「ark」第二部序章
RESET
どこまでも行くんだ。
降り注ぐ弾丸も悲しみも、知らん顔してさ。
ぶち当たって傷だらけでも、血塗れでも腕が折れても。
それでも。
*
細い、灰色の煙が、空に向かって立ち上っている。
「まだ燃えてるか」
「……しばらく消えそうにないね」
軍事施設の屋上から、煙草片手にくすぶる劇場跡を見つめていると、後ろから声がかかった。
「中央から帰還命令が来てるよ。カルチェ・ラタンに戻ろう」
振り返ると、私服に着替えた上司が柔らかい笑みを浮かべてそこに立っていた。
「微妙に燃えちゃったからね。また作り直しだね、軍服。高いのに」
「ジャンヌは」
「もう支度してるよ。1時間後にはここを出るから、そのつもりで」
「大将」
踵を返しかけたミカエルを、アフライドは呼び止めた。真っ直ぐにマハノン跡を見つめたまま。
体半分だけ振り返って、ミカエルは部下を見つめた。
「猊下は……」
「先に帰ったよ。―――マリアと一緒にね」
マハノンを完全に爆破し、軍施設に戻って来ると、ラジエルとマリアの姿がないことに気付いた。
慌てて辺りを捜索し、辿り着いた丘で。
見たあの壮絶な光景。
雨が上がった空から、筋のように差し込む光が丘を照らし出して、周囲の自然と相まって宗教画のような光景。
赤茶けた地面に広がる赤い海の中に、座り込んでいる男を発見した。
『ラジエル……』
呆然と立ちすくむアフライドとジャンヌの中から、ミカエルが一歩踏み出した。
ゆっくりと持ち上げたラジエルの、白磁の肌には赤い色が張り付き、ゾッとするほど整って見えた。
表情のない瞳が、鋭いナイフのよう。
胸にかけた金のロザリオには赤茶けた色が張り付いているが、差し込む光に照らし出され、ひとつの芸術品のように見えた。
腕の中に横たわるマリアの顔には、もはや血の気はなく。
胸元の傷口に当てた手にこびり付いた血も、もうほとんど渇いていた。
『マリア……』
傍まで来て、ミカエルはマリアを見下ろした。穏やかな顔だった。
『―――触れるな』
ミカエルが伸ばしたその手を払い除けるような、つめたいこえ。
力の抜けたマリアの体を抱き上げ、ゆっくりと立ち上がる。
『誰一人、触れることは許さん』
そのままラジエルは一歩ずつ、地面を踏みしめるように丘を下り始めた。
その背中が見えなくなるまで、指の一本すら、誰も動かすことが出来なかった。
*
押し上げた目蓋が見知らぬ天井を見るようになって、もうどのぐらいが経ったのだろうかと、ぼんやりと考えた。
霞む視界が見上げるのが真っ白な天井。
(あれ……?)
