父なる者の家
〜嵐の序曲〜
強い名前だな。
常に緑を絶やすことのない木の名前だ。
そしてその葉は時として、人の肌を傷つけるほどに鋭い。
全く、お前に似合いの名だよ。
お前はそのままでいればいいのさ。
俺ももちろん自分の生き様を曲げる気は毛頭ない。
もし俺とお前との道が重なる場所があるとしたら。
そのときは。俺は全力でお前を払い除けてでも勝ちに行く。
それだけは覚えておけよ、それだけ覚えてりゃ、ここから飛び出していくのを俺は止めないさ。
分かったらもう行けよ。もうすぐここにも追っ手がかかるぜ。
―――なんで見逃すのかって? 簡単だろう。お前はもっと頭のいい奴だと思ってたんだがな。
俺には関係ないからだ。
お前がその名に恥じない生き方をすりゃ、それでいいさ。
生きやがれ、ヒイラギ。
*
何の前触れもなく、夢から現実に放り出された。
唐突に開いてしまった瞳が受け入れた光景は、見慣れた天井だった。
「参ったな……」
思い出してしまった。
仮眠用のソファーの上で、体を起こす。
ふと、傍にある机に目を移すと、大切にケースに入れられた真っ白な花が、ライトに照らされ美しく花弁を開いていた。
「あいつがこれを、見逃すはずは、ない、か」
ソファーから降りて、机まで歩いてゆく。足取りが何故か、重い。
「奴だけは、敵方に回したくなかったんだけどな」
たとえ、憎しみあっていなくても、負の要因がなかったとしても。
賭けるもの、守るもの、立つ場所。理想や、信念。
そのひとつでも食い違ったら、正反対の場所にいることになる。
自分とあの男の場合は、きっとそうなんだろう。
そしてあいつは、どんなことをしてでも自分を払い除けて、「勝ちに」行こうとするだろう。
「だからと言って、引けないな」
サイジョウは、白い可憐な花びらを見下ろし、呟いた。
「お前はどう思う」
デスクの上に置かれているコンピュータのディスプレイに向かって問い掛けた。
ぶぅんと音がして、ディスプレイに仄かな明かりが灯る。
真っ黒な画面に、キーを打ち込んでもいないのに、さらさらと文字が並ぶ。
「…………そう。そうだね」
その羅列に目を滑らせて、頷いた。
あっさりと負けてやるわけには行かないのだ。
たとえそれがあの日、自分を生かしてくれた男だとしても。
1.
赤と紫とが溶け合って、奇妙なグラデーションを描いている。
ごとごとと等間隔の振動を体に受けながら、空をぼんやりと眺める。
あと数十分しないうちに、夜の帳が下りるだろう。
舗装のなされていない道をゆっくりと行く荷馬車。これがこの辺りの生活のスピードなのだろうと、ぼんやりと思った。
それは決して、この地域が未開だと言う嘲りではなく。
温かい温度を感じられると言うこと。
「おい」
前のほうから、手綱を握る男が声を掛けてきた。
「はい?」
ふわふわと空中を漂っていた意識を引きずり戻して、声を返す。
「お前さん、ロレーヌに行くって言ってたよな? あの街のこと、知ってるのか?」
真っ直ぐ前を見詰めたまま、男が聞いた。
「知ってるって……、中央の教会の力があまり強くないってこと、ですか?」
「強くない、なんてもんじゃないぞ。あそこは完全にあの地方教会の勢力下だ。あの正規軍さえ、関所を通るのに通行書が要るんだ。まぁ、一般人は別だが。だから、教会から追われてるやばい奴らがごまんといるんだぜ。治安はあんまり良くない」
(追われてる奴、ねぇ)
ごとごとと揺られながら、心中は複雑だ。何しろあまり他人事ではない。
「そもそも何十年か前にあそこの教会が中央教会と喧嘩やらかしてからだな。こんなふうになったのは。……と、あの道を曲がればロレーヌの東門に着く。俺ぁ真っ直ぐだから、ここまでだが、すまんな」
「いいえ、無理を言って拾ってもらって、ありがとうございました」
少し先に見えるT字路を指差して、男が言った。しばらくして荷馬車が止まったので、荷物を背負いなおして荷台から降りる。
同じ音を響かせて荷馬車が道を真っ直ぐ行ってしまうのを見送る頃には、もう空はすっかり紺色に塗りつぶされていた。
後ろのほうから吹きつけてきた風が冷たくて、思わず身震いする。
「やっぱりまだなんか、涼しいな……」
無意識のうちに右手で項に触れてしまっていた。今まで何年もの間あった髪をばっさりと切ってしまったわけだから、その違和感も仕方がないといえば仕方がないことなのだが。
けれど別に、悔やんでるわけじゃない。
「さてと。遅くならないうちに街に入らないと……」
荷馬車が消えていった方向とは別の方へ曲がり、レイ・クレスタは一歩ずつ歩き出した。はるか遠くに、城塞のようにそびえたつ巨大な門を目指して。
*
―――とりあえず、まずはロレーヌに入って"青蛇"という男と会うんだ。そいつがヒイラギに連絡を取れるはずだ。
ようやく体を起こせるようになった頃、夕食の後、不意にアズマが切り出した。
『"青蛇"?』
リュウが出してくれたコーヒーを飲みながら訊き返した。人の名前?
『そういう名前で通ってる。裏の社会でうろうろしている奴は、大体本名を明かさないもんさ。ヒイラギが変人なんだよ』
『……否定はあんまりできないけど』
変人には違いない。苦笑しながら相槌を打つ。
『お前は神学生だったって言ったよな? 好都合だ』
レイの苦笑に自分も笑った後、すぐにアズマは崩した表情を元に戻した。
『好都合、ですか?』
『一応の神学の知識はあるんだろう。これで青蛇との接触が1段階楽になる』
『どういう……』
『ロレーヌを仕切ってる教会の名前を、お前知ってるか』
どういうことですか? 問い掛けた言葉を途中で封じ込められ、レイは黙った。
しかし、黙った理由はそれだけではなかった。アズマの質問に、心臓を急に鷲掴みにされたような気がしたからだ。
『青蛇は、そこで事務員をやってる』
レイの答えを待たず、アズマは言った。
だから、神学生だといって教会に潜り込めれば、その青蛇に会うのは通常より楽だと。そう続けるアズマの声を、しっかりと聞いていただろうか?
