Tokuyama Shinobu
[faith]
手にした鈴を揺らせば、小気味いい音が目の前の室内に響いた。
扉を持たぬその入り口を少し入ったあたりには、籐の衝立が置かれている。
その向こうには寝台があって、この部屋の主が横になっているはずだった。
やわらかな香のかおりが衝立のむこうから漂ってくる。わずかに、空気は煙っているように見えた。
「ご起床を」
赤を貴重とした艶やかな絹の衣を纏った女は、再び手にした鈴を鳴らす。
一本の線のような声で、室内に呼びかけた。
「城主がお呼びです」
「起きているけどさ」
衝立の向こうから、間延びした声返ってきた。
眠気のからんだ、高い男の声だった。
「頭の呼び出しはいつも厄介だからきらいだ」
「困ります、若頭。是非とも若頭にと仰せです」
女の声はどこまでも抑揚がない。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、衝立の向こうから、ぎ、と寝台を軋ませる音が入り口まで届いた。
ぺたり、ぺたり、と。床を裸足で歩く音が徐々に入り口に近づき。
衝立に、白い指先がかかった。
「馬鹿親父は、なんだって?」
気だるげに、衝立から顔を出した男が訊く。
頬のあたりまでかかる黒く艶のある前髪の隙間から、切れ長の黒い双眸が、女を見ていた。
上半身は、さらしを巻いた胸をさらして、肩から白い襦袢をかけたのみ。下は黒の細身のズボン姿。さらされた肌には、こまかい古傷がいくつもちりばめられていた。
初老、と呼んで差し支えないその女性は、小柄なその男をおよそ感情の感じ取れない瞳で見つめ返す。
「用件は、直接お伝えになるそうです」
「へぇ」
大して感慨もなく応じて、まだ二十歳前後と思われる男は、顔にかかる前髪をざっと掻きあげた。
白い、端正なつくりの顔があらわになる。
ただそれは、精彩を欠いていて、人形のように無表情だった。
「珍しいこともあるもんだ。城主自らお呼びとはねぇ」
「シノブ様。よもやその恰好のままでお出でになるわけではありますまいな」
「……怖いなぁ」
若い男は、苦笑して肩を竦めた。
ざらりとその肩から襦袢を落とし、衝立にかける。
「すぐに参上するって、伝えておいて」
「シノブ様……」
「二度寝はしないよ」
いかめしい顔を作る相手に、トクヤマ・シノブは、くく、と軽く笑った。
1.
「何の用です」
巨大な観音開きの扉を手前に開くなり、シノブは声をかける。
目の前には、回廊があった。
よく磨かれて光を跳ね返す黒い床の遥か向こうに、椅子がひとつ据えられている。
「うつけは要らぬと、仰ったのはそちらでしょう」
天井は高い。
床に、回廊に。声が跳ね返る。
応えはなかった。椅子の傍まで、寄れということか。
嘆息して、シノブは歩を進めた。聞こえているはずだ。
「仕事だ」
ようやく、互いの顔色が判別できるほどに近づいた頃、椅子についた男が手短に言った。
椅子の肘掛についた頬杖に顔を預ける形で、黒装束を身に纏ったシノブを、数段の段差の上から見下ろした。
「僕よりも、忠実に任務をこなすつもりなら、兄者に頼まれたほうがよろしかろう」
慇懃無礼に、シノブは応じる。
瞳には、あきれ返った色を湛えたままだ。
「忠実さよりも、技術が必要だ。儂はお前の技術の方を買っている」
頬に大きな古傷を持つその男の顔をしばらく、シノブは凝視する。値踏みするように。
「今度は、どんな大物を仕留めようっていうんです」
老いて尚、強かな獣を内側に飼う男の胸の内を読むことなど、今のシノブには到底無理だ。
「正規軍の、上層部だ」
「それなら兄者で何の問題があるって?」
「今までの腑抜けとはわけが違う」
低く、地鳴りのような威厳を持つ声に押さえ込まれ、シノブは反論を飲んだ。
「"双頭の悪魔"の名、聞いたことがないわけではなかろう」
「なんだって?」
思わず訊き返した。耳を疑う。
"双頭の悪魔"だって?
