聖者は二度死ぬ
〜御使いの街〜
―――おい、これは一体なんだ!
扉を荒々しく開く音。声も、その音に負けぬほど荒々しかった。
―――ヒイラギ、お前いつのまにこんな……。
押し入ってきた男が、手に持った紙を、まるで親の敵のような顔で睨み付けている。
机の上から取ってきたんだろう。見つかるように置いておいたのも自分だ。
ただ、少し計算外だったのは、この男が予定よりも数時間早く帰ってきたことだった。
本当は、書置きのように見つかればもっと、様になるのに。
―――見ての通り。
黙々とカバンに荷物を詰めながら、顔も上げずに簡潔に返した。
―――見ての通りだと!? 俺は、お前がどういうつもりなのか訊いているんだ! 正気なのか!?
―――冗談でそんな試験受けるもんか。
―――もう一度訊くぞ、どういうつもりだ! お前はわざわざ……。
―――離せよ。
肩にかかった手を払い除け、少ない荷物を抱えて立ち上がった。
―――今まで面倒見てくれて、感謝してるよ。だけどもう、これ以上俺に干渉しないでくれ。叔父貴が止めても俺は……。
口唇を噛む。決意を固めたのだ。
―――止めとけ。辛いのはお前だぞ。
―――そんなのっ……!
悟ったような相手の口調に、ムキになって振り返る。
―――そんなの、分からないじゃないか。
もしかしたら、万が一。"億が一"でも、可能性があるなら。信じてみたいと思うのはいけないことだろうか。
―――なら勝手にしろ、俺はもう知らんぞ。
―――そうする。
入り口に立ちふさがった男の体を押しのけて、玄関へと向かう。
―――これだけは覚えとけよ、ヒイラギ。
突き刺さる、突き放す声。
―――お前がこれから飛び込もうとしているのは、姉貴を……、お前の母親を殺した男のところだぞ。
―――……。知ってるよ。
ばたりと玄関の扉が必要以上の力で閉められた。
―――馬鹿野郎……。
サイジョウ・アズマは、手の中の紙をぐしゃりと握り潰した。
『教会研究所研究員募集試験の結果報告。
サイジョウ・ヒイラギ殿
今回、貴殿が首席合格となりましたことをご報告いたします。
近々首都カルチェ・ラタンにて説明会を行いますので、ご出席くださいますよう宜しくお願いいたします。』
1.
視界が片方塞がれているのに、なんだか大分慣れた。
流石に一ヶ月となれば、適応能力も働くんだろう。
失明したわけではないのだが、極端に視力が落ちてしまったため、視界がぼやけてしまうのだ。
眼帯を装着して随分経っている。微妙に不便だったのははじめの一週間ぐらいで、それ以外はなんとなくわかるようになるから不思議だ。
(つーか、暇だな)
舗装された道からそれると、いかにも田舎道が目の前に現れた。
道の両側には森が……というか、森の間を切り開いて作った道のようなものだ。
(それとも仕事かな。勤勉で頭が下がるぜ全く)
先程から。
左右を挟むような森に、ちらりちらりと、人の気配。主に左側。当然か。眼帯してるもんな。
川に落ちて流されてしまった奴よりも、足取りが掴み易いんだろうとは思うが。
先日からストーカーも甚だしい。
「しつこいオトコは嫌われるんですよ、と」
呟いて、立ち止まる。左右の気配も同じように止まった。わかりやすいな。
(追跡には慣れてないみたいだな。とすると、職業軍人じゃねーな。雇われチンピラってとこか……)
「っつーか、それで隠れてるつもりなんだ?」
大声で言ってやると、どこかで息を飲む声が聞こえる。
どうやら本当に隠れているつもりだったらしい。頭隠して何とか。とは、こういうときに使っても多分構わないだろう。
「お宅ら、日雇いいくらよ?」
わざと挑発するように言ってやる。神経の半分以上は左側に注いで。目に見えない分、死角が増える。
ひゅっ、と風を切る音が左側から聞こえた。条件反射で体をそらすと、頭のあったところを何か光るものが通り過ぎた。高速で。
多分。ナイフ。
(だからさー、そういうところがアマチュアだって言ってるのに)
とは、声に出さずに。ナイフが飛んできた方向で大体、相手のいる場所に目星をつける。
その辺りで、がさりと葉が擦れあう音と、黒い影。
懐のうちから目的のものを抜き取るまで2秒。口に咥えて栓を抜くまで1秒。間を置かずに投げ込む。
一瞬の間の後。ぼん、と鈍い爆発音と共に淡く赤く色づいた煙が舞い上がった。
「残念。手榴弾だと思った?」
投げ込まれたものに慌てて茂みから飛び出そうとした奴らが、もうもうと立ち上る催涙薬交じりの赤い煙にむせ返っているのを、煙から少し離れたところで傍観。
涙で曇った目をしきりに擦りながらひとりの男がふらふらと、足元も覚束なく煙から抜け出してきた。