ここはどこだろう。
顔と天井との間に手を割り込ませると、5本の指先、それぞれにテープが巻かれ、割れたはずの爪が丁寧に手当てされていた。
(あの時は全然痛くなかったのに)
今は内側から湧き出してくる熱は、痛みゆえだろうか。じんじんする。
自然治癒力が働いているおかげなのかもしれない。
生きてる証だ。
「目が覚めたか」
扉が開く音と声が被った。
ベッドの上で体を起こそうとすると、入ってきた相手がそれを手で制する。
「あの……」
「川に流されてたのを拾った」
質問より先に回答が放り出される。
「動くなよ。流されてる間随分怪我を負っていたからな。無理をすると傷口が開く」
部屋に入ってきた男は、真っ直ぐに窓際まで行くと、閉ざしていたカーテンを勢いよく開け放った。
差し込んでくる痛いほどの光に、思わずきつく目をつぶった。眩しい。
「あの、ありがとうございました」
「いいや。流れてくるものを見ると拾わずに入られない性質なのさ。ガラクタだろうと、人だろうとな」
ベッドの傍に小さな椅子を持ってきて、男はそこに腰掛けた。
銜えた葉巻がじりじりと焼け、煙が上がっている。
小柄で白髪の多い、ゴーグルをかけた男だった。年は初老と言ったところか。
「お前さん、名前は」
葉巻を口に銜えたまま、男が聞いた。
「レイ。レイ・クレスタといいます」
背中に枕を敷きこんで、なんとか上半身だけは起こす。
流石に寝たまま会話するのは辛い。腹部などに走る鈍痛にわずかに眉をしかめた。
「俺はアズマだ。ここで色んなものの修理をしてる。ところでお前さん、どっから流されてきたんだ?」
「ゴルゴダですけど」
「ゴルゴダ!?」
何気なしに、軽く答えを返すと、アズマの声が奇妙にひっくり返ったので、レイは一瞬身構えた。
言っちゃいけないことだったかな。
起きたばかりであまり頭が回らなかったから気付かなかったが、そう言えば自分は負われている身なのだった。
無用心に色々と口にしないほうがいいのかもしれない。
そんなことをレイがぐるぐる考えていると、アズマが不審そうに目を細め、少し声を低くした。
「数日前ゴルゴダで、軍のでかい作戦があったらしいが、お前さんんなにか? 軍の関係者か?」
急に険しくなったその表情に、レイは反射的にぶるぶると首を横に振った。
「本当かァ? まぁいいがな。ここはあんまり教会側に知られたくねぇんだよ」
言うなよ? 目の据わった顔で圧力をかけられ、レイはこっくりと頷いてしまう。
「よし。5日も眠ってたんだ。とりあえずなんか喰え」
「5日!?」
「お、おいコラ!」
突然、がばりと体を起こしてベッドから飛び出そうとするレイを、アズマが慌てて横から押さえ込んだ。
レイもレイで必死に抵抗を試みたのだが、思ったように力が入らず、押し戻されてしまう。
「ほら見ろ。どれだけ体力落ちてると思ってんだ。動くなって言ったばかりだろう」
「……助けていただいてありがとうございました。けど、行かないと」
上から両腕を押さえつけられながら、なおもレイはもがいた。
真っ直ぐにアズマの目を、射るように見つめる。
こうしてはいられない。ここにはいられない。
やることがあるのだ。
食い違った歯車を、一から組みなおすために。いつまでも甘い場所になどいられない。
「行くって、どこに」
「わからないですけど、とりあえず、カルチェ・ラタンに」
そして、会わないと。
謝らないと。
―――人殺し。
とか。吐き捨てた酷い言葉を。
「待て待て待て。そんな体で焦ったって、空回りするだけだぞ」
「黙っていたくないんだ」
誰かが見つけてくれるのとか、助けに来てくれるのとか。手を伸ばしてくれるのを。
もう黙って待っていたくなんかない。
「このまま時間だけが過ぎてくのは、嫌です。連絡を取る手段はないし、サイジョウさんとも連絡の取り方わからないし」
