MOTHER




 ただいまと、ひとこと。
 言う場所があればいい。
 たとえ血のつながりなんてなくても。
 おかえりと、ひとこと。
 言ってくれればそれでいい。
 そんな場所を、ずっとずっと探している。
 還る場所を探している。



1.

 記憶の中の家は、酷く暗い。
 母親の顔、覚えてない。きーきー、まるで動物みたいな叫び声、金切り声。
 殴る音。倒れる音。シンジマエ。絶叫とか。そのあと。
 泣き声。

 それだけ。

 気がついたら薄汚れた酒場の二階で、男の相手、するようになった。
 体賭けて、生命がけで稼いだ金。父親の胃の中に、酒になって消えた。
 あたし、何してるんだろ。何のために生きてんだろ。
 何のために生まれてきたんだろ。
 不味そうにアルコールを嚥下する目の前のイキモノ。何で生きてんだろ。
『死ねよ』
 言ってみた。笑って言ってみた。
 目蓋の上、蒼いシャドーを引いて。マスカラ丁寧に塗って、ビューラーで上げて。
 チェリーみたいなどす黒い口紅で綺麗にした顔で。笑って言った。
 もう、見てて可哀相だよ。
 どうすんの、枯れたままで。このまま。
 生きてけんの? 死んだままで。
 ナマナマシイ欲望、この体で全部受け止めて飲み干して。それで。
 生まれた金で飲む酒が美味いかよ。娘にさぁ、カラダ、売らせて。
 楽になんなよ。楽にしてよ。

 引いた引き金。どすりと鈍い音。硝煙の匂い、けむい。
 飛び散った血がわずかに頬にかかったけど、気にしない。あたし元から、ぐちゃぐちゃだもん。

 頬に散った血を指でなぞってみる。この血の半分、この体に流れてるんだ。不思議だな。
 ぬぐったはずなのに、頬がずっと濡れてた。
 なんでだろう。何度も頬を拭った。
 そこではじめてあたしは、泣いてたのに気がついた。
 ガキみたいに大声上げて、笑いながら泣いた。

 それからあと、生活なんて何ひとつ変わんなかった。
 相変わらずあたしが切り売りできるものはこの身ひとつで。
 父親に払う金がなくなった分、少しは自由に出来たけどそんなの、何にもならなかった。
 みんな優しい人ばっかりだよ。お金くれるし。だけど。
 夜だけ。
 朝がきたら解けるマホウ。みんな行くところがある。還るところがある。
 ただいま、って。おかえり、って。そんな挨拶交わす場所がある。
 あたしには無いし。持ち物、なにも無いし。重くないけど、寒かった。
 ある晩、べろべろに酔った男が、訳わかんないこと喚きながらあたしのこと殴ったから、お返しに噛み付いてやった。
 そしたら酒場のオヤジが怒って、スリップドレス一枚のあたしを路上に投げ出した。真冬。

 路地裏で蹲って、ハラハラ落ちてくる雪をじっと見た。
 かみさま。
 急にその人のことを思い出して、名前を呼んでみた。
 今、奇跡起こしてくれたらあたし、あんたのこと信じてもいいよ。
 あんたのために死んでもいいよ。
 そしたら奇跡、起きた。
 かみさまは、天使をくれた。
 金の髪、青い瞳。翼なんて無くても、完璧だった。
 おいで、って。天使が手を差し伸べてくれた。
 いいの? 居場所くれるの? あたし、貴方の傍に居てもいい?
 暖かい手に、自分の手を重ねた瞬間、情けないぐらい涙溢れて、止まらなかった。
 あったかくて、ほっとして。涙、止まらないまま。誓った。

 かみさま、あたし、このひとのために死ぬよ。


            *


「大佐、お休みのところ申し訳ありませんが、通信が入っております」
 後部座席でゆっくり、目蓋を持ち上げた。車は相変わらず動いたまま。
 顔に覆い被さった茶色のウエーブの髪を、乱暴に後ろに掻きやる。
 助手席の男が体を半ばこちらに向けて顔色を窺っていた。
「誰から?」
 気だるい流し目で訊いた。男はこの目に弱い。
「あ、あの、東軍大将のミカエル様から」
「え?」
 男が思ったとおりの戸惑ったような反応を返したことも別に気にならないぐらい。告げられた名前があまりに意外で、素で訊き返してしまった。
「貸して」
 差し出された男の手から通信機を奪い取る。綺麗に伸ばした爪が部下の手を引っ掻いたような気がするが、気にする余裕はない。
《やぁ》
「どうしたの?」
 耳元で高くて愛らしい少年の声が響いた。
《君がね、ソドムに向かってるらしいってこと、聞いたから》
「相変わらず情報早いのね。そういう強かなところもあたし、好きだけど」
 マリアはよく嘘をつくけれど、これは嘘ではなかった。
 姿かたちは少年にしか見えない、それでいて酷く切れもののこの軍大将は、人を優しくさせるオーラを持っていた。
 人によってはそれがあまりに眩しすぎて、目を背けてしまいたくなるらしいが、マリアは好きだった。
 やわらかいひかり。
《"君がやったんだ"?》
 責めるふうでもなく、ただの質問。けれど言い逃れは出来ない、不思議な声。
「うん、猊下のメイレイ。……すぐ分かっちゃった?」
《なんとなく。空気がね、違っててさ》
「そっか。エルには適わないわね……」
《それでね、君がもしあの子たちに会いたいんだったら、ソドムじゃダメだよって、言おうと思って》
「どういうこと……?」
《捕まえちゃった》
 まるでそこら辺を飛んでいた昆虫を捕まえてしまったかのような気軽さで。右の耳の先でミカエルが言うので。
 ぽかんと口を開けたままの間抜けな顔で、マリアは黙り込んでしまった。
 数秒間の、不思議な沈黙。
「……捕まえた……?」
《あれ、もう知ってると思ったのに》
 間抜けな声に、意外だとばかりの声が返った。
「どうやって……、まぁいいんだけど、どこなの?」
 うん、と一度頷いてから耳元で幼い声が告げる地名に、マリアは整えた綺麗な眉をひそめた。
 じゃあね〜。
 愛らしい声が愛らしく言って通話は切れた。
 ぶつりと大きな音。そのあと、さーと、砂が流れるような音が続いた。
 しばらくそれに耳を傾けたあと。
 インカムを頭から引き摺り下ろして、広い後部座席の、誰もいない隣に投げ出した。
「針路変更よ」
 胸の前で腕を組み、足を優雅に組み替えて、溜息ごとマリアは吐き出した。
 どちらへ。
 助手席の部下が振り返り、上司の顔をうかがう。
 マリアはその視線を頬の辺りで受け止め、目を合わせないまま、告げた。