どうやらすぐ近くにいる自分にも気づかないらしいことに気をよくして、ハルトは正面から足をかけた。
弁慶の泣き所辺りを強かに打って、男は突然の衝撃に無様に地面に倒れた。
男の手から剥き出しの土の地面に転がったナイフを拾い上げ、背中に足をかけてそのナイフを首筋に当てる。
「お前ら、動くなよ」
まだ煙の中でもがいている奴らに向かって、少し声を低めて言い放った。
人質、という行動に出てから、「もしも相手が仲間の命など気にも留めない奴らだったらどうしようか」という不安が頭の中をよぎった。が、それをすぐに頭の中から追いやる。
そこまで徹底的に訓練されているわけではないのだろうから。そんなに冷徹ならば、こんな体たらくにはならないはずだ。
自分の勘を信じることにした。
首筋に冷たい感覚を感じた足の下の人質は、小さく「ひぃ」と咽喉からヒキツったような悲鳴を上げた。
どうやら勘は当たったようだ。
「質問」
首筋にナイフを当てたまま、ハルトはぐるりと辺りを見渡した。薄紅の霧がようやく晴れてきたところだった。
皆一様に白目の辺りを真っ赤に充血させ、大の男が泣きやんだあとの顔を並べている。
「雇い主は?」
投げた質問に直ぐ様答えが返ってくるなどとは思っていない。当然男たちは口をつぐんだ。そこらへんのプライドはまだ、残っているみたいだ。
ハルトは、ルビーをはめ込んだような真紅の右目を細めて、一同を眺めやる。
「お宅ら、口がきけないわけじゃねぇよな?」
呟いて、ナイフの先で人質の首を軽くつついた。すると足の下の男が大げさにびくりと跳ねたので、首にうっすらと傷がついた。
ぷくりと膨れ上がり、赤い雫が咽喉を伝う。
「何だかこれじゃ、俺がめちゃくちゃサドみたいじゃんか」
相方ならばきっとしらけた顔全開で「"みたい"じゃなくて、事実そうなんだよ」と言ってくれるかもしれないが。
こっちには全く自覚なんてない。むしろ言いがかりだと思いたいぐらい。
凄味を効かせて辺りをぐるりと見回すが、男たちは口を一文字に引き結んでなにも言おうとしない。
(情報収集は無理、か。どうせなら教会が一枚噛んでるっていうハナシを仕入れたかった―――)
これ以上の追求を諦め、そろそろ退散しようかと思ったところで。
「きゃぁっ……」
自分の背中に、猫の鳴き声のような小さな悲鳴が刺さった。
女!? しかも子供!?
理性とは別なところで、本能的に振り返ってしまっていた。しまった、と思ったのはその次の瞬間で。
視界に入ったのは12・3歳ぐらいの少女だった。あまり身形がいいとは言えない。手に買出しの籠か何かを持っているようにも見えた。
一時停止を解除されたかのように、人質以外の男が動いた。
そのひとりが、怯えて立ちすくんでいる少女の首に、自分の片腕を巻きつけ、ナイフをその白い首に当てた。
「そいつの上から退いてもらおうか。そうしないと、この何の関係もない嬢ちゃんの首が血を噴くぜ」
タイミングが悪いのは、日頃の行いが悪いせいだろうか。などと己を省みながら、ハルトは人質の上から退いた。
少女の視線が自分に刺さってくるのを感じる。思わずそちらに顔を向けると目が合った。
(あれ?)
その瞳のひかりに、ハルトは違和感を覚えた。
確かに首にナイフを当てられているのに、少女の瞳に怯えはあまり見られない。もちろん絶無というわけではないが。
こちらを凝視しているその瞳には、なにやら熱っぽい光が……。
「御使いさま!」
そう思っているうちに少女が叫んだ。
ハルトを見て。
「は!?」
聞き返している間もなく、少女は自分で、首に回された男の腕に思いっきり噛み付いた。
「痛ェッ……!」
腕の力が緩んだのを見計らって、小さな体はその束縛からするりと逃れる。
「走れ!」
そのタイミングを逃さずハルトは叫んだ。少女は頷き、街道を真っ直ぐ、街の方へ向かって駆け出した。
男たちの視線が一瞬少女に注がれている間に、ハルトは腰から、なにやらビンのようなものを引きずり出す。
今度は形振り構ってられない。
そのビンを地面に叩きつけると、中の液体がしゅうしゅうと蒸発をはじめた。空気に混ざる。
「動くな!」
人質だった男の上から足を退け、数メートル離れ。ハルトは手にライターを持ち男たちを見据えた。
「今そこに撒いた液体は、少しでも火の気があればすぐに起爆する。間違ってもピストルなんか撃とうとするなよ。自殺行為だ」
ハルトの言葉に、腰のホルスターに手を伸ばそうとしていた男たちが固まった。
「あーあ、高いんだぜ、それ。範囲は狭いが効果は絶大だって。随分値切ったのに」
かちり、と音を響かせ、ハルトはライターに火を点けた。
