父なる者の家
〜楽園の扉〜



 花はいい。人の生き様そのものだ。咲き誇り、やがて散る―――。



1.

 裏通りの闇市には、表通りに並ばない品が並ぶ。
 ちゃりちゃりと耳元で金属のぶつかり合う音が、もはや普通になってしまって耳障りにも感じなくなった白衣姿の男がその闇市に紛れ込んだのは、もう夕闇迫る頃だった。
 光と影なら影の部分であるその闇市に、白衣は目立ちすぎる。
 皮膚に突き刺さってくる視線を、気付いていながら気付かないフリで、男はある店の前でふと、足を止めた。
 しばらくショーウィンドウをじっと見つめた後、店の扉を押し開ける。
 ちりん、と扉についた鈴が来客を告げた。
「……何の用だ? てめぇみたいな綺麗な兄ちゃんが来るとこじゃないぞ、ここは」
「あのガラスケースの薔薇は野生のもののようだな」
 現れた客の、あまりにこの場にそぐわない容貌に、店主は顔をしかめるが、客の方は全く気にする素振りもなく、別の話を切り出す。
「出してくれ」
「オイ……」
 店主は、普段相手にしている人間たちとは明らかに違う男の態度に戸惑いつつ、何とか抵抗を試みようとしたのだが、なにやら抗えない何かがそこにはあった。
「金は、あるんだろうな?」
「相場は」
「200万リーク」
 店主は少し強い口調で、堂々と値段を告げた。これ以上、まけるてやるつもりはない。
「……下らんな」
 ショーウィンドウの鍵を持ち出し、ごそごそとガラスを開け始める店主の後ろで、男が何かを馬鹿にしたように笑った。
「所詮、人々に分かる価値というのは、そのぐらいということか」
 ぶつぶつと客が呟く言葉を耳に流し込みながら、店主はガラスケースの中から、現在は殆ど見つからなくなった野生の薔薇を取り出した。
 血を塗り込めたような、深い赤。
 白衣の内ポケットから、何かの紙の束を引きずり出した男が、なにやらさらさらとその紙にペンを走らせている音が聞こえた。
 丁寧にケースに収められたその大輪の薔薇に少し目を細めると、その紙の束からぴしりと一枚を千切り、店主に差し出した。
「それでも少ないぐらいだ。不満か」
 店主は半ば呆然と、反射的に商品を相手に手渡した。
「め、滅相もない」
「それは良かった」
 ばさりと白衣を翻し、他のものへは見向きもせずに、客は店をあとにした。
 からん、と扉が閉まるまで、店主は一枚の紙切れを握り締めたまま石化していた。
 手渡された小切手には、Earth Filamentというつづりの名前で、"1000万"。
 確かにそう書かれていた。

「……愛、嫉妬。矛盾するようで紙一重の感情が、たった一つの花の花言葉とは。不思議だな」
 裏通りに入る手前で、飲み屋に預けたバイクを取りに向かう。
 表通りであってもアースの白衣姿は一際目立つ。人々が振り返るのを、楽しむように、少し目を細めた。

 植物はいい。面白い。
 生命工学でどれほどの地位を得ようとも、どのような機関から求められようとも、別にそんなに価値はない。
 分かることと楽しむこととは別次元にある。
 誤解されては困るのだが、研究も楽しいのだ。誰よりも先に結論に辿り着くのは楽しい。
 レースと一緒だ。誰が一番初めにゴールに飛び込むか。神速で。
 それを認められ、求められるのも快感ですらある。
 しかし、幼い頃に見た夢だけは、どれほど時を経ようとも変わることはない。

 腕の中。薔薇の花は好きだ。
 苛烈で、毒々しいまでの生き様を全て、「見て」と曝け出す。その赤裸々さ。
 ぐしゃりと握り潰すとハラハラと零れ落ちる一枚一枚の花弁が。赤でも黄色でも白でも。鮮やか。
 その美しさに刺を含む、気高い娼婦のように。
 情熱の花。
 諸行無常。故に、美しい。
「けど違う」
 打ち消して、バイクにキーを差し込む。エンジンをかけると振動が、手の内側から体中に回ってゆく。
 俺が欲しいのは"これ"じゃない。

 本当に欲しいのは、たった一輪だけ。
 この世を儚み、姿を消した、伝説の花。もはや化石としても見つけられないらしい、白い女王。
 純潔。
 気高く、美しく、穢れなく。
 たった一輪、この世界に残された最後の乙女。

「白百合」


             *


 ここのところ、幼い子供ばかりを狙った猟奇殺人が、このヴォルディモート教会近くで頻繁に起こっている。
 レイが説明を受けたのはそのぐらいだった。
 昨日この街に入ったばかりのレイが容疑者に該当するわけもなく、さして尋問なども受けずに解放された。
「おい」
 しかし、司教の部屋を後にした瞬間、後ろから声がかかった。不躾な。
 振り返ると、自分をここまで連れてきた陰気な男が立っていた。いついかなるときも不機嫌そうな顔をしている。
「お前、"ファスト"って言うのか?」
 またしてもぐさりと心臓と胃を一突きにされて、レイは軽い眩暈を覚えたが、とりあえず頷く。
「因果だな。この教会にその名も」
 ぐるぐると首を回しながら、簡単に言う。
「え?」
「少しの間この教会の跡取だった男が、お前と同じ名前なんだよ」
 心臓が、ワンバウンドする。
「だけど結局、継ぎは、しなかったんでしょう」
「まぁな。俺が聖職者を辞めて、事務員なんかになる原因を作ってくれた男さ。文句言ってやろうと思ったらさっさと死んでやがる」
 事務員……? それではこの男がアズマの言っていたあの。
 ぼんやりとそう思いながら、頭の半分は別なことを考えていた。
 この人が、ファスト神父とかかわりがあった?
 知りたい。好奇心以外のなにものでもないと知っていながら、そう思った。
「あの」
「何だ?」
「……"サイジョウ"という名前に聞き覚えは」
 すると、ケビンと名乗ったその事務員の顔から、一切の感情が剥がれ落ちた。
 血の気が少し引いたような気すらする。
「お前、"裏"の人間か?」
 しばらくして平静さを取り戻したらしいケビンがそれだけを聞いた。
「まぁ、やむにやまれず。―――"青蛇"ということで、いいんですか?」
「ついて来い」
 顎で後ろの廊下のほうを指し、ケビンは歩き出した。まだ片足を心なしか引きずったまま。