「東軍大将。ミカエル・シャイアティーン。今回のターゲットは、その男だ」
淡々と、実の父であるロウエン城主、トクヤマ・ジンは、その名を告げた。
*
うるおいのない街だ。
城下を歩くたび、そう思う。
元々雨の少ない地方であり、切り立った岩山を中心に作られた街であるから、それは仕方がないのだ。
けれどもそれだけではなく、行き交う人々の顔に、色が足りない。そう思う。
人気はすくなく、がらんとしている。道端に、膝を抱えるようにして座り込んでいる子どもも少なくなかった。
ロウエンの、切り立った山をくりぬいて作られた城のふもと。
属に、貧民街と呼ばれるあたり。馴染みの武器職人は、このあたりに店を構えている。
「結局、行くことにしたのか」
巻き起こる砂埃に目を細めて、隣を歩く背の高い男が言った。
「散々、親父のやり方に文句をつけてたじゃないか」
自分と同じ色の瞳に見下ろされて、シノブは軽く、肩を竦める。
「不満があるのは、今でも別に変わらないんだけどね。興味本位と言ったほうがいいかもしれないな」
「驚いたな。お前に興味なんてものがあったのか」
「自分の弟を、どんな生き物だと思ってるのかな、兄さん」
冗談半分で、シノブは実兄を軽くにらむ。
「それなら言うけどな。実力は一族内で最もあるくせに、自分から積極的に任務につくわけでもない。のらりくらりとうつけを"演じて"日々を過ごしてるような、無気力な奴だ」
あけすけな物言いに、シノブは思わず、苦笑をもらす。言ってくれるじゃないか。
「別に、鍛錬が嫌いなわけじゃない。人殺しがトクヤマという一族の生業なら、忌む理由もないし、良心の呵責なんかもない。任務が嫌だと言うわけじゃない」
目の下あたりまでこぼれかかる前髪を横に軽く流しながら、シノブは淡々と言った。
「なら、なんでこんな生活を……」
「ただ、権力争いは別だ。鬱陶しい」
説教体勢に入った兄の言葉に、すかさず声をかぶせる。
「中央の貴族連中たちみたいに、長兄が家督を継げばいいんだ」
忌々しげにシノブが吐き捨てるのに、実兄であるヒナタは嘆息で応じた。
「恨むなら、自分の技術を恨めよ」
「言っただろ、訓練は別に、嫌いじゃないんだって。スキルが上がるのは楽しいよ。それが、人殺しの秘術だとしてもね」
「アカシの姐御とフブキの兄者のことは、気にしないほうがいいと言ったはずだろう」
実兄の口から零れた異母兄弟の名に、シノブはあからさまに渋面を作る。
「四六時中監視されているのが分かっていて、どうやって気にするなって? そもそも、その気もない人間を跡目に据えようって言う親父の精神が分からないな」
「ロウエンギルドは実力主義だ」
「僕は御免だ」
兄の言葉尻にかぶせて、ばさりと切り捨てる。
「それに、嫌いじゃないとはいっても、それが何よりも好きだってわけじゃない。僕はこの家に生まれたからその慣習に従ってきたけど、それが何よりも至上の悦びになるか? そう聞かれたら、答えは否だ」
「むずかしい男だな」
「生まれるところを間違ったんだと、そう思ってるよ」
苦笑しようとしかけて、口の端に浮かんだ笑みが。いつの間にか自嘲に摩り替わっていることに気がついた。
間違えた。そう思う。何もかも。
眼前に広がる、色の欠落した寒々しいうるおいのない街は、自分の分身のように思える。
何故生きる、何故殺す。
そんな自問に答えはなく、ただ、ここに生まれたから、という事実しかない。
意味も悦びもなく、ただ。要請のままに人の命を奪う。
幼い頃から訓練されたこの熟練した手管は、ターゲットを苦しませずに逝かせるだろう。苦しまぬなら、良心の呵責もない。
こころを、揺らすものは?
正でも負でも構わない。この感情に揺さぶりをかけてくるものは?
