パンドラの匣
パンドラ、その箱を開けてはいけないよ。
その中には、この世界の全てが入っているから。
箱を開けてはいけないよ。
1.
マンションの、エントランスホールで。
喫煙のために設置された細長い灰皿スタンドの横にある、黒い革の長いすにちょこんと座って。
女の子が泣いている。
年のころは5〜6歳。黄色い帽子とランドセルが似合うようなお年頃だ。生憎と今日はうすいピンクのワンピースだけれども。
「美咲ちゃん」
思わず彼女の名前を呼んだ。ねぇ美咲ちゃん。なにしてるの。
こんなところで。
あとからあとから溢れ来る涙を拭っていたちいさな手を退けて、赤く腫れた瞳でこちらを見上げる。
ふたつ隣に住んでいるご夫婦の、大事な一人娘、谷口美咲ちゃん。
近所づきあいがあまりよろしくない俺なのだが、谷口さんとは当番制の各階の掃除でご一緒してから少々ご懇意だ。
「ケイスケお兄ちゃん……」
愛らしい大きな瞳に涙をたくさん溜めて、眉を可哀相なぐらいハの字にして。上擦った声でやっとそう言った。
そうしてまた、泣き出してしまう。
不肖吾妻珪丞は、その長いすの前にしゃがみこんだ。視線をまず、合わせないといけない。対等に話すには。
「どうしたの。叱られたの」
泣いているレディを無視は出来ないのだ。男としては。
すると、美咲ちゃんはふるふると首を横に降った。綺麗に結ったふたつの髪が顔の横で揺れた。
「ジェニー……」
しゃくりあげながら、ようやく呟いたのは、固有名詞だ。
「ジェニーが?」
彼女と姉妹のように育ってきた、一匹の、猫だ。おとなしくて、自分を人間だと思っている。
元々あまり、体の強い猫ではない。
「きのうからおかしいの。ぐあい、悪そうなの。箱にはいったまま、出てこないの。お父さんは、開けないほうがいいって……」
ああ、それは。それは悲しいな。
なんだか、こっちの眉までハの字になってしまう。
「ねぇ、ケイスケお兄ちゃん。ジェニー、このまま死んじゃうのかな」
大きな瞳から、大粒の涙を落として、美咲ちゃんが聞いてくる。
そんなの分からないよ。俺は神様じゃないんだから。もし悪い病気なら、駄目かもしれないし。
普通の俺なら、多分こんなことを言うのだろう。下手に慰めたりしないのが、信条なので。
けれどそれは6歳の少女用の言葉などではないのだ。こんなに悲しんでいるのに。
「美咲ちゃんが泣いていたら、だめだよ」
驚いたのか、美咲ちゃんの瞳から、涙の流出が止まった。
「美咲ちゃんが泣いてると、ジェニーが心配するから。美咲ちゃんはね、応援してやらないと」
「だって……」
「信じてあげないと、可哀相でしょう。ジェニーは今、頑張ってるんだから」
頑張っているときには、応援したほうがいいだろう? 頑張っているときに不安な顔をされたら、さびしいじゃない。
「……うん。美咲も、がんばる。がんばって、おうえんする」
泣き腫らした瞳に力を込めて、これ以上涙が溢れないようにする。
両の拳を握り締めて、ぴょいっと長いすから飛び降りた。ピンクのワンピースの裾が、ふわりと翻った。
*
俺は、嘘や社交辞令がきらいだ。
小学校の頃だったか、俺は良く言えば繊細で、はっきり言えば神経過敏で自意識過剰の時期があって。
変に張ったアンテナで、人の負の感情ばかりを拾った。
(ああ、こいつはいらついているんだな)とか。
(ああ、本当はこいつ、俺のこと馬鹿にしているんだな)とか。
巧く仮面に隠された感情の裏側が、なんとなくわかって。
それでも当り障りなくあたりと溶け合おうとするかのように浮かべられる笑顔が大きらいだった。
なんだか、周囲にはどろどろとした感情ばかりが転がっていて、一歩あるけば悲しみとか苦しみとか、妬みとかそねみとか。そんなものばかりにぶち当たるような気がして、俺を取り巻く環境もそんな世界も、好きになんてなれなかったけども。
嘘はつかないで正直に生きていこうと決めたんだけども。
年を重ねるごとに俺もなんだか気がつけば、四方八方から発せられる他人の感情の波間を巧く漂っていくような、巧い生き方を発見してしまっていた。
気休めかなぁ。
美咲ちゃんと一緒に、エレベーターに乗り込んだとき、ふとそんなことを思った。
こんなことを言って、応援してももしかしたら、助からないかもしれないのに。
その場凌ぎで慰めるのは、俺の自己満足の気休めかなぁ。
もしも、ジェニーが助からなかったら、この子はきっと、もっと泣くのに。
俺もいつのまにか、気休めなんか、言うようになってしまったんだな。
大人になったのか、それとも、投げやりになったのか。
良く分からない。こんなことを考えているときは、原稿を書かないに限る。
どうせ中途半端なもんしか出来あがらねぇんだ。
溜息を吐き出して、パソコンの電源を落とした。
これでも俺は一応、モノカキのはしくれなのだ。中途半端なものは生み出したくないし。
今日はもう寝よう。
2.
