666
〜BUTTERFLY,flying darkest sky〜



序.

「おい、いい加減起きろよ」
 肩を強く揺さぶられて、うっすらと目蓋を持ち上げると。赤が見えた。
 不機嫌そうにしかめられている、幼なじみの瞳の色だった。
 鮮やかで。鮮やか過ぎて。何か……。
「最近お前、本当によく寝るよな? 具合でも悪いのか?」
「別に、そんなことないけど……」
 居眠りの所為で乱れた金の髪を首の後ろで一つにまとめた。最近のびてきて少し邪魔だ。
「なんなんだよこのボロ電車は。さっきから3回も止まりやがって」
 自分が急いでいるとなると、前回は全く気にならなかった列車の不調が、酷く気になるらしい。
(我儘なんだから)
 心の中に突然ぽこりとわいたその感情。

 一体何の夢を見ていたのだったろう?
 あんまり気持ちがいい夢ではないことは確かだ。なんだか気持ち悪い。
(我儘は嫌だな)
 急にそんなことを思ってしまって、レイははっとした。
 嫌だな、なんて。
 最近なんだか、心がざわざわする。
 少しのことでもカッとなったり、小さな事を気にしたり。
 なんだか。
 きしきしと。体と心の歯車が、うまくかみ合っていない感じ。
 一体何故?
 一体……。

 どこから?


            *


「行ってくればいいよ。僕は、少し疲れたから」
「悪いな、夜までには多分戻ってくるから」
「……期待しないで待ってるよ」
 ベッドに横になったまま、答えることすら億劫だという態度を前面に押し出してレイが言うと。
 それこそ、心ここにあらずといった体のハルトがそそくさと出て行ってしまった。
 ぱたりと閉まった扉の音をどこか遠くに聞きながら、レイは、心地よいベッドの上で目蓋を閉じた。
 宿屋に荷物を投げ出すなり飛び出すなんて、余程好きなんだな。

 蝶。
 極彩色の羽根を持った、美しい生き物。
 部分部分は発見されているものの、完全な化石は見つかっていない、絶滅した宝石。
 ハルトは昔からその完璧な「かたち」に憧れて、追い続けている。
 恐らく発掘現場に行ったのだろう。そうなれば、「夜までに帰ってくる」というハルトの言葉は、ほぼ当てにならない。

 何で一緒にいるんだろう。
 寝返りをうち、枕にうつぶせて、今にも眠りに落ちそうな一歩手前。
 急に浮かんできた言葉。
 何で一緒にいるんだろう。
 幼なじみで、追う目的は一緒で。だけど。

 "どうして一緒にいなければいけないのだろう"。

 理由なんて、ひとつもないのに。



1.

「なぁ、そこのイケてるにーさん、あんた発掘関係だろ?」
「あぁ?」
 トラックの荷台に色々な機材を乗せ、町の外れの発掘場まで移動しようとしていたアレックは、急にかけられた声に辺りを見渡した。
 どこだ?
 煙草を銜えたまま、じろりと辺りを見渡す眼光は鋭く、関係のない通行人が不躾な視線をぶつけられて竦みあがった。
「こっち」
 後ろからぽんぽんと肩を叩かれ振り向くと、血のような赤が目に飛び込んできた。
「珍しい色だな」
 思わず銜え煙草をぽろりと落としてしまって、アレックはその赤を見た。
「化石並だろ?」
 得意そうに笑う顔がまるで子供のようだったので、アレックは自分よりも一回りぐらい若いらしいその青年をなんとなく気に入った。
「まぁ、俺は発掘野郎だがよ。どうかしたのか?」
「場所わかんないから、もし良かったら連れてって。駄目だったら場所教えてくれるだけでいいからさ」
「そういう言い方されて、断れる程俺様薄情じゃないんだよ。しょうがねぇから助手席乗りな。ああ、それと名前」
「ハルト」
「俺はアレックだ」
「アレックさん」
 ハルトが助手席のドアに手をかけたところで、後ろから高い声が聞こえた。
「おう、エル。これから現場か?」
 運転席の方へ回り込もうとしていたアレックが足を止めて声のした方へ顔を向ける。
 何気なしにハルトもその視線を追いかけた。
(ガキ)
 しかも、やけにお上品な。
「ちょうどいいや。乗ってきな」
 さらさらの栗毛に強い瞳は金に近い。愛らしい、酷く愛らしい少年だった。
「だめですよ。もう定員オーバーじゃないですか」
 そう言うと、少年はアレックから目線をハルトに移し、にっこりと笑って見せた。
 つられてハルトも笑ってしまう。人を和やかにさせるある種の雰囲気が、その少年にはあった。
「いいぜ、助手席乗りな。俺は荷台でいいから」
 少年がその手に大きな図鑑を抱えているのに目を留めて、ハルトは助手席のドアから手を離した。
「現場の見学か?」
 少年のすぐ傍まで行って問うと、いきなり、後ろにいたアレックに容赦無く頭を殴られた。
「ってぇっ! 何するんだよ!?」
「失礼ぶっこいてんじゃねぇぞ若者。エルはな、今この街で一番『蝶』に近い奴なんだぞ」
「はぁ?」
「天才少年なんだよ、エルは。エルが来たことによって発掘が凄く進んだんだ」
「……本当なのか?」
「そうみたいですね」
 隣に立つ少年を見下ろして、真顔で問い掛けると、まるで他人事のように少年が笑った。
「ほら行くぞ! 日が暮れちまう」
 ハルトの背中を後ろから蹴り、アレックは運転席の方へと向かっていった。
「いいですよ、僕、荷台に行きますけど……」
「あ? いいって。こっちのが新参者だから。助手席乗りなよ。エル……でいいのか?」
「いいです。そう呼んでください、ハルトさん」
「おう」
 笑顔を交し合って、エルは助手席へ、ハルトは荷台へと足を向けた。
(あれ?)
 機材でいっぱいになっているトラックの荷台に片足をかけた瞬間、妙な感覚に一時停止する。

―――俺、あいつに名前、言ったっけ……?

