聖者は二度死ぬ
〜再生〜



 わたしが欲しかったのは、たったひとつだけです。



1.

「ああ、やられたね」
 服の埃を払いながら路地から出ると、その傍で露店を開いている中年の婦人が哀れそうに眉をひそめた。
「まったく、あいつも困ったもんだよ。お兄さん、あの子になんか取られただろう」
「はぁ……」
 曖昧に頷くと、婦人はもう一度困ったもんだよ、と繰り返した。
「大事なものなら、一応家に行ってみるかい? いつもならごたごたになるから目をつぶるんだけど、お兄さんがあんまり、その、悲壮な顔してるから……」
 そこでレイは初めて、自分が同情されているらしいことに気づいた。
「……教えてください」
 少々複雑ながら、レイは懇願する。
「この通りを真っ直ぐ。坂を下って一つ目の角を右に曲がると、寂しい道に出るから、その先を突き当りまで行くと、小さな家があるよ」
「ありがとうございます」
 丁寧に頭を下げて、駆け出した。まだそんなに遠くへは行ってないはずだ。
 まだ脳裏に鮮明に焼きついている少年の面影を思い出す。

 べぇ。差し出された赤い舌。それ以外に。
 視界を掠めた色が気になる。
 もしもあれが見間違いじゃなかったとしたら。
 サングラスの下は、隠されていた瞳は。
 赤。
 じゃなかったか。

(だからサングラス、だったのかな)
 最近酸素不足になることが多い脳を少し心配しながら坂道を下る。細胞がかなり死んでいるような気がする。
 そんなことを考えているうちに、露店も少しずつまばらになってゆき、やがて絶えた。
 教会の周りから離れると、途端に街が寂れる。
 これがこの、ロレーヌという街の現状なのだろうかと思った。
 治安が悪いのは、正規軍が自由に出入りできないだけではないと思った。多分、それも理由のひとつにはなるけれども。 
 それ以外のところで、多分、乾いているのだろうと思った。
 自治とは名ばかりの孤立と。聞いた言葉が蘇る。
 この街はきっと、自由などではないのだ。生き絶えるのを待つために手放された。
 真綿で首を締めてゆくのと似ている。
 認めたくは無かったけれど。この街はきっと、じわりじわりと死んでゆく。
 あの人の血筋の源を、そういうふうには思いたくはなかったけれど。
 服の内側で揺れているロザリオに、無意識のうちに手が伸びた。癖。

 ひたすら一本に伸びてきた道が、途中で3本に分かれていた。
 言われた通りに右に折れる。
 脇腹が痛い、気がする。
「運動不足、だなぁ……」
 ロザリオから離した手を脇腹へ当てながら、それでも足は緩めずに真っ直ぐと突き当りを目指す。
(本当に何もない)
 ゆるやかな下り坂を降りてゆくと、まばらではあるものの存在していた民家の間隔が広くなり、先程の露店と同じように途絶えた。
 街中から、30分と離れていない。それなのに?
 この街に入ったときには気付かなかった。意識していなかったからだろうか。

「―――せよッ……!」
 声にハッと我に返り、足を止めた。
 声のした方へ顔を向けると、道から少し外れた草原で、屈強な体の男が先程の少年を後ろから羽交い絞めにして吊り上げているのが目に入った。
「嘘はためにならんと。言っただろう」
 もうひとり、その傍にスーツ姿の男が立っていた。羽交い絞めに去れた少年の前に立ち、その顎を手で掴む。
「今朝俺たちから盗んだものをどこへやったと聞いている」
 顔のかたちが歪むほどに強く、少年の顔を掴んで男が言った。片手をポケットに突っ込んだままの体勢で。
「だからっ……、もう無いって言ってるじゃんかっ……!!」
 とりあえずその場にしゃがみこんで、レイは聞き耳を立てる。
「無い? 金じゃねぇんだぞ。そんなに簡単に中身を使いきれるとでも? 嘘ならもっとまともな嘘をつけ」
「っ……! だからっ! 売っちまったって! 言ってんだろ!!」
 どうやら、少年が盗んだものでトラブルになっているらしい。
 確かに、人様のものに手を出すのが悪いが、傍目から見ていると、どう見ても男たちのほうが悪者に見える。
「売った?」
「そうだよっ! あんたらからケースを掠め取った後、白衣姿のエラソーな兄ちゃんが売ってくれって。だから売っちまったよ!」
 明らかにスーツ姿の男の表情が変わったのが、遠目からでも分かった。
「白衣、だと? ……くそっ!」
 ばきり。
 鈍い音が響き渡り、頬を思いっきり殴られた少年の体が地面に落ちた。小さくバウンドする。
「行くぞ。少々厄介なことになった」
 少年を羽交い絞めにしていた屈強な男にそう言うと、スーツ姿の男は踵を返した。
「このガキを待つのにも随分時間がかかったんだ。……坊主。"早く家に帰ったらどうだ"?」
 思わせぶりな言葉を残し、二人は傍に止めてあった車に乗り込むと、走り去った。
 自分の方へ向かってくる車を、草むらに伏せてやり過ごしたレイは、少年がゆるゆると立ち上がり、覚束ない足取りで一軒の民家へ近づいて行くのを見た。
 少年は何度か走り出そうとしては、そのたびに足がもつれてがくりと地面に膝をつく。思った以上に強く殴られたらしい。
 車が完全に見えなくなったのを確認して、立ち上がると、少年の後を追った。
 すると、先程少年が捕まえられていた辺りの地面に、点々と赤いものが散っている。その傍に。
 身をかがめて、落ちているものを拾い上げた。無事なようだ"2丁とも"。
 自分のホルスターを確認して、しっかりと腰に装着する。
「うわぁぁっ―――!」
 引き裂くような絶叫が聞こえたのはそのときだった。確かに、さっきの少年の声……。
 ハッと顔をあげると、少し離れたところに立っている家の戸口に座り込んでいる小さな人影。
 自然と足が動き出していた。ぐっと一歩を踏み出した後は、駆け出していた。
 扉を開け放ったその場所で、両膝を地面について、小さな体が固まっていた。
 その上から家の中を覗き込んで、一瞬、息の仕方を忘れる。

 小さな赤い海が見えた。

「かあさ……」
 掠れた声でそう呼んだまま動けない少年の横から室内に入り、床にうつぶせに倒れている女性を抱き起こす。
 かすかに鼓動。
(―――生きてる)
 詰めた息を吐き出した。安堵の吐息。最悪の状況を想像していた。
「医者を」
 少年の顔を真っ直ぐに見て、少し強めに言った。
 殴られたときに切ったらしい左の口元から血を流したまま、呆然としていた少年の瞳が、そのときやっと焦点を結んだ。
「急いだ方がいい。怪我じゃない……みたいだから、吐血かも……」
「でも……そんな金……」
「早く!!」
 怒鳴りつけるように叫ぶと、弾かれたように少年が駆け出した。


