愛すべき馬鹿。





 世界は戦場だ。
 唯一絶対の武器で、戦うんだ。

1.

「どう?」
「……毎回思うけど、サヨリさんて―――」
 俺は、目の前に差し出された紙をぺらぺらと捲ってぼそりと言った。
「コピー文下手だよね」
「がーん! なんで吾妻くんはそういうことをさらりと! ストレートに! 言うかなー…」
「ボクは嘘がつけない人間なんです」
 手渡された新刊用のコピーを、平内サヨリに差し戻して、笑顔で一言。
「やり直し」
「っていうかねぇ」
 ばくっとその紙を奪い取る勢いで受け取って、若手でやり手の編集者は口唇を尖らす。
「編集者にダメだしする作家なんて、吾妻くんだけだよ、きっと。しかもコピー文!」
「そんなことないよ。きっといるよ」
「少なくとも、わたしが担当してる中だと吾妻くんだけね!」
「そういう狭い世界の物事は言わないでね。視野が狭くなっちゃうよ。もっと広い視野で物事見ないと。世の中広いよ。色んな人間いるよ」
「ハイハイ。スミマセンねー。少なくとも貴方よりは5年程長く生きてるけど。吾妻くんみたいな変人はひとりしか知らないわよ」
 この、生意気小僧。と、突然頭をぐしゃぐしゃとかき回された。
 すみませんサヨリさん、俺も一応ね、20代も既に後半なんですけども。小僧って"アリ"ですか。
 うるさいわね。私から見たらただの生意気盛りの男の子です。
 そんな言い合いをしながら、最後には苦笑を交わして別れた。

 新堂さん、原稿の調子どうですかー。ハイ、これから伺いますねー。
 話を切り上げて、早々と携帯電話を取り出したサヨリさんは、ひらひらとこちらに手を振りながらファミレスを出て行った。

 テーブルの真ん中に置いてある灰皿を右手で引き寄せつつ、左手で煙草を引きずり出す。
 セブンスターのボックス。ライトもメンソールも邪道だ、と個人的には思っている。
 ボックスはいいよね、煙草が折れにくいから。扱い方が決して雑なわけじゃないけど。
 やっぱり、真っ直ぐにぴんと、伸びた煙草がいいな。というか、何事もそれがいい。
 まっすぐ。ダイレクトでストレート。ど真ん中。

―――しかもコピー文!

 ていうかね、コピー文はとっても大事よ、サヨリさん。
 ががん、と。インパクトがあると思うのね。コピー文って。
 おおスゲー、震えが来る! 本屋でひとり、感動したこともあるけど、それって俺だけなんだろうか?
 うわ、煙草、反対に火をつけた。もったいねー。俺の14円。
 と、そんなバカなことは別にして。
 ストレンジャーに、一番訴えるのはタイトルとコピーだと思うんだけど。ともかく、俺が知らない人の本を読むときはそれを参考にする。
 タイトル。コピー。最後に内側の簡単なアラスジ。
 だからこだわりたいんだけど。それって、凝り性になるのかな。
 だって俺がさ、生命削って書いてるんです。少しぐらい、我儘言ったって。
 バカな我儘言ったって、いいじゃん。

「コーヒー、おかわりお注ぎしましょうかぁ?」
 舌ったらずな声がとなりで聞こえた。いつのまにかウエイトレスさんが立っていた。
「あ、すいません、お願いします」
 別に、もうここに用はないんだけれど。ぼうっとしている時間も結構大事だ。
「あの」
 おかわりを注ぎ終わった後も、彼女はしばらく横に立っていた。声を掛けたまま、何かいいにくそうにしている。
 学生かな。髪を綺麗な栗色に染めて。指先が薄桃。
 なんですか? もしかしたら春色の展開ですか?
 恋愛モノでよくあるパターン。少々期待。
 そしたら。
「……煙草、反対ですけど」
 またかよ。


            *


―――あのねぇ。イマイチちょっと難しいんだよねー。もうちょっと、分かりやすくならない?
 えーっと、それって、どういうことですか。
―――だからねぇ、こんな風に色々と、ばんばんいろんなモノを織り交ぜちゃうと、分からない子も出てくると思うんだけど。
 それで?
―――だから、エピソード少しぐらい削っちゃわない?

 次の瞬間、伝票を鷲掴みにして立ち上がっていた。
 唖然とする男。無視してレジへ。
『ちょ、ちょっと、吾妻くん!』
『削ったら意味ないんで。そんなことするぐらいなら、端から書かないほうが早いですよね』
『わ、分かったよ。それに伝票……』
『払ってもらう義理ないんで、いいです』

 若いな。
 喫茶店を飛び出した直後にそう思った。俺の悪い癖。
 譲れないかたちがあって。そこに無遠慮に踏み込まれるとキレる。
 世渡り下手だよね、とよく言われるんだけど。こんなところも嫌いじゃないのが性質が悪い。
 だけど。
「……勿体ないことしたかも」
 今更冷静になって考えてみて、そんなことを思った。
 別に後悔はしていないんだけど。信念曲げるより、よっぽどいい。
 今度はしっかりと煙草に火をつけて―――約30円の損害は痛い―――てくてくマンションに帰る夜道。

―――分からない子も……。

 それって誰だよ。分からないなら読むな。要らない。
 元々万人受けなんてしないんだ。感性のベクトルが、ある一定、同じ方向を向いている奴にしか。
 媚売って、頭下げて、レベル下げて、誰かに。
 読ンデクダサイ、なんて。
 死んでも言わねぇ。
 娯楽じゃねぇんだ。
 遊びじゃない。

