The Tower of BABEL
【崩落編】
この煉獄のような世界に投げ出され。
どうして愛されていると思えようか。
姿も見せない貴方に赤子のように手を伸ばすことが何故。
罪と呼ばれるのか私は知りたい。
1.
「いいのかな?」
ぐるぐると続く螺旋階段を駆け上りながら、レイが口を開いた。
「何が」
同じ動作をしながらハルトが返す。
塔内部の電源は全て落ちていて、もちろんエレベーターなど使えたものではない。
非常口の扉を開け放つと、途方もない螺旋階段が目の前に現れたのだった。
「あそこ、サイジョウさんたちに任せちゃって」
「え〜と、俺の持論として、二人が川に流されていたとして」
手すりをガンっと掴みながら、突然ハルトが脈絡のないことを言い出した。
眉をしかめて不信感を露にするレイに構わず、ハルトは続ける。
「どっちを助けるって訊かれたら、俺はどっちも助ける派なんだけど」
「だからさ……」
「"どっちから"助けるかっていう話になったら、より助けを求めてるほうだよな」
「……」
「この場合を見てみても、どっちが助けが必要かは、お前だって分かるだろ。俺たちは何でもできる神様じゃない。スーパーヒーローじゃない。あれもこれもって、できないだろ」
「ハルト……」
ハルトの例え話はいつも突飛だ。そして強引だ。強い。
わかりやすい。
「それにあのタヌキが簡単に死ぬと思うか〜? モエちゃんも然りだろ」
「そうだね」
破天荒。その言葉を体現したようなあの様子を思い出して、レイは目の前の手すりを掴んだ。
ひたすら、鉄の階段を踏みしめる音だけを聞いていた。次第に高まってゆく鼓動と呼吸がそれに追いつく。
もうどのぐらい上ったか分からないが、そんなに高くは来ていないはずだ。
しかし、斜め上を見上げると、階段が途切れているのが見えた。階段の途切れた先にある非常扉の下から、わずかに漏れてくる明かり。
「電源って、全部落ちてるんじゃないの?」
非常灯にしては明るすぎる。確実に照明の灯かりだった。
「でも、電気点いてるよな」
扉の前に辿り着いて、ハルトが顔をしかめる。
扉の横の、カードを通す機械のすぐ上にカードを置いたまま、ハルトがしばらく神妙な顔をしている。
「ハルト時間! 早く!」
後ろに立つレイが、拳でハルトの背中をどすりと叩いた。
「お前な、開いた途端に蜂の巣にされたらどうするんだよ!?」
「じゃぁ、いつまでもここにいるつもりなのか? 早く!」
ぼすぼすとレイの拳が背中を叩く。鈍い痛みが等間隔で背中に当たった。
(キレてんな、こいつ)
いつもの慎重さが全く感じられない、猪突猛進モードに入っている。
何かに一生懸命になると、あまり周りが見えなくなる。
レイのいいような悪いような、癖だ。
こういう場合は何を言っても無駄だ。
「分かったっつーの! 叩くな!」
もうどうにでもなれ。そう思って、ハルトはカードを上から下へと滑らせた。
ピッ。
小さな音とともに、目の前の扉が開いた。
瞬時に溢れ出す眩しい光が、視界を灼き尽くした。
*
「君は相変わらず、可愛いな」
煙幕が晴れ渡った頃、空には巨大な赫い月が浮かび上がっていた。
心臓に向けられた銃口に怯むことなく、ランドウはうっすらと笑みを浮かべて見せた。
「どういうことですか?」
幼い子供を見るようなランドウの表情に、サイジョウはわずかに眉をひそめた。
―――貴方と僕の立場は正反対だから、僕と貴方は敵だ。
少し前の言葉を思い出し、ランドウは目を細める。
笑むように、よく見つめるように。
(まるで、言い聞かせるようじゃないか)
目の前に対峙している自分と相手とが、絶対に相容れぬものだと納得させるように。
自分に。
そうでもしなければ、敵対することも出来ないかのように。
必死に言い聞かせているような、その動作が可愛い。
幼くて。
「昔から、その頑なさはちっとも変わらないね」
手を差し伸べてくれなくてもいいよ。愛してくれなくてもいいよ。
見つめてくれなくてもいいよ。
そう言いながら、いつも待っている。求めている瞳。
「……確かに僕は、貴方が追いかけてきてくれることを望んでいました。けれど貴方が求めるものには、同じDNAですら勝てなかった」
僕は貴方に―――。
遠い昔、もしも追いかけてきてくれたなら言おうとしていた言葉を思い出す。
さっきまで全く思い出せなかったその先が、どうして今になってこうも鮮烈に蘇ってくるのだろうか?
