アサシンの涙




3/28 am0:53

「忙しいんだから、あんたのつまらない用事で呼び出さないでくれる?」
 悪態をつきながらも、律儀に出向いてきた女刑事が、眼前に立ちはだかる。
 腰に両手をあてる体勢で、威圧するようにこちらを見下ろした。
「いや、警察関係っていったら、おまえしか思い浮かばなくて」
 夜間診療の病院の、隅っこに寄せられた黒いソファ。
 右手側に銀の筒状の灰皿が立っている。
 そこに座って、俺は馴染みの女を見上げた。
「無様ね」
 ヒーローものの女幹部のような風格で、警視庁に勤める高坂響は俺の左腕を見下ろした。
 自前の二の腕のあたりには、ぐるぐると包帯が巻かれている。
 見えてはいないが、実は左の脇腹も、縫い合わせたあとがあるのだ。
 重装備だ。
「死ぬかと思った」
「珪丞、あんたね」
 へらへらと言うと、エリート刑事は頭痛でもしたのか、こめかみを押さえた。
「一瞬、天国見ちゃったですよ、俺は」
「あんた、天国なんて行けるの?」
「ひどい、響。俺ほど純粋な人間はいませんて」
「ガキっていうのよ、そういうの」
 ほとほとあきれ返った溜息を落とされた。
「ところで、どうしてそんな無様な怪我をしてるのか、教えてもらっていい?」
「せめて、名誉の負傷と言って」
「誰にどうやって刺されたのかって聞いてるのよ。誤魔化さないで三流作家」
 怒っているらしい。
 さすが刑事。詰問に容赦はなかった。
 話せば長くなるのですが。
「いいから、はじめから全部話しなさいよ」



3/27 am11:28

 ひそひそ話が聞こえたような気がして、目が覚めた。
 ノイズのような、遠い雨音と。
 窓に打ち付ける粒の、炎の爆ぜるような音。
 ぱち、ぱつ。ぱつぱつ、ぴち。
 不安定なリズム。
 異国の雑踏に、突然投げ出されたような錯覚に陥った。
 言葉がわからなくて、たちすくむような。
 うつぶせに抱えた枕に、あてた左側の頬が、ずぷりと沈むような心地よさ。
 ああ、二度寝は気持ちいいだろうな、と思いながら、体を布団から引き剥がした。
 オトナの事情で、出かけなければならなかった。
 南の島の大王のように、雨が降ったらオヤスミにはできない。

 顔を洗って、インスタントのコーヒーだけを胃の中に流し込む。
 本来なら、弱い視力を補うためにコンタクトをはめ込まなければいけないのだけれども、やめた。
 どうせ、気心の知れすぎた相手と話し合いをして戻ってくるだけだ。
 そのあとは孤独にディスプレイと一対一(タイマン)なのだし。目が疲れる。
 とりあえず手近にあった青と黒が入り混じったまだらのような趣味の悪いシャツに袖を通す。
 もう昼近かった。

 机の上に置かれたB4サイズほどの茶封筒と、その周囲に散らばる色とりどりの定型封筒をふと眺めた。
 昨日届けられたその封筒の束は、俺の栄養素だ。
 それはなんの比喩でもなく、事実のひとつでしかない。
 その手紙の束を読むとき、俺は柄にもなく正座なんかをして背筋を伸ばす。
 決して少なくはない、そのありがたい手紙の束の一通は、広げられたまま机の上に乗っていた。
 三つ折にされた淡い桃色の無地の便箋で、やけに白く見えると思ったら、文章は便箋の中央にわずかに書かれているきりだったのだ。
 昨日俺は、それを読んだあと、なんだか複雑な気分になって、そのままベッドに入って寝てしまった。
 死んだ婆さんと北国の田舎で早朝の雪かきをするという夢を見ていた俺は―――たぶん、寒かったのだと思う―――その薄桃の便箋を見て、一気に現実に引き戻されてしまった。


―――おまえも殺してやる。





 放課後の音楽室で、待ち合わせる。
 幼い頃から磨かれて、磨き上げられてきた細い指先が、ショパンを弾く。
 最近、元気にしているの? お父さんは?
 うなずくだけで答えた。
 美しい旋律の、邪魔をしないように。
 白いワイシャツは、ぴしりと、糊が効いていて、背筋がしっかりとのびていて、潔い。
 ピアノの傍に立って向かい合った窓からは、橙のひかりがこぼれて、鍵盤の表をあわく染めている。
 お終いの、夕暮れ。
 音大に進んだら、遠くへ行くんだよね。
 そうしたらこんなふうに、放課後に、音楽室で会うこともできなくなるね。
 お兄ちゃん。
 あなたと同じ苗字を名乗れなくなって、もう四年が経つけれど。
 私はいつでもあなたのピアノの、一番の信奉者でいるの。
 遠くにいても、会えなくなってしまっても、音が聞こえていれば、それでいい。
 天才と呼ばれるあなたと、何もなかった私。極彩色と、無色。
 不幸を呪ったり、妬んだりしたことはなかった。
 あなたは私の、唯一絶対の神のような、そんな存在だった。
 だからいい。
 とおくへ行ってしまっても、いいよ。
 私の耳に、あなたの指が、鍵盤を滑る音が届いたら。

