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―――声が聞こえる。
   寄せては返す波のような。
   遠くから近くから、パルスのように強く、弱く。


1.


 聖書に曰く。
 神は巨大な箱舟で聖なる御使いをこの地へ遣わした。
 巨大なる邪悪から逃れ、清き魂を存続させるために。
 しかし御使いの中には神への反逆を企てた者たちがいた。
 神は怒り、そして嘆き。
 大地へ箱舟を叩きつけた。
 神に従順なる者は生かされ、大地に深く根付いた。


「―――と、これが俺たちの創世記ってわけだな」
 教会の総本山があり、神父を目指す若者たちの集う街、カルチェ・ラタン。
 伝説に記されていた学徒の町の名前を冠したこの街の片隅に、ひっそりと開かれている酒場街の中の、更にひっそりとした―――いわゆる寂れた―――店の中で、二人の男が向かい合って座っていた。
 得意げに聖書を引用して見せた黒い髪に紅い瞳を持つ男は、向かいに座る金の髪を後ろで緩く束ねた男を見た。
「なんだよ今更」
 そんなの、誰もが知っている創世記の一文じゃないか。
 そわそわと辺りを見回しながら、レイは言った。向かいに座る紅い瞳の幼なじみを睨む。
 今日は私服に着替えてはいるものの、レイはれっきとした神学者であり、神父の卵である。
 禁欲を旨とする神学の道。本来ならば、このような場所には踏み入れるのもはばかられるというのに。
 知っていて、わざわざこのような場所を待ち合わせに指定してくる幼なじみの神経が分からない。
 同じ大学の学生や、教師に見つかったらと、レイは気が気ではない。
「ばぁぁか。規律を遵守してる奴がこんな奥にまで入ってくるはずないだろ。見つかるわけねぇよ。堂々としてろ」
「ハルト……」
 見つかるか見つからないかではない。規律を破っているということに良心の呵責があるのだ。
 切々と説明をしていると、ハルトは、退屈そうに欠伸をした。
「ハルト……!!」
「お前、疑問を持ったことないのか?」
「は…………?」
「創世記に、だ」
 レイはとうとう絶句した。
 何がだ、と思う。神など全く信じていないこの男が、突然会いたいと連絡をとってきた挙句、突然聖書の一文を引用し、あまつさえ専門的に研究しているレイに向かって「疑問に思ったことないのか」とは、なんと失礼な男だ。
 今度こそ縁を切ってやる。レイは心の中で決意を固めた。
「何が?」
 冷ややかに言ってやる。
「箱舟は反逆のせいで墜ちたのか、だ」
「は?」
「お前には悪いけどな。俺は神様なんか信じちゃいないんだ。だけど、聖書の話は100パーセント嘘だとは思わない。俺が推測するには、だ。俺たちのご先祖様と言われる人々はだな、でっかい宇宙船でここまで来たんだ」
「その想像力には、毎回感服するよ」
 全くそうは思っていないくせに、わざと言ってやる。そのほうが効果があるのだ。
 ちらりと視線をずらして大げさに溜息をつくと、思ったとおり、ハルトはかなり不満そうな顔をした。
「何で突然そんなことを考えるようになったんだよ? 面白い仕事があるって、砂漠まで飛んでったんだろ? それはどうしたんだよ?」
 ハルトは、遺跡発掘を生業としている。あそこに遺跡がある「らしい」。たったそれだけのあやふやな情報だけでその場に飛んでゆく。
 そして、発掘したものを裏ルートに流す。遺跡発掘と言えば聞こえはいいが、ただ単に盗掘をしているだけの話だ。自分とは目指している方向が違いすぎる。何故こんな友人と今まで続いているのか、レイにはいまいちよく分からない。
「はっ! これだから堅物の勉強家は。いいさ、俺は俺で好きにする」
 ばん、とテーブルを叩いてハルトは立ち上がる。冷めたレイの態度にかなり立腹したらしい。
 その勢いに圧されてわずかにひくりと震えたレイを見下ろして、言った。
「いいか、レイ。聖書の中に神様なんかいやしない。俺は自分で捜しにいくさ。見つけてみせる」
「なにを、だよ……」
「神の船さ」
 不審そうに眉をひそめたレイを見下ろし、得意そうに口元を歪め、ハルトが言った。
 一瞬、場を沈黙が通り抜けた。
「……ガイアズメール」
 呆けたようなレイの口から、とある固有名詞が零れ落ちた。
 聖書に登場する、箱舟・神の船とイコールで繋がるその名前。
 御使いが乗っていたという、あの?
「あんたら神父予備軍はそう呼んでるらしいな」
 口元に馬鹿にするような笑みを浮かべて、ハルトは伝票を持ち上げた。
「おい、ハルト待てよ!」
 さっさと勘定を済ませてしまったハルトは、店を出る刹那にレイを振り返り、言った。
「ガイアズメールを捜すつもりなのか!?」
 ハルトは、酒場の裏に止めたバイクのエンジンを入れたところだった。
 荒々しい勢いで追いかけてきたレイを、無表情のまま、見つめ返す。
「ハルト!!」
「もう、目星はついてるんだ」
 逆上しかけたレイを押さえるように、幾分か優しい声音でハルトは言った。
「お前には悪いけどな、レイ。俺はリアリストだから、ただ唱えるだけの祈りの文句にも、意味のない創世記にも価値を感じない。だけど遺跡は別だ。確かなかたちがある。人の残した跡がある」
「……偉そうなことを言っても、それを売って糧にしているお前には、重みなんて出せないよ」
「言ったろ? 俺はリアリストなんだ。ひとの生きてきた軌跡は素晴らしい。それ相応の価値を認めてくれる人にしか、見せたくないんだ。俺は欲張りだから」
「その価値が金か? 歪んでるよ」
「そうかもな」
 自称リアリストは、口元に自嘲じみた笑いを浮かべた。
 神父の卵はそれきり、追及するべき言葉を失ってしまった。
――― 一体いつからこうなってしまったのだろう。
 暗闇の中、ハルトが点す煙草の赤い光を見つめながら、レイは思った。
『見ろよコレ!!』
 耳元で、幼い頃のハルトの声が鮮やかに蘇った。