「僕は母ほど貴方を信じていないから、そんなに辛くなかったですよ。貴方に近づこうと教会の研究所に入ったとき、貴方にモルモットのように扱われても」
(……たかった)
頭の中をぐるぐると駆け巡る言葉が、血管を通って体中に染み渡ってゆくようだ。
「それでも、傷ついていたんだろう?」
「知っていても、貴方は何もしようとしないんですね」
「そして君は、研究所のデータを盗んで逃げた」
「それでも追ってはくれなかった。それで、貴方の僕に対する認識が分かりましたよ。取るに足らないものだって言うことが」
どうせなら。
全く変えてしまえればいいと思っていた。父親譲りの髪と瞳。毟り取って抉り取れれば。
貴方と違う生き物になれたなら。
どうせなら。
「僕はあの時……。貴方に殺されたかった」
こっちを見て欲しい。それだけでよかった。殺す、ただ一瞬でも。
「今、叶えてあげようか」
夜の空をそのまま閉じ込めたような瞳で、ランドウが見つめてくる。
酷く優しい声だった。
「いいえ、結構です。僕はあの頃とは違う」
その声の甘さに酔いそうになるのを必死にこらえて、サイジョウはランドウとの間合いを詰めた。
金十字越しに、左胸の上に銃口を当てる。
「あの頃はまだ10代で、僕の周りの世界は酷く狭くて、絆なんて、血縁しかないと思っていたから。でも今はもう少し欲張りになってしまったんです。抱えているもの、何ひとつだって手放したくない」
「欲張りなのは、私に似たからだよ」
愛おしいものを見るように、スッとランドウが目を細めた。
くらりとした。お願いだから、"優しくしないで"。
「僕には今、欲しいものがあります」
「なんだね?」
まるで子供が玩具をねだっている時の返事だった。さも、与えてあげようかというように。
「教会のない世界です」
少し意外そうに見開かれたランドウに瞳に、サイジョウは確かに見た。自分が映っているのを。
「君は、私があげたデータでほとんどの事を知ったのだろう? 教会のことも、この世界のあらましも、"由来のないこの廃墟で古代何が起こったのかも"。
その全てを知っていて、"あの方"の理想も全て知ったうえで、そんなことを言うのか? 教会という組織が、ただの独裁組織だけではないということを、知っていて?」
「……何千年、僕達はこの大地で生きてきて。もういい加減、"たった一人の親"から自立するべきだとは思わないんですか。人は、そんな頼りない鎖でがんじがらめにしなくたって、立って歩いていけるものですよ」
「……たった一人の、親。なるほどな」
ふっと口元に笑みを浮かべたまま、ランドウが頷いてみせる。
「その点については同感だよ。君と私の目指す方向は、同じではないのかね?」
「違いますよ」
即答で、サイジョウは切って捨てた。
「貴方と僕とでは、自立した"後"が違う。一緒には歩けません。もう二度と」
それは、サイジョウなりの訣別の言葉だった。
これ以上もう、道は重ならない。二度と。
「では君はどうしてこの街で、あの洞窟で、私が手に入れた"チップ"を、守り続けていてくれたのかな?」
「貴方に渡す為では、ありません」
「計算違い? 君らしくもない。まあいい。あの少女に生き残ってもらっては困る」
ランドウの手が、自分の胸に突きつけられているピストルを、握った。
ゆっくりと左胸から引き離す。
「手が震えているよ」
安全装置も外れていて、引き金に指がかかっているというのに。
ランドウは微笑さえ浮かべてサイジョウに言った。
「撃つなら撃てばいいさ。殺したいならそうすればいい。君の覚悟が決まったらね」
まだ。気持ちは揺れているのだ。ピストルを握る指が、震えているように。
胸から完全に離れたピストルを離すと、サイジョウの腕がだらりと垂れた。
力が抜けて、ピストルの重みを支えられなくなった。重力に忠実に銃口が地面に向く。
「ヒイラギ」
「……っ……」
がくりと、サイジョウは膝から崩れ落ちた。がちゃりとピストルが地面に転がる。
「隊長!」
慌てて駆け寄ってくるモエに向かって、今まで固唾を飲んで見守っていた兵士達が銃口を向けた。
それを片手で制したランドウは、傍にいた兵士に問う。
「時間はあとどのくらいかね」
「残り1時間を切っております」
「そうか。ならば焦る事もない」
もうすぐ派手な花火が上がる。口の中でそう呟いてから、ランドウは空を見上げた。
月が綺麗だ。
「隊長! 大丈夫ですか!?」
「……な、時だけ」
がくりと地面に膝をついたまま動かないサイジョウの肩に、モエは手を置いた。
震えている。
「こんな時だけ名前を……」
呼ぶなんて。
卑怯だ。
傍にいたときは一度も。たったの一度も呼んでくれなかったくせに。
「隊長……」
「モエちゃん……、ファンくんに、例のものを手配するように、連絡して」
二人の間でしか聞こえないほどに声を落として、サイジョウが囁いた。
まだ声は微かに震えていたが、張りが戻ってきている。
はい、と小さく頷いてモエがタッと駆け出した。
それを追うようにサイジョウもゆっくりと立ち上がった。
ランドウの指示の所為か、周りの兵士達は自分に構わない。
(酷いな)
まだ、銃口を向けられたほうがマシだ。
こんなふうに、見て見ないフリをされるのが一番の屈辱だということを、知っていてやっているのだろうか。貴方は。
「まだダメか」
滲み出してきた脂汗を拭い、足元に転がったピストルを拾い上げた。
幼い頃からの刷り込みのトラウマがまだ。この体に根を張っているとしか思えない。
あの瞳に、声に。反応して怯える本能。
「僕のタヌキもまだまだ……ってことか」
呟いた声がまだ震えていて、口唇を噛んだ。
2.
「待ちくたびれたぜ?」
灼き尽くされた視界の先から、まずは声が届いた。
茶化すような、男の声だった。聞き覚えのある声だった。
ちらちらと残像を残しながらも視界が復活すると、少しの間合いを取って、男がひとりそこに立っていた。
「待ち合わせた覚えは、ないんだけど。いくらなんでもストーカーは願い下げだぜ」
まだちかちかする視界のまま、声だけで相手を判別したハルトが、軽口を叩く。
「本当にお前、威勢がいいな」
「好かれても嬉しくない。特にオヤジなんかに」
