Kasuga Moe
[warmth]
「今日からここが、君の部屋だよ」
開かれた扉の向こうには、壁に押し付けるように置かれたベッドがひとつ。その反対側の壁に机がひとつ。
それだけ。
コンクリートがうちっぱなしの寒々しい部屋に窓はない。
当然といえば、当然なのかもしれなかった。ここは地下なのだから。
「必要なものは、これから揃えるといい」
ぽつん、と立ち尽くしている背中に声がかかる。振り返って、この部屋まで連れてきてくれた男を見上げた。
「……わたしの、部屋?」
「女の子だからね」
首を傾げて訊けば、首を傾げて応える。眼鏡の奥で、濃紺の瞳がわずかに細まった。
「今日はもう遅いし、長旅で疲れただろうから、早く休むといいよ」
ぽん、と手が頭に乗せられて、すぐに離れた。
名前を呼ぼうとして口を開いて、躊躇った。慣れない名前が出てこなかった。
「僕の部屋は突き当たりだから」
言い残して、その人は扉を閉めてしまった。
寒々しい部屋に取り残されて。ひとりだった。
足音が遠ざかるのを耳で追ってから、部屋の隅のベッドに潜り込んだ。
毛布に包まっても、つめたかった。
きつくきつく、目を閉じた。
この寝台の冷たさは、昨日まで転がっていたところと、一体何が違うだろう。
すぐ傍にある壁に、耳を押し当ててみた。
違うのは、この向こうに誰もいないこと。
置き去りにしてきたのだ。
壁も、ひたすら冷たかった。
―――薬の配分を変えてみたら。
ひっそりと部屋中が静まり返ると、言葉がひたひたと寄って来た。
―――潜在的な数値はこの子が一番高いはずなのよ。多分心理的にストッパーが……。
頭の内側で鳴っている音だから、耳をふさいでもどうしようもない。
分かっているはずなのに、両手が勝手に耳を塞いだ。
―――私たち、ずっと一緒に生きてきたんだから。
―――これからも一緒だよ。
幼い指を絡めて交わしたはずの約束は、果たされないままになってしまった。
どうしてもどうしても、あそこから逃げたかったのだ。
どんなに日当たりの悪い場所だって、あそこよりは暖かいはずだ。そう思っていたのに。
ここは寒かった。
簡素なベッドと机だけという部屋は、あの地下と何ら変わりない。
沈黙する壁はひたすらにつめたく、どこからも光が射さぬ部屋は暗い。
そう、あの部屋はしっかりと閉ざされていて、誰も来てくれなかった。人が訪れるときは、薬の投与や実験に引きずり出されるときだけだった。
人の足音に怯えていた。
ベッドから頭を出した。
暗闇の中、ぼんやりと浮かび上がる扉の、ノブを見た。
決定的に違うのは、そうだ。あの扉。
裸足でベッドから下りた。ひたひたと、ざらつくコンクリートの上を歩いた。
ドアノブに手をかけて回す。かちりと鳴って扉は開いた。
この扉には誰も、鍵をかけていない。
閉ざすのも開くのも、私のこの手、ひとつなのだ。
手前に引くと、くすんだ蛍光灯の光が部屋に侵入してきた。
部屋から首だけを出して、不健康な蛍光灯の光に照らし出された廊下を見る。
右と、左と。もう一度右。
右の突き当たりに、扉があった。
一歩足を踏み出しかけて、躊躇った。
それでも、何とかもう一歩踏み出した。
もう、閉じ込められているわけではなかった。自分の手で道を開くことが出来る。
ひた、ひた。
足の裏はきっと汚れているような気がする。靴はベッドのすぐ横に忘れてきた。
戻りたくはなかった。
近いようで、少し遠い距離。遠近の上手く測れない廊下を突き当りまで歩いた。
目の前に、扉が立ちふさがっている。
恐る恐る、ドアノブに手を伸ばしてみた。握って回すと、開いた。
音を立てないように、必死に息を殺す。わずかに押し開いた。音も立てずに扉が、少しだけ向こう側に開いた。
隙間から、向こう側をのぞき見る。
扉の正面に、机が置かれていた。宛がわれた部屋に置かれていたような、簡素なそれではなく。
コンピュータ端末が据えられた、がっしりとしたものだった。砦のようにも見えた。
そこに、こちらに背を向ける形で人影がある。
怪我はもういいのだろうか。結構出血していたような気もするけれど。
何でこんなところに、隠れ家があるのだろう。
そもそも、誰なんだろう。ほとんど何も訊かなかった。
ぼんやりと光る液晶画面を見つめているようだ。微動だにしなかった。
別に、あの研究施設を出た後まで、一緒に行動する約束なんてしていなかった。
導かれるまま、連れられるまま。引かれる手は心地よかったのだ。
「どうしたの」
こちらに背を向けたままで、その人影が喋った。
突然のことに、体がひくんと震えた。
「眠れないの、モエ」
声はやさしかった。振り向かなかった。
扉をさらに押し開けてみた。今度は、きぃと軋んだ音を立てた。
「さむい」
振り向かぬ背中に、それだけを言った。