「いいか、全部武器を遠くに放りな。その場にうつぶせになるんだ。頭の上で手を組んで。ちょっとでも変な動きしやがったら、この火、投げ込むぜ」
一瞬で、どかーん。そんなことを言ってやる。
男たちはしぶしぶ、ナイフやピストルを森の中へと放り投げ、土の上にうつぶせになった。
「悪いな」
従順な男たちに向かって不敵に微笑むと、ハルトは、取り出した打ち上げ花火のような筒の導火線に、ライターで火を点けた。
そのまま、起爆エリア外ぎりぎりにその筒を立てる。すると先から白い煙がもうもうと立ち込め、辺りをすっぽりと包み込んでしまった。
「捕まるわけにはちょっと、いかないんでね」
白く染められてゆく視界の中で、男たちはそれだけを聞いた。
白い煙を潜り抜け、ハルトは街道から少し外れた森の中を街道に沿って歩いていた。
どうやら諦めたらしく後ろからの追っ手はないが、用心するにこしたことはない。
せっかく仕入れた道具をここでこんなに使う羽目になるとは。
やれやれ、先が思いやられる。
しばらく歩いたところで、ぼんやりと街が見えてきた。
「あれがオゼ、か」
死者を蘇らせるという、黒髪に赤い瞳を持つ領主が治める町。
その領主自身、死んでから3日後に蘇ったとも言われている。
どうも情報としては眉唾物だが、進路からさしてずれるわけでもなし、何よりも自分と同じ容姿の人間が土地を治めているということのほうに興味があった。
黒髪に赤い瞳という組み合わせは極端に少ない。どういう種族なのかもよく分かっていない。
しかし、地方によっては悪魔の象徴とも呼ばれ、そうでない地域でも奇異の目で見られるのが普通。
それが領主。いささか不思議だ。
考え事をしながら街道に出る。もうそろそろ人気が感じ取れるようになってきた。襲撃もないだろう―――。
どすん。
次の瞬間、背中に何かが音を立ててぶつかってきた。新手か!? と思って振り向くと、そこには先程の少女が満面の笑みを湛えて立っている。
「お前……」
「お待ちしておりました、御使いさま!」
ハルトが口を開くのを遮るように少女が叫んだ。
2.
―――私は、貴方だけを犠牲には……。
いつのまにか、規則的な振動に揺られるうち、眠ってしまっていたようだった。
目蓋を押し上げると、もう日は落ちかかっていて、空が赤く染まっていた。
「どのくらい眠っていた?」
運転席の方へ声を掛ける。まだ眠気が絡まっているような声だった。
「ざっと2時間、ってところだな」
バックミラー越しに青い瞳がこちらに向いた。2時間。口の中で繰り返す。そんなに眠っていたのか。
「疲れてるのか? 随分無防備に寝てくれちゃって」
不意に運転席から声がかかった。バックミラー越しに目が合う。
「悪いわね、アフライド・ゼイン。運転手にかりだして」
質問には答えずに、ねぎらいの言葉をかけてやると、運転席の男は肩を竦めて見せる。
「大佐殿のためなら」
心にもないことを言ってみせる。
「でもいいのか、ジャンヌ? 隣の街で。俺は、お前の領地まで送っていくつもりだったんだが……」
「正気?」
眉をひそめ、本当に気ちがいを見るように、ジャンヌは眉をひそめた。
「あの街へ? この車とその服で? 冗談じゃないわ」
そう切り返され、アフライドは黙った。
軍用車で、軍服で? そう言われてしまえば、返す言葉もない。言った本人も、着ている服は黒ではあるものの軍服ではなく、男装の麗人と言った風体だ。銀糸の髪も後ろで一つにまとめている。
「……隣の街で十分よ。ありがとう」
少々語気を荒くしてしまったことに気付いて、ジャンヌは言い直す。
不自然な体勢でしばらく眠っていた体が軋んだ。体勢を変えようと座り直すと、服の内側でなにか紙がかさりと音を立てた。
服の内側に指を差し込んで、二つ折りにされた白い封筒を引きずり出した。
今朝目が覚めたとき、ドアの下に挟められていたものだった。
『領地にお戻りになると、耳に挟みました。』
純白の、全く飾り気のない便箋に、几帳面で丁寧な字が並んでいる。
どうしてこの男はこんなにも耳が早いのかと、思わず溜息をついてしまう。
『貴方の生き方を変えろなどとは申しません。ただ、ご自愛ください。体も、心も。』
見本のような綺麗な字を、ゆっくりと目で追う。
『旦那様と奥様に、くれぐれも宜しくお伝えくださいますよう。』
そう書かれた文面の最後には、「a・d」とイニシャルだけが綴られていた。
オルウェン・ドーソン。教会研究所の研究員。おさないころから、よく知っている人間だった。
―――お嬢様。
あの雨の日の晩。
―――どうして貴方が。
冷たく降り注ぐ雨の中。
―――貴方だけどうして。
あの男はそう言って。
―――貴方だけを犠牲にして私たちは……。
「ジャンヌ」