「ゴルゴダ」


            *


―――おかしいのよ、こんなの。何もかもがおかしいの、狂ってるのよ。

 泣き喚くその声が、鼓膜のすぐ傍。
 しがみつき、背中に回る華奢で細い腕。縋りつくように服を握った。

―――愛してるわ。だけど、それだけじゃ駄目なのよ。私と貴方、位置が違う。立場が。
    狂ったものを直すためには、一から組み直さないといけないのよ。たとえ血が流れても。

 がり、と背中に触れた指が爪を立てた。その痛みがまるで、責めているよう。
 遠い記憶。だけど鮮明。それが全て。

 一人きりの部屋に、ずっと、合唱が流れている。
 第九。
 耳を傾けながらベッドの上でうつぶせる。視界に混ざってくる金の巻き毛。
「告解を……」
 呟いた声は、喜びの歌に掻き消された。開いたままの窓から容赦無く吹き込む風が、白いカーテンを揺らし、歓喜の歌声を外へと連れ去ってゆく。

 神を信じるものよ、告解を。
 どうか懺悔を聞いてください。

「―――私は罪を、犯しました」



2.

―――こんなのって、ないよ。

 ぶちぶち、嗚咽で千切れた声が、吹きぬける風にかき消されそうになる。
 舗装の成されていない道路の真ん中に座り込んだまま、ぼんやりと赤い血だまりを見る小さな背中。
 半径5メートル。見えないバリアが張られているみたいで、近づけなかった。

―――なんでこんな……。

 その先を、女の子みたいな金髪の少年は続けずに黙った。
 走ってくる途中で転んだのだろうか、服はところどころ土で汚れていた。
(神父の血なんだ)
 地面に座り込んだレイの向こう側、地面に半ば吸収されて、あんまり生々しくない血だまりが見えた。
 赤よりももっと濃い絵の具をぶちまけたみたいだった。
(俺の目のが、赤い)
 既に黒くなりつつあるその跡を見て、ふと思った。俺のほうが赤い。

 ねぇ神父、なんで俺の目ってさ、赤いのかな。
 斜め上から差し込む光。赤青黄色のステンドグラスが綺麗だった。
 教会の聖堂の中、ステンドグラスが鮮やかな絵を描くところに立ち、見上げて聞いたことがある。
 何でって、遺伝子だろう。
 傍で本を読んでいた捻くれた聖職者が、あまりにもあっさりと正論を吐くので。子供ながらにかちんとキたのを憶えている。
 そりゃそうだけどさ! まさか神父がそんな「どくそうせい」のないこというなんて思わなかった!
 ハルト、独創性の意味を分かってて使ってる? 使い方は間違ってないけど。
 オレが言いたいのは、なんで赤い目がこの世にあるのかってこと! めずらしいし。めったにないし!

―――珍しいのは、悪いことじゃないよ。

 その一言を、一瞬たりとも忘れたことなど無かった。
 黒い髪に赤い瞳は種族的にとても珍しくて。
 一部の地域では悪魔のシンボルとさえされていて。
 周りを見渡しても同じ容姿の人間なんて、狭い村には誰もいなかった。
 その他の人と共有する"どこか"がないのは酷く寂しくて、孤独だった。
 自分だけ蚊帳の外。仲間はずれ。誰もそんなこと言わないのに、自分から、どこか拒絶するところをつくっていた。
 血のように濡れた瞳を、嫌悪してすら、いた。
 "悪いことじゃないよ。"
 馬鹿みたいにほっとした。
 お前は悪くないよ。

 突然伸びてきた手の甲が―――殴られるのかと思った―――少し強い力で頬を擦った。
 目が腫れても知らないよ。
 困ったように笑う、不良神父の顔が、ぼやけていた。
 そうしたらもっと、ぼろぼろ、止まらなくて、情けなくて、大声で虚勢張った。
 元々目、赤いから、腫れたってわかんないんだよ。
 へりくつ。
 そうだね。神父は笑ってた。
 笑ってた。3日前。なのに今。
 目の前に錆びた赤い血痕残して、もうどこにもいないなんて。
 どこにもいない、なんて。
 蹲ってしゃくりあげる小さな背中が、視界の中で急にぼやけた。
 今更、染みてきて、どうしようもないぐらい胸が詰まった。

 死んだんだ。
 もうどこにもいない。

 うそだろ。掠れた声が聞こえた。一枚壁を隔てた向こうみたいに遠く。自分の声なのに。
 すっかり日が落ちて、辺りは薄暗く。通り抜ける風が冷たい。
 ざぁっと肌を撫でてゆくような風、そんな小さな力に押されて、がくりと膝が崩れた。
 こんなのって、ないよな、レイ。
 本当にそうだよ。