それさえも見当たらずに、ただ流されるだけで動いているだけなら一体、人形と何が違うのか。
この世界に、色はない。ただ、赤茶けた大地が、どこまでも広がるだけだ。
渇ききっている。
「双頭の悪魔、か」
噂や憶測しか伝わってこない、東軍大将。
彼を仕留めて、それで?
またこのような、色のない暮らしを続けるのか。
一体、いつまで?
2.
「立派な建物ですねぇ」
間延びした声が聞こえて、鉄の門内側に据えられた小屋から、マクシミリアンは顔を出した。
鼻の下に立派な髭を蓄え、いかめしい鎧に身を包んだ老兵である。
気の抜けた声の主は、鉄門の向こう側にいた。しょぼくれた"もやし"がそこにいると、マクシミリアンは思った。
顔の半分を覆うほどに伸びた、鬱陶しい黒髪に、その印象をさらに厚ぼったくしているのは分厚い黒ぶちの眼鏡だった。前が見えていないのではないだろうか。
その小柄な若者は、鉄の門の向こう側から、マクシミリアンが背後にした5階建ての建物を興味深そうに眺めている。
やや古めかしい煉瓦造りのその建物は、教皇庁直属正規軍の総本部である。
「そうじゃろう、何せ軍が組織されたときからある建物じゃ!」
教皇庁と中央議会のツインタワー。聖都カルチェ・ラタンのシンボルであるその建物のすぐ背後に建てられたその建物は、遥か昔、それこそ正規軍が組織された時代からあると言われている。もはや門の主とも呼ばれている名物門番のマクシミリアンは、誰よりもこの建物に詳しいと自負している。
この建物が誉められるのは、自分が誉められるようなものだ。
「ここには長いんですか?」
その厚ぼったい青年が、門越しにマクシミリアンに視線を移す。
肌は青白く、日の光を浴びていないのではないかと思われるほど、ほそい。
学生だろうか、とマクシミリアンは思う。
「この門を守りつづけて25年になるわい」
胸を張って、マクシミリアンは応える。
「すごいですねー。じゃあ、上層部の幹部の方々を見たりもするんですか?」
分厚い眼鏡の奥から覗く黒い双眸でマクシミリアンの顔を覗き込んで、青年は尚も訊く。
「そうとも。皆この老いぼれに優しく声をかけてくださるわ」
「へぇ? 大将閣下たちも……?」
「そうさな。そこまで上官になると車での移動も多くなるがの。出勤時間などは見かけることもあるがの……っと」
"もやし"の後方から、ちいさな足取りが近づいてくるのに気がついて、マクシミリアンはいそいそと扉を開く支度をする。
「お疲れ様ですな、閣下」
目の前で突然開かれた扉に、若い青年は道をあける。どうやら軍関係者が訪れたらしい。
閣下?
シノブは後方の気配に意識を向ける。閣下というからには、上級幹部だ。
「マクシミリアン、今日も元気だね」
あどけない声が背にかかって、思わずシノブは勢いよく振り返った。
「失礼」
左手側。すぐ傍を。
大人びた口調でそう断って、ちいさな体が通り過ぎた。
さらり。風に、やわらかそうな栗色の髪が揺れる。
颯爽と、躊躇いもなく。その少年の姿は、門の内側に消えた。
「今の、は……?」
呆気に取られ、しばらくそのちいさな背中を見送ってから、シノブは思わず訊いていた。
「ん? おお。今の方こそ東軍大将のシャイアティーン閣下よ」
「なんだって……」
「子どものように見えるがの、しっかりとしたお人じゃ」
体裁を取り繕うのをすっかりと忘れた、シノブのうめきはマクシミリアンの耳には届かなかった。
がしゃりと重々しい音を立てて鉄門を閉ざすと、本部の建物へ歩いてゆく子どもの背中を目を細めて見送っている。
「あれが、双頭の悪魔、だって……?」
「ん? 何か言ったかの」
マクシミリアンが、鉄門にしがみつくシノブを振り返った。その動作で、ふと。我に返る。