―――いつか、美貴を迎えにいくから。

 オレンジの鍵盤の上。
 静かに指を離して、体半分を捻るようにして、私を見た。

―――僕がちゃんと、ピアニストとして成功したら、おまえを迎えに行くから。今は父さんのところにいて。

 喧嘩しか出来ないかわいそうな夫婦の間に生まれた私たちは、いつでも同じ嵐を乗り越えなければならない、漂流者だった。
 金切り声や、硝子の割れる音や、泣き声を一枚の扉の向こうに隔てて、小さな体を寄せて、蹲っていた。
 大丈夫、とあなたが言えば、大丈夫だと思った。
 繋いだ手。
 ぬくもりが、安堵させてくれた。

 待ってる。
 待ってるから、お兄ちゃん。
 あなたは、私の神様だから。



3/27 pm0:32

 きれいですよ、と彼女が言った。
 エレベーターホールでばったりと会ったお隣さんが、俺の顔を見るなりそう言ったのだ。
「きれい?」
「桜」
 あまり変化しない端正な顔立ちの、薄い口唇の端を笑みの形にして、彼女は言った。
「桜?」
「マンションの前に一本、大きなのが生えてるでしょう」
 ずり落ちかけたショルダーバックの紐を直しながら、彼女は良く通る声で言った。
 鍛え上げられた、歌うものの声帯が生み出す声だった。お隣の大学生は、バンドで歌っている。
 そういえば、玄関の前に、大きな樹が一本植えられていたっけな。
 冬にすっかりと葉を落としてしまって、寒そうな枝ばかりが残っていて。
 近頃ようやくつぼみがついたかなと思っていたところだったが。
「……咲いてたっけ?」
 覚えがない。
「吾妻さん、引きこもりだから」
 表情を少しも動かさずに、隣人が冷たく言い放った。
 別に冷たいわけではなく、彼女はそういう人種なのだ。慣れると別に怖くもない。
「そうなんだ。でも雨が降ってるんじゃな」
 打ちのめされて、ばらばら花が散っているんじゃァな。
 かわいそうじゃないか。
「私は好きですよ。雨の中で見る桜も。―――打ち合わせですか? 平内さんによろしく」
 淡々と告げて、俺と彼女はすれ違った。
 エレベーターホールを抜けて、俺が今歩いてきた道を逆にたどり、俺の部屋の右隣の扉に消える。
 話しこんでいるあいだに、エレベーターは一階に下りていってしまった。
 下に向いた矢印のボタンを押した。


 自動ドアを潜り抜けると、さらりと冷たい、水気をふくんだ風が頬や髪を撫でていった。
 ぺたりと何か冷たいものが額に張り付いてきたので右手で無造作に剥ぎ取る。
 親指と人差し指の間にはさんだのは、薄紅の花弁だった。
 きれいですよ、という隣人の彼女の言葉を思い出して、ふと視線を空に向ける。
 さらさらと風に流れて落ちてくる薄紅の花弁がまるで雪のように見えた。
 ああ、悪くないな。
 妙に納得して、勝手に頷いてしまっていた。
 雨の中の桜ってのも、悪くない。

 日本人が桜を好むのは、儚いからだ。
 咲き誇って、潔く散るところが、日本人の感性と合致するんだろう。
 無常。
 いさぎよさ。
 ブシドー。
 けれどやはり、せっかく花を開いたのに、無差別な雨風に煽られて散ってしまうのはかわいそうだなぁと。
 悪あがきしかできない人間は思ったりする。
 花の命はみじかい。

「……吾妻珪丞?」
 声がして、俺は視線を普段と同じ高さに引き摺り下ろした。
 気がつけば、桜の木の下にひとりの少女が立っている。
 少し冷たい風に、肩あたりまでのこげ茶の髪の毛が弄ばれて、揺れる。
 大きな瞳で瞬きもせずに、じっとこちらを見つめているのは、16、7ぐらいの女の子だった。
「誰?」
 俺は答えもせずに訊きかえした。
 見覚えのない顔だった。
 年齢的にも十ばかり俺のほうが上に見えたし、普段から付き合いのある人種でもない。
 おそらく高校生ぐらいだろうが、一体平日のこんな時間に何をしているのだろう。
 それに、初対面の年下の女の子に呼び捨てで呼ばれて、にっこりと返事ができるほど、俺は人間が出来ているわけではない。
「ひどいよ」
 少女も答えずに、悔しそうに顔をゆがめて見せた。
 見ず知らずの少女に罵倒される覚えはなかったので、俺は黙っている。
「あんたが殺したくせに」
 みるみるうちに、少女の瞳がうるんだ。
 うるんだ涙で、瞳がきらきらと輝いた。表面張力。あふれはしない。
 横殴りの風に、薄紅の花弁がざああっと、乱れ落ちた。
「かえしてよ」
 白い頬に、雨の雫と薄紅の花弁が張り付いた。
 声が、嗚咽にすこしふるえていた。
 少女が、体の脇にぶら下げた両腕の先。拳が強く握られている。
「分かるように説明して」
 そのままじゃ、わからないよ。
 何がひどいのか、俺にも分かるように言って。
 何を返してほしいのか。
 そのままじゃ何も分からない。
 少女は、ぎりっとこちらを睨みつけた。目に力をこめて。
 表面張力でも堪えきれなかったらしい涙が、桜のはなびらが張り付いた頬に落ちる。
「あんたのせいで、お兄ちゃんは、死んだのよ」
「なにそれ」
 俺は、誰もこの手にかけた覚えはない。
 まして、見ず知らずの少女の兄など。
「人殺しィ…ッ…」
 金属質の声で叫んで、ぱっと少女は身を翻した。
 風が吹いて。
 儚い花が視界を埋めて、次の瞬間には、少女は見えなくなっていた。



