サイレン



 うつくしい歌ばかり奏でていて、サイレン。
 私はただ声もなくして、あなたを信奉する下僕。



1.

 サバト。
 強烈な青。真正面から射すレーザーのような、まぶしさ。
 スモークや、人々の密集のせいで、空気はいつもうすい。
 頭に酸素が行き届かなくなって、何も考えられなくなる。
 咽喉を仰向ければ皮膚に、伝わる振動。音とは”ふるえ”なのだと、一番良く分かる場所だ。
 日常生活ならばありえない。破壊的なほどの爆音が当たり前のように鳴る。
 めぐるライト。視界を焼いて過ぎる白。
 娯楽というには、神聖すぎる。
 誰だったか、ステージは天国の淵だと書いたひとがいる。
 その淵へ、指の先でもいいから届きたくて、衝動に任せて手を伸ばす。
 宗教、もしくは黒魔術の儀式か。
 呼吸すらままならない海で、泳ぐ。
 ステージの上は真紅だ。暗い赤に染まる。
 マイクを握る指に煌く指輪が、ぬめるように光る。
 ざっくりと、斬り殺されるように鋭いギターは右耳。
 びりびりと、震えるようなベースの低音は左耳。
 胸に、バスドラの一撃。
 死にに来ている。時々そう思う。
 そう。正面からぶつけられる熱波のような、エネルギー。熱量。
 胸が潰されるような、圧倒的な声。死んでしまう。


 中条のヴォーカルは最近殊に神がかりになった、と。音楽雑誌がそこここで書いている。
 そうかもしれない。
 瀬戸際のかおりがする。
 もしくはタイトロープ。目隠しで棒も持たずに縄の上を歩む感じ。
 落下する一歩手前。その危うさを楽しんでいるような気がする。
 神がかりになったのか、狂気が覗いているのか。それはとても紙一重のような気がした。
 ただ、歌声は鋭くなった。鋭利な刃物になった。
 触れたらおそらく血を流す。


 ヒロコはぼんやりと後ろの壁際からステージを見ていた。
 天国の縁に群がる群集を眺めていた。びりびり、肌が震えるような空気の振動は、ここまでも届く。
 ステージはあんなにも極彩色なのに、そのすぐ下は、真っ暗だった。
 何かたくさんのものが蠢いているのは見えるのに、人の形とは思えない。どこまでが一人分の境界なのか、それも判断がつかない。黒く塗りつぶされて、融合していた。
 こんな夜しか泳げない、不器用ないきもの。
 いつもは、あの何か得体の知れない生命体の構成員なのにな、と思う。
 右手に持ったプラスチックのコップから、ジンジャーエールを咽喉の奥に流し込んだ。
 遠いな、と思った。そんなに距離が離れているわけでもないのに。
 蠢いている人々はどこか遠い。
 いつの間に隙間ができたのかな。
 すっかり氷も溶けた、生ぬるい炭酸飲料を一気に煽った。
 隙間を作ったのは、あちらか、それとも私のほうなのかな。
 それとも、どうしようもなかったのか。

 いつの間に終演になっていたのか、ヒロコには分からなかった。
 ざわざわと引いてゆく、分離してゆく黒い生命体。
 べこべこにへこませたプラスチックを片手に、潮が引いてゆくように会場を流れ出てゆく人々の背を、追う。
 ふ、と。
 胸元にバックステージパスを下げた小柄な女性と、入り口のあたりで擦れ違った。
 首の後ろでひとつに括ってある、ベージュの髪。スタッフ用のTシャツ(黒)を着ている。
 ヒロコは、擦れ違い様、彼女を振り返る。
 本公演は終演です。会場閉館と清掃に入りますので、速やかに出口に。
 アナウンスを聞きながら、ヒロコは小柄なベージュの頭を視線で追った。
 黒いTシャツの背中は、ホールを突っ切って、壁際までたどり着く。壁に背を預けてもたれかかっていた長身の男の人が、それに気がついたように体を起こす。
 ゲイノウジンかな、とヒロコは思った。
 均等の取れた体つきに、こんなアンダーグラウンドには不似合いのスーツ姿で、浮世離れした空気を纏っている。一般人からは、確実に”浮く”。
 黒いTシャツとスーツは、なにやら親しそうに声を交わしていた。
 目を凝らして、良く見ようとする。
 その背中を、誰かが強く押した。
 ごめんなさい閉館なんです。丁寧に詫びながら、さっさと出て行け、とばかりの強さで背を押される。
 やわらかい、音を吸収する映画館のような扉が、目の前でぴったりと閉ざされた。


            *


 芸術一家ね、とよく言われる。
 父は指揮者で、母は声楽家だ。
 兄はバイオリンが得意。
 凄い凄い。褒めそやされる。
 紘子ちゃんはいい声なのね。お母さんのようにオーケストラの前に立って歌うんでしょうね。
 楽しみ。
 楽しみだわ。
 芸術一家ね。

 どれだけ譜面のとおりに鍵盤を押すことができても、課題曲を完璧に音符を追って歌っても、楽しくはなかった。
 三つの頃から、たくさんの楽器を与えられて、何も分からないまま、月曜はピアノ、水曜日はバイオリン、金曜日は歌のレッスン。
 両親のお陰で、高名な先生に師事することができた。
 そこは中指で弾くの。むずかしくても、そうしたほうが綺麗に弾けるのよ。
 形(フォーム)が。
 芸術だから。
 一挙一動。指先まで。
 脈々と継がれてきた古典(クラシック)。
 バイオリンは、兄と良く比べられる。声は、母。
 課題をこなしても、褒められることはない。
 お兄ちゃんのようにお母さんのように、もっと頑張らないとね。
 芸術一家だし。
 何しろ芸術一家だから。

 何のために頑張っているのか、だんだん分からなくなった。
 レッスンは義務で拒否権はなかった。
 音楽一家に生まれたからには音楽は好きだろうと。大きな荷物をたくさん、訳も分からずに背負ったような気がする。
 期待という大荷物。がっちりと結ばれて、途中で降ろすことは厳禁。

 音楽が嫌いなわけでは、決してない。
 ただ、求められるレベルほどにはうまくこなせなかっただけ。
 締め上げられるほど恐ろしくなった。
 期待と現実の間の溝は深く広い。そのあいだに落ち込んだ人々は絶望の声をあげる。
 どうしてもっと、死ぬ気でやらないの。
 だって、そんなの。
 何のためにやっているのか分からなくなってしまったんだもの。

―――これを譜面に起こせる?
 中学の頃だったか。
 いつも遠巻きにこちらを見ていた同級生から差し出されたCDがあった。
 今となってはタイトルも思い出せないけれど。
 当時ギターに狂っていた彼ら彼女らは、マイナーな洋楽の譜面が手に入らなくて困っていて。
 絶対的な音感というものを頼りに、声をかけてきたのだろう。
 音が音符として、譜面として浮かび上がってくる感覚は、言葉で説明をするのはとても難しい。
 クラシックに鍛え上げられた中で、そればかりは財産だと信じている。

 古典以外の音楽にしっかりと触れたのは、それが初めてだった。
 部屋で、ひとりで。
 ヘッドホンを耳に当てて、体を小さく縮めるようにして。

 死にそうになって。

 慌ててヘッドホンを放り出す。
 驚いて、体が震えた。
 聴いたこともない音。とても美しいとは言えない歌声。姦しく鳴る弦楽器。
 あの時、確かに息は止まった。

 それだけは確かに覚えている。



2.

 大学時代の後輩の伝手で知り合ったとあるカメラマンと、どういうわけか出版社のロビーで鉢合わせた。
 俺といえば、場末のチンピラ的な格好で、一流出版社の清潔すぎるロビーでは完全に浮いていたけれども。
 相手はというと、黒いデザインスーツの内側に青いシャツという、お水商売のようないでたちで、別の意味で浮いていた。が、相も変わらず抜群にいい男だった。
 名を、銀 雅(しろがね みやび)という。
「あれ、吾妻さん」
 むこうが先に声をかけてくれた。
 こういうとき、彼が社交的な生き物なのだと再認識する。人付き合いがうまい。
「お久しぶり。吾妻さんは打ち合わせ?」
 ギラギラではない。鈍い金の短髪。ヤンキーとは毛色が違うという感じだ。
 わずかに色の入ったサングラスは完全にオプション。装飾品。隙のない男だなぁと会うたびに思う。
「銀さんこそ、どうしたの」
 カメラマンという職業なのだから、別に出版社にいても不思議ではない。不思議ではないけれども。どちらかといえば、出版物というよりもファッション業界のお人、というイメージがやたら強い。本人もどことなく、ギョーカイという場所の水が合っているような感じがする。
「ああ、音楽雑誌のオシゴトですよ」
 左耳。埋めこまれた赤い石を指先で掻きながら、彼は答える。
 そういうものを撮る人だったかな。
 不思議そうな顔をしていたものか、銀氏は、納得したように小さく笑う。
「高校時代の知り合いが今、どういう因果か音楽ギョーカイにいてね。この間の飲みで賭けに負けたもんだから。アー写をタダ働きですよ」
 アーティスト写真。へぇ、そうなの。相槌をうった。
 そう言えば、音楽雑誌も何冊か出していたっけかな、ここ。
 意味もなく、吹き抜けのロビーを仰いでみたりする。天井は果てなく遠いのだ。
 よくもこんなデカい城に飼ってもらえているものだ、と改めて感謝してみたりする。運は生きる上で必要らしい。
「ああ、吾妻さんひとつ質問いいかしら」
 わざとオネェな言葉で、モデルとしてもやってけるんじゃないの、というカメラマンが質問。
 どうぞどうぞ。わたくしで力になれることならば。
「喫煙所どこか分かります?」
 ああ、同じ穴の狢だったっけねえ、と思う。
 喫煙者に最近の世の中は世知辛いねぇ。
 ここのロビーを入り口の方へ歩いた左側。ブースでしっかり区切ってありますよ。カスミ掛かってるからすぐ分かるでしょう。
 それ以上は何も言わなくても、共有する”生き辛さ”はおんなじだ。確かに、有害な毒なのも分かるんだけどねぇ。副流煙も気にしていないわけではないけれど。
 要はゆとり。そう、ゆとり。
「じゃあ、また。暇があるなら飯でも」
 そうですねぇ、同い年のヨシミもあるし。とお返事を返しながら。ああ、言い慣れてるんだろうなぁ、と直感を。
 別に不快に思ったわけでもないけど。暇があるなら飯でも、なんて。さらりと出てくるのは案外凄い。上手く世の中渡ってる人間だ。半分世捨て人の俺からしたら、尊敬に値したりする。
 それじゃあ、と擦れ違ってから俺はようやく時計に目をやった。
「あ」
 思わず口に出す。やっべ、打ち合わせに遅れるわ。担当女史が背後に黒いオーラを背負っているのが容易に想像できる。
 エレベーターホールに向かう。文芸関連は六階だ。上向きの矢印を押すと、ちょうど良く扉が開いて。
 女性が飛び出してきた。
 物凄い勢いが、肩にぶつかる。おざなりに振り返って、彼女はごめんなさい、とだけ言った。
 若い子、だと思った。肩甲骨あたりまである髪は綺麗なベージュに染められている。ちらりと見ただけだけれど、かなり美人だ。
「雅さんっ……―――!」
 鋭く、彼女が名前を呼んだ。喫煙所に向かいかけた黒いスーツが立ち止まる。
 駆け足でカメラマンに追いついた彼女は、今にも泣き出しそうな顔でなにやら早口にまくしたてている。
 カメラマンは真摯な顔をして、何も言うでもなく、彼女の話を聞いていた。
 遠くて、話は聞こえない。
 感極まった様子で、彼女はいきなり、カメラマンにしがみついた。何か喚いている口の形。ここからでは聞こえない。
 苦い顔をして、カメラマンが彼女の背を擦った。
 俺はデバガメのようにその一部始終を見届けて。
 当然のように打ち合わせには遅刻した。


