主よ人の望みの喜びよ
1.
君を愛していた。
誰よりも誰よりも。
いつまでも一緒にいられると、わけもなくそう信じていた。
ごめんね。
―――ごめんね。
*
浅い眠りから現実に引き戻される感覚は、何度体験しても慣れない。
夢と現実とが混ざり合って、マーブル模様を描くようなあの感覚。
ハルトに連れられ、盗掘関係の鑑定屋の家に一夜の宿を借りたレイは、見慣れぬ天井を見上げてしばらくぼんやりとしていた。
枕元に、古びた日記を見つけて、持ち上げる。
とりあえず荷物だけを取りに、孤児院に戻った際、昼間置いていったままにベッドの中にあるかどうか。
気が気で仕方がなくて。
布団を捲り上げて、そこにそのまま在ったそのとき。訳もなくほっとしてしまった。
(ファスト神父……)
古ぼけた皮の感触を両手で受け止めながら、レイは名付け親の面影を思い出す。
まだ一度も開いてはいない。
開くことが、何か罪を犯しているような。そんな気がする。
(僕はどうすればいいんでしょうか……)
*
「失礼しました」
丁寧に一礼をし、上官の執務室を出たジャンヌは、あまり見たくない人影を見つけて、少し立ち止まる。
そしてすぐ、何事もなかったかのように目線を逸らし、目指す方向へと歩き出そうとした。
「ヤダ。あからさまに無視しないでよ。あたしだって傷つくわ」
明らかにジャンヌを待っていたその人物が、もたれかかっていた柱から体を起こした。
「……何か用?」
社交儀礼。その枠を出ない程度に無愛想に、ジャンヌは声を放った。
投げ捨てられた台詞は、相手の心には届かずに、ころころと床に転がる。
「残念だったね。今回はさ」
「それが?」
「猊下は、あたしを使ってくれるって」
近づいてきた女は、ジャンヌと同じ軍服を身に纏っていた。長い、ウエーブのかかった金茶の髪を、纏めることなく肩に下ろして。
胸元は挑発的に開いていた。
毒々しい赤い口唇と、鼻をつく香水の匂いに、ジャンヌは嫌悪感もあらわに眉をしかめた。
「マリア、そんなことを言いに来たの。どうぞ。私には関係ないわ」
「はっ、さすがエリートの言うことは違うってワケね。でもねジャンヌ、教えてあげるわ」
かつりかつりと。ヒールで床を打ちながら近づいてきたマリア・イーヴァは擦れ違いざまにジャンヌの肩に手を乗せ、耳元で囁いた。
―――欲しいものは、盗ったモン勝ちよ。
吐息混じりに囁かれたその言葉に、思わずジャンヌは目を見張り。
口唇を噛んだ。
「ジャンヌ、用事はもう……」
角を曲がり顔を出したアフライドが見たのは、丁度その場面だった。
去ってゆくマリアの背中をしばらく黙って見送ったあと、立ち尽くすジャンヌに近づく。
「ジャンヌ、何か……」
「何でもないわ。戻りましょう」
マリアとは反対方向に歩き出すジャンヌに、アフライドも倣って歩き出す。
しばらくして振り向くと、目豹のようなマリアの後姿が見えた。
マリア・イーヴァ。
出身経歴その他。全てが謎に包まれている。
艶やかさを滲ませるその外見のため、巷では大司教の愛妾とまで言われているらしいが。
(……どうも、気味が悪いな)
彼女の妖艶さは時に、狐に騙されているかのような妖しさを伴う。
俺には関係ない。
そう言い聞かせ、アフライドは、少し遅れた上官に追いつこうと、急いだ。
「失礼します」
軽くノックをし、返事を聞かないまま、マリアは上官の部屋の扉を開いた。
相も変わらず相手はデスクに座り、静かに本など広げている。
とても軍人とは思えない。
「大将閣下。猊下から連絡は?」
「大佐殿。しっかりと受けているよ」
本から顔を上げ、フレームのない眼鏡を抜き取る。
漆黒の髪にはところどころに白髪が混ざり、目元と口元には皺が刻まれているものの、それが却ってダンディズムに直結する、紳士。
青い双眸が、ゆっくりとマリアの瞳を見た。
「……何をしてらしたの?」
机に腰をかけ、しなだれかかるようにマリアは上官の顔を覗き込んだ。
そしてそのまま視線を机の上の書物へと落とす。
「学会が発表した神学の研究を少しね」
細かい文字が専門用語を綴り続ける。しばらく目を走らせたあと、マリアは視線を持ち上げた。分からない。
「博学でいらっしゃるのね」
マリアの理解力が足りないのでは無い。神学の研究は、本格的に神学を学んだものにしか分からない域にまで入り組んでしまっているのだ。
長い間、論じられ続けてきたから。研究者達も、テーマに飢えている。
「これでも昔、大学の教壇に立っていたことがあるんだ」
口元の皺を揺らして、男は笑って見せた。
目元も微笑んではいるものの、温度が感じられない。
「あら、素敵。頭の良い方は好きよ」
マリアのしなやかな指が、男の顎に伸びた。伸びて、大幅に指からはみ出したスクエアカットの爪が、咽喉の辺りを軽く引っ掻く。
そのまま顎を持ち上げ、どす黒いチェリーを思わせる口唇を、男のそれに押し当てる。
男はそれを、瞬きすらせずに受け止めた。
「いけないな」
離れた口唇がわずかに囁く。
「猊下のお気に入りがこんなところで。色々なところを蝶の様に飛び回っていたのでは、いつか帰る場所を忘れてしまうよ」
「心配しなくても大丈夫よ」
重ねた余韻を辿るように、自らの口唇を舌で軽くなぞってから、マリアは微笑んで見せた。
「あたしはどうせ、"身代わり"なの」
*