 さっきのウエイトレスが。
 ヒトメボレなんです、きゃー、なんて言って抱きついてきたら。
 分かりやすいな。それこそ急展開?
 馬鹿らしい。死んでも書くか。
 先読みが出来る話なんか。終わりが始まりから見えてる話なんか。
 面白いの「お」の字も出てこない。なのになんで、そんなのが繁殖してるんだ。
 "売れて"るんだ。
 小説なんて。もうそんなもんなのか。
 俺の愛すべき作家たちは、与えられたプレッシャーを全て裏切っていく。フルスピードで。
 不意打ちで死角から矢を放つ。
 くっそー、予想外だ。叫んで、地団太を踏むのが好きなんだ。どろどろに血を流すぐらい痛い不意打ちがいいんだ。
 いい方向に、裏切られるのが好きだ。裏切って欲しいなんて、マゾなのか? でもいい。
 公の場で。『書く』という権限を与えられて。ならば。
 裏切り続けるスピードと狡さが。
 才能が。
 あるべきだと思う俺の意見は間違ってるんだろうか。
 一本の真っ直ぐな筋を。分かりやすく出来た道筋をぐにゃぐにゃと針金のように捻じ曲げて。どうにかして死角を作り出そうとしている俺の努力は。
 これじゃ見える。終わりが見える。そう思って必死に隠す布を探すのは。
 ただの凝り性か。
 分かりやすい。そんなもの、俺は書けない。

 吾妻くんね、肩の力入れすぎなのよ。もう少し力抜いてみたら。

 サヨリさん、それがね。俺の書く力なの。
 それが無かったら、書けないの。そのちからが。原動力なのエネルギーなのカロリーなの。
 燃費悪いよね。


            *


「俺お前の歌、好きだったけど」
 マンションの前まで来たところで、そんな声が聞こえてきて立ち止まった。
 途中で寄ったコンビニの袋を右手に抱えたまま。ひょっこり、煙草のカートンが覗いている酷く不健康な袋を持ったまま。
 しゅ、修羅場かな。そういうの、マンションの玄関の前でやらかさないでくれ、若者。
 街灯に照らし出されている影はふたつ。身長体格的に男1、女1、だろう。10ぐらい、下の。
「正直今、お前の歌でやってけるか、自信ない」
「分かんない……」
「限界なんじゃないの」
 投げ捨てて。街灯が照らす範囲から退場する男1。
 うわ。今の一撃、すげきっついぞ。
 怪我で言うなら致命傷で出血多量で、毒で言うなら致死量だ。
 しかも言い逃げかよフォローなしかよ! 思いやりってモンが欠落してるぞ男1!
 ……ちょっと待て、俺は何でこんなに熱くなってるんだ?
 なんとなく最近、感情のバイオリズムが激しい。冷静になれない。

 しばらく街灯のスポットライトの下で立ち尽くしていた女1が、やがてマンションに入っていった。あら。同じマンションなんだ?
 見たことない。
 それはいいとして、俺はいつまでここでボーっとしているつもりだ。
 今日中に30枚、書いてサヨリさんにメール送信しなければならないという重大な使命があるのだ。
 なにくわの顔をして歩き出し、マンションの入り口を入る。(どうでもいいが、入り口を入るっていう表現は馬から落馬すると同じか?)
 先程の彼女はエレベーターが下りてくるのを待っていた。
 全体的に黒い服。金髪。指先に、ごついシルバーのリングが嵌っている。
 俯いて。
 なんとなく気まずいが―――それは俺が覗き見をしていたと言う個人的な事情が9割―――同じエレベーターに乗った。
 あれ、同じ階なの!?
 このマンションは広いから、住人の中でも見たことがない人がいても珍しくもなんとも無いけど。
 流石に同じ階の住人を知らないっていうのは、俺のヒキコモリも極められたりか、と思った。
 やばいやばい。このままだとアウトローだ。いや、もう既にそうか?
 そんなことを思っているうちにエレベーターが7階に着いた。
 さっと降りた彼女はかつかつとヒールを鳴らして右に折れた。ちょっと、方向まで一緒!?
 ぼんやりしていたら、エレベーターの扉が閉まりかけたので、慌てて「開」を押しながら降りた。
 そのまま少女の行く先を目で追う。
 ひとつの扉の前で立ち止まり、鍵を差し込んで、がちゃり。開く音がした。そのまま中へ入っていく。
 ……まじですか?
「……本当に俺もう、毎日散歩しよう。外に出よう。太陽浴びよう。光合成しよう……」

 隣の住人の顔を知らないなんて、人間としてどうかしてる。


            *


 ワード画面。ツール→文字カウント。
 増えてない。1時間前から全然。
 落とすのは嫌だぞ。絶対に嫌だぞ。そこだけは譲りません。
 限られた時間で、今持てる最高の力で。与えられた壁をハードルを乗り越えてゆくのは、俺にとっての快楽です。
 するすると。何かが乗り移ったように文章が沸いてくるとき。それが目の前に現れるとき。
 きもちいい。
 あー、なんかヤバイ人みたいだな。麻薬ですか。否定はしない。

