはとりあえず「兄」と答えた。
 すると向かって右側の入り口に立っていた門番がスッと横に退く。
 ヴェールで隠された口を動かし、少しくぐもった声を出して彼は言った。「カインへようこそ」。


―――カインは今、二つの街に分かれてるんだ。
 列車で乗り合わせたジャーナリストという職業の若者が言った。
―――門に立って、向かって右が「カイン」。反対が「アベル」。それぞれにふさがれてお互いの行き来はない。大きな壁で区切ってある。
 隣り合わせてるのに? お互いに行き来はない?
―――カインに入るつもりなら、門の前で「兄と弟、どちらを尊ぶ」と訊かれたら「兄」と答えるといい。


 そんな不思議な街が存在するのか、とレイはここに辿り着くまで実は半信半疑だった。
 しかし門の前に立った瞬間、自分の中の常識を超えるものは確かに存在することを再確認した。
 元はひとつだった街が、完全に真ん中の壁で二分されている。中に入ってみても、壁に抜け道などはなく、完全にお互いが孤立していた。
 とりあえずレイは、街を二分する壁に沿って、大通りを突き当りまで歩いてみることにした。

―――元々はひとつの街だったんだ。当時そこを治めてた領主が二人の息子にそれぞれ街の西と東を分けたことが始まりだ。
 ジャーナリストの言葉を思い出しながら、レイは真っ直ぐに大通りを歩く。
 地面は綺麗に舗装されているが、そこに書かれている道案内の文字が半分で切れている。
 恐らく切れた文字の残り半分は、壁の向こう側にあるのだろう。
 ここが元はひとつの街だったことをいやおうなしに知らしめるに十分な証拠。
『弟は容姿にも才能にも恵まれたできた奴だったらしい。普通は長男に継がせる街を二分してふたりに与えたのも、それが理由だって言われてる。だがそれがまずかったんだな。元々出来た弟に嫉妬していた兄が、嫉妬のあまり弟に手をかけた―――』
 こう、ぎゅっとな、と両手で首を絞める動作を実演しながら、ジャーナリストは言った。
 それで、弟は殺されたんですか? 気がついたら思わず聞き返していた。向かいの席に座ったジャーナリストは、神妙な顔でこくりとひとつ頷き、すぐに、だがな、と声を落とす。
『それが呪いの始まりだったのさ。元々あまり容姿に恵まれていなかった兄は、弟に手をかけた呪いとして二目と見られぬ姿に変えられたって言う』
 まさか。
『まぁな、俺もそんな現実離れした話を信じちゃいない。だけど、カインの側を治める兄貴って奴が、弟に手をかけてから一度も外へ出ていないって言う。街の真ん中に壁を作ったのも兄が弟の呪いを恐れたからだって言うし、まぁ、何かはあるんだろうよ。その噂を裏付けるものが……』

 突き当たりについた。見上げるのは灰色の高い壁。自然と溜息が漏れる。
 さて、これからどうするのだったかな。くるりと踵を返しながら考える。この街の"不思議"に興味をそそられないこともないが、目的はそこではなかった。
 ここは通過点だ。
 めざす先は、この世界の中心。カルチェ・ラタンという街。そこを目指す"相棒"。それと……。
 レイは、フードの上から左胸に手を当てた。服の内側のポケットにしまいこんだ、小さな紙包みに触れる。
 白い粉。
 ロレーヌ。己の師である男の故郷に、影を落としていた原因かもしれないもの。はっきりと確証はないが、何か粉が絡んでいる。
 ヴォルディモート教会を中心におこった猟奇殺人の犯人が持っていた粉。怪しげな黒服の男どもが、血眼で捜したアタッシュケースにぎっしりと詰まった、白い粉。
 偶然、なのか。どちらにしろ、今確かめる術はない。とりあえずできることは、示された場所へ向かうことだ。
―――スキンヘッドの怪しい男がやってる"69"っていうバーがあるんだけどね。そこに連絡入れておくから。
 ロレーヌで一度連絡をつけたサイジョウ・ヒイラギの言葉を思い出す。とりあえず目指すは歓楽街だろうか。レイはとりあえず空を仰いだ。
 四角い壁に切り取られたような空は晴れていた。しかし、吹きすさぶ風に砂が舞い、空の色はせいぜいくすんだ水色がいいところ。
 時折強くなる風になぶられて、金の髪が視界をさえぎる。ばさばさと、頬に触れると痛いほど砂にまみれていた。
 酒場が開くのは夕刻過ぎと相場は決まっている。それならばまずは今夜の宿を探すほうが先だろうか。
 とりあえず立ち止まっているわけにも行かないので、レイは歩き出した。大通りの次に広い道を折れる。
 風がひときわ強く吹いた。
「いたっ……」
 規格よりも少し大きめな"砂粒"が目に叩きつけてくる。真っ赤になっているだろう己の目を思い、レイは再び大きな溜息をついた。
 溜息ひとつで幸せが逃げると言ったのは、誰だったろうか。


            *


 重い目蓋を押し開くと同時に、後頭部に鈍い痛みを感じた。
 あー、と少し嗄れた声で唸る。開いた目蓋をもう一度閉じた。今度は目の奥が痛い。
 ここのところを象徴する四文字熟語を言えと言われたら、少し悩んだあとに言うだろう。「満身創痍」。
 痛い目にばかり遭っている気がする。
 伸びてきた黒の前髪が邪魔だ。右手を持ち上げて乱暴に掻き上げる。
 オゼの、あの悪夢のような夜から既に二日、経っていた。