オヤジと来たか、とアフライドはわずかに口元をヒクつせるようにして笑った。
昼間に見たマシンガンを、構えるでもなく肩に担いだまま、動こうとしない。
「レイ」
すぐ後ろに立つレイに、少し振り向くようにしてハルトが口を開いた。
「あそこ、階段だな」
目線だけでハルトが示す先には、確かに上の階へと続くらしい階段が見えた。
「時間が惜しい。お前、先に行けよ」
「え!? なんで!?」
言葉とともに差し出されたカードキーを流されて受け取ってしまってから、レイが素っ頓狂な声を上げる。
「お前、さっきから自分で時間がないって言ってたろうが? わかんねェのかよ、あいつの目的は多分、ギリまで俺たちをここに足止めしておくことだぜ? このままじゃ、間に合うもんも間に合わないだろ」
「でもハルトは……」
「川で二人が溺れてたら、お前、"どっちを先に助ける"?」
しばらくその言葉を咀嚼するように黙ったレイは、静かに一度、こくりと頷いた。
「よし。あとでな」
レイの腹部を軽く拳で叩いたあと、ハルトは腰のホルスターからピストルを抜いた。
素早く安全装置を外し、アフライドの足元に、一発。
発砲音と共に、レイは、自分から向かって右側にある階段へと駆け出した。
しかし、目の前のアフライドは、全く動じる様子もない。
「放っておいていいのか?」
酷く間抜けな質問をハルトが零すと、アフライドはマシンガンを抱えたまま肩を竦めて見せた。
「お嬢様の命令は絶対なのよ。なにせ、"上官命令"だからな」
「……っ、しまった!」
「おっと。お前は行かせないぜ? 2対1はフェアじゃないだろ」
思わず駆け出そうとしたハルトの足元に、今度はアフライドが発砲した。
「お前が一発撃つ間に、俺は多分致命傷を与えられるが、どうする?」
弾数、経験値。全てに置いて軍人である相手のほうが上だ。
ぎっとしばらくアフライドを睨みつけたあと、ハルトは仕方なくピストルをホルスターにしまった。
「……そうそう。聞き分けのいい子も好きだぜ」
足元にマシンガンを投げ出して、アフライドは後ろの壁にもたれた。
「ここでゆっくり我慢比べでもしようや。今回はお前らを追ってきたわけじゃないから、殺す義理もねぇ」
軍服の内ポケットから取り出した煙草を銜え、火をつける。
「ひとつ、聞いてもいい?」
相手に倣うように床にあぐらをかいて座り、ハルトが切り出した。
アフライドが黙っているのを肯定と取って、口を開く。
「あんたは、"神の声"や、教会内部のこと、知ってんの?」
「まぁ、一通りはね」
「それでも教会に従うのか?」
「……教会なんざ、俺には全く価値がないモンだ」
ふぅと煙を吐き出して、その煙ぐらいの軽さで吐き捨てた。
「それなら」
「でも」
それならどうして。訊き返そうとするハルトの声を遮って、アフライドは不敵に笑ってみせる。
「俺は本当に"上官に恵まれない"星の元に生まれたらしくてな。どうにもこうにも手がかかってしょうがねぇ」
脳裏をよぎる上官二人の顔に、さらにアフライドは困ったように笑ってみせる。
「それに元々面倒見がいい俺としては」
煙草を深く吸い込んで、ゆっくりと煙を吐き出す、そのぐらいの間を置いてから、アフライドはハルトを見た。
「危なっかしくて、放り出したりできないわけさ」
*
階段を上り始めてからしばらく経つが、下の方からは物音ひとつ聞こえてこない。
ハルトは大丈夫だろうか、と階下を心配しかけて首を振る。
―――俺たちは何でもできる神様じゃない。
さっきのハルトの言葉を思い出し、振り返りそうになる気持ちを奮い立てた。
二人が溺れていたとしたら、どっちを助ける?
自分だって両方助けたい。
どちらから、と問われるなら。
やっぱり彼女が先だ。
一つの階を上り終え、踊り場を回り次の階段へと踏み出し足を、レイは慌てて止めた。
階段を上りきった先に、扉が見える。もう上るものは見つからない。
この階段を上りきれば、その先にきっとリョウコはいるのだろう。
しかし、その扉にもたれるようにして、人影があった。
「貴方は、逃げないんですか?」
声を掛けると、相手がゆっくりと体を起こした。
いつも結い上げている銀の髪が、今は背中まで流れている。そうして見ると、少し幼く見えた。
「あと45分」
腕時計にちらりと視線をやったあと、ジャンヌは冷たい視線をレイに向けた。
「貴方も、諦めて戻りなさい。今回は追わないから。もうあの少女は助からないわ」
「どうしてですか?」
「あの少女は今、この先にある部屋のバルコニーで、枷を嵌められて拘束されている。その枷を解除するためには6桁の数字のパスワードが必要。ひとつずつ合わせていったって、絶対に開かない。ちなみにそのパスワードを知っているのはランドウ・アンティクリスト大将閣下のみよ。私は知らないわ。分かったでしょう、ここから先に貴方が進むだけ、無駄よ」
「なんで、この塔を爆破するだけじゃ足りないんですか? どうしてリョウコまで殺す必要が……」
「あの子は、奇異な力を使って民をたばかり、主への信仰を惑わした異端者よ。偶像がある限り、人々は惑う。神に近づこうと建てたこの呪われた塔と一緒に、裁かれるべき……」
「ふざけるな!!」
レイの絶叫が、周囲の壁に反響した。目の前の女に傷つけられた咽喉の傷が、開くような気がしたが、構わない。
腹の中心から湧き上がってくるわけの分からない感情を持て余し、レイは階段を駆け上ると、ジャンヌの胸倉を掴んだ。
「裁くなんて……! 同じ人間が何でそんなことを口に出来るんだ!」
どん、とジャンヌの背中を後ろの扉に押し当てて、レイが搾り出すように言った。
自分を見つめる翡翠色の瞳が、あまりに強くて、思わずジャンヌは息を呑んだ。
「人は、神の代わりになんて、絶対になれないのに。人が人を裁くことなんて、絶対に出来ないのに」
姿無き主の名を借りて。自分たちが定めたラインを踏み越えたものを、異端と名付けて。
容赦無く踏みつけて。それが。
正義?
「教会は、そんなに偉いんですか」
信仰の束ねではなく?
"まるで神のように"人を裁けるほどに?
「神ほど、偉いんですか?」
―――教会は何様のつもりなのよ……っ!!