            *


 はじめに感じたのは冷たさだった。
 右の頬の下、冷たくて硬いものが当たっている。
(冷てぇ……)
 ぼんやりとそう思う。やけに重い目蓋を押し開けると、白い壁が見えた。
 体が重くて動かないので、視線だけを辺りに滑らせると、自分はどうやら真っ白なコンクリートの上にうつぶせに転がされているのだということを辛うじて悟る。
 冷たいのは、頬に当たるコンクリート。
 地面に張り付くようにぐったりとしている両腕を動かそうと少し力を入れてみるものの、あんまりうまくはいかなかった。
(オイオイ、随分強い麻酔だな)
 職業柄、色々な修羅場とやらをくぐってきたハルトは、多少の毒や麻酔はもはや受け付けない体になっているはずなのに。
 その自分がこうも動けない体になるなんて。
(あいつ、大丈夫だろうな)
 温室育ちの神父見習いを思い浮かべて、ハルトは血の気が引く思いだった。
 少なくとも同じ部屋にはいないみたいだし。
 かすみのかかった頭で色々考えてみたものの、どうもまとまらなくてすぐに止めた。

 考えることをやめたら急に、目覚める前に見た夢を思い出した。
 ファストが殺されたと聞いて孤児院を飛び出し、夕暮れの街道で座り込むレイを見つけたとき。
 会ったら、どうやって慰めてやろう。
 街道に向かって走っている間は、レイのことしか考えていなかった。
 どんな言葉をかけよう。
 けれど。既に渇きかけた血だまりを目にした瞬間。
 用意してきたはずの生ぬるい言葉は全部消えうせて、なにものにも埋められない喪失感が体中を支配した。
 見ようとしなかっただけで、気付かなかっただけで本当は。
 自分だって傷ついていた。痛みが麻痺するほど。
 ズタズタに。

 生命がいつか消えること、そのとき初めて"体"で知った。

 なんで急にあんな夢を見たんだろう?
 記憶の片隅に埋もれていたはずの思い出なのに……。
 ファスト神父の死……。
(―――死ぬ……か。あんまソレ、考えたくねぇや)
 体を捩ってみたがうまく動かなかったので、ハルトはもう一眠りすることにした。
 ちょうどいい具合に目蓋も重いし。
「ソフィア……」
 久しぶりに口に出した名前は甘いようで苦かった。

 ゆっくりと意識が落ちてゆく。
 会いたい、なんて子供じみたことをふと、思ってしまった。


            *


 一体何が悪かったんだろう。
 ベッドの上、仰向けに寝て―――寝かされてといったほうが正しいかもしれない、体動かないし―――天井を見上げていた。
 気がついたら、体は一切動かない上、ひどい頭痛に苛まれ、意識も朦朧としていた。
 撃たれたはずの傷は、手当てされていたけれども。

 何が悪かったんだろう。
 天井を見続けたまま、またぼんやりと繰り返した。
 騙されたんだ。あの小さな子に。
 栗色の髪と金の瞳をした、あの一見愛らしい少年に。
 だって、撃たれて拉致までされたのだ。
 可愛い顔をして、酷いことするんだ。
 それ以前に、追われてる立場だって言うのに、子供だからって簡単に信用するハルトが悪い。
 そもそもハルトが「蝶が見たい」なんてソドムに来るのがいけないんだ。
 考えれば考えるほど、苛々してしょうがない。
 何で僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
 そうだ。ハルトに付き合い始めてからだ。全てがおかしくなり始めたのは。
 来なければよかった。

 ぐるぐるぐるぐる。
 マイナスの感情ばかりが渦巻いて吐き気すら催した。
 痛い思いとか辛い思いとか、ここ最近多すぎる。それもこれもどれも。
 僕のせいじゃないし。
 "悪くないし"。

 考えれば考えるほど。
 自分を正当化しようとする。この不可思議な感情はなんだろう。
 開いたままの目が乾き始めたので目蓋を閉ざす。
 その裏に広がる闇に、鮮やかな赤が浮かび上がった。

―――ナリナサイ。

 綺麗に塗られた真っ赤な口唇。声を出さずに囁く。

―――モット、自分ニ素直ニ、ナリナサイ。



3.

 他の扉よりも少し重厚に作られている扉を押し開けた途端、耳に突き刺さってくるような音に、思わず顔をしかめた。
 折り重なるたくさんの声、声、声に。
 まるで上からぺしゃんこに潰されそうだ。
 高く、低く、重低音、ソプラノ。折り重なり紡ぎ合う、うた。
「凄い音量だね」
 小さな手で耳を覆いながら、ミカエルは、窓際に立つ人物に叫んだ。歌に、声を掻き消されないように。
「耳遠いの?」
「年寄りだからね、私は」
 苦笑したのだろうか、口元が少し嘲るように歪んでいた。
 合唱に掻き消されそうになるその声を、ミカエルは辛うじて拾う。
 まだ開いたままの扉から、外へ容赦無く歌が漏れてゆくので、ミカエルは耳を塞いだまま背中でその扉を閉めた。
 小さな足でステレオの傍まで行くと、音量を自分の耐えられるレベルまで下げた。
「おかえり」
 ようやく耳から手を離したミカエルに、部屋の主であるラジエル・エレアザール大司教は酷く物腰の柔らかい笑みを向けた。
「ただいま」
 まるで天使のように、という表現がぴったりはまるような笑顔を返し、ミカエルは平然と、この部屋の主のデスクに座った。
 回転可能な椅子をくるりと、ラジエルの方に向けた。
「どうしてだろうね、ラジエル」
 リピートがかかっているのか、一度は終わった歌が再び初めから流れ始めた。
「何がだい?」
「君の、助けになってくれそうな人や、君を……理解してくれそうな人は、どうしてみんな、反対側の岸辺に立ってるんだろうと、思ったんだよ」
「あの二人のことか」
「それだけじゃない」
 ミカエルは、首都カルチェ・ラタンの中心にあるこの教皇庁に来るために正装しなおした、自分の特注の軍服に目線を落とした。
 胸元には、聖職者達とは違う、二本の剣を組み合わせた形のロザリオがあった。軍属のしるし。
 いつまで経っても大きくなる兆候すらないその指を、自分の手には余るほどのロザリオに、絡める。
「今までも、ずっと、ずっと、そうだよ。どうしていつも……」
「私は神に見捨てられたのさ」
 道化のように両手を広げて、ラジエルがいつものように笑った。
 いつから、嘲りが「いつものように」になったのだろう。ぼんやりとミカエルは思う。
 自嘲することが普通に、なったのだろう。