          *


 目の前に広げられたのは大きな図鑑だった。
 目をぱちくりして、レイはそれを見た。突然のことにまだ焦点の合わない先に、鮮やかな彩りが見えた。
『…………え?』
『すっごいキレイだろ!? チョウって言うんだぜ?』
 図鑑の上から顔を覗かせ、ハルトが嬉々として言った。
『ずっとずっとずーっと昔にいたんだってさ。もったいないよな〜、なんで滅んだんだろ』


―――かみさま。かんしゃします。あなたの与えてくれたこの糧と、あなたのふかい愛に。

 貧相な細長いテーブルに、ぎゅうぎゅうに腰掛け、感謝するにはわびしい食事を前に、両手を組み合わせる。
 毎日のように繰り返される常套句。
 同じぐらいの子供たちが異口同音に祈りを捧げ、目を閉じる。
 片田舎の孤児院で二人は育った。
 同じ日、同じ場所に捨てられていた。その絆が性格も興味も正反対の二人を繋いでいた。
 幼い頃から短気で喧嘩っ早いハルトは、何故か古代に絶滅した生き物や遺跡に強く興味を示した。

『いつか俺、コウコガクシャになりたいんだ』
 図鑑の蝶をまじまじと眺めながら、レイには聞いたことの無い言葉を言うハルト。
『コウコガクシャ?』
『遺跡とか、掘り返す人のこと。面白そうだろ!? イキモノやブンメイがなんで滅んだのかとか、どういう暮らしをしていたのかとか、調べるんだ』
 あの頃の、生き生きとしたハルトの瞳が、忘れられない。
 それなのにどうして、と目の前で紫煙を燻らすハルトを見つめてレイは思う。
 あんなに生き生きと、絶滅した動植物の生態や、滅んでしまった文明の話なんかをしてくれた少年が。どうして、その情熱を傾けたものを切り売りすることが出来るのだろう。
 何がハルトを変えたのか、レイにはわからなかった。

「そう言えばレイ。"声"、聞こえるようになったか?」
 唐突に発せられたハルトの一言で、レイは現実に引き戻された。
「……声?」
 訝しげに問い返すと、ハルトは意地の悪い笑みを口の端に浮かべて、紫煙とともに吐き出す。
「『神の啓示』だよ」

 人々は、生まれたと同時に例外なく洗礼を受ける。
 この星は、たった一つの宗教によって、強力に束ねられているのだ。 
 もはや信仰は生活に根強く浸透し、「教会」は政治の一端をも握るほどの力を持っている。
 そういうシステムのおかげで、星で一番権威ある学問は「神学」だ。
 だから多くの若者が神父を志し、カルチェ・ラタンに集う。レイもその一人だ。

―――神の啓示とは。
 人々の中にはごくごく稀に、テレパシーのように「神の声」を聞くことのできる人間が存在する。
 それは、神に選ばれたものの証であると言われている。
 司教以上の位に就くためには、その「選ばれた証」である、神の啓示を聞くことのできる「心の耳」が必要なのだそうだ。

「別に僕は、司教様や法王様になりたいわけじゃないよ」
 嫌味のようなハルトの言葉に、レイはムキになって返した。
「だってそのほうが良いだろ? 仰がれて、その上税金生活だぜ?」
「ハルト、僕を馬鹿にするのもいい加減にしてくれよ」
 レイの声には、静かな憤りが滲んでいた。自分の純粋な信仰を踏みにじられた気がした。
 生活のために、金のために。仰がれるために。そんな目的のために神学を学んでいるわけではない。
「僕はただ、少しでも人の心の支えになりたいんだ」
 レイは、服の下に忍ばせたロザリオに、服の上から触れた。
 そうして思い浮かべる、一人の面影がある。
 その人に近づくために……。
「……そうか、悪かったな」
 短くなった煙草を地面に落として火を踏み消すと、ハルトはバイクに跨った。
―――どうしてお前じゃないんだよ?
 心の中で呟いた言葉は、レイに届くはずも無い。
「本当に捜すんだな……」
「ああ。……ファレスタ山脈に行く」
「なんだって!? あそこは立ち入り禁止区域じゃないか!!」
「何でだと思う? レイ」
 ハルトが紅い瞳を真っ直ぐに向けてきて、射竦められるようにレイは黙った。
 何でかなんて、そんなこと考えたことも無い。
 ファレスタ山脈は神聖にして侵すべからず。教会がそう教えているから……。
「考えてもみろよ、レイ。おかしいじゃないか。教会は、何百年も前に神の船探索計画を進めていた。それが途中で打ち切られたことは、お前の方がよく知ってるだろ。ファレスタ山脈が聖域に指定されたのも、その後だ」
 確かに、その奇妙な符合は引っかかる。レイの中の教会に寄せる信頼と、その違和感がせめぎ合う。
 教会がそんな、人々をごまかすようなことをするはずはない。そう思いたい。信じたい。
「自分の目で、確かめてみろよ。連れてってやる」
 押し黙ってしまったレイに向かって、ハルトが言った。戸惑っている背中を後ろから強く押すように。
 与えられた言葉ではなく、おしつけられた価値観ではなく、自分の目で、自分の手で。自分の心で。
 確かめてみろと。
 その一言に後押しされて、レイはこくりと頷いた。促されるままにバイクの後ろ側に座ろうとして、思い出したように訊いた。
「ハルト、どうして考古学者にならなかったんだ」
 何年も何年も、溜めつづけてきたその疑問を今ならぶつけられるような気がした。真っ直ぐに真実を見つめようとしている今なら。
「…………金にならないからさ」
 ぼそりとハルトが吐き捨てた。



2.

