リリィとのすべて




1.

 ダイレクトメール以外をほとんど受け取ったことのない郵便受けに、赤と青で縁取られた白い封筒を発見した。
 おもてには、アルファベットが綴られている。紛うことなき、エアメールだった。
 引っ張り出して、吟味する。
 海外に知り合いなんていないはずだけど。
 番地から綴られた住所は確かに、ここ。
 エレベーターに乗り込んで、ようやく封筒をひっくり返した。
 Lily。
 ただそれだけの表記に、瞬間的に合点がいった。

 逡巡する。今すぐ開きたい衝動と、せっかく海を越えてきた封筒を引き千切る罪悪感。
 鍵を開けるのももどかしく部屋に上がりこむと、デスクの上からカッターナイフを引っ張り出した。
 中身を真っ二つにしないように、そっと刃を入れる。ありえないほど丁寧な手順だ。普段なら、端からビリビリと破っている。短気だから。
 透かしの入った薄い白い便箋には、封筒とは違ってたどたどしい日本語が綴られていた。
 カッターと封筒とを右手に握ったまま、左手で読んだ。

―――アガツマさんへ。
 こんにちは。おひさしぶりです。元気ですか。
 ワタシはとても元気にしています。
 だいぶおちつきました。もう、だいじょうぶ。
 笑ってます。
 半年も、レンラクしなくって、ゴメンナサイ。
 いまは、ニホンにいたときのことが、ぜんぶウソみたいな気がします。
 ニホンは人のやさしさがみえにくいところ。
 だけど、ぜんぜんないわけじゃない。
 アガツマさんがワタシのために怒ってくれたこと、うれしかった。
 ありがとう。

 だけど、ワタシ、あなたのこと、好きになればよかった。



2.

 半年前。
 夏のはじまりだった。
 はじまりといっても暦上のことで、体感的には夏真っ盛りであり、露出度の高い女性が街を闊歩していた。
 繁華街の一角、夜になると輝き始めるネオン街、けばけばしい電飾の海の中に、その日吾妻珪丞という名の人間は存在していた。
 薄暗い店内の、狭い個室の一室。
 おとされた照明の色はピンクで、目の前には薄着の妙齢な女性というシチュエーション。
 部屋の奥にはベッドまで見える。つまりは、そう言う店なのだ。
「シュザイ?」
 床にぺたんと座った細身の美人は、すこしカタコトの口調で繰り返した。
「そう。ちゃんとしたお客じゃなくてごめんね」
 向かい側に行儀悪く胡座をかいて座った俺は、奇麗に化粧を施した女性に詫びた。
 アジア系の女のひとだった。少なくとも、日本人ではない。
 けれど、いかにも日本人が好みそうな、顔立ちのくっきりした美人だった。
「本をね、書いてるので。それでちょっと話を聞きたいな、と思って」
 いわゆる、実地調査というやつだ。
 俺は、モノカキでそこそこの生活が出来るぐらいの作家で、今書いている作品のなかで、所謂風俗店を取り扱うことにしていたので。
 まわりからは疑われるかもしれないが、今まで俺は一切こういう店に出入りしたことがなかったので、雰囲気を掴むためにも、ということで突撃取材と相成ったわけだ。
 驚かれたり怒られたりするかと思ったが、意外にも彼女は瞳をきらきらさせた。
 なんだか、自分が悪い大人で、無垢な子どもを騙している気分だ。
 そんなに喜ばしいことではないんだよ。
 食いものにしようとしているんだ。
 リリィと、彼女は名乗った。二十三歳。
 二年前、フィリピンから日本にきた。
 本名までは聞かなかった。この日本で、この店で、彼女はリリィ以外の何者でもないんだろうから。
 店の制度とか、客層とかを聞いた。だけど本来は、その場の雰囲気を体で感じたいだけだったから、メモなんかは取らなかった。
 そういう場に置かれたときの、野郎の心理だとか、甘ったるい照明が醸す雰囲気だとかが得られれば、細部は必要ない。そこまで突っ込んで書くわけではないからだ。
 想像と妄想とで補ってしまえばことは足りるぐらいの扱いのはずなのに、こうして出向いてきてしまう自分は、完璧主義者なのか物好きなのかそれとも変態なのか。
 どれもだろうな。救えない。

