マテイの炎
【C.C.C.】-Fire of Mathey-


11.

 世界は赤く染め上げられていた。
 荒い呼吸が絶えず聞こえている。
 響く靴音もどこか遠い。もはや慣性で走っていた。
 足元ばかりが青く光っている。その矢印が導く先が、地上への出口だ。

 これほど走ったのは、いつぶりだろう。
 子どもの頃以来だろうか。
 あの頃は―――いつも走っていた。さまざまなものから逃れるために。
 追いつかれ、捕まえられたら殺される。けれども、盗まずには生きていけなかった。
 物心がついたときから親はいなかった。
 アルマロスの旧市街で、汚水をすするように生きていた。
 生き残るためならば何でもやった。気がつけば、生き残ることだけが自分のすべてになっていた。
 惨めな孤児である、盗人である、汚らしい自分を葬り去るために。
 生まれ変わるために。

 貴族など、くだらないと思っていた。
 家の名ばかりで民を縛るなんて。何の疑問もなく、自らの血筋の上に胡坐をかいている。
 たくさんのものにしがみつき、たくさんのものを追い落とし、教皇派につらなる秘密結社にたどり着いたとき、マテイに実験体を送り込む任務を請けた。

 貴族たちは、まじめな顔をして近づいてくる人間を、疑うということを知らない。
 “自分たち貴族をだますものがいるはずがない”とどこかで信じ込んでいる。
 へりくだって甘え、時には悲壮な顔をすれば、簡単にことは運んだ。
 指をさして笑い出したくなるほど、たやすく。
 彼らは私怨以外の恨みなど、知らない顔をしている。
 日々の糧に困り、瓦礫ばかりの街で這い蹲り、世界のすべてをのろっている子どもがいるということなど、知らない。
 自分たちが貴族だというだけで、憎まれるということを知らない。
 彼らの、彼女らの、裏切られたと知ったときの顔といったら。
 あの醜くひきつった顔を見るために、自分はここまで上り詰めたのだと思った。
 心地よかった。快感だった。腹の底から笑いがこみ上げてくる。
 生まれて初めて満たされた。そう、信じた。


 前方に白い影を見つけた。
 呪術でもかけられたかのように、足が止まる。
 指先すらも動かせなかったのは、一気に体中を包み込む疲労感だけではない。
 注がれる視線のせいだった。

 ひとりの女が立っている。
 他の実験体と同じ白い衣服に、引きずるほどの白髪。
 薬物を投与された結果の、赤い瞳。
 金髪に碧眼の、まぶしいほどの美女だったのに。今は亡霊のようだ。
 ただ、両目がたたえている憂いの色だけは、昔と変わっていなかった。
 その場に縫いとめ、動けなくさせる不思議な魔力を、昔から彼女の瞳は持っていた。
 まるですべるように、彼女は近づいてくる。
 上方から注ぐ赤い光に、白い服と髪とが染まる。
 肩で息をする男のすぐ傍らまで歩み寄り、濡れた瞳でじっと、見上げた。
「アシュタロス」
 名を呼んだ。
 陥れた数多の令嬢の名など、マテイに引き渡した次の瞬間には忘れた。
 けれどその名はまるで呪いのように、離れずにあった。
 生気を失くした青白い、ほそい腕が伸べられる。
 顔のかたちをたどるように、頬に触れた。
 カゼルは右腕を持ち上げた。
 握ったままだった銃口を、アシュタロスの額に当てる。
 濡れた赤い瞳は、ゆらがない。じっと、男を見上げている。
 息を止めて、人差し指に力を込めた。
 かすかな手ごたえのあと、かちり、と。鳴った。
「……弾切れか」
 小さく笑って、カゼルはピストルを放った。床に跳ね返り、回転して遠くへすべった。
 空いた手で、頬をたどる手に触れる。
 五年前から変わらない。
 この手に触れるときには、言葉にできない感慨があった。その理由が、今は分かる。

 純粋無垢で、けがれのない。
 慈悲にあふれた白い腕を、汚してやりたかった。
 汚物にまみれなければ生き残れなかった自分の側に、引きずり込んでやりたかったのだ。
 何故うまれながらに恵まれて、清らに笑っていることが許されるのか。
 “うらやましい”。
 まぶしさに、指の先だけでもかまわない。
 届けと、願った。
 ひかりに触れたかった。

 憐れなほどに傷んで、色を失った髪に触れた。
 指先で梳くように撫で、形のよい頭を引き寄せた。
 やけに熱い吐息が咽喉に触れる。自然に、口元が緩んだ。笑ってしまった。
 なんて、陳腐な幕切れだろう。
 自分には勿体ないぐらいだ。こんな終わりを、選べるとは思わなかった。
 死ぬ覚悟ならいつだってできていた。つかまったら終わりなのは、幼い頃から何も変わっちゃいなかった。
 だからずっと、走っていたのだ。
 弾丸の雨にさらされて、顔も自分とは分からぬほどにつぶされて、どぶに捨てられる。そんなものが、似合いだと思っていたのに。
 やけに熱い唇が首筋に触れた。
 なぜか神聖な気持ちで、目を閉じた。