            *


 馴染みの文芸関係の編集部内では、若手編集者の菊地芙美子さんがソワソワしていた。
 どうしたの? 何だか落ち着かないじゃない。
「ああっ、吾妻センセー、こんにちは!」
 彼女は律儀に先生をつけてくれるので、こちとら、いつもくすぐったい思いをする。
 はにかみ笑いなどする年ではないけどね。笑って誤魔化したくなってしまう。センセーなんて大した人間じゃないんだけれどな。
 で、どうしたの?
「今ですね! 雑誌の取材でですね、『silen』のヴォーカルが社内にいるんですよ! そう思うと落ち着かなくって!」
 瞳を輝かせて、芙美子さんは力説する。
 サイレン?
 ああ、あのロックバンドの?
 芙美子さんて、そういうの好きな人だったっけ?
「いやだって、ヴォーカルの中条が!」
 だって、という接続詞がよく分からないけれど、君の興奮度合いはとてもよく分かったよ。
「まぁ、憧れるだけなら無料(ただ)ですからねぇ。そこから先を望むわけじゃないけど。同じ建物にいるんだとしたら、すれ違いぐらいは期待してしまいたいわけですよ」
 まぁ、それは偶像(アイドル)に憧れるものの心理ではあるかもしれないねぇ。
 握手とか。サインとかお願いするだけでも十分な幸せにはつながるのだし。
「でも、あたしはそういうときになったらぜんぜん駄目なの。きっと緊張して何も言えなくなっちゃう。損してると思うんですけど。あんまり思い切ったことできないから、多分すれ違って、ひそかにほくそえんで楽しむぐらいかな」
 芙美子くん、それは少しいやらしい楽しみ方だな。
「アハハハ! 吾妻センセーそれはセクハラじゃないの!? でも、ゲーノージンって、そういう楽しみ方をされても仕方がない業界に生きてる人だと思いますね。有名になればなるほど呼び捨てにされるのは因果でしょう」
 クロサワとかね。名前がブランドになってしまうものだからね。
 自分の生き様まで商業用に仕立ててゆく姿勢は、真似できたものではないし。
「作家もおんなじ。因果な商売ですけどねぇ。切り売りしていくのは一緒だし」
 そうかね?
「そうでしょー。趣味嗜好がにじみ出てしまうでしょう。恥ずかしい職業だと思いますよー」
 違うね。恥ずかしいんじゃないよ。
 真っ向から否定してみた。
 きょとんと、新米編集者は不思議そうな顔をする。
 違うね、芙美子くん。作家ってやつは、その恥ずかしさが好きなのだ。
 大声で人に言うのは恥ずかしいけれど、主張せずにはいられないのだ。
 嗅ぎ取ってほしいのだ。
 自己顕示欲の発露。
 辱められるのが好きなのよ。
 読者にあれってあなたのことなのですか? そう聞かれるのが、少しこそばゆいけれどうれしかったりするの。
「ヤダッ! 変態ですよそれじゃ!」
 潔癖な動作で、芙美子さんが口元を覆った。
 因果なのは貴方たちでしょ。そんな変態の手綱引いて操ってるんだからさ。
 業が深いのは貴方たちのほうでしょう。
 納得の行かない顔を新米君はする。むぅと眉根を寄せる。
「で? その変態は遅刻しておきながら新米編集者に絡んでるの?」
 襟首をつかまれる。
 彼女は俺よりは身長が低いので、つまみあげられるという感じではないけれど。
 後ろに強く引っ張られると、気道が確保できなくなって苦しくなる。
「サヨリさん、いつの間にそんなところに。気配を消して後ろに回りこむなんて、シノビ?」
「馬鹿者。あんたほど反省の見られない遅刻常習犯もいないわよ。早くこっちにおいで」
 手早く襟から耳にターゲットを切り替えた、担当の平内サヨリ女史。
 まるで漫画のように俺の左耳をがっちりと握って思いっきり引っ張った。
 ジョークで流せるほど、軽い怒りではなかった模様。
 イ、イタ、イタイ。
 そのままずるずると、応接室に連行されてしまいました。
 ばたん、とけたたましく担当氏が扉を押し開くと、真正面に半紙が貼り付けてある。
 大きく二文字「禁煙」と。
 その隣には、よく見かけるあのマーク。タバコの上から赤い丸に斜線。手が込んでいることだ。
 いじめ?
「第三者と壁と自然への弊害を考えなさい。地球を愛するのならば」
 うわぁ、地球愛。それを持ち出されたら、反抗はできません。
 全く、住みにくい世の中になったもんだ。
 サヨリさんは、革張りのソファーの向こう側にさっさと座り込んで、きりっとした顔になった。
「さ、あなたの大好きな、お仕事の話をしましょう。吾妻先生」


            *


 聞くに堪えない雑音が、周りに溢れている。
 父はそういって、よく顔をしかめる。
 父は、英雄の墓場の守人だった。
 クラシックという英雄。それ以外は音楽ではないという。
 声楽に秀でた人でなければ、歌を歌うべきではないと思っている。
 守り続けてきた牙城が、崩されるのを恐れている。
 権威ある古典。
 綿密に構成された音符の芸術品。
 守ってゆくことが、使命と信じている。
 それが父の幸せだ。
 否定はしない。

 ただ、強要されたくないだけ。

 あの日。
 耳からヘッドホンが弾き飛ばされて、ふと我に帰った。
 視界の端にいつの間にか割り込んでいた人の足。
 耳から弾き飛ばされて、フローリングを滑ったヘッドホンからは、わずかな雑音がこぼれている。
 呆然とそれを見つめていた。視界に割り込んだ足を、見上げる勇気はなかった。
 頭が。頭皮が。持っていかれる。
 それほどの痛みが頭の真ん中ほどに。
 ごっそりと、掴めるだけの髪を引っ張りあげられた。
 何をしているんだ、と怒鳴られて、そのままヘッドホンのように床に投げ出された。
 無様に転がる。じん、と痛みを訴える頭に、ヘッドホンがわずかにぶつかった。
 何が起こったのかわからない。とりあえず体を起こすと、今度は左頬が焼けるように熱くなった。
 "殴られた"のだと、理解するまではしばらく時間が要った。

 お前はレッスンも真面目にやらずにこんな下らないものを聞いていたのか。

 足元に、投げ出されたCDのケース。
 プラスチックの表に、皹が入っている。
 見つかった。
 その事実に気づいた瞬間に、体中が水を浴びせられたように冷えた。
 上手に隠れていると思っていたのに。
 見つかったらどうなることになるかなんて、分かっていたはずなのに。
 こんなことになるぐらい、分かっていたはずじゃないのか。

 お前は音楽を分かっていない愛していない。
 どうしてお前だけ分かってくれないんだ。お父さんが悪いのか。あんなにしてやったのにお父さんが悪いのか。

 父の顔を、ようやく見上げた。
 壮絶な痛みを、歯をかみ締めてこらえている顔をしていた。
 被害者は自分であるかのような顔をしていた。
 かわいそうなのは自分だけだと思っている顔をしていた。
 待って。
 どうして。

 お前がそのつもりならもうレッスンにも行かなくていい。全部やめろ。
 やめてしまえ。
 勝手にしろ。勝手にしてくれ。

 その日から、父とはほとんど口をきいていない。
 家の中で完全に孤立をした、不良娘に成り下がった。
 家族との絆と引き換えに自由を得た。
 相互不干渉の境界ができた。
 父は塞ぎこんだ。
 私は好みの音楽を聞く時間を得た。

 あの日は、父の怒りを不当に感じて、自分をとてもかわいそうな生き物だと思ったのだけれど。
 かわいそうなのが誰なのか、もうわからなくなってしまった。
 誰が悪いのかも。


             *


「遅かったじゃない。どこまで煙草吸いに行ってたの」
 会議室と思しきクリーム色の扉を向こう側へ押し開く。すぐさま揶揄するような声が飛んできて、雅は肩を竦める。
「ヒトミちゃんたら、そんなに寂しかったんだ? いやもう、喫煙所が遠くて」
 からかいにはからかいで応じたつもりが。
 しっかりとした男の声が、「ヒトミ寂しかったわァ」と”しな”を作った。
 会議用の、飾り気のないテーブルが、コの字に並べられている。ちょうど入り口に向けて、口を開いている形だ。
 入り口から右手側に、細身の男が座っていた。
 足を組んでパイプ椅子に座っている。履いているジーンズは高価そうで、事実そうなのだろう。
 上着は白のシャツで、飾り気はない。黒い髪は長めで、前髪が目にかかる位置。
 黒いサングラスを装着したままで、雑誌を捲っていた。ページを繰る指にはいくつかのシルバーが嵌まっている。
 どこからどこまでも、”業界”の人間だった。
 中条一弥。名前はヒトミと読む。Silenというバンドのヴォーカリストだ。
 雅が高校時代につるんでいた仲間内の一人である。
 雅は、初対面で彼の名前に同情したものだ。自分も大概男の名前ではないとは言われるが、ヒトミという響きは結構、男の自尊心(プライド)的にひどい。
 ああ、いいのいいの、とヒトミくんは慣れたように笑っていた。
 からかわれるのは幼稚園小学校ぐらいのもので、あとは得だから。イッパツで人に覚えてもらえる何かがあるってことは、人生長い目で見れば得だから。それに可愛いから気に入ってるし。
 言い訳ではなかった。雑誌を捲りながら、他愛もない事のように言う。本音だった。
 そんなふうに、ヒトミくんは、高校時代からデキた子だった。
 勉学が、という意味ではない。学生という枠の中では完全に問題児だったが、人間的に、何かの芯が最早しっかりと出来上がっていた。
 達観のような老成のような。若者が陥りいやすい、独自の哲学に染まっているわけでもない。考え方がやわらかかった。
 だから中条一弥のまわりには、いつも人が多かった。
 多感な高校生の、柱のような。
 その立ち位置は、今も変わってはいない。舞台が変わっただけだ。
 人柱。代弁者で、人身御供。
 ヤクザな商売です、と時折飲み会の席で会うと、ヒトミは言う。
 まことしやかな、いかにも現実のような虚構を売って札に変えるお仕事なのよ、と言う。
 でもお前、それ好きでやってんだろ、と聞くと唇の端で笑う。
―――歌うのはスキよ。