―――ヒガシとニシ、あんま、仲良くないけどさ。

 いつだったか忘れた。会議の後、隣に座っていたマリアが耳打ちしてきた。
 東軍と西軍、あまり仲良くないけど。
―――あたしはエルのこと、嫌いじゃないよ。
 あたしはこんなふうに、はみ出し者だし、色んなところから睨まれてるし、西はなんか、変な奴多いけどさ。
―――だってエル、ラジエルのこと、好きでしょ。
 綺麗に塗ったスクエアカットの爪を口元に当てて、まるで内緒話みたいにこそこそと耳に囁いた。
 あのね、マリア。そういう誤解される表現は止めてよ。いいながら、否定はしなかった。
―――いいじゃん。見てれば分かるよ。コイとかアイとか、そーゆーのじゃなくてさ、"大事"だよね?
 うん、そうだね。頷くと、マリアが笑った。
―――あたし馬鹿だし、裏のこととか詳しく知らないし、きっと言われたってわかんないだろうけどさ。飢えてるところ、分かるんだよ。
 寂しそうな顔で、マリアは続けた。会議室には何時の間にか、ふたりだけになっていた。
―――ツライの押し殺して、一人でしょって、表はキレイで、背中血だらけなの見てるとさ。どうして、みんな分かってくれないんだろうって、いやになる。
 抱き締めてあげたいって、思うんだよ。だけどあのひとは、遠くにいるからなんだか、つかめなくて。
(君はね、自分で馬鹿だ馬鹿だって言うけど)
 なんだか子供みたいな顔で喋るマリアの横顔に、心の中で言った。
 もしかしたら誰より、あの人のこと分かってるのかもしれないよ。知識や教養は確かに、必要なものだけれど。
 こころを理解できることが、もっと大事なんじゃないのかな。例えばそう、彼の、背中の傷を感じることが出来ることとか。
 言葉にしては、言わなかった。
―――あたし、もう知ってると思うけど、ラジエルに拾われたんだ。
 心地のよいふかふかの背もたれに体重を預けて、マリアは会議室の天井を仰いだ。目を閉じると、丁寧にマスカラを塗った濃い睫毛が、目の下に影を落とした。
―――あたしあの人のこと天使みたいだって思った。ドブの中から、引き上げてくれて。あたしその手の温度、絶対忘れない。
 だから、エルがね、凄くあの人のこと大事なんだってわかって、凄く嬉しかった。嬉しかったんだよ。
 同志を見つけたような気がして。なんていいながら、マリアは共犯者を見つけたような顔をした。
―――だからあたしたち、「仲良し」だよね?
 間に、"すきなもの"挟んでさ、なんかそういう関係って、いいもんね。
 そう言って笑ったマリアの顔は、いつもの妖艶さはすっかり消えうせて、無邪気な子供みたいだった。

「それで、お前が探していたものは見つかったのか?」
 回想から引きずり戻されたミカエルは、何度か瞬きをして現実に標準をあわせた。
「え、あ、うん。それがね、もうちょっとだったんだけどね……」
 こちらを見ているラジエルの瞳と真っ直ぐぶつかった。冷たい氷のような、青い瞳。
(僕もね、マリア。実は、天使みたいだって、思ったことがあるんだ)
「お前はどうして、そんなに化石にこだわる」
 咎めるわけではなくて、本当に不思議に思っているような声だった。
「こだわってるわけじゃないよ、好きなんだ」
 どうしてと、彫刻のような顔が聞きたがっているから。
「化石は、多くのこと言わない。本当のことしか言わないから。好きだよ」
 ラジエルが、分からないというように少し眉をひそめたので、自分も笑った。
「本当はね、君に、出会わなければよかったって、今でも時々そう思うことがあるんだよ」
 pp(ピアニシモ)からff(フォルテシモ)。
 歌がずっと、繰り返し響いている。波のように。
「今からでも遅くないだろう。離れたければ離れればいい」
 何ひとつ執着するものがないように、冷めた顔で大司教猊下が言い放つ。
 困った人だよね。
「僕は、離れたいって言ったんじゃないよ。"出会わなければよかった"って言ったんだよ」
 その差が分からないのか、相手はまだ不思議そうな顔をしている。