「お前は本当に。毎回毎回人使いが荒いんだからな。フレアも同じだ。突然それを持ってきて"調べろ"って言うだろ。こっちがその気になって調べてると、今度は"早くしろ"だからな」
居間兼仕事場の狭い部屋にハルトはいた。
テーブルに座り、先日入手した"バイブル"―――教会関係者はそう呼んでいた―――をぱらぱらと捲っている。
その少し向こうでは、古びた部屋には不相応なほど最新型のコンピューターに向かう中年ほどの男の背中があった。
発掘関係者の間では「親父さん」というあだ名で呼ばれている、考古学系の鑑定士だ。
色素の薄い茶色の髪に、同じ色の瞳をして、左足は腿の部分から機械で出来た義足だ。なにやら若い頃に無茶をして、失ったらしい。
「親父さん、悪かったって」
「誰がお前の親父だ。ジェイクと呼べと言っているだろう。……にしてもハルト、久しぶりだな」
作業が一段楽したのか、ジェイクはコンピューターの前から立つと、ハルトの向かい側に座った。
「突然転がり込んできて悪かったよ」
「お前がそんな柄か」
冷め始めてしまったコーヒーを口元に運びながら、ジェイクは笑ってみせる。
それもそうだ。受けて、ハルトも笑った。
レイは神学の道へ、ハルトは考古学の道へ。お互い別々の道を志し、孤児院を出てから。
今まで。
別々に分かれていた道。その通過点にジェイクがいた。
まだ少年だった頃から、何かと良くしてくれていた、言わば育ての親だ。
いつもは余裕をかましているハルトも、ついジェイクの前となると甘え癖が出てしまうのだ。
「フレアから聞いたぞ。正規軍に目をつけられてるんだってな? それだったら目立たないところで少し静かにしておいたほうがいい。あいつらはそこら辺のチンピラと違って手ごわいからな」
「まァ、成り行き上、色々と……」
本当にこの短期間のうちに色々とあった。
本当ならば、ジェイクに全て話してしまいたいところだが、どこまでが許容範囲で、どこからがアウトなのか。
情報を整理できずに持て余す。
「で、お前。目標は達成されたわけか?」
わずかに残ったコーヒーを一気に飲み干し、ジェイクは少し茶化すように、相変わらずバイブルに視線を落としているハルトに声を掛けた。
話そうか、話すまいか。
迷いながら立ち上がり、近くの本棚へと歩いてゆく。
見慣れたもの、見知らぬもの。
ここにある本は全て読んだと思っていたのに。
増えている本が、離れていた時間を思わせた。
その中から一冊を取り出し、捲る。古代語の辞典だった。
「……見つけたよ」
読むでもなしに捲りながら、そうとだけ告げた。
「ガイアズメール」
背中に刺さる、少し張り詰めた雰囲気。恐らくジェイクは目でも見張っているんだろう。
「……正規軍がお前を追ってるのも、そのせいか」
辻褄が合った、とばかりに溜息を吐き出して、ジェイクは背もたれに体重を預けた。
「詳しくは言えないけど、色々と分かったんだ。それからまた、色々と分からないことも出来た。…………?」
ぱらぱらと捲っていた辞書から、はらりとなにやら薄い紙が螺旋を描くように床に落ちた。
床に落ちる直前にひっくり返って表を向いたそれが、写真であることに少し遅れて気付く。
少し大きめの、古ぼけた写真。
「ジェイク、写真……」
「ああ、この間物を整理していたときに紛れ込んだんだろ。探してたんだ。昔のやつさ」
「へぇ、ジェイクどれだよ」
「前の方に稀に見る美少年がいるだろうが」
「美少年〜?」
愛らしさと人懐っこさを備え持った15歳ぐらいの少年を見て、ハルトが眉をしかめる。半分以上冗談で。
隣の女性と腕を組んではじけんばかりの笑顔だ。まだ足は生身で。
「隣の人、美人じゃん」
「言ったな? 美人って言ったな? 覚えとけよ。それが俺の姉貴だ」
「…………姉弟だって、似る似ないがあるじゃんか」
「減らず口を」
「で、隣の育ちのよさそうなオニーサンは?」
「姉貴の婚約者」
あからさまに話題を逸らしたハルトに、ジェイクは青筋を立てながらも律儀に応じてやる。
「じゃあその……」
左。
視線をずらした先。そこに写っている人影にハルトが固まる。
この、独特の笑い方。
「その左は俺が本当の兄貴みたいに慕ってた奴だ。色々あって、そこに写ってる奴らはみんなもう、死んじまったけどな」
「……前」
「あ?」
「……こいつの名前」
写真の一部分に視線を固定したまま。ハルトの声がわずかに震えている。
顔は幾分若いけれど。この顔は確かに……。
「ファスト。ファスト・ヴォルディモート。色々事情があって、同じ敷地内に住んでたんだ。キトの村で神父をしていたこともある……」
ばさり。
乾いた音が部屋中に響いた。その音が、ジェイクの言葉を途中で塞いだ。
その両手から、古代語の辞典を取り落とし、写真だけを呆然と見詰めているハルトの姿があった。
*
掴まれて激しく揺さぶられる、髪。
振り回されて、床に投げ出される。
男の掌に、栗色の髪の毛が何本も何本も残った。
(あたしの髪)
ぼんやりと、焦点が合わない瞳でそれを見る。
お前なんてこれだけが取り得の癖に。
喚いた男の口唇からつばが飛んだ。
勢いよく振り下ろされた足が容赦無く鳩尾に入って、口中に広がる酸っぱいような味。
それじゃなくても、下着同然のスリップドレス。
ぼろきれのように床に転がった私は、惨めだ。
出て行け。
男が叫んで、また髪の毛を掴んだ。そのままずるずると扉まで引きずっていき、外に放り出した。