「い、いえ、なんでもないです。感動しちゃって」
こめかみのあたりを掻くそぶりで、思わず剥がれ落ちた"もやし"の仮面をかぶりなおす。
左側の胸のうちで、やたらと鼓動が煩く鳴っていた。
そうじゃろうとも。まるで自分が誉められたかのように胸を張り、マクシミリアンが事細かにあどけない東軍大将のことを説明してくれる。
その言葉は、おそらく半分も飲み下せていなかっただろう。
元々は、そのような情報が欲しかったと言うのに、これでは何のためにここに来たのか分からない。
マクシミリアンの肩越し。もはや豆粒ぐらいにしか見えない黒い背中を、目で追っていた。
適当に返す相槌、ただの音にしか聞こえないことば。
どうして、こんなに動揺している。
擦れ違い様に、ふとこちらを見上げたあの黄金の瞳の色が、残像のように残って。
消えない。
*
風が強い。
既に照明の落とされた一本の廊下は、先を見通せぬほど暗い。
左手側。等間隔に並んだ窓から、かすかに月の光が落ちてくるのみ。
風に煽られて、木の枝が窓の硝子にぱちぱちと音を立ててぶつかった。
人工的なあかりが何一つないその廊下を、動くちいさな影がある。
一本、まっすぐに伸びたその廊下の途中で、ふと、その小さな影が動きを止めた。
「いい加減、出ておいでよ」
深夜の静寂に、似つかわしくない高い声が響く。
「いつまでそうやって隠れてるつもりなんだい?」
完璧に気配を消していたわけではなかった。
懐の内側から、小刀を抜き出しつつ、廊下の中央で立ち止まるちいさな影との距離を詰める。
普段ならば完璧に気配を消し、気取られぬうちに相手の急所を突く。
何が起こったのかも分からぬうちに、全てを終わらせるのがいつものやり方だったはずが。
気配を消し切らなかったのは、消し切れなかったのは何故なのか。自分でもよく分からなかった。
「気づいて欲しそうだったね、君」
幼い体に不似合いの軍服姿で、双頭の悪魔の異名を持つ男は半ば振り返る。
「わざと遅くまで軍本部まで残っていたのは、誘い出すためだったのか」
間合いは、足元を蹴れば一瞬で踏み込める距離。
鼻の下から顎は、黒い布で覆っている。そう、普段ならば。
しかし、その装備も怠っていた。何もかもがイレギュラーで、バランスを失していた。
ターゲットに声などかけない。普段ならば。
一体何がどうしたと言うのだろう。全てが狂っている。
闇の中で、黄金の双眸がこちらを凝視していた。
「喜ぶべき、なのかな」
愛らしさにふさわしくない疲れた苦笑を浮かべてみせ、わずかに肩を竦める動作。
「ロウエンから刺客を送られるようになったっていうことは」
猫科の生き物を思わせる丸い大きな瞳が、値踏みするようにこちらの体を上下する。
「その黒装束。生で見たのは初めてだなぁ。……あ。でも、生で見た人間は殺されるんだっけ?」
おだやかな雰囲気の奥底には、冷気が漂っている。
測られている。
こちらの、力と覚悟を。
装束の内、この肉の内までも見透かされたような、その双眸の湛える色に体が上手く動かない事実に気づく。
胸のうちが、騒いでどうしようもないのだ。
ち、と舌打ちをこぼして、床を蹴る。間合いを詰めるのは一瞬。抜き出した小刀を相手の体の内に飲み込ませるだけ。
それでこの苛立ちは消えるのだ。
ぃん、と。
金属質の高い音が響き渡った。
闇のなかで、わずかな光を跳ね返して、白銀に光るものが弧を描いて宙を舞った。
「残念でした」
ふふ、と眼前に佇む生き物は無垢な子どものように微笑してみせる。
「君は、何をそんなに動揺してるのかな」
手にわずかな痺れが残っている。
一体何が起こったのか、瞬時には判断できずに、まばたきを忘れて相手を凝視する。
からん、と少し離れたところに何かが落ちて、転がる音。