 しかし、一瞬考えて、ぐっと体を荷台に持ち上げた。
(まぁいっか。さっき聞こえたんだろ)


            *


「ハルトさん」
 座席と荷台との間にある隙間から、そこに寄りかかっているハルトにエルが声をかけた。
「ん?」
 顔をそちらに向けると、助手席のシートの上で半分以上体をひっくり返して、エルがこちらを覗き込んでいた。
 吸い込まれそうな、トパーズの瞳。
「ハルトさんも蝶、探してるんですか?」
「"も"ってことは、お前もなの?」
「僕も、ずっと探してるんだ。蝶」
 屈託のない笑顔でエルが笑うので、ハルトもつられて笑った。
 そこに、人を優しくさせる温度があった。不思議な柔らかさ。
 悪くない。
「見つけたら、どうするの?」
「……どう、って?」
 髪を嬲る風が、耳の周りで回る。エルの言葉を聞き逃さないように耳を澄まし、聞き返す。
 どうする?
 幼い頃から憧れ続けてきた空を舞う宝石に辿り着いてから。そこから。
 どうするかなんて考えたこと、なかった。
「今の、科学とかだったら、化石からでも復元、できるじゃないですか。絶滅しちゃった動物とか、そうやって保護してるところもあるし」
「ああ、なんだ。そういうこと」
 絡まっていた糸が解けた。なんだ、そういうことか。
 そういう意味で、「どうする」ってことなのか。自分の気持ちではなくて。
「別に、見つけるだけでいいや。そこに生きてたことが分かりゃいい。どーこーするつもりはねーよ。それに……」
 座席と荷台との間にある隔たりにもたれたまま、ハルトは空を見上げた。
 がくがくと、車の振動が頭蓋骨を揺らし脳に到達する。空が揺れた。
 青い空。白い雲。それに割り込むように、立ち並ぶビル。
 都会の街の匂い。廃棄ガスと香水と、そのほか色々なものが混ざった匂い。
「こんな空飛ばしたって、しょうがないじゃん。似合わねぇし。それに試験管培養じゃ、この汚れた空に耐えられないんじゃねぇ?」
 この世界を早々に見限って消えてしまったというなら、あいつらは頭がいい。
 動物、植物。たくさんの生命が、この世界を見限って、逝ってしまったんなら。
 IQなんかじゃ絶対に計れないぐらい、頭いい。本能的に。
 イキモノ的に。
 だって―――。
「惨めに生きてんの……」
 死ぬのが怖いの。
「俺たちだけじゃん」
 いたくないように。くるしくないように。長生きできるように。そうして。
 大地すら歪めて生きてるのは。
 ひと。
 ただひとつ。
「それにさ。惨めにこんな空飛んでんのなんて、そんなの、"蝶"じゃねーよ」
 なぁ。
 空から移した視線を、後ろに向けて。トパーズを見つめた。
 黄金の瞳は少し驚いたように見開かれていたが、やがて。
 ゆっくりと微笑んだ。
「僕も、そう思います」


            *


 夢を見た。
 抜けるような高い空に、まばらに散った白い雲。
 田舎の一本道。
 左右に広がるのは草原で、ぽつんぽつんと街路樹が。
 舗装も成されていないそんな道の、真ん中。ひとりで立っていた。

 時折吹き抜ける風に吹かれて、目の前にちらちらと金の光。太陽の日差しを反射して、まぶしかった。
 風に吹かれて、鎖。ちゃりちゃり煩い。
 体の横にそのまま下ろした右手を上げて、その耳障りな音を止めようと、胸の辺りを弄った。
 掴んだのは、銀のロザリオだった。

―――お守り。

 この首に、これをかけてくれた手。優しい声が、今も耳元で鳴っている。

 さっ、と自分の横を風が駆け抜けた。
 一瞬遅れて気付く。風、ではなくて。誰かがこの横を、走って駆け抜けた。
 顔をあげると、肩の後ろ辺りまでの金髪を揺らして、必死に走る少年の背中が見えた。
(だめだ)
 小さな背中が、真っ直ぐこの一本道を前へと進んでいる。
「……めだ」
 声がでた。掠れた声だった。
 ロザリオを放して、手を前に伸ばす。届くはずなんて無いのに、掴もうとした。
 足元がぬかるんで、上手く前に進めない。
(行っちゃ駄目だ)
 伸ばした手の、広げた指と指の隙間。そんな狭い世界で、小さな背中がどんどん遠ざかる。
 "自分"の。背中。

 風は穏やかで、空は晴れていて、雲が綺麗で。さわさわと風で木の枝が葉を擦り合わせるように揺れる音が、して。
 そんな、風景画みたいな世界の中。
 あの日もこんなに綺麗だっただろうか?
「行くな」
 呼び止めるには、絶対に効力の足りないそんな小さな声で囁くことしか。そんなことしか。
 伸ばした手も届かないのに。

 行くな。
 そこから先に行ったところで、悲しいことしか待ってない。
 血だまりの中で、蹲るひとりの聖職者しかいない。だから。
「行くなよ」
 傷つくから。

「行くなよ―――ッ!!」



2.

 悲惨な映像から目を逸らすように強引に、目蓋を引き上げた。
 視界が真っ白で、しかも奇妙に歪んでいて、おかしかった。
 真っ白なのは、宿屋の天井。歪んでいるのは涙の所為。冷静に分析する自分の中のもうひとりの自分の声なんて、どうでも良かった。
(気持ち悪い)
 食事を摂らないでもう何日も過ごして、胃の中が空っぽになってぐるぐるいってる時の、変な気持ち悪さに似ていた。
 開け放ったままの宿屋の窓から風が吹き込んで、備え付けの白いカーテンをさわさわ揺らす。
 木が揺れる音に似ていた。
 体の上に何もかけないままで、窓も開けたままで。泥みたいに眠っていたことに気付く。
 差し込む日差しはもう弱くて、オレンジ色になっていた。
 眠りに入る前も、もっと違う何かで「気持ち悪」かったはずなのだが、上手く思い出せなかった。
 今見た夢が全てを塗りつぶしてしまっていた。
「久しぶりに見た」
 上半身を起こして、緩慢な動作でベッドから降りる。
 開け放ったままの窓を閉めた。

 ファスト神父が死んだ日の夢。

 窓もカーテンも閉めてしまってから、もう一度ベッドに仰向けに転がった。
 枕の辺りに放り出したままの荷物の中から、分厚い鍵のついた本を取り出す。
 この中に一体、どんな言葉があるんだろう?
 知らないあの人の姿。それが綴る言葉が、一体どんなカタチなのか。