季節はちょうど冬で。ちらちらと空からは雪が舞い落ちてきていた。
体を守る布など何もなくて。
身を刺すような痛みに膝を抱えた。
ねぇ誰か、助けてよ。
男でも女でも、子供でも老人でもいい。
かみさま、でもいい。
掌を少し持ち上げて。はらはらと花びらのように舞い落ちる雪を受け止めた。
肌は凍えそうに冷たいはずなのに雪は、落ちてすぐに溶ける。
こんなあたしにもまだ、雪を溶かして上げられるだけの温度が、残っているの。
なんか変だ。
こんなにさむいのに。
不意に視界が暗くなった。雪が落ちてこなくなって、顔をあげた。
ちゃらり。
初めに見たものを、その鮮烈な情景を、あたしは忘れない。
ちらちらと揺れる、金のロザリオ。
―――名前は?
覆い被さって覗き込んでくる、一瞬では性別を判断できないようなとっても綺麗なひとが、訊いた。
金の髪、青い瞳。ちらちらと舞い降りてくる雪がまるで翼のよう。
―――天使みたいだね。
あたしは酷くぎこちなく笑った。
殴られて散々に腫れ上がった頬が、慣れない笑みを作った所為で痛んだ。
―――名前は?
相手が否定も肯定もしなかったから、あたしは勝手にそのひとを天使だと思うことにした。
あたしをこの、掃き溜めから出してくれる天使。
とっても綺麗で、強いの。
―――マリア。
あたしが、誰からつけられたかも分からない名前を短く告げると。
彼は纏っていた外套をふわりとあたしにかけた。
―――おいで。
二つ返事で頷いた。
あたしはずっとこの人を待ってたんだ。あたしには分かった。
そしてその確信は、今も続いている。
(でも、あんたにとってあたしは……)
あんたの瞳に映っている"あたし"は。
"あたし"じゃない。
(それでもいいんだ。あたしはバカな女だから)
カルチェ・ラタンからは随分と離れたある意味辺境の街へ移動しながら、マリアは車の後部座席で足を組み替えた。
幾らでもこの手なら、汚してあげる。だからお願い、貴方は綺麗なままでいて。
あたしが泥除けになってあげるから。貴方はいつでも輝いていて。
ただそれだけが、あたしの望みなの。祈りなの。
喜びなのよ。
*
「……なるほどな。名付け親……か」
「ジェイクが知り合いだったなんて、知らなかったよ」
「俺だって、顔ぐらいは知ってると思っていたが、そんなに近かったとは知らなかった」
淹れ直したコーヒーが、テーブルの上で湯気を上げている。
その傍に置かれた一枚の写真。若き日のファストの姿。
「……ファストを知ってるなら丁度いい。忠告に重みも出る」
「え?」
先程持ち込まれた古文書を目の前に、モノクルを装着したジェイクが、それから顔をあげた。
「お前はさっき、色々と分からないことも出来た、と言ったな。まだ追うつもりか?」
「このままだと、後味悪いだろうが。色々分からないままじゃ。分からないものは調べろって教えてくれたのはジェイク……」
「ファストは、"神の声"を追って、教会に殺された」
吐き出しかけた言葉を飲み込むことも出来ずに、ハルトは無様にぱかりと口をあけた。
「ファストは教会に近いところにいたから、逃れられなかった。もう少し時間があれば、多分ガイアズメールまで辿り着いていただろう。お前は幸運にも教会とは遠いところにいたから、見つかるのが遅れただけだ。お前はガイアズメールを見つけてしまった。それだけでもう既に、生命を奪われる域を越えてるんだ」
「でも……!」
「"でも"じゃねぇ! 聞き分けがないのは変わらねぇな、ハルト。ガイアズメールも、神の声も、俺たちには過ぎた玩具なんだ。手を出すべきじゃない。俺の足も、半分そのせいで失ったみたいなもんだ。今回はたまたま運が良かっただけだ。今は隠れてるほうがいいんだよ」
だん、と拳をテーブルに叩きつけて、ジェイクは立ち上がった。
この年になっても、ジェイクに怒鳴られると怯んでしまう。
刷り込み効果だ。
「……別に俺は、お前だけならこんなに言わねぇ」
座りなおし、ずれたモノクルを嵌めなおして、ジェイクは頬杖をついてハルトを見た。
「聞き分けのない奴だ。止めたって飛び出していくのは目に見えてる。だがな、お前の相棒はどうだ。お前のように探究心に駆られてるのか? お前が振り回してるだけじゃないのか。もう教会側は、お前たちをセットとして認識してるわけだろう。お前が下手に動くと、その火の粉が相棒にまでかかるんだってぇことをしっかりと覚えておくんだ。お前の行動ひとつが、相棒を殺すかもしれない」
「そんな……」
「お前が守るつもりでも、どんなに決死の覚悟でも、人は死ぬときは死ぬ。殺す気がなくても殺す。そうやって悔やんだ奴と、消えてった生命を俺はよく知ってる。……お前だって、知ってるだろう」
ハルトは、何か言おうとして口を開くが、言葉を捜しあぐねてまた閉じてしまう。
ずきん。
滅多に痛まないはずの左胸が、何故か痛んだ。
(なくすなんて思ってなかった……)
ついてこいと、連れ出した。
真実を見せてやるから。
結果がこのザマだ。逃亡生活。
恨まれても、仕方ないのかもしれないな。
「よく考えろ。隠れ家なら、提供してやれないこともない」
俯くハルトの頭にぽんと軽く手を置いて、ジェイクは、古文書を持って出て行った。
―――無鉄砲で、一人で何でもやろうとするところは、名付け親譲りだな。
少し遠くで、そんな声を聞いた。
2.