 見渡す限り砂と岩だらけの平原に、けたたましい破裂音が響き渡る。
「何が隠密行動なんだよ!!」
 その激しい爆発音に掻き消されないように、レイは大声を張り上げた。
 その瞬間でも、少し後ろで激しい爆発が起こり、砂塵が巻き上げられた。
「砂と自分の舌を喰いたいなら喋っとけ! 嫌なら黙ってろよ!!」
 
 出発から二日後、ハルトとレイは、必死に追っ手から逃げていた。
 ファレスタ山脈までバイクで行くと言い張るハルトに、そんなのじゃいつまでかかるか分からないとレイが抗議すると、
『これはあくまで隠密行動だ。車とかを使ったら、目立ってしょうがないだろ』
 と、もっともらしい理由をつけて説明され、一応レイも納得したのだが。
 絶対に車を調達するのが面倒くさかっただけだ。
 レイはそう決め付けた。そしてそれにかなりの確信を持っていた。昔から後先を全く考えない面倒くさがり屋なのだ。
 ファレスタ山脈に近づいたところで警告通信が送られてきて、そわそわするレイをよそにハルトがそれを綺麗さっぱり無視したため、数台のジープに追われる羽目になったのである。
 バイクは、ハルトがいわゆる裏ルートから手に入れてきた高性能のもので、延々と後ろから追ってくるジープとの差は縮まる気配も無い。
 しかし、先程から引っ切り無しに前方や後方で爆発が起こり、頭から砂を被ってばかりだ。
 先程から何度、耳元を頬のすぐ傍を、弾丸がかすめていったことか。
 どん、と後方で今までと違う音が生まれて、ハルトはサイドミラーに、レイは首だけを後ろに向けた。
 一人の男がジープの上で立ち上がり、空に向かって何かを打ち上げたところだった。
 打ち出された何かは、弧を描くように二人の上まで飛んでくると、パッと散った。そしてそこから霧状の液体が細かく降り注いでくる。
「ちっ……!! レイ、あんまり吸い込むなよ!!」
 大声で叫んだあと、ハルトは後方に何かを放り投げた。
 弧を描いて飛んでゆくそれを思わず目で追ってしまって、レイは血相を変えた。
 派手な爆発音と共に、どん、と砂の柱が立ち、白い煙が舞い上がった。
「手榴弾なんて、どこで手に入れて来るんだよ!!」
 もうもうと立ち上る砂煙と煙幕を見つめて、レイが叫んだ。おいそれと普通の人間が手に入れられるものでもないだろうに。
 しかも、先程から追っ手の男たちが投げてきたものと比べて、はるかに威力が大きい。
「裏ルート」
 バイクの速度を緩めて後方を確認しながら、ハルトは至極簡潔に返答した。
「お望みならピストルからバズーカ、地雷まで、お客様のニーズにお答えします……」
 茶化したようなハルトの台詞が途中で聞こえなくなった。白い煙の向こうでゆらりと黒い影が揺れたからだ。
 一台のジープがこちらに真っ直ぐに向かってくる。
 くそ、と悪態をついて、ハンドルを握りなおしたところで、ハルトの顔色が変わった。
「ハルト!! あのジープ、誰も乗ってない!!」
「……ああ、おそらくあれ自体が大きな爆弾だな」
 ハルトの声色に、先程までの勢いが感じられない。気になって後ろから覗き見たその顔が、血の気を失っているような気がする。
 レイの背筋を悪寒としか呼べないものが駆け上った。
「悪いな、レイ……」
「……ハルト、あんまり聞きたくない……」
「ガス欠だ」
 どかぁん、と派手な音が平原に鳴り響いたのは、それから数瞬後の話。


            *


―――声が聞こえる。
   途切れ途切れに。
   綺麗な歌が。人の声が。
   強く弱く。寄せては返す。
   波。


『ハルト!! 何やってるんだよ!?』
 夕食の時間になっても現れないハルトを捜して、レイは孤児院中の敷地を走り回っていた。
 割り当てられた部屋にも、前庭にも居ない。レイがハルトを見つけたのは、敷地の一番外れにある井戸の傍だった。
 ぷすぷすと空に向かって上がってゆく煙。ぱちぱちと炎が爆ぜる音。
 近づくにつれてその煙が目に突き刺さるように染みる。
 顔をあげ、レイを見たハルトの瞳は、真っ赤に充血していて、涙が潤んでいた。レイには、それが煙のせいだけではないような気がした。
 ハルトが泣いているような気がした。
 足元でちらちらと燃える炎の中に見える本のようなものに目を留めて、レイは目を剥いた。
 即座に井戸から水をくみ上げて、上からぶちまける。
『ハルト……なんでだよ』
 半分以上炭になった聖書がそこにはあった。
『俺はもう信じないんだ。神様なんて……』
 聖書の残骸を見下ろして、消えそうなほどか細い声でハルトは言った。
―――なんで、お前じゃないんだよ。
 ハルトが呟いたその台詞の意味を、レイは知ることは無かった。
 その日からハルトは、神に祈らなくなった。