 人の日記を開けるなんて、良心的に辛い、なんて。言い訳を繰り返しながら本当は。
 自分の中の彼の姿が、壊れてしまうのが怖いのだ。

 最近おかしい。
 生活には何ら支障は無くても少し弱っている視力に。矯正をかけて、眼鏡をかけた後みたい。
 ぼやけていたものが全て、鮮烈にこの視界に入ってくる。見えなかったものが見える。
 見なくても良かったものばかり。見える。
 何でこんなに気持ち悪いんだろう?
 持ち上げた日記を枕元に置いた頃、部屋の外が少し騒がしくなった。


            *


 ばたんと大きな音を立ててドアが開いた。
 もう少し優しく扉、開けないの? 言っている本人の気持ちが、余裕がなくて優しくないんだって、レイは自分で気付いていた。
 悪い悪い。
 流す謝り方で、ハルトは苦笑いして見せた。
 そうして、また同じ事を何度も繰り返すのに。止めてくれないのかな。嫌だな。
 そう思って、レイは口唇を噛んだ。
 また。見えすぎるメガネの所為。世界の全てが鮮やか過ぎて、本物の形過ぎて、痛い。
 綺麗じゃないところまで、くっきり見えてしまう。
「……誰? その子」
 また、優しくない聞き方だった。今までなら、自分はもっと優しく社交的に人に接することができていたはずなのに。
 へたくそになっていた。
 ハルトの後ろから顔を出した10歳にも満たないような小さな子が、まあるい金色の瞳でにっこりと笑った。
「エルです」
「……レイです」
 反射的に名乗ってしまっていた。
 柔らかい空気が、針のように尖った心を少しずつ、溶かして丸くしてゆくような感じがした。
「飯、喰いにいかねーか?」
 扉の傍に立ったままのハルトが、くいっと顎で外の方をしゃくった。
「どこに?」
「街に」
 会話はそこで終わってしまった。大げさに溜息をついて、レイはベッドの上から下りる。
「どこでこの駄目なお兄さんに捕まっちゃったの?」
 ハルトの傍でにこにこしているエルの傍まで近寄っていって、かがみこんで訊いた。
「聞き捨てならねーな、ソレ」
 視界の端に、「心外」と顔に文字を書いて眉をひそめているハルトが見えた。
「えーと、色々あるんですけど……」
 どれから説明しようかと、真剣な顔でエルが悩み始めた直後、機械的なメロディーが部屋に響き渡った。
「あ、ゴメンナサイ!」
 ぱっと顔をあげたエルが、自分の服のいたるところを弄って、やがて何か小さなものを引っ張り出した。
「……通信機? 上等なモン持ってるじゃん」
「えーと、あの、お父さん……が。心配性で」
 言うが早いか部屋の隅へとぱたぱたと駆けてゆき、耳にイヤホンを押し込む。

「……もう少しかかるんだってば。え? そんなのはそっちでなんとかしてよ。僕が帰るまでもないでしょう。…………通信機持たせただけじゃまだ満足しないの? 少しは自由にさせてよ、本当に。じゃあね、お父さん!」

 ぶつり、と通信を一方的に切る音が、二人の耳に届いた。
 さっきまでのエルとは少し違って、遠慮のない、なんというか、喧嘩腰の言葉だった。
「お父さんと仲悪し?」
 通信機を元通りに服にしまいなおして、こちらに歩いてくるエルに、少し茶化し気味にハルトが訊いた。
「え? いえ全然。だいすきですよ? 好きだから遠慮がないんです」
 本当に誇らしいように笑うエルの顔には、何ひとつ嘘がなかった。
「んじゃ、行くか」
 ハルトの一言でレイはまた、無意識の領域で思った。
 仕切りたがりやなんだから。


            *


 がしゃん。
 まるでガラスを叩き割ったようなシンバルの音。一瞬の空白。
 そのあとまた、うねりのように続くオーケストラに、張りのある声が乗った。
 オペラ。
 体のどこからそんな音が、生まれてくるんだろう。
 声帯という楽器を使って奏でるその、生命がけの旋律を鼓膜に流し込んで、流し込んだままにしている。
 ゆっくりと辺りを見渡せば、広い部屋には音楽を鳴らすためだけの機械と、ベッドと、机ひとつ。たったそれだけ。
 この世界のほぼ全てを掌の中でどうにかできる人間のいるべき部屋だなんて、到底思えなかった。
(さむい)
 この部屋は寒い。
 音楽なんて流してても、このひとは。
 ベッドに座ったあたしの膝に頭を預けて眠っているこのひとは。
 ずっと遠く、誰も辿り着けない場所に一人でいる。
「……ラジエル」
 大司教、でも、猊下、でもなく。名前を呼んだ。
 金の巻き毛に、血の色の爪を絡ませる。ゆっくりと梳いた。
(どこにいるの)
 手を伸ばしても、幾ら呼んでも。答えてくれる声は遠くてどこか歪んでいた。
 遠い遠い星の光がこの空に届くまでには、もとの星が燃え尽きていることもあるって。そういう何かに似ていた。
 越えようの無い差がある。
(どこにいくの)
 いつも一人だ。見据える青い瞳の先に何が見えているのか、あたしには分からない。
(それでもいいんだよ)
 見据える先が、その瞳が、いつも綺麗だから。
 初めて見た瞬間に思った直感は、まだ続いている。天使みたい。
 だからいい。綺麗なままでいてくれれば。
 あんたを汚すもの全部から、守るから。

―――そんな風にふらふらと蝶のように飛んでいたら、やがて帰る場所を忘れてしまうよ。

 言葉を、思い出した。上品なおじさまで上司の、ランドウ・アンティクリスト。
 だけど、バカだね。何も知らない。
 ここ以外のどこに、帰る場所なんてあるって言うの。
 その前に、あたしの居場所はたった一つきりなんだよ。
 ここだけなんだよ。

「もう行くから」
「今度は、どこへ?」
 髪を梳きながら言うと、目を閉じたままで声が帰ってきた。
 耳になじむアルト。溶けるみたいに、心地いい声が。
「ソドム」
「"666"……か」
「なにそれ」
「教会側が、街の管理のためにつけている番号だ」
「そんな数ひとつで、全部管理できるのね」
 この人の前にいるときのあたしは、なんだかとても綺麗な言葉で喋ってる。
 そのほうがこの人が、喜ぶような気がしている。だから。
「マリア」
 静かな声で、あたしの名前を呼ぶ。嬉しくて、それなのに胸が締め付けられるように痛い。
 伸ばされた白い手が頬を滑った。その上から自分の手を重ねる。
「すまない」
 うん。ただ頷いた。
 ねぇ、誰に謝ってるの。
 聞きたくて、いつも黙り込む。傷つけられるのは怖いから。
 見たくないからまだ蓋をしておく。目を逸らしておく。
 あたしは、バカな女だから。バカな女でいいから。

 今日もまた心の中で繰り返した。
 誰に謝ってるの?
 あたしじゃない、誰に。

 誰に。



3.