 橋場くん、君ね、一体どうしたいの。
 ワード画面に向かって真面目に訊いてる男が一匹。端から見たら変な薬でラリってるみたいに見えるかもしれない。
 橋場はキャラクターの名前だ。
 俺より少し若者で、今よりちょっと未来ちっくな架空都市で暮らしている。
 裏道で変な薬を手に入れた後、どうにもこうにも動いてくれなくなってしまった。
 一応筋道みたいなものはあるんだけれども。30ページでおさまるか。
 しかし橋場、お前本当に親孝行しない子供だな。一回として思ったように動いてくれたためしがない。
 出来の悪い子供ほど可愛いって言うが、可愛さ余って憎さナントカだぞ、今は。

 俺は、淡々と進む大衆小説の部類があまり好きではない。いや、いい子ぶってみたが、はっきり言うと嫌いだ。
 名前と、身体的特徴だけを書いて、後は誰が喋ってもいいような台詞を吐く。その先に人間が見えない。
 台詞で、動作で、人間を書くほうが。文字の先に個性があるほうが好きなのだ。
 だからって、キャラクターもの―――キャラクターの個性だけで持っているようなハナシ―――も好きじゃないけど。(だってハナシが強引だから)
 でも、人物がただ話を進めるだけの記号になっているよりは、よっぽどいい。

 世の中に存在する、公に『書く』ことを許された、何万人といる作家が、作り出す何万というキャラクター。
 文字の上にしか存在しない、紙の中でしか生きられないもの。
 だけど、俺にとっては"存在"するのだ。人間のひとりとして。個性として。
 奴らの感じていることを何ひとつ蔑ろに書くつもりはない。
 生き様を。ときには散り様を。一瞬の幻でもいいから。読者がページを開いている間だけでもいいから。
 鮮やかに。
 描いてやりたい。
(だから、どうしたいのよ橋場)
 そうやってキャラクターの感情を追い始めると、どうにもこうにも止まらなくなる。
 だって奴らは。戦友だ。戦う仲間だ。

 俺は戦っている。傷つけるためではなく。
 同じ武器を突き合わせて、戦いを挑んでいく。
 決まりきったかたちを無視して。傍若無人に。
 期待と背中合わせのプレッシャーを、人々の予想を、裏切って振り切ってもっと高く。鮮やかに。
 飛ぶために。

(あれ?)
 キーボードに指を置いたまま、ハタと我に返った。
「ハズレじゃないじゃん」
 今度は口に出していた。考えてみたら、外れてないじゃん。
 気がついたら、傍にあったケータイを開いていた。家の電話のほうが金がかからない。そんなことを思ったのは、もうダイヤルをした後だった。
《はいはい、どうしたの?》
「あのねサヨリさん」
《〆切りは延びないよ》
 きしし、そう表現するのが適当だろうと思われる笑い声が右耳のうずまきに吸い込まれてゆく。
「落としません。それは別として俺ね、考え直したんだけど」
《……極端な変更はやめてね。吾妻くんの"考え直した"って、怖いから嫌い》
「コピー、さっきのがいいな」
《…………………………は?》
 たっぷり数秒黙り込んだ後、凄く嫌な声で訊き返された。
「サヨリさんのコピー文、あれ使いたい」
《下手だって、言ったでしょ》
「サヨリさんが俺のこと誰より分かってたの、忘れてたんだ。それだけ伝えようと思ったから」
《え、ちょっと、吾妻くん、こら、ケイスケ……》
 ぷち。
 返事を待たずに電話を切った。あと30枚。書かないといけないから時間が惜しいのよ。
 ひとつ絡まった糸が解けたら、なんだかざぁっと視界が開けたような気分。
(ああ、そうか、橋場お前、走りたいんだ?)
 薄汚れたスラムをピストル片手に疾走するひとつの影を、目を閉じて追う。ドキュメント。
 俺の頭の中で確かに生きているイキモノを追う。
 そうして俺は、この10本の指を器用に動かして、生き様を綴るんだ。

 開け放ったベランダから、細い音が流れ込んできて、目を開く。
 英語の歌だった。CDじゃなく、ナマの声。
 ああ。久しぶりだな。
 俺の隣に住んでいるらしい女性は、よく窓を開け放って歌を歌っている。
 下手な歌なら怒鳴り込んでやるところだが、これが上手いのだ。
 特にビブラートが綺麗。
 最近歌ってなかったしな。うん。高音が綺麗。
 ―――っていうか、お隣って、さっきの子ですか? 黒服に金髪にシルバーのリングの?
 急に現実世界のほうもざぁっと霧が晴れて、俺はごくりと息を呑んだ。
 わー、あの人が麻生さんか! 知らなかったぞ今まで! というか、さっき隣に入っていく時点で気付いていいんじゃないのか!?
 しっかり、しっかりしろ俺!
 やっぱり俺は一本螺子が外れているらしい。

 ことごとく自分が社会不適合者だと確認したところで、電話が鳴った。
《あのねぇ! ところで吾妻くん、調子は?》
 取ってしまってから後悔した。サヨリさん、今の俺にそうやって追い討ちかけないでよ。
「まだ全然」
《こらーっ!!》
「人の話は最後まで聞いてよ」
 きーんと、耳に叱咤が刺さる。鼓膜が破れるかと思った。しばらくエコーのように残る。超音波ってこんな感じだろうか?
「今、"降りてきた"から、大丈夫だよ。2時間あれば終わる」
 時計を見ると2時半だった。夜明けまでには確実。
 そしたら、サヨリさんはふーん、って黙った。
《そこのところは信頼してるから、頑張ってね。それと、インタビューの話が来てるから、それもしっかり準備しといてね》
 つー、つー。
 気付いたら耳元でブアイソウな音が鳴っていた。この音って、音階で言うところの「ラ」なんだっけ?
 そんなことを思いながら、携帯電話をベッドに放り投げる。もう鳴っても取らない。