レイは、日記を持ったまま窓から路地裏へと出た。
すっかりと目が覚めていたため隣の部屋の会話が全て筒抜けで。
今は出て行けないと思った。
ハルトの所為なんかじゃない。
慰めではなくて、本当にそう思う。
自分で選んだのだ。
けれど今声を掛けたら全てが言い訳になってしまう気がして。
顔をあわせることなど、とても出来なかった。
神父になりたいという目標が変わってしまったわけではない。そうではなくて。
目指す場所が、今は違うのだ。教会と自分とでは。
(でもこれは……開けていいの、かな)
手の中にある分厚い日記帳を見つめて、レイは、もう何度も繰り返した自問を再びはじめた。
日記という者はそもそもプライベートのものだから、覗いていいものではない。
ストーンだって、持っていてもらいたいとは言ったが、読んでもいいとは言っていない。
結局またレイは、鍵を握りかけ、また放した。
シャトーの街の路地裏は、迷路のように入り組んでいる。
追っ手を撒いたり、隠れたりするのには都合がいいだろう。
それを考えると、この街が盗掘野郎たちの隠れ家になっていることも、頷けると思った。
事実、フレアと別れた後転がり込んだジェイクの家も、そんな路地裏にひっそりとある場所だった。
出てしまってから、はてここはどこだろう、とレイは思った。
細い路地がいくつも繋がっている。
とりあえずがやがやという雑踏を頼りに、大通りに出て、教会とは少し離れたところにある街の霊園に行ってみるつもりだった。
彼の墓のある場所へ。
路地は昼間だというのに酷く暗かった。
そこここに決して柄がいいとは言えない人間達が、しゃがみこみ、壁にもたれかかり、場違いな訪問者に一瞥を送る。
肌を舐めてゆくようなその視線に、レイは視線を逸らす。
戻ろうにも、もうどこをどう曲がったのか覚えていなかった。
「若い女が一人でこんなところに来るのは感心しねぇなぁ」
十字路に差し掛かったところで、右側の路地からいやらしい男の声が聞こえてきた。
先程からこの手の声は何度も聞いていたので、別段気にするつもりもなく。
レイは足早にそこを通り過ぎようとした。
「どうして欲しい? どこかに売り飛ばしてや……―――」
不自然に言葉が途切れ、どさりと何かが倒れる音。
思わずレイは、そちらへ目線を向けた。
―――黒豹。
すっぽりと黒の外套を身に纏った女がこちらを見ていた。地面には、脂肪だらけの男の体が横たわっている。
栗色の巻き毛と同じ色の瞳。睫毛は濃く長く、赤い口唇がひたすらに女を強調していた。
「立ち聞きは、感心しないけれど」
黒の外套にはべったりと、赤い色が散っていた。
女がこちらへと一歩を踏み出す。反射的に、レイはあとずさっていた。
「……殺しを見るのは初めて、みたいね。すっごく怯えた目をしてる。でもそういう目、嫌いじゃないわ。そそられるから」
たった今人を殺した人間とは思えない程の柔らかい笑みを浮かべ、女はレイに近づいた。
一歩あとずさったものの、それ以上レイは動けなかった。足に根が生えたよう、というのはこういうことだろうか。
女の妖艶な視線が、この体を絡め取ってゆく気がした。
「別に、大したことじゃないでしょう? 偽善者を気取るのは良くないわ。あたしたちの生活が、色々な骸の上に気付かれてることぐらい、話さなくたって分かるでしょう。弱いものは喰われるのよ。それは人も同じ。ねぇ? "レイくん"?」
瞳孔が開いてしまうほど。レイは瞳を見開いた。
初めて会ったこの女の口から、無造作に転がり落ちた自分の名前。
「貴方は……」
震える声で、そう呟くのが精一杯だった。
「マリア。貴方に用があって、探していたの」
にっこりと微笑み、マリアは、黒く塗りつぶされた長い爪が生えた手を、レイに伸ばした。
目に触れた指が、まるで死人にそうするように、目蓋を閉じさせた。
その上を、強すぎない力で押さえつける。
「力を抜いてね、そう、いい子ね」
抵抗しようと思えば、出来ない力ではなかった。しかし、抗えなかった。
押し当てられた掌と、自分の皮膚との境界が、少しずつ分からなくなってゆく。
「……さぁ、ゆっくり目を開けて。あたしの目を見るの」
柔らかい掌が離されて、真っ直ぐに見つめる栗色の瞳が見えた。
逆らえずに、その瞳の色に沈み込み、混濁してゆく意識。
マリアの口唇がゆっくりと動く。何を言っているのか、レイには分からなかった。
*
「ったく、あいつどこに行ったんだよ……」
玄関を通らずに。開け放たれた窓が如実に何が起こったのかを語っていた。
レイに倣って窓から外に出たハルトは、久しぶりに入り込むシャトーの路地裏を彷徨っていた。
変な奴に捕まってなければいいけど。
切り抜け方を知らないと、この路地裏は危ない。
危ないのは女子供だけではないのだ。
(あいつなんて、格好の"男娼宿"の餌食だ)
―――お前が振り回してるだけじゃないのか。