「へぇ、じゃあ一人でこの街にいるの?」
 がやがやとした雑踏に負けないようにと気を配ると、どうしても少し声が高くなる。
 大きな街―――しかも最近は化石の話題で盛り上がっている―――だから、人はとにかく多くて、日がすっかりと暮れたこの時間、酒場は満員御礼だった。
「そうです」
 レイの問いに、エルはにっこりと笑って返した。
「凄いんだね。今まで色々なもの見つけたんだ?」
「そうですね、植物だと、サクラとか……」
「マジかよ!?」
 二人の話題に、ハルトが強引に割って入った。
「サクラって、あのサクラかよ!? くっそぉ、見てー……」
 心底悔しいのか、ハルトはテーブルに突っ伏してしまった。
 話に割り込まれたものの、今度は「嫌だ」とは思わなかった。考古学に関することに目がないハルトだから、仕方ないのである。
「だけど、やっぱりお父さんは心配するよ。通信機持たせるのだって仕方ないと思うけど……」
 テーブルに突っ伏したままなにやらうめいているハルトを無視して、レイは、隣に座るエルを見た。
「こんな広い街だし。何があるかわからないしね」
「そうですね。だけど、あの人本当に僕に甘いから、時々わがまま言いたくなるんです」
「いたずらっ子だね」
「よく言われます」
 レイとエルは、碧と金の瞳を交し合って、まるで共犯者のように笑った。

 何故かふてくされたまま食事を終えたハルトは、服の内側から煙草を取り出して。
 次の瞬間レイに引っ手繰られた。
「やめなよハルト、子供の前で」
「…………それはいいけど、お前、世話焼き女房みてーだな」
「なっ……!」
「ハルト?」
 いつも通りのからかいにいつも通りに怒鳴り返そうとしたところで、別の方向から声が混じってきた。
 呼ばれたハルトがそちらに顔を向けようとした次の瞬間。
 目の前のテーブルががっしゃんと音を立ててひっくり返った。
 否、ひっくり返された。
 食器類の割れる音と、短い悲鳴が続いた。
「てめっ、何しやが……」
 目の前の惨状を確かめてから、ハルトは改めて声の方を向いて、凍った。
「……まさかここで、テメェに会えるとは思ってなかったぜ」
 テーブルを蹴り倒した体勢のまま、男は冷たい一瞥をハルトによこした。
 短髪の眼光の鋭い男だった。ラフな格好はところどころ泥に汚れて、発掘関係者らしいことが見て取れる。
「なに、お前まだ、チョウチョとおっかけっこしてんの?」
 茶の鋭い一重の瞳を細めると、刺し貫くような強い視線になる。目元が少し赤いのは、アルコールが入っているからだろうか?
 高いところから見下ろして、見下して、バカにするような声を投げつけた。
 ハルトは黙って、相手の顔を見上げている。
 辺りはしんと静まり返っていた。誰もが巻き込まれたくないようで、それでいて成り行きを知りたがる目でこちらを見た。
「そっかぁ、お前随分チョウチョ欲しがってたもんなァ。この街にいても全然おかしくねぇってか」
「おい、ルード、お前……」
 仲間らしい男が後ろから割って入るのを強引に払い除けて、続ける。
「欲しいモン一つのために、なんだって出来るんだもんな? カッコイイ生き様だぜ、なぁ、ハルト」
 伸びてきた腕がハルトの胸倉を掴んで引きずり上げた。
「なんとか言えよ」
 泣きそうな顔で笑って、男は両腕でハルトの胸倉を掴んで引き寄せる。
「なんとか言ったらどうなんだよ!? あぁ!?」
 ぐっと締め上げられて、わずかにハルトは眉をひそめたが、何も言わず黙って男を見る。
「ッの野郎!!」
 左手でハルトの胸倉を掴んだまま、右手で容赦無く、一発。
 頬に。拳を叩き込んだ。
 がしゃんと派手な音がして、ハルトの体が床に投げ出される。
「何するんだ!!」
 さらにハルトに掴みかかろうとする男に、我慢が効かなくなってレイは叫んだ。
 すると男は緩慢な動作でレイの方へ目を向け、口元を歪めるようにして笑った。
「……あんた、こいつの連れか?」
 床に座り込んだままのハルトの方を顎でしゃくって、男はレイに訊いた。
 返事を待たずに、続ける。
「こいつは怖い男だぜ、気をつけな。自分を守るためなら、自分の女すら簡単に見捨てる男なんだ。踏み台にされないように、今から気をつけとけよ」
「ルード! いい加減にしろ!!」
 後ろから、仲間が男の体を掴んでぐっと引っ張った。
 温厚そうな、目の細い男だった。
「ハルト……」
 尚も暴れる男を羽交い絞めにしながら、その目の細い男もハルトを呼んだ。
「いいぜクロイツ。ここの払いは俺がしとくから、行けよ」
 ハルトは、床に視線を落としたまま、小さな声でぽつりと呟いた。
 張りのない声。
「……悪い」
 クロイツと呼ばれた男は、罵詈雑言を吐き続ける男を引っ張って、酒場を出て行った。
「ハルト、どうして……」
 どうして言い返さないんだ。
 緩慢な動作で立ち上がり、服についた埃を払うハルトが、レイは歯がゆくて仕方がなかった。
 いつものハルトなら、あんなふうに黙ってなど絶対いないはずなのに。
 それに、因縁つけられたのはこっちなのに、払いまで……。
 ハルトはまるでその声が聞こえないかのように、ひっくり返されたテーブルに手をかけた。
「ハルト!」
 少し強めの声で叫んだレイは、しかし、次の瞬間黙った。
 テーブルを立て直したハルトが、レイに鋭い視線を向けたからだった。
 刺さるような、凍った視線。まるで殺意すら、篭っているような。
 レイを黙らせるには、十分すぎるほど強い―――……。
「悪いな親父さん。もう来ねぇし、払いはしてくから、勘弁してくれよな」
 と、カウンターの方へ歩いていったハルトは、しばらくして戻ってくると、黙って座っているエルの頭に手を乗せた。
「……悪ィ。嫌な思いさせちまって」
 言葉の最後のほうで、わずかに視線をレイに向けた。
 『悪かったな』。目だけが、そう言っていた。
「顔、不細工になってるよ」
 口で言えばいいのに。ごめんって、一言言えばいいのに。
 そんなことを思いながら、レイは赤く腫れ始めている左頬を指差した。
 口の端が切れて、わずかに血が滲んでいた。
「ああ、そっか。……悪いけどレイ、煙草返して」
 いつもの張りが全然足りないハルトの声に、調子を狂わされっぱなしのレイは、素直にその言葉に従ってしまった。
 煙草を手の中に収めたハルトは、再び活気を取り戻しつつある酒場の中を横切って、先に外へ出て行ってしまった。