            *


「申し訳ございませんが、現在猊下は執務中でどなたともお会いにならないということです」
 無表情で淡々と言う男を下から見上げ、ミカエル・シャイアティーンは、その愛らしい顔をしかめて渋面を作った。
「……猊下が多忙なのはいいんだよ。それで会わないって追い返されるのも、別に今にはじまったことじゃないし」
 腕を、特注の軍服の前で組み合わせて、ミカエルは、温厚な彼には珍しく冷ややかな瞳で、大司教の執務室の前に立ちはだかる男を見上げた。
「僕が気になるのは、どうして"君"がこの扉の前で秘書然としているのかっていうことなんだけど。ベリヤール」
「今回のミンスター大学の一件を猊下より任されておりますゆえ、来週までは少々権限を与えられております。閣下」
 所属する軍は西と東で違えど、少佐であるベリヤールにとって、軍大将であるミカエルは遥かに高い地位にいる。
 その男の冷ややかな視線を押し戻し、尚且つ口元にうっすらと笑みさえ浮かべてみせるベリヤールに、ミカエルのほうがたじろいだ。
 事務処理をやらせたら右に出るものはいないと聞くこの男は、年中地方に派遣されている。
 それでも、いくら年に数回しか顔を合わせないとは言え、自分なりにこの男を知っているつもりだった。
 が。
(……こんな顔をする男だっただろうか)
 几帳面で仕事熱心で真面目な男だ。それは評価する。しかし、気弱なところがある男だと思っていたのだが。
「分かった。今日は帰るよ。猊下に、ご多忙のようですがお体はご自愛を、と伝えておいてくれれば嬉しいんだけど」
「はい、確かに承りました」
 眼鏡の奥の涼やかな瞳を社交辞令程度に細めて見せて、西軍少佐ベリヤール・ルーインは頭を下げた。
 ミカエルは、踵を返しながら、自分が今はきっと苦虫を噛み潰したような顔をしているのだろうな、と思った。
 何かが気に入らなかった。


「東軍大将殿はご機嫌斜めと見える」
 教皇庁と軍司令部を繋ぐ渡り廊下を足音高く歩いていると、向かい側からやってきた人間が言った。
 一体誰だ。皮肉るようなその口調に苛々しながら顔を上げて、ミカエルは少しだけ目を見開いた。一瞬で毒気を抜かれてしまう。
「……やぁ。戻ってたんだね。挨拶が遅れてごめん」
「いや、構わないさ。なんだかんだで私も部屋を空けていることが多い」
 銜え煙草のまま苦笑してみせる。焦げ茶の髪をそのまま背に流し、黒い軍服の前に腕を組み合わせている。
 正規軍元帥ユダ・ゴート。
「その後、お体の調子は如何ですか、元帥閣下」
「やめてくれミカエル。お前にへりくだった口調で話し掛けられるのは居心地が悪い」
 わざと深々と頭を下げてみせるミカエルに、ユダは口元に苦笑を刻んだ。
「なんで? 上官でしょう、貴方のほうが」
「年上だろう、お前のほうが」
「まぁね」
 ふたりで顔を見合わせて、微妙な笑みを浮かべあう。
「―――それで、お前もベリヤールに追い返されたクチだな」
 ふう、と紫煙を吐き出しながら、ユダが言う。
 分かる? そう訊くと、そんな顔をしている、と切り返された。
「嫉妬の顔だな」
 突然、脈絡も無くそんなことを言われ、ミカエルは面食らった。
 嫉妬?
 しかし、少し考えてから頷いた。
「そうだね。そのとおりだ」
 "何も知らないで"。
 あの人の傍にいるなんて。
 ベリヤール・ルーインという男が秘書然としていることが気に入らないのは、そんな子供じみた感情かもしれない。

「全く、君には適わないな……。ユダはこれから?」
「ああ。護衛の仕事だ」
「君が?」
「教皇猊下の、な」
 そこで、元帥を任されているひとりの女は、寂しげに笑って見せる。
 しばらく黙り込んだ後、ミカエルは、そうか、とだけ返した。
「何もお前が傷ついた顔をすることはないんだよ。お前も私も、お互いしがらみが多い。それだけのことさ」
「……そうだね。じゃあ近いうちに挨拶に行くよ。君が好きそうなものを持って」
「ワインなら赤だ」
「覚えておくよ」
 それじゃあ。どちらともなしに切り出して、擦れ違った。



2.

―――この街に、留まるおつもりはないのですか?

 壁の方を向いて腕を頭の下に敷きこんで、とろとろと微睡んでいる。
(おかしい)
―――我々は、選ばれた証としてこの髪と瞳を持って生まれてきたのです。
 夕食の席で、真向かいに座ったサンビアが、熱っぽい瞳でこちらを見て言った。
 選民思想は好みじゃないと、さりげなく返した。
 正当な権利を取り戻そうとしているだけです。向こうが返す。
 話は平行線のまま続き、結局は向こうが折れるかたちで夕食は終わった。
 そのまま真っ直ぐあてがわれた部屋に戻ってきて、今に至る。

 まだ夜も始まったばかりの時間だというのに。下から伸びてきた手にずぶずぶと引きずり込まれてゆくように。
 絡まりついた眠気が抜けない。
(……一服、盛られたかな)
 必死に目蓋を開いていようとするのだが、気がつくと半ば閉じかけている。
 首を少し揺するが、すぐにまた同じ状態に戻ってしまう。
(くそっ……もっと気をつけるべきだったか……)
 必死の抵抗も空しく、意識は、導かれるままにずぶずぶと暗闇に沈んでいった。

―――珍しいのは、悪いことじゃないよ。

 昔聞いた声を思い出した。


            *


「綺麗に見えるけどこの街、ほんとうは凄く激しいんだ」
 台所兼居間、というような狭い部屋に、テーブルがひとつと椅子がふたつ置かれている。
 その片方に片膝を抱えて座った少年―――デュークと名乗った―――は、ぽつりと口を開いた。
 激しい? 主語のないその言葉に、レイが目線で訊くと。
「貧富の差がね」
 と、デュークは手当てされた少し腫れた頬を歪めて笑った。
 テーブルのちょうど上についたランプが、オレンジ色のいささか暗い光を落としている。
「食べてくにはあんまり困らないんだけど。母さんが元々病気だからさ。薬代が、馬鹿にならなくてさ……」
 まるでひとりごとのように、斜め下の床を見つめながらとつとつと話すデュークの瞳は、オレンジ色のランプの中でもはっきりと分かるぐらい真っ赤だった。
「おれ、街の酒場で働かせてもらってるんだ。食器洗いとか給仕ぐらいのものなんだけど。もっと色々働ける場所増やそうとか、思うんだけどさ。断られちゃうんだよね」
「年のせい?」
 訊くと、デュークは力なく首を左右に振って見せた。
「目の色のせい」
 苦笑が続いた。
「目の色?」
「赤いからだって。店の客が怖がるからって」
 デュークは、片膝を抱いていた腕を足から引き剥がして、額から目のあたりまでを覆った。
「カクセイ遺伝、なんだよね。ばあちゃんが"純血"だったんだ」
「純血?」
「黒髪に赤い瞳のことを、"純血"って呼ぶんだって。ばあちゃんが教えてくれた。純血の方が、ハクガイが多いって。だからおれも、ちょっとラッキー……なのかも」
 ハクガイ。迫害。知らないうちに、口の中で何度かその言葉を繰り返している自分に、レイは気づいた。
 デュークの言葉を借りるなら"純血"の友人の顔を嫌でも思い出す。
 どうして、「黒髪」と「赤い瞳」が忌避されるのだろうか。何度も考えていのだが、その理由になりそうなものに辿り着いたことは、残念ながら一度も無い。
 珍しい、というのは分かるのだが―――特に赤い瞳―――それだけで「悪魔の象徴」だなんて物騒なことは言えないだろうに。
「なんでだよ……」
 デュークの声に、レイは我に返った。
 デュークは相変わらず片手で顔の片方を覆ったまま、その小さな肩を小刻みに震わせていた。
「盗ったのは、おれなのにさ、なんで母さんが……」
 畜生、と、その小さな体に似合わない悪態が続けて落ちた。