不意にジェイクの言葉が蘇って、ハルトはびくりと足を止めた。
―――私なら、大丈夫だよ。
無理に作った笑顔が脳裏を掠めた。
「……冗談じゃねぇよ」
近くの壁にだん、と拳を叩きつけ、搾り出すように悪態つく。
もう二度と、あんな思いはゴメンだ。
内側から怨念ばかりが染み出してくるような黒い壁が高くそびえたち、空はあまりに狭い。
人が二人擦れ違えればいいぐらいの狭い路地が延々と続く。
いつ来ても、息苦しい場所だ。
「くそっ、嫌なことばかり思い出しやがる……。早いとこレイを見つけて…………」
赤い瞳をめぐらせて辺りを見渡すと、視界の端に金色が映った。
決してどぎつくない、柔らかいその光は……。
「レイ!!」
叫んで、その路地に駆け込んだハルトの目に、予想外の人物がいた。
レイの肩に触れさせていた手を離し、悪戯が見つかった子供のように肩を竦めて見せる。
「あら残念。お迎えが来ちゃったみたいね」
真っ赤な口唇に、黒のマニキュア。あからさまに色気を強調するその姿。
娼婦? そう思って、ハルトは首をかしげる。
娼婦にしては、目の力が……、強すぎる。
「レイ!」
ぼーっと立ち尽くしているレイの方を後ろから掴んで、少し強めに揺さぶった。
すると、レイの体がびくりと震えて、怯えたように振り返る。
「……あ、ハルト」
「"あ、ハルト"じゃねぇよ。心配させやがって……。で? そちらのオネーサンは?」
どこか呆けたようなレイの反応に違和感を覚えつつも、ハルトは目の前の女に視点を移した。
「はじめましてハルトくん。あたしはマリアよ。用事があって貴方達を探してたの」
マリアは、そう呟きながら血の付いた外套の、左胸の辺りを広げて見せた。
黒い布地に鮮やかに浮かび上がる金十字。
「教会……!?」
「どうせなら、貴方達とは別の機会に会いたかったわ」
ばさりと外套を脱ぎ捨て、自らが肉に変えた男の上へと落とすと、マリアは歩き出した。
自分達の方へと近づいてくるマリアに、反射的に二人は身構えるが、マリアは何事もなかったかのように擦れ違った。
「……お前」
ハルトがその背中に問い掛けると、マリアは肩越しに少し振り返る。
「あたしの役目はおしまい。また会いましょ」
ヒラヒラと手を振って見せて、マリアは入り組んだ路地に消えていった。
マリアの姿が完全に見えなくなってから、ハルトはレイに向き直った。
「お前、なんかされたのか?」
「いや、別に……危害を加えられたりはしてない、と思う」
「なんだよ、その"思う"って」
「……何だか頭がぼおっとして……」
眠りすぎたあとに感じるあのだるさ。それに似た感覚が尾を引いて残っている。
「なんか悪いもんでも喰ったんじゃないのか?」
「ハルトじゃないんだから」
「俺だってするか。ま、とにかく戻ろうぜ。具合が悪いならなおさらだ」
「……ハルト」
さっさと背を向けて歩き出したハルトをレイが呼び止める。
「ん?」
軽く返事を返して、ハルトが振り返る。
「……あの、さっき……」
ジェイクの仕事場で聞いた言葉が蘇る。
別に迷惑だなんて思ってない。自分でついてきたんだ。
何度も頭の中で繰り返した言葉が、いざとなっては出てこなかった。
しどろもどろになっているレイに、ハルトは苦笑する。
「……悪ィ」
「え?」
「なんでもねぇよ」
小さく呟いたハルトの言葉は、レイの耳には届かなかった。
「それよかお前どうするつもりだったんだ? それに、手に持ってるソレなんなんだよ?」
辺りにクエスチョンマークを飛び散らせているレイに向かって、ハルトが話題を捻じ曲げた。
「えっと……」
まだ意識がはっきりとしていないのか、レイは自らの手に持っていたものに視線を落とす。
「霊園に、行こうと思ったんだ。神父の所に。……それでこれは、ストーンさんから貰った神父の、日記で」
とつとつと呟くレイの言葉に、ハルトは何度か頷く。
「それなら、窓から出るより玄関から出たほうが近いな」
嫌味のように呟いて、ハルトは元来た道を戻り始めた。
*
シャトーの街を出たマリアの前に、一台の黒い車が滑り込んできた。
訝しげに眉をひそめていると後部座席の窓が開き、見慣れた顔が現れた。
「やぁ」
華奢な眼鏡の奥の青い瞳がわずかに笑みを含んでいた。
「ごきげんよう、閣下」
眉間に寄せた皺を元に戻し、マリアは微笑んでみせる。
「カルチェ・ラタンに戻るなら、乗りなさい」
柔和に微笑み、内側から扉を開ける。
「迎えにきてくださったの?」
誘われるまま車に乗り込んだマリアが、色気を滲ませた視線を男に送った。
「いや? 悪いが野暮用のついでだよ。墓参りにね」
出してくれ、と運転席に声をかけ、男はマリアの視線を見つめ返す。
「あら珍しい。貴方でも誰かの死を悼むことがあるなんて」
「悼む? まさか」
「それならどうして?」
「自分が陥れた男の末路を、確認しに来ただけだよ」
男の瞳がわずかに笑みを含む。しかしそれは温度など少しも持っていなかった。