あの部屋は、広くて、暗くて、寒い。
ぎぃ、と椅子の背もたれを軋ませるようにして、ようやくその人が振り向いた。
「ここも多分、そんなに変わらないよ。何もないし」
確かに堅固な砦とベッドだけで、あんまり元の部屋と空間の広さは変わらなかった。
勿論窓もない。
「でも、こっちがいい」
温度がある。
「じゃあ、ベッドを譲ろう」
眼鏡を無造作に顔から引き剥がして、机の上に置いて、その人は椅子を立った。
すたすたと自分のベッドに向かって歩いていった。
掛け布団を捲り上げて、手招きする。
「僕はもう少し、色々やることがあるから。子守唄は歌ってあげられないよ。ごめんね」
ベッドに潜り込んだ。足、汚れてるのに。そう思ったのは、もう掛け布団をかけられた後だった。
何事もなかったかのように、その人は机に戻ると再び液晶の画面に視線を滑らせる。
ベッドからは、その横顔が見える。
枕にうつぶせに顔をうずめて、その横顔を見つめてみた。
自分の体温で、きっと温まったんだろう。布団の中はもう随分あたたかかった。
とろりと意識が溶け始める。急に眠くなった。
「サイジョウさん……」
教えられた名前を呼ぶのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。
わずかに首をこちらに向けるようにして、無言でその人はこちらを見た。
言葉の先を促すように、わずかに眉を持ち上げてみせる。
「おやすみなさい」
すっかりと眠気の絡んだ声で挨拶をすると、やわらかく笑う。
自然と、笑ってしまった。
「おやすみ」
その言葉を合図に、目蓋を閉ざした。意識を繋ぎとめるのを止めた。
あとはゆっくり、ゆっくり体が沈む。
カタカタ、とキィを打つらしい音が、徐々に遠ざかった。
あとは、混沌。全てが絵具のように混ざり合って、ぐちゃぐちゃに。
ぐちゃぐちゃになった。
*
その報せが入ったのは、早朝だった。
たくさん並ぶ機械端末の端、取り付けられたプリンターから、カタカタと吐き出されてきた紙。
定期的に入る連絡をまとめて頭領に届けるのは、いつのまにか日課になってしまっていた。
8年前は、いろいろなものを取るためには背伸びをしたり、椅子を踏み台に使わなければならなかった。
今は違う。手を伸ばせば届く。
胸の位置あたりにあるプリンターから、吐き出されたばかりでわずかにぬくもりを持った紙を取り上げた。
何気に紙面に目を滑らせて、思わず顔をしかめてしまった。盛大に。
首都からの連絡だった。
正規軍西軍の佐官、ここ数ヶ月で2人も殉職者を出した役職に、正式に後任が決まったということだった。
その中に、見覚えがあって、馴染みのない名前を発見した。
よそよそしい名前。
「おはよう、早起きだね」
後ろから声がかかった。振り返ると、眠そうな顔をしているその人の顔がある。
多分、起きたのではなく、起きていたのだ。今まで。
ハイ、と。束ねた紙を相手に差し出した。眼鏡の奥の瞳をしょぼつかせて、サイジョウはそれを受け取る。
ざっと紙面に目を通して、一瞬だけ瞠目して、またいつもの顔に戻った。
「ようやく、面子が揃ったってことなのかな」
とぼけた声を出すので、少し不快になった。
「それ、知ってる人ですか」
また、プリンターから紙が吐き出されてくる。別口からの連絡のようだ。
それを手に取りながら、訊いた。
すると、視界の端で8年共に過ごした男が、怪訝そうな顔をする。
「どうしたの、モエちゃん。らしくないボケかましてみたりして。知ってるも何も……」
「それって、私たちが知ってるひと、なんでしょうか」
言い直した言葉に、ようやくサイジョウは納得した様子で。黙り込んだ。
しばらく黙ってから、ぽつりと、どうだろうね、とこぼした。
「逢ってみないと分からない」
「逢うつもりなんですか?」
意外だった。
思わずそちらに顔を向けて、訊いた。
サイジョウは答えなかった。
「……逢えますか? 私たち、また」
また、どうだろうね、とはぐらかされた。
けれども、気休めに甘やかされるよりは、心地よかった。
不意に視界がぼやけて、左手の甲を左目に押し当てた。最近、涙もろくなったような気がする。
それはおそらく、空間の広さ。
元々人は多くなかったけれど、ここまで少なくもなかったのだ。
頼りないのは、広さが醸す寒さのせいだ。
この半年。
その寒さに参っているのは、自分だけではない。
8年も一緒にいれば、なんとなく気配で察することが出来るのだ。
傷ついているのは自分だけじゃなかった。
「ねぇ、サイジョウさん」
数枚の紙を束ねて、ととのえた。
別に、何か言いたかったわけではなく、口を開いてしまった。
んー? ととぼけた返事が返ってくる。
「最近ね、ちょっと昔のこと思い出すんですけど」