 もう出会っちゃったんだから。
「もう遅いよ」

―――あたし、あの人のためだったら、なんだってできるんだ。
 マリアの笑顔を思い出した。
 そうだね。ここがもう僕の、帰る場所になってるんだ。


            *


 どくどくとうるさいのは。
 体の中から熱いものが流れて落ちてゆく音だ。
 ガキが。
 怒鳴りながら殴られた。ガキ相手に、手加減なしで。
 体中、切り傷擦り傷、弾丸が掠った傷でいっぱいで、ボロボロだった。
 新参者だからって、少しは手加減してくれればいいのに。
 痛みをどこか遠くで感じたまま、心の中で悪態をついた。
 痛みが遠いのは、あんまりいいことじゃない。意識が朦朧としている証拠だ。
 額に浮いた脂汗と、頭の傷から溢れた血とが混ざり合って、目に染みた。
 微妙に赤く染まった視界の中で、明かりを見つける。
 街外れの、一軒家。
 もう足を支えられなくて、扉にどん、とぶち当たって崩れ落ちた。
『だれ?』
 扉一枚隔てた向こうから聞こえてきたのは、若い女の声だった。
 少しして、扉が押し開けられた。そこに投げ出した体が、少し押される。
 急に脇腹に痛みが走って、「くそっ……」悪態が漏れた。
『何してるの?』
 家の内側から漏れてくる光に照らし出されたのは、蜂蜜色の髪だった。
 別段怯える風もなく、見下ろしてくる瞳は鳶色。
 白衣を着た若いオンナ。でも多分、自分より年上。
 ホルスターからピストルを引き抜いて、相手に向けた。
 だけどその女は、人込みで知り合いを見つけたときぐらいの、そんな驚き方しかしなかった。
 目を少し見開いただけ。
『撃たれたくなかったら、傷の手当て……』
『そんな震える手で、撃てる訳ないでしょう』
 目線を合わせるように、女がしゃがみこんだ。
 既に安全装置も外して、すぐにでも発砲できるピストルを、上からゆっくり掴んだ。
『離して』
 怒られたわけじゃないのに、怒鳴られたわけじゃないのに、何故か体が震えた。
『離しなさい』
 それでもピストルを握ったままでいると、今度は少し強い口調で言われた。
 次の瞬間、ピストルは取り上げられ、丸腰になった自分がいた。
『中まで立って、歩いてもらわないと困るんだけど。私じゃ運べないから。それと名前』
 立ち上がって、腰に手を当てて、少し首をかしげる。まだ子供みたいな顔。
 呆気にとられて、素直に名前を告げた。ハルト。
『そ。私はここで医者をしてるの。ソフィアよ、よろしくね』
 差し出された手に自分の手を重ねる。ぐっと引っ張られて立ち上がった。
 その温度を、今も覚えている。

『それで追われてたの? 大変ね、発掘稼業も』
『古文書ひとつ、見せてくれたってバチあたんねーっつーの』
 この星中に点在する遺跡の場所を記した記録。しかも本物じゃなくて写本なのに。
 養い親だったジェイクの家を出て、情報を頼りにふらふらと色々な街を彷徨っている途中だった。
 蝶を探して。
『蝶を追っかけてるの?』
『うん、イキガイ。あんたは?』
『今やってるじゃない』
『医者?』
 手当てを終えた後の医療道具を棚にしまいながら、ソフィアが笑って見せた。
『なによ、医者なんて別に夢も希望もないっていう顔してるわね』
 そりゃ、蝶を追っかけるよりはロマンがないかもしれないけど。
 少し落胆気味のハルトに、ソフィアは不機嫌そうに頬を膨らませて見せた。
『私の生まれた村は、貧しいところで。近くにもちろん医者なんていないんだから』
 ハルトが横たわった診療室のベッドの傍に椅子を引いてきて、ソフィアはそこに座った。
『その上貧しいから、医者に払える治療費もなくて。これだけ科学とか医療とか進んでる時代に、病気になったら死ぬっていう図式ができてるところだった。父親も母親も妹とかも、流行り病で死んじゃって、そのとき思ったんだ。この村にも、医者がいたらなーって』
 ね? 立派な夢や希望でしょう。
 勝ち誇ったような顔で笑う彼女は、自分より年上のはずなのに、子供みたいに見えた。
『まぁ、母がちょっと看護の知識があったから、ってのも、あるんだけどね』
『母親……か』
 体のあちこちに巻かれた包帯に視線を落として、ぽつりと呟くハルトに、ソフィアは不思議そうに首をかしげた。
『俺捨てられっ子だから、そーゆーとこ、分かんないんだよね。別にそれがイヤだとか、思ってるわけじゃねーけど』
 どっか、普通の人にはあるものが、欠けてる感じ。
 足りない感じ。
『だって、ずっとひとりで生きてきたわけじゃないでしょう』
『そりゃそうだけど。なんかさ、"要らない"って言われたわけじゃん、それはショックだよね』
 なんで初対面の相手にこんなにムキになってんだろ。不思議だ。
『代わりに、"要る"って言ってくれた人だって、いるでしょ。ほら、思い浮かべてみなさいよ』
 促されるまま、面影を思い浮かべた。何故か癪なことに、一番最初に浮かんできたのが幼なじみだった。
 あいつどうしてるんだろう、カルチェ・ラタンの大学にかよってるんだったっけか?
 そのあと、神父の顔が浮かんだ。蝶の図鑑、貰った時の少し困ったような笑い顔。
 ジェイクとか、孤児院の仲間とか、シスターとか。
『ふたりより多かったでしょ』
 目の前にピースサインを差し出して、まるで勝ち誇ったようにソフィアが笑った。どうやら指は"2"を意味するらしい。
 確かに。こくりと首を前に倒した。
『じゃあ、損してないね』
『損?』
『親はふたりだもん。それ以上の人に必要とされてたら、モトは取ってるでしょ』
 モト。だなんて。変なこと言うな。
 だけどなんだか、落ち着く。
 前にも感じたことがある温度だった。誰だったっけ。そのときは結局、分からなかった。

(ああそっか、似てたんだ。変な言葉使って、まるで詐欺するみたいに、心の刺を抜いちまう"技"が)
(ファスト神父に)