運転席からかかった声に、追憶の底から引きずり戻された。
思わず弾かれたように顔をあげると、訝しげな瞳とバックミラー越しに目が合った。
「火刑の執行、決まったぞ」
「聞いた」
ミンスター大学の教授及び研究グループの学生を火刑に処すという不条理な布告が、先日正式に発布された。
執行は二週間後。
「猊下が決定を下したって言うのは、本当なのか?」
「大将閣下はそう仰ったわ」
「……こんなこと言いたくないんだが、最近の猊下は少し妙じゃないか」
「………………」
何かを言い返そうと口を開きかけて、ジャンヌはまたそれを引き結んだ。
口を開いたところで、言葉が何も出てこない。
「今の俺には、あの人のやっていることの、脈絡がまるで見えない。一度はそりゃ、納得しかけたけどな。大学側がやってたのがガイアズメール研究だって言うからには。だけど今までずっと、見ないフリをしてきただろう。今更どうして……」
「やめて」
無意識のうちに自分の口唇から落ちた言葉に、ジャンヌのほうがはっとした。「聞きたくない」。理性が口を閉じさせる前にまた一言。落ちた。
「……そうか。悪い」
アフライドはそれだけを言って、あとは何も言わなかった。
*
仰ぐ天井一面に、広がる星の海原。スクリーンに映し出されたこの"船"の外側。
目を逸らさずに真っ直ぐそこを見つめていれば、宇宙の只中に立っているような、心地いい浮遊感。
一般に開放されたその広場の端に立ち、ひとり。
ゆるく波打つ栗色の髪を後ろでひとつのまとめた華奢な人影が、紺色の、無音の海に浮かぶ青い球体を見下ろしていた。
―――ねぇ、私たちもうすぐ、あの星に……。
こちらに背を向けたままの言葉は、少し遠く聞こえた。
―――降りても、争いは続くのかしら。こんなひとつの船の中で…。
体の前の手すりを、ぎゅっと強く握り締める、白い指。
―――私たち、こんな限られた世界の中で器用に、傷つけあったりできる。ねぇ私たち、間違ってないかしら。何百年、繋いできた望みって、こんなものなのかしら。
肩越しに、ゆっくり振り返る。泣きそうな、鳶色の瞳。
不安を湛え、揺れる。
―――ねぇ、ラジエル。私たちいつまで……。
目は覚めていた。
しかし、意識は遠い追憶の中を彷徨っていた。白昼夢。
("いつまで")
軽い眩暈を覚えて、机についた頬杖で、額の辺りを覆った。
(私はいつまで、覚えているんだろう? 覚えて、いられるんだろう?)
抱えて、ゆけるだろう。あてもなく、無限に続いてゆく道の先まで。
あの頃の決意と痛みと罪とを内に抱いたまま。
(君を忘れずに)
ゆけるだろうか。
「マリア」
口にした名前がどちらのものなのか。分からずに困った。
遠い日、振り返った姿と。数年前、路地裏で拾った姿と。重なって離れない。
路地裏で見つけたとき、目の錯覚かと。気が狂ったのかと。本当に思った。"どうして同じ姿なんだ"。
『聖服……。教会の人なんだ?』
雪が降る、冷え切った空気の中。スリップドレス一枚。頬や体のあちこちには青痣があった。髪もばさばさに乱れて。
『きれいだね、天使みたいだ』
寒さで少しもつれた舌が、そんなことを言う。
―――寒いか。
『……わかんない。体中いたいから、寒さのせいか、わかんない』
それでも小刻みに震える肩の上に、外套を落とした。すると、それを受け止めた折れそうな体が、驚いて目を見開いて見あげるから。
―――来るか。
手を。
差し伸べた。
『いく』
譫言のようにそれだけ。繰り返して手が重ねられた。氷のように冷たかった。
やっぱりあたし、寒かったみたい。あんたの掌でやっと分かった。あたし、寒かったんだね。
泣きそうな顔で笑って、ぽつりぽつりと零す姿はまるで、少女のようだった。
あの時。その手を取ったのは。
はるか遠く、記憶の底の"彼女"への罪滅ぼし以外、何の感情もなかった。
『しってたよ』
耳元で声がした。擦れて、途切れ途切れの。今の際。
あたしはバカな女だから。あんたが綺麗でいてくれたら何も要らないよ。
その瞳が訊いていた。―――あたし、上手く"代わり"、やれてた?―――
救うつもりで結局。盾にした。何も変わっていない。
何も……。
「猊下。お召しに従いました」
扉がノックされ、その向こうから男の声が聞こえてきた。
「開いている」
「失礼します」
間を置かず扉が開かれ、見慣れた軍服の見慣れない男が滑り込んできた。
綺麗に整えられた黒の髪に眼鏡姿。几帳面をそのまま形にしたような男だった。
軍人よりも、官僚の方が似合う。
「お召しに従い任地より戻りました。正規軍西軍少佐、ベリヤール・ルーインです。猊下におかれましては、お変わりもなく」
男は一気にそう言うと、形どおりの敬礼した。
3.