 デュークの母親に目立った外傷は無かったが、数箇所、殴られたあとのような打撲が見られた。
 それとショックによって発作を起こしたというのが医者の見方だった。
 あの男たちだろうか。
「悪いのはさ、わかってるんだ。だけど他に方法……なくてさ。おれ、どうすればいいか……」
 両手で顔を覆って、デュークは小さくしゃくりあげ始めた。
 盗んだ方が悪いと諭すことも出来なくて、レイは黙る。あの男たちの態度は、何かおかしかった。
「……あの粉、なんだったのかな」
 しばらく黙ったあと、デュークがぽつりと呟いた。
「粉?」
「あの男たちから掠め取ったケースの中に、ぎっしり詰まってたんだ。白い"粉"……」


            *


 キィ、と小さな音をたてて扉が開く。
 照明が全て落とされた部屋に、黒い影がすべりこんだ。そのままその影はベッドへ近づいてくる。
 壁を向いて片腕を頭の下に敷きこんで、すっかり熟睡している男の体にゆっくりと手をかけ、仰向けにする。
 心臓の鼓動が煩い。初めてじゃないのに。
 ベッドの上で横たわっている男は、まるで死んだように眠っている。
 薬の分量は間違っていなかったようだ。いつも通りにやったのだから、当たり前かもしれない。

(それも全て、この世界のためだから。今、この世界は間違ってるんだから)
 何度も言い聞かせて、小刻みに震える手を、ベッドの男の鼻に近づけた。
 起こさないようにゆっくり―――睡眠薬が入っているから大丈夫だとは思うけれど―――鼻をつまむ。
 すると、空気を求めるように口唇がうっすらと開いた。
 そこに。
 用意してあったものを取り出して近づけてゆく。これを口に入れればそれで……。
 口に放り込む、その一瞬に。
 急にベッドに横たわっていた腕が動いて、手首をつかまれた。
「ヒッ―――」
 悲鳴をあげる前にもう片方の手で口を塞がれ、戸惑っている間に腕を後ろに捻り上げられた。
「っ……!」
 痛みに悲鳴を上げることも適わず、ただひたすら震えるしかない。
「く、くすり……」
 口を塞いだ相手の指の隙間から、自分の声がそうやって漏れたのだけを、メアリは聞いた。
「あァ、睡眠薬な。かなりきつい奴だな、あれ」
 自分の後ろに回って右腕を捻り上げている男は、心なしか声が少し嗄れていた。眠気が絡まっているようにも思える。
「稼業柄、ほとんどの薬はあんまり効かねぇんだけど、あれは流石にちょっと厳しかったな」
 無理をして起きていたのだろう。睡眠薬の作用を無理をして振り切ると、軽くラリった状態になる。
 口を覆う彼の指先が、少し震えている。
「俺に、何、飲ませようとした?」
 メアリは口をふさがれたまま首を緩々と振った。用意してきたものを、右手の内側に握り締めてしまう。
「ったく、頭痛ぇのに……」
 ハルトは、メアリの口を塞いだ手を離すと、その右手を握り締め、メアリの鳩尾に軽くその拳を埋めた。
 びくりと小さく震えた体が、やがて力を失って倒れこむ。その体をベッドに寝かせてやって、メアリが握り締めた右手を解きながら。
「……あー、女に手ェ上げちまった。……怒られる」
 仕方がないこととはいえ、自分の中で引いてきた最低限超えてはいけないボーダーを飛び越えてしまったような気がする。
 怒りそうな人間の顔が次々と脳裏を掠めては消えてゆき、ハルトはだんだん憂鬱になった。
「特に怖いのが神父だよな……」
 男として女に手を上げるのは下衆にも及ばないと、とてつもなく素晴らしい笑顔で言われたことを急に思い出した。
 あの人、笑いながら人を殴るのやめて欲しい。などと思っているうちに、しっかりと握り締めたメアリの掌が開いた。
「カプセル……?」
 メアリの掌から転がり落ちてきたのは、一見薬のカプセルのように見えた。片方が赤、もう片方が透明で出来ているカプセルだ。
 ごそごそと辺りを探り、部屋に申し訳程度に置かれている机の2番目の引き出しから真っ白な便箋を引きずり出し、机の上でカプセルを開いた。
 便箋の上に、中の粉をあける。
 真っ白な便箋の上に広がった粉は便箋と同じ色で、暗闇の中ではほとんど判別がつかない。
 人差し指で粉の上をなぞり、親指で擦り合わせてみる。かなりきめの細かい粉だ。
 舐めてみようか、というような誘惑が一瞬だけ心を掠めたが、やめた。
 なんだか取り返しのつかないことになりそうな気がして、指に絡まりついた粉を払った。

 とにかく、今のうちにこの屋敷を出たほうが多分賢い。
 ハルトは、今にでも床に倒れこんでしまいそうな重い体を何とか動かして寝室から出ようと―――したところで、足が何か硬いものを踏みつけたことに気づく。
 身をかがめたらそのまま倒れこんでしまいそうだったが、なんとか体を曲げてそれを拾い上げる。
 何も書かれていない、一枚のカード。ハルトはぼんやりしたまま、そのカードを懐に収めた。
「悪いな」
 未だ気を失っているメアリに小さく詫びたあと、ハルトは、細く開いたままの扉から廊下へと出た。

―――領主自身が、死んでから3日後に蘇ったって言う。
―――蘇らせてもらった人間は例外なくオゼに住み着くって言うから、どんどんオゼはでかくなってるらしいぜ。
―――黒い髪と赤い瞳を持った人間は、神から遣わされた御使いの印です。

 一体この城は、なんだっていうんだ。
 あれだけ賑わっていた街の中央にそびえたっているというこの城なのに、人の気配が全く無い。
 晩飯の給仕をしていたのもメアリひとりだった。こんなに広い城なのに?
(俺が見たのは、領主と、その執事らしい若い男と、メアリだけ―――か……)
 黒い髪と赤い瞳、という単語に惹かれてやってきたものの、なにやらこの街は良くない、と思う。
 狂信的なものは元々苦手だし、この髪と目のおかげでターゲットにもされかけた。いや、今もされているのか?
 それならばここに長く留まっている必要はない。本来の目的は人探しで、この街の裏を暴くことじゃない。
 石造りの廊下をいつもよりもかなりスローなペースで歩きながら、何とか自分を納得させようとする。
 が、何かが引っかかってどうしようもないのは確かだ。
 しかし、それで深入りしすぎて失敗することもある……などと考えはずっと堂々巡りだった。

 見張りに注意などしてみたものの、廊下から階段から玄関に至るまで、人の気配は全く無かった。
 大階段を降り、そのまま真っ直ぐ入り口の扉に手をかけると、驚いたことに扉も開いていた。
 ますます分からなくなる。気味が悪い。
 大きな扉を押し開けると、思いのほかギィ、と大きな音が響いた。
 玄関のホールに谺して、やがて消えてゆく音が、霞のかかったような頭にもよく響いた。
 もう眠いのかどうかも分からない。頭の芯がぼぉっとして、風邪で高熱を出している時のようだ。目蓋の奥が痛い。開いているのが片目だけなので、更にバランスが悪いことこの上ない。
 どこかで休みたいがそうも言ってられないだろう。一歩踏み出し、気持ち程度の階段を2、3段降りて地面に足をつけた。冷たい気がした。
 城の前は馬車寄せのように心持ち広くなっていて、それから先はオゼのメインストリートに繋がっている。
 しばらく歩いて門を出ると、なだらかな傾斜がずっと下のほうまで続いていた。街も城同様ひっそりと静まり返っている。
 最近建てられただろう、新しい家々が目に付いた。この街に留まった人間たちの住処だろうか?
 しかし、ここまで静まり返っているとは。なにやら住民全てが消えてしまったかのようだとぼんやり思った。