深い緑の瞳の奥にジャンヌは、遠い日の思い出を見た。
「貴方達は! 神の名前を笠に着て人々を裁いて回る。貴方達こそ、神になろうとしているんじゃないんですか!」
叩きつけられたその言葉の苛烈さに、ジャンヌは呼吸を忘れた。瞬きが出来ない瞳が、乾いてちくちくと痛い。
―――なんでこんな酷いことが出来るの!? 私たちが一体、何をしたって言うのよ。
この世界全てを呪い、吐き出した自分の声が、耳の周りでぐるりと回った。
あれは昔の話。
正しいと、思った。目の前の青年が口にする言葉はあまりに正しくて沁みた。
昔の自分も、そう思っていた。
教会なんて、教会なんて。
正しすぎて、悔しかった。
ぐっと目に力を込めた。そうしなければ泣いてしまいそうだった。
いつものように逆上して、「煩い」とこの腕を払い除けられたら、どんなにか楽だったろう。
けれど今は出来なかった。しっかりとかみ合わせた歯さえ、こみ上げる嗚咽を噛み殺そうとカチカチと鳴った。
「馬鹿ね……」
やっとのことで呟いた言葉すら、震えていた。
そんなふうに、気高い理想を掲げていては、駄目よ。高く掲げては駄目。
ぼきりと、あまりに簡単にその旗を折られて。傷つくのは貴方なんだから。打ちのめされるのは、そうして泣くのは。
貴方なんだから。
「この、あまりに支配が行き届いた世界で、そんなことを一人で叫んだって、何も変わらないわ。変わらなかったわ。どうしようもないのよ。流れてくしかないのよ。ここは、そういう世界なんだから」
信仰という心の支えすら、捻じ曲げられた世界なのだから。
「……"諦めません"。誰かが違うと言わなければ、誰かが声を上げなければ、変わるはずなんてないんだ」
しっかりと呟くその言葉は強くて、その瞳はとても澄んでいて。ジャンヌは目を逸らす。
「……救いようがないわ」
ぱしり、と襟首を掴むレイの両手を払い除けて、ジャンヌは襟元を正した。
「35分」
腕時計の表示を単調に読み上げてから、階段を降り始めた。
「いいわ。行きなさいよ。―――死にに」
背中に、躊躇っているらしい青年の気配を感じる。
やけにゆっくりと、ジャンヌは階段を降りた。
やがて扉が開く。人を一人飲み込んだあと、その扉が閉まる音を背中で聞いて、ジャンヌは、髪に指を突っ込みぐしゃぐしゃと掻き回した。
「馬鹿は嫌いよ……」
"馬鹿正直"は嫌い。
真っ直ぐで、ひたむきで、強くて、それでも傷つきやすくて。
羨ましくなってしまうから。
昔の自分を、思い出してしまうから。
「私は一体、何のために……」
口に出しかけて、途中で止めた。言葉にしてしまえば、取り返しがつかなくなるような気がした。
―――私は今まで生きてきた全てを、この世界に捧げてきた。これからもそのつもりだ。何ひとつ惜しくない。
急がなければ、この塔は爆発する。脳が必死にそう伝達しているのに、手すりにもたれかかるように階段を降りる足取りは、酷く重い。
―――君の力を貸して欲しい、ジャンヌ。
今となっては、あの方の、その言葉だけが。
自分を支えているのだと、ジャンヌは改めて悟った。
*
「あいつらは本当に素直で純粋なんだ。弾丸みたいなもんさ。真っ直ぐ」
吸い終えた煙草を足元に落とし、爪先で踏み消す。もう、アフライドの足元には数本の吸殻が転がっていた。
「防御なんて出来ない。突っ込んでくだけ。傷つきやすくてしょうがない」
信じたものに向かって。賭けたものに向かって。ただひたすら突き進むのみの。ガラス細工。
「お前らが知ってるジャンヌも、もう一人のガキみたいな大将も、どっちもそうさ。傷つくって分かってたって、走らずにはいられないんだ。だから誰かが、盾になってやらなきゃいけない。俺はあいつらについていくって決めた。それが、俺が正規軍にいるたった一つの理由だ」
「へぇ」
黙って聞いていたハルトが、ようやく口を開いた。
「お前も固い頭を柔らかくしたらどうだ? 何も軍に入ってる奴らが皆、盲目的な信仰心を持ってるわけじゃない。持ってる奴もいるがな。理由なんざそれこそ人の数だけたくさんある。お前らがわざわざ決められた枠から飛び出そうとしてるのだって、そうだろう」
「オッサン、物分かりいいね。もしかして頭いいんだ?」
「まぁ、物分かりはよくても協力してやるわけにはいかねぇけど。立場が違えば敵同士だ。まぁ、お前らのことは嫌いじゃないけどな」
「俺も別に嫌いじゃぁないぜ。あの美人さんは怖いけど」
「ジャンヌはな、ただ少し、ブレーキの掛け方を知らないだけさ。……と、噂をすればか。もうそんな時間か?」
壁から体を起こし、アフライドがハルトとは別の方向を向いて言った。つられるようにそちらに顔を向けたハルトは、渦中の銀髪美女が、レイの消えていった方向から歩いてくるのを見た。
答えないジャンヌに、アフライドは腕時計を見る。予定の時間より、まだ10分ほど早い。
「引き上げなさい、アフライド。ここから離れるわ」
「まだ時間じゃないぜ?」
「……上官命令よ」
出たよ、必殺技。と口の中で呟きながら、アフライドは床からマシンガンを拾い上げた。
まるで自分がいないかのように、目の前を横切ってゆくジャンヌを目で追って、ハルトは首をかしげた。
いつもの勢いが、ない? 髪を下ろしている所為かもしれないが、少し幼くそして頼りなく見える。
「レイは、どうしたんだ?」
ハルトが静かに問い掛けると、ジャンヌは少しだけ足を止め。
「……勝手に、死にに行ったわよ」
一言だけ残し、非常階段へと姿を消した。
またな、などと間抜けな挨拶を残し、アフライドもその背中に続いた。
「何だアレ……」
敵のくせに「またな」ってなんだよ、などと思いながら、ハルトはしばらく呆然としてしまった。
こんなにあっさりで、いいのか?