 与えられた普通よりもきつめの睡眠薬。こみ上げる睡魔をちからづくで押し込めた弊害は、今も体に巣くっている。
 盗掘屋さんという、一般人から見たら「少々危ない」職業についていた分、一般人よりも余計に手に入れたものがいくつかある。
 修羅場をくぐるために、少々の薬物では動じなくなったこの体もそうだ。しかしそれを越える分量と強度だったらしい。"普通ならば手に入れなくてもいいもの"を持っていても、この程度か、と口元を歪めて笑った。

「目が覚めたのか」
 体の左側で音がした。目蓋を開けて目だけを動かして見るが、左側はよく見えない。左目は元のように眼帯に閉ざされていた。
 だが、声で相手がわかった。ああ、と応じる。無機質の、男の声だった。
「起きられるか」
 彼の声には抑揚がない。それもまた個性なんだろうなと思いながら、ハルトはゴーグルに覆われたままの彼の目を思い出す。ゴーグルをつけたままなのではなく、それが彼の目なのだという。早い話が、義眼だ。
「……悪いけど、上半身起こすのが関の山」
「そうか。ならばここにクリスを呼んで構わないな」
「どうぞ、ご自由に」
 答えるとすぐに扉が閉まった。うー、と唸りながら上半身だけを起こす。

 二日前。
 オゼの領主の館の地下。
『動かないで!』
 威嚇発砲の後、女の声がした。彼女が促すままに両手を頭の後ろで組む。
『アナタ、だれ?』
 かつんかつんと足音が近づいてきて、頬に何か硬いものが押し当てられた。
 視線だけを動かすと、自分の右側に、すくない光を反射する金の髪が見えた。
 押し当てられているのは、どうやらピストルのようだ。
("誰"?)
 訊かれているのは一体何の事柄だろう? 名乗ればいいのか、それとも自分の所属を?
 なんと答えればいいか分からずに眉をひそめる。
 薄闇の中に見えるのは、ショートカットの、長い前髪を斜めに分けている金髪碧眼の女だった。
 小柄で、大きな丸い瞳は18〜9にも見えた。
『まずは、名前』
 女は銃口を頬に押し当てたまま、ぐるりとあたりを見回す。
 目の前には溶け始めているオゼの女領主サンビアの骸がある。女はそれを見ても、わずかに眉をひそめただけで特に変化はなかった。
『名前……!』
『……ハルト・シラギ。生年月日やスリーサイズも必要?』
『要らないわよ、馬鹿ね。―――それで? あんたはここの関係者?』
『敢えて言うなら、被害者。そもそもなんであんたに銃口押し付けられんのか分かんないんだけど。あんた、教会の関係者?』
『教会〜? 一緒にしないでくれる?』
 教会、という単語を耳にした途端、女があからさまに顔をしかめた。
『クリス、先走るのはお前の悪い癖だぞ』
 背を向けたままの階段のほうから、今度は男の声が聞こえてきた。機械を思わせるような抑揚のない声。
『だって、逃がすかと思ったんだもの。……あれ?』
 クリスと呼ばれたその女は、階段の方から近づいてくるその足音のほうを見、その後もう一度ぐるりと周囲を見渡した。
『エーク! あのマシン、データ取って!』
 女が、まだドラッグのデータが表示されたままのディスプレイを指さして、叫んだ。
 男が視界に入った。ゴーグルをしっかりと装着した、まるで機械のような無表情の男。
『……だから、お宅らなんなわけ? そこの死体見てもあんまり動じないし。それにいいかげん、このピストルしまってくんない?』
『あんた、ここの身内じゃないのね?』
『だから、さっき言っただろ、被害者だって』
 先程から頭が痛くてたまらない。自分の声すら頭の内側に響いて辛いのだ。いいかげん話すことに疲れてきて、苛々し始めた。
『じゃあ、分かった。そういうことにするわ』
 いまいちパッとしない返答と共に、頬から銃口が離れた。
『私、クリスティン・サウザンド。あっちはエーク・H。警備省の調査官よ』
 胸ポケットからIDカードの入った手帳を引きずり出し、こちらに向けて開いてみせる。写真は彼女で間違いない。
(警備省って言えば、教会や正規軍と犬猿の仲の組織じゃないか)
 どうやらその例外に漏れず、彼女も教会嫌いの類らしい。
『慣れてるのよ、こういう死体いくつも見てきたもの。私たち最近、ガイアのアンダーグラウンドを中心に出回ってるドラッグの調査をしているの』
『ドラッグ?』
『白い粉。薬が切れると"こう"なるの』
 クリスは腕組みをしたまま、床のサンビアの死体を見下ろして言った。
 その声が奇妙に歪んで聞こえなくなり、そこで記憶が途切れているということは。
 そこで気を失ったのだろう。気がつけばオゼから少し離れた街の、警備省の建物の中で。
 こうしてベッドに寝ているのだから。