 ずるり。

 その音が聞こえてきたのは、ハルトが門を堂々と開いて出たときだった。門までも施錠されていない。
 ここまで来ると、気味悪がる気にもなれず、半ば呆れ顔で門を開いた。ぎしりとまたしても大きな音を立てて。
 城を出るまでは、裏通りを選んでオゼを出ようかと思っていたが、この様子ではなんだかそんな小細工を弄するのが馬鹿らしくなってきて、ハルトはメインストリートの坂を下ることに決める。
 先ほどから耳の奥で耳鳴りがやまないのだが、真っ直ぐ歩くには支障はないだろう。

 ずるり。

 何か重いものを引きずるような音が聞こえた。先ほどは幻聴だと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。
 ……足の無い生き物が下半身を引きずるような。わずかに濡れた音もする。

―――……り。

 そのずるずると何かを引きずる音に混じって、喘ぎ声のようなものも聞こえてきた。
 ホラーかよ、とぼんやりした頭で考える。何しろその音は、自分が面している坂道の下のほうから這い上がってくるように聞こえてくるのだ。
 ハルトは動けずにいた。坂道のてっぺんに立って、じっと音がしてくるほうを見つめて。
 やがて、暗闇の中に白いものが浮かび上がった。五つに分かれた細い枝のような。
 指だった。
「……を、……れ」
 今度ははっきりと肉声が届いた。男の声のようだ。しかし擦れて途切れて、文にはなっていない。
 指先がやけに、青白い?
「くすりを……くれ」
 ズルズルと地面を這って、男が現れた。頭の右半分がスキンヘッド、左半分が長髪という、半端な髪型の男だった。
 目は虚ろで、どこも見ていないよう。瞬きもほとんどしない。
 石畳の道を必死に上半身の力だけで這いずってきたらしい。そこに立っているハルトにも全く構わず、門の方へ―――。
(こいつは、城に来たのか? 何のために……)
 金縛りに遭ったようにハルトは動けず、ただ、この男の一挙一動を見ていた。
 ハルトは、男の体を一度頭から足のほうまで眺めて―――、信じられないものを見た。
 幻覚ではないかと片方だけの目を疑い、何度か瞬きを繰り返したが、暗闇の中に確かにそれはあった。
 思わず足を踏み出し、少し坂を下る。男が這った後は、まるでナメクジが通ったあとのようにわずかに濡れていた。
 屈んで拾い上げたのは、茶色の頭髪だった。かなり長い。
 わずかに濡れたそれを手に握った瞬間、ハルトは冷たいものが体中を駆け巡るのを感じた。
 男はスキンヘッドに長髪の半々、だなんていう中途半端な髪型などでは、なかったのだ。
(……抜け落ちた、のか……?)
 ここで。ごっそりと?
 病気の抗生物質などによる副作用で髪が抜けることがあるのは知っているが、こうもごっそりと髪が抜けたのを見るのは初めてだった。
 思わずごくりと咽喉を鳴らしてしまう。
 がしゃん。
 静まり返った街の中に、硬い音が響き渡る。
 振り返ると、先程の男が門にぶつかったところだった。
 青白い指を門に絡ませて、なんとか体を起こそうとする。ずる、と後頭部からまた髪が落ちた。
 知らず知らずのうちにハルトは自分の口元を手で覆っていた。
「くすり……」
 男が喘いだ。しかしそれはもう、声ですらなかった。獣のような呻き声。
 門の格子の中ほどまで這い上がった指先が、ずるりと地面に落ちた。そのまま男の体はそこに小さく蹲って、動かなくなった。
 ハルトは、改めて自分が右手に握った茶色の頭髪に視線を落とす。

 ぶしゅっ。

 鈍い音が聞こえて、ハルトは柄にも無く大げさに震えてしまった。
 恐る恐る顔を上げると、門の前に男の体は無かった。ただあるのは、ばらばらに砕け散った肌色の、"なにか"の破片ばかりだった。

「くそっ!」
 悪態を吐き出し、右手に握った頭髪を振り捨てると、ハルトは、城に駆け戻っていた。
 一体何が自分を駆り立てたのかはよく分からない。しかし、このままこの場所を去ることはできなかった。
 "この街は一体どうなっているんだ"。
 指先に、先程の髪の毛の感触と、親指と人差し指で擦り合わせた粉の感触が交互に蘇る。
 あの粉は一体なんだったんだ?
 メアリが、睡眠薬まで使って無理矢理飲ませようとしたあの粉は。

 もはや遠慮も何もせずに扉を開け放った。ばたん、と大きな音が玄関ホールに響くが、反応は何もない。
 わんわん、と耳鳴りは続いている。
 ……戻って来たはいいものの、これからどうすればいいのか全く考えていないし、思いつきもしない。反射的に駆け戻ってきただけなのだ。
 急に走ったせいか、眩暈が来た。足元の地面が揺れているようだ。
 何もかもあの睡眠薬―――。と思って口唇を噛んだ。
 刹那、視界の端でなにか白いものが揺れた。
 慌ててそちらに顔を向けてみるものの、何も無い。まぼろし、かもしれない。
 しかし、足は勝手にそちらの方に向かって踏み出していた。
 入り口を入ってすぐの広間。真っ直ぐに向かうと大階段がある。しかし、左右に折れると細い廊下が続いているのだ。
 導かれるように、ハルトはその細い廊下へ入ってゆく。
 静まり返った廊下に自分の足音と、少し普段よりも荒い呼吸と、早鐘のような鼓動だけが聞こえた。
 後頭部を打つような頭痛はまだ続いている。
 細い一本の廊下の両壁に、向かい合わせるように扉が張り付いていた。廊下の一番突き当たりにある、向かって左側の扉が少し、開いていた。
(出来すぎだ。こんなの罠に決まってる)
 こんなに都合よく話が進むはずが無い。頭の中で引き返せ、という声が聞こえたが、今回ばかりは引けなかった。
 この街で今何が起きているのか、知りたかった。
 ギィ、と軋む音を立てて扉が開く。今夜何回聞いた音だろう。
 扉の先には、古びた階段があった。階段の先は闇に包まれて見えず、まるでバケモノの口の中を連想した。



3.

 紫煙が目に染みて、ようやく煙草が短くなっていることを知った。
 キーボードに置いていた右手を持ち上げ、銜え煙草を灰皿に押し付けて消す。
 先ほど淹れたと思っていたコーヒーのマグカップに手を伸ばすと、それはもうすっかり冷え切っていた。
 暗い部屋の中でぼんやりと浮かび上がるのは、液晶ディスプレイだけだった。
 顔を上げて斜め上にかけてある時計に目をやると、午前2時半を大きく回っている。
 がちがちに固まってしまった肩をほぐすように大きく背伸びをしたところで、背中の真後ろにある扉が開く気配がした。
「どうしたの。早起きにも早すぎるよ」
 サイジョウ・ヒイラギは、この訪問者が誰であるかを知っていた。
 振り返りもしないまま、眼鏡を外す。
「サイジョウさん」
 か細い声が返ってくる。扉を開いて、また閉じた音がするが、"彼女"はそこからこちらへは、近づいてこようとしない。
「怖い夢でも見た? モエ」
 相変わらず背中を向けたまま訊いた。彼女が"隊長"ではなく、そういう呼び方をするときは決まって、少し不安定なときだ。
 返事が無いのは肯定だろうか。ふたりの隙間を沈黙が通り過ぎる。
「ゆめ」
 小さな声で彼女が言った。
「雨が凄くて、雷も……。すぐに分かった。ああ、あの日なんだって」
 ずるずる、何かが滑り落ちる音が聞こえた。きっと、扉にもたれてモエがそのまま座り込んだ音だろう。
「夢だって、すぐに分かった。だから、つめたい床に転がったまま目を閉じて、雨音と雷の音を聞きながら、ずっと待ってるの。―――サイジョウさんが、来てくれるのを」
 声が少しくぐもって聞こえるのは、恐らく、抱えた膝に額を押し付けたりでもしているのだろう。
「だけど、待っても待っても、扉、開かなくて。そうしたら急にどっちが夢でどっちが現実なのか、分からなくなって。もしかしたら、"研究所"の外へ出て暮らした何年もの間が、長い長い夢だったんじゃないかって。私まだ、あの中にいるんじゃないかって。すごく悲しくて……」
「でも、目は覚めただろう」
 距離を保ったまま、言った。目は覚めたでしょう。現実はどちらか、分かったでしょう。
 すると、うん、と頷く声だけが返って、またしばらく沈黙が降りた。
 彼女は、"ここにいるのだということ"を確かめに来たのだろう。分かったから、敢えて聞かなかった。
「ねぇ、サイジョウさん。何であの時……」
 伏せていた顔を持ち上げたのか、声が明瞭になった。視線を感じる。背中を見つめてるんだろうと思う。
 振り返りはしない。
「なんで、8年前のあの時、私を助けてくれたんですか」
「かわいそうだと思ったからだよ」
 何も隠さずに、本心を告げる。