多分答えは否だ。
地方都市ロレーヌ。
カルチェ・ラタンにある中央教会、聖ガイア教会の支配が染みとおったこの世界で、自治権を取得している特殊な都市だ。
数十年前、とある事情で中央教会と「大喧嘩」し、そのとき、ロレーヌで大きな暴動が起きた。
多くの血が流れた。
それ以来お互いが、お互いにあまり干渉しないと言う暗黙の了解ができたらしい。
その都市を仕切っている地方の大教会。
聖ヴォルディモート教会。
湯気を上げるマグカップを両手で包んだまま、レイは、漆黒の液体を見つめて黙った。
幼い頃の思い出が急に湧き上がってくる。
―――何度も、お断りしているはずですが。
ある日、いつものようにキトの教会を訪れた時のことだ。
見慣れない聖服を着た男が二人、ファストと向かい合っていた。
普段はあまり不快そうな表情を表に出さないファストが、露骨に眉間に皺を寄せている。
―――そう仰らずに。もはや、ヴォルディモートの直系は貴方しかいらっしゃらないのです。
―――この教会の神父の代わりはいても、ヴォルディモートを継げる方は貴方しかいないのですよ。
うんざりだ、と顔にはっきり書いたファストは、男たちの肩越しに小さな訪問者を発見して、苦笑して見せた。
そして、その表情をすぐに消し、再び二人に向き直った。
―――単刀直入に申し上げて、私は聖ヴォルディモートを継ぐ気は全くありません。特に私は一度牢屋に入った人間です。貴方がたのご期待には添えないと思いますが。
こんな風にしてあの人の血の源へ辿り着くことを、一体誰が予想できただろうか。
ファストとヴォルディモート教会との間に何があったかは知らない。が。
無関心に決して気楽に、とは行かないのだった。
『お世話になりました』
結局予定していた2週間を大幅に超え、3週間近くアズマの家に滞在したレイは、ある朝早くそこを後にした。
『おう。まぁ、無理しない程度にやんな』
戸口に立って、腕組みしたままのアズマがにやりと口元を歪めて笑った。
『あの、アズマさん、ひとつだけ訊いていいですか』
ここ3週間。見慣れた葉巻を銜えたアズマの姿。ゴーグルの奥のあまり大きいとは言えない瞳が、少し見開かれた。
『何でこんなに親身に、なってくれたんですか?』
ここ3週間。ずっと思ってきた。目が覚めた直後、アズマは「落ちてるものは拾っちまう」と説明したが、それだけでタダ飯を3週間も食わせ続けてくれるとは思えなかった。
何かもっと別の、他の理由があったような気がして。
『言っただろ、流されてきたものはガラクタだろうが人だろうが拾うって』
同じ答えが返されたが、レイは「でも」と食い下がった。
『じゃあ、俺の苗字を教えといてやる。それで考えろ』
アズマは、ゴーグルを額の上に押し上げ、その黒い瞳でレイを真っ直ぐに見据え、言った。
『サイジョウ・アズマだ』
告げられた苗字に、レイはぽかんと口を開けて絶句してしまった。
その間抜けな顔に、アズマは満足そうに意地悪く笑ってみせた。しってやったり、そんな顔で。
『それって……』
詳しく聞こうとしても、アズマはその意地悪な表情を崩そうとはしなかった。防御壁を張られて、レイはそれ以上突っ込むことが出来ずに。
もう一度、ありがとうございました、と頭を下げた。
『にしても、リュウはどうしたってんだ。とっくに目覚ましてるはずなんだがな。アレか? 随分お前に懐いてたから別れが名残惜しいのかもな』
肘で、どすりとレイの脇腹を突付き、先程とはまた違った少し下世話な笑いを浮かべる。
『そんなんじゃないよ、全くもう!』
どん、とアズマの後ろで扉が開いた。ノブの辺りがちょうどアズマの腰にクリーンヒットしたらしく、アズマは、そこを押さえてよろめいた。
『ホラ』
自分が攻撃した父親には構わず、リュウは、レイの方へ何かを放った。
自分の腹部辺りに当たったそれを受け止めて、それが何かを確かめたレイは、驚いてリュウの顔を見た。
『あたしの一番のお気にだからね。すっごいイイ子で、いうこと聞くんだ。貸してあげる』
アズマ譲りらしい、少し意地悪な笑いで、リュウは両手を腰に当てた。
『"ティフェレト"と"マルクト"。それがそいつらの名前だからね。あ、あくまで貸すんだから、返しにきなよ』
『練習中は、触らせてもくれなかったのに』
『レイはあたしの弟子だからね。しっかりしたもの持ってて貰わないとさ。絶対、返しに来るんだよ!』
『ありがとう。覚えておくよ』
*
街道を真っ直ぐロレーヌの城塞に向かって歩きながら、レイは、腰の後ろ辺りを探って、固い感触を確かめる。
がっちりと腰に固定したホルスターの、背中に近いところに二丁。
右が金のティフェレト。左が銀のマルクトだ。
驚いたことに、レイに銃の指南をしてくれたのは、アズマではなくリュウだった。
暇さえあれば喧嘩しているあの親子だが、アズマもリュウの銃の腕は認めているらしく、「あいつに習うといい」と言った。
その中でも、リュウが一番大事にしていたのがこの二丁、ティフェレトとマルクトだった。
古代のものらしいが、その性能はずば抜けているらしい。とはいえ、練習中は触らせてももらえなかったので、それがどういうふうにずば抜けているのかは、レイには分からなかったが。
(できれば、使わないで済めば一番いいんだけどな……)
などと苦笑しながら、"あいつ"に言ったら「軟弱者」と非難されるんだろうな、と思いながら。
瞬きだす星が、蒼い月が。照らし出す道。一人で歩んでゆくことを、不幸だとも寂しいとも思わずに、行ける自分が不思議だった。
今までなら、考えられなかったことだ。
一人で、なんて。
服の内側に下げた銀のロザリオを引きずり出していみる。
見つけたとき、しっかり握ってた。アズマにそう言われた。
結構流されたはずなのに、こういう自分の変なかたくなさがときどきバカらしくなってしまうけれど。
悪くないなんて。最近思えるようになった。
城門の下まで辿り着いて、扉に付けられた小さな窓を軽く叩いた。
「すみません。中に入れて欲しいんですけど」
2.