「申し訳ございません!」
領内の内と外とを区切る巨大な城門をくぐったところで、ハルトはその声に足を止めた。
導かれるようにそちらに目を向けると、剥き出しの地面に額を擦りつけるようにして土下座をしている若い娘の姿があった。
「謝って済むと思っているのか! 旦那様の服を見ろ!」
きんきんと響く男の声。スーツ姿のキツネのような顔をした男が叫んでいる。
よく磨かれた革靴の生えた足が、その娘の背中に乗った。貧相な足だった。二、三度強く蹴りつけたあと、今度は頭に。
「おい……!」
思わず声を掛けると、ここまでハルトを連れてきた少女が慌てて、制止するように腕を掴んだ。
が、それを振り払って、地に伏せている娘の傍まで行く。
近づいてきたハルトの姿に、スーツ姿の男は目を剥いて、慌てて娘の背中から足を退けると、頭を下げた。
(なんだ?)
何故自分に頭を下げるのか。分からないが今は関係がない。
「事情はしらねーけど、あんまりじゃないの、これ」
自分の上に出来た影に、地に伏せた娘がゆっくりと顔を上げ、傍に立つハルトを仰ぎ見た。顔や髪は土で汚れていた。
「しっ、しかしその娘は旦那様にぶつかって、服に汚れをっ……」
スーツ姿の男は、まだ頭を下げたまま、声を震わしひっくり返しながら言った。
「キール、もうよい」
太い声が遮ると、キツネ顔の男は更に一層頭を低くし、娘はまた地に伏せた。
「あんた……」
今までキツネ男と娘ばかりを気にしていたハルトの視界に、黒い巨体が割り込んできた。
立派に口髭を蓄えた男を上から下まで眺め回したハルトは、しばらく、言葉をなくした。
肩の辺りまで伸びた男の髪は黒炭のように黒く、その瞳はルビーのような赤、だったからだ。
「娘。運が良かったな。もう行くがいい」
男が上から声を投げ落とすと、娘は弾かれたように置き上がり、一目散に走り去った。
「君は、この街の慣習にあまり詳しくないよううだな。どこから来た」
身形のいい男がハルトに向き直り訪ねた。赤い瞳を細め、まるで品定めするように。
「……ゴルゴダ。この近くであそこの小さなお嬢さんに捕まった」
指で後ろを指差す。ハルトをここまでつれてきたメアリという娘がそこにいるはずだった。
ハルトの肩越しにその少女を見とめ、男は小さく「なるほど」と漏らした。それ以上の興味はないようだった。
赤い双眸にしばらくじっと見つめられ、ハルトは眉間に皺を寄せた。張り付くような視線が耐えられない。
「俺の顔がなにか―――……」
「左目は?」
「は?」
一体何を訊かれているのか分からない。この左目が一体なんだというのだ。
「何か怪我を?」
あからさまに顔をしかめたハルトに、男は少し分かり易いように質問を変えた。
「目の端を切ったおかげで化膿して、視力が落ちてるだけ」
「"色"は?」
ここだけ。空気が冷えたような気がした。何かは分からないが、威圧されたのだけはしっかり分かった。
答え方次第で、何か決定的な違いが生まれるような、緊迫感。
「………………どっちも赤だけど」
すると男は口元にうっすらと笑みを浮かべて見せて。
「それならばいい。もう片方の瞳が見られんのが残念だな。領主様に治していただくといい。そうすれば君もこの街で、立派に貴族としてやっていけるだろうよ」
ハルトの肩を軽く叩くと、男は踵を返した。キツネ男がその背中に続く。
「貴族? なんだそりゃ」
独り言を呟くと、少し離れた場所で男が振り返った。無知なものをやさしく諭すような口調で。
「ここはやがてこの星の中心になる。この街は、"正統に星を継ぐ者"が治める街となるだろう。神に選ばれた御使いのしるし。それがその髪と瞳だ」
演説のように言い放ち、男は二度と振り返らなかった。
「御使い様!」
男が立ち去ったあとで、メアリが駆け寄ってきた。
「びっくりいたしました、一時はどうなることかと……」
「だから、その呼び方は止めろって言ってるだろ。堅苦しい口調も嫌いだって……」
「そんな滅相もない! 御使い様はご自分のことを何もご存知ないからそんなことが言えるんです!」
ハルトは自分よりも10は年下だろう少女のその言葉に黙らされてしまった。
「さぁ、領主様にお会いください。きっと歓迎してくださいますから!」
片腕を掴まれ、されるがままにハルトは、街の大通りを引きずられていった。その道の果てには、石造りの城がそびえたっていた。
ご自分のことを何もご存知ないから。
黙りこんでしまったのは、その言葉にがつんと頭を殴られたからだ。
そうだ、確かに自分は自分のことを何も知らない。そのことに改めて気付かされたからだ。
それではここに何か、今まで幾度となく自分に問い続け、決して得ることが出来なかった「答え」が用意されているというのだろうか?
御使い。
神に選ばれたもののしるし。
正統に星を継ぐ者。
この瞳と髪が尊重されている。
一体これらは何を意味するんだ?