3/27 pm1:52

「誹謗中傷とか、訳の分からない手紙なんて、山ほど来ますよ。今まで吾妻さんが恵まれていただけですよ」
 細いメンソールの先に火をつけて、美人はそう言った。
 三流作家が出向いた先は、お世話になっている出版社で、担当女史との打ち合わせだったのだけれど。
 出向いたその場所で、すこし前に縁あって知り合いになった売れっ子作家と鉢合わせた。
 若くして新人賞を得たあとも、コンスタントに作品を発表しつづけて、作家としてすっかりと定着した、アイドルのような容姿の小柄な女性だ。
 小野田玖美という女性に、俺は先日届いた奇妙な手紙の話をした。
 一行ばかりの、薄桃の便箋にまとまったやつだ。
「いや、誹謗中傷とか、なかったわけじゃないけどね。今回みたいなのは初めてだからさ」
「変な写真とか、妄想ぶちまけたのとか、来ますよ。気にしていたらノイローゼになっちゃう」
「それは、玖美ちゃんが女の人で、美人さんだからなんじゃないの?」
「それもあるとは思いますけど。―――ピンクの便箋ってことは女の子かな? 字とかはどうでした?」
「かわいい女の子みたいな字だったけど、今は男でもそういう字を書くやついるからねぇ」
 いい意味でも悪い意味でも、男女の差がなくなってきたような気もするし。
 今は、女の子のほうがいろいろな面で大人で、逞しいよね。
「それは事実だけど、何もかもが逞しいって思われているのは、嫌ですね」
 優雅な手つきで、硝子の灰皿に灰を落とす。
「脆いところも見てくれないような、情けない男ばっかりになったら困るもの」
 ああ、そういうところが女の人は大人だなぁと思うわけだ。
 口には出さないでおいたけれど。
 きっと、色々な状況下で冷静な判断を下せるのは、女性のほうだろう。
 現実的。リアリストだ。

「俺って、人殺しかねぇ」
 紫煙と共に唐突に吐き出したら、玖美ちゃんが目を剥いた。
「ありえない」
 瞠目したまま、きっぱりと、言った。
「吾妻さんにひとなんて、殺せませんよ」
「ええ? そんなに即答?」
「だって、そうでしょう」
 吾妻さんに、そんな度胸はないでしょう、と新進気鋭の作家は言った。
 それじゃあまるで、根性無しみたいじゃないの。
「ひとの命の、重みを知ってないと、人間なんて書けないよ」
 だから、吾妻さんにはひとなんて殺せないと思う。
 やけに確信を持って、玖美ちゃんは言い切った。
 一瞬だけ、何を言われたのか分からなくて、すこし間を置いて理解して、なんだか照れくさくなった。
 それは、玖美ちゃん、褒め言葉じゃないのかな。
 好きなように取ってくれていいですよ、と、若手作家はすました顔でシガレットケースを鞄に仕舞いこんだ。


「こらー、アガツマー、あんたが遅刻するから私、会議に借り出されたじゃないのよーぅ! どうしてくれるの、何か奢りなさいよ!」
 応接室を開け放つと同時に、声が飛んできた。
「けむいー、いつの間に応接室は喫煙室になったのー!」
 背を向けた入り口から、聞きなれた声が。
 体を捩って、振り向いた。
「あのね、サヨリさん、これには海よりも深いワケが」
 担当編集者の平内サヨリ女史が、ファイルを片手にそこに立っていた。
「言い訳は聞かないっ! あんたの言い訳はいつも嘘っぽいの!」
 ひどい。
 聞いてよ、とりあえず。
 俺は、家を出る前に出くわした少女の話をした。
 彼女が立ち去ってからすこしぼんやりと立ち尽くしていたら、遅刻してしまったのです。
 話を進めるうちに、サヨリさんの眉間の皺が深くなる。
「うそっぽい」
 話し終えた後の、感想はひとこと。
 脱力した。
 嘘じゃないよ。
「あ、くみちゃん、編集長も会議終わったからって。打ち合わせはじめましょうって」
「すみません、わざわざありがとうございます」
 すっくと立ち上がって、玖美ちゃんがきれいに頭を下げた。
 吾妻さん、それじゃあ、と言い残して颯爽と部屋を出て行った。
 ヒールの音が、遠ざかった。
 それじゃあね、同じ穴のムジナ。
 ああ、あんな下らない話じゃなくて、今度何を書くつもりか聞けばよかった。
 そのほうが楽しい話ができたと思うのに。


「人殺し、かぁ」
 黒い革のソファに背を預けて、天井を仰いだ。
 細い煙がくるりくるりと、回遊する。
「なによ、身に覚えはあるの」
「ない」
「……なら、吾妻くんにはもっと考えることがあるでしょう。目先の問題片付けてからにして、悩むのは!」
 ファイルの束を机の上にどっさと投げ出して、サヨリさんはややヤケクソに言った。どうやらお疲れのご様子だ。
 ダンナさんと喧嘩した?
「うるさい、おだまりっ」
 女王様のように一喝された。
 図星らしい。
 言われた通り、黙ることにした。


―――あんたのせいで、お兄ちゃんは、死んだのよ。

 くるりくるり、回遊する煙と共に、リフレイン。
 桜の乱舞。
 ひそひそ話のような雨音。
 少女の瞳がたたえるひかり。
 薄桃の、便箋の―――。

―――おまえも殺してやる。





 やわらかい、スプリング。
 あおむけに沈んで、天井を見る。
(ここはどこ)
 襟元をただよった無骨な指先が、シャツのボタンにかかる。
 紺色のリボンは、ほどかれて、大きな枕の横にわだかまっている。
 薄い青の、照明。
 ふわり、ふわり、意識はどこか遠く。
 耳の奥で、『月光』が、鳴っている。
 沈んでいっているのか、浮いていっているのか。
(ここは、海)
 薄暗い、日の光が届かないところ。
 海面はどこ。