 同情したからだよ。

 小さくうん、と頷いたあと。
「それでいいよ」
 とモエは返した。

 私に興味を持ってくれたんなら、同情でいいよ。

 ピルピルピルピル。
 再び折りかけた沈黙を、間抜けな音が引き裂いた。通信の着信音だった。
 サイジョウは、ふたつみっつボタンを押して、通信を繋ぐ。午前3時前、非常識な通信を。
《よぉ。相変わらず間抜けな顔だな》
 開口一番、ディスプレイの向こうの男はそうのたまった。
 ばさばさに乱れた不揃いの髪が、獅子の鬣のように見える。
「よくもまぁ、こんな深夜に通信をいれて来て。非常識に磨きがかかったねお前も」
《年を取ればな。それなりにふてぶてしくもなるさ》
 このふたりが顔をあわせるのは、通信を介してでさえ数年ぶりなのに、全くそのブランクを感じさせない会話だ。
 聞き覚えのある声に、ドアにもたれかかって座っていたモエが、ゆっくりとディスプレイの方へ近づいてくる。
「アース……」
 モエがサイジョウの肩越しにディスプレイを覗き込む。すると、向こう側の若い男が、少し驚いたように目を見開いて、すぐに破顔した。
《久しぶりだな。元気そうで安心した》
「通信を受け取る相手にもそのぐらいの労わりが欲しいんですけども、"先輩"」
 年下だが"研究所でのキャリア"は、ディスプレイの向こうの相手が上である。そこのところの嫌味もこめて「先輩」と呼んでやるが、アース・フィラメントには全くダメージにならないらしい。
《俺は、人によって態度を変えてるんだ。それ相応の態度にな》
 そうですか、と溜息混じりに返すサイジョウに構わず、アースは用件を述べた。
《知ってるか、ヒイラギ。変なドラッグが出回ってるぞ》
 言いながら、アースは、白い粉の入った袋を持った手を軽く上げてみせる。
 それを見た瞬間に、サイジョウの顔色が変わったのを、隣にいたモエははっきりと見た。
「冗談なら、笑えんぞ」
 声が硬い。
《お前は賢いくせに時々頭が回らんな。誰が冗談でこんな通信を入れるかってんだ。しかもこんな時間にだ。―――本当は分かってるんだろう?》
 サイジョウは答えない。じっとディスプレイを―――正確にはその向こうのアースが持っている白い粉を―――凝視している。
《出所は今調べてるんだが、俺の勝手な予想だと、とある人物が陰で糸を引いていそうなんだが》
「とある……」
《お前の親父さんだよ》
 サイジョウの言葉を封じ込めるように、畳み掛けるようにアースは言った。
 最後にとりあえず、「根拠の無い、悪意の籠もった予想だがな」と付け加えた。

《ヒイラギ、お前どうする》
 意地悪く口元を歪め、アースが笑って言った。


            *


 闇に向かって足を進めるのは、好きじゃない。
 そんなことを言うと、いつも誰かが「お前が?」とご丁寧に反論をくれる。
 子供じゃないんだから。遺跡の発掘が仕事なんじゃないの?
 馬鹿だな。イキモノって奴は、本能的に闇を畏れるように出来てるんだ。
 かつん、かつんと先程から等間隔で硬い音が響いている。
 細く狭く、しかも天井も低い階段を、随分降りていた。
 途中まで段数を数えていたのだが、馬鹿らしくなってやめてしまった。
 ただでさえ、頭の回転が良くないのだ。―――盛られた睡眠薬のせいで。
 ちょっと待てよ、俺が盛られたのは本当に睡眠薬だったのか?
 突然浮かんできた疑問に、ハルトは思わず足を止めた。
 どうやら今回の一件には、何かの『薬』が絡んでいるらしい―――恐らく非合法のドラッグだろう―――どういう原理かは分からないが、そのおかげで男がひとり"破裂して"死んだ。
 もしかしたらその薬物はもうこの体の中に入っているんじゃ……。
 もしそうだとしたら、このダルさも睡眠薬がもたらす睡魔を振り切ったからではなく―――。
(いや待てよ)
 絶望的な予測にずぶずぶと嵌りそうになっていたところでハルトは何とか引き返した。
 ならば、メアリが飲ませようとしたものはなんだ?
 そうだ。メアリはカプセルに入った白い粉を飲ませようとしていた。あれが多分そのドラッグ―――だと思いたい。
 結局不安からは抜け出せないまま、ハルトは再び階段を降り始めた。考えていても始まらないからだ。

 ようやく闇の先に、小さな光の欠片が見え始めた。
 ちらちら揺れるその光が、点滅する赤。まるでこの瞳の瞬きのようだとぼんやり思う。
 一段一段降りてゆくと、それが、扉に取り付けられたカードスキャンの電源であることに気づいて、何故か少しほっとする。
 最下段に足を下ろし、自分の身長よりも少し高いだけの鋼鉄の扉の前に立った。自動ドアではなかった。沈黙したまま動かない。
(さっきのカードで、開くかな)
 メアリが落としたらしいカード。思わず懐にしまってしまったそれを引きずり出して、ためらいなくその機械の上から下へと滑らせた。
 別に開かなくても、このぐらいならどうにかできる自信はあったが。
 ぴぴ、と小さな音を立てて、扉が横滑りに開いた。
(なんだ、開いちまった)
 あまりにも呆気なくて、ついついそんなことを思ってしまう。
 とんとん拍子にことが運ぶと、どうしても疑ってしまう。落とし穴はどこに掘ってあるかと。

 開いた扉の先には、広い空間。足元の床は鈍く銀の光を発する鋼鉄。一歩を踏み出すとかつり、と踵が鳴った。
 その広い空間を埋める物質はほとんど無かった。簡単に言うと、ただの広場のような場所だったのだ。
 足元は床自体が発するごく弱い光で見えているものの、数メートル先は先程と同じように闇に塗りつぶされている。
 ぐるりと辺りを見渡して、およそ城の外見とは似合わない地下室だな、とハルトは思った。
 と、その視界に今度は黄緑色の光の点滅が飛び込んできた。規則的に点滅を繰り返す、暗闇の中の唯一の光。
 気がついたらそちらの方へ歩き始めていた。既に闇に慣れていた瞳が、あたりの景色を徐々に映し出す。
 壁に寄せるようにして、様々な機械の端末が見えた。
 ハルトにとっては見慣れた光景だった。遺跡と一緒だ。
(いや、もしかしたら……)
 ひとつひとつの端末を舐めるように凝視して先へ進むハルトの脳裏に、ひとつの仮説が浮かび上がった。
(ここは遺跡だったのか?)
 "遺跡"と呼ばれる遥か昔の文明の残骸は、そのほとんどが発見と同時に教会の管理下に置かれるのがほとんどである。まるで昔を暴かれることを厭うように。
 その網の目をかいくぐって、今ここに存在し、稼動しているこの機械が、合法的なもののために動いているとはとても思えない。
 黄緑色の点滅に近づいてゆくと、どうやらそこにディスプレイがあることに気づく。
 無数に並ぶキィの上に右手を滑らせて、いつも"遺跡発掘"の際にやっているようにいくつか叩いてみた。
 ぶぅん、と鈍い音をたて、闇と同じ色だったディスプレイに、電源がついた。
 続けて、またいくつかキィを叩く。部外者が読み取れないようにと施されているはずのロックが見つからない。普通は、なにかパスワードを入力するはずだが?
 不審に思いながら、一番最新に更新されたデータを読み出す。
 確かに現在ではほとんど見られない型の機械だが、よく整備されている。絶えず使われていたのだろう。
 何のために?