道の往来を引きずられながら、ハルトは半ば上の空で、そのようなことばかりを考えていた。
*
「領主様。ご起床を」
城の最上階にある主の寝室のドアを、若い男が叩いた。
ドアを押し開くと、部屋の中央に白いレースで覆われたベッドがひとつだけ置かれている。
薄い膜のようなレースで仕切られた向こうで、わずかに身じろぎする人影がある。
「今日はこのあと、何か予定が入っていたかしら?」
まだ眠気の混じった声がその向こうから返る。
「いえ、メアリが"同胞"を連れて戻ったと連絡が」
「そう」
シーツに両手を突っ張って体を起こすと、一糸纏わぬ肌に豊かな黒髪が流れて落ちた。
「サンビア様。今夜はどうぞポッドにお入りくださいますよう」
レースを掻き分け、体にシーツを巻きつけたまま、オゼの領主サンビア・ジュスティンはクローゼットへ歩み寄った。
「あまり、好きではないのだけれど……仕方ないのよね」
「貴方様のためです」
「そうね。そうするわ。用意しておいて頂戴」
クローゼットの中から、自らの瞳と同じワインレッドのドレスを引きずり出し、手早くそれを着る。
赤茶色の髪を持つその若者が、素早くサンビアの背中に回ると、ドレスのファスナーを引き上げた。
「ありがと」
振り返り、若者の口唇に軽く自分のそれを押し当て、サンビアは颯爽と歩き出した。
若者は何事もなかったかのようにその背中につき従う。
「奪い返せるかしら? 私たち」
「ええ。勿論」
主語のない領主の問いに、若者はただ短く答えた。
4.
「参ったなぁ……」
右手の指を髪の中に突っ込んで、ぐしゃぐしゃと回した。
伸びかけた金の前髪に太陽の光が反射して、眩しかったが、そんなことでこの状況が好転するとも思えなかった。
レイ・クレスタは、未だロレーヌの街中でうろうろしていた。
「確かこっちに来たと思ったんだけど……」
市場の真ん中に立ち止まり、辺りを見回す。レイが求めているのは、灰色、だった。
正確に言えば、灰色の髪を持った10歳ぐらいの少年。
実に不注意で実に不名誉なことに、レイは現在、その少年に身包みをはがれた状態なのである。
あれからあと。
『お前にとってここは通過点なんだろ。俺にとっては違う。構うな』
『でも―――』
『騒ぎになるぞ。お前も偽ってこの街へ入ったんだろう。出られなくなるぞ。だから、早く行け!』
『……ケビンさん……』
『俺は自分のけじめを、つける。ただそれだけだ』
もはや肉の塊となったヨエルの体を引きずるようにして地下室から出てゆくケビンの姿を見つめたまま、レイは動けなかった。
殴られた後頭部がズキズキと痛み、酸素の足りない脳。くらくらする。
ようやく壁から体を起こして、部屋の隅に寄せられたみすぼらしい木の机の傍に落ちていた金色の"ティフェレト"を拾い上げた。
『―――?』
みすぼらしい机の上に、見慣れたものを見つけて、しばらく固まった。
聖書、だった。
使い込まれていることが一目でわかる。ヨエルのものだろう。
―――主の存在を知りたいのです。
ヨエルの言葉を思い出し、レイは思わず口唇を噛んだ。
信仰が、純粋な光があんなふうに……。
聖書を手にして、ぱらりと捲ると、丁寧な字でいたるところに書き込みがあった。その1字1字が更にレイの心を沈ませた。
『―――っと……』
ぱらぱらと捲ってゆくうち、とあるページから何かが机の上に落ちた。
うっすらと月明かりの中に浮かび上がったものは、紙包みだった。中には白い粉。
これは一体……。
手を伸ばしたところで、引き裂かんばかりの悲鳴が上がった。静まり返っていた教会内が次第に騒がしくなった。
反射的にそれを掴んで懐に入れると、レイは地下室を抜け出した。
ケビンの小屋から服を拝借して夜の闇へ紛れる。
そして朝になったら、カインという町を目指して出発する、筈だったのだ。
一睡もしないまま一夜を明かし、街に賑わいが出てきたところで、レイは市場のある通りへ出た。
そこで、道端に蹲っている少年を発見したのだった。
思わず声を掛けてしゃがみこんでしまったところで事件は起こった。
少年の手がさっと伸びて、レイの腰からホルスターを奪い取ったのだった。
あまりの手際のよさに、レイは少年が走りだすまで反応できなかった。
―――お前な、もうちょっと色々疑ってかかれよ。いいカモだぞ。
何度もそう言われ続け、ひとりで旅をはじめてからは極力色々なものに気を遣ってきたはずだったのだが。
道端で苦しそうに蹲っている少年を疑うほどにはなりたくなかった。ハルトに言わせれば多分、そこがまだ甘いのだろう。
というわけで、レイは少年を追い掛けて狭い路地まで来ていた。
白に近い灰色の髪は酷く目立つはずだ。事実ここまで追いかけてこれた。
しかし、ある角を曲がったところでレイは少年の姿を見失ってしまった。
人ひとりがようやく通れるような、狭い狭い道。小さな体がこの道に折れるのを確かに見た……はずなのに。
「困ったな……」
金銭もそうなのだが、何よりも困るのは2丁のピストルだ。