 ある日の情景が、今鮮烈に蘇ってきた。
 フラッシュバックのように。
 いつものように教会を訪れると、最近ではすっかり見慣れた光景がそこにあった。
 見慣れぬ聖服の男が二人、神父と向かい合って。
 その日少し違っていたのは、神父の方だったのかもしれない。
 そっと扉を閉め、レイは、一番後ろの長椅子に腰掛けた。石造りの礼拝堂に、声は良く響く。
―――ですが……。ヴォルディモートは……。
―――こんなこと、言いたかないですけどね。
 食い下がろうとする男の声を遮って、ファストは固い口調で言った。切り捨てる強さで。
―――そんなに血が大事なら、草の根を掻き分けて捜せば、一人ぐらいいるんじゃないですか。"貴方がたが認めていない子供"が。
 深い溜息と共に吐き出したファストの台詞に、聖服姿の二人はぴしりと固まってしまった。まるで石像のように。
―――それは嫌だと仰る。それぐらいなら前科者を引っ張り出したほうがましだと。全く、伝統と威厳を守ろうとする努力には頭が下がります。
 男たちは、何かを言おうとして口を開いたが、すぐに閉じた。苦虫を噛み潰したかのような表情に、ファストは攻撃用の刺を引っ込めた。
―――すみません。貴方がたがヴォルディモート教会に純粋にそして必死に仕えていらっしゃる。それを否定するわけではありません。言い過ぎました。
 黙ったまま、男たちは俯いている。
―――お引取り願えますか。
 ファストが言うと、男たちは酷く重い足取りで、踵を返した。

―――言い過ぎたよ。彼らは何も悪くないし、私に申し込んでくるのも、妥当と言えば妥当だし。我儘ばかり並べてしまったのは、両親のことがあったからだろうね。
 ヴォルディモートからの使者が帰ったあと、ファストが言った。幼いレイには理解不能の言葉を並べた。
 ひとりごと。
 お父さんと、お母さんのこと?
 聞いてみたら、うん、と頷いてくれた。
 名前は?
 そんなこと聞いてどうするの。
 知りたいんだ。
―――父はセルフィス。母はマルガリータだよ。
 そんなことを、不意に突然、思い出した。


 ケビンは、自分がファストを説得に行ったうちの一人だったのだと漏らした。
「お前があの時のガキか。……そう言われてみれば、覚えている気もするな」
 あの小さな小屋に場所を移す頃、一通りの話をレイから聞いたケビンが口を開いた。
「あの時は俺も盲目だったな。教義よりも歴史と伝統に目が眩んで、無条件に受け入れて、無条件に信じた。汚れひとつ、許容できないぐらい。完璧が良かった」
 だから、ヴォルディモートの後継を断る男の気持ちが分からなかったのだ。
 それが、全く聖職と別な場所にいる人間ならばいざ知らず、片田舎とはいえ神父として神に仕えていながら。
 どうしてヴォルディモートではいけないのか。理解できなかった。
―――私には、守るものと懸けるものがふたつとも、ここにあるので。ここ以外で聖服を着てもあまり、意味がないので。
 だからもう、説得に来るだけ無駄だと言った。
「『私は神を信じていないし、全ての人を救おうなどと思い上がることもない。贖罪と自己満足で続けているに過ぎない。意味がない』。そう言いやがった。全くもって、神父とは思えない言い草だな。だがまぁ、理由を聞いてからは、"ここ"じゃ無理だろうなとは思ったよ」
「理由?」
「そうか、お前は当時はまだ、チビだったんだな」
 しかしでかくなったもんだと、向かい合わせて座ったレイを上から下まで眺めた後、ケビンは説明した。
 ファストの両親は、血の繋がった祖父によって殺害されたこと。
 その祖父がファストを後継者にと申し出たこと。
「その頃のヴォルディモートの勢力は強大だったからな。中央教会からも一目置かれてた。当時のこの教会の主は専制君主みたいなものさ」
「だからって……!」
「ああ、酷い話だ」
 なんだか、溜息交じりのケビンの同意が、酷く嬉しかった。
「それでお前は、サイジョウ・ヒイラギと連絡を取りたいんだな?」
 急に話題が変わって少し勿体ないような気もしたが、本題はそこなので、レイは頷く。
 するとケビンは、近くの本棚まで歩いてゆき、ごそごそとなにかをいじくる。
 がーっと何か機械が動く音がして、本棚が横へずれる。その先に、狭い部屋が広がった。



2.

 エンドレスで、∞に。繋がっているメビウスの輪。
 人はそこで輪廻して、リセットをかけて。何度でも新しい自分になれる。
 輪廻転生なんて、あるかどうか分からないけれど。
 決められた年月で、人は循環するのだと思う。
 だけどリセットできない。変わることもない。循環できない。
 死なないものが。
 存在することを知っている。
 永遠とはまた違った意味で、凄く残酷なからくりが、ずっと昔から回っていることを知っている。
 死ねないものの存在を知っている。
 死ねないひとが確かに今も、いること。
(知らなければよかった)
 何度も思ったことがある。けれどもう忘れることなど出来ない。
 引き返せない。
(出会わなければ)
 良かった。
 だけどもう、忘れられないリセットできない領域に。しっかり記録されているから。
 後戻りできない。後ろから、がらがら道が崩れてゆくのと同じで。
 一歩あとだって振り返らない。
 そう決めてる。
 筈だった。


「"どういうこと"、とは?」
 悠然と、デスクに座ったままの生き彫刻が、机の上で指を組み合わせたまま問うてくる。
「ミンスター大学の教授と学生とを火刑に処すとの旨は、君が決定したことか」
 ミカエルは扉を開いたまま、窓を背負い差し込む光を後光にすら感じさせる男を見上げた。
 金の髪が跳ね返す光が、眩しくて痛い。侵すべからざる領域に、入り込んで拒絶されるようだ。
 聖域。
「ミカエル、何を誤解しているのかは知らないが……」
 物分かりの悪い、そのくせ食らいつく生徒に、何度も説明をする教師のような顔で、ラジエルが深い溜息をついた。
「最近のミンスター大学の一部の教授陣は目に余る。別に無差別に人殺しをすると言っているわけではない」
「殺す意味があるのか」
 たとえそれが、無差別でないにしろ。生命を奪う意味が、奪ったあとに派生する何かがあるのか。
 何か、上に向いてゆく力がそこに、あるのか。落下してゆくのではなく。前へ上へ、向いてゆく結果が。でるのか。それで。
 奪うことで口を塞いで一体それで。そんな、短絡的な方法を取るのか。
 聞きたいことなら幾らでもある。
 しかしそれを許容するだけの容量が今の彼に、残っているのかどうか不安だった。
 そんなふうに思うこと自体、もう何か違っているのだと思った。
(僕たちは神じゃない。ただのひとだ)
 君は誰よりもそれを知っていたのではなかったか。誰よりそれを、貫こうとしたのではなかったか。
 一体何がどんなふうに食い違って。こんなふうに―――。
 知らないうちに噛み締めた口唇が切れて、鉄の味が舌に沁みた。
「君が、守ろうとして守ってきた全てを、どうか捨てたり、しないでくれ」
 それは願いでも希望でもなく既に、祈りだった。
「大丈夫だ、ミカエル」
 口元に柔らかな笑みすら浮かべて見せて、しっかりとラジエルが言った。
 少し前ならそれだけで、不安は一切消えてしまったはずなのに。どうしてだろう今は。
 ざわざわする。
「だったら……!」
 こんなことはすぐに止めてくれ。口を封じるだけで一体何が変わるというのか。
「今回は、必要な処断だ。こらえてくれ」
 祈りを上から叩き潰すように、譲らない言葉をラジエルがぶつけた。
「ラジエル……!」
 すがり付こうとして、やめた。
 見えない壁が間にあることを、悟ってしまった。
 吐き出しかけた言葉を全て飲み込んで、その代わりにひとつ、大きな吐息を吐いた。
 こちらから諦めるべきではないのかもしれないのに。その吐息がまた、間の壁を厚くすることも知っていて。
「僕は君を、信じているからね。最後の最後まで、僕だけは、信じているからね。覚えておいて」
 深く踏み入って傷つけあうこともしないで、そんな薄い言葉だけを投げ出して、ミカエルは踵を返した。
 返事はなかった。
 踏み入って傷つけあって、その痛みに耐えられるほど自分が、強くないことを。
 知っていて。だから。
 本当は、このような決断を彼が下したことに、傷ついていることに今頃気付く。
 彼だけは変わらずに孤高として耀くことを、誰よりも望んでいたのは、もしかしたら彼女ではなく自分のほうだったのかもしれない。
 背中で扉の閉まる音が、やけに大きい。
 追放された後に背中で閉ざされた楽園の扉の音。そんなものを聞いた気がした。