それから数日は、平和に過ぎた。
何があったのか、次の日にもう忘れるぐらい、平和に過ぎた。なにもなく。
そして、またそんな安穏とした一日が終わろうとしていた頃に、インターホンが鳴った。はげしく。
続いて、ドアをどんどんと叩く音。
パソコンデスクに突っ伏したまま転寝していた俺は、珍しくそんな音で目を覚ます。
普通は、インターホンが鳴っても電話が鳴っても、起きないのに。
「ケイスケお兄ちゃん!」
ドア1枚を隔てた向こうから高い、上擦った声が聞こえたところで覚醒した。
ドアを叩く音は続いている。
目の下に腕を敷いて寝ていたせいで、ぼんやりと焦点が合わない。そのまま玄関に出た。相手はわかっていた。
「美咲ちゃん?」
ドアをあけると、小さな体が飛び込んできた。腰のあたりにしがみついてくる。
「お兄ちゃん、ジェニーが……」
数日前のように、眉をハの字にして、大きな瞳から大粒の涙を流していた。
「ジェニーが、苦しんで、大変なの」
「美咲ちゃん、その手……」
腰のあたりにしがみついてくる小さな手の甲には、三本の赤い線が走っていた。引っかき傷だ。
「箱をあけようとしたら、ひっかかれたの。ねえお兄ちゃん、いっしょにきて。おねがい!」
腕を引っ張るのは、小さな手のはずなのに。物凄い力を感じて。
そのままずるずると玄関から引きずり出された。ふたつ隣の扉まで。
「美咲!」
玄関の扉を開けると、谷口さんの奥さんが怒ったような泣きそうな顔で飛び出してきた。
何してるの美咲、こんな時間に。
「吾妻さんごめんなさい。こんな時間に美咲が……」
いいえ、それはいいんですよ。こっちこそ、寝起きの顔で申し訳ないです。
「ジェニー、大変なんですか」
「それが……」
困ったように頬に手を当てて、谷口夫人が何かいいたそうな顔をする。
けれど、彼女の言葉を聞く前にもう、美咲ちゃんが俺の腕を引っ張って家の中に引きずり込んだ。
「吾妻くん……」
居間に入ると、谷口さんが驚いたようにこちらを見た。
すみませんこんな時間に。頭を下げると、谷口さんは俺の腕を掴んでいる美咲ちゃんの手を見て、なにやら納得したように溜息をついた。
「おとうさん、ジェニー……」
美咲ちゃんの声はもうずっと、上擦ったままだ。
多分また、あの大きな瞳に涙をいっぱい浮かべているんだろう。
谷口さんの足元には、大きな箱がひとつ置かれている。それが、美咲ちゃんの言っていた箱なんだろう。旅行などに猫を持ち運ぶための、特別のケースだ。
ジェニーが入っているはずのその箱は、物凄く静かだった。
怖いぐらい。
「美咲」
ずいぶんと硬い声音で谷口さんが美咲ちゃんを呼んだ。
穏やかな顔に何か、苦そうなものをたたえている。俺の腕を掴む、美咲ちゃんの手がふるえている。
「ジェニーは」
「いやだ!」
何も言う前に、美咲ちゃんは激しく首を横に振って拒絶した。
乳白色の蛍光灯の光に、透明な雫が反射した。何も受け付けないように首を横に振る。
「美咲……」
「いやだ」
俺の腕に、小さな爪が食い込む。
谷口さんの困った顔と、部屋のあまりの静寂に、俺はなんだかことの結末が分かってしまった。
けれど彼女にはもしかしたら、生まれて初めて触れる死なのかも知れない。
あたりまえの癖に、良く分かっていない生き物の生き死にを、初めて受け止めるのはつらい。
そのときだった。
にぃ、とどこかで小さな何かが鳴いた。
あまりにか細くて、あまりに小さかったけれど。静まり返った部屋にはとても大きく響いた。
俺の右腕に絡まりついていた美咲ちゃんの手が、びくりと大きく震える。