「サイジョウ?」
「え?」
ぽろり。アズマの口から零れ落ちた言葉に、レイは抵抗を忘れた。
向こうも、無理矢理押さえ込もうとする力を失っているように見えた。呆気に取られたような顔。
「お前、ヒイラギの知り合いか?」
ヒイラギ? 聞きなれない名前に、一瞬何のことだか分からずに。咀嚼して飲み込むまでに少し時間がかかった。
そう言えば、苗字ばかりを呼んでいて、名前にはあまり親しみがない。
サイジョウ・ヒイラギ。
「知り合い、っていうか……、はい」
「畜生、あの悪ガキめ、色んなものに手を出しやがって。今に足元掬われるぞ」
ぶつぶつと言いながら、アズマはレイの上から退いた。
何故か不味そうに深く葉巻を吸い込むと、目を覆っていたゴーグルを押し上げた。
「あいつ本人に直接にコンタクトを取るのは無理だが、あいつに繋がる奴となら、連絡取ってやれるぞ」
「本当ですか!? …………?」
ぐっと身を乗り出したレイの前に、ごつごつと節くれ立った指が一本差し出された。
人差し指を真っ直ぐ立てて、指で1を作っている。
「一月……と言いたいところだが」
そう前置きしてから、アズマはその指を二本に増やした。
「とりあえず2週間は大人しくしてろ」
「だけど……!」
「明日明後日にでも、天変地異が起こるってのか。それをお前がどうにかするってなら、話は別だが。違うだろ。焦るだけ無駄だ。そういうのは大抵上手くいきやしねぇ。第一その体じゃ、立ってるのがやっとってぐらいだろうが」
気持ちだけ先走って、そういうときは、上手くいかない。
アズマに言われなくても、自分の体だ。気にしないようにしても、分かっていた。
頭のモヤモヤは消えたとしても、体中がギシギシいって、だるい。
だけど。
諦めの悪い子供のように、もう一度繰り返した。布団の上に出した両手で、ぎゅっと手近な布を握り締めた。
だけど、何も生まず何も重ねず。ここにこうしているのなんて。
分かったことがあるのに。それを、伝えたいのに。ここでこうして、寝ているなんて。
「お前さん、頑固だって言われるだろ」
布団を握り締めた自分の手を、口唇を噛み締めて見つめる、レイの苦々しい顔に、アズマが言った。
「非生産的な休息が嫌なら」
突然アズマが自分の服の裾をまくり上げ、何かを取り出したと思ったら、それをレイの手めがけて投げた。
ぼすり。重い質量が、布団を握り締めるすぐ傍に落ちた。
「図書館で本読んでるのが似合うようなお前さんのことだ。ろくに握ったこともねぇだろ。自分の身、守る気あるか」
レイは、投げ捨てられたその金属を食い入るように見つめて黙った。
「2週間で、どうになるモンでもねぇが。やる気があるならモノにしてみろ」
歯を見せて、アズマはきししと笑って見せた。
やってみろ。できるモンなら。
「おいリュウ! 飯の用意だ」
がたりと音を立てて立ち上がったアズマが、どたどたと重さを感じさせる足音を立てて、寝室のドアを開け放ち、その向こうに叫んだ。
「えー? まだ晩御飯の時間には早いのにぃ」
するとすぐに、不満いっぱいの、若い女の声が返った。
「うるせぇ。怪我人に5日も飯抜かせるつもりか!」
「うえっ!? 目ぇ覚めたんだ!?」
声が近づいてきたと思ったら、アズマが開いた扉の隙間から、ぴょこんと、小動物のような顔が覗いた。
14歳ぐらいの、髪の短い小さな女の子だった。目と目が合うとにかっと笑った。
「あたしはリュウ。よろしくね」
「コラ、早く飯の用意しろってんだ」
ごつんとアズマが振り下ろしたゲンコツが、真っ直ぐにリュウの頭に落ちた。
「いってー! なにすんだよ! 家庭内暴力! そんなんだからおかーさん出てっちゃうんだよ!」
「なんだと、コノヤロウ、もう一度言ってみろ!」
「ひはひ〜!」