 黒い画面に、ぼんやりと白い文字が浮き上がり始めた。
 まるで何者かがキィボードを打ち込んでいるように、上から順に横に文字が並んでゆく。
 カタカタと音を立てて並んでゆく文字を追うように、ハルトの視線が横に動く。
 読み出された画像が徐々に表示されてゆく。
 円形の、グラフ? その横にはいくつもの数字。何かの成分表のようだが―――……。
 延々と浮かび上がってくる文字を目で追ううち、ハルトは徐々に瞬きを忘れていった。
 ぼんやりと霞がかかっていた頭の芯が、次第に冴えてゆくのを感じる。
(……なんだ、これは)
 背筋を、冷たいものが伝って落ちていくような錯覚。体中に広がるつめたさ。内側から、じわじわと。
 自分の目が見開かれていく感覚を、まるで他人事のように感じる。

 ざぁ、っと背中の方で水が流れるような音がしたが、ハルトは振り向けなかった。視線が画面に縫い付けられたように動かない。
 ひたひたと、魚が跳ねるような音が後ろから近づいてくる。
「何をなさっているの?」
 後ろからやけに静かな声が聞こえて、ようやくハルトは、ゆっくりと振り向いた。
 暗闇の中にぼんやりと白いものが浮かび上がる。それが、濡れた体に布一枚を巻きつけたサンビアであることに気づくのに、少し時間がかかった。
 黒炭のような真っ直ぐな髪が、水気を含んで顔の両脇に垂れていた。雫がぱたり、ぱたりと床に落ちる。
 濡れた足跡を逆に辿ると、部屋の隅に置かれている卵形の機械に行き着いた。蓋が上に開いている。
「気になって、途中で出てきてしまいましたわ。何かわたくしに御用?」
 ひたり、サンビアがこちらに一歩を踏み出して、まだ濡れたその手を伸ばしてくる。
 顔の左側に、その冷たい手が触れて、ハルトは思わず体を硬くした。振り払えずに。
「あら、まだ治っていないのね。わたくしの治療は不満?」
「……治療? ふざけたこと言うなよ」
 左目の眼帯の上を濡れた指が撫でてゆくのを感じながら、ハルトはその手を掴んだ。氷のように冷たかった。
「どういう意味?」
 相変わらず涼やかな目元でサンビアは見上げてくる。同じ色の瞳。
「あの薬、どこで手に入れたんだ?」
「薬?」
「しらばっくれんじゃねぇよ! ここに書いてあるだろうが! "細胞を無限に再生させ続ける"白い粉のことだ!」
 ばしりとコンピュータに掌を叩きつけて、ハルトは叫んだ。浮かび上がってきたデータが告げたこと。

 脳に菌を寄生させ、傷ついたところを修復し続ける。
 依存性が強く、また、継続して摂取しなければ体の形を保っていられないという、不完全な、再生。
 先程の男の体が崩れたのも、おそらく効果が切れたからなのだろう。
 "復活"を成し遂げた人々がこの街に留まるのは、薬を摂取し続けなければ生きてゆけないから……。
 自然と人口は増え、街は大きくなる。

「わたくしたちは何故……」
 ハルトに右手を掴ませたまま、唐突にサンビアが口を開いた。質問には答えずに。
「悪魔と呼ばれ、蔑まれ、忌避されねばならないのか、考えたことはありますか?」
「何……?」
「この髪と、瞳の色のためだけに迫害され続ける意味を?」
 瞬きすらしないサンビアの瞳に見上げられ、ハルトは、蛇に睨まれた蛙のようだった。体が動かない。

 少なからず、考えてきたことだった。
 拾われて育った地域では、それほど迫害は強くはなかった。だから気付かなかった。
 しかし、発掘作業をはじめて広い地域へ出かけるようになって、知った。
 この髪と瞳がセットになることはとても珍しいのだと。
 たくさんの地域で、悪魔の象徴と呼ばれ、忌避されていることも。
―――珍しいのは悪いことじゃないよ。
 名付け親の言葉を思い出す。そうだ。珍しいことは決して悪いことではないはずだ。
 信じてきた。
 それでは何故、髪と瞳という体の一部分の色を指差して、悪魔と呼ぶ。理由は?
「あんたは……、その答えを知ってるって言うのかよ」
 声が擦れて、少し震えていた。緊張が混じって。

「この星は、わたくしたちのものです」
 真っ直ぐにハルトを見つめたまま、サンビアが言った。



4.

 夜の闇が少しずつ薄まってきた。
 通信を終えたディスプレイの前で、しばらくの間ぼんやりとしていた。何を考えるわけでもなく。
 そうしていた時間は5分か10分ぐらいにも思え、10時間以上にも思える。時間の感覚が麻痺していた。
 気の早い鳥が鳴き始めて我に返る。
「……ああ、朝か」
 とりあえず呟いてみた。
 静まり返った部屋にその声はよく響いた。
 椅子を180度回転させて、立ち上がる。すると、部屋の隅で座り込んでいたモエが、顔を上げた。
「眠い?」
 問うと、ゆるりと首を横に振る。
「じゃあ、皆が起きてきたら、移動の準備をお願いできるかな」
 煙草に火を点けながらサイジョウは言った。すると、モエは少し首を横に傾けて、怪訝そうな顔をする。
「そろそろ行こうかなぁと思って」
 不思議そうな顔のまま、モエが立ち上がる。その瞳を真っ直ぐ見て言った。
「カルチェ・ラタンに」


            *


「俺たちのもの? どういう意味だよ、それ」
 ハルトに握られたままの手をゆるりと解いて、サンビアはディスプレイの傍までゆっくりと歩き出した。
「わたくしたちが忌避され続ける理由が、それです。わたくしたち、"純血"はこの星に一番初めに根付いた民です。初めはこの星の全ての人間が、黒髪に赤い瞳を持っていたといわれています。それを突然現れた他の民との争いに敗れました。それから敗者として虐げられるようになった。これで辻褄が合うでしょう?」
 コンソールに後ろ手をついて、ハルトを見上げる。白い布が、まだ濡れた体に張り付いて、水滴が床に落ちた。
「……証拠は?」
「脈々と語り継がれてきたことですわ。純血の一族に」
「それが証拠に、なるかよ」
 ただの伝承と、割り切ることならば出来た。しかし、サンビアの言うとおり、辻褄が合いすぎる。

 遥か昔にこの星に降り立ったという「神の船」の人間との間に、争いが起きたとしたら。
 そしてそれに、敗れたのだとしたら。
 数が少ないのも、"悪魔"と呼ばれ忌避されるのも。
 敗者が奴隷として勝者につながれるのは、長い歴史に確かに存在する事実だから。