正規軍東軍大将ミカエル・シャイアティーンは、大きな溜息と共に大司教の執務室の扉を閉めた。
「溜息ひとつつくたびに幸せが逃げるそうですよ」
視線を足元に落としていると、上から声がかかった。顔を上げると金が目に入った。
「なんだか、君に言われるとひどく実感が湧いてくるよ」
「おかげさまで」
苦笑を顔に張り付かせたまま歩きだす上司に付き添いながら、アフライドは曇ったままのその顔を覗きこんだ。
「顔色が冴えないですね。何かあったんですか」
「―――うん、まぁ、ちょっとね。ジャンヌは?」
「鍛錬中ですよ。それで何があったんですか?」
「西軍大佐の地位は、当分空白のままにしておく、ってさ」
溜息をつきたくなる気持ちも分かるだろう? 上司にそう流し目で訊かれて、アフライドも眉をしかめた。
先日のゴルゴタでの一件で生命を落としたマリア・イーヴァ。彼女が就いていた正規軍西軍大佐の地位は、あれから一ヶ月が過ぎようとする現在に至っても、空席のままである。
そのことについて、直接の管理者であるラジエル・エレアザールに指示を仰ぎにきたのだが、帰ってきた答えは「当分その席は空けておく」というものだった。
―――もうすぐユダが戻る。任務遂行に支障はなかろう。
デスクに座ったままのラジエル・エレアザールはそう言ってミカエルに説明して見せた。
―――だけど……。
―――私に逆らうか。
両手で頬杖をついたラジエルが、10歳にしか見えない部下を氷のように冷えた蒼い瞳で見据えた。
その様子に折れたのはミカエルの方で、大きな溜息と共に何度も頷いてみせて同意を表した。
―――君のいうことには従うよ。だけど君は、部下の意見や質問すら聞き届けてくれない人ではなかったよ。
精一杯の抵抗としてそう呟いて、ミカエルは執務室を後にした。そして現在に至るのである。
どうも最近の猊下は疲れていらっしゃるのかもしれない。そう言ったのは誰だっただろうか。しかしその意見にミカエルは賛成したい気分だった。
疲れているというか、何というかは分からないが。
確実に、以前とは少し違っていた。
それは"どこから"だろう?
足元に視線を落としたまま自分の部屋へと戻ろうとしていたミカエルは、向こうから近づいてくる足音に顔を上げた。
「やぁオルウェン」
その白衣姿にミカエルがにこりと笑みを浮かべる。
黒髪にめがね姿のその青年は、自分よりも遥かに年下に見える東軍大将に丁寧に一礼してみせた。
「君の相棒であり僕の好敵手である彼は元気にしてる?」
ミカエルの質問に、教会研究所の研究員であるオルウェン・ドーソンはぴくりと眉を動かして見せた。痛いところを突かれた顔をしている。
「それが、先日、なにやら奇声を上げて出て行ってしまいまして……」
そのことを告げるのが恥ずかしくて仕方がない様子で、オルウェンは小声でミカエルに告げた。
「なるほど。今度はなんだろうね? ヒマワリにサクラにオジギソウに……色々あったけど」
ミカエルが、「好敵手」である相手が集めていたものを指折り数えてみせる。そのうちのひとつは自分が化石として発見してしまい、相手に散々恨まれたものだ。
「"今度こそ"と言ってましたからね。まぁ流石に私もあいつの全てをわかっているわけではないのでそこまでは」
「そうか。君も大変だね。まぁ、そちらの研究も今はそんなに忙しくないみたいだから」
「東大将殿がそうやってあいつを甘やかすから……」
にこにこと笑うミカエルに、オルウェンも苦笑を返してみせる。なんだかんだ言いながら、オルウェンも自分の相棒の邪魔はしようとは思わないのである。
「それでは私はこれで」
もう一度頭を下げて、オルウェンがミカエルたちと擦れ違う。その背中がある程度遠ざかってから、アフライドが訊いた。
「彼はあの?」
「うん。教会の研究所の研究員だよ。君はきっと相棒のほうをよく知ってると思うけど」
「アース・フィラメント?」
「そんなに露骨に嫌そうな顔をしなくてもいいじゃないか」
名前を出すのさえ苦々しいと言いたげに、アフライドが眉をひそめた。その様子をからかうようにミカエルが笑った。
「彼は優れた研究員だよ。それに探究心が素晴らしくて僕は好きだけどね。僕と一緒じゃないか。僕が化石に執着するのと何も違わないよ」
「けれど彼は……」
「まだ僕に突っかかったことを恨んでるんだ? 駄目だよ30超えた男が過去のことを引きずりすぎたら。モテないよ」
捨て台詞を残してミカエルは先に立って歩き出した。
アース・フィラメント。
生命工学研究の権威として若いながらに名高い男だ。それと同時に、現在では少なくなった植物のコレクターとしても知られている。
本人はそちらの方に情熱を注いでいるようだが。
しかしミカエルには、その"プラント・コレクター"の行動を気にしている余裕が、実はなかった。
自らの主君たる、ある男の小さな変化が、彼の胸に大きな影を呼び込んでいた。
*
ファンという名前を持つ青年は悩んでいた。
とある部屋の中の、とあるベッドの横に立って、もう随分長い間こうしているのだ。
私生活の総司令官たるモエ嬢に仰せつかって、とある人物を呼びに来たのだが。
そのとある人物は頭から布団を被ってしまって、ぴくりとも動かないのである。呼んでみようが突付いてみようが一切応答なし。
まさか死んでるんじゃぁないだろうな? ふと心配になってじっと見つめてみると、ゆっくりだが規則的に布団が上下している。
……やはり眠っているだけらしい。
これはもうベッドから引きずり落とすか、それとも何か水でも掛けてやるしか。
と、ファンは周囲に視線をめぐらせてそして、不思議なものを見つけた。
机の上のコンピュータの液晶が、ついたまま?