 頬にぴちりと雫が落ちた。その瞬間深く落ちていた意識が急激に現実に引き戻された。
 薄く目を開くと、視界いっぱいに砂色が広がる。
「目ェ覚めたか〜?」
 声のしたほうに顔を向けると、すぐ隣にハルトが座っているのが見えた。しかし、視界には靄がかかっていて、ぼやけてよく見えない。
「ここ……は?」
「どうぞ上を御覧下さい」
 上方を顎でしゃくるハルトに促されるまま、レイは上を見上げた。
 はるか上に小さな穴。そこから星のような小さな光が見える。首をぐるりと回して辺りを見渡すと、ただっぴろい鍾乳洞のような空洞であることが分かった。
「あそこから落ちたらしいんだよな〜、気絶したお前を引っ張って逃げたとこまではいいんだけど、その途中で砂丘に入っちまって、流砂に飲まれたらしい。……で、動けるか?」
「……何言ってるんだよ」
 と、身体を起こそうとしたところで、痺れたように上手く動かないことに気付いた。
「さっきの霧だ。麻酔に似たモンだから、免疫が無いとそうなる」
 だからハルトは先ほどあまり吸い込むなと言ったのか。
 納得してレイは、体中を支配するけだるさに身を任せ、目を閉じた。その上に腕を乗せたところで、ある事実に気付いた。
―――ハルトは平気なのか?
「俺は平気さ。ダテに裏の道通ってきたわけじゃない。まぁ、だるくないことも無い。だけど動ける。大体の薬はもう効かない」
 まるで心を読んだようにハルトが付け加えた。軽軽しく言ってのけるには、あまりに重い台詞だ。目蓋の上に乗せた腕をすぐに退けて、すぐ傍で平然と紫煙を燻らす男に視線を向けた。
 いくら孤児院を出てからも交流が続いているとはいえ、ハルトとレイが顔を合わせるのは年に数えるほどで。それ以外の間はお互いに別の次元に身を置いて生活している。ハルトが知らないレイの生活があるように、レイの知らないハルトの生き方がある。
 それは重々知っているつもりだった。しかし……。
 "大体の薬が効かなく"なるほどの世界に身を置いて生きているのは、何故なのだろうか。
 もっと他に、もっと楽に、生きてゆける場所はあるはずだ。
「どうしてそんなに……」
 自分を痛めつけているんだ。最後は言葉にならなかった。ハルトの真紅の瞳が、それを封じ込めた。
「…………どうしてお前じゃないんだろうな」
 あの時と同じ言葉だ。聖書を焼き、泣きそうな顔をして立ち尽くしていたときの。
 ハルトの瞳はどこか遠くを見ている。ここでも、向こうでもない。焦点が合っていないような……。
 その視線に、レイは「脆さ」を感じた。そんな自分にびっくりした。ハルトは強いとずっと前から思ってきたから。
 いや、その見え隠れする危うさを、見ないようにしてきたのかもしれなかった。
「お前の方が、素直で信仰も厚くてさ……本当に選ぶつもりなら、俺よりお前だろ」
「ハルト……?」
「信じる信じないは、お前に任せる。無駄だと思うけど一応言う。本当のことだ」
 だるさと痺れを耐えて、上半身だけを起こした。その苦痛に顔をゆがめるレイを、ハルトは目を逸らさずに見つめた。
「……俺には聞こえていたんだ。ずっと昔から」

―――声が聞こえる。
   寄せては返す波のような。
   遠くから近くから、パルスのように強く、弱く。
   神の啓示が。

 神が、選んだもののみに伝えるというその言葉が、突然脳髄に響くように舞い降りてきた。
 その瞬間、この心にあったわずかな信仰が、根こそぎ枯れた。
 神の啓示が、無差別に訪れることを知ったからだ。一番清く、一番信仰の厚い人にだけ訪れるという定説が、綺麗に覆ったからだ。
 嘘じゃないか。
「神様が、一番従順で信仰に篤い奴を選んで話し掛けるなんて嘘っぱちだ。教会が言ってることなんて、嘘なんだよ。それを知ったときから、なんだか全部が空しくなったんだ。嘘のからくりで動いてる世界がさ。だから……。必死こいて生きていた過去を見つけたかったんだ。神様なんていなくても、這いずって生きてる人間の残骸を拾い集めたかった。だから遺跡を掘り返したんだ。けど、あんまりいいものが見つからない。結局残ったのは『ガイアズメール』だけだったんだよ」
 まるで、幼い頃蝶に焦がれたように。ずっとずっと昔、二本の足だけで立っていた頃の記憶を。
 だってそうしなきゃ。信仰の欺瞞を知ってしまった自分の生きる道が、見つからない。
 どうやって立っていればいいかわからない。
 しかし、どんなに土を掘り返しても何処にも信仰の爪あとは色濃く残っていて、寄る辺なしに歩いた人々の記録など、残ってもいなかった。
 そして、最後に残ったのが、神の船。
「遺跡発掘を仕事に選んだのは、一番金が入る仕事だからだ。発掘仲間の情報は安くない。ガイアズメールに関する情報を手に入れるために、金が必要だった。情報を手に入れるために体はったり、生命賭けたり修羅場を抜けたりしてきた。でも、生命かけてでも俺は見つけたかった」
 もっと生々しい、強かなイキザマ。
「それが、俺の考古学なんだよ」
 信仰なんて無くても、人が生きてきた後。もがいた後。それを掘り起こしたい。
 赤と緑の視線がぶつかり合ったまま離れない。
 舞い降りた沈黙が降り積もり、空気を圧縮する。
 息苦しさすら感じて、ハルトは深呼吸した。

「…………うん」
 どのくらい経ったのかわからなくなった頃、唐突にレイが言った。
 何についての了解か、肯定か、承諾か。分からなかった。
 けれど、否定ではなかった。
 それでよかった。

「さんきゅ」



3.