            *


「いたんだ?」
 自室の扉を開けたところで、素直にミカエルはびっくりした。
 久しぶりに荒げた声のせいで、情けなくも痛む声帯をさすりながら扉を開けた先に、予想していなかった人物を発見したので。
「……閣下」
 いつもは進んで近づいてこようとはしない部下が、執務室のソファーから立ち上がるのが見えた。
 その、不安と焦りの混ざり合った表情を見て、胸の内側がひどく痛んだ。
(ごめんね)
 心の中で、呟いた。
 君が、不安なのはとても凄く分かるんだけど。それを打ち消してあげられない僕を許して。
「ジャンヌ。今は少し、様子を見たほうがいいと思うんだ」
 右手に握り締めたままの、既にくしゃくしゃになった紙が、その冷静な言葉から説得力を全て奪い去った。
 様子を見たいのは、それで持ち直してほしいのは、誰より自分だということ。
 言い聞かせるように言葉を繋ぐ。
「……そうですね。取り乱して失礼しました」
「ジャンヌ、そう言えば君はどこでこれを?」
 本当に何の他意もなくそう聞くと、ジャンヌの顔に怯えのようなものが走った。
 それで、ミカエルは答えを見たような気がする。そしてその直感は外れていないはずだ。
「オルウェンだね」
 優しい声音で聞いた。少し間を置いたあと、ジャンヌはゆっくりと首を前に倒した。すぐ顔を上げる。
「けれど私は、教会に背こうなどとは……!」
 必死だった。いつも冴えた刃のような彼女が、取り乱すのを見るのは珍しい。
「分かってる。分かってるよジャンヌ」
 小さい子供に言い聞かせるようにゆっくりと諭す。彼女が詰めた息をゆっくりと吐き出すのが見えた。
「君と僕とは、そんなに深く関わったりしていないけど、君を信じているし、君の忠誠を、真摯だと思うし。伝わるから。だから君の過去にどんなことがあっても、僕は信じてる。それこそ、昔の知り合いと会うだけでそんなふうに君を疑うことこそ、何かが違ってると思うし。だから、怯えなくてもいい」
 こんな小さい姿の上司になだめられている気持ちは一体どんなものなのだろうか。
 ふとそんなことを思った。
 何もかも少しずつ、おかしい空間だなと思った。
「ありがとうございます、閣下」
「疲れているんじゃないの、ジャンヌ」
 彼女が少し顔をほころばせるので、ミカエルも笑みを作った。
 小さな歩幅で近くにある棚まで歩いてゆくと、お茶の道具を引きずり出す。
 一体何が始まるのかと、ジャンヌはその場に立ったまま上司の一挙一動を見守った。
「ゴルゴダの一件から、ずっと気を張っているみたいじゃない」
「けれど……」
「心は、眠ったりするだけじゃ休まらないからね。―――ショックだった?」
 唐突に聞くと、ジャンヌがその銀の瞳を見開いた。驚いて、言葉もなくて。
「マリアが死んだのは、ショックだった?」
 止めを刺すように真っ直ぐ言った。答えはもう知っていた。
 けれど言わなければきっと、ずっと。抱いたまま行くんだろうと思った。そういう子だから。
「……分かりません。だけど」
「うん」
「嫌いだと、思ってましたずっと。あの人のことは。分からないことが多くて。だけどあの時もう、どうしたらいいのか、空洞がここに、あるみたいで……」
 胸の真ん中に、大砲で丸い穴をあけたあとみたいに。何も分からない。
 血の気を失って真っ白な肌に、閉ざされた目蓋は穏やかで。
「羨ましいと思ったかも、しれません」
 あのひとの盾に、なれたこと。
 ひどく傲慢で我儘な願いかもしれないけれど。
 そういう形で心に、残ることを許された彼女を、嫉んだかもしれない。

 傍へは行けない。

 はられた境界線の内側へは行けない。
 決められた領域の中で尽くすことしか許されずに。だから羨ましいと、思ったかもしれない。
 まだ分からない。この感情を表す言葉は知らない。
「うん」
 小さな上司がもう一度頷いた。
「お茶でも飲んでいくといいよ。ジャンヌも少し、僕と仲良くしてよ」
 子供みたいな、強請るみたいな言葉で上司が言うので。
 はい、と。頷くことしか出来なかった。



3.