            *


 がしゃん。
 耳障りな音で、レイは目を覚ました。
 金属で出来ている安っぽい扉が、荒々しく開かれて、そして閉められたところだった。
 先程よりかは幾分軽くなった目蓋を押し上げる。体はまだだるかったが、動かせない程でもない。
「よ。お目覚めはいかがかな」
 まだ少し霞む視界で声の方を追うと、自分と同じ色の髪が見えた。
 誰だったっけ。この黒い服を身に纏った、柄の悪い男は?
 銀髪の上司といつも一緒にいるせいか、単品で目の前に持ち出されると、どうも認識し辛かった。
「これ、お前の荷物な。宿屋に置いたままだったの」
 どさりと、部屋の中にひとつだけ置かれている机に、レイの荷物を乗せる。
「なんで……」
 何でそんなふうに、優しいフリをして見せるのだろう。
 敵なら敵らしく、もっと酷いことをすればいいのに。どうしてそんなふうに、優しいフリをして後でもっと傷つけるんだろう。
 裏切るんだろう。ひどい。
 どうせまた騙すんだ。騙されない。
「俺の計らいじゃねぇよ。うちの上司。会っただろ。ちびっこいのに」
「上司……?」
 とろとろとまるで溶けそうな意識の中で、必死に面影を手繰り寄せる。
 茶色の髪に金の瞳……。あどけない顔で、人を簡単に丸め込んで、騙して。
「アレが、うちのとこの大将だ。ミカエル・シャイアティーン」
「……名前なんて、関係ない」
 軍属の男から目を逸らして、少しくすんだ白い天井に首を戻した。
 呟いた声がやけにかすれていて、びっくりした。自分の声じゃないみたいだ。
「そうやっていつも、優しいフリをしてそのあと突き落とすんだ。落とされたほうがどんなに痛いかとか、知らないで。ひどいよ」
 最近、感情の制御装置が外れているような気がする。
 思ったことが、吟味もしないままぼろぼろと、すぐに口唇から零れ落ちてゆく。
 言わなきゃいいことまで、どんどん。
 心に留めておけない。

(アフライド。あの、金髪の子の方、ちょっと気をつけてあげて)
 一足先に帰るからと自分をここに置き去りにした上司を思い出した。
(ちょっと、なんだか雰囲気が不安定だから。もしかしたら、マリアかも)

「ま、とりあえずここに置いとくからな」
「殺さないの?」
 踵を返しかけた足が、釘付けになったように動かなくなった。
 驚いてベッドのほうに顔を向けると、レイは相変わらず天井を仰いだままでいた。
「そうやって、引き伸ばして、どうするの? 優しくないよね」
 端正な口元が歪んだような気がした。あんな笑い方、する奴だったか。
 そう何度も顔を合わせたわけではないが、もっと明るくて柔和だったはずなのに。
「真綿でどんどん、首を締めてく感じが……。残酷だよね」
「どうしたんだお前」
 つい、訊いてしまっていた。
 僕が目指すのはそんなところじゃない。教会に屈しようとしなかったあの強い碧の瞳が今は何故か。
 淀んで見えた。
 レイは答えなかった。相変わらず天井を見上げたままのその姿から目を逸らし、アフライドは部屋を出た。

 がちゃん。
 また、同じように、扉が閉まる音。


            *


『ただいま〜』
 両手いっぱいの荷物を抱え、何とか玄関のドアを開く。
『あ、お疲れ様』
『つーか、マジ重い。人使いアライ』
 テーブルの上に買ってきたものをどさどさと下ろし、椅子にどっかりと座り込む。
『あはは、ご苦労様〜。そう言えば、ルードが呼んでたよ。ちょっと現場に来いって』
 買いもの袋の中を確認しながら、ソフィアが横目でこっちを見た。
『うわ、よりにもよってルードかよ、最悪』
『仲悪いの?』
『別に仲悪いとかじゃねーけど、一方的に目のカタキ。一応ナカマには入れてもらったけどさ、まだまだ雑用ばっか』
『進歩じゃない』
 がさがさと品物を片付けながら、全然気にするそぶりもなく言う。
 慰めてくれたりとか、しないんだ。
 なんて、ガキみたいなことを思ったりして。
 頑張れとか、挫けるなとか、そんな一辺倒な言葉を彼女は使わない。
『なー知ってる? ルードってさ、お前のこと好きだぜ?』
『……突然何を言い出すかと思えば。馬鹿なこと言ってるんじゃないの』
『ちなみに俺も』
 ぴたりと、戸棚にものをしまっていたソフィアの手が止まった。
 成功。
 あんまり物事に動じない、驚かない彼女を、一瞬だけでも驚かせたことが少し嬉しかった。
『だから、ルードがなんで俺のこと目の敵にしてるかとか、分かっちゃうんだよね』
 怪我を手当てしてもらったあと、いついてしまった自分が邪魔なんだろう。
『変なこと言わないで……』
『好きだよ』
 分かりにくくて複雑で、何ひとつ簡単じゃないけど。
 人って。
 機械みたいにうまくいかないけど。

 貴方が好きだよ。


『あーあ、もう赫月の月に入っちゃうんだ……』
 窓から空を見上げて、本当に残念そうな溜め息をつく。
『なんだか気持ち悪いから、赫月はきらい。血みたい』
『あのさ、俺の目も赤いんだけど』
『ハルトの目は別』
 特別。そう言われた気がして嬉しかった。
 どうしようもなくガキで、小さなことが嬉しくて、小さなことが癪に障った。
 もう何年前になるんだろう。思い出すのも億劫なぐらい、遠い気がする。
 けれど確かに、息が詰まるほど好きだった、それだけは。
 変わらない真実だって、分かってる。本能で。



4.