「お、お目覚め?」
 開いたままだった扉から、クリスが顔を出した。
 白いシャツに黒のパンツというシンプルな出で立ちに、片手に持ったジャケットを肩にかけている。
 そのあとを音もなくエーク・Hが続く。
「2日間、何度か目が覚めたんで、ここに運んでもらったことは分かってるけど。詳しいことは教えてもらえんの?」
「まぁね。でも、その前に」
 部屋の隅からパイプ椅子を運んできてベッドの横に座ると、クリスはにんまりと何か含むように笑った。
「あんた、随分"やんちゃ"してるみたいじゃないの」
「やんちゃ?」
 すると、クリスはジャケットから何か手帳のようなものを取り出し、ぱらぱらとめくると。
「一応、身元照会させて貰ったわ。ハルト・シラギ。23歳性別男。違法盗掘で過去何度か警備省のお世話になってるけど、決定的証拠が不足しているため釈放。それに、教会の異端者として指名手配中。―――何か訂正するところは?」
「……ありません」
 なにやら取り調べを受けているようで、ついつい息苦しくなってしまう。至極簡潔で丁寧な回答をしてしまった。
「結構」
 その返事に満足したように、クリスはやけに鮮やかに微笑んだ。
「それで、捕まえんの、俺のこと。お嬢さんは?」
 教会からは常に追われる身だし、盗掘に至っては完全に黒だ。そういう意味をこめて言ったのだが、クリスは鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まってしまった。
 ふっ、と入り口近くの壁にもたれかかっていたエーク・Hが小さく笑うのが見えた。
 ……なにか、まずいことでも言ったのだろうか?
「何か、誤解しているみたいだから、訂正するけど……。私一応、27なのよね」
「はぁ!? 嘘だろ!!」
 顔をひくつかせながらも、クリスは無理に笑って見せた。反射的にハルトは叫んでしまう。どう見ても20前後にしか見えない。
「ちょっとエーク、いつまで笑ってんのよ!」
 ハルトには相変わらず無表情に見えるのだが、どうやら笑っているらしいエークを怒鳴りつけ、クリスはこほん、と大袈裟な咳払いをした。
 気を取り直して。
「ということなので、お姉様には口の聞き方、考えてね」
「……それで、俺を捕まえるつもりなんスか。その、お姉様? は……」
「"お姉様"に疑問形つけたわね……」
 そんな恨みがましい目で睨まれても仕方ない。年下にしか見えないのだから。
「まぁいいわ。このままだと話進まないし! ということで、私たちは貴方を捕まえるつもりはありません。とりあえずそれだけは言っておくわ」
「指名手配なのに?」
「それは教会が出してるやつでしょ? 警備省には関係ないわよ。思想が違うから異端だなんだって、どうかしてるわ」
 教会関連の会話に、クリスが露骨に嫌そうな顔をした。
「盗掘については?」
「尻尾出してないじゃないのあんた。証拠もなく捕まえたり処罰したりなんかしないのよ、"普通は"。それとも今ここで自供する? それなら話は変わってくるんだけど」
「いえ、滅相もありません」
「そう? 残念。まぁ、そういうことで、君に少々協力を仰ぎたいことがあるんだよね」
「協力?」
 話が本題に入りかけた途端、クリスの目つきが急に鋭くなる。なにやらぴり、と張り詰めるものを感じて、ハルトも思わず黙ってクリスを見つめ返す。
「あの城の地下にあったマシンね、古いものなのよ。遺跡級の。普通のマシンなら警備省でも扱えないことはないんだけど、遺跡級のヤツはデリケートで扱いが難しいのよ。それこそ、"盗掘"とかで慣らしたスキルを持っている人じゃないとね」
 なるほど、それはそうかもしれない。一歩操作を誤ると、遥か過去のデータが永遠に闇に葬られてしまうこともある。
「それで、前に言ったように、私たちは今、とあるドラッグ―――通称『ヘヴンズゲート』って呼んでいるものを調査しているの。貴方もあの晩あの場所にいたからには、もう部外者とは呼ばないわ。マシン関連で、協力をお願いしたいのよ」
「……古代の遺物については教会の管理下だろう? 技術者は教会に要請すれば貸してもらえるんじゃねぇのか」
 遺跡関連の遺物であるなしに関わらず、機械関連の一線の技術者は教会の研究所が抱えている。警備省の調査などで機械を扱うときは、教会に要請し技術者を借りるのが通常の手段だ。
 すると、案の定クリスは渋い顔をした。教会なんかに協力してもらうなんて、というかと思ったのだが、少し様子が違う。
「教会の研究員を借りると、データはそのまま教会に流れ込むわけでしょう? そして、教会に不利なデータは全て隠蔽されるわ。私たちにすら流れてこない。本当に何か重要なものがあっても、聖域だとか禁忌だとか、そういう言葉を持ち出されたら私たち歯向かえないのよ。今回は、そうするわけには行かないの」
「……ってことは?」
「今回のドラッグ、アンダーグラウンドではずっと前から流れていたものよ。それが今回のオゼのように、どんどん表に出てきて、恐ろしい速度で広まってる。私はこの一件に、教会が絡んでる思ってる」
 もしも教会が絡んでいるとなると、教会の研究員の調査では、何も得られないことになる。
「なるほどな」
「お願いできる?」
「俺はカルチェ・ラタンに向かってる。その邪魔はしてもらいたくない。少しの寄り道なら大目に見るけど、逆行はしたくない」
「途中、ビレスっていう領地に一箇所寄る。そのあとはカルチェ・ラタンの本部に戻るわ。逆行はしないはずよ」
「あとは、人探しをしたいわけだけど、"優秀で公正な"警備省の情報網を少々借りて調べてもらいたいものが少し」
 しばらくの間、ハルトとクリスの厳しい視線が絡まった。
「……見返りってわけ。ちゃっかりしてんのね。OK。これに探す相手の名前と特徴を記入してくれる?」
 根負けしたのはクリスだった。先程の手帳の新しいページを開き、ペンと一緒に差し出す。
 受け取り、ハルトはその紙に名前をふたつ、記入してクリスに戻した。
 すぐに押し戻された手帳を覗き込んで、クリスははっと息を呑む。
「一人目は、俺と同じくお尋ね者だから、データ引っ張り出せばすぐに出てくんだろ。で、下のやつだけど……」
「ちょ、ちょっと待ってよ、正気!?」
 慌てるクリスに構わず、ハルトは続けた。
「そいつのことは、現在のことじゃなく、過去の経歴を調べて欲しい。どんなことでもいい。とりあえず情報が欲しい」
「分かってんの? この男のこと……」
 じっとこっちを見つめるクリスの童顔が、明らかに強張っている。
「ああ、あんたの大っ嫌いな教会の人間だってこと?」
「それどころじゃないわよ、こいつ……」
 焦った様子のクリスの後ろから、エークがその手帳を覗き込む。無表情なエークの顔が少しだけ、歪んだように見えた。
「あんた本当に……何者なのよ」
 開かれた手帳には、少し曲がった文字で名前がふたつ、記されていた。

 レイ・クレスタ、そして。
 ランドウ・アンティクリスト―――。



2.