「怖い人」
溜息混じりに呟き、マリアは窓の外に視線を移した。
「君よりはましさ。君だって、仕事を終えてきたわけだろう」
「猊下のご命令ですもの」
「怖い人だね」
そうは思っていないくせに。欠片も思っていないくせに。
重みのない言葉を吐き出し、自分とは反対方向の窓の外を見つめる男に、マリアは心の中で吐き捨てた。
この男の考えていることが、マリアには分からない。また、分からなくても別にいいと思う。
(あたしが考えていればいいのは、あのひとのことだけだもの)
「怖い人……」
次第に街が遠ざかり、目の前には荒野が広がり始めていた。
3.
―――元気でな。
―――そっちこそ。
「ここに来るのも、随分久しぶりだな」
教会から少し離れた場所にある霊園に踏み入れ、辺りを見渡してハルトが言う。
等間隔に並べられた白い十字の墓標。広い敷地に敷き詰められたようなその光景は、いっそ壮観だ。
その奥に、少し高く土を盛られた場所。そこにファスト神父の墓があるはずだ。
ハルトが考古学の道へ、レイが神学の道へ。それぞれ別れる朝。
ここへ来て別れの挨拶とも言えない挨拶を交わした。
それからもう幾年が経ったろう。
まさかこんなときに、ここへ戻ってくるなんて思ってもみなかった。
二人で。
辺りを見渡すと新しく増えた墓標もある。当然だ、人は死ぬ。
ただ、少しの間この場所を離れていた寂しさが、漠然とあるだけ。
「どう思うだろうな〜、神父は。今の俺たち見て」
「……多分、想像は出来なかったと思うよ。こんなふうになるなんて」
「まぁなぁ。教会からお尋ねものになるなんて、半年前の自分だって考えてなかったぜ」
「嘘付けよ。いつも法スレスレで生きてきたくせに」
「言うね、お前も。…………?」
「ハルト?」
前を歩いていたハルトが急に足を止めた。不審に思ったレイが、その肩から前方を覗き込んだ。
白い十字架の墓標がひとつ。何も変わらないその情景に。
決して混ざってはいけない色が、ひとつ。
どす黒い赤の絵の具を。筆で乱暴に上からざっと流したように。斜めから。その十字架を彩っていた。
まだ乾き切らないその色が、あまりに鮮やかに網膜に焼きつく。
「……血」
その液体の名前が、レイの口から零れ落ちた。
その十字架の下に、小さな赤い池が。それが霊園の奥のほうへと点々と続いている。
自分達が目指していた場所へと、続いている。
道しるべのように、点々と。点々と……。
ファストの墓標の傍に……。
その軌跡をゆっくりと目で追ったレイの呼吸が、止まる。
あ、と。ハルトの口から間の抜けた喘ぎが零れ落ちた。
舐めるように地面を追った先。
―――黒い聖服。
(あの日と)
―――からだの下に広がる血だまり。
(あの日と同じだ)
見ちゃ駄目。そうやって庇われた大人と大人の壁の間から、見つめた鮮烈な。
情景。
今も目蓋の裏に残って消えない。
違うのは。ざあっと地面に広がった、まとまりを失った色素の薄い髪だけ。
「…………さ……」
反応を示すまで、驚くほど長い時間がかかった。怖いほど時間がかかった。
その名前を呼ぶまで。
「―――ストーンさん!!」
その声に弾かれたように、固まっていた体が動いた。
ハルトよりも先に。駆け寄ったレイが、ファスト神父の墓標の横に蹲っているストーンの体を抱き起こした。
地面についた膝を、血だまりの赫が侵食する。
「……レ……」
左脇腹を押さえたまま、ストーンがうっすらと瞳を持ち上げてレイを見た。
押さえた腹部から、今も尚溢れる赤いぬめり。
「ストーンさん! 一体何が……」
「……黒い……髪の、青い目の……男が…………、ここにいて……」
ひゅうひゅうと咽喉が鳴る。腹部から手を離し、ゆっくりと自分の視界にいれる。
ぼやけた視界に赤が。青白い手に赤が鮮やかだ。
「赤だ……」
「ストーンさん……?」
「―――あの日と同じだ……」
「ストーンさん……」
「神父を刺したのと、一緒……だ」
口の端から赤い流れが伝い落ちる。そのストーンの口元には、笑みさえ浮かんでいる。
「僕は本当はこうして……裁かれるのを、待っていたのかも、知れない……」
彼を殺したあの日から。戒めのように神父になって。
本当は。誰かが罵って、こんなふうに。凶器を突き立ててくれるのを待っていたのかもしれない。
「……これが、"救い"なのかも、しれない……」
「そんなのっ……!」
自らの掌を見つめ、まるで遺言のように零すストーンに向かって、レイが叫んだ。
近づこうとしたハルトの足が、止まった。
レイの声が、あまりに壮絶なほど、"痛み"を含んでいたから。
まるで引き裂かれるように。
「そんなのおかしいです……!」
タガが。ブレーキが。外れる音をレイは聞いた。
今まで脳裏で繰り返してきたあの日の情景と、今のストーンの状況があまりに同じで。
あの時はこの小さな手を伸ばしても、どうしようもなかった。
今も?