また忘れて眠ってしまったのだろうか、この部屋の主は?
「全く、またモエが怒る……」
一応機械いじりは出来るファンである。近づいて、コンピュータの電源を落とそうとした。
何気なく液晶を覗きこんで。一時停止を食らった。
ディスプレイの黒い画面には、白い文字で6文字だけが綴られていた。
―――生き残ること―――
生き、残る、こと?
自分でも気がつかないうちにファンは、口の中でその言葉を繰り返していた。
別にコンピュータの電源がついたままであることも、何かを書いてそのままにしていたことも、ファンには気にならなかった。いつものこと。
このたった6文字がなぜこんなにも自分の不安を掻き立てるのか、本音を言うと全く分からないのだが。
とにかく怖かった。
死ねとか殺すとか、そう言う物騒な言葉じゃないのに。
もしかしたら、これを打ったであろうあの人の、"これを打った時の感情"を想像して怖くなったのかもしれない。
だってそうだろう。こんな文字を改めて、打ち込まなければならないなんて、そうそうあることじゃない。
だって生き残ることは、当然のことなのだ。
元からこのひとに生きる意欲や生に縋るしつこさの類が自分たちのようにあるとは思ってはいないが。
まるで『禁煙』と書いて壁に貼る人のようだ。目標を掲げておくこと。それを常に確かめておくこと。
くるりとベッドのほうを振り返る。相変わらず、ちょっと見ただけでは分からない呼吸を繰り返す、簡易イモムシがそこにいた。
そのとき、部屋の扉がバタンと開いた。
「ファンくん、遅い」
ドアに片手を、そしてもう片方を自分の腰に当てて、怒った顔の私生活総司令官がそこにいる。
ぐるりと部屋の中を見渡して、モエの視線もエセイモムシのところで止まった。
ごくりと、モエが一度息を飲んだふうに見えたのは、ファンの見間違いだろうか。
何かに憑かれたかのように真っ直ぐにベッドまで近づいていったモエが、乱暴に布団を引き剥がした。
布団を掴んで離そうとしない人物を布団にしがみつかせたまま、ずるずるとベッドの外に引きずり出し。
ごつん。
落とした。
「あと5分……」
床と"ご対面"した男の口からもごもごと言葉が漏れた。いつもはこんなに寝起きの悪い人じゃないのに。
「……たったさっき、さっき寝たんだよ……」
まさに蚊の鳴くようなその声を聞いたモエの顔から、鋭さが抜けた。ほっとしたようにも見えた。
「さっきって、何時ですか」
「最後に時計見たのが……朝の9時……」
「じゃあそのままどうぞ。おやすみなさい」
床の上にうつぶせている彼の上に布団をかぶせてやって、冷ややかに告げるモエは、いつものモエだった。
「ファンくんいこ」
机の横で呆然としているファンに声を掛けて、モエが部屋を出てゆく。
「駄目なんだ、私」
自分の後ろでファンが扉を閉めた音を聞いて、モエが言った。誰かに聞いて欲しいひとりごと。
「サイジョウさんが寝てるの見るの、駄目」
普段は「隊長」としか呼ばないモエがこの呼び方をするときは、決まってこういうときだ。
その時のモエはいつでも、迷子になった子供のような顔をしている。
「疲れてるんなら、いびきでも寝言でも歯軋りでも、すればいいのに」
疲れて眠った時のあの人の顔はいつも、血の気を失って青くて。泥のようにベッドに沈み込む様はまるで。
「あの人、どんどん。どんどん"死んだフリ"が、上手くなる。やだ」
そのたびに、叩き起こしに行ってしまう自分も、本当に嫌だ。
弱いままだから。
あの日のままだから。
こういうときいつもファンは、言葉の無力さを知って立ちすくむ。
結局は何も言えることがなくて、またいつものようにモエのふあふあの頭に手を乗せて、乱暴にかき回してやることしかできない自分が。
ちょっと惨めだった。
3.
何であんなことを言ってしまったのだろう。
聖ヴォルディモート教会に神学生として紛れ込み、都合よく一室を与えられたレイは、ベッドの上でしばし後悔に浸った。
昨日、夕方と夜の境目ぐらいでロレーヌに入ったレイは、真っ直ぐに聖ヴォルディモート教会を目指した。
カルチェ・ラタンで神学を勉強していたが、その教えに疑問を抱き、こちらの教えを乞いたいのだと。用意してきた台詞を結構淡々と口にしている自分が少し不思議だったが。
カケヒキ。嘘も方便。そのぐらいはもう理解していたし、一人で旅を続ける以上、人任せにも出来ないことなので、別に潜り込んだことに後悔はしていないのだが。
コンコン。
部屋が軽くノックされて、聖服姿の人の良さそうな青年がひょっこりと顔を出した。
「"ファスト"さん。朝の礼拝、始まりますよ」
適当な返事を返し―――後で行くからなどと言いくるめて―――その青年を追い出すと、レイはまたしても後悔の念にがっくりと肩を落とした。
そう呼ばれて改めて、自分のしたことを知らしめられたからだった。身に沁みた。
―――神学生として歓迎しましょう。それでは、お名前は?