 エルの手を引いてレイがようやく酒場の外へ出ると、ハルトは、傍の壁にもたれかかって紫煙を燻らせながらぼんやりと空を見ていた。
 空より遠くを、見ているような気がした。


            *


 鉄の塊を乗せたトラックが、街の外へと走り去る、その後姿を見送って、大きく深呼吸した。
 今日の仕事はこれで終わりだ。もう日が落ちて久しい。
 きっと体中埃まみれだから、戻ってシャワーでも浴びなきゃ。
 風に嬲られて砂に塗れて、ぱさぱさになった髪の毛を持ち上げてみる。
 この間まで長かった髪。綺麗に揃っていた髪。
 それが今は不揃いで、顔の横で風に吹かれるたびてんでばらばらの方向に揺れる。
 いいな。自由で。
「リョウコちゃーん、お疲れさまぁ」
 髪の毛を一房摘んで感慨に耽っていると、後ろから声がかかった。
「晩御飯にしましょ、って隊長言ってるから、もどろ」
 呼びに来たモエに「はい」って頷いて、テントのほうへと足を向けた。

 サイジョウ・ファミリー(リョウコ命名)に入れてもらってから、気付いたことがある。
 なんて言えばいいんだろう。上手く言葉には出来ないんだけど。
 空を見上げると、まだ赫い月が大きな顔をしてそこにいた。
 けれど、この間あんまり見えなかった蒼い月も顔を覗かせている。もうすぐ蒼月が赫月に取って代わる。
 蒼月のほうが、夜空に合ってて私は好き。
 ……何の話? そうだ。気付いたことがある。
 サイジョウ・ファミリーは、家族だった。
 当たり前のことだけれど、なんだかおかしかった。
 発掘組織を借りたレジスタンスなのに。反政府・反教会なのに。
 物凄くアットホームだった。
 例えばこんな風に、食事は絶対一緒に摂るし。
 朝起きたら普通に「オハヨウゴザイマス」だし。
 いざとなったら銃を持って戦うような、そんな風にはとても見えない。
 未だ慣れない私に、サイジョウさん、眼鏡かけたまま言ったっけ。

『僕らがみんな、そういうのに恵まれてないからね。いいでしょ。ナイモノネダリして、あったかくても。擬似でも。家族しても』

 じゃあサイジョウさん、お父さん?
 真顔で聞いたら、傍にいたモエさんが吹き出した。
 こんな頼りないお父さん要らないです〜。
 肩震わせて笑ってる。だけど、バカにしてるんじゃなくて。あったかかった。
 そしたらサイジョウさんは少し困った後、眼鏡、引き抜いて言った。

『頼りなくてもね、いざとなったら守るよ。みんな』

 やっぱりお父さんじゃん。そう思ったけど、言わなかった。
 きっとみんな、言わなくったって分かってる。そんな気がした。


 昨日の夜、サイジョウさんに呼ばれた。
『あのね』
 私がテントに入ると、気を遣ったように煙草をもみ消す。
 この人が、誰かに気を遣うって言うのが似合わなくて、「吸ってもいいです」って言ったら、「少しは大人ぶらせてね」と苦笑されてしまった。
 怖い人だな。直感でそう思う。
 優しい顔、笑顔。それだってニセモノじゃないって分かってるけど。
 その裏に、持ってるものがきっと大きくて重いんだと思った。
『僕はね、この世界の色んなこと、他の人より多く知ってるんだけどね』
 シャツをだらしなく着崩したままで、顎の辺りに不精ひげまでまばらに生えてたけど、真っ直ぐ私に向き合って一言ひとこと、言い聞かせるように言うサイジョウさんは、物凄く真面目な目をしていた。
『それは、僕が頭が良くて、他の人が馬鹿だって言ってるんじゃないんだよ。それは前提として分かってね』
 頷いた。
 私は自分の勘をなるだけ信じるようにしてる。その勘で、思った。
 この人、人を馬鹿に出来ないんじゃないのかな。
 稲妻が走ったようにそれが分かった瞬間、少し寂しくなった。
 絶対に人を馬鹿にしない、だけどきっと、尊敬だってしないんじゃないのかな。
 自分の周りに棒で円を書いて、自分で境界決めて、その内には誰も入れない。全部が外で、自分には関係ないことで。別世界。
 誰かが境界に触れそうになると、自分からきっと避ける。
 ひとりで立ってる。
 そんなこと私が考えてるなんて、全く気付かない様子で、サイジョウさんは続けた。
『僕は環境が、そうだね、色々なものに近いところにあったんだ。色々な、この世界に隠されている秘密の傍に、いたんだよ。だから知ってる。環境の差は、人々にとっては仕方ないことだよね。だから、無知だとか、そういうこと言ってるんじゃないんだよ』
 分かりました。飲み込みました。そういう意味をこめて、もう一度頷いた。
『人々は、知るべきだと思うんだ。その、色々なことを。だけどね、僕が言っても駄目なんだ。自分で、自分の目で見なきゃ。体で感じないと人間、分からないからね。それには、時期も必要だから。まだその時期じゃないんだよ。だけど君はもしかしたら、人々が知るべき時期に至る前に、感じてしまうかもしれない。君の力は弱まったとは言っても完全に消えたわけじゃないから、きっとこれから、人よりも多くのものを見たり、聴いたりしてしまうと思う。"ここ"でね』
 そう言って、サイジョウさんは人差し指で、私の左胸、指差した。
『抱え込んでくのは、そして黙ってるのは、辛いよ。大丈夫?』
 辛いですか?
 訊いたら。
 うん。首を小さく前に倒して、サイジョウさんは頷いた。
 辛いよ。
『巻き込んでもいい?』
 まるで叱られた子供か、捨てられた犬みたいな目で、サイジョウさんが私を見たから。
 私は一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。
『辛いけど、この中に居る? 居れる?』
 私でいいんですか。私、居てもいいんですか。
 訊かれてるのに、訊き返していた。
 私、たいしたことできないのに。この力だって、きっと減っていくのに。だけどいいんですか。いてもいいんですか。
『僕らは君が居ると楽しいよ、それだけじゃ足りない?』
 存在理由。
 容赦無く、顔面を何かで殴られたみたいな、がんって言う衝撃が来た。
 今まで全く探さなかったところで、自分のすぐ近くで、探し物が見つかった時のような。
 ほっとしたような気が抜けたような。脱力感。
 それでいいんだ。ここにあったんだ。
 小さな答え。
 それで十分です。
 呟いたら、目頭が熱くなった。十分すぎて、涙出ます。