「っと、こうしてる場合じゃねぇ」
はっと我に返り、ハルトは駆け出した。上へ。
*
あと30分もしないうちに、この塔が爆破される。
そう知っているはずの足取りとしては、かなり遅い速度で二人は階段を降りていた。
ぐるぐると回る螺旋階段を下へ下へと降りながら、先程から一言も会話を交わさずにいる。
非常灯しか点いていないこの螺旋階段は酷く暗く、緑色の非常灯をきらきらと反射させる上官の髪を視界の斜め下に収めながらアフライドはついてゆく。
「ジャンヌ」
声を掛けるが、返事は返らない。
いつもならば、上官を呼び捨てにするなと、手厳しく返されるはずなのに。
「何があった」
「……もう二度と、会いたくないわ。このまま、この塔と一緒に灼かれて死んでしまえばいい」
滅多に感情を露呈することのないジャンヌの、感情の制御装置が今は壊れているらしかった。
恐怖ゆえなのか悲しみゆえなのか。原因はわからないが震える声を、隠そうともしない。
「あの人たちと向き合っていると、苦しい」
自分が今まで諦めてきたものを、苦しみながらもがきながら、必死に掴もうとするから。
諦めた自分が、惨めになる。
「お前とあいつらは違う」
思わず立ち止まったジャンヌの隣に立ち、アフライドは、その片手を掴んだ。
「あいつらが形振り構わずに好き勝手出来るのは、守るものが自分たちだけだからだ。お前は違うだろう。この細い手に、色んなものを持っているからだ。なくすわけにはいかないものを、いっぱい持ってるからだ。立場が違う。比べるな」
「……勝手にっ……触らないでよ」
ジャンヌは掴まれた腕を振り払おうとするが、その力は弱い。
溜息をついて腕を離したアフライドは、ジャンヌを追い越してさっさと階段を下りはじめた。
「先に行ってるから、爆発に巻き込まれない程度に早く来いよ」
ひらひらと手を振って見せて、振り返らずに階段を降りる。
彼女より前にいれば、振り返りさえしなければ見なくて済むのだ。
泣き顔を。
傷つきやすいくせにプライドの高いうちの"お姫様"は、泣き顔など、誰にも見せたくないだろうから。
(お前がうちの大将を嫌うのが、なんとなく分かる気がする)
口に出さずに、心の中だけで呟いてみた。テレパシーなどを信じるほど夢見がちじゃないから、伝わらなくても構わない。
(あの人も、やたらと真っ直ぐだからな)
後ろに庇うものなど何もないから。だからどこにだって飛んでいけるのだ。
両手にたくさんのものを抱えている身分にしてみるなら。
その自由さが。
(羨ましくなるよな)
翼のない"ひと"が、空を舞う鳥に焦がれるような、どうしようもない嫉妬心。
だけどもしかしたら。
守るべきものがあると言う事は。
抱えるしがらみがあると言う事は。
意外と幸せなことなのかもしれないぜ?
「少なくとも俺は」
小さく口に出したつもりが、周りの鋼鉄に反響してやたらと大きく聞こえた。
だから、やっぱり口に出すのは止めた。
―――少なくとも俺は、"あの人"やお前をこの背中に庇えるのは、結構な幸せなんだけどな。
3.
目の前に。赫い月が昇ってきた。
もうどのくらいこうしているのだろう。
首と、手首とを押さえつける鋼鉄の枷。
あと数時間もしないうちに、この塔は吹き飛ばされてしまうのだろう。
私も一緒に……。
そう考えかけて、必死に踏み止まる。
諦めたくない。
だけど一体誰が、私を助けてくれるだろう?
崩れることを定められたこの塔のてっぺんまで。
助けにきてくれるだろう?
怖い。怖い。怖い。
「死にたくない……」
少し身を捩ってみたところで、がっちりとはめられた枷は痛みしか与えてくれない。
その冷たい感触に背筋すら凍りそうになる。
もう少しで、こんな風に冷たくなる暇すら与えられずに、ばらばらに壊されるんだ。
この塔も、この体も。
「お母さん……。私まだ、死にたくないよ……」
人はみな、この世界に幸せになるために。生まれてくるんだって。
私まだ、幸せじゃないよ。
まだ死ねないよ。
視界の中で、丸いはず月が奇妙に歪んだ。
泣いたら駄目だ。もったいないから。拭わなきゃ。
反射的に持ち上げようとした手が、がちりと鋼鉄に阻止された。
強がって、涙を拭うことすら、今の私には許されていないんだ。
「っ……!」
殺されるために拘束されている両手。
その現実を改めて確かめた瞬間、涙が溢れた。
頬を伝う涙が熱くて、また、死にたくないと思った。
そのとき。
―――リョウコ!!
名前を呼ぶ声が。聞こえた。
*
体の芯が熱い。燃えるように熱い。
まるで体の中心に、マグマがあるかのようだ。
さっきだって。教会の欺瞞に怒りを覚えたりはしたものの、あそこまで感情的になるつもりはなかった。
第一、彼女を怒鳴りつけたって何の解決にもならないのだ。
それなのに……。
感情の制御装置が外れてしまったかのようで、落ち着かない。
「リョウコちゃん!」
最上階に辿り着くなり、レイは叫んだ。鋼鉄の壁に跳ね返されて、自分の声が返ってくる。
いくつか部屋が並んでいるうち、躊躇わずに目の前にある一際大きな扉に駆け寄る。
「リョウコちゃん!」
返事はない。
服のポケットにしまったカードキーを取り出す手が、何故か震えている。
ようやく捕まえて引きずり出したカードキーを一気に上から下へ滑らせて、扉が開く間ももどかしく、レイは叫んだ。
「リョウコ!!」
目の前に開けたのは、質素な空間だった。机と鏡台と、ベッドがあるぐらいの。
殺風景な、温度のない部屋。
これでは、軟禁されているのと何が違う。
「レイ、さん?」
声が返った。震えて、かすれていた。
声のした方を見ると、開け放された窓の向こうに、街を見下ろせる形のバルコニーがあった。
窓の形に切り取られた空からは、半分ほど赫い月が覗いている。
「大丈夫!?」
駆け寄って、すぐ傍にしゃがみこむと、濡れた赫い瞳が縋るように見つめてきた。
「……て?」
「え?」
「どうして、いるの?」
「どうしてって……、助けに来たんだよ?」
止め処なく流れ落ちる涙を、手の甲で拭ってやりながら、レイが言うと、リョウコはその大きな瞳を更に見開いた。
「だって、もうあんまり時間がないんでしょう?」
「うん。だから早く、これを外さないと……あ、血が出てる。痛い?」
必死に身をよじった所為で、リョウコの両手は鉄に擦れて傷が出来、血が滲んでいた。
「なんで、助けてくれるの?」
昨日の今日出会ったばかりで。迷惑ばっかりかけてるのに。
その首の包帯だって、昼間の傷でしょう? 傷が開いたみたいで、包帯にうっすらと赫い色が滲んで見えた。
「なんで……」
そんなに優しくしてくれるの?