 俺はパソコンデスクに座りなおした。背筋を真っ直ぐに伸ばす。こういうときは気分も大事。
 そうして、指をキーボードに置いた。
 ピストルを待つ、短距離走者のように、一度だけ呼吸を止める。
 目蓋の裏に、いくつも並んだハードルが見えた。(こう見えても昔は陸上部だったんです、俺)
 体をかがめて乾いた破裂音を待っている。10台、並んだハードルの下から、その白い枠の遥か向こうに、ゴールが見えた。
 切り取られた、理想のビジョンにそれは似ていた。
 そこに誰より早く、全ての障害を乗り越えて走りこむ快感を俺はまだ覚えている。
 誰より早く。ぶっちぎりで。

 頭の中で、走りたがって暴れている橋場がいる。
 今、走らせてやる。誰よりも自由に。
 俺の生きるちからを、衝動を、全部注いで。

 遊びじゃねぇんだ。
 戦いだ。



2.

 私は歌うたいです。
 アマチュアです。4人のバンドで歌ってます。
 指先に嵌めたリングが、天井から落ちてくる極彩色の照明を跳ね返す、その一瞬のひかりが好きです。
 視界が0になる、ストロボが好きです。フラッシュ。
 足元から這い上がるような、バスドラの音。心臓に届く、ベースの音。ズタズタのボロボロに切り裂くような、でも優しいギターの音。
 そんなものが溢れる場所だけが、私の居場所。生きる場所。
 そう思って歌ってきました。
 女なのに、咽喉仏みたいなのがある。これちょっと自慢。咽喉を鍛えてる証拠。
 だけどある日突然、歌えなくなりました。マイクの前に立つのが怖い。
 激しく降り注ぐ、日光よりもつよい白いひかりが、オーディエンスの顔を灼き潰す。集団のっぺらぼう。
 その顔のない人波すら、私がそこにいる証だったのに今は。
 責めているみたいに見える。
 私は歌うたいのはずです。はずでした。
 少なくとも、1ヶ月前までは。


 空を仰いだ。
 金色の髪の隙間から差し込んでくる昼間のひかりが、弱った目を思いっきり貫く。
 きゅう。収縮する瞳孔。
(いたい)
 ああ。生きてるんだな。変な確認の仕方。
 だけど、ライブハウスの照明よりは、弱い。刺す鋭さが。

 "上手い"と"好き"は性質が違うものだって、生きてきて20年目。初めて知った。
―――お前の歌、好きだったけど。このままだと正直、続けていける自信が無い。
 突然、リーダーのヒロムが二人で食事に行こう、なんていうから。
 元々楽しい話だなんて思ってなかったけど。
―――限界なんじゃないの。
 突然そんなことを、言われました。
 限界なんじゃないの。
 ぼんやりと、限界ってどこにあるんだろうと思った自分がいました。

 泣けなかった。

 絶えることのない人の海の間を泳ぐように交差点を渡り終える。目の前で緑が点滅して赤に変わった。
 駅前のロータリー。
 申し訳程度に目に入る緑。これだけの人間の二酸化炭素を酸素に還元するにはとても無力な。
 かわいそう。

―――アイシテル。

 唐突に、そんな高い声が聞こえてきたから顔を上げた。
 街頭の大画面のビジョン。大きな瞳で可愛くウインクをする、私よりも4つぐらい年下の女の子。

 週末は海に行こう 一緒に
 手を繋いで

 平凡な歌詞にポップなメロディが乗っている。
 新作のプロモーションビデオ。

 どうしてですか。
 私は、街頭ビジョンを見上げて、心の中で問い掛けた。
 どうして貴方はそこに存在して。
 歌うことを許されて。
 笑って。
 笑っていられるんですか。
 消費される歌だけを次々と歌いながら。「アイシテル」って軽く言いながら。
 お手軽に。用意された他人のことばを。ひたすら繰り返して。
 消耗品で。
 笑って。媚びて。

 そんなものですか。
 歌は。
 もっとつよくないですか。
 もうつよくないんですか。

 限界って何。


            *


「あのね、俺、死ぬかもしれない」
 マンションの地下。ゴミ置き場へ下る階段の一段目を降りたところで、そんな声が聞こえて立ち止まった。
 縁起でもない。
 数段下。よりにもよってゴミ置き場の目の前の階段に座り込んで、ケータイを耳に当てて、背中を丸めている男がひとり。
 こんな奴このマンションにいたっけか? なんて思ってすぐに訂正する。
 私の生活夜型だから、会わない人がいたって別に、おかしくないんだった。
 金に近くなるまで茶色に染めた髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回して、先客はしばらく黙っていた。静まり返った非常階段に、男の持ってるケータイの向こうから届く声が、かすかに響いた。
 ホントウ、ワガママナンダカラー。
「もうだめ。これ以上やったら多分、俺死ぬよ。限界だよ。もう立てない。ふらふら」
 ジブンデヤルッテイッタノニー。
「だってもう、削れるモンなにもねぇんだ」
 私は、部屋で踏み潰してから持ってきたペットボトルの山を―――ほとんどが烏龍茶とミネラルウォーター―――コンビニの空き袋に入れて手に下げたまま、呆然とその背中を見た。

―――削れるモンなにもねぇんだ。

 何の話をしてるのかとか、相手が誰なのかとか。全然分からないんだけど、ずしんときて。
(痛い)
 反射的にそんなことを思った。
 言葉だけじゃなくて、声だけじゃなくて。その両方が混ざって不思議な雰囲気を出していた。
 崖っぷちの。もう一歩も後がない。

 ダカラネ、アガツマクン、カタノチカライレスギナノヨ。
 モウチョットチカラ、ヌイタラダメナノ?