 サイジョウさん、私も、辛くなってもいいですか?
 しばらく俯いて、涙を拭ったあと。私は唐突に言った。顔はあげなかったけど、びっくりしているのが空気で分かった。
 抱え込んで、いいですか?
 緩んだ涙腺を元に戻して、顔をあげた。真っ直ぐ前を見た。

―――私に全部、教えてください。
 抱え込むモンぐらい、ください。


「リョウコちゃ〜ん?」
 いつのまにか立ち止まって真っ赤な月を見上げていた。
 モエさんの声で我に返った。
「あ、ごめんなさい!」
「みんなお腹空かせてるから、かえろ?」
 帰ろう。って、サイジョウ・ファミリーはよく言う。
 帰る場所があるんだって、言い聞かせるみたいに。
 ね? かえろ。
 モエさんが、その白い腕―――だけどとっても強い腕―――を差し出して笑った。
 柔らかい茶色の髪がふんわりと揺れる。
 手を伸ばして、モエさんの手に重ねた。まだ包帯を巻いたままの、傷ついたままの手を乗せた。
 強くなりたい。私だって。

―――この世界は悲しいよ。本当に悲しい。

 そう言って切り出したサイジョウさんが、教えてくれた全て。
 抱えて。
 幸せになるために。
 私が出来ること、ひとつずつ。やっていこうと思った。

―――ラジエル・エレアザール。この世界で一番孤独な男の名前だよ。覚えておいて。



4.

―――この、人殺し。

 闇に慣れた目でぼんやりと天井を見上げる。白い。
 罵詈雑言を吐き続けたルードという男の口から零れ落ちたその言葉を、レイは未だに忘れられずにいる。
 体の中身を全部搾り出すかのような、うめくようなその響きが、体全体を震え上がらせた。
 憎悪だった。
 もう遅くなってしまったからと、自分たちの部屋にエルを泊め、ハルトは自分ひとり、外に出てしまっていた。
 オマエは気にしなくていい。
 切れた口の端に血を滲ませたまま、ハルトがまるで切って捨てるように言うから。
 関係ないんだと宣言されたようで、寂しかった。
 幼い頃別れた道が、最近交差するまでの間。
 お互いが不在の間が確かにあったのだと、思い知らされる。
(本当になんで一緒にいるんだろう)
 こんな風に、細かい掠り傷ばっかり、付け合いながら。
 痛めつけあって馴れ合うほど、マゾじゃないのに。
 教会から逃げるのだって、まとまってないほうがいいのかもしれないし。

「レイさん、起きてますか?」
 隣のベッドから不意に、声が聞こえた。
「え」
 まさか起きているとは思わなくて、素っ頓狂な声を出してしまった。
「どうしたの?」
「……レイさん、聖職者なんですか?」
「え? どうして?」
「ロザリオ、見えたから」
「……神父見習い、だけどね」
 今はそれどころか、その教会から逃げている身分だけど。心の中で付け加えた。
「どうして、神父なんですか?」
 やけに突っ込んだ質問だとは思ったが、嫌な気はしなかった。
 エルにはどこか、人を素直にさせるところがあった。
「目指す人が、いるんだ。初めは本当に型にはまった信仰心しか持ってなかったんだけど。その人に会ってから、変わったんだ。本当に色々……」
 価値観から全部。ひっくり返して。
 大事なものはそんなモンじゃないんだって。教えてくれた人がいる。
「その人が神父だったから……。安直かな」
「いえ。素敵です」
「じゃあ、切り返していいかな?」
「え?」
「君はどうして、色々な化石を追ってるの?」
 蝶とかサクラとか、滅んでしまった生き物を、どうして追うの?
 聞き返したら、エルは少し黙った。そのあと、ベッドの上で体を起こす。
「……な……」
「え?」
 小さな呟きが、聞こえなくて訊き返す。
 ベッドの上で座り込んでいるエルを見るように、レイも体を起こした。
「自由なものが、見たいんだ、きっと。縛られないで、この世界で生きて、結果一緒に生きて行けなくなってしまったものの、生き様とか」
 信仰なんか関係なくて、自分のその両足だけで自由に、立ってるものが見たい。
 そう言ったのは、ハルトだっただろうか?
 エルが欲しいものと、ハルトが欲しいものは、本当は一緒なんじゃないだろうか?
「僕は、たくさんのしがらみに絡め取られているから。無理して、苦しんで、縋り付いても、生きてるから。無理せずに、だけど必死に、生きたかたちが欲しくて、生きて散ったかたちが欲しくて探したんだ。サクラも……。本当はこの目で蝶が見つかるまでここに、居たかったけど。もう駄目だね、潮時だね。貴方達に会ってしまったのは……」
「エル……?」
 途中から何を言っているのか分からなくなって、レイは、薄暗い光の中目を凝らした。
 すると、トパーズのような金の瞳がこちらを真っ直ぐ見ていた。
「レイさん」
 泣きそうに、悲しい目をしていた。
「こんなかたちで、会いたくなかった。もっとお互い、関係ない立場で、会いたかった。そうしたら絶対、仲良くなれたのにね」
「エル……」
 泣きそうな顔を無理矢理歪めて、エルは笑って見せた。
 苦しそうだった。

 急に、脇腹を突き抜けていった鮮やかな痛み。
 かっと、目の前でフラッシュを焚かれた時のように全てが真っ白になって、その光に思考が塗りつぶされて、何も考えられない。
 じりじりと灼きつくような痛みの中心に手を当てると、ぬるりと滑った。
(血?)
 次第に混濁してゆく意識の中で、たった一言、聞いた。