「イッチはどうしたの?」
 頬杖に顎を預けたまま、ヒトミが言った。
「壱子ちゃんがどうしたって?」
「さっき、部屋出てったけど、会わなかった?」
 ヒトミが頬杖から僅かに顔を持ち上げて、雅を見た。
「いいや、見てない」
 どこに座ろうかと考えた挙句に、雅はヒトミの隣の椅子を引いた。
「別にあれじゃないの、打ち合わせって言ったって、お互いケータイの番号も知ってるんだし、あとでどうとでもなるじゃない」
 雅は、腰をおろしながら横目でヒトミを伺った。
「イッチが。久々にお前に会いたいって」
 頬杖をついていた左手で、ヒトミがサングラスを外した。
「壱子ちゃんが? へぇ、なんでだろうね」
「お前が業界人だからじゃないの」
 大真面目なヒトミの言葉に、思わず雅は吹き出した。
「超有名なバンドのマネージャーやってるコが何言ってんだよ、身近にギョーカイ人なら掃いて捨てるほどいるんだろ」
「まぁね。だから感覚は麻痺するよ」
 こともなげにヒトミは呟いた。
 広い会議室に、沈黙。

 飲みの場とはいえ、賭けは賭け、負けは負け。約束は約束だ。
 今日は、友人であるヒトミとマネージャーである篠宮壱子を交えての打ち合わせ。
 一応先程、音楽雑誌の編集者と軽くミーティングはしたのだが、写真をいつ撮るかはご当人同士で、ということで引き揚げてしまっていた。
 実はもう、この出版社―――栄冠舎で打ち合わせる必要はない。
「ねぇ雅、おまえ」
 サングラスの庇護下から離れた剥き出しの双眸は、机のうえに広げられた雑誌に向けられている。
 編集者が置いていったバックナンバー。
 ヒトミの指先が悪戯にページを繰っている。読んでいるわけではないらしい。
「仕事どう、楽しい?」
 唐突だった。
 あれと同じだな、と雅は思う。
 家族ドラマと同じ。ギクシャクしている父子が、会話のきっかけに持ってくるそれ。
 最近学校どうだ、と同じ。
 軽い違和感を覚える。以前はこんな、きっかけの要る奴ではなかった。
 高校時代は大勢がいたから、会話が途切れることもなかったのか? 年を取ったのだとは、思いたくなかった。
「楽しいですよ。自分でやりたかったことだしね」
「家には散々反対されてたじゃん。それはもう雪解けしたの?」
「諦められたみたいよ」
 白状する。
「もう高校卒業して十年よ、二十八よ俺たち。諦められないほうがおかしいでしょ。ヒトミちゃんも散々反対されてたじゃない」
「お前の家は特別だろ、銀サン」
 からかうように他人行儀な呼び方をする。
「昔々から続いた旧家の息子が、家業も継がずにカメラマンじゃそりゃ怒られるだろ」
「兄貴がいたのが助かったねェ、次男で良かったわ、ホント。全部兄貴に押し付けて家を出たようなモンだから」
 これが長男だったらまた、話は変わってきただろう、と良く考える。
 銀という家は、旧くから続いていて、全国に顔も名前も知らないような親戚がたくさん散らばっているような家だ。
 何の因果か、雅が生れ落ちたのは宗家と呼ばれる家で、永く抱えてきた家業を継ぐのが慣習のようになっていた。
「あの頃は、酷かったけどね」
 家族と顔を合わせれば口論ばかりしていた頃を思い出して、雅は自然と苦笑いをしていた。
「今は悠々自適ですよ」
「そう」
 いつのまにか、ページを繰る指先が止まっている。
 視線はページに向けられているようで、どこか虚(うろ)。相槌も、どこか間に合わせのように聞こえた。
「痩せたよね、ヒトミは」
「……そう?」
 気のない返事で、ヒトミが紙面から視線を引き剥がす。
 転寝から不意に引き戻されたような目をしていた。
 無理矢理に目を開いた恰好。
「お前大丈夫? ちゃんと寝てるの?」
「時間があればね」
 ごつい指輪の嵌まった右手で、ヒトミは僅かに目を擦る。
 “時間がないから寝ていない”という意味だ。
「健康に気をつけろとか、言うなよ?」
 頬のあたりで笑って、ヒトミが先制攻撃を。
「不健康なオシゴトなんだ。水物商売だから」
 流行りものの、それは掟だ。
 持ち上げられるほど、飽きられる。
 人々の興味が向くほうへ、向くほうへ、先回りを。先駆者であれ。
 奇抜なパフォーマンスを。年中無休を。
 優美な白鳥も、水面下では必死に水を掻いているように。
 無理が金に化ける。
「平気? それで」
「平気だろうとなかろうと、やるしかないだろ。イヤダって言って止まる問題じゃないんだよ」
 雅はジャケットのポケットの内側で、ジッポーライターの蓋を弄ぶ。
 喫煙所に出かけたはずが、先程”うっかり”吸いそびれたせいで、禁断症状が。
 かちり。
 金属の、音。


            *


 ほんの少しだけ、時間を撒き戻す。
 泣き腫らした目で、彼女は小ぢんまりと座っていた。
 口元に手を当てて、小さく啜り上げる。
「どうしよう」
 うわ言のように呟いた。
 叱られたがっている、と雅は直感で思った。
 ダメだよ、そんなのじゃ。こうしなきゃ、と。道を指し示されるのを待っている。
 あと一歩の最後の決断を人任せにする狡猾さ。自分で選んだと思いたくない逃避願望だ。
 甘やかすつもりはなかった。
「壱子ちゃんは、一体どうしたいの」
 選択権を向こう側へ押し返した。
 彼女は、石像のように動かなくなって押し黙った。

 出版社の屋上にこんな空間があるとは思わなかった。
 まるでデパートの屋上のよう。
 植木がしつらえてあって、自動販売機とベンチ。
 足りないのは、遊具ぐらいだった。
 人気はなかった。

 篠宮壱子は、青いベンチの端にうな垂れて座っていた。
 向かい合うように雅は屋上の柵に背を預ける。
「……分からない」
 ようやく、白状するように一言呟いて、壱子は首を横に振る。良く手入れされたベージュ色の髪がそれに合わせて揺れた。
「いや、分かってるだろ」
 畳み掛けるような反論を。
 甘やかすつもりはなかったのに。口を出さずにいられないのは性分なのか。
「壱子ちゃんは、分かってるだろ。それを行動に移したくないだけだろ」
 赤く潤ませた瞳で、壱子は縋るような上目遣いをする。
「だって、全部駄目になる……」
 声が嗄れている。可哀想に。
(でももう、全部が駄目になっているんじゃないのかな)
 そこまで残酷に、突きつける気にはなれなかったけれど。
「こんなに、皆頑張ってたのに、こんなのって、ないよ……」
 額に拳を当てるようにして、壱子は体を小さく折りたたんだ。
「ヒトミ、暴れるの?」
 右手の内側で、愛用のジッポーライターを弄びながら、他愛もないことのように雅は問う。
 壱子が身を竦ませた。
 反射的に腕を押さえる。
 生き物の本能だそうだ。傷んだ場所を庇うのは。
 沈黙とその所作は、何よりも明らかな肯定になった。
「壱子ちゃん、あのね」
 手負いの小動物を見ているような気になってしまった。
 牙や爪を剥いたところでそれほどダメージは与えられないのに、威嚇のために身を低く構えるしかできない。自分で自分の身を守るしかできない。
 ギリギリで、切羽詰っていて、痛々しい。止めを刺そうと思えばすぐに刺せる。
「これはもう、身内だけの問題じゃないんだから。それは分かってるでしょ」
 一筋、左目から雫が顎のほうへ伝って落ちる。まばたきもせずに、壱子は雅を見据える。
「このまま抱え込んだら本当に、全部が全部駄目になるだろ。壱子ちゃんが言えないっていうなら、俺から連絡するけど」
 ジッポーをポケットにしまいこんで、代わりに携帯電話を引きずり出す。
 開いて、通話ボタンに親指を押し当てる。
「待って―――!」
 悲鳴。
 金切り声だ。
 壱子は、雅の右腕に”飛び掛った”。すがりつく。
「お願い、雅さん待って……」
 腕にしがみついたまま、力なく壱子はコンクリートに座り込んだ。
「おねがい……」
 腕に掛かる重みに、零れ掛ける舌打ちをなんとか飲み下す。
「君がそんなふうにくるしいのは、どうするのが正しいのか分かってるからだろ」
 携帯電話を左手に持ち替える。折りたたんで、仕舞いこんだ。
「どんなに頑張っても、何もなかったことにはならない」
 小さく、頷く気配だけ。
 これ以上は、仕方がない。そんな気がした。
 今は何を口にしても、どうしようもない。
 壊れてゆく危機感ばかり、こんなにもなまなましく在るのに。
「じゃあ、あと一週間待つ。それでも何も変わらなかったら、俺は勝手にするよ」
 だから今はもう、立って。
 コンクリートは冷たいだろう。


            *


「ごめんなさい、ちょっと編集者さんと話をしてて」
 会議室の扉が開いた。
 小柄な女性が顔を出した。
 流石だな、と雅は彼女の顔を見て思った。
 篠宮壱子の顔に、泣いていた痕跡は見られなかった。
「壱子ちゃんも戻ってきたことだし、俺は事務所に帰りますわ」
 パイプ椅子を引いて、雅は立ち上がる。
「ライブは一週間後でいいの?」
「え、あ。ハイ! お願いします」
 機敏に、壱子が答えた。
「じゃあね、ヒトミちゃん」
「じゃあまた」
 簡素な挨拶だけを交わして、雅は栄冠舎を後にした。



3.