 空が青く晴れ渡った日は、ファンさんの機嫌がいい。
 それは、ここで数ヶ月暮らして知ったこと。
 昼下がり、車は一路バベルに向かっている。正確に言えば、戻って、いる。
「サイジョウさん」
 隣に座るサイジョウに、リョウコは声をかけた。
「バベルで、いいんですか」
「ん?」
 窓を全開にして喫煙中のサイジョウが、窓の外の荒野から彼女のほうへ目線を移した。
「うん。大丈夫だよ」
 にこにこと、サイジョウは笑ってみせる。答えはそれだけだ。

―――カルチェ・ラタンに行く。
 2日前の朝、起きたと同時にそう言われた。一度も行ったことのない首都の名前に、背筋がぴんと伸びるような気がした。
 あの、マハノンの遺跡での一件以降、ずっとゴルゴダに留まっていたこともあって、久しぶりの移動は、どきどきした。
 けれど車は、バベルに向かっている。首都カルチェ・ラタンとは正反対の方向に。

「ちょっと特殊な……」
 ファンから手渡された車の灰皿に煙草を押し付けて消すと、サイジョウが再び口を開いた。
「特殊な移動手段を使うから、一度バベルに戻る。そのほうが、時間がかからないんだ」
「……時間がかからないんだったら、ハルトさんやレイさんも、そっちのほうが良かったんじゃ?」
 わざわざ色々な街を経由してカルチェ・ラタンを目指すよりも。
 リョウコの質問は責めているようなものではなく、ただ純粋な疑問、だった。
 するとサイジョウはふっと苦笑して見せて。
「彼らには色々見てほしいものもあるし、それにあの時は僕はカルチェ・ラタンに行くつもりはなかったからね」
「?」
 どうしてサイジョウの意思が関係するのだろう?
「僕じゃないと使えない移動手段が、ちょっとある、っていうことだよ」
 もうそれ以上、サイジョウは何も言わなかった。


            *


 夕闇が迫ってきていた。
 とりあえず今夜の宿を決め、レイは再び街に出た。
 高い壁に囲まれた街というのは、何処となく息苦しい。
 その上、吹きすさぶ砂避けのためなのか、頭からフードを被った人ばかりが目に付いた。
 誰も彼もが俯き加減で、表情までも暗く思えてしまう。
 暮らしている環境で人々の顔つきはこんなにも違うのかと、改めて驚く。自分が今まで暮らしてきた町や村は四季はあっても気候は温暖だったから。

 行き過ぎる人々の胸にはロザリオがほぼ例外なく下がっていた。
 自然が厳しい地域は信仰心が強いことが多い、というのを学んだことがある。
 自然が人々に厳しく当たるのは、神の与えた試練なのだと。そう思わねばやっていけないからだ、とも。
 確かに、くすんだ空の色といい、街全体を取り巻く空気といい、決して明るくは無い土地だ。……自然と溜息も漏れる。
 薄紫を通り過ぎた空がやがて、東の方から紺色に飲まれてゆく。人に尋ねなくても、気の早いネオンがそこここで煌き始めた。
 その中でも一際目を引く、赤と黄色と紫のネオン。この街には不似合いなほど明るく輝く―――"69"。
 昼も通ったはずの道なのだが、やはり光ってなかったから分からなかったのだろう。一度宿を取って休んだのは正解だったかもしれない。
(でも、バーって……)
 神々しくネオンが輝くその真下。地下へと続く階段の傍で、レイは立ち尽くす。
 元々温室育ちであるレイ・クレスタという人間は、盛り場が得意ではない。
 それに、これから訪ねてゆくはずの相手は、あのサイジョウ・ヒイラギの紹介だ。まともな人間とは思えない。
 レイは、腹部に何かきりりとした痛みを感じた。
 腹部を押さえた手が、ちゃり、と何かに触れた。
(あ……)
 フードの内側に手を突っ込んで、銀の鎖を引きずり出す。
 右手に収まった銀の、シンプルなロザリオを一度だけきゅっと握った。
(僕には、目指すところがある、から)
 だから本当は、こんなところで立ち止まっているわけには行かないのだ。

「あら〜、珍しいわねぇ。ここらへんで金髪なんて〜」
 突然後ろから声が聞こえ、レイはびくっと震えた。驚いただけではない。口調の割に、どうも随分と「低い」声だったような気がしたからだ。
 嫌な予感。
「貴方もしかして、レイくん? レイくんでしょう?」
 その、幻聴かもしれないが随分と低いお姉言葉が言い、足音が近づいてきた。
 頼むからこないでくれ、と心の中で祈ってしまう。が、祈りは空しく、自分の傍に随分と大きな影が立った。
「ヒイラギちゃんから話は聞いてるわ」
 諦めにも似た気持ちを覚えながら、レイは恐る恐る顔をあげて、隣に立った巨大な影を見上げた。
 そこには。
 190センチ以上はあるだろう長身の、ガタイのいい、スキンヘッドの、男。なのに付け睫を装着した、毒々しい化粧の生き物がひとり。
 立っていた。
「あら〜! 聞いた通りね! 本当に可愛いわ〜!」
 その生き物が、顔の下で両手を組み合わせて、本当に嬉しそうにそう言うので。
 レイは一歩後ろにあとずさってから、「ありがとう、ございます」と返した。
「ほら、じゃあそんなところに立ってないで! 中に入りましょう。詳しい話はその後だからっ!」
 むんずとレイのフードを掴んだかと思うと、その巨大な生き物はずるずると引きずるようにして地下への階段を降り始めた。
 神父、僕はなんだか最近、やけに変な厄介ごとにばかり巻き込まれます……。
 右手に握り締めたままのロザリオに向かって、レイは心の中で呟いた。