 もしも、純血と呼ばれる人間たちが、この星の"先住民"だったとしたら。
 すべてに辻褄が合うのだ。

「奪い返したいと思いませんか。正当な権利を、生き方を。この星を」
 濡れたような瞳で、サンビアがハルトを見た。
「人間全部、ゾンビにしてか?」
 ただ動いているだけの屍で、この世界を埋めてもか。
 薬の力を振りかざして、薬漬けにした人間どもをはべらせてか。
 そうして奪い取った自由にどれほどの意味がある。
「こんな病んだ手段で、一体何が変わる」
「不当な理由で虐げられ続けてもいいと?」
「こんな手段は好きじゃねぇ。権利を取り戻したとして、残った世界が病んでるなら何も意味が無い。俺は、生まれ育ったこの環境が好きだし、大事な奴らも両手に余るほどいる。毒でぶち壊そうなんて、思わねぇよ」
「……貴方はきっと、愛されて育ったのね」
 ふっと、サンビアは皮肉るように笑みを浮かべた。恵まれてきたのね。
 その赤い瞳が湛える色は、侮蔑しているようでもあり自嘲のようにも見えた。
「見えて?」
 すっと、サンビアがハルトの方へ向かって腕を伸ばした。暗闇の中に浮かび上がる白い腕。
 闇に慣れた瞳で、ハルトは差し出されたその腕を見た。
 きめの細かい肌に、細い線がいくつも入っていた。
「わたくしはずっと人の所有物として生きてきた。人間ではなくものとして、玩具として。ただ、髪が黒く瞳が赤いというだけで」
 その細い線は、消えかかり、そして決して完全に消えることはない傷痕だった。
 ナイフでつけられた、年輪を刻むようは傷。
「わたくしが自由を望むのはいけないこと? 不当な理由で捻じ曲げられた世界を元通りにしたいと望むのは、愚かなこと?」
 傷が刻まれた自らの白い腕を眺めながら、歌うようにサンビアが言う。
「わたくしが欲しかったのは、たったひとつだけです」
 自由。ただひとつ。
「もしもそれが叶うなら、手段など……」

―――貴方は、選ばれた人だ。

 不当に虐げられていると教えられたあの日から。
 望みはひとつ。
 世界を奪い返すこと。
 そのためならば、この世界がいくら毒されようと、構いはしない。
「さぁ。奪い返しにゆきましょう」
 サンビアはハルトに手を差し伸べた。とある男がそうしてくれたように。
 道を指し示してくれたように。
 私たちは立ち上がらなければならない。長い時を経て。
「世界を、奪いに」
 真紅の瞳が真っ直ぐにこちらを見る。ハルトは再び動けなくなった。伸びてくる手が額の前髪を払い、眼帯にかかる。
 サンビアの手が酷く緩慢に眼帯を外すのを、ハルトはまるで他人事のように感じていた。
 覆い隠していることの多い左目に、空気は少し冷たかった。
 サンビアの細い指先が、閉じたままの左目の上をなぞり、やがて目尻から耳にかけてうっすらと残る、弾丸の掠った痕に触れた。
 なぞる指先に導かれるように、うっすらと左目を開く。途端に視界がバランスを失い、目の前がぼやけた。
「ああ、綺麗な赤―――」
 露になったハルトの瞳に、サンビアは同じ色の瞳を細め……。
 そのままぐらりと前のめりに倒れた。
 反射的にその体を抱きとめて、しゃがみこむ。白い背中には腕と同じように無数の切り傷の痕があった。
「……ぁっ……!」
 腕の中でサンビアは小刻みに痙攣し、荒い息を吐く。ぎり、と女とは思えない力で胸元を握り締められる。みるみるうちに肌が血の気を失い、青白さを通り越して土気色になった。
「しっかりとポッドに入ってくださいと、言ったはずですが? サンビア」
 突然後ろから声が聞こえて、ハルトは弾かれたように振り返った。気配を感じなかった。
 そこには黒いスーツ姿の、赤茶色の髪をした男が立っていた。サンビアの傍に控えていた、あの若い男だった。
 男はその涼しげな顔に笑みすら浮かべている。主がもがき苦しんでいるというのに?
「貴方がポッドを嫌がるからです。もう自分も"普通ではないのだ"という自覚を持っていただきたい」
 男はハルトの前に回り込むと、その手からサンビアの体を抱きとった。
「それに、まだ仲間でもないものに、少し話しすぎなのではないですか?」
「……ご、ごめんなさいドイル」
 その男に体を預けながら、親に怒られた少女のように怯えてみせるサンビアに、ドイルと呼ばれた青年は満足そうに笑みを浮かべてみせる。
「……貴方、この女をどう思いました? 案外普通に見えるでしょう?」
 腕の中で震え続けるサンビアの背中を撫でさすってやりながら、ドイルはハルトを見た。
 氷のように目が冷たい。
 この女? ドイルの口から零れた言葉に違和感を覚え、ハルトは怪訝そうに眉をひそめた。
「そこのディスプレイでご覧になったでしょう? やがてこのドラッグは脳まで冒すと。そうなってしまえば記憶を塗り替えたり操作するのは容易いことです。この女も、もうそうなんですよ。彼女に残っているのは、自由になりたいという願い。世界を奪い返したいという執念。ただそれだけです」
 秘密ですよ?
 口元に人差し指を当て、ドイルは冴えた笑みを浮かべた。
 ざわりと全身の毛を逆撫でされたような悪寒が這い上がる。何を言っているんだ、この男は?
「人というものは貪欲なものですね。永久の生命を望む。それならばこのドラッグが広がるのも、時間の問題かもしれませんね。奇跡をでっち上げて、人々を呼び寄せなくても。どうです? この女は美貌の聖者を演じられていたでしょう? 死の淵から生き返った奇跡の聖女を」
「本当に、そいつは……」
「ええ。奇跡を演じるのは美しい女の方がいいかと思いましてね。元々"私の持ち物"でしたから。それに彼女には野望と執念があった。とても動かし易い駒でした。一度死んだこの女を生き返らせ、さも私が救世主のように振舞い、取り入るのは簡単でした。散々いたぶって殺したのも、私なのにね。記憶には残っていないようですが、潜在的に私を畏れる心は残っているらしくてね、私が触れると怯えるでしょう?」
 虐げられるために生まれてきたと蔑んだ口唇で、貴方は選ばれたのだと呟いた。
 ああ、曖昧な人の記憶。塗り替えることなど容易い。
「元々、黒い髪に赤い瞳の人種のことなど、私はどうでも良かったんですよ。ただ、この子が望んだのでね。箱庭を作ってあげただけです。この狭い街の中では、"純血"は確かに主だったでしょう?」
 憐れむような眼差しで、ドイルは腕の中で震えるサンビアを見下ろした。
「貴様っ……!」
「貴方もご自分で言ったじゃないですか。今更このような手段で復権出来るわけはないと。宙からの侵略者に敗れ、絶滅に近いほど数の減った先住民は、不思議な力を使い呪術を扱うその民族的特徴と黒髪に赤い瞳というその容姿から、悪魔と呼ばれ今まで虐げられ続けてきた。何千年と重ねられてきたものが、今すぐに変わるはずなどない」
 逆上するハルトに対してドイルの口調はあくまで淡々としていた。聞き分けの無い子供を諭すような口調だった。
「ドイル……。さ、寒いの。……苦しいのよ……。たすけて……」
 震え、掠れ、途切れ途切れの言葉でサンビアは訴えた。今までの会話が聞こえていなかったように。
 まるで幼い子供のように。
「だから言ったでしょう? しっかりとポッドで体を再構築しないと、体が崩れますよって……」
 サンビアの耳元に口唇を寄せ、言い聞かせるように優しく、ドイルは囁いた。
「ごめんなさい」
 ドイルにしがみついたまま、サンビアは小さく嗚咽を漏らした。初めて見た時の妖艶さはすっかりとなりを潜め、臆病な娘のようだ。
「ほら。肌が……」
 ドイルの掌が、まだ濡れたサンビアの背中を滑った。青白く闇に浮かび上がるその背中から手を離すと、明らかに水ではない、何かぬめりを帯びた液体が糸を引いた。
「融けてきた」
 くすり、と笑ってみせる。
 ハルトは、先程城の前で見た男の姿を思い出した。門の前まで辿り着いて、崩れ去った男の姿を。
「たすけて。死ぬのはいや……」
「そうだね」
 ドイルは、スーツの内ポケットからカプセルを幾つか取り出すと、自らの口に含み、そのままサンビアに接吻けた。
 口移しされたカプセルをサンビアが嚥下するのを見届け、口唇を離す。
「さぁ、これでいい」
 抱きとめていた腕を放し、サンビアをひとりで立たせると、ドイルはコンピュータの方へと歩き出した。
「ハルトさん」
 歩きながら、ハルトを呼ぶ。
 キィボードの前に立ち、幾つかボタンを押してから、振り返る。