***

 上等な嘘ならば陳腐な真実には勝つだろう
 血を流させない方法を暗中で模索する
 不実と罵られるのは遺憾で
 柔な心に傷をつけないためだ

 事の顛末を見届けてくれるだろうか?
 でも無理矢理に真相を探さないでくれる?
 何もかも脱いでしまえばいいわけじゃない

 全て実物のフリをして立体映像(ホログラム)
 触れさせないでごめん
 余裕綽々の顔をして立ち泳ぎ
 後姿はどうぞ見ずに

 終わりまで演出して退場をするつもりさ
 どうかライトが消えたら素直にご帰宅を
 そんなエンターテイメント

 上等な嘘ならば陳腐な真実には勝つだろう
 血を流させない方法を暗中で模索する

 君の目が映すのはきっと虚構

 賞賛される理想形でありたいだけ
 極上の味を
 君の払う代価に見合うパフォーマンス!
 プログラムされたようにさ

 全て実物のフリをして立体映像(ホログラム)
 触れさせないでごめん
 余裕綽々の顔をして立ち泳ぎ
 後姿はどうぞ見ずに

 のたれ死ぬまでがカーニバル 仰向けに
 綺麗に倒れたら どうか素直にご帰宅を
 そんなエンターテイメント

***


 冬の匂いがする。
 コートの襟を立てる。
 新宿駅東口。
 アルタ前。
 初めて彼の声を聞いたのはここだった。
 良くテレビにも映し出される、有名な巨大モニターから降ってきた。
 なんて事を歌うんだ、と思った。
 石造りの広場。俯いてしゃがみこんでいた顔を、驚いて持ち上げた。
 そんな舞台裏を。惜し気もなく赤裸々に歌ったらだめだよ。
 誰もが分かっていることだけど。
 ゲーノージンは架空のいきものだ。
 うまくプロデュースされて、ヴェールをかけられて、商品になっている。
 夢見がちに、憧れたりときめいたりしながら、どこかで気づいている。
 あれはプロジェクトだ。人の形をした、エンタテイメント。

 でも、貴方が歌っちゃだめだよ。
 夢から覚めてしまう。

 つん、と鼻にくる。
 あのときの衝撃を思い出しただけで、泣きそうになった。
 マフラーを巻きなおして、信号を渡る。
 そんなふうに、本当のことを言ってしまったら、傷つく。
(ピアノなんて好きじゃない、なんて。レッスンなんて行きたくないなんて言ったら、お父さんは悲しむ)
 そうだよ、上等な嘘のほうがいいよ。本当の事を口にしたら、後に戻れなくなる。
 何も、ゲーノージンだからじゃなくたって、そうだ。
 隠しておかなきゃいけない舞台裏は、誰にでもある。
 そんなになまなましく歌われたら、どうしたらいいか分からない。
 人ごみにまぎれながら、目にゴミが入ったフリをする。
 これだって、小さな嘘だ。社会に適応するための習性。

 ウォークマンのヘッドホンから、男の声が今日も聞こえている。
 中条一弥。サイレンの新譜。
 鋭さが増したと、音楽雑誌がこぞって書く。
 その男の声。
 あの日、アルタの街頭モニターで耳にしたときから、いつのまにか離れられなくなっている。
 彼らが提供するのは、一流の、極上のエンタテイメント。
 上手く商品になっている。
 演奏も力づよくて悪くない。声には胸を抉られそうになる。

(だから顛末なんて想像させないで)
 夢を見せていてくれればいい。
 終わりなんて突きつけないで。
 舞台裏を、貴方の弱さを見せないでください。
(だから私は私が耳にした貴方の噂が本当だったら)
 私はきっと許さない。

 貴方は鳥の目を持っている人だと思っていた。
 高いところから広いところを見渡せる。
 そんな歌を歌う人だと思っていた。
 父に頬を張られてからもう二年、ずっとそう思っていたのだけれど。
 貴方が自分の力”だけ”では高く飛べなくなってしまったのだとしたら。
 無様な顛末などを見せるのなら。
 なまなましく現実を突きつけられた分の代価は、払って欲しいのです。
 貴方の歌から、私たちは遠いところを見ていた。自分では見えぬ場所。
 私たちに見せた夢が、なんてこともない無様な虚構なら。
 そんなものははじめから要らなかった。
 惑わしていて。サイレン。
 美声の魔女の名前なのだから。


             *


「あれ、喫煙所行ったんじゃなくって?」
 派手な柄シャツが近づいてきたのを、視界の端に見とめる。
 駐車場の車の陰でようやく煙草に火をつけたところだった。
「吾妻さん、車?」
 一息紫煙を吐き出して、チンピラの恰好をした人を見た。
 ビルの1階部分に当たる駐車場のはずれ。カメラの次に大切な愛車にもたれていた。
 作家は、焦げ茶に染められた髪に、青と黒がマーブルになったシャツ。その上からジャケットを羽織っていた。
「いいや、ここを通り抜けたほうが近いので」
 駅のほうにね、と作家は説明した。
 へぇ、それは知らなかったな、と言うと。
 伊達に数年通ってませんから、と笑われた。
 それは失礼しました。小さく笑って、灰を落とす。
「おうち、どこでしたっけ? 吾妻さん。確か俺の実家とそんなに遠くなかった気がしたけど」
 メンソールを、携帯用の灰皿に押し込んで、人差し指を車のドアあたりに当てる。
 流行の指紋照合。新しいものは好きだ。
「おうちは一応、杉並ですねぇ」
「それなら、乗っていきます? 事務所もちょうどそっちだし」
「え! 本当に!?」
「俺なんかの助手席でいいならね」
 実のところ、この作家には随分と興味があった。
 不思議な男だと思っている。
 世捨て人のような恰好で、実は案外熱血なのではないかと思う。
 数年前に知り合ってから、ときたま顔は合わせるのだが、腹を割って話したことはない。

 ということで、作家とドライブをすることになった。
「もしかして、音楽業界の知り合いって中条一弥?」
 助手席の窓を細く開けて、作家はセブンスターの煙を吐く。
「アレ? どこからそんな情報が?」
 文芸関係の編集部内でのやりとりを、作家は掻い摘んで語った。
 そうそう、そのヒトミちゃん。高校時代にやんちゃしてたときの仲間ですよ。
「銀サンってやんちゃしてたんだ?」
「優等生に見えます?」
「全然」
 すぐさま切り返されてしまうのも切ない話だけれど、それは事実だから否定はしない。
「窮屈だったしね、いろいろ、周りが」
「大きい家だものね、銀は」
「ええホント。大変でした十年前ぐらいは」
「カメラマン、反対されたんですっけ?」
「そりゃもう。笑えるぐらいにね」


            *


 レールが全部敷かれているという感じがしていた。
 生まれてから死んでゆくまで。
 生を受けた家の所為なのか、あまりに周囲は閉塞的だった。
 ただっ広く、寒々とした日本屋敷は、正直なところ暗くて好きではなかった。
 家族仲が悪かったわけではないのだけれど。

 行き着く場所は決まっているのだから、どうせ、何をやっても無駄かもしれない。
 シューショクに困らなくていいよねぇと厭味ならばたくさん言われたような気もする。
 ふざけんな。
 この無気力の代価は、札束じゃどうにもならない。
 刹那的な遊びばかり好きになる。
 色々なものを好きになろうとして、様々な遊びをした。
 結局、どれもこれもすぐに飽きる。
 好きになってもどうせ駄目なら、これ以上のめり込んでもねェ。
 どうしようもない。
 そんな諦め方をする。

 勉強だってそうだ。
 知識が増えてゆくのは別に嫌いではないけれど。
 進学だとか、就職だとか。そのための手段で消化されていることが鬱陶しくて。
 そんなにしても、役には立たないんだろう。
 あの頃は、生れ落ちた枠から逃げ出そうとか、考えたことは一度もなかった。
 飼い殺しにされて生きていくんだろうなと思っていた。
 逃げられるとか。可能性すら。
 進学とか就職でどうしよう、どうしたもんだろうと悩んでいる奴らを心底羨んだりして。
 迷うってことは選ぶ道筋が分かれてるってことだ。

 放蕩するには資金は要るが、その点にあまり不自由していなかったのがまた難点だったのかもしれない。
 両親は、刹那的な遊びにも飲酒にも喫煙にも何も口を出さなかった。
 所詮はここに戻ってくるしかない、ということを分かっている顔をしていた。
 若気の至りだ、という顔を。
 一回り年の離れた兄だけが口煩く世話を焼いた。
 兄貴ほどの責任があれば、また違ったのかもしれないと考える。
 嫡男と呼ばれたあの人は、幼い頃から家を継ぐものとしての責任と隣り合わせに生きてきた。
 それほどの、重圧がこの身にのしかかっていたならばまだ、遣り甲斐も見出せたのかもしれない。
 中途半端だった。
 それほどの期待がかけられていたわけでもなく、かといって何もかもから自由だったわけでもない。
 一日一日、消費されてゆくのを待つ。
 どこも、自分の身の置き場ではないような気がする。
 別の容れ物に押し込められている。窮屈だった。


 ヒトミが頬を腫らして登校してきたのは、そんな最中だった。
 口の端を切ったものか、紫色になっている。
 どうしたの、喧嘩?
 分かりやすく非行に走っている奴らとは、違うとは思っていたけれど。
―――ああ、これ?
 親指で口の端に触れて、苦い笑い方をする。
―――親父に殴られた。

 高校に入った頃から、ヒトミは音楽にのめりこんでいた。
 ヒトミの家は両親とも教育者で、息子に一般人と同じレールに乗ることを望んでいた。
 小中高、名のある大学へ。安定した収入へ。
 ヒトミは、それに真っ向から反抗している奴だった。
 どこからそんなバイタリティが沸いてくるのか、当時の俺には甚だ疑問で。
 特に、ヒトミが目指しているのはあからさまな水物商売で、安定とは極端だから、普通の親ならばまず反対するだろうと思うから。