これから先、丸腰で行けるはずもない。今は教会の監視が行き届かないこの街だからいいものの。
何より、あのピストルは「借りている」だけなのだ。
「この先は行き止まりだ……し……?」
ちゃりん、と音を立てて、上から何かが降ってきた。足元に落ちたそれを拾い上げると、銅貨。
「銅貨……?」
「ぅわっ……やべっ……」
自分の真上から声が降ってきた。まさか。
あまりいいとは言えない予感にレイがゆっくりと顔をあげると、空から少年が降ってきた。
どすん。鈍い音。
地面とうつぶせに対面したレイの背中に、重み。
上から子供が降ってきた。レイにはそれしか分からなかった。そしてその子供が今、自分の背中に馬乗りになっていることしか。
「いててて……うわっ、やばっ……!」
しっかりとレイの背中に乗っかってしまった少年は、自分が今どういう状況にあるのかを悟ったのか、慌てて被害者の背中から飛びのこうとした。
が、一瞬だけ早く、レイの腕が少年の腕を掴んでいた。
「返してくれるよね、ピストル……」
顔をあげると、サングラスに映った自分の顔が見えて、レイは一瞬声をなくした。
サングラス? しかも真っ黒な。
活発そうな少年の顔に似合わない、ゴツイかたち。目から鼻の上までを覆い隠す。
「……ご、ごめんなさい、つい……」
上から降ってきた少年は、レイの上から退くと、丁寧に頭を下げた。
レイは少年の片腕を掴んだまま、まだ無様に地面に転がったままでいる。呆気にとられて。
サングラスと殊勝な少年の態度がアンバランス。
「あの、お母さんが病気で、お金がかかるからつい……」
少年の口唇から怯えた声が落ちてゆく。心なしか肩が震えているような気がする。
「えっと、返してもらえば別に……」
ようやく自分を取り戻したレイが、立ち上がり服の埃を払おうと、少年の腕から手を離す。
その一瞬。
「なんていうかよ、バァカ!! お生憎様ッ!」
がつん。足の脛―――弁慶の泣き所―――右に思いっきり蹴りが入った。
ぐらりと揺れる視界。睡眠不足の上、頭を殴られたりもして、足元も覚束ないレイにとどめの一撃だった。
「ッつぅ……」
思わず右足を抱えて蹲ってしまう。少年がべぇ、と赤い舌を出して踵を返すのを視線の端に捕らえて。
慌てて手を伸ばすと、硬いものに触れた感触。その直後、振り払われた。
かつん。剥き出しの土の地面に何かが落ちる。走り去る足音。
音のした方を見ると、少年の顔上半分を覆っていたサングラスが、そこに落ちていた。
路地から出て右側に曲がる、小さな背中。
*
―――領主じゃなくて、娼婦の間違いなんじゃないか。
メアリに引きずられ、巨大な入り口をくぐり、洋式の城まで連れてこられ。
落ちてきたら即死、というほど豪勢なシャンデリアのある応接室で待つこと15分。
若い男を伴って現れたその女に対するハルトの第一印象でが"それ"である。
颯爽と現れた女性が妖艶な雰囲気を纏っていたからだった。
女はその瞳と同じ真っ赤なドレスを身に纏い向かいに腰掛けると、名乗った。サンビア・ジュスティン。
「オゼへようこそ。歓迎いたしますわ」
「途中で寄っただけだから、そう長居はしないつもりですけど」
元々はオゼという街を客観的にただ眺めてみるだけのつもりだったのだ。が、どうしたことか途中で、ちゃっかりと今も自分の隣に座っているメアリという少女に連れられて来てしまった。
まぁ、残念。と簡単に流すと、サンビアはその赤く濡れた瞳を細めた。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
付き添ってきた男が淹れた紅茶を口に運ぶ女領主に向かって、ハルトが口を開いた。
サンビアは、目元に笑みを含ませることで応と返す。
「この街ではどうして容姿による差別が?」
すると、女領主はわずかに瞳を見開いたあと、カップをソーサーに戻した。
「差別?」
「黒髪に赤い瞳が優遇される。それだって立派な差別でしょう。何か理由があるなら伺いたいだけです」
するとサンビアは、黒く塗りつぶした爪の生えた指先を口元に運び、しばらく黙った後。
「黒髪に赤い瞳の人間は、選ばれたものです。貴方だってそうです」
「だからその選ばれたって言う理由を……」
「左目はどうなさったのですか?」
突然、サンビアがソファーから半分身を乗り出し、その細い指を不躾に左目の眼帯の上へ滑らせてきた。
ぞくっと何故か、本能的に背筋を駆け上った悪寒に、ハルトは続けるべき言葉を忘れてしまった。見事なまでに言葉を封じ込められた。
「視力が落ちてるだけで、見えないわけじゃないんで」
「治して差し上げましょう。このままでは綺麗な瞳が、かわいそうです」
指先が今度は眼帯の上に触れてゆっくりとなぞった。
ぱしん。
渇いた音がすぐ傍で聞こえたが、それが何の音なのかすぐに判断をつけることが出来なかった。
女領主の手を弾いた音。自分の手が。それに気づくまで少し必要だった。
我に返ると、女領主が意外そうに目を見開いたまま一時停止しているのが見えた。