 生ぬるい手が、内腿を這った。
 やわらかい肌を、何度も撫で擦る動作をする。

(だれ、だったっけ)

 顎の裏に、押し当てられる唇のもちぬし。
 私は、だれと、この深海にいるのだろう。
 光のないところ。

(ただ家に帰りたくなくて)
 他に行く場所もない。
 荒れ果てた家には、アルコールのにおいと、割れたガラスが散乱していて、よく、足の裏を切るから。
 父が荒れてゆくのは、母がご満悦だから。
 あなたが順当に、成功の階段をのぼっているから。
 私なんかより、あなたを引き取ったほうが、良かったと思うからでしょう。
 お兄ちゃん。
 もっと、もっと高いところに、のぼっていっていいよ。

(だから、はやく)

 はやく、と声に出して口走る。
 束ねられた両腕が、必要以上にやわらかいベッドの表面に、つよく押し付けられる。

(はやく私を迎えにきて)

 頤をうわむけて、のけぞるように、咽喉をさらす。
 空気が、薄くなるような錯覚。息ができなくなる。

 はやく。
(もう、帰るところなんてない)
 酸素が足りなくて、意識が朦朧とする。
 きつく、目を瞑ったら、目じりからこめかみのほうへ一滴。
 涙。

 かみさま―――。



3/27 pm9:48

 家に帰るころには、とっぷりと日が暮れていた。
 結局、サヨリさんに夕食を奢って帰ってきたわけである。
 雨はすっかり上がっていた。
 街灯もほとんどない道を折れて、マンションの前のとおりへ。
 ふと、立ち止まった。
 あかりもないのに、ぼんやりと、灯篭のように。
 夜の闇に浮かび上がっている白に近い、桃色。
 マンションの玄関前で、桜は、あの雨風にも負けずに、まだうつくしく咲き誇っていた。
 大木の下、まだ乾かない漆黒のアスファルトには、ばら撒かれた花弁の残骸が張り付いてはいたけれど。

 なんで照明もないのに、ぼんやりと、発光するかなぁ。

 闇と溶け合って、どことなく薄紫の、あかり。
 オーラ? とも違うなぁ。
 幽玄?
 それとも、生命力だろうか。
 生きている、あかし。
 咲き誇り、やがて散るのだ。
 爆発的に、高まる生命力。枯れはてた枝から、花弁を、そして鮮やかな緑を吐き出す力だ。
 たくましい。

 はらり、はらり。
 風もないのに、薄紅が、ひかりを零すように、地面に落ちる。
 零れおちる欠片を視線で追って、樹の根元あたり。
 マンションの階段に、人が座っている。
 体を小さくまとめるように。
 膝に両手を置いて、地面を見ていた。
 花弁が、少女のこげ茶の髪に、降った。
 ゆっくりと、歩を進めると、濡れたアスファルトと靴底が擦れて、キュィ,と。小動物のような鳴き声。
 奇妙な鳴き声に、少女が、アスファルトに注いでいた視点を、持ち上げる。
 首を傾けるようにして、こちらを見た。
「何してるの」
 階段の二段目に座っている少女の、目の前に立った。
「どうして?」
 顎を持ち上げるようにして、澄んだ瞳で少女が、見上げて聞き返した。
 主語のない、謎かけのような。
 ここで、何? と訊き返すと延々ループに嵌るような心持がして、少女の澄んだ瞳を見つめ返すだけにした。
 うすい膜が、少女の澄んだ瞳をおおった。
 きらきらと、きらめいた。
 目じりからこめかみへ向けて、一筋。雫がこぼれおちた。
「なんで殺したの?」
 膝あたり。スカートを握り締めて、少女は咽喉を鳴らす。
 嗚咽をかみころす。咽喉の皮膚が、ふるえて、上下した。
「だれを?」
 俺は、あなたの大切な誰を、殺したというの。
「おにいちゃん」
 迷子の幼子のような、心細そうな目をして、言った。
「おにいちゃんだけいたら、何にもなくても、平気だったのに」
 表情のなかった顔が、丸めたようにくしゃりと歪む。
「もう少しで、迎えに来てくれる、はずだったのに」
 約束したんだから。
 なのにひどい、と少女が。いやいやをするように首を左右に降った。
 頭にへばりついていた花弁がはらり、と落ちる。
 たつ。
 脳天に、冷たい一撃を食らう。
 ぱらり、ぱらりと桜の樹が音を立てた。
 ばらばら。
 すぐに、音の感覚が狭まって、頬や肩に、冷たい雫が落ちてくる。
 雨が降り出した。
 重みのある大粒の雨は、すぐ布に染み込む。ずっしりと、肩と頭とが重くなった。
 こめかみから顎に、額から鼻の方へ。なまぬるい流れが落ちる。
 少女の髪が、濡れて、ところどころ束になる。
 その束の先から、重力に引かれて雫は、ふくらんで、落下する。
 薄い闇のなかに、ひとすじ、ふたすじ、光の粒子を含んだ糸が生まれる。
 少女の、黒いカーディガンに包まれた二の腕に触れた。
 握るようにすると、思ったよりも細くて、驚いた。
「立って」
 命じた。
 驚いた目の開き方をして、ぼんやりと少女が、こちらを見上げた。
「濡れるのはいやだろう、君も」
 横に流してあった前髪がはらりとほつれて、額から鼻筋のあたりにへばりついていた。
 道端で、異国の人に話し掛けられたような顔をしている。声がただの音で終わっている。言葉になっていない。理解できていない顔だった。
 伝わっていない。
「俺は、濡れるのはいやなんだけど」
「……ノ」
 力をこめて、二の腕を引くと、ぎくしゃくと少女が腰をあげた。
「なに?」
 小さな音も聞き逃さないように、聴覚に意識を注ぐ。
 がくりと首をうな垂れたままで、人形のように立ち上がって、少女が。
 ばらばら、アスファルトがけむるぐらいに、激しい大きな雨粒がたたきつけて、声もあまりよく聞こえない。
「ピ…ノ」
 ピアノが、と。
 色を失い始めたくちびるが、形を作った。
「きこえない」
 顎を伝って、光を孕んだ糸が、花弁の散るアスファルトへ。
 雨粒か、それとも。