―――家を出るよ。そのうち。
 席に着くなり、何かの決意のように呟いた。
 目に宿る力は強かった。
―――親は嫌いじゃないし、感謝もしてるけど、やりたいことまで指図されるのは嫌だ。
 何かの戒めのように、親父に殴られたという口元に指先を這わせて、渋い顔をした。
―――やる前から、上手くいきっこないって言われるのはごめんだ。
 ヒトミは、温厚そうな皮をかぶって、凶暴な肉食獣だった。
 狙った獲物だけを食い千切る牙を、砥いでいる。
 がんばれ、と口では出さないけれどもいつも思っていた。
 希望だったのだと言ったら、馬鹿にされるかもしれないね。
 お前はがんばれよ、と自分の現状を棚上げにして思っていた。
 それを本当にやっちまう奴だから、人が集まるんだろう。
 二年の半ばでヒトミは学校を辞めて、家を出た。


            *


「カメラ、いつから始めたの?」
 窓の外を眺めながら、作家が訊いた。
 いつのまにか新しい煙草に火がついている。この人もヘヴィーだな。
「高二の終わりかな」
 運悪く渋滞に引っかかっていたが、別に急ぐ仕事もなかったからそのままにしていた。
「先輩がいてね。その中条一弥がらみなんだけど。ライブハウスに出入りをしてて」
 契機のことを、誰かに話すことは稀だ。
 あの頃の自分を思い出すと、若さと馬鹿さに笑ってしまうのと同時に腹が立つ。
 明日のことなど考えずに遊び呆けてた時間は無為だった。
 無駄な時間などないと明るく言う奴もいるが、無為だった、と思う。


 澤口というひとつ年上の男に出会ったのは、ヒトミのライブでだった。
 まだヒトミはアマチュアで、小さな箱で暴れていた頃だ。
 スタッフが足りないから、どうせオマエ暇だろう、と引きずられていった。
 その通り暇だったので、遊びの延長のようにアンダーグラウンドに踏み込む。
 受付やら照明やら、一通りのことはやった覚えがある。が、その晩、先輩だと紹介された澤口から手渡されたのは、重量のあるカメラだった。
 短髪で黒ぶちの眼鏡をかけた澤口は、アルコールと煙草のにおいが蔓延した不健康なライブハウスでは少し浮いていた。
 いつもは俺が撮ってるんだけど、今日はこれから予定があるから、預ける。
 初対面でそんなことを言う人だった。
 預けられたカメラはインスタントでも、家庭用の安いものでもない。そんなものは見れば分かる。
 おそらく高価い。
 預ける、って何言ってんの。
 一通りカメラの扱い方の説明を受けながら、混乱した。
 壊さない保証はない。
 混乱と戸惑いを残したまま、じゃあ、と澤口は去っていった。
 重みだけが残される。

 アマチュアでそこそこ名前の知れ始めたヒトミのバンドの、専属で写真を撮っている人間だった。
―――俺が、雅が面白い絵を描くって言ったから。
 ヒトミがそう説明した。
 つながらねェだろ、そんなんじゃ。
 美術は確かに好きだけど、それも高が知れている。
 通り過ぎた趣味だ。
―――一晩くらい頼まれてよ。
 すっかりと、売り物の顔をして、ヒトミが首を傾げた。
 人に物を頼む態度ではなかったけれど、その顔が本物の芸能人のように見えたから、それでもいいかと思った。
 お前が、高いところに行くんならいいよ。
 そんなことを言った気がする。
 何しろ希望だったから。
 しがらみを脱却してもっともっと、高いところに行くんなら、許す。
 お前に許されなくったって、行くよ。
 ヒーローのようなことを、平然と言った。

 面白い絵が撮れてる、と淡々とした口調で澤口が言った。
 数日後の話。
 光の射し方とか、アングルとか、専門的な言葉を使った。
 これからしばらく忙しいから、君に任せる、と言った。
 ちょっと待って。
 どうせお前暇なんだろう、と同席していたヒトミがまた言った。
 否定できずに黙る。
 それから、ライブの度に重い人様のカメラを持ち出すようになって。
 何ヶ月かに一度澤口に会って見て貰うことが習慣のようになった。
 良い絵、といわれるとむずがゆかった。
 けれど、澤口の言葉に嘘はなかった。
 納得のいく説明をいつもくれる。
 楽しくなってしまった。


「褒められるから、楽しいのよ」
 小さく笑って、作家が言った。
「認められるから、やりたくなる」
 しょうがない、という横顔を盗み見る。
 ゆるゆる滑るぐらいの車。空はもう闇だ。
 幼馴染の大学時代の先輩だというこの男は、作家になると公言して憚らない人だった、と聞く。
「吾妻さんはいつから?」
「え?」
「小説」
「ボクは、中学からかなぁ。やめられなくってね」
 背伸びをするような動作で、簡単に言った。
「自分に自信がない子だったからね。書いたもの褒められて図にのってしまったのよ」
 好きだから卓越していって、褒められるのか。
 褒められるから好きになって、上達するのか。
 どちらだか分からないけどね、どっちもかもしれないね。
 セブンスターのボックスを揺すって、そんなことを作家は言う。
「欠陥を埋めるもんだと、思ってしまうときもあるけど。そんなことを考え出したらきりがないかな」
 褒められて好きに、好きだから褒められる。
 メビウスの輪で、ウロボロスの蛇。結局は一如。
 裏表かもしれない。
「不純かな、と思うこともあるけど。自分を演出するための武器なのかも。コンプレックスと釣り合いを取るためのものかもね。それを職業にできてるってことは、物凄くラッキーだと思うけど。それ以外の仕事をしてる自分なんて、想像できなかったですから」
 この男も重症だな、と思う。
 ヒトミも同じようなことを言っていた。
 音楽以外やってる自分を、想像したことないよ。

 ああ、そういえばそうだな。
 あの人に褒められるのは嬉しかった。
 次は何を言ってもらえるのか。期待がなかったといえば大嘘だ。
 光がどんな風に射すのかという仕組みを知ったら面白くはなるし。
 動いているものをどうやってフレームにおさめるのかを考えると夢中にもなるし。
 人間を撮りたいなぁと目標もできたりしたけれど。
 そんなもんが出来上がる前はただ、澤口に見てもらうのが楽しかったんだろう。
 契機(きっかけ)はみんな不純だ。
 こだわりは好きになってからだろう。
 カメラで食っていきたいんだよ、と澤口はよく、黒ぶちの眼鏡の内側で目を細めていた。
 カメラをいとおしむように触れる。
 がんばれ、とヒトミに思うように思っていた。

 高三の初夏、ふらりと現れた澤口が唐突に。
 そのカメラはお前にあげるよ、と言った。
 やさしい顔をしていた。
 いや、これはただ預かってるだけだから。
 だって、高校入った当初に金貯めて買ったんでしょ。
 貰ったって、どうしようもないんだと思っていた。
 高校を出たら、おそらく銀という大きな家の一部になるだろうし。
 今のような勝手気ままは許されなくなる。
 もらえないよ、といっても澤口はやさしい顔をしていた。
 だってお前、写真好きだろう。だから、やるよ。


「その先輩が、病気で死んでね」
 マルメンライトの箱から一本、引きずり出して咥える。
 無言で、吾妻は聞いている。

 ライブに来られない用事は、病院だった。
 そうやって考えれば、初めて会ったときからたった半年で、随分痩せたような気がした。後から気がついた。
 他人への興味が欠落していた自分にも気付いた。
 手元には、重みが残された。
 カメラをやる、と言われてから一月も経たないうちだった。

「やめようかと思ったんだけど」
 モラトリアムは徐々に終わりに近づく。
 生まれついた枠に引き戻されるまでのカウントダウン。
 手放そうと、思ったんだけれど。
「やめられなくなってね」

 その頃はもう、好きだ、褒められて嬉しい、という初期衝動は通り越して。
 もっともっと、欲しいものが増えていた。
 技術やら、知識やら。
 手に入れたものも多くなっていた。
 玄人には到底届かなくても、何も知らないビギナーではなかった。

「そうだよねぇ」
 軽く、吾妻が同意した。
「やめたくても、やめられないんじゃしょうがないよね」
 実感がこもっている。所詮は同じ穴の狢だった。

「それからはもう、喧嘩ですよ、親と」
 自然と笑ってしまっていた。
 もう笑える話。
 酷い半年だったと思うよ。
 誰も笑っていなかった。


 頑固な親父は何も聞こえないフリをしていた。
 幼い頃は躾に厳しかった母はあからさまにあきれた顔をした。
 一番口汚く罵りあったのは兄貴だったような気がする。
 もうその頃には身を固めて、いつでも家督を継げるように準備ができていた優等生の兄には、ただのガキの我儘に聞こえたのかもしれない。
 立っている場所が違いすぎて、意見はどうにも擦れ違うしかなかった。
 話せば話すほどに、苛立ちは累乗されていって、攻撃的になる。
 手だけは出すものかとなぜか頑なに思っていた。
 それだと、本当にガキの癇癪になってしまう。
 まわりの柱やテーブルに当たるから、結果的に右手に傷は絶えなかったのだけれど。
 納得していただろう、と兄は諭す。
 自分が辿る道筋に、納得はしていただろう。
 そりゃ昔はね、と思う。
 逃げ出せるなんて、かけらも思っちゃいなかったさ。
 ヒトミのくすぶる炎を宿した目が蘇る。
―――家を出るよ。
 枠の外には出られるものだ。自分で内側から鍵をかけていただけで。
 その事実に気がついたら、納得なんてできなくなった。
 昔はね。それでよかった。定めと諦められたけどね。
 変わってしまったんだ、もう。

 兄の部屋の障子を叩きつけるように閉めて、大きな家に唯一の洋間に荒々しく踏み込むと、なぜか見透かしたように義姉がいる。
 始さんもお義父さんもお義母さんも、心配なだけなのよ。
 雅ちゃんは、好きにしたらいいわ。私も好き勝手したもの。結局は、頑固なほうが勝つのよ。根競べよ。
 凛々しく、義姉が言った。
 ごくごく普通の一般家庭から旧家に嫁ぐまでは色々あったと聞いた。
 始さんも実はもう、覚悟は大分できてるのよ。あと一押しよ。
 すがすがしく笑っていられる彼女は逞しかった。
 今でも頭が上がらない。

 結局は、日常茶飯事になった兄貴との怒鳴りあいにいきなり親父が入り込んできて、勝手にしろ、といって全ては終わったわけだが。
 それから数年は、敷居をまたぐのも何だか気が引けた。
 今では仕事が大分忙しくてなかなか帰れない実家だが、戻るときには何か土産を買ったほうがいいだろうかと考える。
 十年が経てば、笑い話になっている。
 立派なものだ。


「だから俺は随分、ヒトミちゃんは好きなんだけどねぇ」
 本人の前では言ったことはないけれど。
 彼は先駆者だから。
 目の前の藪を開いて道をつけた男だから。
「忙しそうでかわいそうね」
 煙草の先に火を。思い出したように点火する。

 音楽(それ)、好きでやってんでしょ? そうやって聞いたらきっと少し前までなら、即答で「勿論」が帰ってきた。
―――歌うのはスキよ。
 そんな回答が返ってきて少しばかり驚いた。
 じゃあ、商売(ビジネス)は?
 商品であることは?
 そこまでツっこんで聞く勇気はなかった。
 ああ、壱子ちゃんのことを言えない。
 俺も結局、言葉にして現実として認めるのが怖かったんだろう。
 なんだかんだ言ったって、憧れには違いねんだ。
 全部駄目になんて、なって欲しくなかった。
 オマエには、狙った獲物のために牙を砥いでる獣のままでいて欲しいんだ。



4.