「泣いちゃ、駄目なんだろ? リョウコちゃんが諦めないなら、助けるから。……でもこれ、手じゃ無理だね……」
思った以上に頑丈な枷から視線を持ち上げると、椅子の斜め上辺りに奇妙な6つのボタンを発見した。
―――枷を解除するためには6桁の数字のパスワードが必要。
先程のジャンヌの言葉が頭をよぎる。しかし、ひとつずつ当てはめていったのでは、とても合いそうにない。
周囲を見渡しても、鉄の枷を壊せるだけの道具も見つからない。万が一見つかったとしても、その下にある手や首を傷つけずに枷を外す方法など、あるはずもなかった。
「リョウコちゃん」
レイは、6桁のパスワード、という言葉を聞いてから、ずっと考えていた方法を思い出した。
あくまで最終手段として。必要がなかったら口に出さないでおこうと思っていたが。
「酷いこと、言っていいかな」
「え?」
「生きたいよね?」
真摯に向けられるその深い緑の瞳に、リョウコは躊躇わずに頷いた。まだ幸せになってない。
まだ死ねない。
「リョウコちゃんの力で、数字、分からない?」
―――無理矢理見ようとするたび、無理矢理聞こうとするたび、逃げるの。
「苦しいと思うけど、今はもう多分、それしか方法がないから……」
―――遠い。
力を使うことが、好きじゃないと分かっている。
苦しめることを分かっているけれど。もうこれ以外方法が見つからない。
リョウコは目を見開いたまま、しばらくレイの翡翠色の瞳を見つめ返していた。
あまり動かない首を、必死にゆるゆると左右に振る。
ざりざりと鋼鉄が首を摩擦して、痛い。
「無理だよ、レイさん、逃げてよ」
「リョウコちゃん、死にたくないんだろ?」
「だって、私の力、凄く弱くなってるしっ……」
どうして、こんなに優しくしてくれるの。傍にいてくれるの。
「こんな短い間に6つもなんて、無理だよ。それに、もし数字が合ってても、ここから下まで逃げる時間なんてないよ」
これ以上迷惑をかけられないから。お願いだから置いて逃げてよ。
私なんか、置いて逃げてよ。
ぼろぼろと、言葉と一緒に涙が零れ落ちた。熱くて火傷しそうだ。
「レイさんだけでも逃げてよっ!!」
「僕のことなんか! いいから。信じるから。頑張ろうよ」
強い声が何故か、酷く優しい。堪えきれなくなってボロボロと泣きながら、あまり動かない首を必死に動かして、リョウコは頷いた。
数字。祈るように目蓋を閉ざした。
夜空に浮かんだ赫い月の残像が、目蓋の裏に残る。
あともう少しで。この塔が吹き飛ぶなんて思えないほどに夜の闇は深くあたりは静かで。
自分の呼吸と、次第に高まってゆく心臓の音しか、いつしか聞こえなくなっていた。
鼓動が高まれば高まるほど、速まる体内のスピードに、焦る。
生きたい。
「っ……」
苦しみの表情。眉根をきつく寄せて。それでも。
見えない。暗い。ざらざらする。雑音。ぐちゃぐちゃになる。
教えて。祈りながらきつく目を閉じる。闇が深まる。
このままじゃ見えない。見えない。
鼓動だけが高鳴る。焦る。もう……もう。
「落ち着いて」
こみ上げる嗚咽を殺しきれずに必死に口唇を噛むリョウコの、腕の辺りにそっと。触れた。
「焦らなくていいから。他のこと全部、考えなくていいから。自分のことだけ」
時間も空間も。他人も。何も考えなくていい。
触れられた部分から、温もりが広がった。
―――どうしたの。何で泣いてるの?
(お母さん。だって、みんなこの目が怖いっていうの。バケモノだっていうのよ)
―――この世界に、無駄なものなんて何ひとつないのよ。何もかも。"貴方も"。
(じゃあどうしてこんなに苦しいの?)
―――駄目よ。人のことばかり考えていては。自分が一番最初。誰よりも自分を、幸せにしようと思って?
受け入れて欲しくて。自分を殺す術を覚えた。
自分の幸せよりも、傍にある温度を求めた。
悲しみを押し殺して、温もりに酔うことを知った。
だけど。
お母さん私、幸せになりたいよ。
他の誰でもなくて"自分で"。自分を。
この髪もこの瞳も。この体全部で、抱えた力全てを。愛して慈しんで。
生きていきたいよ。
「……8…」
だから助けて。私を助けて。これが最後で構わないから。
「9、3、0、7……」
心の一番奥のほうから、沸きあがる数字を乗せる口唇の上を、雫が伝って落ちた。開いた口唇から舌先へ流れ落ちた。
塩辛い味。
額に噴出した汗が閉じた目蓋の上まで流れてきた。
もう少し。あと少し。
「……1」
がちゃん。
その音が。心臓にまで響き渡った。
一瞬にして体中の"首"を締め付けていた枷が、ぱかりと外れた。
夜風を受けて、真っ赤になった手首の傷が、痛んだ。
呆然とそれを見つめていると、急に強く体を引かれた。
引きずられるままその椅子から崩れ落ちたリョウコの体を、レイが強く抱いた。
「よく、頑張ったね」
耳に溶ける声。温度。
ひとの。ぬくもり。
壊れっぱなしの涙腺に押し寄せた波。
タガが外れて、声を殺すことも忘れて。
泣いた。
「レイ!!」
開け放たれたままの扉から、声が先に飛び込んできた。
「ハル……」
レイが顔を上げてそちらを見るよりも早く。ハルトが叫んだ。
「もう時間がねぇ! "そこにいろ"!!」
「え!?」
"そこにいろ"!?
問い返す間もなく、遥か下の方から爆音が上がった。
4.