―――数分後。
 レイは、バー『69』のカウンターに座らされていた。
 カウンターの中には、先程レイを強引にこの店に連れ込んだ巨大な生き物―――もとい通称"J"が上機嫌でカクテルなどを作っている。
「あの、J、さん?」
「あら、なあに」
 野太い声で返事をされ、レイは怯えるように椅子の上で小さくなった。
「なんだよジャガー。随分若い男引っ掛けたなぁ」
 店の方から揶揄するような声が飛んできた。このようなやり取りが、レイはあまり好きではない。
 すると。
「うるせぇ! 名前で呼ぶなって言ってんだろうがてめぇ!」
 カウンターの中でJが吼えた。
「―――あら、ごめんなさい、なんでもないのよ」
 あからさまに怯えるレイに向かって、J―――ジャガー・コルテックは微笑んで見せた。
(サイジョウさん、恨みますよ僕……)
「ヒイラギちゃんがね」
 レイが心の中でサイジョウを呪った瞬間に、Jの口から同一人物を指す名前が落ちて、一瞬寒気が駆け抜けた。
 心を読まれたのかと思って。
「最近随分精力的に働いているから、なんだか嬉しい反面、ちょっと薄気味悪いわね」
「え?」
 目の前に緑色の液体をたたえたカクテルグラスが差し出された。
 Jの声のトーンが少し落ちていることに気づいて、レイは顔をあげて彼を見る。
 精力的? あれが? いつものほほんとしているようにしか見えないのだけれど。
「まぁね。ワタシたちみたいに毎日店を経営したりしてる人間から見れば、のほほんとしてるみたいに見えるかもしれないけど」
 信じられない、という表情を隠さずに出してしまうレイに、Jは苦笑して見せた。
「昔は今よりもっと、世捨て人だったんだから。あの狸みたいな言動もね、全部うわべだけよ。―――本当は……」
「……本当は?」
「極悪非道の冷血動物なの」
「あの、それって……」
「本当よぉ。あののほほんは外交用なのよ、あれでも。ヒイラギちゃんは―――怖い男だから」
 Jの声はしずかだった。何かを考え込むように俯く。
「でも嬉しいわよ。外に興味を持ってくれて。本当、隠居した爺みたいだったからね」
 次の瞬間、パッと顔をあげて、また明るく笑って見せたので、レイは突っ込んで訊けなくなってしまった。
「それでね、ヒイラギちゃんから、伝言なんだけど」
 とうとう話題が本題に入って、レイは無意識のうちに背筋を正した。
「……今、カルチェ・ラタンに向かってるみたいよ。そこで会いましょうって」
「カルチェ・ラタンに?」
「少し事情が変わってきたんですって。そのことは会ってから話すって言ってたけど。あと、白い粉には気をつけろっても、言ってたわね」
 レイは思わず自分の内ポケットのあたりに触れた。そこには、ロレーヌで手に入れた白い粉が入っている。
 やはりこれは、普通の粉などではないのだ。
「あ! あと、ひとつ頼みたいことがあるって」
 何かを思い出したようにJが付け加えた。
 頼み? あのサイジョウ・ヒイラギが自分に?
 見当もつかなくて、レイは眉根を寄せた。
「本を、探して欲しいって。ヒイラギちゃんも詳しいことは良く分からないって言ってたんだけど」
「サイジョウさんに詳しく分からない本が、僕に分かるんですか」
「貴方だから分かるって、言ってたわ」
 そうは言われてみたものの、全く何の見当もつかないのが現状だ。
 頭の周りに疑問符を浮かべているレイには構わず、Jはごそごそと後ろの棚のあたりを物色し始め、やがて一枚の紙切れを取り出してきた。
「ええと、300年ぐらい前。教会によって発禁にされて、手当たりしだい焼き捨てられた書物、なんですって。その著者は元々名高い神学者だったんだけど、ある日突然悪魔に魂を売ったと言われていて、その本を書き上げた直後ぐらいに処刑されているわ。専門に神学を学んでいた貴方なら、分かるんじゃないかって言ってたけど」
「……ダンタリアン」
「え?」
 ぼそりとレイの口から落ちた、何か名前のような単語に、Jが反応する。
「それは多分、ダンタリアンだと思います。高名な神学者で大学の教授なども勤めていましたが、急に取り憑かれたように書物を書き始めた。その書物は発禁処分になり、本人も処刑されている。年代もおそらく300年程前……だったと思いますけど」
 伊達にカルチェ・ラタンで神学の勉強をしていたわけではない。
「確かタイトルは―――『神の姿と契約の匣』……」
―――ガシャンッ。
 レイが言い終わる前に、けたたましい音を立てて何かが割れた。背後だ。
 弾かれるようにしてレイが立ち上がり、振り向く。
 奥のほうの席に座っていた男が、テーブルの上に乗っていたグラスなどを巻き添えにして床に倒れたところだった。
 割れたガラスの上に倒れたのだろうか、男の手からは血が流れている。
 中年ぐらいと思われるその男は、口から泡を吹くようにして白目を剥き、細かく痙攣などを繰り返している。
 明らかに尋常ではない。
 酒場に集った人間たちは、ざわめきながらもその男に近寄ろうとするものはいない。
「おら! どくんだよ、てめぇら!」
 怒鳴ったのはJだった。人垣を掻き分け、倒れた男のところまでずんずんと歩いてゆく。
 レイも、慌ててその背中に続いた。何か出来ることがあるかもしれない。
 と、その肩を掴む手がある。
 振り返ると、黒いフードを頭からすっぽりと被った、華奢な人影が立っていた。
「彼は大丈夫。私の連れですから」
 男にしては高く、女にしては低い声で、その人影が言った。



3.