 完全体(インテグラル)。
 そんなものになれたら、いいのに。

(でもどこかで誰かが言っていた。ミロのヴィーナスは腕がないからあんなに人を惹きつける。どんな形だったのだろう? 何かを持っていた? 欠けているから、あんなにも人の目を引く)
 欠陥品だから。
 何かが足りていないから。

 何かを愛するのは、きっとそんなものだ。
 偶像へ対する憧れは、自分ひとりでは埋まらない空白へ注ぎ込むための衝動。
 自慰行為(マスターベーション)。
 自分が気持ちよくなるための手段。
 最後は結局は、自分を慰めるためなんだろう。
 自己愛(ナルシズム)。
 結局は自分を満たすためにしか生きていない。
 羞恥が備わってしまった時代から、繰り返されつづける埋め合わせ。
 根本が飢えているからどうしようもない。
 渇いているから潤いたい。

 普段は目を逸らしてしまうもの。咽喉元で塞き止めてしまう言葉を平気で言う男だ。
 中条はそういう、凶悪なことを平気でする。
 けれど、赤裸々にさらされる醜さやリアルは、遠い世界のファンタジーではない。
 代弁者だった。
 だから凶暴な強さに近寄らずにはいられない。
 ワイドショウと同じかも。
 残酷な現実を、見に行くのだ。
 生きている世界を目の当たりにしに行く。
(貴方のその、クリアな目で全てが見えていると思っていたいのです)
 幻覚とは思いたくない。
 冷静な頭で見定めた現実だと思いたいのです。
 だから、あの噂は信じたくない。


 チケットが届いていた。
 誰もが羨むような一軒家に続く、数段の段差をのぼる。
 手で封を破いて、中身を引きずり出した。
 一週間後のライブのチケット。
 オールスタンディング。狭くて有名な箱。こんなところでやるのが珍しいぐらいだから、この公演はとても人気が高かった。
 ナンバーを見て、息が止まった。
 玄関を通り抜けて、階段を駆け上る。部屋の扉を背中で閉じて、そのままそこに座り込んだ。
 9。
 この番号なら、最前に行ける。
 紙切れを握り締める指先が、かすかに震えていた。
 よろよろと立ち上がって、机にチケットを置いた。
 縁に両手をかけなければ、立っていられない。指先が震える。
 視線が机の上を泳ぐ。
 ペン立て。
 シャープペンボールペンサインペン。はさみに消しゴムが無造作に生えている。
 カッターナイフを取り出した。
 かちかちち。
 少しだけ刃を出してみる。
 鈍い銀色。
 刃の先を人差し指に軽く、当ててみた。
 指の腹がへこむ。もっと強く刺せば、皮膚が切れる。血が流れる。
 かちかち。
 刃を閉まって、チケットの傍に置いた。


―――もうお仕舞いだよ。
 珍しく、兄が声をかけてきたのは半月ぐらい前だ。
 どんな風の吹き回しだろう、と思った。
 父も母もいないがらんとした居間に、いつのまにかふたりになっていた。
 兄は世渡りが上手な人で、与えられた型に上手く嵌まることのできる人だった。
 だから、きっと不器用でどうしようもない私が気に入らないのだと思う。
 おしまいって、なにが?
―――お前の好きなバンドの、ヴォーカル。
 譜面を片手に、ブラックのコーヒーを飲んでいる。
 世間話のように、他愛もない様子だ。
―――俺の友達が捕まったんだ。
 ダイニングテーブルに紙の束を乗せた。
 赤いペンを握って、五線譜の上に躊躇いもなく書き込む指は音楽家のものだった。
 他愛もない話のように。
 コーヒーの匂いが部屋を満たす。
 ヴァイオリンを鳴かせる指は繊細だ。
―――同じ売人(バイヤー)から買ってるんだって、言ってたぜ。
 だからもう終わりなんだと、言った。
 サラダを突付いていた銀のフォークが、皿を滑って気色悪い音を立てた。
 白くて繊細な指先に突き立てたら、兄は傷つくだろうか。
 目の前が白く、焼けるようになって、凶暴さだけの生き物になる。
 だけど、怒りで目の前が白くなったのではない。
 不安が、ふくれあがって爆発したのだ。



―――最近殊に鋭さを増したヴォーカルは神がかり的でもあり。
 かちかち。
 カッターの刃を、ひとつふたつ、剥き出しにしてまた、仕舞う。
―――痩せたと思うのよ、最近。ナカジョー。
 たくさんのメディアや巷の噂なんかが、渦を巻いている。
 私の中で答えはもう出ている。
 兄の友人が捕まったことも、知っている。事実だった。
 カッターの刃を、ひとつふたつ、剥き出しにして、また。
 仕舞う。
 9番。

 貴方は強い。
 強くて、逞しい。
 しっかりと自分で選んだ道を、華々しく歩いている。
 私にはできない。
 私は逃げてばかりだ。落ち零れてばかりだ。
 だから手を伸ばす。
 掴まえられなくていい。
 高く遠いところに、神のように居てくれればいい。
 こんな俗世に、下りて来ないで。
 何のために貴方を仰ぎ、焦がれてどうしようもなく叫んでいるのか。
 そんなことを考えさせないで。
 分からないまま音に飲まれていたほうがいいのに。
 カッターの刃が鈍く、夕日を跳ね返す。
 赤。

 不実の刃、か。
 そんな歌も、どこかにあった。
 刃、か。


            *


 家に帰るともう夜も大分更けていた。
 暗い一人住まいの隅っこで、電話が赤く点滅していた。
 コートとジャケットを脱ぎ捨てて、ソファーに投げ捨てる。

《もしもし。最近はいつ電話しても居ないみたいだけど、元気にしているの》
 年の近い甥の声が、留守録から無愛想に流れてきた。
 あれほど言い争いをして険悪だった兄貴の一人息子で、次の銀の跡取だ。年が十ほどしか離れていないから、付き合い方は叔父と甥というよりも兄弟に近い。
「なんとかね」
 相手には聞こえない相槌をうつ。
 一人暮らしが独り言を増殖させるのは本当だ。
 煙草の先に火を。
 明かりを付け忘れた部屋に、橙の火がぼんやり浮かぶ。
《案外連絡にマメな兄さんに連絡がつかなくなると、煮詰まってるかもしれないからって父さんが言ってるよ。あの人は結構兄さんを気にしているんだから、時々は顔を出してやって》
 言いたいことだけ言い残して留守電は無愛想な発信音を告げる。
 苦笑いをして、顎のあたりを掻く。
 まだ成人もしていない甥っ子は、しっかりと嫡男としてすくすく育っている。
 愛想はお世辞にもいいとは言えないが、まわりに対する気配りができすぎていて、あんまり可愛くない。兄の子だな、と思う。
 彼は兄と同じように、家督を継ぐことを天命のように捕らえているから、あまり苦労はないのかもしれない。
 あまり回りに気を回しすぎるのも、疲れないのかね、と年寄りのように心配をする。

 そう言えば、実家に電話も入れていないで、随分日にちが経っているような気がした。
 人付き合いは、それなりに広く保てているとは思うが。
 やはり最近は余裕がないのかもしれない。
 余裕がなくなると、自分のことで精一杯になる。

 ヒトミの噂を、聞いていなかったわけではないけれど。
 テーブルの上から灰皿を持ち上げて、灰を落とす。
 煙草を口に咥えて、縋られた右腕を眺める。
 現実だ、と。認めてしまいたくないのは誰もが同じかもしれない。
 言霊というものはおそらく存在するのだろう。
 口に出した瞬間に現実になる。なまなましさを増す。

 高いところへ行くよ、と双眸に強い炎の色を宿して、ヒトミは言っていた。
 がんばれ、と思っていた。
 自分にはできなくてもお前には、と。
 彼にかける、意味不明なほどの期待の名前を、今は気づいている。
 今の自分を知る奴らが聞いたら、腰を抜かすか吹き出すか、どちらかだろう。

 メンソールを一本消費する頃には、大分目蓋の奥が重くなってきた。
 睡眠不足というわけでもないのに、おそらく今日は疲れたのだ。
 明日もあさっても仕事があるし、当然の如く生きてゆかなければならない。
 時間を止めるというわけにも行かないから、一週間後は確実にやってくる。
「しんどいな」
 珍しい弱音を。
 独り言だから誰にも聞かれちゃいないけれど。
 弱っている自分がしょうもなくなって、かすかに笑った。

 事の顛末を見届けてくれるだろうか?
 でも無理矢理に真相を探さないでくれる?
 そんなの、都合のいい我儘だ。
 最後にはどうしても、真相ってものは暴かれてしまうのだ。
 終末はきっと、すぐそこまで来ている。
 澤口から受け取ったカメラの重みと、縋りついた壱子の重み。
 両方を受け止めた右手で、煙草の火をもみ消した。


 その晩は、馬鹿なことばかりをして笑っていた頃の夢を見たような気がした。
 内容(なかみ)なんて、目が覚めたら一秒で忘れたんだけれど、やたら眩しくて、馬鹿らしくて、楽しかった余韻ばかり、ずっと残っていた。




5.