「ごめんね」


            *


「久しぶりだハルト。元気そうで何よりだな」
 街外れ。発掘現場の傍に、ハルトはいた。
 先程の酒場にいた、目の細い温厚そうな男を前にして。
「クロイツ、相変わらず人がいいな。苦労しないの?」
 煙草を銜えたままで、ハルトは口の端を歪めて笑おうとしたが、先程ルードに殴られたときに切った傷が痛んで、途中半端な変な顔で終わった。
「苦労してるのはルードのほうだ。真っ直ぐすぎてスピードのかけ方が分からないから。……さっきはすまなかった。あいつも悪酔いしていたんだ」
「……いいんだ。申し開きとか言い訳とか、できる言い分俺はなんも、持ってねぇから」
 片方の手を髪の毛に突っ込んでぐしゃぐしゃとかき回したあと、ハルトはその場にしゃがみこんで、空を見上げた。
 赫い月が我が物面で空を占領していた。
「ハルト……。ソフィアは……」
「慰めんなよ。惨めだから。あいつ殺したの、俺だし。俺が馬鹿だった所為だし……。だから俺さっき、ルードに殴られてちょっと、ほっとした。マゾかな?」
 責めてくれる人がいて、ほっとした。
 お前は悪くないんだって言われるのは、惨めだったから。
「お願いが、あるんだけどさ。あんたらも発掘してるんだろ? あんたらが出入りしてる現場とか、よく顔出す店とか、教えといて。そこには近付かねぇから」
「ハルト?」
 クロイツは、自分の記憶の中にあるハルトと現在の彼との隔たりに躊躇した。
 突進型だったはずだ。こんなふうに事前に情報を集めたりして、逃げるようなことはしなかったはずだ。
 躊躇っているクロイツの様子に気付いて、ハルトは口元の痛みすら気にせずに笑った。
 口の端の痛みが、自嘲に良く似合った。
「トラブルは避けたいっしょ、誰でも。さっき殴られてほっとしたって言ったって、まだ傷口、ずくずくいってんだから。正直、あんたの顔見てんのだって、つらい」
 少しは痛みも和らいだかと、勝手に自分で勘違いしていた。
 触れないように触れないように。そうしていただけ。
 今こうやって直視して、傷口に触れると、まだ痛かった。まだどろどろ、血を流して膿んでいた。
「多分一生、トラウマだし……」
 情けない。だけど本心だった。
「逃げたいよ」
 しゃがみこんだままうな垂れる。ああ、頭って、脳ミソって、重いんだな。
 重力に引かれて、頭に血が集まってゆくのが分かる。
 ぐらぐらした。ただでさえ煙草の所為で、酸素足りてないのに。
「最低な奴で、最高に情けなくて、ごめんな」
 フィルターの近くまで吸い込んだ煙草を、口唇からぽとりと地面に落とし、立ち上がって踏み消した。
「いつも、この近くで仕事をしてる。お前と一緒にいた例の坊ちゃんとは、幸運にも反対側だ。滅多なことじゃ会わないだろうよ。それに大体は今日居た酒場かその近くに顔出してるから、それ以外なら……」
「そっか」
「お前の"蝶"、見つかればいいな」
 ハルトの肩を軽く叩いて、クロイツは踵を返した。
「……さんきゅ」
 ゆっくりと、しかし確実に遠ざかってゆく背中に、ハルトは小さく呟いた。


            *


「ハルトさん」
 どのぐらい、その場に立ったままぼんやりと空を見上げていただろうか?
 全く予想していなかった声が聞こえてきて、ハルトは驚いた、が、振り返らなかった。
 振り返る動作すら億劫なほど、どこかが疲れていた。
「夜の街は危ないんだって、お前も知ってるんじゃないの。眠れないのか?」
「ハルトさんは、どの蝶が好き?」
 質問に答えず、まだ幼い声が訊いた。後ろに立ったまま。
「……そぉだな。カラスアゲハがいいな」
「なんで?」
「あの黒が、気高くて好きだ。光の具合でいろんな色に変わるのも。人間みたいで」
「……そうだね。僕もそこが好きだ。―――悲しいな」
「何が?」
 目の前に広がる発掘現場を見たまま、ハルトが問うた。
 ビルとビルとの間を切り崩して掘り返しているその様は、なんだかアンバランスで、奇妙な芸術品みたいだった。
「僕たち、本当に似てるのに、立場逆だし。何でもっと別の形で、会えなかったのかな。自分の境遇が呪わしいよ」
「エル……」

―――ガゥン。

 静まり返った夜の闇に、銃の乾いた咆哮が響き渡った。
 振り返ろうと捩った体のまま、ハルトはその場に崩れ落ちた。
「……オイ、嘘だろ……?」
 地面に這いつくばったままの惨めな格好で、ハルトは、自分の後ろに立っていた小さな人影を見上げた。
 赫い月が白い頬を彩って、なんだか人間じゃないみたいに見えた。
 うつぶせたからだの下のほうに、小さな池が出来てゆくのが分かる。
 赫い池。
「僕も、嘘にしたかった」
 エルの泣きそうな顔を最後に、ハルトの意識は途切れた。



5.