体中から、温度と言う温度が抜けてゆく。ざあっと頭から冷水をぶちまけられたかのように、一気に体が冷えた。
小刀が、何かに弾き飛ばされて、この手からなくなっていた。
後方に落ちたその音は、おそらくこ手にしていた小刀のたてた音に違いなかった。
ぬるりと。
濃い闇の中で蛇の鱗のように煌くものを見た。
「ロウエンの黒装束を纏った人間が、こんなに鈍いわけがないよね。僕が抜くの、見えなかったのかな」
小柄な相手の足元に、番犬のように蹲るもの。こちら側に半ば向けた体の左側。その腕の先から、細い清水の流れのように零れ落ちる白銀のかがやき。
鞭? ちがう。あれは刃だった。
蛇のようなその形状を思わず視線で辿った。
「めずらしい? ロウエンにはこんな武器はないの?」
左手に握ったその蛇をざらりと持ち上げて、ミカエルは酷薄な笑みを口元に刻む。細めた瞳は、冷ややかな色を湛えていた。
「僕はこんな形(なり)だからねぇ。リーチをカバーするのにうってつけなんだ」
くそ、と思わず悪態をこぼした。こんなことは初めてだ。
腰に横につけたカタナの、柄に手をかけて一気に抜いた。構えたカタナを、幼い子の首あたりで真横に薙ごうと。返しかけた右手首に突然、衝撃と痛みが走った。
白銀の蛇が手首に絡まりついていた。右手に嵌めた鉄甲とぶつかりあって、耳障りな音を立てる。
「鉄甲を嵌めていたんだっけ。残念」
ひらいた距離の間を、ぴんと張り詰めた一本の銀の糸。それは紛れもなく、ミカエルの手が握る鞭状の剣だった。
「普通はこれでね、手首を引きちぎれるんだよ」
ぎりぎりと鉄甲に噛み付く刃の、金属質のもの同士がぶつかり合う頭を掻きむしりたくなるような音。
カタナを握った右手の動きは完全に相手に封じられてしまい、張り詰められた一本の線のおかげで、動くこともままならない。
射殺すほどきつく、シノブは相手を睨み据えた。
「おかしいね」
さして力を入れているふうでもなく、容易くこちらの動きを封じ込めておいて、あどけない少年は口を開く。
「ロウエンの手練は、子どもを憐れむのかな」
違う、と言おうとして口が動かない。
ただの子どもならば、おそらく躊躇わずに骸にできたのだろう。
子どもなのか、大人なのか。判別の出来ないあやふやさ。
内包するあやうさに、自分の立ち位置すら判別できなくなるほど動揺している。
あどけない子どもの姿。老いた人のような笑い。
何もかもつかめなくて、怖い。
「名前は?」
首を軽く傾ける形で、ミカエルが訊いた。
思わず口を開きかけて、慌てて唇を噛む。
その所作を目にして、くっと小さく、ミカエルは吹き出した。
「そこだけは譲ってくれないんだ? 残念」
ざら、と流れるように。右手の鉄甲から白い蛇が離れる。
生き物のように暗い廊下を這って、主の足元にわだかまった。
「次会ったら、絶対に名前を教えてもらうからね」
無防備に敵の眼前で獲物を仕舞いながら、駄々っ子のようなことを言う。
完膚なきまでに実力の差を見せ付けられ、見逃された。
無防備にこちらに向けられる背中に、襲い掛かることはもう出来なかった。
もう既に、勝負は決まっていたのだ。はじめから。
抜き出したままのカタナをしまおうとして、今の今まで戒められていた右の腕が、こまかく震えていることに気がついた。
恐怖とも、興奮とも少し違う。この昂ぶりは一体なんなのだろう。
全身がまるで心臓になってしまったかのように、激しい脈動が体中を巡っている。
こめかみのあたりから顎に向けて、つ、と伝う汗の感触に、身震いした。
舌打ちで自らを鼓舞して、抜いたままのカタナを鞘におさめる。
再び廊下を歩み出すちいさな背中を、シノブは見送ってしまっていた。やがて、その影が闇に溶けて、見えなくなるまで。
3.