「昔?」
頭領は、テーブルについたようだった。椅子を引く音を、背中で感じる。
「8年前」
「ああ。モエは甘えん坊だったねぇ」
「……嫌な言い方しないでくださいよ」
「そうかな。僕はあんまり嫌じゃなかったけど」
思わず振り返って、サイジョウを見た。
「誰かに手を掴まれるのは、嫌な思いじゃないさ」
ねぇ、とわずかに首を傾げられて、思わず笑ってしまった。
「べっつに、あの頃は心細かったから、誰の手でもよかったんですー」
「えー? それは残念だなぁ」
年柄もなく素直にしょんぼりとするのが、なんとなく小気味良い。
嘘だけど。
悔しいので白状はしないのだ。
初めは寒々しかった部屋に徐々に物が増えて、青白い蛍光灯も乳白色に買い換えて。
相変わらず日が差さないのは仕方ないけれど、それなりに人の温度が部屋に伝染するようになって。
布団を頭ままで被らなくても眠れるようになった。
それは、おそらく一ヶ月もしないうちだっただろう。
それでも懲りもせずに夜中、部屋を抜け出す癖は治らなかった。
わざとだったけれど。
廊下の突き当たり。
その扉を開くのに、初めは少しだけ勇気が要った。
それに慣れてからは、わくわくするようになった。
気配を殺して、音を立てぬようにそぉっと扉を開いて。
どうしたの、と声をかけられるのを楽しむようになった。
誰かがそこにいて、こちらを振り向いてくれるのが。
心地よかった。
それから。
同居人が一人増え、二人増え。
各地に点在する組織の人間とも面識が出来るようになって。
徐々に世界は広がっていった。
信じられない。あんな狭い暗い部屋がすべてだと思っていたのに。
この間まで傍にあった温度が、いつのまにかなくなってしまったけれど。
どこか遠い空の下でも、元気で過ごしてくれていればいいと思う。たとえ、袂を分かつことになっても。
「そういえば、あの頃は困ったなぁ」
いつのまにか煙草を銜え、よれたスーツのポケットというポケットからライターを探す動作で。
サイジョウが言った。
「寝付いたあと、モエが。僕の手を離してくれなくて」
結局ライターを発見できなかったらしく、軽く肩を竦めて、言った。
「覚えてませんー」
ぷいっと顔を逸らして、先程別の部屋を掃除していたときに発見したマッチを、サイジョウの方へ放った。
気が利く子だねぇ、相変わらず。
あまり素直に喜べない誉め言葉のあと、マッチを擦る音と、わずかに燐の匂いがした。
背を向けて、書類を調えるふりをして、軽く舌先を出した。
嘘だよ。
私は強かな子どもでした。
本当は寝付いてなかったんです。
我儘な甘えでした。タヌキ寝入りで、指先を掴んでいた。
タヌキな貴方にはばれているかもしれないけど。
あの頃は、世界の中心に貴方がいて。私は貴方に置いていかれるのが凄く怖かった。
徐々にレジスタンスとしての活動が活発になっていくにつれて、四六時中傍にいるわけにも行かなくなって、アジトに人の出入りも増えた。
取られそうで怖かったんだ、なんて。今更恥ずかしくて言えない。
でも。でもね。
「離しませんよ、私」
これからも。
誰が貴方に背を向けて遠ざかっていっても。
「離してあげません」
その手を。
あの頃のようにしっかりと掴んで。
別に、約束なんて何もなかったのだ。
あの研究施設を出た後まで、一緒に行動する約束なんてしていなかった。
導かれるまま、連れられるまま。引かれる手は―――心地よかった。
勝手に部屋なんて与えるから。温度をくれるから。
勝手に身の上話なんてするから。勝手に世話を押し付けるから。
危なっかしくて、私だけは、離してあげられない。
誰がいなくなっても。
「ああ、もう」
椅子の背もたれに項を預けるようにして、サイジョウが天井を仰いだ。
自棄になったような呟きに、振り返ると。
黒ぶちの眼鏡をテーブルに放り出して、右腕を仰向けた顔の、目のあたりに乗せている男が見えた。
「君がお嫁にいったら僕は泣くよ」
「なんですか、それ」
思わずげんなりと、溜息を落としてしまった。
どこからどう、そこに飛躍するのだろう。
「8年も経ったねぇ。モエももう20だし」
「サイジョウさんももう32ですよ」
「まだ32だよ」
顔の上から腕を退けて、仰向かせていた顔を元に戻した。
そこは譲れないらしい。
「あ。そういえばサイジョウさんまた、南の部屋にある端末の電源、落とさないままだったでしょ」
「え? そうだったっけ?」
「それと、書庫がこの間雪崩起こしました」
「うわー。せっかく分かるように積んでおいたのに」
「そんなに危なっかしいのに、お嫁になんていけません」
「ああ、それはごめんね」
少し拗ねたような顔をして、サイジョウは視線を外した。
おかしくなって、笑ってしまった。
まだまだ巣立つのは先になりそうだ。