「美咲。開けてごらん」
部屋の隅の、小さな箱を指差して、谷口さんが言った。今度は、どんな拒絶も美咲ちゃんの口からは出てこなかった。
相変わらず俺の腕は、美咲ちゃんにしっかりつながれていたけれども。
美咲ちゃんは俺を引きずって、小さな箱の前まで言った。
数日前までは、開けてはいけないといわれていた箱の前。
俺は唐突に思い出す。パンドラの匣という話。
世界のすべてをしまいこんだ箱があった。神様に、開けてはいけないといわれたパンドラだけれど、欲望に負けてその箱を開けてしまうのだ。
その箱の中には、この世界のあらゆる災いが封じ込められていて。
人類はそこから、色々な災いや恐怖を背負って生きなければならなくなったのだ。
美咲ちゃん。君がその箱を空けたら、悲しみが待っているかもしれないよ。
けれども、美咲ちゃんはその小さな手を俺から離して、箱の前に座った。
細かく震える手で、止め具を外して、戸を手前に開く。
そして小さく、息を呑んだ。
そっと手を差し入れて、中からずるりと引きずり出したのは、力を失ってぐったりとした、雌猫の体。
確かめるまでもなく、その全体重を預ける姿は、生命を失っていた。
ああジェニー。やっぱりお前は。
美咲ちゃんはその手にしっかりとジェニーをきつく抱いて、目を閉じた。
大粒の涙が、頬を滑って顎から落ちる。
にぃ。
また、か細い声が鳴いた。
美咲ちゃんは、ジェニーのまだなまあたたかい体を大事に床に置くと、箱の中に手を差し入れた。
美咲ちゃんの小さな手に、何か少し濡れた、小さなものが乗っている。
にぃ、と掌の小さなものがもう一度鳴いた。
「ジェニーは、頑張ったのよ」
谷口夫人が、後ろから美咲ちゃんを覗き込んで言った。声が少し震えている。
「大変なの。子どもを生むのは、大変なのよ」
「うん」
掌に乗せた、その小さな、目も開いていないような生命をじっと見て、美咲ちゃんは頷いた。
「がんばったのね、ジェニー」
少しずつ温度を失いつつあるジェニーの体を、そっと撫ぜた。
にぃ。と箱の中でまだ鳴き声がする。
お兄ちゃん、と呼ばれると、いきなり手に、小さな生命を預けられた。
強く握れば壊れてしまうような生命だ。思わず手が震えた。
美咲ちゃんは絨毯に腹ばいになって、箱の中を覗き込む。
「あと二匹いる!」
美咲ちゃんが、今日はじめて笑った。
俺は、ピンク色の絨毯の上に横たわった、ジェニーの体を見た。
なんだか、泣いてしまいそうだ。
ああジェニー。お前はすごい。
すごい猫だ。
美咲のあけた箱の中には確かに、悲しみや絶望が詰まっていたけれど。別れがそこに、横たわっていたけれど。
お前は生命のやりとりを、そんな螺旋を、美咲の前に置いていった。
何よりも、瞭かなかたちで。目を逸らせない凶暴さで。そこに、置いていった。
生と死とを同時に、強く刻み込んでくれた。
美咲はこの瞬間を決して、忘れたりしないだろう。
つながれてゆくのだもの。生命は。
パンドラ。匣を開けてはいけないよ。
けれど、人間は欲深く、簡単に禁忌をおかすのだ。
ねぇパンドラ。お前が開けた匣の中には、悲しみや苦しみが。この世界のすべての暗闇が詰まっていたけれど。
この世界にはたくさん、悲しみや苦しみや絶望や別れが、一歩あるけば足にぶつかるように転がっているけれども。
そんな中にも常に光が、思わぬ方向から差したりするもんだ。まだ捨てたもんじゃない。
パンドラの匣の底にはいつも、小さなちいさな希望が、確かに残っているものなんだから。
<了>