 音大の傍の、ひとりぐらしの家に、こっそりと遊びに行く。
 薄い青の壁紙。生活感のない、きれいなフローリングが、陽光をはねかえす。
 きらきら。
 光の粒子。
 本棚に、小難しい専門書と、楽譜と、文庫本が。

 お兄ちゃん、本、借りていってもいい?
 あげるよ。
 パソコンが構えた机について、しなやかな指で楽譜を繰る。
 こちらに背中をむけたままで、やさしく、言った。
 気に入ったのがあったら、持って帰っていいよ。
 借りる、の。
 拗ねたように言うと、苦笑して、振り向いた。
 律儀だな、美貴は。
 ほしいものは自分で買うの。笑顔でそうやって、取り繕ったけど、本当は。
(口実になる)
 したたかに、考える。
 返しに、遊びにこれる。
 返したいと、呼び出せる。
 笑顔で計算高い。

 孤独な、嵐の夜の海。
 漂う難破船の中で、手を繋いでいてくれたのは、お兄ちゃんだけだったから。
 暗い夜。
 激しい嵐のきしみに押しつぶされそうになる最中でも。
 鍵盤を押さえる指先が生む、やわらかい旋律や、繊細な指の関節。
 あなたの奏でるピアノの音が聞こえているから、ずっと平気だった。
 父さんが、まるで私を見えないものみたいに、つめたくても。
 お母さんが、お兄ちゃんと会うことに眉をひそめても。
 何もかもばらばらでも、その指だけ繋いでいられたら、それでいいよ。

 背表紙に、指先を滑らせる。
 カタカナが六文字。
 ああ、お兄ちゃんらしい。
 そんなタイトル。

 貸しておいて。
 返しにくるから。



3/27 pm10:03

 玄関の扉を閉ざすと、雨音が一段遠のく。
 指先や袖口、髪のさき。
 様々な先端から、雫が落ちる音が、より大きく。
 フローリングに散る、小さな水の群れ。
 濡れた体を引きずって、居間へ。
 目が覚めて、打ち合わせに出かけた形のままで、放置されていた。
 居間の中央に据えられたテーブルの上に、散らばった封筒と、薄桃の便箋。
 おまえも殺してやる、と。宣戦布告。
 少女の視点がふと、薄桃の便箋に落ちた。
「君の?」
 答えはない。
 少女の瞳は、薄紅の便箋から、部屋の隅に押し付けた本棚に向いた。
 ぺたりぺたりと、裸足がフローリングを踏む。雫が後を追った。
 小さな爪の生えた指先が、本棚から一冊の本を抜き取る。
 メトロノーム。
 カタカナ六文字のタイトルは、半年ほど前にめでたく刊行と相成った拙作だった。
 将来を熱望されていたピアニストが、事故で指に怪我を負って、将来を断たれる。
 そのピアニストが自殺したことをきっかけに、物語は始まるのだが。
(ピアノ)
 ピアノが、聞こえないと。
 少女が泣いていた。
 その小説と、少女の出現との関連性を考えていると。
 どん、とあばらのあたりに衝撃が来た。
 足元に、軽い音を立てて、何かが落ちる。
 本が、無様にページを床に押し付けて、足元に落ちていた。
 投げつけられたのだと気がつくまで、すこし時間が要った。
「あんたが、こんなの書くから」
 少女は、両の拳を握り締めて、きつくこちらを睨みつけていた。
 雨に温度をうばわれて、色を失った顔に、濡れてまとまった髪がへばりついている。
「こんなの書くから、お兄ちゃん、まで」
 こめかみから、顎へ、腕から指の先へ、瞳から、頬へ。
 体中が泣いていた。
「死んで―――」
 両手で顔を覆って、少女はその場に膝からかくんとくずれた。





 報せは、一本の電話だった。
 兄の親友からだった。
 落ち着いて聞いて、美貴ちゃん。
 悠が、轢かれたんだ。
 病院の場所を教えるから、すぐに来て。

 体中の温度が全て、うばわれた。
 指先も爪先も、何もかも冷たくてかたい。
 うまく動かせない。

 タクシーの中、病院のロビー、断片的な記憶を経て、気がついたら病室にいた。
 何しに来たのよっ、と母さんが甲高い声で叫んだ。
 泣いていた。
 お母さん、お兄ちゃんは?
 よろりよろりと、母さんに近づく。
 いつもはきれいに化粧しているのに、今日は髪もぼさぼさだった。
 縋りつくように、母の腕が伸びてきて、私を抱きこんだ。
 お兄ちゃん、は?
 嗚咽だけが、答えた。