 結局、彼がカルチェ・ラタンに戻ったのは夕刻をかなり過ぎてからだった。
 自分で運転してきた軍用車を部下に預け、真っ直ぐにとある部屋を目指す。
 教皇庁に隣接する正規軍の建物でも、最上階の奥に位置する扉の前で、立ち止まる。
 軽く2度、ノックする。
 返事はない。
「……大将?」
 今度は声を出して呼びかけてみる。が、返事はない。
「大将? 入りますよ」
 正規軍東軍少佐アフライド・ゼインは、目の前の扉に手をかけて、押し開く。
 普段となんら変わりのない、上官の執務室が開けた。
 扉と向かい合わせるように取られた大きな窓。今はカーテンも開かれたままで、夜の闇が見える。
 アフライドはその碧眼でぐるりと部屋を見回した。明かりもついていない。今日はもう、ここにはいないのだろうか?
 ここのところ、例のミンスター大学の教授および学生処刑騒動で随分と忙殺されている様子だったしな。
 早めに休むのはいいことだろう。報告は別に、明日でも構わない。
 溜息をひとつ、諦めて踵を返そうとしたところに―――。
 ガシャンッ。
 何かが割れるような音が響き渡った。続いて、何か獣がうめくような声。
 確かにこの部屋に、気配がある。
「……大将?」
 呼びかけ、アフライドは音のしたほうに足を進める。そちらには、左官クラス以上の執務室に取り付けられている簡易の洗面所があったはずだ。
「アフライド」
 扉に手をかけたところで、内側からくぐもったような声がした。
「お疲れ様。どうだった」
 扉を一枚隔てた向こうから聞こえてくる声は、確かに自分が捜し求めていた上官の―――ミカエル・シャイアティーンのものなのだが。
 言葉のトーンがいつもより低く、何より時折咳き込む音が混じる。
「どう、って。貴方こそどうしたんですか」
 ドアノブに手をかけ、ひねろうとするが、鍵がかかっているらしく回らない。
「大丈夫。少し、風邪気味なだけだから」
 どうやらミカエルは扉に背を預けて座り込んでいるようなのだが、声にいつもの覇気がない。
「風邪? 熱はあるんですか? それなら尚更こんなところにいちゃ駄目じゃないですか。自宅に帰って寝てくださいよ」
「あはは……。相変わらずアフライドは過保護だね」
 笑い飛ばす声も、いつものような明るさはない。
「薬を飲んでじっとしてれば……治るよ。大丈夫。―――ジャンヌは?」
「え? ああ。無事に送り届けてきましたけど。"領地の隣の町"まで」
「……やっぱりね」
 アフライドの言葉に、扉の向こうで苦笑する気配がする。
「あの子らしい」
「でも、あれでいいんですかね、あの町……」
「……今はまだ、仕方のないことだと、思うよ―――ッ」
「大将!?」
 言葉の終わりに激しく咳き込む音が混ざって、アフライドは扉を叩いた。
「もう、帰って休むといい。詳しい報告は明日聞く」
「ですが―――」
「アフライド」
 ぐっと下がった声に、アフライドは嘆息する。また、お得意の必殺技が出るのだろう。
「上官命令だ」


 足音が遠のいて、やがて部屋から出てゆくのを待ってから、ミカエルは大きく溜息をついた。
 手に握ったグラスをカラカラと床に転がす。
 投げ出した小さな足のあたりまで転がって、止まった。
 胸の内側が灼けるように熱い。額に浮かぶのは脂汗なのだろうか。
 今にも体が内側からばらばらになりそうで、気が遠くなる。
 あまり広いとはいえない洗面所の床には、色々なものが散乱していた。棚の上に乗せてあったものを、"発作"が起きたときに巻き添えにして引き倒したからだ。

―――死にたいか。
「それを、貴方が訊くのか。博士」
 傍に転がっていた飴色のビンを握る。
「逃げ出した、貴方が」
 口元にはいつしか歪んだ笑みが浮かんでいた。それは自嘲なのだろうか。それとも他者への嘲りなのか。
「残念だけど、"おれ"は―――」
 飴色のビンを胸元まで引き寄せ、蓋を開ける。まだおさないままの指をビンの中に突っ込むと、中から白い錠剤をいくつか掴み出し、口に放り込む。
 水もなしに飲み下す。
「貴方のように、逃げはしない」

―――お前は私と同じだな。
 少しずつ落ち着いてくると、穏やかな声が耳元で回った。
 急激に体の力が抜けてゆく。右手に持ったままだった飴色のビンが、床に転がった。
 蓋をするのも忘れていて、錠剤が床にざぁっと広がる。
―――時間が止まっているのだな。
 睡魔が地面から腕を伸ばし、引きずり込もうとする。その引力に逆らわずに、ミカエルは目を閉じた。
―――名は。
―――ミカエル。苗字は、忘れた。
 もはや、家の名前など、必要なくなっていたからだ。名前すら、固体を表す記号でしかない。呼ばれなくなって、久しかった。
―――私はラジエルだ。お前がもしこれから先も、この世界に留まろうとするのなら。
「出会わなければ、良かった」
 あの日、あの場所へなど、行かなければ良かった。
 まどろむ意識の中で繰り返す。出会わなければ。
 そうすればもっと早く。この世界からいなくなれただろう。