 鋭い牙が、肉を食い破って沈む鈍い音を、他人事のように聞いた。


              *


 誘導灯が導く角を折れたところで。
 白衣姿がゆっくりと床にくずれおちるのを見た。
 その向こうに現れた、華奢な女を。
 ルミアルは見つけた。

 口元を血で真っ赤に汚し、彼女はこちらを見ていた。
「姉上」
 カゼルの屍をはさんで、ルミアルは姉と対峙した。
 姉に歩み寄るのを、カイナは止めなかった。

《退避勧告です。爆破まで、あと十分。中央ブロックを隔壁で閉鎖します。誘導灯に従い、速やかに―――》

 幼い頃は、腰にまとわりつくのが精一杯だった。
 今は、少し見上げるだけで、姉の顔がある。
 彼女は金髪も碧眼も、うしなっていた。
 けれども、どんな薬物も、彼女の瞳がたたえる不思議な力を奪うことは、できなかった。
 まっすぐに見つめ、虚勢や欺瞞を溶かしてしまうまなざし。
 自我を失っても、瞳の色が変わっても、そのまなざしはまっすぐにルミアルを見た。
 赤く濡れた瞳から、ひとすじ。頬を伝って涙が落ちた。
 視界が滲んで、ルミアルは慌てて目に力を込める。

 もう、元通りにはならない。
 わかっている。
 うすく開かれた唇の間から、ひとでは決してありえない長さの犬歯が覗いている。未だ、血を滴らせている。
 憂いをふくんだ瞳はルミアルを捕らえているように見えるけれど、本当はもう何も映していないのだろう。
 しなやかな両腕が、まるでいたわるようにルミアルの肩に乗った。
 肩に感じる重みがあまりに愛しくて、このまますがりついてしまいたくなった。
 抱きしめて、泣き出してしまいたい。
 けれど、ルミアルはもう決めてしまっていた。幼い頃に。
 姉の前では決して泣かないのだと。
 守るべきものの前では、泣かない。
 きつく唇を噛んだ。母の棺の隣を、並んで歩いていたときのように。

 まるで弟の顔を覗き込むように、アシュタロスは顔を傾けた。
 そのまま、日焼けもしていない首筋に、唇を寄せようとする。
 ルミアルはそっと、目を閉じ、深く呼吸した。
 呼吸と共に何かを、飲み込んで、目を開けた。
「迎えに来ました」
 体の脇に垂らしていた右腕を持ち上げた。
 目の前にある、やわらかい姉の体に、銀の銃身を押し付ける。
「一緒に、ラヴァルへ―――帰りましょう」


 ―――ルミアル、泣いては駄目よ。


 引き金を、引いた。



12.

「神父が―――ああ、あたしを育ててくれた人ね。なんだか分からないけど、軍部の中枢に知り合いがいるみたいだから、マテイのことはそこから話しておくよ」
「僕も、聖都に戻ってまたあの考古学者に会ったら伝えておく。娘が探していると」
 すこし照れくさそうにカイナが笑った。

 トラックは、アルマロスの西門を出たあたりに停まっている。
 運転席には、二の腕に蠍の刺青を持つ男が座り、助手席にはおよそトラックに似合わない美少年が、顔やら腕やらいたるところに絆創膏と湿布をあてがわれて座っていた。
 助手席の窓をのぞきこんでいる少女も、同じようないでたちだった。
 このぐらいの怪我で済んだだけ、儲けもんだと思いな。
 守銭奴で知られる闇医者は、呆れ顔でふたりを手当てしたものだ。


            *


 ふたりが、マテイを脱出して、アルマロスの外壁の外にある廃教会にたどり着いたのと、マテイが爆破されたのは、ほとんど同時だった。
 地上に出てへたり込もうとするルミアルを引きずって、カイナは外壁の方へ走った。
 間をおかず、どっと下から突き上げるような衝撃が起こって、そのあとしばらく横にゆれた。
 振動にあっけなく地面に転がったふたりは、まばゆい光を感じて、空を仰ぐ。

 炎の柱が夜空に聳え立っていた。
 廃教会の木材を燃料として、非常口から地上に突き出した炎は、さらに燃えた。
 吹き付ける熱波を肌で感じて、ようやく、この体が生き延びて、まだ感覚を持ち続けているのだということに気づいた。
 ひりひりと焼けるような熱に照らされた頬に違和感を覚えて、ルミアルは自分の頬をこする。
 濡れていた。
 指先が液体に触れた瞬間、制御できないほどの波が腹の底から突き上げてきた。
 こらえきれず、とうとう、嗚咽を漏らした。
 地面にべったりと座り込んで、片手で口元を覆う。
 今まで押さえ込んできたすべてのものが、抗いがたい強さでこみ上げてくる。
 口元を覆う手の甲に、熱いしずくが伝って落ちてきた。