―――お前さ、何でそんなにカタイの?

 からん、と袋の中でペットボトル同士がぶつかった音がした。知らないうちに力を入れて空き袋を握り締めている指。
 マイクを握る、右手。
 先客の肩が揺れた。気付かれた。だけど動けなかった。
―――お前の歌じゃ、正直もう……。
(だってこれ以上もう、どうすればいいか分からない)
(なにが足りないのか分からない)

「だから、力抜いたら"書けない"んだってば。分かってるくせに」
 かつん。先客が履いていた革靴の底が音を立てる。立ち上がった。携帯電話を耳に当てたまま、半分振り返ってこっちを見た。
 目元だけが笑った。笑われた。分かった。
「とりあえず頑張るから」
 ぷつり。相手の反応を待たずに電話、切った。ぱたん、と折りたたんで、アンテナ引っ張ったり戻したりしながら登ってきた。
「入り口占領しちゃっててごめんね。麻生サン」
 呼ばれた。苗字。なんで!?
 ばさばさに散った茶金の髪に耳に真っ赤なピアスなんかつけたりして。めちゃくちゃチンピラっぽい。こんなひと知らないんですけど。
 派手な、赤い柄シャツだし。黒のパンツだし。
 ……まぁ、私だって金髪だしレザーだしブーツだし、相手のこと何も言えないんだけど。
 いや、そういうことじゃない。つまりは何でここにいた先客が私のことを知っていたかと言うことだ。
「……あの、一応お隣なんですけど」
「はぁ?」
 うわ、やばい。凄く柄悪い聞き返し方しちゃった。声が斜め上がり。だって、知らないんだもん。
「まぁね、俺は半ヒキコモリだし、麻生サン完全夜型だし。会わないけどね。―――最近、歌ってないよね」
 胸のポケットから引きずり出したセブンスターに火をつけて。そのあとにぽんっと。本当に投げ出すように。
 矢を、射た。
 胸の真ん中に刺さった。毒が塗ってあったのか、じんわり痛いものが広がる。
「あの、スミマセン、うるさかったですか」
 何とか取り繕うように謝った。手の中でペットボトルががしゃがしゃ煩い。手が震えてる。怯えてるみたいに。
 隣まで聞こえてましたか。私、時々CDとかにあわせて歌っちゃう癖があるんです。
 体がどんどん冷えてく。
「ああ、ごめん」
 人差し指と中指の間に細い毒ガスの煙を上げるモノを挟んで、相手が突然困ったような顔をした。
 何、謝ってんのこのひと。っていうか、私どうして深夜にこんなところでこの人と話してるの。
 とさ、と音を立てるようにして、煙草の先から灰が。ゆっくり下に落ちた。
 数段下。私よりずっと背の高い人が、私を見上げて、迷子の犬のような顔をして。
「泣かせるつもりじゃなかったんだ」
 言った。


            *


 私は知っているんです。
 この間、結成した当初から仲良くしていた「realize」がレコード会社と契約して。
 実力に大差はないのにって、メンバーが悩んでいるのを。
 何が足りないのか必死になって考えているのを。
 あいつらにあって、自分らにないもの。
 探して焦ってるのを。
 その焦りに捌け口なんだと割り切れればそれでよかったかもしれません。
 八つ当たりが私のところに向いたのだと。
 だけどそんなんじゃないんだって。
 本当は自分も知ってた。
 "なにか"足りないことを、本当は自分が一番、一番。
 知ってたから何も言えませんでした。
―――限界なんじゃないの?
 ひどい言葉を投げつけられたのに。


 ペットボトルをちゃんとゴミ置き場に捨ててから、私は自称お隣さんと7階まで戻って来た。
 その人は、本当に自分の隣の部屋のドアに手をかけた。本当にお隣だったんだ。
「あ」
 半分扉を開けたところで、お隣さんは慌ててそのドアを閉めた。
 何?
 こっちに向き直って、こほん、とひとつ咳払いをする。
 私が掌をドアノブに絡ませたまま呆然としていると。
「お隣のアガツマケースケです。どうぞ宜しく」
 ぺこり。丁寧に頭を下げた。頭の中で漢字変換できなくて、ついつい斜め上の表札を見た。「吾妻」。
 かっこいい苗字だなとふと思った。
「麻生サン、下の名前は?」
 呼ばれて視線を元に戻すと、柄の悪い柄シャツのポケットから、セブンスターのボックスとライターを取り出しつつある吾妻サンと目が合う。
「ジュン。潤うって書いて、潤」
「へぇ、カッコイイね。今度それ、使ってもいい?」
「は?」
 使う?
 かちり、ぽう、じりじり。
 ライターの先から勢いよく飛び出した炎が白い煙草の先をちりちりと灼いた。
 私は多分、物凄く、それこそ信じられないというような怪訝そうな顔をしていたんだと思う。一度大きく紫煙を吐き出してから、吾妻サンはにこにこ。
「ああ、一応しがないモノカキなので」
 と付け加えた。
 一瞬からかわれているのかと思った。
 ジロジロ上から下まで吾妻サンを眺め回してしまう。
 チンピラにしか見えません、吾妻サン。
「麻生サンさぁ、歌上手いよね。最近聞こえないけど。俺結構麻生サンの声好き―――」
「私もう、歌わないんで!」
 吾妻サンの言葉を途中で遮って、私は自分の部屋に逃げ込んだ。
 ばたん、大げさにドアを閉めて鍵をかける。
 逃げました。
 吾妻というお隣さんからではなく。「歌」という単語から。
 ひとつ嘘もつきました。
 歌わないのではなくて。
 怖くて歌えないだけなのに。