 もう遅い。

―――力を、貸して欲しい。


            *


 その、黒いフードをすっぽりと被った人影は、すべるようにして痙攣を繰り返す男の下まで歩み寄った。
 男を自分の膝に抱き上げると、胸元から何かを取り出し、男の首筋に勢い良く突き刺す。
 薄暗い照明のもと、目を凝らしたレイの視界に入ったのは、注射器、だった。
 次第に男の痙攣が治まり始める。
 再び男を床に寝かせ、その人影が立ち上がった。
「ご迷惑をおかけしました。病を得ているのですが、どうしても酒をやめられないらしく」
「いや、ワタシたちに直接害はなかったから別にいいけどさ。確かにびっくりしたけど……。でも、何であんたがここに?」
 Jが、倒れている男とフードの人影を見比べて、訊いた。
「城の使用人なのですよ。私が引き取りに来てはおかしいでしょうか?」
 わずかに覗いた口元と目元がゆったりと微笑むのが見えた。整った顔立ちをしている。
「何だそうなの。城の使用人が訪れてくれるような上等な店じゃぁないんだけどね〜」
 心底感心したようにJが胸の前で腕を組んだ。
「お騒がせして申し訳ありません。壊した分のお代をお払いします」
「えっ!? いいわよぅ! この人が飲んでた分の酒代だけで! だって病気じゃ仕方ないもの」
「そうですか? 申し訳ありません」
 巨体でお姉言葉を操る男に向かって、黒の人影は深々と頭を下げてみせる。
 と、床に転がっていた男が、ううとうめきながら目を開いた。
 傍に立つ人影を、下のほうから舐めるように見上げてゆき、黒いフードまでたどり着いたところで、ひぃっと喉を鳴らした。
「シェ、シェリル様……」
「お目覚め?」
 黒の影は、フードの隙間から覗く、氷のような瞳で男を見下ろした。突き刺すように。
 病で発作を起こした知り合いが目覚めたときにかけるには、冷たすぎる声音で声をかける。
「自分が何をしたのか、分かっているわね」
 中世的な声の持ち主は、呼ばれた名前や口調から推測するに女であるようだ。
 見下ろされた男は、驚愕と怯えが混ざった目を大きく見開いている。自分よりも何倍も華奢な女に対して、だ。
「立てないとは言わせないわ。―――帰りますよ」
 ぐっと下がった女の声に、倒れていた男は慌てて体を起こした。
 女が入り口に向かって歩き出すと、遠巻きに見ていた人垣が自然と割れた。
 黒のヴェールの裾を翻して女が店を出てゆく。慌てて倒れていた男がそれを追った。
 ばたん、と扉の閉まる音と、からんからんとそれに取り付けられたベルが鳴る音が、静まり返った店に響き渡った。


「……今のは?」
 ようやく金縛りが解けたように酒場に再びざわめきが戻った頃、レイがJを振り返った。
「ああ、領主の城で執事頭を務めるシェリルって人よ。最近具合の悪い領主リラドの面倒を見てるのも彼女だって言うけど」
 Jがカウンターの中へ戻ってゆくので、レイも先ほどの席へ座りなおした。
「あの通りずーっとフードを被ってるから、実際のところどんな人なのかって言うのは、ぜんぜん分からないわね。ちらりと覗く顔を見れば、美人なんだろとは思うけど」
 なんだか引っかかったままのレイは、視線を感じて顔をあげる。と、Jがカウンターの内側からじーっとこちらを見ていた。
「……あの」
「大丈夫よ、レイちゃんの方が可愛いから」
 いつのまにか呼び方が「ちゃん」になってる……。
 レイは心もちのけぞりながら、「ありがとうございます」ととりあえず礼を言った。

―――自分が何をしたのか、分かっているわね。
 男を見下ろすあのシェリルの瞳のつめたさ。それがずっと、心に引っかかっている。
 胸のうちに広がるこれは、不安、なのだろうか。



4.

 起きているのか眠っているのか、分からないたゆたいの中に"彼"はいた。
 体の境界すら、はっきりと分からない。
 中身が溶け出して、何もなくなってしまうかのようだ。

 急に背後から射撃音が響き渡った。連射。マシンガン。
 それを知覚した瞬間、"彼"は鉛色の中に投げ出されていた。
 二本の足で、確かに立っている。
 天井も、左右の細い壁も、床も。細い通路全体が、鈍い鉛色。
 呆然と立ち尽くす"彼"の横を、弾丸がいくつも通り過ぎ、目の前にいた人々の背中に穴をあけた。
 騒がしい足音が近づいてきて、"彼"の体を擦り抜けて通り過ぎた。
 ああ、幻なのだ。少し遅れて気づく。―――どちらが?