名を告げるということ。
その意味を、あの男は知っていたのだろうか。
カルチェ・ラタン郊外にある、異端者埋葬所。
忌むべき場所とされ、人はほとんど立ち入らない墓地だ。
等間隔に、墓石が並ぶ。
永久に安らげるように、墓を作るわけではない。墓石には罪状と処刑の日付が刻み込まれ、処刑されても尚、罪は消えないことを示している。
葬られても、赦されはしないのだ。
夕刻。
晴れ渡った空の端に、黄金に溶けた夕日が沈みこむ頃合に、その墓地にちいさな人影。
見渡す限りに機械的に並ぶその墓石たちの、入り口から最も奥まったひとつの前に、佇んでいた。
「名前、教えてくれる気になった?」
面に、融解しつつある赤の光を浴びて、その小さな人影があどけない声を出した。
シノブはそれを、埋葬所を取り囲むように植えられた樹木の一本の、枝の上で聞いた。小柄な人影が立つ墓石の、丁度斜め後ろあたり。少年の、愛らしい顔はこちらからは見えない。
どうやら、つけていたことはばれているらしい。けれどもその声には答えず、シノブは上から、私服の軍人を見下ろした。
ざっと音を立てて、一陣の風が、人気のない墓地を通り過ぎた。
任務にしくじってから、一週間ほどが過ぎた。
ロウエンに戻る気にはなれず、かといってもう一度獲物を交える気にもなれなかった。
すっかりと殺す気は失せていた。ただ、気になった。
あの晩、この胸のうちを散々に掻き乱した、恐怖のようでも、興奮のようでもある感覚はなんなのか。
幼い体に渦巻く混沌。正と負と、聖と邪がひとつところに存在するという不条理。
何もかもがアンバランスでいびつ過ぎて目を引くのだ。
刻印を刻むかのように、脳裏に焼きついた瞳の金。
ミカエル・シャイアティーン。
その名には、天使と悪魔が棲んでいる。
一体、何者なのだろう。
「父の墓だ」
子ども特有の高さの声が、疲れたように呟いた。
木の上から、シノブは目を凝らす。
石の表面に刻み込まれたその名と、罪状と、信仰の下に殺された日付。
マーロイド・ダンタリアン。ルシフェルの徒。日付は、250年と少し、前。
父?
「水の都で生まれ、自らの信仰のために生き、悪魔と罵られ、火にかけられ、死んだあとも故郷の土には還れなかった」
溶けかけた太陽の光に、ミカエルは同じ色の双眸を眩しそうに細めた。
「今もここに縛られている」
物言わぬ灰色の墓石は、長い年月風雨にさらされつづけ、所々崩れかけている。
「……何故、軍服を着る」
気がつけば、上から声をかけていた。
「教会に殺されたんだろう」
この墓地に放り込まれるということは、そういうことだ。
教会の名のもとに裁かれ、命を奪われたということだ。
「なぜ?」
言葉の意味を解さない、子どものように聞き返された。わずかに肩越しに後方の木を振り返って、すぐにまた、墓石を見る。
「さぁ、何故なんだろう」
苦笑の混じった響きがした。
「父が焼かれるのを、目の前で見た。母は死に、顔も見たこともない妹も、その娘も、その子も。あのころのおれを覚えているものは全て息絶えてたった一人、おれだけがここに取り残されている。……本当に、何故なんだろうな」
父の仇、とも言える教会の下僕の証として黒い衣を身に纏い、今度は信仰の名のもとに人の命を奪う側に身を翻した。
急に大人びた言葉遣いに、はっとする。
「忘れちゃったよもう。昔のことだから」
かと思えば、すぐに拗ねた子どものような声を出す。
掴みかけた輪郭がすぐにぼやけてしまう。わからない。
「出会ってしまったんだ。しょうがないものにね。どうしようもないものに」
ミカエルは口をつぐむ。しばらく考え込むような沈黙があった。
「―――それは、僕なりの信仰なんだろう。焦がれて求めたり、恐れて嘆いたり、祈ったりする。ただ、僕が祈る相手は"父"ではない。僕のあるじだ。応えてもらえないことに焦れたり、無慈悲な仕打ちを憎んだりもする。それでも結局は、縋らずには生きていけない」
だから、信仰なのだと、ちいさな背中が言う。
「君は、つまらなそうな顔をしてたね」
墓石に背を向け、無造作にミカエルはその場に腰を下ろす。