「もぉ〜〜〜っ!! いい加減にしてください〜! これじゃ賽の河原じゃないですか〜っ!!」
「ゴメンネ? 僕もこんな風にするつもりじゃなかったんだけど」
「分かってますよ、分かってますってば! 隊長が、自分の専門分野以外は全く何も出来ない人だってことぐらい分かってますけど!」
「その言い草、ひどいよ。僕泣いちゃう」
「ひどいって分かってるから言ってるんです!!」

 どすどすと言葉の雷が、狭いテントの中、何度も落ちていた。
 入り口に呆然とたたずんだまま、リョウコが事の成り行きを見守っていると。
「またやってる? 痴話喧嘩」
 後ろからのほほんとした独特のテンポの声が聞こえた。
 ひょろんと背の高い、線の細い青年だった。黒に近い焦げ茶の髪は短髪で、首の辺りにゴーグルをぶら下げている。
 黒目の部分が多いのか、それともただのタレ目なのか、どうもとろんとした目つきに見えてしまう。
「あ、ファンさん」
「うわ、ひどいね今日も」
 リョウコの上から隊長殿のテントの中を覗き込んだファンが、あまり感慨もなさげに棒読みのように言った。
 まるで台風が通り過ぎたあとのような部屋が、その瞳に映っている。
「よくもまぁこれだけ、一人で汚せるよね? ある意味一種の才能として尊重すべきかも知れない。あんまり必要ないけど、っていうかむしろ要らないけど」
 淡々と、冷徹とすら感じさせる口ぶりでファンはいうが、本人に全く悪気はないのである。
「これじゃ、しばらく雷、止みそうにないね。せっかく報告書持ってきたのに。まぁいいや、急ぎじゃないし。出かけてくるね」
 手に持ったファイルをそのまま抱えて、ファンは踵を返した。
 超マイペース。彼を一言で表すと、そうだ。
「……ファンさん、どこにいくんですか?」
「ああ、晩御飯までには戻るから」
 こんなふうに、質問と答えがぴったりとはまらないことだってしばしばだ。
 慣れてはきたものの、まだ適切な対応が出来なくて、戸惑っているリョウコに。
 数歩歩いた後、「あ、そうだ」と言って、体半分だけ振り返った。
「リョウコちゃんも行く?」
「え? どこ……」
「あっち」
 ファンは切り立った岩山の向こうに見える、緑で覆われている丘の方を指差した。
「他の人に、あんま教えないんだけど、リョウコちゃんならいいや。空、見に行こう」
「空……?」
「元気になるよ」


            *


「俺のね、一番初めの記憶が、空なのね」
 さくさくと丘を登りながら、前に立つファンが口を切った。
「実のところ、俺にはここ5年ぐらいの記憶しかないんだよね。こういう、珍しく木とか生えてる山の中で、仰向けに倒れて空見てたのが、はじめ」
 がさがさと、視界に割り込んでくる木々。風に揺れて葉が宙に舞う。その向こうに流れる白い雲。
 全てを。受けとめる空。
「記憶がないのって、カワイソウだって思うでしょ。でもね、俺には空があるからそれでいいと思って」
「……だから、ヘリも?」
「そう。空に近い」
 首を少し傾けるようにして振り返り、笑った。
「隊長、"ああ"だけどさ、裏の業界じゃ、名の知れた人なんだよ。いろんなレジスタンスと繋がり持ってる。その中でも、俺やモエみたいに隊長の傍にいるのはね、皆、救われたり拾われたりした奴らなんだよね。ちなみに俺、後者。捨て犬ね」
 耳生えてそうでしょ。
 逆立てた髪の一部分を摘んでみせて、本当に子犬みたいに人懐こく笑うので、リョウコも釣られて笑ってしまった。
「なんだかんだ反抗しながら俺たち、あの人のこと全面的に信じてるからさ、あの人、ホントに何でもできるから。本当は俺たちなんて傍にいなくたって、一人で全部出来ちゃうんだよ。じゃあなんで、俺たちいるんだろうって、考えたことあるんだけど、あれなんだよね」
 丘のてっぺんまで辿り着き、ファンはその場にどかりと腰を下ろした。
 人懐こい笑顔で、自分の隣の地面をぽんぽんと叩く。
 スワレ、という意味らしい。
「引きずり戻すためなんだよね」
 傍に座ったリョウコを見ようとせず、ファンはごろりと寝転んだ。
 頭の後ろで手を組み合わせて、愛おしいものを見るように目を細めた。その先には、空。
「前一回、ちょっとデカい事をしたときに、誰だったか忘れたけど、『生命かけても世界を救おう』みたいなこと、言った奴がいて。俺らは結構作戦前だから、気分も高揚してて、本当に、死ぬ気で何でもできるぐらいだったんだ。そしたらいきなり―――」

―――ストップ。マチナサイ。訂正して。

「呑気にコーヒーなんか、部屋の隅で飲んでた隊長が、立ち上がってさ。その場騒然。そのあと沈黙。絶好のスピーチ場になったそこで、なんていったと思う、あの人」

―――誰も死んじゃいけません。僕たちがやろうとしてるのは、皆をしあわせにすることでしょ。だったら。

 頭が良くて、何でも出来て、だけど生活能力ゼロで。あんたのためなら。
 助けてくれたあんたのためだったらなんだって出来るって。例えば生命まで。
 投げ出せるって思ってる奴らの前で。

―――だったら皆で、生きて幸せになろうよ。

「残酷なこと言うの。そんなこと言われたら余計、頑張っちゃうんだけどな。だけど」
 今日は風の流れが速い。白い雲が、右から左へ、千切れるように流れてゆく。
「もし、一番危険になったらあの人、きっと一人で突っ込んでくんだ。そんな気がする。だから俺たちは、傍にいて、そうなったときに両端から捕まえて、引きずり戻してやるんだ」
 有言実行って。自分で掲げてるからさ。
 自分で言ったことも守れないのか、って言ってやると、弱いんだよ、あの人。
 だからもし、飛び込んでいこうとしたら捕まえて、言ってやるんだ。
 皆で生きて幸せになるんだろって。

 ファンは、空から目線だけを隣に移した。
「いっぱいいっぱいでしょ、俺ら」
 なにやら深刻そうな顔をしているリョウコに、ファンは明るく笑った。困った奴らだよね、俺ら。
「ヒトと水みたいな感じだって、よく思うんだ。身近で大事でそこにあることが普通なんだけど、それがなかったら絶対に生きていけない。そんなギリギリに、いるんだ。お互いに馴れ合いすぎて、深入りしすぎて、境界とか良く分かってないんだ」
 良くないのかもしれない。お互いがお互いに、寄りかかりすぎてるのかもしれない。
「だけど、俺ら基本的に、へたくそばっかだから。"ここだけ"なんだ。帰る場所」