 町外れの小高い丘に小さな教会があった。
 辛うじて中年に差し掛かっているだろう神父がいつも静かに本を読んでいた。
 暖かな木漏れ日の差すその場所は、いつしか孤児院の子供たちの溜まり場になっていた。
『おやおや……また怪我ですか?』
 重い気の扉を押し開けて入ってきた二人の少年は、体中に擦り傷と痣を作っていた。
『だってさ』
 赤い目の周りを青くして、かなり色彩バランスの悪い少年が、つかつかと神父のところまで歩いてゆくと、一番前の椅子に座った。
『親がいるのがナンボだっていうんだよ? あんまり変なこというから、受けて立っただけ。あ、言っとくけど先に手をあげたのは俺じゃないから』
『しょうがないですね、ハルトは……。さ、レイもこちらにいらっしゃい。手当てしてあげますから』
『だってさぁ……』
 あきれたような神父の言葉に、ハルトは納得がいかない。
 宙に浮いた足をばたばたさせて、口を尖らせる。
『捨て子とか、拾われっ子とか、孤児とか言う言葉、この世からマッショウすべきだと思うんだよな〜、俺は』
『そうですね〜、そんなこという奴には鉄拳制裁ですね』
『…………ファスト神父?』
 おずおずと近づいてきたレイが、その言葉に目を丸くする。
『言って分からなかったら、殴ってみればいいじゃないですか。人間っていうものは、自分の体に痛みを受けて、自分で刺を触ってこそ成長するものですから。これはまぁ、私の数少ない人生経験から言えることですけどね』
『やっぱり! ファスト神父は話が分かるや』
『ええ。私はね、不良少年でしたから。ただし、秘密ですよ?』
 初めて会ったときから、なんて破天荒な人だろうと思った。
 こんな神父がいていいのかとも思った。ハルトは気に入っていたようだが、レイは正直、苦手だった。

 ある日レイは、ファストに問うたことがあった。
『どうして聖書を持ち歩かないんですか?』
 レイの中では、聖書と神父はワンセットのものだったのに。ファストは聖書を持ち歩いたりはしなかった。
『レイ、右手を出してください』
 言われるままに、右掌をファストに差し出す。ファストは、小さなその掌を両手で包むと、言った。
『この手に、こんな分厚い聖書を持っていて御覧なさい。何か起こったときに対処が遅れるじゃないですか。聖書はね、自分に一番大事だと思う文句をココに、入れておけばいいんですよ』
 そう言って、ファストが指差したのは自分のこめかみだった。
『この右手は、何か大事なものを掴むとき、守るときのために、空けておきましょうね』
 レイは今でも、ファストのその手の温もりをしっかりと覚えている。
 それからレイは毎日のように、ファストの教会へと通うようになった。

―――ファストは人殺しだ。
 あるときを境に、まるで伝染病のように街中に広まった噂だった。
 若い頃に諍いから幼なじみを殺して刑に服したらしい。
 初めは小さな火の粉が、やがて業火となって街中を灼き尽くす勢いだった。

『神父様!!』
 ファストのところへ行ってはいけない。そうシスターたちに言いくるめられてはいたものの、レイはこらえることが出来なかった。
 ハルトの助けを借りて何とか孤児院を抜け出すと、教会まで全力で駆けつけた。
 扉を開けると、丁度上から差し込んだ光で、天窓のステンドグラスが床に綺麗な絵を描いていた。
 その先、十字架を見上げ、いつものようにファストがいた。
 ただ違うことは、足元に普通に出かけるには大きすぎるかばんが置かれていたということだった。
『神父様…………出てくの? 噂なんて、噂なんて気にしなくても…………っ!!』
 その足元に駆け寄り、腰に腕を回した。ファストは困ったようにレイの頭を撫で、苦々しく笑った。
『火の無いところに煙は立たぬ。頭のいい君なら知っているでしょう、レイ』
『いやだ、聞きたくない!!』
『……私は、幼なじみを殺しました。神父になったのも、そうすれば刑が軽くなると言われたからです。初めは、全く生きがいも何も無かった。でもね、この町に来て、ハルトや孤児院のみんなや、君に出会って。癒しを貰いました』
 レイの顔を覗き込むようにしゃがみこみ、ファストは、自分の首からロザリオを外した。
『ねぇレイ、神父という職業は、人に癒しを与えるものだといわれるけれど、本当はどうなのだろうね』
 ファストは、外したロザリオをレイの首にかけた。
『本当は一番、癒される職業なのかもしれない。君のような綺麗な心に。本当は、聖書や十字架なんて無くても、人は救えるんだよ』
 その緑の瞳に涙を浮かべるレイを、ファストは強く抱き締めた。

 レイにロザリオを託し、ファストは町を去った。しかし、神父の裏切りを許せなかった町の若者によって、帰らぬ人となった。
 ファストは、若者の向けた刃に、全く抵抗しなかったという。
(あの日から……)
 胸にずしりとかかる純銀の重さと共に。レイの目指す先はただ一つだ。
(貴方のようになりたい)