《あれ? 随分格好よくなったんじゃない?》
 そんなことはどうでもいいのにとりあえず言ってみた。そんな感じの言葉を吐きながら、画面の向こうの男は物凄く盛大に欠伸をしてみせた。
 起きたて。という張り紙が張ってあるぐらい、今起きてきたのが分かる顔をしていた。
「起こしました?」
《うん、でも別にいいよ。3時間も寝てないけど恨んだりしないよ》
 もう既に恨んでるじゃないか。大人げない言葉を聞きながら心の中で応戦する。口に出しては言わない。
 この人と言葉で争う気にはなれない。疲れるのはこちらだから。
《それで今どこ?》
「え、これって通信コードで分からないんですか?」
《分かるよ》
 本当に素で聞いたのに。
 この男は、と思いながら、何とかぐっとこらえる。
 ただの嫌味なのだ、きっと。
「今はロレーヌにいますけど、あの、そっちは……」
《知らない》
 今にも閉じてしまいそうな目蓋を擦りながら、少し投げやりにサイジョウが言った。
 知らない?
《助けてあげた恩も忘れて、言葉一つもなく出て行った薄情な若者のことなんて、知らないよ》
「………………」
《カルチェ・ラタン》
 唐突に、目の前の男の口唇から首都の名前が落ちた。
《行くって言ってたよ》
「カルチェ・ラタン」
 繰り返して呟いてみる。全てが始まったはずの場所で、片田舎で生まれた自分が神学を志して決して少なくない年月を過ごした都会。
 それが今は、理想郷のように遠い遠い場所に思えた。もう何年も訪れていない場所のような響きがした。
《ところでひとつ聞きたいんだけど。その前に周りに誰かいらっしゃる?》
「え? この部屋には一人ですけど」
《じゃあいいや。その機械使わせてくれた男って、髪の毛緑だった?》
 首の後ろを掻きながら、さして興味もない風に聞いてくる。
「いえ、違いますけど」
 ケビンの容姿を浮かべる。黒髪に黒い瞳だった。
《そうか。じゃあ気をつけたほうがいいな》
「はい?」
《裏から回ってきた情報で、まだ確かめてないんだけど。だから何とも言えないんだけどさ。『"青蛇"が死んだらしい』っていう情報が流れてきたんだよね》
「はぁ」
《"青蛇"は緑の髪をしてたはずだから……。その男はもしかしたら》
 違う奴かもしれない。
 サイジョウは言葉を濁したが、そう言いたいことは明白だった。
「だけどそんなの、こんなふうにすぐバレるじゃないですか」
 相手の顔や容姿の特徴を知っている人間にだったら。すぐにバレるじゃないですか。
 そんなことに意味なんてあるんですか。
《うん。だからあんまり、性質が悪いとは思ってないけど。とりあえず君の場所は分かったから、早めに出たほうがいいと思うよ。ロレーヌ自体は自治区だから、少しは安全だけど》
 なにせ、正規軍が出入りするのに許可証が要るぐらいだから。一長一短だね。
 手元にあるマグカップを口元へ運ぶ動作を見ながら、レイはそうですね、と返した。
「あの、ハルトは……」
 切り出したあと、レイは黙った。言葉が見つからない。
 何を聞こうとしたんだろう? もう無事であることは分かっているはずなのに。
 出て行ったというからにはもう、回復だってしてるはずなのに。
(見捨てられて、いないだろうか)
 何かの影響の所為だとしても、ふらりふらりと迷って口汚い言葉を吐き出したこの自分を。
 見限ってはいないだろうか。本人に確かめればいいことを、他人から聞こうとするのは卑怯で、だけど今は勇気が足りなかった。
 その様子をモニター越しに見たサイジョウが、微笑ましいというように口元を緩めたことに、俯いていたレイは気付かなかった。
 捜して、ふん捕まえて、一発殴るって、言ってたよ。
 耳に溶けたその言葉に、レイは知らないうちに安堵の吐息を漏らしていた。
 まだ大丈夫だ。きっと。

《そこから経由していって大丈夫だと思うのは……えーと、カインかなぁ》
「カイン?」
《そう。そこから西。ロレーヌからだったら、直通の路線があるはずだけど。そこにスキンヘッドの怪しい男がやってる"69"っていうバーがあるんだけどね。そこに連絡入れておくから。それと、この通信コードは変わらないから、覚えておくといいよ》
「ありがとうございます」
 何でこんなに親切なんだろう? 心の中でレイは首をかしげた。
 何か裏があるように思えて仕方がない。だって、サイジョウ・ヒイラギだよ。
 慈愛とか、施しとか、ボランティアとか。悪いけど似合わないのに。
《嫌だなぁ。僕は慈悲深い人間ですよ。君の相棒もしっかり養ってやったし》
 心外、と頬にしっかりと書いて、サイジョウが眉をひそめた。ほぼ一ヶ月も、ねぇ。深々と溜息をつく。
(一ヶ月、養って……)
 その言葉で、不意にレイは思い出したことがあった。聞きたいことがあった。
「あの、サイジョウさん、聞いていいですか」
《質問を許そう》
「アズマっていう人を、ご存知ですか」
 少々間の抜けた顔なら、何度か見たこともあるし。それこそこの男がぴしりとしている方が少ない。
 けれど、びっくりした顔を見るのは初めてだった。その顔を見てレイもびっくりした。
 サイジョウさんも、驚くことあるんだ。
《え……、ちょっと待って。何でここにその名前が出てくるのかな? 僕の聞き違いじゃないよね? "アズマ"?》
 もうひとつ発見した。サイジョウさん、慌てることあるんだ?
 そうですけど。頷くと、両手で額の辺りを覆って、その日一番大きな溜息をついた。
《もう、何と言うのか、偶然かそれとも……》
「あの……」
《どうして"君が知ってる"?》
 顔を上げたサイジョウの瞳に、滅多にない鋭さを感じて、知らないうちにレイは息を詰めた。
 この人、本当はとても怖い目をする人だ。
「助けていただきました」
 素直に告げると、もう一度ぴたりと黙って、しばらくサイジョウは何かを考え込んでいた。そして。
《ああ、因果だね》
 と一言だけ呟いた。
 それ以上、問い詰めてくれるな。突き放すような強さにレイは黙った。
《その話はね、面つき合わせてしよう。電波に乗せても仕方がない》
 相変わらず額の半分を片手で覆ったまま、ようやくサイジョウがそう告げたのは一分ほどの沈黙の後だった。
《しかし君たちはどんどん、自分たちから深みにはまってくんだね。取り返しつかないところに、飛び込むんだね》
 呆れるように口元を綻ばせて呟いた言葉はひとりごとだった。返さなくてもいいもの。
 たとえ返事を必要としていたとしても、レイは返すべき言葉を知らなかった。
《それじゃあもう切るよ》
「はい。ありがとうございました」
 ぷつり。通信を終えたモニターが黒に還る。ぱちりぱちりと静電気の走る音が少し聞こえた。
 レイはしばらく椅子に沈んだまま、その漆黒を見つめていた。


            *


 通信を切った指をボタンの上に乗せたままで。
 その指先に視線を落として、サイジョウはしばらく黙っていた。
「因果だね」
 もう一度繰り返す。
 その言葉以外もう、見つからない気がした。
「もしくは運命(さだめ)か」
 けれど、新しく見つけたその言葉のほうが、しっくりくる気がした。
 定めなど、認めたくもなくて大ッ嫌いだけれど。
 偶然という言葉だけでは、説明しきれないものが確かに、存在しているのだろう。
「貴方も驚いたでしょうに。いきなり僕の名前が出て」
 脳裏に浮かんだ面影に、答えの返らない問いを投げた。
「もう、僕を見捨ててもいいんですよ。叔父さん」


            *


「あの」
 我に返ったレイは、隠し部屋から顔を出し、ケビンの部屋を見渡したが、捜した姿は見つからなかった。
 何度かきょろきょろと辺りを見回してみても人の気配はない。
 戸惑いながら外へ出ると、少し離れた場所の木にもたれかかり、じっと自分の右手を見つめているその姿を発見した。
 陰気な容姿に似合いの、青白いその肌に、レイは違和感を覚えて目を凝らした。
 あれは?
 すると、視線に気付いたケビンがこちらを振り返った。
「ありがとうございました。終わりました」
「ああ、そうか」
 さりげなく右手を庇いながらケビンが返す。気付かないフリをしたが、その中に微かな動揺を感じた。ゆらぎ。
「じゃあ僕は、戻りますから」
 これ以上踏み込む資格はない。ケビンのゆらぎを気にしないようにして、レイは軽く会釈をすると教会の方へ歩き出し―――。
 足を止めた。
 引き裂くような大きな悲鳴。女の。
 そして少し離れたところで聞こえた男の舌打ちに、足が止まった。

 視界が閃光に灼かれた。真っ白に、フラッシュバック。
 目を凝らして見つめた違和感の先。
 自分の腕を見つめる男の、その青白い腕の内側に三本の赤い線。
 爪で激しく掻いたような、血の滲んだ痕。


            *


 この世界の光はすべて、主の優しさから溢れる。
 優しくて厳しい主よ。
 裁いてください早く。
 あなたが愛し慈しむうつくしいものを。
 汚し、切り裂き、踏みつけ。
 血潮の温度にやすらぎを覚える私を。
 見つけて、認めて、憎んで。
 早く。
 あなたの存在を感じられるように。
 この地から追放してください。

 早く。



4.