 冬の日暮れは早い。
 でも、街の夜は明るい。
 駅から徒歩で十分ほど。大通りを折れて少し奥まったところに、狭い箱はある。
 駅前の雑踏を抜けて、そちらの方向に歩いてゆくと、徐々に篩にかけられるように人種が限定されてゆく。
 ひとつところに向かう共同体。
 高々二時間かそこらのために金を払って、仮初に夢を見る。

 多くの荷物は持っていかなかった。
 ただ、届いたチケットと剥き身の札を数枚。その他諸々をウエストポーチに押し込んで、パーカーを着込んで、つめたい風に吹かれて目的地に到着する。
 みんな、どこか昂ぶっている。
 冷静な顔をして、野生を隠し切れていない。開場前ライブハウスは、どこか闘技場の気配がする。
 私も、昂ぶっていた。
 代価に見合うだけのパフォーマンスを期待している、それだけではなく。
 9番という数字は、私を迷いの淵から突き落とした。背を強く押した。

 事の顛末を、見届けるためにここにいる。

 真相を、探らずになんてそんな優等生ではいられない。
 私たちは、等しく貴方の歌に惑わされて難破した遭難者なのだ。
 貴方に、教え込まれたのだから。
 陳腐な真実に目を遣ることを。

 開場とともに、いち早くホールに流れ込む。最前のバーに両腕を預けてもたれかかる。
 広い空間は、あっという間に人で埋まる。
 明らかに増してゆく人口密度。圧迫感。
 こうして、夜にしか泳げない集合体は生まれる。


 バーにもたれて、少しだけ眠った。
 背中に圧迫感があることも、耳障りなほどに大きなSEの音も、次第に気にならなくなって、当たり前になる。
 周囲を取り巻くような体温と、規則的に刻むリズムに、逆に心地よくもなる。
 馴らされる。
 胸のあたりの皮膚を直接ふるわせる巨大なベース音。まるで箱が鼓動しているようなバスドラの音を流し込む。
 ひとつの生命体のよう。
 これからステージの上に乗せられるご馳走を、貪るために腹を減らしている、貪欲なモンスターだ。
 開演まで一時間と少し。
 焦らされながら、少しずつ浅くなる呼吸。
 禁断症状でどうしようもなくて救い様がないのは、きっと私たちのほうだ。
 燃費が悪くて、すぐに飢える。
 バーに両腕を乗せて、斜め上を見上げる。
 漂ってくるスモーク。控えめな照明の中で僅かに輝く、マイクスタンド。
 生贄は今日もここに立つ。目の前に。
 もう何日も肉を摂取していない肉食獣のように、咽喉が渇く。
 早く。
 早く食べないと死んでしまう。


―――暗転(ブラックアウト)。


 途端に、すべてが爆発する。
 人間の声じゃない。
 社会的な日常生活では絶対にこんなふうに叫ばない。
 ヒトの、動物の、本能的な興奮で欲情だ。
 無数の腕が、私の横からステージに向かって伸べられた。
 他者を顧みないエゴイズムの塊。振り上げた拳が誰かにぶつかっても謝ったりしない。
 余計に深くなったスモークの所為で、まるで高原のように空気はうすい。
 はじまるのはサバイバルだ。生きてこの箱を脱出できるか否か。
 金切り声が、名前を呼んだ。
 私は荒波に押し流されないようにバーを握って、ステージを睨んでいた。
 悲鳴も絶叫も、何も吐き出さずに、唇を噛んだ。

 白いシャツが下手から、まるで暗い海を泳ぐように機材の合間を縫って現れて、
 舞台を回遊する赤い照明に照らし出されたスタンドを掴んだ。
 指輪で武装された指先。
 ドン、と胸の真ん中に穴をあけてゆくような一撃のバスドラの後で、ステージ全体が、かっと白に染まった。
 眩しげに目をほそめて、中条は下界を見下ろした。
 酷薄な笑みが口元にひらめいて、次の瞬間。
 歌い出した。


***

 無理して笑って、キャンディを頬張ってみせた
 そんなごまかしをいくつか体得するのが大人なのか
 昼より夜に、笑うことが多くなっていって
 不健康なものばかり愛すようになるのかい

 果ては
 安直な愛撫に濡れるようになる
 僕らは順当に 素直に泣けなくなってきた

 好きなものを好きと、簡単に言えなくなって
 都合よくカバーする愛想を身につけていって
 敵と味方を、自動で選りすぐって行く
 狡猾さを飼い馴らした

 まして
 子どものような駄々を捏ねるなんて
 大人げのないことを できるはずもないよ

 深海に仰向けに転ぶ
 遥か遠く 水面は陽に揺らめく
 かがやきはいつも彼方
 うつくしいと 思えるだけマシか?

 夜明けを待て 夜明けを待て
 手を伸ばすだけなら 無料(ただ) ほら
 今だけなら 今だけだから
 全部 欲しがるのは悪いことじゃない

***

 群がるように、無数の手が、伸びる。
 波に飲まれないように只管バーを掴む。
 マイクスタンドのその上を睨み据える。
 中条はきっと誰も見ていない。
 遠くを、見ている。
 その目には、一体何が見えているのか。
 照明の明滅が激しすぎて、伺えない。
 骨ばった指先が強く、マイクスタンドを握るのは、しがみついているのかもしれないと思った。
 今この場に起きている激流に、一番流されそうになっているのは、中条かもしれない。
 そんな頼りなさを、私は始めて目の当たりにした。
 どんなに激しい流れでも、押し流されない巨木のような強さを、いつも中条一弥は持っていた。
 私たちの、一番頼りになる標だった。
 私の中の熱は、徐々に、冷えてゆく。急激に。

 こんなに、細い男だっただろうか。

 あっけない、と思った。
 存在が。立ち方が。
 こんな華奢だったのか。

 そのとき私の視界の端で、何か黒いものが動いた。
 ステージとフロアのあいだ。柵とステージの隙間に、何かがいた。
 右手側。首を向けてそちらを見る。
(この前のライブで見た)
 男がひとりいた。
 熱気に満ちたホールの中で、一人だけ別世界の人間のような。
 隙のないシャツの装いだった。
 バックステージパスを胸から下げていなければ、幻覚かと疑ったかもしれない。
 それほどまでに浮いていた。
 金の髪だけが、どんなに周囲が暗くなっても浮く。
 背の高い男は客の邪魔にならない位置にいて、高価そうなカメラをバックステージパスと一緒に首から下げていた。
(カメラマン)
 だったのか。

 やたらとシャッターを切っているわけではなかった。
 むしろ、仕事はしていないように思えた。
 獲物を狙う猫科のいきもののように、スタンドマイクにしがみつく男を見ていた。
 見張っている。
 そんな気がした。

 ギターが、神経を削るようなゆがみで鳴って、私はライブに引きずり戻された。
 ふらりと、視界からカメラマンが消える。
 私はまた正面を睨んだ。
 見張っているのなら、私も一緒だ。
 目を離してはならない。
 顛末を。
 見届けに来た。


 咽喉の調子は頗る良かった。
 伸びる声は、耳から脳まで痺れさせるように響く。
 “神がかり的”になったパフォーマンス。
 独裁者のように眼下を見下ろして、酷薄に笑う。
 赤のライトがよく映えた。
 タイトロープ。境界のぎりぎり。
 転がり落ちる一歩手前。
 ぞくっと、唐突に走った恐怖に、私は興奮した。
 見てはいけないものを見ている。
 許されてはいないものを、盗み見ている。そんな背徳感に酔った。
 マイクロフォンに、荒い息が落ちると、肌があわ立った。

 交歓。

 鼓動が自然と速くなって、飛んでも跳ねてもいないのに、額に汗が浮いた。
 じわじわと、犯されている。
 そう思った。
 汚されてゆく。


 顛末は、唐突に訪れた。


 曲はまだ、激しく姦しく鳴っているのに。
 歌が、止んだ。
 しばらくは、客席から歌声が聞こえていた。
 歌え、と促されていると思っていたのかもしれない。
 けれど、異変は前のほうから徐々に伝播する。
 何度か、中条が不自然に瞬きをした。
 鈍い銀に輝くスタンドマイクに、両手でしがみついた。
 照明が徐々に落とされて、私はしっかりと見た。
 “どこも見ていない目”を。
 細い一本のスタンドは、人ひとりの重みなど到底支えられるわけもなくて。
(落ちた)
 実感と同時に、騒音を立ててステージの中央に倒れた。
 中途半端に止まったギターが、煩い余韻だけを残す。

 綱渡りの綱から、落ちた。

 私にはわかった。
 体の前に回したウエストポーチのジッパーを、探る。
 これが、真実だ。
 中条はステージの中央に蹲って、咳き込んでいる。
 私は、ウエストポーチの中に忍ばせてきたものを探り出す。
 喘息の発作のような、くるしそうな呼吸をする。
 私は手の中で、牙を剥く。かちかち、ち。
 スタッフの一人が慌てて駆け寄った。
 小柄な女の人だった。
 この間のライブにいたスタッフ。今日も黒いTシャツを着ていた。

 かがみこんで、泣きそうな顔をして呼びかける。
 肩に掛かった女の手を、中条は乱暴に振り払った。
 照明は完全に白になって、ステージを赤裸々に照らしていた。
 スポットライトのように。
 一片の闇や影もなく、惜し気もなく。
 生中継(ライヴ)。
 よろめくように、酔っ払ったような足取りで、中条は立ち上がった。
 私たちのほうも見ずに、自分よりも何倍も頼りなさそうな女の人に支えられて、踵を返そうとする。
 苛烈な怒りが、一瞬にして爆発した。
 腹のそこから。

「ひきょうもの!」
 私は叫んだ。
 静まり返ったホールの中に、一際大きく響いた。
 自分の声ではないような気がした。刃物のように、金属のように、聞き苦しい。
 無数の目が、私を見た。
 驚いているものや、殺意めいた色を孕んでいるもの。
 そして、かなしい顔をしているものが多かった。
 私たちは皆、その噂をどこかで聞いて、きっと知っていた。
 でも誰も言わなかった。

 目の当たりにして、現実になるのが怖かったからだ。
 覚めない夢を見ていたかった。

 私はまだ、ウエストポーチの中に仕舞いこんだままの手で、掴んだものを強く握った。
 熱に浮かされたような目で、中条が私を見た。
 私が見えているのか、それは知らない。
 ただ、中条の灰色の瞳に、私の顔は映っていた、確かに。

(貴方はあんなにも赤裸々に、私たちの心の内側を暴いておいて)
(犯して汚して、後戻りできないような快楽に溺れさせておいて)
 何の説明もなしに逃げるなんて、許されない。

「クスリなんてやめてよ」

 涙声が言った。
 私はいつのまにか泣いていた。
 あちこちからすすり泣きが零れていた。
 ねぇ、中条。私たちは何も見えていなかったわけじゃないんだよ。
 貴方の歌に、惑わされていただけじゃないんだよ。
 もっと多くのことを欲しがって、見ていた。