3/27 pm10:18

 剥き出しの膝をフローリングにぺたりとついて、少女が肩を震わせていた。
 足元に転がった本を、身を屈めて拾い上げて、ベッドの上に置いた。
「車に撥ねられて、お兄さんが死んだの?」
 所々濡れたフローリングを踏みながら、少女との間合いを詰めた。
 少女が投げつけてきた本と同じようなことが、起こったのだろうか。
 現実に。
 ありえないことではなかった。

 顔を覆ってうな垂れる少女の前に、膝をついた。
 気配を敏感に察知して、野生の獣のように少女が顔を上げた。
 怯えた手が、傍にあるテーブルの上を乱暴にさまよって、手に触れたものを握りこんだ。
 泣き腫らした、ウサギのような目で真っ直ぐに少女がこちらを睨んだ。
 かち、かちかち。
 手の中に握りこんだものが、音を立てる。
 天井の、蛍光灯の光を跳ね返し、銀色が光った。
 手紙の封を切るのに使っていたものが、今少女の手の内にあった。

「私の、かみさま、だったんだから」
 青白い指先がふるえている。かちゃかちゃ、右手に握りこんだそれが、小さな音を立てた。
「どうして、殺したのよ、お兄ちゃんまで、持っていかないでよ」
 虚(うろ)。
 少女の瞳は、うつろだ。深い闇だ。
 きっと俺を見ているのではない。
 残酷な現実を呪っている。
「俺は誰も、殺してなんかいない」
「うそつき」
 斬って捨てるような反論だった。声が鋭い。
「じゃあ、なんで」
 なんで、うばわれてしまったのか。
 赤く泣き腫らした瞳に、新しい涙が生まれて、目の表面がかがやいた。
 右手を、振り上げた。
 体中の重みごと、こちらに体当たりしてきた。
 重みを受け止めきれずに、勢いよく濡れたフローリングに背をぶつけた。
 瞬間、呼吸ができなくなる。
 かぁっと焼けるような熱さが、体の左側。脇腹のあたりに生まれた。
 じんわりと濡れた感触を、そのあとに感じた。
(切った)
 何故か冷静に、思った。

 少女は体を震わせるようにして、俺に重みを預けてのしかかっている。
 体の下に、生ぬるい水溜りが生まれてゆくのを、すこしだけ遠くに感じている。
 強く、鉄の匂いがした。
「あんたが、今、俺を殺しても、あんたが欲しがってるものなんて、ひとつも帰ってこないだろ」
 小さな体を抱きかかえるようにして、なんとか体を、半分だけ起こす。
 床に座りこんだ。
 ざあっと、生暖かい流れが、今度は脇腹から腰へ、下のほうへ伝っていった。
 傷口を見た。
 趣味の悪いシャツが裂けて、そこのまわりが赤黒く濡れていた。
 血を見たら、眩暈がした。
「いやだ、かえしてよ」
 聞き分けのない、子どもだった。
「とらないでよ……」
 しゃくりあげて、泣いていた。
 切れた傷の傍に、まだ当てられたままのカッターが、少女が振るえるたびに細かな傷を残す。
「おにいちゃん……、たすけて」
 助けて、と繰り返して、少女がもう一度右手を動かした。
 とす、と軽い音を立てて、左の二の腕に、突きたてた。
 鋭い衝撃に、唇を噛む。息が詰まった。
 口の中にも、鉄の味が広がった。
「はやく……」
 早くむかえにきて。
 こちらの体に全ての重みを預けて、少女は体の力を抜く。
 力が抜けた指先から、カッターが転がり落ちた。
 雨と、血液とに濡れたフローリングに、ぬめる刃をさらして、転がる。
 じわりじわりと、水溜りは領域を広げ、頭痛がし始めた。
 どこかに、連絡しないといけない。
 血が足りなくなったら、どんな屈強な人間でも、死ぬ。
 携帯電話は、どこに置いたのだったっけ?
 ああ、枕もとだったか。
 ここからだと、手が届かない。
 意識が、端から融解してゆく錯覚。融けてゆく。
 死ぬ、かも?
 まさか。
 笑おうとして、できなかった。
(死んだら、小説が―――)


 けたたましい、歌が鳴り響いた。
 一瞬、なにが起こったのか分からずに、緩慢に瞬きをする。
 冷たい体を縮めて泣いている、少女から。
 彼女のふるえとはすこし違う、鈍い振動が、体に伝わってくる。
 バイブレーション。
 黒い、カーディガンの、ポケット。隙間から光が零れていた。
 グラデーションの点滅。赤から紫、青へ。



 ハレルヤ。



 着信音。
 携帯電話が歌っていた。



 ハレルヤ。



 ごめん、と一言断りを入れて、カーディガンのポケットから携帯電話を引きずり出した。
 傷ついた左腕で今にも崩れ落ちそうな小さな体を支えて、右手で携帯電話を開く。
 通話ボタンを押して、右の耳に当てた。