 腕。
 腕だけが地面に転がっていた。肘から下。
 何かを握るように、指は軽く折り曲げられたまま白く。空へ向いていた。
 鮮やかなピンクの肉に、白い骨が。雑な切り口から覗いている。
 白く張りのある美しい腕はしかし小さく、子供のもののように見えた。『またか』。そんな空気が集まった人込みの中に満ちた。
 教会の入り口の前。荘厳とも言える長い石段の一番上に。
 捧げるように。腕が。
 駆けつけたレイが人込みの隙間から覗けたのは、曲がった指先ぐらいだった。
 それだけでも何か、背筋が凍りつくような悪寒が這い上がったのを感じる。
 右腕がきしりと、肘の辺りで痛んだような気がした。
 錯覚なのは分かっている。けれど、あの腕が自分のように、"ここ"についていたのだと思うと……。
 ちぎれて、地面に落ちる錯覚。ずく、と痛んだ。
 その錯覚は自分だけではないらしく、人込みの中にも自分の右腕をさすっている人が少なからずいた。
 人の体の、先。
 引き裂いて、捧げる。意味は?
「馬鹿にするにも程がある、教会は父の家だぞ!? 主に対する冒涜だ!」
「シモン様、落ち着いてください……」
「煩い! これが落ち着いていられるか!!」
 シモン? その名前にレイは顔をあげ、玄関から鼻息荒く出てきた男を見た。
 黒い聖服姿の男は、この街に入ったときに一度だけ会った、この教会の当代の主、シモン・ヴォルディモートであることに間違いなかった。
 初めて会ったとき、無意識で、彼の内にあのひとに似たものを捜そうとした。
 血が少しでも同じものが流れているのなら。けれど何も見つからなかった。ほっとした自分もいる。一体何がほしいのだろう。
 シモンは、足元に転がる人の一部に冷たい一瞥をくれた後。
「もううんざりだ。中央教会との睨み合い、自治という名の孤立、その上治安の低下に猟奇殺人か……! 祖父もとんだことをしてくれたものだ」
 吐き捨てる言葉がレイの耳にしっかりと届いた。
 ロレーヌの、隠れていた本心が零れ落ちたのを感じた。中央教会から自治をもぎ取っていようとも、それが完全なる自由とは違う。

「呪われよ」

 聖職者の口から放たれたその言葉は、壮絶な凄みを持って辺りを打ち据えた。
 耳から体の中に入り、血管を駆け巡り心臓まで届いた。壮絶な、冷気と共に。
 石化するレイなど構いもせずに、シモンはばさりと聖服の裾を翻し、教会の中に姿を消した。
 呪われよ。幸を奪いとれ。突き落とせ。闇へ葬れ。
 他者の不幸を祈るその言葉は、簡単に口にしていいものではない。
 それを知っている聖職者の口唇から落ちたその鋭さに、レイは動けずにいたのだ。
 重みが違った。
 その重みが現在のこの土地の置かれている情況そのままなのだろうか。
 見えぬ場所で病む。ハリボテの裏。

 くすり。
 人込みの中から小さな笑い声が聞こえたような気がして、レイはその笑いを捜した。
 ざわざわ揺れる人込みは、殆どがこの教会の関係者で、黒い聖服に埋め尽くされたその海の中で、レイは見た。
 口元が痛みをこらえるように歪んだ、卑しい笑みを。
 誰、と確かめるより前に、その人物は踵を返し、黒い波にまぎれて消えた。
「くそっ……」
 背中で悪態が落ちる。これは振り返らなくても分かった。
 ここまで一緒に来た男だ。
 たくさんのものが複雑に絡まりあい、締め付けられる錯覚に、レイは深呼吸した。
 脳が酸欠を起こしているようにくらくらする。酸素がほしかった。
 ぽつりぽつりと現れては消える不安要素の、何がどうなっているのかも全く分からないのに、不安と恐れだけが増大する。
 じわりじわり、水に落ちた墨のように、徐々に徐々に、広がり始めていた。


 あなたのちからを、ひかりを。
 愛を信じているから。
 だから早く私を、私を―――。


            *


 『こんな夢を見たよ。君に取り残されて遠い遠いはるか先の世界で。
 悲しいことばかりがあって。一人で。苦しかった。』

 もしも今の現実がすべて夢で、目が覚めたら君が、傍にいて。
 こんなふうに今の状況も笑って話せるなら。どんなにいいだろう。
 長い長い、終わりのない夢。
 何度でも何度でも、繰り返し君を失うことになるのだろうか?
 こんなふうになることを誰が望んだものか。
 いるのならば神様。
 早く私の罪を暴いて殺してくれればいい。死ぬことすら許されないこの場所では。
 何もかもが痛々しく。
 もしかしたらもう既に私は楽園を追放されているのかもしれない。
 辿り着いたこの星で、罰を受け続けているのかもしれない。