            *


 気づけば足が、街頭に流れる音楽を拾ってリズムを取っている。
 自然に。

―――潤、久しぶりに帰ってきたらどうなの。この間も帰ってこなかったし……。
 家を出る前に聞いた留守番電話の母の声を不意に思い出した。
 声のニュアンス。「仕方ない子ね」。
 そうです。私はいつもしょうがない子だった。
 上の二人の兄はとてもいい子。6つ上と8つ上。年が離れているだけ、可愛がられました。
 でも、小学校にも中学校にも伝説が残るぐらいのいい子だったので。
 私はいつも、居もしない兄の影に怯えるように、学校生活を過ごしていました。
 いつも誰かから、見張られるようにして育ちました。
 でもいつも、歌だけは負けなかったの。誰にも。
 私の武器でした。

 高校を卒業して、東京へ出ました。歌でなんとかしようと思った。
 そんなこんなで大学も3年目です。私大をとりあえず受けたのは、やっぱり所属する肩書きが無いのが怖かったのかもしれません。
 そこのところが、中途半端な決意なんでしょう。度胸が足りない。
 私の悪い癖。
 気づいたら私は、大学生でも歌うたいでもない、中途半端な存在になっていた。

 街頭の大きなビジョンは今日も忙しく色々なメディアを映している。
 極彩色のフラッシュ。目を容赦無く刺した。
 たくさんの歌が、素通りしては消えた。安っぽい言葉とともに。
 それを聞くたびに私は、なんだか絶望的な気分になる。

 魂が震えるような歌を聞いたことがある。
 聞いただけで、足がすくんで、そこに立っていられなくなるような。
 そのまま泣き崩れてしまいそうな。
 歌の魂を知っている。
 歌のありかを知っている。

 だからもっと、歌はもっと強いものだと、今も縋るように信じているんです。
 怖くて歌えないくせに。


 地上の歌から逃れるように、地下にある書店に入った。
 特に目当てのものもなく、本と人の海を泳ぐように彷徨った。
 雑誌の棚。流行のファッションが綺麗に並ぶ。その何冊かを手にとって、ぱらぱらと捲る。意識に残るものは何もない。
 ふと、隣の棚に目を移して。
「うそ」
 思わず口に出てしまっていた。慌てて我に返って辺りを見渡す。ちょうど人はいなかった。助かった。
『インタビュー・吾妻珪丞』
 これ、ケイスケって読むのかな、後ろの、名前。
 とある文芸雑誌の表紙だった。
 何かに憑かれたみたいに、手にとってぺらぺら捲った。
 見覚えのある顔が現れて、正直うわマジかよ、と思った。

 吾妻:俺ねー、フトウコウっぽくて。ちょっと危なかったんだよね。ここが。(頭を指差す)
―――えェー? ウソでしょう? ずっと『ワルでした』って顔してるモン!
 吾妻:藤丘さん、容赦ないね。
―――だって、ピアス、いちにい……、4つついてるし。
 吾妻:ピアスつけてるひとって不良なんだ? 藤丘さん的にそうなんだ?
―――そうじゃないけど(笑)! 雰囲気がなんていうか、「オレサマ」なんだよネー。唯我独尊、っていうか。
 吾妻:それはね、俺の涙ぐましい努力と自己改革の結果なワケよ。で、話戻すけど。
―――そういう強引なところがオレサマ。
 吾妻:(笑)。なんていうか、被害妄想が激しいコドモでね。こそこそ噂してるのが全部俺の悪口なんだーって思うぐらいで。
―――でもそういうところって、結構皆にない?
 吾妻:そこから先がおかしいんだって。聞いてよ。友達と遊んでても、少しでもヒドイこと言われたら、家の物置小屋にこもって出てこないような子なんだよ。しかも自分の家に友達呼んでおいて、放っておくの。悪いと思ってないの。その中で寝たりすんの。
―――うーん。
 吾妻:母親が謝ってる声とか、聞こえてるの。でも俺は悪いと思ってないの。自分の感情が一番大事で、あとはオマケなの。今考えるとスッゲー怖いよね。うわ、こいつ危ないって、良く思うよ。だからちょっと、イカレてたんじゃん? ここが。(再び頭を指差す)
―――それで? どうしてその子が小説書くようになったの?
 吾妻:うわ、それこそ強引だね。インタビュアーの鑑だね(笑)。
―――全部の話を載せられるわけじゃないのよ(笑)! ほら、さくさく話して!