「イテテテ、もうちょっと優しく巻いてくんない?」
「どんなに優しく巻いても、火傷は痛いですよぉ〜?」
「そんな我儘言うコには、ご自慢の回し蹴りでも食らわしてあげなさい、モエちゃん」
「ハイ、隊長!」
「た、タンマ、このままでいい!!」
ただでさえ全身ところどころに火傷を負っているというのに。これで"あの"蹴りを食らったら恐らく昇天だろう。
「……だけど、本当にあんた食えないな。まさかヘリを持ち出してくるとは思わなかったぜ」
ぷぅ、と残念そうに頬を膨らますモエから、その奥のサイジョウへと目線を向けて、全身包帯だらけのハルトは溜息混じりに呟いた。
「どうも。タヌキ見習いですんで」
「それに、あの通信も」
「……本当に通じるとは、思ってなかったんだけどねぇ、実は」
「……なんだって?」
「まだ実験段階だったもんで。よかったねぇ、結果オーライだよ」
のほほんと笑ってみせるサイジョウに、ハルトは今更ながら背筋が凍るのを感じた。
あの時。
最上階へ駆け上っている途中に、急に後ろから殴られたような激痛が頭を襲って、ハルトは思わず足を止めた。
《もっしも〜し。聞こえる?》
キーンとエコーすら伴って、大音量の声が頭の中に直接響いた。
《一応、そっちの中身の通信ともリンクしてるから、お返事も聞こえるんだけど。聞こえてる?》
『……かい……』
《ん〜?》
『でかいんだよ、音が! 頭痛いから、ボリューム下げろ!!』
《ああ、失礼失礼。っと、これで大丈夫かな〜? で。あんまり時間がないから簡潔に述べますが〜》
全く簡潔とは程遠い速度のサイジョウの声。頭に鈍痛を抱えたまま、ハルトは再び階段を上りはじめる。
まだ音量はちょうどいいとはいい難い大きさだったが、抵抗するだけ無駄だろう。
《このまま上のバルコニーにて待機。オーケー?》
『はぁ!? 何で悲しくててっぺんで待機なんだよ!? 俺らを見殺しにする気か!? そうなんだろ!!』
《心外だなぁ。唯一助かる方法を提案してあげてるんだよ。素直に従ったほうが賢いよね》
『本当だな?』
《ん?》
『本当に、助かるんだな?』
《僕のプライドに誓って、助けてあげるよ》
「よかったじゃないの。助かったんだからさ」
「あんたは指示出してただけじゃん。ヘリ操縦してたの、ファンくんだし」
「あれ……、生きてる」
まだ寝惚けた声が、サイジョウの傍にあるソファーから上がった。
自分の掌を顔の前に広げて、何度か握ったり開いたりして見せた後、むくりと体を起こした。
「おはようレイ君。ご機嫌いかが」
「あ、おはようございますサイジョウさん…………。ええっ!?」
丁寧に頭まで下げて挨拶したのち、ようやくレイの瞳が焦点を結んだ。
大げさにのけぞったあと、慌てて周囲を見渡す。
「ご安心を。天国じゃないから。ヘリが降ろしたはしごに捕まったまでは憶えてる?」
「……全然」
「そうかぁ、残念だなぁ」
サイジョウは深刻そうに眉根を寄せて、腕を組んでみせる。
「あの……塔は?」
「崩れちゃったよ」
「軍は?」
「引き上げた」
「…………リョウコちゃんは?」
「今、別のところで寝てるよ。安心していい」
「……そっか」
よかった。とレイは小さく零した。
ほっと胸を撫で下ろすレイの傍で、サイジョウは、レイの質問を自分の中で繰り返した。
"軍は"?
―――今回は、君の勝ちだ。
プロペラが空気を震わせる音に、掻き消されそうになりながらも、その声はサイジョウに届いた。
ハルトとの通信を終わらせて、再び広場に戻ろうと、テントから出たその先で。
父親が。
―――君の行動を予測できなかった。どうやら君に対する認識を少し改めなければならないようだ。
翻された黒い外套が、夜の闇にまぎれて消えた。
残された言葉を、噛み砕いてみる。
少しは重要視してくれるっていうことですか? お父さん。
(いつか)
口の端に火を点していない煙草を銜えたまま、サイジョウは面影に言う。
いつか、目を逸らせないほどの抵抗勢力になっていせますよ。そして。
(いつか後悔させてみせますよ。あのとき殺しておけばよかった、ってね)
「ところであんた達、何のためにこんな辺鄙なところで活動してるわけ? 一応レジスタンスなんだろ?」
マッチを擦って煙草に火を点けたところで、ハルトから声がかかった。
「ここはね。反乱の旗を掲げるものには、少し曰くのある土地なんだよ。世界の大半は知らないけどね」
「曰く?」
「この街は、"由来のない街"だと言われてるけど。由来のない街なんて、あると思うかい?」
煙を吐き出したあと、灰皿に煙草を置き、椅子を回転させハルトに向き直った。
「この世界で由来のないものなどありえない。"潰された"だけだ。そしてここには必ず、潰されただけの"何か"が存在する。僕達はそれを探している」
「あんた達は、何をしようとしてるんだ?」
「"自立"さ。いい加減、保護下から抜け出してもいいはずなんだ」
「?」
「自分で情報を集めるといい。自分で答えに辿り着いて、自分がどうするべきか決めるといい」
とさりと、吸ってもいない煙草の先から灰が落ちた。
「真実を手に入れた後、もう一度カルチェ・ラタンに戻ってみればいい。きっと色々変わって見える。……で、その間だが、資金面ならフォローしてあげられる」
突然のあまりに意外な申し出に、ハルトはわずかに目を見開いた。
手を差し伸べるのは何故? 彼ほどのタヌキが無条件で? そんなはずはない。
「……あんたの見返りは?」
訊き返すと、やれやれバレバレなのね、と小さくぼやいたあと。
「教会側の情報が欲しい。特に正規軍の動きを監察したい。だから、君たちはそれを連絡してくれればいい。あくまで契約として、どうだい?」
「……契約、ね。分かりやすくていい。レイお前は?」
「僕も構わないけど……」
「決まりだね。それじゃあひとつ面白い情報を教えてあげよう」
結局一口しか口をつけなかった煙草をもみ消すと、サイジョウは立ち上がり、機械から吐き出されたまま丸まっている紙の束を拾い上げた。