 上から降り注ぐわずかな光で朝が来たことを悟ったレイは、身体を起こした。
 麻酔の余韻も残ってはいるが、昨日よりは随分マシだ。未だ少し痺れの残る体で柔らかい砂の上に立つ。
 心の中がまだ少しもやもやしていた。
 左胸の辺りに手を当てると、幼い頃から肌身離さず身につけていたロザリオに指が当たる。その冷たさが、そのまま心の温度を表しているようだった。
 昨日ハルトに打ち明けられたことを飲み込める頭脳と、受け入れられない心が同じ体の中でせめぎあっている。
 今まで信じてきたものが足元から崩れる音を、確かに聞いた気がした。
 今までずっと信じてきた、揺らがないはずの信仰のシステムが。
 頭の重さと、堂堂巡りを繰り返す考えを振り払うように首を左右に振った。
「よォ、寝坊。起きたか」
 少し遠くから張り上げるようなハルトの声が聞こえた。そちらの方へ体を向けると、ハルトは岩壁に耳をつけて、なにやら無様な格好をしている。
「……何してるんだよ?」
「なんだ? お前まさかここで俺と心中するつもりじゃないだろ? とりあえず突破口を開かなきゃな。それになんだか、近い気がするんだ、ガイアズメールに。この空洞に落ちてから、声が徐々にでかくなってる」
 相変わらず壁に耳をつけた情けない体勢のままハルトが視線だけをこちらに向けて言った。
「…………ここが一番薄いみたいだな。向こうから水音もするし……、ま、ここよりはマシか」
 ぶつぶつと独り言を言いながら、内ポケットから吸盤の突いたワイヤーのようなものを取り出すと、吟味したポイントにそれを取り付けた。
 そして、レイの隣まで来ると、その腕を引っ張り、強引に伏せさせた。
「な、ハルト……何を……っ」
「いいからアタマ、伏せときなさいって」
 ぐっと上から砂に頭を押さえつけられて、突然のことに準備も整わなかったレイの口がわずかに砂を迎え入れる。
 抗議しようと顔をあげたとき、かちりと何かの音が聞こえた。
 数瞬遅れて……。
 爆発音と共に、ぱらぱらと小さな石の破片が頭の上に降り注いできた。
「おー、開いた開いた」
 岩壁にはぽっかりと大きな穴が開いていた。どうやら先ほどの吸盤の突いた道具は小型の爆弾だったようだ。
 まるで子供のような喜び方をして、ハルトはその穴へと向かって歩いてゆく。
「ハルト……」
 やけに静かなレイの声に、穴のすぐ傍まで来ていたハルトが首だけ後ろに向ける。するとそこには、恐ろしいほどに目の据わったレイの顔があった。
「お前はどうしてひとつひとつの行動が突飛なんだよ!? 一言『爆破する』って言ってくれればこっちだって心の準備が!!」
 とうとうレイの堪忍ぶくろの尾とやらがぶちぎれたようだった。
 昔から自分ひとりで勝手に決めて自分ひとりで勝手に行動するハルトの癖は重々わかっていたつもりなのだが、昔とは違い、今は大げさに言えば生命の危険すらありうるのだ。
「お、おい、悪かったって。それより見ろって、こっちから水音が………………」
 こういう普段おとなしいタイプほど怒らせてはいけないということを、どうやらハルトは忘れていたようだった。幼い頃から一番怒ると怖いのはレイだということも……。
 ぐいぐいと詰め寄ってくるレイの気を逸らそうと、ハルトは、穴の向こうを指差して、ぴたりと固まった。
「ごまかそうったってそうはいかないぞ!? 大体お前は昔から…………」
 と、固まったハルトの肩越しに広がる世界を視界に入れた途端、レイはずるずるとそこにへたり込んだ。
 先ほどいた空洞よりも更に広いドームのような空間の大半を占める巨大な物体が、まるで眠っているように横たわっていた。
 機械特有の金属の輝きも今は薄れ、全体が苔に覆われてしまっている。しかし、自然に還れない人工物は、何千年何万年経った今でもその姿をそのまま残していた。

「……ガイアズメール」
 喘ぐように発せられたのは、一体どちらの言葉だっただろうか。


            *


 非常電源の、薄気味悪い緑色に照らし出された鋼鉄の通路を、二人は歩いていた。
 目の前に真っ直ぐ伸びる通路の先は、真っ黒な闇に包まれていて、まるで奈落に向かっているみたいだ。
 入り口は既に壊れていて、何人も拒まないようにぽっかりと穴を空けていた。未だ電気が生きているというのが驚きだった。
 執念に近いものを感じる。

 レイは物珍しそうに、緑色の不健康な光に照らし出された鋼鉄の壁を眺め回している。
 ハルトは黙ったまま、真っ直ぐ前を見据え足を運ぶ。

―――迎えの船を…。

 こつこつと床を叩く靴音しか聞こえないはずのハルトの耳には、確かに声が響いていた。
 今までさあさあと、まるで雨音のようなノイズに邪魔をされていた声が、艦内に入ってからは更にクリアに聞こえるようになった。
 やはり発信源はここか。
 頭痛を催すほどにだんだんと強くなる声に、ハルトは眉間に皺を寄せた。
 目の前が揺れるようだ。眩暈がする。
 何処までも続く細長い通路を少し早足で歩きながら、扉を捜す。
 何処か……、コントロールルームのような場所を……。と探しているうちに暗闇の奥にぼんやりと一枚の壁が浮かび上がった。
 闇に慣れた瞳でそれを見据えたまま近づいてゆくと、それが真ん中で凸と凹のようにかみ合わせてある扉であることに気付く。
 上から下まで眺め回すと、扉の右側に赤いボタンのようなものが目に入った。それに触れてみると、すんなりと横滑りに開いた。
「うわ……」
 素直に喘ぐことの出来たレイは、まだマシだったかもしれない。
 ハルトは目の前に開けた空間に、口を開けたまま呼吸も忘れて立ち尽くす。
 ひたすら広い空間がそこにはあった。ドームと呼んでもいいほどの。ひとつの町がそのまま入ってしまいそうな大きさだ。向かい側に見える扉が、マッチ箱のように小さい。
「ここ、一体なんだろう……」
 何かに導かれるように、ふらふらと中央へ向かって歩き出すレイの口から漏れた声が、鉄の壁や天井に跳ね返されて戻ってくる。エコーのように。
 レイに続くように歩み出したハルトが、ドーム内を眺め回して……、一番奥に祭壇を見つけた。
「集会場かなんかみたいだな」
「集会場? こんなに広くて?」
「……それ以外の何に使うってんだ」

――― 一人では……ま…………んよ。

 つきん。脳の中心からこめかみにかけて、鋭い痛みが駆け抜けた。
 眉をひそめ、こめかみを押さえた。

―――遺伝子…信…。

 後ろから……? 背中に声が刺さってくるような錯覚に襲われて、ハルトは後ろを振り向いた。
「あそこか…………」
 祭壇と向かい合わせるように一つの扉が目に入った。



∞.