額に青筋を浮かべたアズマがリュウの頬を引っ張ると逆襲とばかりにリュウは、アズマの足を蹴った。
体育会系な親子―――どうやら親子らしい―――だ。
そしてどうやら勝者は、アズマの弁慶の泣き所を強かに蹴ったリュウのようだ。
声もなく、足を抱えて蹲るアズマを尻目にリュウは、ぱたぱたとベッドの脇まで近づいてくると、じーっとレイの顔を覗き込む。
「あーあ、やっぱりヤだなぁ」
黒目の大きい、リスやウサギを思わせる瞳にジッと見つめられ、レイは返す言葉もなく、かといって目もそらせずに硬直した。
一体何が"嫌"なのだろう。
すると、突然リュウがそのあまり大きくない手を伸ばして、レイの髪に触れてきた。
「ここ。枝が絡まって取れなかったから、切っちゃったんだよね。ここだけ短くなってる。もったいない」
「え?」
ほら、とリュウがつまんだ指先を見ると、自分の髪が一部分だけばっさりと短くなっていた。
すぐ傍にある窓から差し込む、夕暮れの光に反射して、ざっくりとした切り口がきらりと光った。
「本当だ」
レイには特に感慨深いものもなかった。別に元々、願掛けをしたりして伸ばしていたものではないのだ。
そのあまりにあっけないレイの反応に、リュウは機嫌を損ねたようだった。
「もったいないじゃないー」
「もったいないって、女の子じゃないんだし」
不機嫌と顔中に書いて眉をしかめるリュウに、レイは苦笑してしまう。
そうだ。急に思いついたら、いても立ってもいられなくなった。
この際いいのかもしれない。身軽になるのも。
一から出直すのも。
「すみません、アズマさん。ハサミ貸してもらえますか」
すると、すぐ傍で「えーっ!!」という、ブーイングが上がった。
不服そうに口唇を尖らせるリュウに苦笑を返して、レイは、先程アズマが布団に投げて寄越したものを見た。
ぼすりと落ちてきた、重量のある金属。
夕陽を跳ね返して、赤く光る。
銀のピストル。
*
「あれ?」
素っ頓狂な声がどこからか聞こえた。ああ、自分の口からか。それに気付くまで3秒。
なにが「あれ?」なのかと言うに、目が覚めた直後だからか、やたらと視界が暗い。
そしてぼやけている。バランスが悪い。
ぷはぁ。
すぐ傍でなにやら気の抜ける音がして、視界いっぱいを、白い煙が侵食した。
煙い。この独特のにおいには覚えがある。
「あの、人の枕元で煙草吸わないでくれマセン?」
首だけを回して、煙の発生源に向けると、質素な木の椅子に、堂々と足を組んで座っている、最近知り合った割にはやけに長い間付き合っているような感じのするタヌキが一匹、いた。
「おや、お目覚めかね眠り姫」
「誰が姫だ、ふざけんな」
「そうだよね〜、姫は似合わないよね〜。レイ君のほうが似合うよね〜」
レイ。
聞きなれた固有名詞に、一気に意識が覚醒した。
「っ、そうだ、レイ!」
「待ちなさい王子」
「誰が王子だッ! ―――痛ぇっ!!」
ベッドの上で体を起こした途端、体中に走った激痛に、もう一度ぼふりとベッドに逆戻りした。
「自主的で大変結構」
特に左肩がズキズキする。それに加え、体中が熱を持っている、ような気がする。むしろ気のせいであって欲しいが。
"自主的に"ベッドに戻ったハルトを、人差し指と中指に煙草を挟んだまま、椅子から立ち上がったサイジョウが、威圧的に見下ろした。
「いやぁ、あの時は死んでるかと思ったよ。断崖絶壁ギリギリで気を失ってるから。―――レイ君は?」
「……落ちた。崖から。くそっ……! だからこうしちゃいられねぇんだよ!」
「ふぅん。なるほど。で、この体でどうするって?」
手に持っていた煙草を、傍にある灰皿に押し付けて消すと、サイジョウは、軽く握った拳でハルトの左肩をぽんと叩いた。
「―――ッ!」
途端に、稲妻のように体中を駆け巡る痛みに、ハルトは眉をしかめた。悲鳴を上げるのは癪なので、それだけは口唇を噛み締めて回避する。