片方だけ立てた足の上に腕を預ける形で。徐々に冷たくなる風に目を閉じた。
「ここにくれば君と話ができるかなと思ってた。ここしばらく、僕のストーカーをしてくれてたみたいだし」
茶化すような口ぶりで、そう言ってミカエルはかすかに笑った。
「きっと多分、君の方が手練なんだと思うよ。隙と無駄がないし、狙いは的確だ。こんなことを、秘術を持ってる人間に言うのは失礼なのかな」
木の幹に背を預けて、さざめき揺れる枝と葉の間から、シノブは地を見下ろす。
こちらと向き合うように座った混沌の塊は、それでも、こちらを見上げているわけではなかった。
地面を撫でるようなその指先が、悪戯に草をむしり、風に流す。
「ただ僕は、絶対に、死にたくなかった。それだけのことだよ」
強い声。
絶対、など。
そんな強い言葉を使ったことはおそらく、なかった。
生れ落ちた家は、代々暗殺を生業とする家だ。
まるで当然のように、人を殺す術を身につけ、たいした感慨もなく殺めつづけてきた。
血が為せるわざなのか、それなりに熟練してしまえば、後は何も考える必要もなかった。体が自然と動く。
異母兄姉に跡目を廻って命を狙われる日々も、鬱陶しいと思いながらもう諦めていた。
つまらない、色のない世界ならば、のらりくらりと流されるままに生きて、ある日思い立ったように死んでみるのもいい。
絶対などそんなもの、どこにもなかったのだ。
シノブは、木の幹から体を起こす。
腰に挿した小刀の柄に右手を遣って、音もなく抜いた。
ミカエルは泰然とその場に腰を下ろしたまま、体を嬲る風に身を任せ、閉ざした瞳を開くそぶりもない。
抜き出した白銀の刃に溶けた日の橙が滲む。
軽く、枝を蹴って跳躍した。
音もなく着地して、狙った獲物の、狙ったその場所に躊躇いなく、小刀を沈み込ませた。
一瞬を置いて、赤黒い液体が。相手の咽喉から迸り、シノブの面に容赦なく降りかかった。
"ミカエルの背後で"、黒い衣を纏った男の体がぐらりと傾いで、仰向けに倒れた。
咽喉に小刀をつきたてられたその男と思しき"曲者"は、黒の双眸を限界まで見開き、既に絶命していた。
纏う衣は、シノブと同じ。
「いいの?」
自らの背後で起こった一瞬の攻防にも全く動じずに、ミカエルはゆっくりと金の瞳を開いた。
「君の、同胞じゃないの?」
「僕が抜かなければ、どうするつもりだったんだ?」
問に、問で返した。
シノブは、物言わぬ骸となったロウエンの暗殺者を見下ろした。
おそらく、シノブの任務失敗に焦れて、向こう側が送り込んできたに違いない。見た顔だった。
シノブを疎んでいるはずの、異母姉の息のかかったものだ。おそらく、ミカエルと共にシノブも始末するつもりだったのだろう。
ミカエルは、座ったまま後ろ手に地に手をついて、肩越しにシノブを振り返った。
「君なら助けてくれるんじゃないかって思ってた」
無邪気な笑みでそんなことを言われると、閉口してしまう。
「トクヤマ・シノブ」
にこにこと微笑するその愛らしい顔を見下ろして、言った。
一瞬、瞠目して。ミカエルは苦笑した。
緩慢に立ち上がると、服についた土や草を払って、振り返る。
「あーあ、言っちゃった。君も変な人だね」
白い肌に生々しく返り血を浴びたままのシノブに向き直った。
「僕は、手に入れたものは離さないことで有名なんだ。後悔しても知らない」
「もう決めた」
意固地なぐらい簡潔な答えに、ミカエルはからかいをこめた嘆息で応じた。
黒装束を纏った姿で、相対した人間に名乗ること。
それは、相手に屈すること。膝を折ることだ。
相手をただ一人の、唯一絶対の主君と仰ぐこと。使役されること。
揺らぎ。
平坦な世界に突如起こった波紋。
白黒の世界に割り込んだ色彩に、何故かどうしても引きずられる。
その感情の名前は知らなくても、今はいい。
荒れ果てた、不毛の大地を思い出した。切り立った山にある砦。
生まれた町。うるおいのない牢獄を。
「ロウエンにはもう、帰らない」
自ら刺し殺した同胞の咽喉から、訣別とばかりにシノブは、小刀を抜いた。
4.