《美貴、おまえ今どこに》
 切羽詰った男の声が、受話器の向こう側から聞こえてきた。
(通じた)
 外界に、繋がるラインができた。
 そのことに、どうしようもなく安堵した。
「―――突然、申し訳ないんですけど。この携帯電話の持ち主の子と、知り合いですかね」
 息が浅い。
 高熱を出したときのように、ぼんやりと、朦朧と霞む意識。
 受話器の向こうで、相手が息を飲んだ。
 少女の携帯にかけた電話から、聞き覚えのない男の声が聞こえてきたら、きっとだれだって驚く。
 しかも訳あって、呼吸が忙しない。
 怪しい悪戯電話と思われても仕方がない。
「俺は、アガツマという、しがない、作家、な、んですけど」
 言葉が分断される。ぶつり、ぶつり、不恰好に。
 腕のうちに、小刻みなふるえを感じる。
「もしも、あなたが、彼女の知り合い、なんだったら、迎えに来てやって、くれません? ちょっと取り乱してるんで」
《……今、美貴はそこにいるんですね》
 肯定して、住所を告げた。
 強張った男の声は、それでも、今すぐ行きます、と応えた。
「あなたは、この子の……?」
 視界が徐々に、暗くなる。
 目蓋が重い。
 耳元で、男の声が。



《兄です》



3/28 am1:22

「馬鹿じゃないの、立派な傷害よ。ことを荒立てたくないとか、本気で言ってんの? どこまでお人よしでいれば気が済むの。そんなのただの自己満足よ。いい加減にして。痛い目見てるのあんただけじゃない―――」
「事故で、未来を断たれたピアニストがいて」
 まくしたてる、響の声を。
 途中で遮るように、静かに口を開く。
「そのピアニストを神様のように慕う妹が、ショックのあまりに少しばかり夢と現の境がわからなくなってさ」
 響は、黙って聞いている。
「そっくりそのまま似た境遇を描いた作家のせいで兄貴が事故ったと錯覚して、その作家を刺しに行った、なんてさ。一人一人にネームバリューがなくたって、十分、餌だと思わないの」
 マスコミュニケーションという化け物の、恰好の餌食だとは、思わないわけ?
 十分、ワイドショウ一週間分ぐらいのネタにはなるよ。
 あの兄妹の関係とか、両親が離婚をした理由とか、そういうものまで、ハイエナのように貪るに決まってるだろう。
 一応、体半分ほどマスコミという業界の傍を歩いている人間に、言わせてくれ。
 そこはサバトだ。
 飢えた獣の檻だ。
 クラインの壺だ。
 注いでも注いでも、満たされない。
「俺はごめんだね」
 フラッシュや、目を焼くような照明に追いまわされるのは。
 マイク向けられるのも、ごめんだよ。
「……だからってね、刺された場所が悪かったら、死んでたでしょう」
「だから言ったでしょ、一瞬、天国が見えたんだって」
 ひかりが。
 頭の中が真っ白になるというのは、ああいうことを言うのだろう。
 ビッグバン。
 脳内で何かがうまれたような、めまぐるしい、閃光。
 まばゆさ。


 あきれ果てたように、深い溜息を、響がひとつ。
「あんた、どうせ普通に死んだら地獄にしかいけないんだから、見えてたんなら逝っちゃえば良かったんじゃないの、天国」
 手が届きそうだったなら。
「ああー、一瞬、そうは思ったんだけどさ。未練がありすぎてね。俺は畜生ですから。除夜の鐘が百八でも足りないような、煩悩だらけの生きものだからさ」
「今更何言ってるの知ってるわよ」
「小説が」
 左腕と、脇腹の傷口の、焼けるような熱さと、視界を覆い尽くす閃光。
 “死ぬかもしれない”。
 初めて明確に、自分の死を、考えた。

 こわくなった。

 右手を持ち上げて、眼前にかざしてみる。
「小説が、書けなくなるって思っちまったらね。こわくて、びびったんですよ」
 人間生まれてきたからにはいつか死ぬと。
 明日何が起こるかわからないと。
 口で分かったように、いさぎよく並べていたところで、眼前に迫ったらびびって逃げ出すんだ。
 覚悟なんてできやしない。
 いつだって、死ぬのは怖い。
 無様に、縋りついて、あがいてしまうよ。
「天国がどんなにきれいなところでも、すばらしくても。俺には今ここで―――苦界でさ、書かなきゃならんもんが、それこそ山のようにあるんだよ」
 満たされた楽園ではなくて、この、苦しみばかりが溢れている世界でさ。
 同じようにもがいている、同じ時間軸を進む人々に。
 広大な、宇宙の、銀河系の、太陽系の、地球の。
 日本という狭い島国。
 悠久の、何億年も前から流れている時間の、限られた一瞬を共有する、運命的にめぐりあった人々に。
 つたない、万能ではない伝達手段を駆使して。


 俺にはまだ、やりたいことがある。


「死ねないわ、まだ」
 まだ早い。

 響は眉間の皺を更に深く刻む。
「……救えない馬鹿ね。軽々しく言うんじゃないわよ。死ねないって思ってるなら、危険な道に飛び込むのはやめなさいよ、馬鹿らしい」
 恐怖があるなら、迂回しなさい。
 危険を察知するセンサーぐらい、持っているはずじゃないの。
 本能で。知っているはずだ。安全なみちのり。
「飛んで火にいるナントカというのもある」
 きらめきに、妖しいうつくしさに、足を踏み入れてみたくなることも。
 その先が、見てみたいと願うことも、ある。
 戻ってこれなかったらどうしようもないでしょう。
 そういわれたら、返す言葉もないんだけれどね。

「なに、この手」
 右手を、握手するように響に差し出した。
 その掌を一瞥して、女刑事が訊いた。
「引っ張り起こして」
「ばか」
 ぴしゃり。
 拳銃を握ることもある右手が、あっけなくこちらの手のひらをはたく。
「あまえてるんじゃないの」
 はいはい。ふざけてみただけなんですけどね。
「おまえは俺を甘やかさないからね、たすかるわ」
 よっこいしょ、と掛け声をかけて、黒いソファーから立ち上がった。
「ガキは甘やかすと図にのるから」
「はいはい。そのとおりですよ」