 この星の人々は、神に祈ることしか知らない。
 全てを委ねることしか知らない。
 教会から与えられた教義を鵜呑みにして、敷かれたレールを歩くことしか。
 自分の足で立ってみれば、アウトローと線を引かれ。それだけの世界に一体どんな価値がある。
 与える言葉すら、嘘だらけの癖に。
 足掻いて見せろよ。もっと強く。


 しゅん、と小さな音を立てて扉が横滑りに開いた。
 苔色の非常電源にぼんやりと浮かび上がったのは、狭い部屋だった。
 正面とその左右に三面鏡のような巨大なディスプレイ。
  ぴりぴりと、正面の画面が揺れている。電波のようなものが走っているようだった。
「生きてるのか? この機械……」
 後ろから顔を覗かせたレイが、3つのディスプレイを交互に眺めて言った。
「どうやら、そうみたいだな」
「お、おい、ハルト……分かるのか……」
「長い間遺跡発掘で色々やってきたんだ。大体わかる」
 ためらいなく操作パネルに近づいて、なにやらハルトはかちゃかちゃやりだす。

―――何か方法を教えて下さい…
 頭の中で、脳髄の奥で、ノイズに掻き消されながら確かに届いていたパルス。
 しかし今は。はっきりと聞こえる。クリアに、ダイレクトに、この耳の渦巻きの中に響き渡る。
 昔から。ずっと昔から響いていた声。

 中央のディスプレイにパッと電源が入り、今まで暗闇に慣れすぎていためには痛いほどの液晶の光が放たれた。

―――僕達…航海を続けます。僕達を送り出してくれた、地球の皆の気持ちを、踏みにじる事なんて出来ません。

 画像は時々歪み、白黒になり。伝わる音声はぴりぴりと途切れ途切れだ。
 どのぐらい昔のものなのだろうか。
 映画のエンディングロールのように、何かの記録が上へと流れてゆく。
「ウィルス……」
 一言だけそう呟くと、ハルトは沈黙した。
 ディスプレイに浮かび上がる文字をひたすら目で追う。

―――突然発生した原因不明のウイルス。
 生殖機能と記憶能力の著しい低下。そして喪失。
 やがて自我をも失い、人々はただの肉の塊となる。
 見えない悪魔から逃れるために、人々は生まれ育った星を捨て、星の海原へと身を投じた。
 たどり着く場所も知らないまま。

 それはその航海の間に起きた悲しい出来事の記録だった
―――僕、一人では帰れませんよ。
―――…私はもう戻れません。
 意見の食い違いからの区間の離脱。混乱と反乱と……。
          記録者名・リン・ベルガンディ。

 辛い航海だったのだろう。残っている反乱と離脱の記録を見るだけで、それは容易に知れる。
 志だけでは、不安を拭えなかったのかもしれない。
 今みたいに、全てを神様に委ねるわけにもいかなかっただろうしな。
 自分たちの足だけで、歩いていたんだ。
「………………」
「ハルト?」
 不健康な蛍光文字の羅列に目を走らせていたハルトが沈黙する。
 すると、ハルトは大きくひとつ深呼吸をして、ずるりとそこに座りこんだ。
「なんだ。こんなことかよ」
 体の後ろで両手をついて、体重を後ろに掛け、ディスプレイを見上げた。
 レイも、その視線に促されるように同じ場所を見つめた。


―――各区画の指導者及び通信連絡員とその家族に関する規定。
 この航海は目的地、年月何一つ確かなものはない航海である。
 本艦ガイアズメールは多数の区画からなり、その通信は容易ではない。
 今回のような反乱が起きた場合や各区画の通信機能が万が一その機能を失った場合に際し、各区間の指導者及び通信連絡員とその家族の遺伝子に、
 本艦及び各区画から送信された通信を受信するプログラムを組みこむこととする。
 なおこのプログラムは、遺伝子通信機の改良によるものとする。―――

「この通信機能が、なんかのトラブルでエンドレスで流れてるんだ。それを、受信プログラムの遺伝子が残ってる奴らが受信して、神の声だと勘違いしてる、ただそれだけのことなんだ。……隠しておきたがるはずだ。神に選ばれたわけでも、偉いわけでもない。ただ通信のために遺伝子をいじられた奴らの末裔なんだからな……」

 この星の人々は、祈ることしか知らない。
 けれど、こいつらは……。

―――シュウのところで子供が産まれた!!
―――この旅は一体いつまで続くんだよ!? これじゃ飼い殺しだ……。もういやだ、誰か殺してくれ……。
―――貴方と一緒にいたい……。

 今もなお頭の中で響き渡る声の主は。

―――未来を切り拓きに行くんだ。

 ずっと捜してきた。寄る辺なくしても立つ、人の強かさ。
 祈ることよりも、縋ることよりも、前へ一歩足を踏み出す強さ。
「……やっと見つけた」
 生き様。
 見上げた文字に目を細め、口元に浮かべた笑みは不思議なほど穏やかだった。
 自らを寄る辺に、立つ術を知っていて。自らのみを寄る辺に、何にも縋らず立つ術を知っている。
「人が生きていくのに、信仰とか聖書とか……本当は要らないんだな」
 しばらくの沈黙の後、ぽろりと零れ落ちたハルトの台詞に、レイは目を大きく見開いた。
 鋼鉄の床に腰を下ろしたまま、ハルトが、傍に立つレイを仰ぎ見て、眉をひそめる。
「レイ?」
 レイは呆然とディスプレイを見つめたまま、ぎゅっとロザリオを握り締めていた。