 鉛色の壁に赤が散って、床にうずくまった人の下にも同じ色の海が出来る。
 止めを刺すように、覆い被さった人影がその体に向かって何発か弾丸を打ち込んだ。びくびくと体が跳ねる。
 赤いしぶきが散った。
『いい加減にして!!』
 悲鳴に近い絶叫が背中に放たれた。
 もはや物言わぬ骸たちに覆い被さっていた人影たちが、その言葉に振り向いた。
 視線は、"彼"の、遥か後方を見据えている。
 "彼"は、突き刺さるような獣にも似た男たちの目より、後ろから聞こえた声に驚いて、ゆっくりと振り向いた。
『私たちはこんなことをするために星を捨てたの!?』
 銃口がこちらを向いていた。
 白いシャツの肩に、栗色の髪が乱れて散っている。うつくしい瞳が今は、憤りに燃えていた。
『武器を捨てなさい、撃つわよ!』
 うるせぇ、と反対側の男たちが怒鳴る。
『お前、お偉方の肩を持つってのか。もう身分なんて関係のないこの船で、情けなく血筋に縋ってる奴らの肩をよ!』
『そんなことは言ってないでしょう! こんなやり方は嫌よ!!』
『お前には危機感がないんだよ』
 嘲るような冷たい声が浴びせられ、彼女はびくりと肩を震わせた。銃の照準が鈍る。
『何……?』
『お前はどちらが主導権を握ろうといいだろうさ。平民出のくせに技術も医学も修めてお偉方に取り入った、あの男にほいほいついてけば間違いはないんだからな』
『彼を罵るのはやめて!』
 引き裂くような絶叫が、彼女の口から放たれた。痛みをこらえるように、じっと前を見据える瞳。
『……貴方たちのは、ただの嫉妬よ』
 苦味を我慢するような顔で、彼女が言った。"彼"はなぜか、その言葉が自分に向けられたような気がした。
 名前を呼ぼうと口を開いた。しかし、声が出ない。
『マリア』
 変わりに後ろの男が呼んだ。
『いい加減に目を覚ませよ。このままじゃ俺たちは家畜のままなんだぜ』
『……貴方たちがそうやって、誰よりも一番自分を卑下しているのが、どうして分からないの……!』
 哄笑が起こった。男はもはや動かない肉の塊に立て続けに銃弾を打ち込む。
『やめなさい、撃つわよ!』
『撃てよ!!』
 次の瞬間、乾いた破裂音が響き渡った。
 彼女の手に握られたピストルから放たれた弾丸が、"彼"の体を通り過ぎた。
 まるで、射抜くように。


 暗転。
―――愛しているよ。
 嗚咽をこらえるような、男の声が聞こえた。
 一瞬、目も眩むばかりの光が視界を灼き尽くし、次の刹那、"彼"は草原に立っていた。
 吹きぬける風に足元の草が揺れる。のどかな田舎町の風景の中にいた。
 すぐ傍に道があった。土を踏み固めたような、舗装もされていない道だ。
 その茶の上に、ばたばたと赤い色が落ちて広がる。
 ずるりと膝から崩れ落ちたのは、聖服姿の男だった。その傍らには、まだ若い青年が呆然と立ち尽くしている。
 せわしなく呼吸を繰り返し、じりじりとあとずさる青年の右手に、赤く濡れたナイフ。
 地面にうつぶせに倒れた男が、首だけを持ち上げて"彼"のほうを見た。
 血に濡れた口元で、少しだけ笑ってみせる。
 かすれた声を絞り出すように、言った。
―――お前の、思い通りには、ならない。


 彼は、自室のベッドの上で体を起こした。
 あまりに唐突な夢からの目覚め。
 近頃こんな風に、細切れの夢を見る。断片ばかりを。
 それが夢なのか、過去なのか、判別すらうまくつかない。
 無意識のうちに、右手が左胸のあたりに触れた。夢の中で、彼女の放った弾丸が通り過ぎた場所。
 痛みなどないはずなのに、なぜかそこだけ、熱いような気がした。

「猊下、少々よろしいですか―――」
 扉を叩く音が、やがて彼を現へと呼び戻した。


            *


 しつこく泊まってゆくように勧めるJを振り切って、レイが『69』を出たのは、もうすぐ日付が変わろうかという時刻だった。
 それでも人通りの多い繁華街を通り抜け、街の入り口付近にある宿屋まで戻る。
 繁華街から少しでも外れると、雑踏は一気に掻き消えた。
 街の上空を渡る風がまるで何かの鳴き声のように聞こえて、思わず空を仰ぐ。
 区切られた空は、漆黒というより薄闇だった。日が落ちても風は強く、吹き付ける砂は変わらず、レイはしっかりとフードを被りなおした。
 一度宿屋で洗ったはずの髪が、もうすっかりぱさぱさになっている。

 なんだか今日はやけに疲れた。
 溜息をひとつ、レイは宿屋へ向かって歩く。
 と。
 二つ前ほどの狭い路地から、ゆらりと何かがすべるようにして出てきた。
 ばさりと黒いヴェールを翻し、巨大な壁の聳える方向へと歩き出した。

(あの人……、酒場で見た……)
 確か、シェリルといったはずだ。

 彼女は脇目もふらず真っ直ぐに、一本道を隔てた大通りの方へ歩いてゆく。
 病人だという男を連れて彼女が『69』を出てから、もう随分経っている。未だにこの近くにいたことが不思議だった。まぁ、元々そんなに広い街でもないのだが。
 彼女の姿が完全に視界から消えてしまうまで、レイはなぜか動けずにいた。
 いつのまにか立ち止まってしまっている自分に気づいて、また歩き出す。
 街灯もほとんどない暗闇の中を、記憶を頼りにして歩いていると、びちゃり、と足元で何か水音がした。
 気がつけば、先程シェリルが出てきた路地に差し掛かっている。
 視線を足元に落とすと、水溜りが出来ていた。黒の。
 ぞくっと、その水溜りを踏んだ足から何か冷たいものが脳天まで駆け上る。
 恐る恐る、レイは左側にある路地を見た。
 そこが路地ではなく、ただの袋小路であることが、うずたかく詰まれた木の箱で分かった。
 そして、木の箱にもたれかかるようにして、仰向けに空を仰いだ男がひとり、倒れていた。
「ッ―――」
 悲鳴と嘔吐感とを押さえるために、レイは口元を覆った。
 酒場にいた男だ。

 胸から腹にかけての"体の内側"を、だらしなく外に開いて、既に絶命していた―――。





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