 帰ろう、って。
 そんな風に笑って言える場所が、本当はみんな、欲しいのかな。
 差し出した手を、受け取ってくれる場所が、欲しいのかな。

「時々何も考えたくなる時だって、あるんだ。そんな時よく、ここに来るんだ。ぼーっと空見てる。俺にとっては空が、親だからね。そうやってジッとしてると、そのうち誰かが迎えに来る。帰ろうって。そこでもう一回思い出す。ここにいてもいいんだって。だからリョウコちゃんも、どこかでぼんやりしててもいいよ。誰かが呼びにくるから。俺とか、モエとか、隊長とか。―――いつもがちがちで、テントの傍、いなくたっていいよ」
「……がちがち、でした?」
「うん。何か役に立たないと取って喰われるかも、って。そんな顔してたよ」
「そんな……」
「無理に、役割探さなくていいよ。役に立ってないからここにいちゃいけないなんて、ないよ。大丈夫。だって家族って、そういうもんでしょ」
 時には迷惑かけたって、なじりあったって、最後はどこかで繋がってるのが。
 家族ってもんでしょ。

 大きく見開いた瞳から一筋だけ、熱いものが流れて落ちた。
 ここにいてもいいの。
 ずっと不安だった。だって、私何の役にも立たないし。みんなみたいに、絆。もってないし。

「なんで……みんな……」
 私が出会うひとはみんな。
 両手で顔を覆った。泣き顔、見られたくなかった。
「なんでみんなそんなに、やさしいの」
 ここに連れてきてくれたのだって、慰めてくれるためだったんでしょう?
 肩の力抜きなさいって、言うためだったんでしょう。
「情けは人のためならず。昔の言葉だけどね。ひとに情けをかけてあげると、めぐり巡って自分のところに戻ってくるんだって。それと同じじゃない? みんな、優しくされたいんだよ」
 自分のためだよ。
 そう言って、ファンは笑ったけど。
 それだけならこんなに、あったかくない。
「ほら」
 顔を覆うリョウコの片手を掴んで、ファンが引き倒した。
 ふたりして、並んで寝転んで、空を見る。
 淡い水色の上を、白い雲が流れてゆく。
「綺麗でしょ」

 時間も空間も関係なくて、やけにゆっくりと。穏やかな気持ち。
 綺麗なきもち。
(あ、土の匂い)
 深呼吸をするように息を大きく吸い込んだら、土と草の匂い。
 落ち着く。
 目を閉じて、そよぐ風に体を委ねた。地表と、一体になった気分。

 どのぐらいそうしていただろうか。
「ファンくーん、そこにいるのぉ〜?」
 間延びした柔らかい声が聞こえた。ふたりとも同時に跳ね起きて、顔を見合わせて、笑った。
 こんな柔らかい声、ここらへんじゃあの人しかいない。
「ほら、来た。迎えに」
 駆け足で丘を登ってくるその人の姿がゆっくりと見え始めた。
 ほわほわの髪。お人形さんのような顔。
「あれ?」
 異変に気付いたのは、ファンのほうが先だった。
 見えてきた相手を視界に収めて、何度かぱちぱちと瞬きをする。
 遅れてリョウコも気付いた。
 髪の毛、頭の上でまとめて結ってる。一本。
(モエさん戦闘モード、だ)
 気合を入れる時のおまじないなの、と。前に教えてくれたことがある。
 いつもは顔の横で二本に結っている髪を、頭の上でまとめるときは、気合が必要な時だって。
「どうしたのモエ」
 慌てて立ち上がり、服についた草を払ったファンの傍まできて、モエは膝に両手をついてうな垂れた。荒い息が零れて、肩が上下している。
「見つかったの……」
 うな垂れたまま、たった一言。
「え?」
「だから、見つかったのよ! "マハノンの遺跡"が!! 隊長、今すぐにでも出かけるって、だから早く!」
「本当に?」
「嘘だったらこんなふうに走ってくると思う!?」
「遺跡はどこ?」
 今まで子犬のようだったファンの顔が、ぴしりと硬くなった。"仕事モード"だ。
 ようやく息が整ったのか、真っ直ぐに立って、いつもは柔らかい光を湛えている瞳を鋭くして、モエは告げた。

「ゴルゴダ」


            *


 母親って、どんなんだろ。
 柔らかい体、抱き寄せたまま訊いた。
 知らないことが不幸だとか、思ったことはないんだけど。
 人間って、みんな「帰りたい」って願望があるらしいじゃん。
 それは家だったり、他のどこかだったりするんだけど、結局はいつも胎ん中なんだって。
 天敵のいない、あったかい羊水の中、浸されてる頃がいいんだって。
 だから暗いとこや狭いとこ、落ち着くんだってさ。
 脅かすものが何もなくて、守られてるから。
『またそういうこと考えてるの、もうやめなさいよ女々しいわね』
『ソフィアにだから言ってんじゃん』
『いいじゃないの、もう。ハルトは捨てられたから、色々な出会いができたわけでしょ。普通に育ってたら、今より幸せじゃなかったかもよ? 巡り会えた人たちだって、ハルトのこと、必要なんじゃないの?』
『ソフィアは?』
 そうやって訊くのが一番女々しいのに。
 答え、怖いのに。

 ソフィアは、本当に困った子供を見るような顔で苦笑して見せて、白い指を伸ばした。
 伸びた黒い前髪を掻きあげて、露になった額にひとつ。
 接吻けを落とした。

 華奢な体をきつく抱いた。
 蜂蜜色の髪に頬を寄せる。

 好きだよ。
 愛してるよ。
 誰より。


 愛してたよ、ソフィア。





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