「いや、この格好も結構気に入ってるんで、いいです。要らないんで。すいません、跳ね除けたりして……」
体の中身の、理性とは関係のないところが。本能というところが。
警鐘をめいっぱいに鳴らした。受け入れてはならないと。
何度もその本能的な危機感に救われてきている。今回も外れてはいないだろう。
本音を言うと、見えないわけではないとは言いつつも極端に視力が落ちていて、眼帯を外すと視界がブレる。
だから視力が元に戻るのならばそれにこしたことはないのだが。
しかし今は何故か、拒絶しなければならない気がした。
「それは残念です」
相変わらずサンビアの口元と目元は微笑んだままだった。
最初はやわらかく感じていたその笑顔が、今は何故か違うように見えた。「こわい」と。
微笑んでいるのに、やさしさが伝わってこない。その笑顔で何かを強制する力を持っている。
(やはり普通の女じゃないってことか……)
瞳を触れられただけでしばらく動けなくなってしまった自分の不甲斐なさを呪ってしまう。このままでは聞き出したいことの半分もきっと聞けないだろう。悔しいことに今現在、この場の主導権は完全に向こうにある。交渉は常に主導権を自分に持っておくべきなのに。
「ハルト様はそんなに急いでいらっしゃるの? そうでないのなら、今夜一晩くらいはお泊まりになってください。もうすぐ日も暮れます。一緒に夕食などは如何?」
穏やかな口調で向こうが切り出したのは会見の終了だった。
黒い髪と赤い瞳が優遇されるわけ。
御使いの意味、星を継ぐものとは?
何より、人を生き返らせるということが本当に出来るのか、本当に彼女は生き返ったのか。
聞きたいことならたくさんあるが、どうも今は分が悪い。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
体勢を立て直したほうが良さそうだ。そう思って、ハルトは相手の申し出を受けた。
*
やめてください。お願いします。許してください。
"乞う"ことばかりが上手くなる。何もしていないのに何を許せと願うの。
媚びることばかりが上手くなる。上目遣いのこの顔は嫌い。イヤラシイ。
うつぶせに。固い床の上に押し付けられた体。
今日も始まる悪夢。夜が明けるまで続く。
腰の辺りに人の重み。馬乗り。
背中のファスナーにかかる手。じじ。下げる音。
相手が手に持ったものに天井の不健康な蛍光灯が反射して、フローリングにまだらな、水のように揺れるひかり。
肩甲骨の斜め下。背骨のすぐ横。男が持った刃が触れる。ちくりと、小さな痛み。
つぅっと背骨に沿うようにその痛みが降りてゆく。
ぬるりと濡れたものが溢れ出すのが分かった。くっと咽喉で笑う声。嘲う声。
―――見えるか?
背中を、滑った掌の感触。液体が広がる。息を吹きかけられると冷たい。
目の前に突然掌を差し出される。指先から掌の真ん中まで、赤黒いもので濡れていた。
自分の背中から流れたもの。思いのほか、綺麗な紅。
その手が顔に近づいてきて、頬にびたりと触れた。ずるりと拭うように頬を滑る。
―――お前の瞳と同じ色だ。白い肌に良く映える。
じゃらり、と鎖が音を立てた。頭が強く後ろに引かれる。背が反った。
首につけられた鎖。
虐げられるために。生まれてきたのだと。
繰り返されれば信じもする。諦めもする。
闇に濡れた髪に赤い瞳。悪魔のすがた。
のろいの具現。
ゆるされない。
―――あなたは選ばれたひとだ。
女はいつまでも夢物語を信じている生き物だと、揶揄されるけれど。
伸ばされた手に縋るのは、いけないことでしょうか? 溺れそうだった。
わたしたちは。
虐げられるために。生まれてきたのではないのだと。
伸ばされた手を。
あなたたちは。不当な理由で虐げられ続けている。
本当はあなたたちが手にするべきものがある。
さぁ。奪い返しにゆきましょう。
伸ばされた手の指し示す先にあるひかりを。
小さくて、それでも何より眩いかがやきを。
世界を。
奪いに。
漆黒の髪と赤く濡れた瞳は、神より遣わされた聖者の証と言う。
5.
ばちん。
黒いアタッシューケースの鍵を開ける。勢いよく開く上蓋。
「ふーん」
上からそれを覗き込んで、知らないうちにそんなことを漏らしていた。見下すような。
思わず口元が緩んだ。笑っている自分がいた。
馬鹿じゃないのか。
これが本気なら、俺は軽蔑する。
「こんなもの持ち出してきて、どういうつもりなんだか」
手を伸ばして、ぎっしりと詰まっているものをひとつ拾い上げた。
バイクにもたれかかって、手にしたものを持ち上げて、太陽にかざしてみる。
「さて、誰が首謀者かな。……俺が知ってる奴っぽくて、物凄く嫌だな」
吹き付ける風に白衣が翻る。耳元で棒状のピアスがぶつかり合ってちゃりちゃりと音を立てた。
アタッシュケースの中には、ぎっしりと。
袋詰された白い粉が入っていた。
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