「どうなさったんですか、寂しそうな顔をして」
 いつのまにか部屋の中にいた男が嘲うような笑みを口元に浮かべて言った。
 この男はいつもそうだ。
「貴様には関係のないことだ」
「それはそれは。失礼いたしました」
 フレームのない眼鏡の奥で、蛇のように鋭く狡猾な瞳を細めて笑う。ひどく頭の切れるこの西軍大将はしかし、本音をさらすことはない。
 若いうちから教会の下で、美醜に関わらず数々の仕事をこなしてきた。
 神に祈るわけでなく、金のためでなく。
(一体お前は何が欲しいのだ)
 富でも名声でも、もちろん信仰心でもないのなら、一体何が欲しいというのだろう?
 人を貶めることだけを楽しみにしているわけでもない。"獲物は選ぶ"男だ。
「猊下。東軍大将のシャイアティーン閣下がひどく傷ついておられたようですよ」
「知っている」
 貴様に言われずとも、あの顔を見れば分かる。そこまで麻痺などしていない。
「しかし、ミンスター大学のガイアズメール研究は終わらせる」
「怖いのですか」
「なんだと?」
 涼しい瞳のままでランドウ・アンティクリストが訊いた。
 怖いのかと。
「暴かれるのが、恐ろしいですか?」
「暴く、だと?」
「この星の軌跡を暴かれるのが、そんなにも。貴方の余裕をすべて奪ってしまうほどに恐ろしいですか」
「貴様は何を望んでいる」
 すべてを見透かしたような濃紺の、夜の海と同じ色の瞳を見つめ返して問うた。
 貴様は一体何を知っていて、何を望んでいるのか。
「それこそ貴方には関係のないことだ」
 目を細めると、氷のような冷気が辺りの温度を下げた。この男の瞳は人を石化させるような、魔性の力を宿しているのではないかといつも思う。
 恐ろしい男だ。
「それならばもう話すことはないはずだ―――」
「壊したいものがあります」
 自らの右掌に視線を落とし、ぽつりと。ひとりごとのようにランドウが呟いた。
「御存知ないですか? 何かが壊れる瞬間というのは、人であれものであれ、うつくしいものですよ」
「私に貴様のような趣味はない」
「"本当に"?」
 上から、まるで見下すような濃紺の瞳が、心の内側に入り込んでくるような錯覚。
「―――何が言いたい」
「貴方も、"壊す気持ち"をご存知ではと」
「―――」
 後ろから不意に、首を鷲掴みにされたようなつめたい感覚が足元からきた。
 不意に。動脈にナイフを当てられたような。心臓に銃口を当てられたような。ハッとするその一瞬。
 わずかに見開かれたサファイアのような、青く澄んだ瞳に、満足そうに口元を緩めて、ランドウは一礼をした。
「お前は何者だ」
 踵を返すその背中に、慄きの混じった問いを投げた。この男を初めて、脅威だと感じた。
 肩越しに少し振り返り、ランドウは眼鏡を引き抜いた。レンズを通すことのない瞳は、冴えていた。
「貴方かもしれませんよ。私が壊したいのは」
 答えでも何でもないものを投げ捨てて、ランドウは部屋を後にした。
 もはや何も返さない主に背を向け、後ろ手に扉を閉める。ぱたり。

―――ランドウ・アンティクリスト閣下ですか。

 自らの執務室へと歩むランドウの耳元に、幾分か幼い男の声が蘇ってきた。
(ああそうだよ、君は?)
 線の細い、か弱そうな少年だった。これで、研究所への入学試験をトップで抜けてきたというのが信じられないぐらい。
―――サイジョウ、
 一度視線を足元に落とし、自分の爪先を見つめたあと、決意を固めたように顔を上げた。
―――サイジョウ・ヒイラギです。
 見つめ返すその瞳に深い青。自分と同じ色が見えた。揺れる瞳が。
(……そうか)
 ここまで。やっと辿り着いたんだね。
(期待しているよ)
 だけど、君が求めているようなものをあげるつもりはないよ。優しい言葉や、腕なんかは。
 それが私の愛情だ。
 いずれ君が、曲がらないものを手に入れて、真っ直ぐここまできたら。
―――あの、お聞きしてもいいですか。
 去り際にサイジョウが口を開いた。
(何かね)
―――サイジョウ・マコトという名前に、聞き覚えは。
 伺う、少し怯えた瞳がこちらを見ていた。何が欲しいのか、自分でも分かっていない。
(ああ)
 頷いて、目を少し細める。
(よく知ってる)
 それだけ投げ捨てて、背を向けた。
 凍りついたような視線が背中に刺さる。

 ここまでおいで。
 迷わぬものを、崩れぬものを、侵せぬものを手に入れてここまで。
 登っておいで。
 そうしたら君を―――。



5.

 しん、と静まり返った、音の死んだ深夜。
 ある扉を押し開き、その隙間から室内に滑り込んだ人影があった。
 絨毯の敷かれた室内は、人影の足音を上手く吸収してしまう。好都合だ。
 吸い寄せられるようにベッドへと近づき、上から見下ろした。
 掛け布団を頭の上まで被って、一定の呼吸を繰り返しているその、姿。
 わずかにのぞく金糸が、細い月明かりを反射して、闇の中にぼんやりと浮かび上がる。
 頭。そこから視線を滑らせ、浮き上がっては沈む胸の辺りに目を遣った。
 一突きにすれば。奪えるだろう。
 いのちを。容易く。
 白い布団を赤に染め上げ、青白い人形のように硬い肌に……。
 手にした短刀をゆっくりと振り上げた。指先がなぜか震えている。
 もう何度も越えて来たものを。情けないと自分を叱咤する。
 咽喉元。左胸。どちらにするべきか。
 躊躇して、刃の先が揺れた。
「ナイフ、下ろしてくれますか」
 突如、布団の中からくぐもった声が零れ落ちた。ナイフを振り上げたまま、固まる。
 掛け布団のわずかな隙間から、金の髪にまぎれて碧の瞳がのぞいていた。こちらを見上げている。
 腹部に違和感を感じて、目線だけを下ろすと、布団の隙間から出た手が、金色に鈍く光るピストルを握っていた。
 その銃口が、左わき腹に押し当てられている。
「……僕の方が早く貴方を傷つけられると思います。そうしたくはないので、ナイフ、下ろしてください」
 銃口は押し当てたまま。ゆっくりと布団を持ち上げ、女顔の青年がベッドの上で体を起こした。
「どうしてですか、ケビンさん」
 レイ・クレスタは、暗闇の中に立ち尽くす男を見て、少し悲しそうな顔をした。
 黒装束に身を包んだ事務員は、驚きに目を見開いて立ち尽くしていた。
「お前、何でピストルなんか……」
「自衛です。自衛にしたい、です。だからお願いします。ナイフをしまってください」
 相手の生命を引き金一つに握っているはずの金髪の青年のほうが、なぜか痛そうな顔をしていた。
 ケビンはナイフを床に落とすと、両手を挙げた。降参の証。
 レイは詰めた息を吐き出すと、ベッドから降り、床に転がるナイフを拾い上げた。
「ケビンさんだったんですか、全部」
 少年たちを殺し、腕を石段に転がして。
「俺は"青蛇"じゃない」
 答えの代わりに、ケビンはひとつの事実を投げて寄越した。
(気をつけたほうがいいよ)
 サイジョウの忠告が耳元でかすかに鳴って、すぐに消えた。
「"青蛇"は、俺が殺した」
 がつり。
 ケビンの突然の告白が、脳を、頭を打ち据えたのかと一瞬迷うほどに唐突に。
 激しい衝撃が、後ろから来た。
 視界が膜がかかったかのようにくすんで歪んだ。足元が自身のようにぐらぐら、揺れる。
 "後頭部に"。強かに何か硬いものが振り落とされて打ち付けられた。
 そのとき初めてレイは、その事実と、背後の人の気配に気がついた。"一人じゃなかったのか"。
 相手を確かめようと振り返り、目的を達成する前に例の意識は闇に落ちた。
 黒い人波の中で見たあの、卑しい笑みだけが、一瞬だけ揺らいで。
 消えた―――。


            *


――― 一体いつまで続けるんだ。もういい加減にしてくれ、俺はもう疲れたんだ。
―――ここまで加担しておいて、今更何を仰るんですか。
―――加担!? お前は俺が"青蛇"を埋めるのを見かけて、それをダシに脅したんだろう!!
―――貴方には家族もいて、貧しい村で貴方の稼ぎを待っている人々がいて。犯罪者になるわけには行かないんでしょう。