また繰り返すのか。
「どうして、貴方も神父もっ……! そんなふうに死ぬことばかりに"救い"を求めるんですか……っ……!」
ぱたぱたと、何かの雫が落ちたのに気付いた。自分の瞳から。
変だ。こんなのおかしい。第一どうして泣いているんだ。
悲しいとも違う、怒りとも違う。どうしようもない感情がせめぎ合い、涙腺が熱い。
「死ななければ救われないなら、どうして僕たちは生まれて……」
上擦った声が、言葉を途切れ途切れに千切った。こらえようにもこらえられない嗚咽が、噛み締めた口唇の隙間からぽろぽろと零れる。まるで涙のように。
「僕たちは、生きて救われなきゃ……、この世界で生きて救われなきゃ……。どうして……!」
―――どうして生まれてきたの。
死が解放なら。救いなら。
何のために。一体何のために。この世界に生まれてきたのだろう。
目の前でそんなふうに。諦めたように。目を閉じないで欲しい。
救いだと言って、置いていかないで欲しい。
遺された人々の悲しみを振り切って、楽になんて。
例えこれがエゴでも。
目の前で死なないで欲しい。
死ぬことで安らぐなんて。
「……そんなの、悲しい……!」
涙で視界がぼやけた。ストーンの顔が歪んだ。
そのとき初めてレイは、この体を突き上げる、感情の名前を知った。
―――寂しい。
*
「ギリギリセーフってところね」
町の外れにある医者のところに駆け込んで30分。診察室から出てきたショートカットの白衣美人が、腕を組んで溜息をつく。
「久しぶりに駆け込んできたと思ったら。全くあんたたちって面倒ごとしか担ぎ込まないんだから」
「リンカ先生、ストーンさんは……」
女医が診察室から出てくるのを見て、待合室の椅子に座っていたレイが慌てて立ちあがった。
「だから言ったでしょォ? ギリギリセーフって」
悲壮なまでに深刻な顔をしているレイの額に人差し指を突きつけて、からかうように言ってやる。
化粧ッ気のないさっぱりとした顔立ち。漆黒の髪に瞳の、シャトーの女医だ。
二人が幼い頃は、先代の医者に弟子入りしていたが、今では独立して開業医をしている。
「リンカ姉さん、変わんないね」
「あんたたちもね」
「ひでぇ。オトコマエになったとか、言うことないわけ」
「そういうことは、こっちを少しでも褒めてから言って」
「リンカ姉さん、美人になったね」
「……もう遅い。それとここは禁煙。それと……」
つかつかとハルトのところまで歩いてゆき、口元に銜えた煙草をひったくる。くるりと踵を返して戻ってくると、レイの腕を掴んだ。
「リンカ先生……?」
「怪我はない、みたいね。綺麗に洗ってらっしゃいよ。服も新しいの、調達したほうが良さそうね」
まじまじと掌を見詰めたあと、溜息とともにそう吐き出した。
「え?」
そう言われてみて改めて、レイは目の前に自分の両手を広げた。
「うわっ……」
真っ赤だった。それは当たり前だ。血塗れのストーンを抱え上げたのはレイだからだ。
今まで気付かなかっただけの話。
自分の体を見下ろす。服にところどころ散った赤が、渇いてどす黒く変色していた。
「誰が……」
自分の掌を見つめたまま、固まっているレイが呟いた。
「誰がやったんだろう」
「……"黒い髪に青い目の男"……か。知らねぇな」
壁にもたれかかったままのハルトがそっけなく返した。
「知ったところで、俺たちにはどうしようもないけどな」
「ハルト……!」
「だってそうだろう。同じ目に遭わせてやるか?」
「それでもっ……」
「取り込み中悪いけど、これ。ストーン神父が持ってたんだけど」
ハルトに掴みかかろうとするレイを宥めるように、リンカが間に入った。
二人の間に、鎖のようなものを吊るす。
チャリチャリと揺れるその先に、黄金の輝き。
「金十字の……ロザリオ……?」
聖職者のものとは微妙に装飾が違うそれ。長短二つの剣を組み合わせた形のロザリオ。
力の象徴。それは。
「……正規軍か」
リンカの手からそれを引ったくると、自分の手の中で見つめる。
剣を組み合わせたクロスの中央部に獅子の紋章。確かに正規軍のロザリオだ。
「先生〜、ココがケガしたの〜」
入り口の扉がうっすらと開き、小さな子供が顔を出した。
渋い顔をしている大人たちに、少し怯えたように扉を閉めようとする。
「あ、いいのよハル。入ってきて。……ほら、あんた達は邪魔よ。ストーン神父も大丈夫だし、考え事するなら他のところに行ってちょうだい」