「何見てるんですか?」
 ざっ、とブーツのそこが地面を擦るような音で、我に返った。
「随分早かったね、"お父さん"」
 先程ハルトが発掘現場を見つめていたのと同じ位置に立って、同じように振り返らずに、後ろに立った人物に言った。
「誰が"お父さん"ですか。本当にもう。こんな風にすっ飛んでくるのは、貴方のためだからですよ?」
「知ってる。ごめんね」
「謝られたら何も言えないんで、やめてほしいんですけど。それとも分かってて言ってるんですか?」
「そうかも」
「……性格最悪。ところで、何見てるんですか」
「名残惜しいなって思って。本当は、見つけたかったんだけど蝶。彼らに会っちゃったってことは、運命なのかなって思って」
「訊いていいですか?」
「ダメ」
「………………」
「嘘。アフライド・ゼイン中佐、いいよ」
 エルはようやくそこで後ろを振り返った。
 そこには、黒い布地に金十字の軍服に身を包んだ、呆れ顔の男がひとり立っていた。
 もう諦めてますけど。そういう気持ちを含んだため息をひとつ。大げさについて見せると、アフライドは再び口を開いた。
「じゃあ、"ミカエル・シャイアティーン大将閣下"にお訊きしますけど」
 ハイ、どうぞ。
 "教会正規軍東軍大将"は、にっこりと笑って部下の質問を許可した。
「何で奴ら、殺さなかったんですか?」
 麻酔銃、なんて。
「うん、そうだね……」
 自分の奥深くに問い掛けるように、ミカエルは何度も小さく頷いて見せた。
「賭けてみたかったんだ、ろうね」
「賭ける?」
「うん。僕は天才だし、見た目と違ってお前よりも随分年上で、色々知っていて、できることはたくさんある。だけど、出来ないことは出来ないんだよ」
「さっぱり分からないんですけど」
「……ああそっか。お前は知らないんだったね」
「何のことですか?」
「知らなくていいよ。お前は。そのままでいいよ」
「何でですか?」
「きっと泣くから」
「は?」
 何言ってんだコイツ、という態度を前面に出したしかめっ面で、アフライドは上官を見下ろした。
 その不躾な視線にもめげず、ミカエルはもう一度笑った。
「世の中には、知らなくて幸せなこともいっぱいあるんだから」
「それならずっと黙っててください。匂わせるようなことも何ひとつ言わないで下さい。完璧な秘密にしてくださいよ。気になるから」
「うん、そうだね、ごめんね」
「猊下がらみですか?」
 間を置かぬアフライドの切り返しに、しばらく迷った末、ミカエルはこくりと頷いた。
 やっぱりね、そう思ったんだ。アフライドは大げさに嘆息。
「分かりました。帰りましょう」
 街の方を顎でしゃくって、ミカエルを促した。少し離れたところに黒い車が停まっている。

「……俺は時々、自分が何してるんだか、わかんなくなるんですよね」
 車へ向かうミカエルの後ろをついて歩きながら、アフライドは口を開いた。
 ひとりごとのように。
「貴方は自分の賭けるものがあって、ジャンヌは猊下に従っていて、それぞれ譲れないものがあって。だけど俺は職業軍人だから、気がついたらこの地位に居ただけで、別に賭けるものも、やりたいことも、この仕事に対する誇りなんかも、別になくて。何やってんだろうって」
 うん。前を歩くミカエルが、小さいけれどしっかりとした相槌を返した。
 聞いてるよ。そういう意思表示。
「何のために、こうしてるのか、分からなくて苦しいときも正直、あるんですよ。訳分からなくて。怖いぐらい純粋な信仰心があったらまた違ったんだろうなって、始終思って。何にも信じてない人間が、信仰上の罪だなんて、人をしょっ引くのが、何のためなのかとか……」
「僕のためじゃダメなの?」
 鮮やかな一発のパンチで、KO。
 豆鉄砲を食らった鳩のように、アフライドは、立ち止まって肩越しに自分を振り返る上官を見た。
 悪戯っぽい笑みを浮かべて、勝ち誇ったような笑みを浮かべて。
「全く……」
 アフライドはもう一度溜息をついた。諦めと、降参と。入り混じった溜息。
「あんたには、一生適わないだろうな」
 そんな自分勝手な台詞で人を納得させられるなんて。きっとこのひとだけなのだ。
 適う訳ないでしょ。僕は天才なんだから。
 得意そうに、少年の姿をした上官が笑うので。
 そうでした、忘れてました。
 合わせるように笑ってやった。

「ところで、休暇は楽しかったですか?」
 後部座席のドアを開けてやりながら、"天才"の上官に聞いた。
 う〜ん、と唸るように悩みながら後部座席におさまったミカエルは、渋い部下が運転席に座る頃、ようやく言った。
「すっごく楽しかった。本当に。それで……悲しかった」
 別々の立場で、会いたかった。
「そぉですね。俺も出来ることならあいつらとは、やりあいたくないんだけど」
「……いい子達だよね」
 ぼすり。
 柔らかいシートに体をうずめて、ミカエルは目を閉じた。
「着いたら起こしてね」
「忘れなかったら」
「上官命令」
「ハイハイ。いっつもこれだ」
 アフライドの溜息に、心の中で謝った。
 ごめんね。我儘で。

 やがて車が、夜の闇を滑るように動き出した。

(ねぇ、ラジエル。僕たちは一体いつまでこうして、大事なものに嘘をつき続けていかなければならないのかな?)
 窓から空を見上げると、大きな赫い月が無気味に光っていた。
 その薄明かりに浮かび上がる街の至るところに、同じ数字が見えた。教会の指定した管理ナンバー。
 『666』。
「ねぇアフライド。知ってる?」
「知りません」
 一拍も置かずに切り返されて、ミカエルは子供のように頬を膨らませた。
「……冷たいなァ、最後まで聞いてよ」
「どうぞ」
「この街の管理No、666だけど。知ってた? 666って、呪われた数字なんだって。なんだかそんな数字つけられた街って、悲しいね」
「貴方はどうしていつも……」
 車のヘッドライトに照らし出される、静まり返った街並み。
 一寸先の闇から視線をバックミラーに移し、アフライドは呆れ顔で上官を見た。
 その上官は、シートに沈んだまま、目を閉じていた。
「そんなふうに何にでも優しくするから、心のキャパが足りなくなるんでしょうが」
「是性分也」
「…………知ってますよ」
 言ってみただけ。とうに諦めてますから。貴方の部下になった時点で、上司運皆無だって分かってるし。
 ハンドルを握りながら、ぶつくさ言う部下に、ミカエルは目を閉じたまま言った。
「お互い、苦労するね」
 まるで他人事のように言う。
 その苦労をかけているのが自分だって分かってるんだろうか?
 この上官と一緒にいると、アフライドは溜息が止まらないのだった。
 溜息をひとつつくたびに、幸せが逃げるというが。
 もしそれが本当だとしたら、自分の幸せははるか遠く、何光年も彼方なのではないだろうか。
 再びバックミラー越しに上官を見ると、目を閉じたままぴくりとも動かなかった。
 相変わらず、死んだみたいに眠る人だ。
 "死んだみたい"に眠る人を見ているのはあんまり気持ちのいいものではないので、バックミラーから前方へ、視線を戻した。


―――賭けてみたかったんだ。
 眠りに落ちる一歩手前。ふわふわとまるで浮いているような意識の中で、ミカエルは思った。強く。
 祈るように。

 純粋に前を見て、間違わないで、本当のものを掴み取ろうとするあの子たちに、賭けてみようと思ったんだ。
 だって。
 あの子たちならもしかしたら君を……。止めてくれるかもしれないって。思ったんだ。

 言葉にはしないけれど本当は、僕はいつだって君が。
 救われて欲しいと祈っているんだ。

 いるかも分からない神に。





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