自分は教会から追われている身だ。幾らここが中央教会の勢力下ではないとはいえ、本名を名乗るのはいささか危険なのではないか。ここはいっそ偽名で。しかしとっさに思いつかない。あまり長く黙っていたら怪しまれる。怪しまれる。早く言わなければ。名前、名前……。
以上のことが短い間で頭の中で展開し、結果。
『"ファスト"・クレスタです』
……半ばパニックに陥っていたとはいえ、次の瞬間にはもうレイは後悔を始めていた。
馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ。
口先三寸でこの教会内に潜り込んだことよりも何よりも、レイにとってはこれ以上のダメージはなかったのである。
この未熟者があの名前で呼ばれることほど辛いものはないのだ。生殺し、生き地獄。
しかし、名乗った直後に「いえ違いました間違いました」が通るわけもなく。自分の名前を間違える人間はいないだろうから。
ここは一刻も早く「青蛇」と接触してサイジョウ・ヒイラギと連絡をつけて、次の目的地を決めて出発しなくては。
そうしなければ後悔で胃に穴が空いてしまいそうだ。どうやら今回は自分の精神力と神経との戦いになりそうだった。
とりあえず、神学の勉強がしたいと潜り込んだのにも関わらず、その次の日から礼拝を欠席しては怪しまれる。
神学生は神父見習いなどとは違うのだが、一応支給された聖服に袖を通し、その上から銀のロザリオをかけて立ち上がった。
胸の銀がこんなに重いと思ったのは初めてのことだった。
(ああもう、馬鹿すぎる……)
例の相棒がこの有様を見たら、きっと指を指して笑ってくれることだろう。いっそ笑って欲しい気がした。そのほうが絶対気が楽になる。
がっくりと肩を落とし、心なしか足を引きずるようにしてレイは"ファスト・クレスタ"としてその日の礼拝に参加したのだった。
*
もう面倒見切れん。とっとと出てけ。
その言葉を餞別に受け取って、ごそごそと荷物をまとめ出した青年が一人いた。
ここ1ヶ月の間、伸びてきた髪を後ろで尻尾のようにまとめている。
「あれ? もう行くんだ?」
「おー」
開け放たれたままのドアの外からかかった声にも、返事だけをする。手は休めない。
「先生は?」
「追い出された。てめぇみてぇな柄の悪い患者はもういらないんだと」
「だけど……」
リョウコは、その男の背中を見つめた。彼の左目には、相も変わらず黒い眼帯があるはずだった。
飄々としてみせてはいても。失明を免れた左目の視力が著しく低下していることを、リョウコは知っている。
「あとで幾らでも、どうにかなるんだ。この目はな」
荷物をまとめ終えたハルト・シラギが振り返ってリョウコを見た。相変わらず左の瞳は眼帯に塞がれたままだが。
「最終手段として義眼って言うのもあるし。そうじゃなくても視力の回復はそんなに難しいことじゃない。取り返しもつく。だけど、今は時間が惜しい」
あとから、取り返しがつく。そういうものじゃないから。
「教会の秘密を探るの?」
「まぁ、それもあるけど。今は川に流れたやつを探すのが先決だな」
高い崖から豪雨で水かさの増した濁流の中に落ち、流されて。サイジョウたちが探したにもかかわらず見つからない。
もし万が一。考えたくもない可能性があるとはいえ、ハルトはあまりレイについて心配をしてはいなかった。
もっと詳しく言うと、レイについては色々な心配をしているのだが―――例えば騙されてはいないかとか、からまれてはいないかとか―――その生死については全くと言っていいほど楽観的だった。
別にそれは、考えるのが嫌だとか、悪いことを考えると本当になるというジンクスを信じているとか、そういうことではなくて。
本人には、悔しくてきっと面と向かっても言ってやらないだろうが、なんとなく、分かっているのだった。
それだけで理由は十分な気がした。
「お前も随分ここになじんでるじゃん」
ここ一ヶ月近くの間、サイジョウのアジト―――とはいえゴルゴダの近くにある街のただの一軒家なのだが―――に滞在して、その生活を見るうちに、リョウコが以前よりも明るい表情をしていることにハルトは気付いた。
ふざけあいじゃれあうこともたまにはあって、心の傷が癒えるまではいかなくても、少しは軽くなったかと思っていた。
「うん、みんな、優しくしてくれるし、でも……」
リョウコの顔が少し曇った。怪訝そうにハルトが眉をひそめると、重くなった口を何とか開いた。
「皆といるの、凄く楽しいしだけど。時々考える。私には立派な役割なんてないし、私ここに、いてもいいのか」
俯いたまま爪先を見る。リョウコの赤い瞳が不安げに揺れていた。
「ずっと考えてるけど、答えが出なくて」
「これから先のことはわかんねぇけど、今までお前がここにいたことは良かったと思うけどな」
ハルトの言葉にリョウコは弾かれたように顔を上げた。
「そうじゃないと、俺が死んでただろ」
リョウコが応急処置として傷口を塞がなければ、ハルトはあと"牛乳ビン一本"というところでこの世とさよならしているはずだったのだ。
「…………」
その返答にリョウコがしばらくぽかんとしていると、ハルトは憮然とした顔で。
「今、自己中な奴だと思っただろ」
と、少し怒ったような顔をしてみせたあと、すぐに表情を崩した。
「自分のことだけ考えているのも時々、いいんじゃねぇの」
荷物を背負って、ハルトは、ドアの近くに立っているリョウコの頭をぼすんと軽く叩いた。
周りをどうするのか、自分が役に立てるのかよりも先に。自分が一番今どうしたいのか。
「まずは自分だろ。好きなだけ悩みなサイ」
「もう、子ども扱いしないでよ!!」
そのままぐしゃぐしゃと頭を掻き回されて、リョウコはムキになって叫んだ。
「子ども扱いされてるうちが、花なんだって。急いで答え出すことも、ないだろ」
言い残して、ハルトは部屋を出た。認めたくはないが命の恩人らしいサイジョウ・ヒイラギ氏は、どうやらまだ眠っているようだし、別に挨拶も要らないだろう。
またすぐ、会うような気もする。
大人しくしているようにと言われた一ヶ月には少し及ばないものの、随分我慢したと思うし。
その間の"焦り"という精神的苦痛を思えば、もはや義理もないような気がした。あのタヌキには。
―――悪いけど、君の持っていた名付け親さんの日記、ちょっと見せてもらったけど。
数日前、そのタヌキが唐突にそんな話をしたことをハルトは思い出した。