3/27 pm11:39

 ご迷惑をおかけしました。
 二十歳前後の好青年が、深々と頭を下げた。
 日焼けをしていない、線の細い、日陰っこのような。
 あたためられて、あたためられて育てられた温室育ちに思えた。
 秀麗で、髪の色は焦げ茶。
 ああ、妹と同じ色だな。
 皮膚の内側に流れている、血が、同じなんだろうと思う。
 DNA。
 他人には踏み込めない、絆のうちがわにいる。

 君は、俺に、殺された人じゃないの?
 妹さんは、そう言っていたよ。

 蜻蛉のような青年は、自分の、繊細な指先をじっと、見詰めた。

―――確かに、僕はもう、ピアノを弾けない指になりました。

 趣味程度にならどうとでもなるけれど、高みを目指すことはもう、できない。
 指先の動きが少しでも鈍ったら、それは致命傷になる。
 謳いあげることができない指では、天上の”へり”にさえしがみつけない世界。

―――美貴にとって僕は、死んだのです。

 顔をゆがめて、痛みを堪えるような笑い方をした。
 ピアニストとして成功して、不幸な妹を、悲しみのそこからすくい上げる存在でいなければならなかった。
 いつか、神様が救いの手を差し伸べてくれる。
 そんなシンデレラストーリーを、信じているしかなかった。

 それは、彼女の盛大な依存なのじゃないのか?
 麻酔のだるさが、体の内側にまだ渦巻いている。
 とろり、脳味噌の一部が溶け出しているような、浮遊感。
 思ったままのことが、思考の検閲を受けずに唇からこぼれておちた。

 シンデレラ。
 かわいそうに、と憐れまれて手を差し出されて、救い出される。
 お伽話の主人公って、大体が皆受身で、待ち受けの人で、荊の園を飛び出す勇気は持っていない。
 新進気鋭若手作家で美人の子の、きびしい言葉を思い出す。
 君の妹は君にもたれかかって、差し出される手を待ち受けていただけだろう。
 君が、どうしようもない理由で彼女に手を伸べることができなくなったんだとしても。
 それで、君のことを死んだことにしてしまうの?
 抹消してしまうのか?
 理不尽だよ。

 違うんです。
 ゆるく、右手を握ってほどく仕草をしてから、青年が言った。
―――依存されることが、僕には心地よかった。
 はらいのけて、叱ることならいつでもできた。
 自分で立てと、突っぱねることなら。
 人、という字のように、互いが互いの、支える棒であったのだ。
 重みを支えている実感に、酔っ払っていたのだ。
 自分はしっかりして、可愛そうな妹を助けてあげる。使命感。
 望んで、神を演じていた。

―――だから、僕の所為です。

 不幸のうちにいることを、どこか、特殊なステイタスのように勘違いをして。
 悲劇の主人公に、なりたがっていたのかもしれない。
 彼は、唇の端を引きずり上げるようにして、笑った。

 ごめんなさい、と。
 青年が腰を折るようにして頭を下げた。



3/28 am1:34

「しょうがないから、送ってくわ。もう電車終わっちゃってるし。馬鹿な弟がいつも世話になってることだしね」
 時計の針は、もう午前を回っている。
「ひどいわ。電車が動いてたら怪我人でも電車で帰らせたのね!」
「気色悪い声出さないで。山中に放り出すわよ」
「ゴメンゴメン」
 剣呑な視線で睨まれる。肩をすくめて、詫びた。
「最近来ないけど、カヲルくんは元気にしてんの?」
 助手席に座らせてもらって、響の弟の話を切り出した。
 滑らかに、車が滑り出す。
「知らない。試験が近いから、あたふたしてるんじゃないの?」
 冷静な姉は、ばっさりと切って捨てた。
「俺は久方ぶりに、君ら姉弟の壮絶な津軽弁での喧嘩を聞きたいけどね」
「馬鹿。聞いてても三分の一ぐらいしか分からないって言ってたのはどこの誰」
 喧嘩は見世物じゃないのよ。

 返事がない。

 いつもなら、軽口で返してくる。
 短くはない付き合いで、そのあたりはちゃんと分かっている。
 人気のない路上で、赤信号に引っかかる。
 ふと、響は助手席を見た。
 首を僅かに傾ける形で、シートに体ごと沈むように、作家は目を閉じていた。
 普段は大して白くもない顔が、貧血でも起こしているのか、青い。
 身じろぎもしない。彫像のように。
 思わず、息を飲んだ。


 ハンドルから左手を引き剥がして、響はその掌を、作家の口元のあたりに、当てた。


 視界の端で、信号が青に変わったのが分かる。
 フロントガラスから、鮮やかな緑の光が、入ってきた。





「……どこまで心配かければ気が済むんだか、馬鹿作家」
 口元に当てていた手で、響は吾妻の頭をすこし強めに小突いた。
「死んだように眠るなっつーの」
 深夜ゆえ、急かす車もなく。
 せっかくの青信号を一回逃してしまう。
 フロントガラスから、今度は赤が注ぐ。

 マンションについたら、どうやって起こしてやろう。
 人気のない交差点で、律儀に信号を遵守しながら、警視庁づとめは考える。

 ああそうだ。傷口を突っついてやったりしたら。
 面白い顔が見れるかもしれない。

 鮮やかな緑の光が再び、まだ黒く濡れたアスファルトを照らした。





<了>



back