「……冷てぇのな、リンカ姉さん」
「どこか怪我したら、手当てしてあげるわよ。……ま、ここに来ないほうがいいってことね」
「あ、リンカ先生、ありがとうございました」
「どーいたしまして。健康第一よ、気をつけなさいね」
二人を玄関から追い出して、リンカは勢いよく扉を閉めてしまった。
閉まるドアの隙間から、ひらひらと振られた手が見えた。
*
「また教会……か。くそっ……これじゃ余計に引くに引けねぇ……」
握り締めると、ぎり、と金属特有の軋み。
どうしてこう、ゆく先々に点々と。その存在を示すように現れるのか。
「……僕も」
途中で調達した外套で血に塗れた服を隠しながら、レイが口を開いた。
ロザリオを握り締めたまま、ハルトが目線だけをレイによこす。
「僕も引きたくない」
「レイ……」
「このままじゃ、このまま引き下がったんじゃ、絶対にあとで後悔する。"自分が"」
レイの言葉に、ハルトがぴたりと足を止めた。道の真ん中で。
向かい側から歩いてきた男と肩がぶつかるが、かまわない。
レイは、服の内側にかけてあるファストのロザリオに、服の上から触れた。
「僕は、連れまわされてるんじゃないから。自分で行くんだ」
―――お前が振り回してるだけじゃないのか。
「……やっぱり、しっかり聞いちゃってたワケか」
「え?」
「なんでもない。それならこれからのことを色々と考えよーぜ。とりあえずはジェイクのところに戻るか」
そっけないようなハルトの声にわずかに笑いが滲んでいたのは、レイの気のせいだったのだろうか。
4.
「とりあえず、満場一致だから、なんか情報くれ」
「……満場一致って、二人だけだろうが」
扉を足で開けはなつや否や、でかい態度で言い放つハルトに、テーブルに腰掛けていたジェイクが呆れたように眉をひそめる。
「まぁどうせ、何を言っても無駄だとは思っていたんだがな。何せ名付け親が名付け親だ……」
「それ以前に性格が屈折してるのよねぇ、親父さんの育て方が悪かったんじゃないの?」
「………………てめぇの酒癖も相当だ」
「煩いわね、借金王」
ジェイクの向かいに腰掛けていたフレアが、額に青筋を立てて立ち上がる。どうやら二日酔いは抜けたようだ。
「色々調べてきてあげた美人に向かってその言い草?」
「色々ってなんだよ」
空いている椅子に二人が腰掛けると、フレアは、ジェイクの方を向けて広げてあった紙を、二人のほうへ引き寄せた。
「昨日の色々な目撃情報やあんたたちの話と照らし合わせて調べてみました。これがあんたたちを追ってきた奴らね」
鮮やかな写真つきの資料が何枚にも渡ってクリップで留められている。
「銀髪美人さんが、ジャンヌ・ビレス。東軍大佐ね。で、こっちがその部下のアフライド・ゼイン。同じく東軍の中佐。いい? 言っとくけど、軍トップもいいところよ。あんたたち二人がなんでこんなオオモノに追われてるのかは知らないけど、引くなら今だからね」
「………………引かねぇ。もっと前向きな情報よこせ」
「……底なしのバカだわね」
やれやれ。フレアが大きな溜息を吐き出した。もうこうなってしまったら誰が何と言おうと聞きやしないのだ。
「南に、最近不穏な動きがある」
手元に古文書を広げたまま、まるで世間話のようにジェイクが口を切った。
「南?」
「教会の勢力が弱まりつつある。そのうえ、独自の宗教みたいなモンを始めようとしているらしい。それなのに、教会はあまり手を出していない。明らかに変だ。……こんなことをお前に言ったら黙ってるわけがないと思って、言わなかったんだが。もう無理だろ」
かたり。モノクルをはずして机の上に置いたジェイクが、真っ直ぐにハルトを見た。
「その町の名前は?」
ぐっと声のトーンを落として、ハルトが聞く。
「お前もよく知ってる町だ。発掘関係にゃやたら有名な町だぜ。何せ廃墟しかない。そのくせ、その廃墟がどういう町だったのか、何ひとつ明らかにされていない、謎の瓦礫だ」
「由来不明の……町」
レイがぽつりと零した。どこかで聞いたことがある。
巨大な都市の廃墟だけが横たわり、発掘すれどもすれども、その町が一体なんだったのか、何故滅びたのか、全く明らかにされない街が、南にあると。
「"あそこ"か」
手元にある資料をぱらぱらと捲りながら、ハルトが呟く。
目指すべき、新しい目的地。
滅びた町の名を。
「バベル」