―――そのことについて少し話そうかと思うんだ。お返しといってはなんだけど、こちらも少し、話したいことがある。
(畜生、後に引けないようにしてくれやがって)
心の中で悪態をつきながら、ハルトは、八つ当たりのようにもう一度リョウコの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「色々、考えてみる」
リョウコがぼそりと呟いたので、ハルトはその頭から手を離した。
「またな」
そう言い残して、ハルトは部屋を出た。
この屋敷に運び込まれてから、三週間と少しが経過した日のことだった。
*
久しぶりに目にした祈りの文句は、相変わらず"同じ顔"をしていた。
当然、レイごとき一般人が教会の真実を知ったところで祈りの文句が改められるわけもないのだが、それを見る自分の"心"の方が、あまり以前と変わっていないことのほうにレイは驚いていた。
もっと白々しく、嘘っぽく映るのかとも思ったのだが。
相変わらず、神聖な響きを保ったままだった。
聖ヴォルディモート教会内の図書室で神学関係の文献と久しぶりに再会したレイは、自分が思った以上にその作業に没頭してしまっていることに、30分後に気付いた。
ことばや祈り。そこに人の心が宿る限り。
嘘も偽りも人次第なのだろう。多くの人の心を支える教えというものそれ自体は、やはり崇高なもので汚せないものなのだろう。
確かに救われている人々がいる。この広い世界に。
一応神学生に見えなくてはいけないということで図書室に籠もってみたものの、見える見えない以前にレイは、神学生以外の何者でもなかったらしい。
机の上に積み上げた数冊の文献の中からレイは、聖ヴォルディモート教会の歴史を記した本を取り出した。
数頁めくると家系図が現れた。この地に小さな教会を建てた神父アウグスト・ヴォルディモート。その名に因んでこの教会は、聖ヴォルディモート教会と呼ばれている。家系図はそこから始まっていた。
現在この教会の主は、シモン・ヴォルディモート。先代ゴルドワース・ヴォルディモートの甥に当たる男で直系ではない。ゴルドワースの下に伸びている線を、レイは指でなぞった。
ゴルドワースにはセルフィスという一人息子がいた。19歳でこの地を去ったため、文献に特に記述はない。その横には配偶者の名前はなく、セルフィスのすぐ下に見覚えのある名を見つけた。
一時、この教会が跡目として認めた青年の名だった。彼の母は結局、この教会からは認められなかったようだった。
ファスト・ヴォルディモート。
直系が途絶えたところにある名前だった。
セルフィスの横に"女"とすら記載されることを許されなかった人の名前を、レイは知っていた。
いつのことだったか、どんな流れだったかも覚えていなかったが。
―――私の母の名前? そんなの訊いてどうするんだい?
少々困惑した表情を浮かべたものの、レイが父と仰ぐ人は、一般的な女性の名を教えてくれた。
『マルガリータ』と。
「"ファスト"さん」
呼び慣れていて、呼ばれなれていない名で呼ばれ、レイは顔を上げた。
もう何回目だろう。そのたびに、後悔がキリキリと胃を苦しめた。早くここを出なければ、本当に胃に穴が空きそうだ。
顔をあげた先に、にこにこと笑う神父見習いの青年がいた。眼鏡をかけた小柄の青年で、あまり気が強くなさそうに見えた。
昨日紹介された男、だったと思う。神経的に磨り減っているレイは、何とか記憶の箱をひっくり返して彼の名前を探していた。
「……えーと、ヨエル、さん?」
「ヨエルでいいですよ。向かい、いいですか?」
拒む理由などまるでなくて、レイはただ首をこくりと前に倒した。それを受け止めてから、ヨエルは、向かいの椅子を引いて座った。
「熱心ですね」
積み上げられた本の山と、紙に書きとめられたメモというには丁寧なレイの字を交互に見て、ヨエルが言った。心底感心したふうで。
「ファストさんは」
ここにいる限りはもう慣れねばならないだろう。けれどレイは、その名で呼ばれるたびなんとなく悪いことをしているような気になってしまうのだ。
「どうして神学を学ぼうと思ったんですか?」
どうして空は青いのですか? 幼い子供が先生に尋ねるような言葉で、ヨエルが訊いてきた。純粋な疑問。
「目指すものが、あるから」
思った以上にすんなりと答えていた。
人であれものであれ事実であれ、上を向いて見上げるものがあるから。
そこにまだ、届かないから。あの人の名前で呼ばれるのがひどく恥ずかしいのかも。ふと気付いた。多分それが正解だと思った。
「ファストさん、楽園って、どういう形をしていると思います?」
机の上に頬杖をついた体制で、ヨエルが上目遣いにレイを見た。
「楽園?」
「原初の父と母が追われた楽園ですよ。主と交わした約束を破ったがゆえ追い出された。どんなふうになっているだろうと、ふと思うことがあるんです。敬虔に、神に近づこうとしたら、いつかは僕にも見えるかもしれない。そう思って僕は……」
ヨエルは、光沢のある茶のテーブルに視線を落とし、小さな声でとつとつと呟く。返す言葉もなくレイは、じっとヨエルの顔を見つめる。
その視線に気付いたのか、視線を持ち上げたヨエルがレイに微笑んだ。酷く柔らかな笑み。
「すみません、変な話をしてしまって。お邪魔しました」
椅子を引いて、ヨエルが立ち上がる。口元に、透き通るような笑みを浮かべたまま。
「あの……」
聖服の裾を翻して立ち去ろうとするヨエルを、レイは反射的に呼び止めてしまった。
「はい?」
振り返ったヨエルに、レイのほうが戸惑う。自分は一体何故、彼を呼び止めてしまったのだろう。さして用もないのに。
呼び止めてしまった手前何も聞かないわけにも行かず、不自然にならない程度にレイが口を開いた。
「えっと、あの、事務室はどこにありますか?」
「事務室、ですか? 中庭を抜けたところにある建物がそうですよ」
笑顔を崩さずに、ヨエルが中庭のほうを指差して言った。
「ありがとうございます」
何とかやり過ごしたと、レイがほっと胸を撫で下ろしていると、ヨエルが眩しそうに目を細めた。
「貴方に、何か"光"のようなものを感じる。真っ直ぐな力ですね」
ばさりと聖服の裾を翻し、ヨエルは図書室を出て行った。言葉と共に置き去りにされたレイは、しばらくの間ヨエルの出て行った扉を見つめていた。
*
「光と共に、常に闇があり。隣り合わせるからこそ互いの眩しさと濃さを増す。それを重ね合わせた向こうに一体、何が見えるか」
4.