―――聖書や十字架なんて無くても、人は救えるんだよ。

「そっか……」
 ロザリオを握り締める手に力を込めて、レイがぽつりと呟いた。
「あの人一度も……聖書から言葉を引用したりしなかった……」
 人の言葉を借りず、自分の心と自分の言葉で。真っ向から向かってきてくれた。
 自分だけの力で。
「大事なのは……、そんなものじゃないんだ」
 人を救う力は、人にしかないものだから。
 温かい掌を、言葉を。癒しをくれたのは。助けてくれたのは。
 奇跡でも信仰でもなく、ただ。
 人の想い。
 神を崇め、祈り、救いを望む前に。
 この足で歩くべきだ。血に塗れ、傷ついてボロボロになっても。
 生きている限り。
 だからそのために、少しでも人に差し伸べられる温かさを持ちたい。
 自らの心で、ひとへ向かってゆける強さが欲しい。

―――この右手は、何か大事なものを掴むとき、守るときのために、空けておきましょうね。

 レイは、ロザリオから手を離した。空になった右手を見つめた。
 ぱたりと、小さな雫が掌に落ちた。じわりと広がるその雫を、きつく握り締める。
 たった今手に入れた大事なものを、―――真実を―――握り締めるように。


「さ、帰るか」
 唐突に発せられたハルトのその一言で、レイは現実に引き戻された。
「帰るって……これからどうするんだ? ガイアズメール、見つけちゃったじゃないか。この情報を流したり……」
「ばぁぁぁか」
 至極真面目に問い掛けたつもりなのに、いつもの茶化す口調で返されて、レイは少しムッとした。
 しかし、見上げてくるハルトの、悪戯小僧のような笑顔に、切り返しを忘れた。
「世の中ひっくり返す度胸はねぇよ。情報料の代わりに反乱が起こりかねないし。それはこれに乗ってきたご先祖様方が一番嫌だったことだろ?それに……」
 少し言葉を切って、ハルトは部屋の中を見渡した。
 いとおしいものを見るように、少し目を細める。
「もったいないだろ。誰が教えてやるかっての」
 体重を支えていた後ろ手を外し、少しひんやりとしたその床に仰向けに寝転んだハルトは、鋼鉄の天井を見上げた。
「今まで俺が手に入れた中で、一番でっかい"標本"なんだぜ? 誰にもやらねぇよ」
「え…………?」
「ロマンだろ」
―――いつか俺、コウコガクシャになりたいんだ。
 立ったままのレイに向けたハルトの笑みは、あの頃の、好奇心旺盛な子供のままだった。
「お前こそどうするんだよ? 『神の啓示』の裏側を知っちまったわけだろ?」
「…………うん」
 小さく頷き、俯いた。右手が胸の辺りを彷徨い、無意識にロザリオを探る。しかし、レイはすぐにその手を胸から引き剥がした。
 何か大事なものを掴むとき、守るときのために……。
「神学の勉強、続けるよ。僕が目指してるのは、聖職者じゃなくてファスト神父だから」
「………………タチ悪いぞそれ」
 記憶の中のファストの面影を思い出し、ハルトは苦々しげに笑った。
「でも、神様なんかより、よっぽど上等だ。お前の鉄拳制裁は、痛いだろうな」
 にやり、と口唇の端に意地悪な笑みを浮かべて、ハルトはレイを見上げる。
 レイは、その言葉と笑みに少しムッとした顔をして、そして笑った。
 子供の頃のように。


「さてと。帰るか」
 ひとしきり笑った後、しばらく黙って鋼鉄の天井を見上げていたハルトが零した。
 勢いをつけて飛び起きて、すたすたと出口に向かって歩き出す。
「……そうだ、どうするんだよ!? あんな高いところから落ちたんだぞ!? どうやって上がるつもりなんだよ!?」
 一瞬遅れてその背中を追うレイが、その現実を改めて思い出す。
 地上への脱出口が、全く分からない状況じゃないか。
「何とかするしかないだろ」
 ただっぴろい、ドーム状の集会場の中央まで辿り着いたところで、ハルトは、先程までいた小さな小部屋を振り返った。

―――幸せにね。

 そのとき、再び声が聞こえた。
 つきん。微かな痛みを伴って、脳髄に響く優しい声。
 幼い頃からずっと悩みの種だったそれが、今度は支えになるような気がする。

「―――自分の力で、な」
「かっこつけたって現状は変わらないんだぞ!?」
 追いついたレイの至極最もな突っ込みに、ハルトはがくりと肩を落とした。
「るせぇ!! イイ感じだったのに……」
「それにどうやって帰るんだよ? バイクだって無くなったし……」
「お前ももう少し心にロマンてモノを抱けよ!!」
「ロマンより生き残ることの方が大事だっ!!」
 鋼鉄の壁に響き渡った、レイの悲壮なまでの絶叫に、ハルトは目をぱちくりさせて黙った。
「……ぷっ……」
 少しの沈黙の後、突然口元を覆って吹き出すハルトに、レイは更に青筋を立てた。
「何がおかしいんだよ!?」
 つかみ掛かってくるレイを何とか押し戻しながら、ハルトは肩を震わせて笑っている。
 呆れた様に、「もういい」と言い放つと、レイはさっさと元来た入り口の方へと歩き出した。
 背中が、怒りのオーラを撒き散らしている。

 生き残ること。

「違いねぇや」
 まだ笑いの余韻に肩を震わせたまま、ハルトはレイの背中を追った。


                            <fin>



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