「今、ここの近くのソドムという都市で、騒ぎが起こってるんだ。街の真ん中で化石が色々見つかっててね」
「化石?」
ぴくりとハルトの耳が動いたのを、レイは見た気がした。
彼が一番、目がない言葉だ。
「それがね、色々昆虫の化石が見つかってて。もしかしたら、見つかるかもしれないんだ」
口唇の端を思わせぶりに持ち上げて、サイジョウがついとハルトに視線を流す。
ハルトは瞬きすら忘れてサイジョウのその不躾な視線を咎めることもなく見つめ返している。
「蝶」
がたんっ。
サイジョウの言葉と、ハルトが立ち上がるのと。
ほぼ同時だった。
伸ばした手で、サイジョウの襟首をむんずと掴んだ。
「本当なのか!?」
「情報に関して僕は嘘はつかないつもりだけど」
ガクガクと揺さぶられながら、サイジョウは相変わらずのほほん笑顔のまま。
「よし、レイ! 行くぞ、今すぐ行くぞ!!」
「なっ……。今すぐ!?」
「あったりまえだ。他の誰にも見つけられてたまるか」
「おい、待てって!」
「レイ君」
ハルトは言うや否やテントを飛び出してゆく。それを追いかけようとしたレイの襟首を後ろから捕まえた手。
「これ、持っていきなさいね。道具の用途はおいおい教えるから」
押し付けられたのは、あまり大きくないリュックだった。なにやら中がガチャガチャしているが、確かめている暇はなかった。
「あの、えっと……ありがとうございました」
何か言おうとして。それでも言葉が見つからずに。結局それだけを言って頭を下げた。
くるりと踵を返してテントを飛び出してゆく背中に、サイジョウは目を細めた。
「どぉいたしまして」
*
「待てって言ってるだろ!?」
「煩い、お前が遅い!」
テントを飛び出したレイが張るとの背中を見つけたのは、バベルに着いたときに下ってきた、長い不ぞろいな階段付近だった。
既にハルトは階段を上り始めている。
体全身からもどかしさと苛立ちを発しながら、大げさに振り返る。
早くしろ、と。
しかし、その険しい顔が一瞬で間の抜けた顔に早変わりして、レイも思わず、考え付いた罵詈雑言を飲み込んでしまった。
その視線が自分の肩越し、後ろを見ているのに気づいて、振り返る。その先。
「……リョウコちゃん」
自分から少し離れたところに、頬や肩などにガーゼを当てた少し痛々しい姿のリョウコが立っていた。
「よかった、間に合った……」
ほっと胸をなで下ろす彼女は恐らく、走ってきたのだろう、肩で息をしている。
昨日とは明らかに違っている彼女の様子に、二人はしばらく黙った。
「その髪……」
「少し焼けちゃったから」
ようやく紡がれたレイの声に、少しはにかむように笑うリョウコの髪は、肩よりも短くなっていた。
「似合ってんじゃん」
感心するようなハルトの言葉に、リョウコはもう一度笑った。
顔を上げて、二人を交互に見たあと、深々と頭を下げる。
「ありがとうございました」
真っ直ぐに二人を見て、リョウコは言った。
「私これから、サイジョウさんのところでこの街の建て直しを手伝うつもりです。大変だと思うけど、生まれた街だから」
はっきりと告げるリョウコの声には一点の曇りもない。
真っ直ぐに向けられる赫い瞳にもう、憂いはなかった。
「この力は、多分なくなるだろうってサイジョウさんは言ったけど、それでもいいって思うんです。力がなくなるからって、死んじゃうわけじゃないから。頑張ろうって、思います」
手首に巻かれた白い包帯。自分がひたすらもがいたあとに残った傷。
そのうえにもう片方の手を乗せた。
どうせならこのまま、傷痕が残ればいい。戒めに。決意に。
旅立ちの印に。
見るたびに、頑張ろうと。思えるように。
「だから、色々片付いたら、見に来て下さい。この街」
今度は。今度こそは。
自分の力で。"この手で"。
自分もこの街も、変えていってみせるから。
「分かった」
上りかけた階段をゆっくりと降りて、ハルトがリョウコの目の前に立つ。
頭に手を乗せ、短くなった髪を乱暴に撫でた。
「待ってろ」
ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜるその感触に、目頭が熱くなる。
この人たちの手は、どうしてこんなにも優しい。
「頑張ってね」
温かいレイの声に、リョウコはこくりと頷いた。
涙が落ちた。たったひとつぶだけ。
*
まるで血の色のような赫が、小指の爪の上にゆっくりと広がってゆく。
歪まないように丁寧に先まで色を乗せ、まじまじと見つめた。
「血の色みたい」
よく、この色が似合うと言われる。そのたびにマリアは嬉しかった。
血の色が似合うのは、生きている証だ。
あの人には、似合わない色だ。
綺麗なあの人には。
きっとこの色が、あの人を汚してしまう。
それならば。
この身に全てかぶろう。降り注ぐ狂気や凶器を。この色と一緒に。
貴方は綺麗でいて。
マニキュアを机の上に置くと、傍にあった電話が鳴り出した。
マニキュアを塗ったばかりの方とは反対の手でそれを取ると、肩と顎で挟んだ。
足を組み替える。
《バベルが落ちた》
至極簡潔。聞き慣れた上官の冷たい声に、別に傷つくこともない。彼も自分の、これが普通なのだ。
「お疲れ様です閣下」
塗ったばかりの小指に軽く息を吹きかけながら、型どおりの挨拶を告げた。
「そろそろ私の掘った落とし穴にも、上手くかかってくれると思いますが、彼らは次はどこへ?」
《恐らくソドムだろう》
「じゃあ今度はゆっくりとお話できるかしら……あの子たちと」
真っ赤に染まった爪に目を細め、マリアは同じ色の口唇で鮮やかに笑んだ。
開け放たれた窓から、青く晴れ渡った空が見えた。
吹き込んだ風が内側に、白いレースのカーテンを揺らす。
赤く染めた爪の生えた手を、窓の形に切り取られた空にかざす。
まるで空に、手を伸ばすように。
何度突き崩されようと人は。
何度も高い塔を建てる。
光と、愛とを求めて。
遥かな虚空へ手を伸ばす。
今もまた。