ばさりと、藁の束が土の上に落ちた。
ざっくりと、風が切ったように斜めに。綺麗な切り口。
日の光を跳ね返す銀の刃を、同じ色の瞳を細め眺めやり、詰めた息をゆっくりと吐き出す。
すらりとした騎士剣を鞘に戻す頃には、自分以外は無人のはずの鍛錬場に、渇いた拍手の音がひとつ、響き渡った。
その音の方へ勢いよく振り返ると、太陽の光が自らの銀糸の髪に反射し、瞳を刺した。
一瞬視界が死ぬ。
「相も変わらず迷いのない太刀筋、お見事です」
「いつからそこに」
「随分前からです。集中なさっているので声をかけるのは控えました」
太陽に射られたあとの瞳はまだ視界を回復してはいない。灼かれたような白さと残像との中に、潜りこんでくる声が相手が誰かを告げた。
「お前がここに来るとは珍しいな。酔狂なことだ」
「少々上に用事があったもので。今回もお顔を見ずに帰ろうかとも思ったのですが、近くで奇妙な噂を耳にしたもので。これはお耳に入れたほうがよろしいかと」
矢のように地上に落ちる強い日差しの下にはいささか不似合いな、白衣姿の男が、ようやく回復し始めた銀の瞳に映った。
「"お嬢様"」
「呼ぶな」
建物の側から、鍛錬場の中心部に立つジャンヌの元に進み出ようとしたオルウェンの足を、鋭い言葉一つでジャンヌが制した。
「以前から言っている。そうは呼ぶなと」
「申し訳ございません。長年の癖はどうやら、すぐには抜けませんで」
研究者というには風雅な動きで、オルウェンは右腕を胸の前に折ると軽く頭を下げた。
「相変わらずお前の相棒は気ままなようだな」
「ジャンヌ様のお耳にも届いているとは、お恥ずかしい限りです」
金の鬣に7つのピアスをぶら下げた相棒のことを思い出し、オルウェンは顔に苦々しさを一杯にたたえた。
どこでも噂になるあの相棒は、今回もまた当てもなく飛び出していったばかりだ。
「オルウェン、前から言っているように、私とお前がこうして顔を合わせることを、良しとしない者が多い。なるべく接触は避けたいと思っているのだが」
「ジャンヌ様のお気持ち、そしてこの状況、私とて分からないわけではございません。しかし今回ばかりは」
オルウェンは、白衣の内側から茶封筒を取り出した。そのままジャンヌに近づき、渡す。
顔に怪訝そうな色をたたえたまま、ジャンヌはその茶封筒を受け取り、中から三つ折にされた一枚の白い紙を引きずり出した。
はらりと広げ、白い紙の中心に固まった黒い文字に目を落とす。
「―――な……」
空いた方の手で口元を覆い、ジャンヌは絶句した。
「……この情報を、どこで」
紙を握る指先も声も、小刻みに揺れていた。
「まだ表には出ておりませんが、外の方でも知っている者は知っている情報となっているようです。一般人に示されるのも時間の問題でしょう」
「……分かった。オルウェン、この情報を持って来てくれたことに感謝する」
「お嬢様のお役に立てるのであれば」
もう一度オルウェンが頭を下げた。今度は、ジャンヌもその呼び方を咎めたりはしなかった。
駆け出す"お嬢様"の背中をオルウェンは、見えなくなるまで見つめた。
吐き出す呼吸を少し遠くに聞く。鼓動がやけに速くて、体のほうがついてゆかないような錯覚。
もどかしく、動かない足で、ジャンヌは法王庁の軍施設に駆け込んだ。腰に下げた剣が重い。
目指す部屋は次の角を曲がった先の突き当たり。
普段は取り乱さない東軍大佐のその行動に、擦れ違う者が眉をひそめる。
構ってはいられなかった。
角を曲がり、現れた扉を開け放つ。
「閣下……!」
荒い呼吸で上手く発音できず、ジャンヌはやっとのことでその部屋の主だけを呼んだ。
尋常ではない部下のその様子に、窓際に寄せたソファーでくつろいでいたミカエルが立ち上がった。
「どうした」
扉を開いたままで入ってこようとしないジャンヌのもとに、ミカエルのほうが近づいた。
震える手で差し出される一枚の紙を受け取り、その文面に目線を滑らせ、彫刻のように固まる。
「……どういうことだ、これは」
今度はミカエルが部屋を飛び出す番だった。ジャンヌから手渡された紙を握り締め、執務室から飛び出す。
握られている紙には、ありえないことが示されていた。
―――ミンスター大学の教授及び学生数名を、教会の名に置いて"火刑"に処す。
*
中庭を抜けたところに、レンガ造りの小さな建物が見えてきた。教会の事務室というよりかは森のきこりの家と言ったほうがいいような気がする。
聞くところによると、現在この教会を任されている事務員の中で、男は一人だという。
"青蛇"は恐らくその男だろう。
そのレンガ造りの建物の周囲には、森と呼ぶには粗末だが木々がそびえたち、鬱蒼としている。
心なしか太陽の光も少し、弱まったような気がする。
(サイジョウさんと連絡を取って、ハルトがどうしたかを聞いて、それから……)
さくさくと草を踏みしめながらその建物に近づく。レイは、その男に会ってからどうすべきかを頭の中でシュミレートし始めた。
ぶつぶつと呟きながら歩く様は、周りから見るとさぞかし奇妙なのだろうが、幸い周りに人の姿はない。
考え事をしながら歩くと必然的にペースは落ちる。亀の歩みで、レイは足元に視線を落としている。草の緑がまぶしい。
「うわぁあああぁっ!」
絶叫が空気を裂いたのはそのときだった。弾かれるように顔をあげ、レイは、片手を腰に滑らせた。ホルスターの存在を確かめる。
視界に飛び込んできたのは、腰を抜かした男の、惨めな格好だった。
尻餅を就いたまま、足で何とか地面を蹴ってじりじりと後ずさりしようとする。
「どうしたんですか!?」
近づいて、傍にしゃがむと、男はもう一度惨めに「ひぃ」と鳴いた。
突然現れた男に驚いたのだろう。怯えで引きつった顔でレイを見る。
なだめるようにレイがその背中をさすってやると、男は右手を持ち上げ、事務室の後ろにある林を指差した。指が腕が、がたがたと震えている。
「"また"だ……」
不自然に揺れる言葉で男がうめく。"また"?