「肩。弾丸貫通。それから、ここ」
左肩から拳を持ち上げたサイジョウが、それより上のところに手を持ってきて、人差し指で軽くそこを叩く。とんとん、と。
そこではじめて、ハルトは違和感の正体に気付いた。
視界がぼやけてしょうがないのは。バランスが取れないのは。決して目覚めた直後だからではなく。
サイジョウの指は、とんとんと左目の上をつついている。
その手を払い除けて、左手は動かないので、右手で左目に触れた。
何枚もガーゼが当てられ、その上から包帯でぐるぐる巻きにされている。その上から眼帯まで当てられているようだ。
もちろんのこと、目蓋を開けるはずもなく。
何枚も重ねられた布の上からでも、伝わる熱さ。熱を持ってる。少し腫れてるかもしれない。
片目だけだと、こんなにも周囲のバランスが狂って見えるのか。何より左側があまり見えない。
「目のすぐ脇を弾丸が掠ってる。それで、目の端が少し切れて、そこから菌が入ったみたいだね。現在化膿中」
「マジかよ」
「これ以上無理して何かしようとすると、失明するよ? 少し大人しくして、適切な治療を受けていれば、見えるようになる。まぁ、視力が極端に下がることは免れないけどね」
「畜生、さらっと……」
言いやがって。
「少しって、どのぐらいだよ? 俺はレイを探さなきゃいけないし、カルチェ・ラタンにも行かなきゃいけないし、多忙なんだけど」
「一ヶ月」
「はぁっ!? 無理! 絶対我慢できねー!」
「ザレゴトは」
上から胸をぐっと押さえられ、ハルトは思わず息を止めた。
「この非力な僕を弾き飛ばして出て行けるぐらい元気になってから言ってよね」
眼鏡の奥のサイジョウの瞳がスッと細められた。刺すような鋭さに、反抗の言葉を忘れた。
「色々と君に聞きたいこともあるし、話しておきたいこともある。そんなに退屈しないはずだよ。……それから、リョウコに会ったらお礼しておくように。あのときリョウコが傷口ふさいでくれなかったら、あと牛乳ビン一本で出血多量でアウトだったんだからね」
胸の上に乗せた手を退けて、サイジョウは扉から外へ出て行った。
バタン、と彼らしくもなく大きな音を立ててドアを閉める。
何か怒っているらしい、それは分かったのだがなぜかはわからない。
「何が非力、だよ」
胸をぐっと押さえつけた腕の力は、息ができないほど、強かったのに。
*
横滑りのドアをゆっくりと開くと、その向こうは、白で統一された、酷く消毒液くさい空間だった。
「お加減は如何ですか、閣下。お迎えに上がりました」
すっかり布団も片付けられたベッドに腰掛ける、人影がひとつ。
長い焦げ茶の髪を後ろで一本にまとめ、床に下ろした足の、腿の部分に腕を乗せ俯いている。
胸の部分にはしっかりとさらしが巻かれ、肩に軍服の上着を羽織っているだけの格好だった。
「……迎えは要らぬと、言ったはずだが。アンティクリスト」
ゆっくりと床から視線を引き剥がして、人影が言った。低い、女の声。
「そういうわけにも参りますまい。生憎と幹部が出払っておりまして、私ではご不満かとは思いますが」
「聞いている。ゴルゴダ、だな。―――アンティクリスト、火を貸せ」
女にしてはがっしりとした手で一本、煙草を銜え、ランドウを見上げる。その瞳は髪と同じ色。
「ようやっと退院なさるのに。お体に障りませんか」
「体?」
嘲りのようなものを一瞬だけ口元にひらめかして、すぐに消した。少し強い口調で訊き返した。
「ご心配申し上げているのですが、ユダ殿」
「己の利益以外、興味を示さぬお前がか。笑わせるな」
差し出されたライターを奪い取ると、煙草の先に火をつける。役目を終えたライターを、彼女は、年上の部下に放った。
「マリアが―――」