「あの頃、君ってまだ21ぐらいだったんだねぇ」
しみじみと、ミカエルが呟いた。
「もう5年も経ったんですねぇ、早いなぁ」
大将閣下の執務室で、のほほんと茶をすすっていたシノブは、ふう、と吐息を漏らした。
「シノブって、どんどん幼くなってくような気がするなぁ……」
「嫌だな、大将に言われたくないですよ」
「僕はいいんだよ、かわいいから」
しれっと答えて、ミカエルは紅茶を口に運ぶ。
「僕は色々と片意地張ってたんですよ。若かったから」
「それ、アフライドの前で言ったら怒られるよ」
「あ! そうですね。この間もお前はまだ若いだろ、って殴られたんだった」
気をつけなきゃ、とシノブは後頭部を右手で擦る。
しばらく室内に沈黙が落ちた。開け放たれた窓から、鳥の声。
「……僕なりの信仰じゃないかって、今は思ってますけど」
空けたカップをソーサーに戻して、シノブが口を切る。
焦がれて求めたり、恐れて嘆いたり、祈ったりする。
「僕は神様じゃないよ」
5年。全く変わらない上官が、真顔で応じた。
知ってますよ。苦笑を返した。
「そうだな、信仰じゃないかな、娯楽かな」
「娯楽?」
「大将は見ていて飽きないから」
身を乗り出すようにして、シノブはミカエルの顔を上目遣いに覗き込んだ。
「危なっかしくて、目が離せませんしね」
金の瞳を丸くして、ミカエルはしばらくきょとんとした。
言ってくれるよね。笑った顔で睨みつけて、ミカエルは右の拳をシノブの肩に叩きつけた。
やわらかな空気を切るように、硬質のノックが響いた。
「閣下」
聞き慣れた落ち着いた女の声が、扉を隔てて向こう側から。
「どうぞ」
ミカエルが応じると、必要最低限に開かれた扉から、銀の光が射す。
冴えた双眸が、てんで軍人の執務室とは思えないまったりとした雰囲気に、不快そうに歪む。
不思議なひとだ、とシノブは思う。
彼女が凛と立つだけで、周囲の空気が変わる。ひきしまる。
「そろそろお時間です。第一会議室へ」
「もうそんな時間だったっけ?」
首をめぐらせて、ミカエルは部屋の隅にかかった時計に目を遣った。
「最近なにやら物々しかった西軍から、正式な人事の発表があると聞いています。遅れては、またいじめられてしまいますよ」
「……いじめられるのは嫌だな」
よいしょ、という掛け声と共にミカエルはソファーを降りる。部屋の入り口に置かれた椅子のうえから、特注の白い上着を手に取ると、ばさりと羽織った。
「行こうか」
半ば開いた扉の前で立ち止まり、上官は部下二人を振り返る。
先程までの子どもっぽさはどこにもない。もう、軍人の顔をしている。
シノブが、傍らのジャンヌを見上げると、ジャンヌも未だソファーに座ったままのシノブを見返した。
どちらともなしに、笑ってしまった。共犯者の顔だった。
「貴方が選ぶならついていきますよ。どんな獣道でも」
ちいさな背に追いついて、シノブは言った。
「道なんてないさ」
いっそすがすがしいぐらいに、ミカエルは言い切った。
困ったな、とシノブが笑った。