「ひとは、神になれると思いますか?」

 立ち尽くすハルトに向かって、涼しげな笑みを浮かべたまま、言った。
「神に……?」
 問いを繰り返そうとしたハルトの視界に、異変が映った。
 少し離れたところに立っていたサンビアが、がくりと膝をついて倒れたのを見た。
「ああ、そう言えば」
 本当に今思い出したような口調で、ドイルが口を切る。
 サンビアは冷たい床に蹲ったまま、がくがくと震えている。先程の比ではない。
「薬の分量を間違えたかもしれないなぁ。その薬は分量を間違えると、体が増殖と再生のスピードについていけなくなるんだった」
 床に蹲り、激しく痙攣を繰り返すサンビアを見つめたまま、あっけらかんと言い放つ。
「てめぇっ、わざと……」
 カプセルを取り出すドイルの指先に迷いは無かった。"わざと多量に投与した"。
「スピードについて来れなくなった体は、内側から崩壊をはじめますよ。スプラッタは平気ですか?」
「……あつ……い。灼けるっ……!」
 血を塗りこめたような色の爪が生えた手で、サンビアが咽喉を掻き毟って悶えた。白い咽喉に引っ掻き傷が出来て、血が滲んだ。
 その姿を満足そうに眺めやって、ドイルは歩き出した。階段のあるほうへ。
「ドイル……」
 それに気づいたのか、サンビアがずるりずるりと床を這った。血塗れの首を持ち上げて、ドイルの背中を見つめる。
「たすけて……たすけてください」
 強請るのはいや。媚びるのはいや。乞うのは……。
 そう願っていた女が再び口に出すのは"願い"。
 ドイルは肩越しに振り返る。目が合った彼女の赤い瞳は、あの頃と同じ怯えの色を湛えていた。
 柔肌を切り裂いて、鎖で繋いでいた頃と同じように揺れていた。
「ご主人様……」
 掠れた声がそう呟いた。多分もう、意識も朦朧としているのだろう。無意識のうちに、昔の呼び名で私を呼ぶ。

 ああ、なんて。なんて愛おしいだろう。
 思わず笑いがこみ上げた。

 二人の間にたったハルトが見たのは、愛おしい愛玩動物を見つめるような、やわらかいドイルの微笑だった。
「おやすみサンビア。愉しかったよ」
 赤い瞳から零れ落ちる涙が頬を伝って床に落ちる。床は、彼女の咽喉の傷から溢れた血で赤く濡れていた。
「これで君はやっと、望んでいた自由を手に入れられる」
 よかったね。
 声に出さず、口唇だけでドイルがそう言ったとき。
 ハルトの中で何かが切れた。
「てめぇっ!!」
 鋼鉄の床を自分の靴の底が蹴る音。ドイルの胸倉を掴んで、その顔に一発叩き込まずには居られなかった。
 しかし、後ろから突然足を掴まれ、ハルトはバランスを崩して床に崩れる。
 信じられない思いで振り返ると、サンビアの左手が、自分の左足にしっかりと絡まりついているのが見えた。
 驚異的な力で握り締めている細い指。
「お前、お前なぁッ! 何してんだよ、あいつはお前を見捨てようとしてるんだぞ!?」
 片足をつかまれたままの体勢で、ハルトはサンビアを怒鳴った。しかしもはや焦点の定まらない彼女の瞳は真っ直ぐに彼女の主へと注がれていた。
「いい子だ」
 止め処なく涙を流し続けるサンビアの目を真っ直ぐに見て、ドイルが言った。
 すると、サンビアの虚ろな瞳と口元が、不器用に笑んだ、気がした。
「さようならハルトさん。また、会えるといいですね」
 言い捨てて、ドイルは地上への階段をのぼりはじめた。ハルトは、愕然としてサンビアを見つめたまま、ドイルの気配が遠ざかってゆくのを耳だけで感じていた。
「こんなのアリかよ」
 もはや瞬きもしないサンビアの姿を見下ろしたハルトの口から思わず漏れた呟き。
「お前こんなんで……こんな終わり方で、いいのかよ……ッ!?」
 自分の左足に絡まりついたままのサンビアの指に触れて、ハルトはハッと息を呑んだ。

 もう冷たい。

 慌ててサンビアの瞳を見ると、瞳孔の開ききった赤い瞳。
「嘘だろ、おい」
 もう一度足に絡まった指に触れた。今度は簡単に外れた。
 足から外れた腕が、呆気なく床に落ちる。ぱたん、と音が響いた。
 ぬるりと滑るものを感じて、ハルトは自分の掌を見た。
 彼女の肌が、融けはじめている。やがて、門の前で崩れ落ちた男のように、跡形もなく崩れてしまうのだろうか?

 ゆっくりと立ち上がり、上から、サンビア・ジュスティンという女だった体を見下ろした。
 床に這いつくばり、何かに救いを求めるように腕を伸ばし、もう何も映すことの無い瞳で階段のある方を見据えている。
「こんなの、こんなの、アリかよ……」
 同じ言葉を繰り返した。無意識のうちに。
 しゃがみこみ、開いたままの赤い瞳をそっと閉ざしてやる。
「畜生」
 零れた悪態は、少し擦れて震えていた。どうして動けなかった。どうして何も出来なかった?
 もう既に彼女の体は薬物に冒されていたのだとしても。死は免れなかったのだとしても。
 こんな無残な死なせ方ではなく他になにか、あったはずなのに。
 噛み締めた口唇が切れて、口の中にわずかに鉄の味が広がった。
「畜生……」
 もう一度繰り返した。誰も居なくなった鋼鉄の地下室に、その呟きは空しく響くだけだった。


 カッカッカッカッ―――。
 どのぐらいそうしてしゃがみこんでいたのか。
 階段のあるほうから何か物音が近づいてくる。ヒールで階段を駆け下りてくる音に聞こえた。
 しゃがみこんだ体勢のまま、ハルトは動く気になれなかった。
 足音が次第に近づいてくる。

 カツッ。
 明らかに足音の質が変わった。コンクリートの階段から、この鋼鉄の床に踏み入れた音だろう。
 パァン。
 乾いた破裂音がして、自分の体からかなり外れたところを弾丸が飛んでいった。わざと外したらしい。威嚇用だろうか?
「動かないで!」
 聞こえてきたのは意外にも若い女の声だった。勢いはあるが、迫力はない。
「ゆっくり立ち上がって、手を、頭の後ろで組んで」
 カツン、カツンとヒールが鋼鉄を打ちつけながら近づいてくる。
 ここは逆らわないほうが懸命だと直感的に思った。
 ハルトは立ち上がり、頭の後ろで手を組んだ。






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