 姉の体を、連れて出てくることはできなかった。
 せめてこの炎が、彼女を安らかに葬ってくれればいいと、願った。

 ふと、何かが肩に触れた。
 疑問に思う前に、ぐっと強く引き寄せられる。
 すぐそばに、賞金稼ぎが座っていた。
 ルミアルの肩を抱き寄せたまま、じっと、炎を見つめている。
 あの日のことを思い出した。
 母親の葬儀の日、姉が。
 同じように肩を抱き寄せたことを。
 そのときと同じぐらいに、あたたかな腕だった。
 ルミアルは全身の力を抜いて、抱き寄せられるままに、カイナに重みを預けた。
 ほそい肩に顔を埋め、声を殺して、泣いた。


             *


 あの悪夢のような夜から三日が経ち、四日目の朝に、ルミアルは領地に戻るとカイナに告げた。
 ラヴァル領は、聖都カルチェ・ラタンのそばにある。
 アルマロスは辺境だ。
 聖都にゆくためには、車でソドムという街に出てから、鉄道を使う必要がある。
 運び屋はようやく、運び屋らしい仕事を与えられた。
 生意気なガキは嫌いだ、と文句を言いながらも案外たのしそうに、トラックを引っ張ってきた。
 先程から、ルミアルは何かを言いたそうに口を開いては、結局黙ってしまう。
 今回の依頼料はどこに請求すればいいの、などと軽口を叩いていたカイナだが、とうとう会話も途切れてしまった。
「……そろそろ出すぜ、夕方までにはソドムに着かないと厄介だからな」
 不器用に咳払いをひとつしてから、蠍が促した。
「お大事にね」
 わざと強くルミアルの肩を叩くと、少年貴族は盛大に顔をしかめた。
「おまえもな」
 カイナの頬に貼られた湿布を顎で示して、言い返す。
「女の子の顔に傷が残るとか! 心配してくれないの? 責任取ってくれるわけ?」
「傷がくっきりと残ったら考える」
 ぷいっとルミアルが顔をそらすので、思わずカイナは笑ってしまった。
「じゃあひとっ走り行ってくらあ。戻ってきたら酒場で酒奢れよ、CCC」
 わざと通り名で呼びかけて、蠍はにんまりと笑った。
 一人前の賞金稼ぎと運び屋としての契約だ。酒を奢る程度とはいえ、報酬は支払わねばならぬだろう。
 片手を腰に当てて、カイナは右手で追い払うそぶりをした。
 ルミアルは助手席にすっぽりとうずまって、なにやらむずかしい顔をしていた。

 やがて、ゆるゆるとトラックが動き出す。
 門のすぐそばに立って、カイナはそれを見送った。
 しばらくはなれたところで、突然。
 助手席からひょっこりと、顔が覗いた。
「カイナ!」
 満身創痍の少年が、窓から身を乗り出して、声を張り上げていた。
 爪先立ちをして、カイナは徐々に遠ざかる少年を見る。
 アルマロス特有の砂を含んだ風に、つややかな金髪を遊ばせて、ルミアルは真剣なまなざしでカイナを見つめて。
「ありがとう!!」
 叫んだ。

 ぽかんとあっけにとられているカイナの視界には、運転席から伸びた腕に背中を捕まえられ、助手席に引きずり戻される少年が映っている。
 トラックは速度を上げ、みるみるうちに小さくなってゆく。
 ぽつんと、その姿がひとつの点になったころ、ようやくカイナは我に返った。
 今起こったことをゆっくりと反芻して、最後に、噴き出した。
 まったく最後まで、らしいというかなんというか。
 体に震えを及ぼすぐらいの笑いをこらえながら、頬に貼り付けた湿布を掻いた。
「あーあ。本当に傷が残ったら、嫁にしてくれって押しかけようかなぁ」
 うん、と大きく伸びをした。
 太陽は中天にさしかかり、アルマロスにはめずらしく、青空が覗いていた。
 どこを見渡してもトラックが見えなくなってから、カイナは自分の街に引き返した。
 実のところ、体のあちこちが痛かった。
 公共の通信回線を使って、辺境の割には通信設備が整っている”実家”に連絡をつけてから、もう一眠りしようと思った。
 夜もふける頃、蠍が戻ってくる。
 そうしたら、イシスも誘って酒盛りでもしたらいい。
 大騒ぎするためには、英気を養っておかなければならなかった。

 問題のすべてが解決したわけではない。自警団もまだある。
 一度発生したゆがみが元に戻るには、時間が要るだろう。
 しかし、亡霊はもう現れない。
 あともう少しすれば、アルマロスはきっと、元の顔をとりもどす。
 今晩行われるはずの酒盛りは、前祝も兼ねているに違いない。

 やっぱり今するべきことは、部屋に戻って寝床にもぐりこむことだ。
 砂っぽい風に背を押され、カイナは上機嫌で歩き出した。



【FIN】


【ark】