煙草を口に銜えたまま、肩から軍服の上着をばさりと落とすと、彼女は立ち上がった。
さらしだけの姿のまま、傍にかけてあったシャツに手を伸ばす。
「死んだそうだな」
「はい」
「……それだけか。部下だろうに。冷たい男だ」
「彼女を憐れむ理由が見当たりませんので」
その信念のため。生命を燃やし、散ったのだ。
哀れだなど、口にはすまい。
「そうか。そうだったな」
マリアが殉死したという報告を受けたとき、彼女も同じ思いを抱いたことを思い出す。
生き様を、貫いたのだと思った。
「今回は、"人工皮膚"は?」
シャツを手に持ったまま考え込んでいると、背中から声がかかった。
その声に、彼女は自分の左半身に視線を落とした。
掌を握り締めると、がつりと硬い音がする。
指の先から順に、肩の方へ視線を滑らす。鉛色の、肌ですらない表面を辿る。
肩まで辿り着いたところで、今度は曲線にそって下へと視線を運ぶ。
さらしに包まれた胸から腰にかけても、そしてその下も。この体の左側は、全てこの色の鉄でできている。
「要らん。どうせすぐ"裂ける"」
握り締めた左手を開き、シャツに袖を通す。
「元帥閣下。いつも貴方はそうだ。進んで業火に飛び込む」
今回彼女がこの病院に数ヶ月に渡り入院していたのも、時限爆弾と共に立て籠もったテロ集団の本拠地にそのまま乗り込んでゆき、爆発に巻き込まれたゆえのことである。
「人質を救助したのだ。それに今回の入院も、ほとんどはこっちの修理と調整だ。生身のほうはほぼ無事だ」
自分の体の左側を叩いてみせ、そのがつんがつんという音に寂しそうに、半ば自嘲するように笑ってみせ、言う。
最後に左手に黒い革の手袋をはめ、軍服の上着を羽織りなおした。
「たった二人に振り回されているそうだが、遊んでいるのか、アンティクリスト」
「ノーとは、言えませんね、確かに」
「悪趣味な遊びだ。ほどほどにしろ。お前は憎悪の種に水をやるのが得意だ」
「閣下が摘み取ってくださると、信じていますよ。閣下は寛大なお方ですので、一思いにやってくださるだろうから」
「……ふん。先に行っていろ。すぐ行く」
「それでは」
逆らうことなく、ランドウは踵を返した。
横滑りの扉が閉まる音を背中で聞きながら、彼女―――正規軍元帥ユダ・ゴート―――は、口元に呆れたような笑みを浮かべた。
黒い手袋の下に包まれた、硬い手を見つめる。
「これで"ひと"か」
握り締めると、皮の感触がきしりと鳴った。
「―――下らん」
*
「ビンゴ!」
叫んで、勢いよく椅子から立ち上がる。ばさりと白衣の裾が翻った。
「おいアース、どこへ行く」
隣のデスクで資料と格闘していた相棒のオルウェンが、ペンを走らせたまま声を掛けた。
「とうとう神が俺を救いたもう日がやってきたのさオルウェン! それでは後は任せた!」
「待て。だからどこへ行くと聞いている」
元気よく手を振る同僚に、オルウェンはようやく資料から顔をあげると、既にカバンに荷物を詰め始めている同僚を見て、深々と溜息をついた。
「今度は何だ」
フレームなしの眼鏡を引き抜き、自分の白衣のポケットへと押し入れると、オルウェンは苛々と言った。
朝からの書類作業で、わずかに目が充血している。
「今度こそ! だ、オルウェン。言葉には気をつけてくれたまえよ」
腰に片手を当て、至極偉そうな態度でアースは同僚を見返した。
口元には楽しそうな笑みが浮かび、狼のような灰色の瞳は、らんらんと耀いていた。
深い蒼の髪が、視界に混ざってくるのを鬱陶しそうに掻きやりながら、オルウェンはあくまで無表情のままだ。同僚のこういう態度には、もう慣れた。
「このまま放っておくと、俺は死ぬかも知れない」
金、というよりかはオレンジに近い、茶色が混ざった髪を、後ろで尻尾のように結わえていたゴムを解く。
肩より少し下に、ぱぁっと不ぞろいの髪が広がった。