 そこまで読んで、雑誌を閉じた。なんだか、喋ってる声がここまで聞こえそうだった。
 同じ名前の人違いかと思ったけど、載ってた写真もしっかり、お隣のアガツマサンだった。
 気がついたら、その本はレジを経由して、紙袋に包まれて手の中にあった。


            *


 吾妻:賞にね。入ったの。作文なんだけど。……読書感想文だったかな……。
―――覚えてないんだ(笑)?
 吾妻:人間とは古い記憶を捨ててゆく生き物なんだよ(笑)。
―――はいはい(笑)。
 吾妻:それまで俺はいつ死のうかずっと考えてて。自分に出来ることもないし。だけどそれから、作文の鬼みたいな先生に追っかけられて。文章書けって言われたの。それで初めて、「あー、書いていいの」って思ったんだよね。俺は所詮豚だから(笑)。おだてられると木に登るから。それが更に立て続けに賞に入るから性質が悪くてね(笑)。
―――もう中毒になったんだ?
 吾妻:解毒薬ないからね。厄介だよね。でもそれで、生きてていいんだなって。極端だと思うでしょ。でも素でそう思って。だから昔から今まで、書いてるモンは全部自分のためなのね。それを楽しんでくれる人がいるのは、嬉しいけど。一番楽しいのは俺だよっていう……。
―――楽しんで書いているって言うのは凄く伝わってくるのね。こっちにも。
 吾妻:もう、楽しくて楽しくて(笑)! 書かないと死んじゃうね(笑)!
―――吾妻クンは死ぬまでモノカキ、と。
 吾妻:そこでメモしないように(笑)。
―――プロになろうと思ったのは、いつからなの?
 吾妻:元々。趣味で終わらせようとか、そういう気は全然なくて。むしろ分からないんだよね、趣味でモノカキしている人の気持ち。
―――毒めいてきたね。
 吾妻:素直な気持ちだから(笑)。やっぱり、こっちが発進した情報を受け止める場所は必要でしょう。自己満足じゃいやだったのね。何しろ俺ってば生きてる実感が希薄だったから、自分が発進したモノを受け止めてくれる場所っていうのが必要で。そこから褒め言葉であれ批判であれ、中傷であれ、返ってくれば生きてることが分かるし。そういう理由もひとつあるけど。あとは極度の負けず嫌いが……(笑)。
―――ああ、知ってる(笑)。
 吾妻:1って言う数字、いいよね(笑)。
―――No1?
 吾妻:そう(笑)。世の中にこんなに色んな文章とかジャンルとか溢れてて。でも俺は2番目が嫌い。やるならてっぺんまで行きたいんだよ。妥協なし、媚びもなし。プロでもアマチュアでも、誰かが凄いと思ったら素直に怒るね(笑)。悔しがる。地団駄踏む。そして、そいつを打ち倒す作戦を練る(笑)。文章って武器だから俺には。そいつらが追いつけないようなモンを書いてやるって、いつも思ってる。それにどれだけ書いても、まだいけるって思ってる自分がいるから。ここで終わりじゃないって。だから本当は、"傑作"! とか煽りで入れないで欲しいな(笑)。まだ先があるんで(笑)。
―――ギクッ! 耳が痛い(笑)。ところで、吾妻クンの書く作品っていうの、感情描写がキモチワルイぐらいリアルな時があるよね? 体験談?
 吾妻:キモチワルイ? ああ。それって結構、俺にとっては褒め言葉だな。でもね……。


「あ。読者発見」
「うわっ!!」
 突然左側から聞こえてきた声に、驚いて、手の中の雑誌を落としてしまうところだった。
 7階のベランダ。
 左側を見ると、今日も煙草を片手の作家アガツマがそこにいた。
 こちらの驚きなんてお構いなしに、吾妻さんの視線は私が持ってる雑誌に注がれていた。
 眠ってない顔をしている。締め切り前なのかな。余計なことを考えてみる。
「もう出てたんだ?」
 のほほんとした笑顔で言う。この人が、あんなことを言うなんて。
(書かないと死ぬ)
 死ぬ、なんて。