 クオリティの高いパフォーマンスや、絶対的な演奏力や、歌唱力や、鋭い歌詞ばかり欲しがっていたわけじゃない。
 私たちが欲しかったのは、あなただ。
 麻薬の力も借りずに、ただ、生きているあなただ。
 他には何も要らない。
 褒めそやされるような、独創的な世界も、神がかり的と呼ばれる歌声も、私たちが言いたくて言えなかった言葉の代弁も、生身のあなたじゃなければ意味なんてない。
 幻なんかじゃ、愛せないよ。

 年齢も、住んでいるところも、生きている環境も違う人間がこんな風に、時間と場所を約束しただけで集って、一夜限りのモンスターに化けるのは。
 あなたの生き様を見るためだ。
 荊の道を素足で歩いていくような強さを見届けるためだ。
 幻覚を見に来たわけじゃない。


 中条を支える女のひとは、愕然とした顔で私を見ていた。
 見開かれた目から、涙が。
 全て、眩しい光にさらされていた。
 中条は緩慢に瞬きをした。
 目蓋がとても重たそうだった。
 時は、とてもゆっくりと流れていた。
 誰も止めなかった。

 ふい、と。
 女のひとに差し出した腕を取り戻して、よろめく足取りで中条は。
 ステージの奥へ行こうとする。
 逃げようとする。
 私はバーに体重をかけて身を乗り出した。
 ステージのほうへ。
 ウエストポーチから、握り締めていたものを引きずり出す。
 逃げるなよ。
 そんなの、許さない。

「ヒトミお前ッ―――!」
 唸るような怒鳴り声が響いて、私は。
 黙った。


            *


 壱子の体を突き飛ばすようにして、千鳥足でヒトミがステージ上を移動するのに。
 気がついたら怒鳴っていた。
 断罪した少女がバーによじ登るようにしてステージに近づこうとする。
 彼女がステージに差し出した右手を、咄嗟に上から掴んだ。
 彼女が右手に握っていたものを、力任せにもぎ取る。
 少女は、呆気に取られたようにそのまま固まった。
「ヒトミお前ッ―――!」
 怒鳴り声に、弾かれたように、ヒトミは立ち止まる。
 傍に、ヒトミの腕がある。
 掴んで、引きずり倒した。
「お前、ファンにこんなこと、言わせんじゃねぇよ!」
 怒鳴る声が、震えていた。
 泣きそうだ。
 焦点の定まらない目が、こちらを見ていた。
 瞳にくすぶっていた炎は、もうどこにもない。

「雅……」
 泣き笑いのような声で、ヒトミが呼んだ。
「うまく、歌えてない気が、するんだよ」
 うわ言のように呟いて、うな垂れる。
 掴んだ腕が、細くて気色悪かった。
 怒りなのかかなしみなのか痛みなのか苦しみなのか。
 訳の分からないマグマがふつふつと煮えていた。


―――音楽以外やってる自分なんて、想像できないから。やるんだ。
 そんなことを、いとも簡単なことのように言っていたあの頃。
 人からは笑われるかもしれないが。
 しがらみから逃れることを諦めていた頃から、先駆者で、ヒーローだったのだ。
 憧れていた。
 大事だった。
 こんな顛末など、欲しくなかった。

「なんでだよ」
 右手に、今更痛みを感じ始める。
 澤口からカメラを受け取って、壱子に縋りつかれた右手の内側は今、少女からもぎ取ったカッターの刃で、著しく傷ついていた。
 重力に引きずられて、血液が床に落ちてゆく事すら、他人事のようで。
 目の前で蹲る男が誰なのかも分からなくなりかけていた。

 ウアアァ。
 子どものような泣き声が聞こえた。
 先程の少女が、顔を覆って泣き崩れていた。

 これは何の夢だ。
 夢なら、早く覚めればいい。
 目が覚めたら、むずがゆいような高校の頃が続いていればいい。
 柵から逃げ出そうと、兄貴と言い争っていた頃でいい。
 ヒーローの背中に、ジッパーがついていたなんて、思わせないでくれ。

 サイレンがどこからか聞こえてくる。
 それがパトカーのものなのか救急車のものなのか、最早判別もつかなかった。


 これが全ての顛末。



6.

 右手の傷は思ったよりも深かった。
 普段の生活にも支障をきたしていて、しばらくは難儀だった。
 後から痛んだ。
 社交的な面はいつでも繕えていたはずなのに、流石にそれもできなくなって、仕事も休む。
 その日のライブで撮影した写真は、家に帰ってすぐ、ネガを引きずり出して使えないものにした。
 メディアがたかるのは、耐えられなかった。
 外界からの情報をシャットアウトして、左手ばかりを使った生活が数日。
 騒ぎ立てられていたのだろう、あまり電話のかかってこない兄から留守電が入っていた。
 寝て起きては寝て、いつが昼で夜で、今日が何日なのか、わからずにいた。
 流石にしんどくなってきた頃を見計らったかのように、甥がやってきた。
「酷い顔」
 純和風の顔をこれ以上ないというほどに顰めさせて、開口一番に言う。
 それだけを言って、甥は自分の家のようにマンションに乱入してきた。
「母さんから」
 リビングのテーブルの上に、無造作に袋を置く。
 救援物資だ、と思った。おそらくは食料。
 義姉の顔が浮かんだ。
 いつまで経っても本当に、頭が上がらないものだ。
 小さく、苦笑が零れた。
「じゃあ、僕は帰る」
 くるりとUターンで、甥は再びリビングを横切って、玄関へ。
「……おまえ、何しに来たの」
 無精髭の生えた顎を撫でて、訊いた。数日に喋ったので、咽喉が何だかおかしい。
 旧家の嫡男である彼は、忙しい。
 こんなところに、出前にくる時間も惜しいだろうに。
 すると甥は、凛と迷いのない強い瞳をこちらに向けて。
「兄さんの、弱っている姿を見学しに」
 言った。
 口元にかすかに笑みすら、浮かべていた。
「本当、似合わないね。らしくないよ」
「そう?」
「そうだよ。だらしがない」
 十年下の甥は、ばっさりと切って捨てた。
「見ていて面白いからいいけれど、あんまり続くと飽きるよ」
 精々、餓死しないようにね。
 言いたいことだけ言って、甥は退場する。
 バァカ。
 閉ざされた玄関に、小さく呟いた。

 あとで、義姉に電話を入れておかなければ。
 そう思ってカレンダーを見ると、四日が過ぎていた。

            *


「あら、銀サン。早いッスね」
 眠そうな声で、作家は待ち合わせた喫茶店に現れた。
 今日も今日とて、この男はとても胡散臭い恰好をしている。
 本の表紙に使う写真を撮ってよ、と唐突に頼まれたのだった。
 この男は突発的に行動するのがどうにも好きなようで、担当編集の平内サヨリさんと言う人に、激しく頭を下げられた。
 変な人の周りには、面白い人が多いものだ。

 いくら引きこもりを自称する作家だからと言っても、一弥のことぐらいは知っているだろうに。
 何も言わなかった。
 そういう心遣いができる人間と会うのは気が楽だ。
 正直なところ、まだ少し社会生活にリハビリ中だった。
 四方八方に明るくは振舞えない。
「吾妻さん、ガッカリしたことってない?」
 傷に触れられたくないくせに、自分から切り出してみたりする。
 作家は早速セブンスターに火をつけていた。
 目線だけをこちらに寄越す。先を促すような顔をする。
「憧れのヒーローがキグルミだったときに」
 まだ微かに痛む右手でこちらも煙草に火をつけた。
 ああ、と作家が頷いた。

「親に愚痴を言われたときには、ちょっとそう思ったね」
 そんなことを言った。
「親は、それまで自分の道徳のものさしだったから。俺の前で人の悪口とか言ったことなくてね。デキた人だなぁって子ども心にも思ってたんだけど。そんなひとが、身内の悪口なんか言い出した時にはびっくりしたよ。俺も大人と認められたのね、っていうちょっとの嬉しさと、寂しさかなぁ。ああこの人もただの人だったのね、って思って」
 ただの人だった、って。
 正しいばかりじゃなく、強いばかりじゃなく、凛々しいばかりじゃなく。
 聖人君子などではなくただの。
 不満もあれば愚痴も言う、人の悪口も言う。
 ただの人だったって。

 そうだね。
「憧れが、そんなふうに壊れるのって、つらいもんだねぇ」
 今はもう、少しは笑える。苦笑いだとしても。
 右手の傷も塞がって、そのうち微かな傷痕だけが残る。痛みはなくなる。
 鈍くなる。
「辛いけど、少し距離が縮まったような気がして、少しだけ嬉しくなったりもするけどね」

 傍若無人に全力で前ばかり見て走る強さを。
 檻を突き破ってゆくはげしさを。
 うらやましいと、仰いでいた頃があった。
 その時は眩しすぎて、突撃してゆくことしかできなかったヒトミの孤独を、立ち止まれなくなってしまった恐怖を、知ることはできなかったけれど。
 あいつもただのひとでしかなくて。
 弱さも持っていた。
 神や天使ではなくて、ただのひと。
 憧れていたから、落胆もしたけれど。
 同時にいとおしいとも思う。
 こんなことは、とても誰かには打ち明けられない。
 青くて、こっ恥ずかしい。

 ヒトミが高校の頃に書いた詞を、思い出していた。


***

 無理して笑って、キャンディを頬張ってみせた
 そんなごまかしをいくつか体得するのが大人なのか
 昼より夜に、笑うことが多くなっていって
 不健康なものばかり愛すようになるのかい

 果ては
 安直な愛撫に濡れるようになる
 僕らは順当に 素直に泣けなくなってきた

 好きなものを好きと、簡単に言えなくなって
 都合よくカバーする愛想を身につけていって
 敵と味方を、自動で選りすぐって行く
 狡猾さを飼い馴らした

 まして
 子どものような駄々を捏ねるなんて
 大人げのないことを できるはずもないよ

 深海に仰向けに転ぶ
 遥か遠く 水面は陽に揺らめく
 かがやきはいつも彼方
 うつくしいと 思えるだけマシか?

 夜明けを待て 夜明けを待て
 手を伸ばすだけなら 無料(ただ) ほら
 今だけなら 今だけだから
 全部 欲しがるのは悪いことじゃない

 水面に浮き上がるためにもがく
 僕は
 沈んでいくだけじゃねぇ
 僕らは
 澱んでいくだけじゃねぇ

 きれいなものが欲しいんだ
 本当はいつも
 きれいな自分になりたいんだよ
 本当はいつも

***


<了>


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