 どこか暗いところをたゆたう意識に、投げ込まれてくるふたつの声は、どちらも知った響きだった。
 耳で声を追ううち、徐々に意識が冴えてくる。
 片方はケビンのもので、もうひとつは……。予想すらしていなかった穏やかなものだった。
「それを脅しだと言ってるんだ!!」
 ケビンの叫び声で意識が覚醒した。答える声はない。
 ざり、と足音がこちらに近づいてくるのを何とか耳で拾った。
「何でこいつを……」
「貴方の光を、羨ましいと思いました。"ファスト"さん」
 重い目蓋を持ち上げて、首だけを床から持ち上げて上を見た。声のほうを。
 黒い聖服。無邪気な笑みが口元に浮かんでいた。その無邪気さが今は、残酷さに見えた。
「主が私を見つけてくださるのを。罰してくださるのを、待っているんですが」
 芝居がかったように両手を広げ、彼は言った。眼鏡がないだけで、こんなにも印象が変わるのかと思った。
「ヨエル、さん……、どうして」
「まだ罪が、足りないらしい。貴方の光を奪えばしかし、もしかしたら……」
 彼の中に気弱さは最早見えなかった。澄んだ、澄みすぎた瞳を細め、レイを見下ろす。
「主の存在を知りたいのです私は」
 石畳に腕を突っ張って、何とか立ち上がろうとするレイを見下ろしたまま、ヨエルは呟いた。
「楽園の中へいたら、自分のいる場所が楽園かどうかも分からない。扉の外から見つめて、自分が確かに楽園にいたのだと。正しき主の導きによって、追放されたのだと、知りたいだけなんです」
 そして知りたいだけなのです。神はいたのだ。
 よろめきながら、後頭部に痛みを抱えたまま起き上がり、すぐ後ろの壁に背を預けた。
 冷たい。
 四方を岩壁に囲まれている、地下室、だろうか? ひとつの窓もないので、恐らくそうなのだろう。
「綺麗なものを、汚したいのですよ」
 例えば、穢れの知らない少年少女がいい。
 白い肌に赤い血を。肌を裂いて中身を。
 四肢を千切って。
「幼い頃から、"こう"でした」
 はじめはそう。猫や犬の類だったと思う。
 どうしてなのか分からないけれど、無性に血が見たかった。
 肉を切る手応え。皮膚の内に来る震え。なまぬるさ。
 途絶えそうな、それでもまだ繰り返す脈動。すべて。そこに生命の証が生きているものが。

 まだ頭の内側で頭痛を跳ね返せずにいるレイが、壁に背中を預けて少し荒い呼吸を繰り返しているのを見ながら、ヨエルは愛おしいものを見るように目を細めた。
「ある日突然気付きました。憎まれたいのだと」
 すぐ傍までひたりひたりと寄ってきたヨエルの手が、レイの首筋に絡まった。ゆるりと力を込める。
「私を、見つけてほしかったのです。けれど私は、貧乏でも不幸でも病人でもなかったから、もっと他に、あの方の目に留まるためにもっと他の……」
 あなたの。
 愛し慈しむすべての、うつくしいものを。
 汚し踏みにじり。
 壊す。

 きしりと手に力が入った。骨と声帯と気道とを一握りにするような圧力に、レイは眉をひそめた。が、まだ苦しくない。
 後ろから、やめろ、という声が飛んだが、お互いにはあまり関係がなかった。
「そのたびに、ひどく心が静かになることに気付きました。痛みもなく、ただ安らぎが」
 白い肌を裂いてその内を―――。
 赤く染まる肌の、鮮やかな映像。
 千切った腕の、切り口。
「どのぐらいにしたら、十分なのだろう」
 口元に薄らと笑みを浮かべたまま、呟く。瞳は澄んで、どこか遠く。
「私があなたに裁かれるに足る罪の大きさとは」
「安らぐなんて、嘘だ」
 澄んだ瞳はガラス細工のように美しかったが、近づくと細かな傷が見えるような気がした。
 もちろんそれは錯覚でしかないのだが。
 傷つかないなんて、嘘だろう。
「嘘?」
 ヨエルの瞳がはじめて焦点を結んだような気がした。真っ直ぐにレイの瞳を見つめる。
 ゆるゆると首にかかる圧力に、酸素を求めて口が開いた。
「ただ罰を与えられることだけが欲しいんじゃないんでしょう。そのあとに、許されたいんだ」
 ただ貶められること、見捨てられることを欲しているわけでなく。
 そのあとにまた、救いの手が伸ばされることを。認めてもらえることを。待っているんじゃないのか。
 ヨエルは少し瞳を見開いたあと、また細めた。
「私はただ、楽園の扉が見たい。それだけだ」
 どうしてこんな華奢な腕にそんな力があるのか、分からないほどにヨエルの腕の力は強かった。
 血が上手く廻っていないのが分かる。視界がまた、1段階暗くなった。
「じゃあなんで、そんなに追い詰められた目を……」
「早く……」
 腕の力と反比例するように、声は次第に弱まった。レイが聞き取れたのは最初の部分だけで、あとは口唇の動きしか。

 早く。
 自分ではどうしようもなくて。
 早く。誰か。
 この手で奪ういのちの。目蓋の裏に灼きつくその、苦悶の顔。
 引き裂いた中身の、紅色。開かれた瞳孔が見つめる虚空。
 笑いながら柔肌に、突きたてる刃のひかり。
 意識が、ぷつりと失われて落ちる一瞬。
 "止められなくて"。
 笑いながら泣きながら締め上げる首の。ぬくもり。
 いのちの、ありか。

 気管が狭くて、酸素が上手く入ってこない。酸欠の脳味噌。ひどく重い。
 滲んだ涙で視界が効かない。それ以前に辺りがひどく暗い。
 耳に水が入った時のように、周囲の音が遠い。このまま。
 無理に繋ぎとめる意識を手放すなら。楽になるだろうか。
 甘美な欲求が、体の底から湧きあがってきた。苦しくて辛くて、そんなことを続けるくらいなら。
 いっそ手放した方が楽。
 ヨエルの手を引き剥がそうと、自分の手を持ち上げる。キリキリと締め上げる腕に絡ませて、そのまま。
 抵抗する力もない。
 強打されたダメージがまだ後頭部に残っていて、重い。
 すべてが重い。絡まるもの、しがらみ、重ねてきたこと。全部が。
 このまま、すぐそこに開いている黒い穴に、堕ちれば―――。

(信じろ)