その様も、まるで百獣の王の鬣のようだ。
「この間、東軍の大将に先を越されたときより、焦っているんだ。相当だろう?」
かつかつと靴の音を響かせ、アースは、同僚の目の前まで来ると、その顔を覗きこんだ。
「……手首切るなよ」
髪と同じ色の瞳を細め、オルウェンは釘を刺した。呆れ顔で。
「わからないな、そればっかりは」
それに、あくまで真顔でアースが返す。
目の前のこの同僚は、自分よりも先に、発掘好きの軍大将に「サクラ」を見つけられたことで、落ち込みへこみ、自殺未遂までした、いわゆる狂人なのだ。
研究者というものは往々にして変人が多いものだし、オルウェン自身、自分がまともであるとは思っていないが。
目の前のこの同僚は明らかに異常だった。
「俺は、他の遺跡なんか、誰にだってくれてやって構わないんだよ、蝶でも何でも、発掘すればいいさ」
舞台の上の悲劇の主人公を演じるように、アースは両腕を広げた。
「だけどダメだ。あれだけは誰にも渡さん」
「……白衣で行くのか」
「当然だろう、俺の正装だからな。もっと研究者として誇りを持て、オルウェン」
俺はお前のその、研究者らしくない耳の、じゃらじゃらのピアスが気になる。とは、オルウェンは口に出さなかった。
「研究はどうするつもりだ、アース。俺たちは教会から資金を提供してもらっているんだぞ。まだやることは残ってるんだ。教会の研究所なんだぞ。俺たちが好き勝手に研究できるのも……」
「オルウェン」
珍しく相棒が深刻そうな声を出すので、オルウェンは黙った。
「この研究を進めないと明日世界が滅ぶか?」
「……」
「だろう?」
黙り込んだオルウェンに、アースは勝ち誇った笑みを浮かべて見せた。
「……だがな、お前がそれを追っかけていかないと、世界が滅びるというわけでもないだろう」
「滅びるね」
「……アース」
やけに確信を持ったアースの言葉に、オルウェンはとうとう頭を抱えた。
そんな様子に、アースは自分のデスクから椅子を引っ張ってくると、オルウェンの机の向かいに置き、背もたれを抱えるようにして座った。
抱えた背もたれの上に顎を乗せ、幼い子供に言い聞かすように口を開く。
「聞けよ、オルウェン。これを諦めたら、俺は死ぬ。後悔で死ぬ。確実に、だ。この天才の、俺が。これは人類にとって致命的な大打撃だ。故に、俺が今これを追うことは、引いては人類のためだ」
「ヘリクツだ」
付き合いきれない。オルウェンは白衣のポケットから眼鏡を引き出し、再び装着した。
書類に再び視線を落とす。
「ヘリクツじゃない、真理だ!」
「そうやすやすと真理だなんていうな。狂信者どもに蜂の巣にされるぞ」
返事がない。
恐る恐る顔をあげると、今までアースが座っていたはずの椅子は、主を失って寂しそうだった。
ばたん、とけたたましい音を立てたのは扉。「ただいま外出中」と書かれたプレートが、からんからんと揺れている。
「……この研究を一人でやれと」
まぁ、言い出したら聞かないことも知っているし、あいつが植物に目がないことも知っている。
同じ研究者として、どうしてもひとつの対象や興味のある事象に惹かれてしまう気持ちは分からなくない。
しかし、あの超絶俺様な態度だけは、どうにかならないものだろうか。
何が一番よくないかと言うに、こちらの気分がよくない。
「……帰ってきたら覚えてろよ」
少なくとも3発は入れてやる。
頭と頬と鳩尾、に。
*
きしきしと、新しい歯車が回りだす音が聞こえるけど。
どこヘだって行くんだ。
痛みも悲しみも、跳ね返さずに抱きとめろ。
飲み下して還元。エネルギー。
どこへだって行くんだ。
二本の足が向くほうへ。
どこまでも行くんだ。果てがある旅。
やがて来るタイムリミット。
土に還るその日まで。
to be contenued……