「吾妻さん」
 名前、呼んでみた。
「私、歌わないんじゃなくて、歌えないの。ココロがね、入ってないんだって。届かないんだって。そう言われてから怖くてもう、歌えないんだ」
 くしゃ、と手の中で何かが音を立てた。雑誌。握りすぎて皺になってる。
「武器、歌だって思ってた。私も一緒なの。オマエの歌が欲しい、って。巧いって。言われることで、生きてることを確認してんの。これがなくなったらどうすればいいかわかんない。でも、歌えない」
 不純な、動機かもしれません。必要とされたいから歌うのは。
 認めてほしいから歌うのは。だけどそれが、私が歌う理由だった。
 だから、「心がない」そう言われたとき、本当は。
 この醜い心のうちを見透かされたみたいで、怖かった。怖かったです。
「じゃあやめれば」
 笑顔のままで、突然そんなことを言った。
 私は、胸の真ん中を抉り取られて、ぽっかりと穴が開いたみたいに、愕然とした。
「―――って言われて、麻生サンやめれる? 歌」
 穴が開いたと思った場所―――左胸―――を中心に、冷たいものが体中に広がってゆく。
 やめることが出来る? 歌うことを。
「鼻歌もダメ、カラオケもダメ。そうやって全部、歌うことダメーって言われて、耐えられる?」
 煙草の先から灰が落ちる。下に。その軌跡を、私の目がすぅっと追った。
 そのまま俯く。
「俺は、書くのやめろって言われて、やめられたためしがないんだよ」
 ベランダに体を預けて、吾妻サンはどこか遠くを見るように目を細める。
「つまんないから、才能ないから、やめちまえって言われて。俺もやめようと思って。筆を折るって決めて。……3日持ったらいいほう」
 狂いそうになるんだよ。何かを、外に出したくて。
 書きたくて。
 この体の中に、頭の中に存在する色々な"ヨシナシゴト"を。
「表現っていうものにイキガイを見つける奴らって、救いようもなく馬鹿なんだ」
 ほら、もっと簡単に。生きていく方法ならあるでしょう?
 与えられた仕事をこなすだけでもらえる、どんなものとでも交換できる紙があるでしょう。
 真面目に。はみ出さず。真っ直ぐに。それを選べば。
 苦しまずにすむでしょう。
「なのに、それを選べない奴がいる。自己主張したくてどうしようもない目立ちたがりの、自己中の、馬鹿がここにも」
 ちりちり燃える、赤い煙草の先を自分に向けて、吾妻さんがコドモみたいに笑った。
「俺たちは、余計なことで悩んでんだ。生きていくには直接関係の無いところで、だけど自分を存在させるにはどうしようもなく必要な、厄介なことのために、ずっと戦ってんだ」
 戦いを、繰り返している。
 同じ光を目指す奴らと、高いところを目指す自分自身と。
 防御ナシで。体いっぱい心いっぱいに傷をつけながら。
「馬鹿ばっかりだ」
 白い煙を吐き出して、吾妻さんが言う。なんだか、楽しそうに言う。
 私は、その白い煙がうっすらと上に伸びて、やがて消えてゆくのを見ていた。
「やめる?」
 不意にこっちを見て、真面目な顔で吾妻さんが訊いた。
 主語が無いのに分かった。
 吾妻さんはもう、答えが分かっているような顔をしていた。口元が少し笑ってる。
 悔しい。悔しいんだけど。
「無理です」
 ダメです、ごめんなさい、降参です。

 私は。
 魂が震えるような歌を聞いたことがある。
 歌のありかを知っている。
 私はまだ図太く、信じている自分を知っている。
 ひかりを。ちからを。
 私は歌えなくなったらきっと死ぬ。
 今なら吾妻さんの気持ちもわかる気もする。書かないと死ぬ。おんなじだよね?

 そしたら吾妻さんは。
「じゃあ、麻生サンも馬鹿だ」
 と、仕方なさそうに笑った。
「きっと、早く死ぬよ」
 不意にそんなことを思って口に出した。馬鹿は、きっと早く死ぬ。

―――削れるもん何にもねぇんだ。

 そんな風に。生きてたら。死ぬよ。
 体の内側から削っていったら、きっと。
「それでもいいよ」
 楽しーじゃん。
 それが答えだった。

「どうせいつかみんな死ぬんだ」
 凄く、後ろ向きな筈のその言葉が、なんだか。さっぱりして聞こえた。
「楽しんだ方が勝ちだ」



3.

 それから私は、今までやってきたバンドを辞めた。
 歌をやめたわけではなく。少し自由に考える距離を持った。
 ボイストレーニングをはじめた。腹筋を1日200回はじめた。
 小さなことを。

 お隣の吾妻さんは、相変わらず隣の部屋で戦ってた。見えない敵と。
 そしてやたらに「死ぬ」っていう。
 ―――そんなに簡単に使っちゃいけないんじゃないのかな、その言葉。
 言霊ってあるんでしょう? 言い過ぎたら本当になるよ。

 もう、2ヶ月も前になるあの日。
 ベランダで見た横顔で思った。この人はきっと早く死ぬ。
 だからこんなに必死に、こんなに急いで、戦ってるんだ。
 だけど、今考えたら、あのひと結構、図太い気がする。
 するすると何度も襲い掛かってくる窮地をすり抜けて、最後には何てこと無い顔で「怖かった」って言う人だ。
 なんだか、怖い人だな。つかみ所がなくて、吾妻さん、キライだ。
 その割りに、私の本棚に吾妻さんの本が増えていくのはなんでなのか、自分でもよく分からない。
 真っ直ぐな言葉が痛々しくて、読むたびにぐさぐさくるのに。
 吾妻さんの文章も、多分キライ。眩しすぎて。

 ベッドに転がって、昨日出た新刊を読み終えて、ひとつ溜息をついた。
 歌いたいな。
 ぼんやりそんなことを思った。隣の人も、戦ってる。なんだか。負けてられないと思って。
 ああ。私も馬鹿だ。競いたがる。目立ちたがる。
 勝ちたがる。
 寝返りを打った。
 隣の愛すべき"戦友"の壁に向かって蹴りをひとつ、入れてやる。どん。

 私は。
 魂が震えるような歌を聞いたことがある。
 聞いただけで、足がすくんで、そこに立っていられなくなるような。
 そのまま泣き崩れてしまいそうな。
 歌の魂を知っている。
 歌のありかを知っている。
 私は。
 歌の強さをまだ信じている。

 ベッドの枕を占領していた作家アガツマの新刊をテーブルの上に放り投げた。
 くそー、また一冊読んじゃったぞ。読者にとりあえず、サインはくれ。

 はらり、カバーから帯が落ちた。
 床の上に転がった。無視。今は眠い。




 世界は戦場だ。
 唯一絶対の武器で、戦うんだ―――。



<了>



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