 朦朧としてゆく意識を突き破る強さで、鼓動が左胸を内側からどん、と打った。
(まだ)
 ヨエルの腕から自分の手を引き剥がし、背中の方へ回す。
(まだ楽になんて)
 なってはいけない。こんなところで。
 腰のほうを弄り、目当ての固い感触を抜き取る。かじかんだ時のように感覚のない指先を腕を動かして、最大限のスピードで。
 相手の額にそれを押し当てた。
 暗い闇の中に浮かぶ、鈍い銀。
「どうして、2丁とも……、取り上げ、なかったんですか……」
 ぜいぜいと、苦しげに呼吸を繰り返しながら、安全装置を外した。『王国』という名をもつピストル。銀のマルクト。
 少し調べれば、腰にホルスターがついていることなど、そしてそこにピストルが入っていることなどすぐに知れたはずなのに。
 するとヨエルは、何かを諦めたように少し情けない笑い方をすると、レイの首から手を離した。
「貴方は、私に与えられた主の"慈悲"です」
 愛おしいものを見るようなその微笑に、レイの背筋を冷たいものが駆け上がった。
 慌ててピストルをヨエルの額から外そうとするが、相手の手がそれを拒んだ。

「これで終わりだ」

―――何? 私の名前の意味? そんなもの聞いてどうするだい、レイ。
(だって、僕が"光"でハルトが"翼"だから、神父にも何かあるんじゃないのかなって)

「やめろっ……」
 咽喉が、上手く動かずに、叫びが声にならない。
 握られたままの腕。突きつけられたままの銃口。引き金に食いこむ。
 指。

―――嫌だよ。名前負けしてるって、笑われるから。
(そんなことないよ、絶対そんなことないよ、教えてよ)

 鮮やかな笑み。愉楽。恍惚。
 モノクロームでスローな世界。引き金にかかった自分の人差し指を、思いっきり他の力が押した。

―――"ファスト"っていう言葉はね。『慈悲』という意味なんだよ。


 銃声。


 青年の咽喉から迸った絶叫が四方の壁に反響して、獣のうなりのように響いた。


―――ハレルヤ―――



6.

 どさりと、何か重いものが床に転がる音で、レイは我に返った。
 宙に不自然に浮いたままの腕の先が、肘の辺りまで真っ赤に染まっていた。
 違う。まだ上手く回らない頭で、ようやくそれだけを思った。
 的を狙って引き金を引いていたときと、人の体に押し付けたときとでは。
 衝撃が。震えが。
 全然違った。
 鈍く光る美しい銀の銃身が、返り血で今は真紅に染まっていた。
 今になって、強烈な寒さが足元から這い上がる。
「っ……」
 漏れそうになった喘ぎを、何とか片手で口を塞ぐことで制した。
 掌の内側に当たる口唇が、ひどく震えている。指の隙間からこぼれて落ちる吐息が熱い。
「大丈夫か……?」
「ケビンさん、詳しく、説明してもらえますか」
 恐らく、赤黒く痕が残っているだろう首をさすりながら、レイは、少し離れたところに立っている男を見た。
 足元は見れなかった。ひたひたと水分が寄ってくるのは分かる。そこに転がっているものが何なのかも。
 しかし直視できるほど、強くなかった。
「俺は"青蛇"と呼ばれた男に脅されていた」
 赤い海に沈んだ、最早ただの塊となった体の傍に跪き、目をそらすことなく。
 ケビンはその体を抱き起こした。
 あいつが隠していたあの部屋に入ったことがまず始まりさ。色々なデータを見たところを見つかってな。
 俺よりも家族に危害が及ぶことを俺は恐れた。
「耐えかねて殺っちまったところを、こいつに見られたって訳さ。それからまた脅され、悪循環だ。その当時、俺が一番疑われていたし、家族のこともあって、従わざるを得なかった」
「何を?」
「"青蛇"でい続けることと、子供の誘拐さ。町から見繕ってくるんだ」
 体中、引っ掻き傷とかがあるだろう。あれは抵抗されたときにつく傷なんだ。
 腕の内側に3本、蚯蚓腫れのような引っ掻き傷を自嘲気味に見つめてこぼした。
「やめようと思えばいつでもやめられたのにな。俺も結局、どこか狂ってるんだろうさ」
 罪悪感とは別のところで、どこかとても、冷めている自分が存在していて。
「だがこいつは、こんな奴じゃなかった。俺が本性を知らなかっただけかもしれないが……」
 凶暴な部分が、あったのかもしれない。見えなかっただけで。
 しかし彼は敬虔な信者だった。誰よりも主を信じ、手を伸ばしていた。
 どこで、"たが"が外れたんだろう。
「どうしてこう、なっちまったのか……」

 ハレルヤ。

 叫びを残して。自ら血の海に身を投げた。
―――早く。
 ヨエルの呟きが、先程からぐるぐると耳元を回っている。本当は誰かに早く、止めてもらいたかったのではないか。
 今となっては永遠に分からないことだが。

 人を撃った震えがまだ手に残っている。
 もはや人の形すら残していないその体を、しっかりと見た。
 衝撃で半分、欠けた頭。
 胃の辺りからこみ上げるものを必死に押さえる。
 ケビンがゆっくりと立ち上がった。その動作を目線で追う。
「どうするんですか?」
 その歩みが壁に取り付けられた―――今発見した―――扉へ向かっているのに気付いて、レイが聞いた。
「説明しにいく。これ以上、隠すのは荷が重い。―――お前は、俺の小屋で身支度整えて、早くこの街を出るんだ。ピストルの金のほうは、ほら、そこに落ちてる」
「でも……」
「お前のせいじゃないし、関係ない」
 切り捨てる強さでケビンが言った。振り返らずに、扉を開く。
 関係がない。冷たく突き放す。
「お前にとってここは通過点なんだろ。俺にとっては違う。構うな」
 僕もここまで関わったのに、と言おうとする前に扉が閉まった。
 追いかければよかったのに、出来なかった。
 握ったままの銀のピストルが、ずしりと重かった。


            *


 闇と光の向こうに、理想郷はあっただろうか。
 扉は。



Intermission

 薄暗く落とされた照明。
 低く音楽が鳴っている。
 宿屋と酒場を兼ねているこの館に泊まってから、もう二晩目になる。
 昨日のうちに発つつもりだったのだが、どうも左目が熱を持ってだるくて仕方がなく、結局もう一晩過ごすことになったのだった。
 明日には発てるだろう。
「おい、知ってるか」
 別のテーブルでの声が飛び込んできた。どうやら随分酔っているらしく、声のボリュームが普段よりも数段高かった。
「オゼだよ、オゼ」
「オゼ? あんな辺鄙な町に一体何があるってんだ」
「あそこの新しい女領主の話さ。なんでも、死人を生き返らせる力があるらしい」
「そんな夢みたいな話、本当に信じてるのか?」
 徐々に高まる相手の声を押さえようとしながら、酔っ払いの向かいに座っている男が言った。
「ところが、その領主様自体が死んでから数日後に生き返ったらしいんだ」
(そんなことあるか、ばァか。ガセに決まってるだろ)
 いつのまにかぴたりと止めてしまっていた手を再び動かし、ハルトはグラスを口に運んだ。
「その領主様って言うのがな、"黒髪に赤い瞳"をしているらしいんだ」
 口をつけてアルコールを咽喉に流し込む前に、ハルトの手が止まった。
 黒と、赤?
「おい!」
 思考よりも先に体が動いていた。がたりと音を立てて立ち上がり、その酔っ払いの方へ向き直る。
「オゼって街、どこにある」





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