座り込んだまま立ち上がれない男から離れて、レイは、男が指差す茂みの方へと足を進めた。
何が一体"また"なのだろう。疑問が脳裏を掠める。
林の中に一歩踏み入れたところで、反射的に口元を覆った。異臭が鼻をつく。
強い、鉄の匂い?
やがて、日の差さない薄暗い地面に、ぼんやりと青白いものが浮かび上がった。
茶と緑に埋め尽くされたその場所に、不自然なほど白い、白い肌?
開いたままの瞳が木漏れ日の向こう、空を見ていた。その瞳は今は濁って輝きもない。
はだけられた白い肌に、点々とついている赤は血だろうか。
「っ…………」
対象物に1メートルほど間を置いて、レイはそこから動けなくなってしまった。
そこにあるものが一体何か、はっきりと見えた。
まだ12歳ほどの少年だった。きっとひどく愛らしい表情をしていたのだろうが、その顔はいまや苦悶に歪んで見る影もない。
白く細い首筋に、赤い痣が残っていた。人の指の形にしっかりと。
そして何より、はだけられた胸が、ぱっくりと綺麗に。裂かれていた。
レイは口元を片手で覆ったまま一歩、あとずさった。
ぱしりと、その足が枯れ枝を折ったらしい。振動が伝わってくる。
「おいお前!」
そのとき、不躾な声と共にレイの肩を掴んだ者があった。乱暴に振り向かせる。
「ここでなにをしている。見ない顔だな」
陰気。一瞬でレイはそう思った。濁ったようなその黒い瞳に力はなく、酒と煙草の匂いがした。
そんなに背が高いわけでもがっしりしているわけでもない、それなのに何故こんなに、気味が悪いと思ってしまうのか。
レイの肩越しに、ちらりと林の中の惨劇を見て、男は不愉快そうに顔を歪めた。
「"また"か。……てめぇがやったのか?」
「僕が来たときにはもう……!」
レイは慌てて声を大きくした。すると、そうか、と男はやけにあっさりと引き下がり、短い舌打ちを漏らし踵を返した。
地面に未だ座り込んでいる男に近づき、引きずり上げる。
支えられるままに立ち上がった男が、自分を引きずり上げた相手を見て、もう一度情けない声を上げた。
「さ、触らないでくれ」
礼も言わずにその手を払い除け、教会の方へと戻ってゆく。
「くそ、また上への報告が面倒だな……」
払い除けられた掌をしばらくじっと見詰めた後、男は、立ち去ったもう一人を追うように歩き出した。
(足……)
自分でも訳が分からないうちに、レイはあることに気づいてしまった。何故そこに目がいったのかは分からないが。
突然現れたあの陰気な男は、右足をなにやら庇っている。少し引きずるように。
黒いズボンだから分かりにくいが、少し色も変わっているように思えた。濡れているような。
「おい、何してるんだ」
しばらく歩いたところで、陰気な男が振り返って叫んだ。それが自分に対してだということに気付くまで、少し。
それでも尚、根が生えたように動かないレイに焦れた男が、苛々と声を荒げた。
「お前も来るんだよ。説明してもらうからな」
仕方なくレイは、その男のあとを追って歩き出した。
ざわざわと、木々を揺らす風が、強い鉄の臭いを運んできて、レイの顔を歪ませた。
いつまで経ってもこの臭いには慣れない。そして慣れたくないと、レイは強く思った。
5.
目指す場所の前に立ちはだかった男に気付いて、ミカエルは足を止めた。
「そんなに急いでどうなされたんですか、シャイアティーン閣下」
「そちらこそ、この館で見るのは珍しいと思うんだけど」
口元だけに笑みを浮かべ、ミカエルは相手に応戦する。金の瞳は苛烈な光を放っていた。
「少々猊下に用があってな」
「君は知ってたの?」
この群の中で唯一同じ「大将」の位を持つ男に向かって、ミカエルは主語もなく聞いた。
少年特有の高い声が、なぜか強力な凄みを持っている。
まるでその真摯さを受け流すかのように、ランドウは肩を竦めて見せる。
「お前は知っていたのかと聞いている」
とうとう臨界点を突破したのか、ミカエルの口調が変わった。
手に握った紙が、強く握りすぎてぐしゃりと嫌な音を立てた。
「何のことだ?」
「ミンスターの教授と学生とを火刑に処すという情報は本当か」
「ほう、貴殿の周囲にも耳が聡いものがいるらしい」
完全に見下した体で、ランドウが口ばかりの感嘆を吐いてみせる。
「誰の許可を得て教会の名を使う。幾ら教義に反することを説いていようとも一般人を教会側が一方的に処断するなど、波風が立つぞ。今まで見逃してきたではないか。それにあの大学の後ろ盾には貴族ばかりでなく、王侯まで絡んでいるのだぞ。幾ら教会に力があろうとも、これでは恐怖政治ではないか!」
「それが教会が下した判断だ。もちろん、これ以上無差別に教義に反する者たちを消すつもりはない」
「教会の判断だと!? だから一体誰の許可を……そこを退け! 猊下に話がある。貴殿では話にならん」
ミカエルは、その小さな体で叫ぶと、ランドウの傍を通り抜けようとした。
擦れ違う刹那。
「許可など、何故必要なのだ」
威圧的に腕を組んだまま、ランドウが口を開いた。
「なんだと?」
立ち止まり、ミカエルはその男を見上げる。
ざわりと足元から嫌な予感が這い登ってきた。体中を食らおうとする。
「許可など必要がないものが決めたことだ。我らは従うのみ」
嫌な予感に背筋を舐められたような気がして、ミカエルはそこに凍りついた。
「……まさか」
「その"まさか"かもしれんな」
曖昧な返事とは裏腹に、向けられた邪悪な笑みでミカエルは直感した。
「何てことだ……!」
短く吐き出して駆け出した。握った紙が、走るたびにくしゃくしゃと音を立てる。
嫌な予感がしていたのだ。しかしこんな形で現実になろうとは、それこそ夢にも思っていなかった。
夢にも。
辿り着いた扉の前で、ミカエルはごくりと息を飲んだ。いつもは感じないのに、やけに扉が大きく重く感じられた。
しかし躊躇ったのはその一瞬だけで、次には扉を開け放って叫んでいた。
「これはどういうことだ、ラジエル」
to be contenued……