 それでね、リリィ。どうして日本に来たのか聞いてもいい?
 訊いたのは、たいした興味でもなく、話の流れからだった。渋ったらつっこんで訊かなくてもいいかとも思っていた。その程度。
 生まれた国を出て、ネオン街で暮らすからには、何らかの事情があるはずじゃないか。
 不幸な影を想像してしまう。そうあってほしいという、みにくい願望もおそらく、存在している。
 俺が作家だからというわけではなくて、きっと誰の心の奥にもある残虐さが。
 貧しい家に生まれて、本国の家族を養うためにウンヌン。
 そんなありふれたドラマを、欲しがってしまう。
「すきなひとがニホンにいるから」
 大変だねぇ、と憐れむ構えを見せていた心に、思いっきり死角からの攻撃だった。
 リリィは薄茶の瞳をきらきらと輝かせて、夢見る乙女のように言ったのだ。
「好きなひと?」
 拍子抜けをして、思わず訊き返してしまった。予想外の展開だ。
 艶のある黒髪をゆらして、リリィは頷いた。

 タテノさん、とリリィは言った。
 館野賢一さん。
 商社勤めのサラリーマン。
 二年前、フィリピン勤務をしていたときに知り合った。
 タンシンフニンで、と難しい言葉のように彼女が説明したとき、嫌な予感がした。
 ―――ねぇ、リリィ、言い難いんだけどその人ってもしかして。
 そうしたら、彼女はあっさりと頷いた。
「奥さん、いるの、知ってるよ」
 言葉の意味を、本当に理解しているのか。
 すがすがしいぐらいの笑顔だった。
 日本人がやたらと横文字を話したがるのと一緒で、耳にした言葉をそのまま舌に乗せてみているのかと思えるぐらい。あっけなかった。
「だけど、いいの」
 顔の前で両手をひらひらと振る。
 短すぎず、長すぎない爪には芸術のようなアートが施されていた。
 照れたような、困ったような笑い方をした。
 初めて付き合った相手との仲をひやかされた、中学生のように。はにかむ。
 初々しく、みずみずしく、かわいらしいので、思わず流されそうになってしまったけれど。
 よくはないだろう。
 雰囲気に流されそうになるのを、必死に踏みとどまった。
 君はとてもしあわせそうな顔をしているけど、ねぇリリィ、それって君にどんなメリットがある話なの。
 色恋に利益を持ち込むなんて無粋だとは分かってる。分かっちゃいるけど。
 君ばかり、背負うものが多すぎる気がするんだけど、俺の勘違いかな。
 そう言ったら、リリィは初めてむっとした顔をして口唇を尖らせた。
「ケンイチさんのこと、悪くいわないで」
 きっぱりと叱られてしまった。
 むぅ、としっかりと整えられた眉根が寄る。
 そりゃあ、ほんの数十分前に顔を合わせた妖しげな客に、君をニホンに連れてきてくれたケンイチさんを罵られるのは不愉快かもしれないけど。
 だけど、ねぇ。
 こちらの言い分を吐き出したいのは山々だったのだけれど、親をかばう子どものような目で睨まれてしまうと、それ以上は言えなかった。
 っていうか、俺は一体何をやっているんだ。取材に来たんじゃなかったのか。
 何を説教を始めようとしていたんだ。
 ムキになる必要などなくて、それは大変だねぇと言っておけば良かったんだ。貧しい家族を養っているんだと、言われたときと同様に。
 遠い空の下の、不幸を憂うように。
 大変だねぇ、と。同情するようにして、流してしまえばよかったんだ。
 真っ向から立ち向かってしまった自分を悔いていると、まるで縫いとめるように睨み付けていたリリィの眉がそっと、八の字に下がった。
「ゴメンナサイ」
 しゅんとしょぼくれて、リリィがたどたどしく詫びた。
「ゴメンナサイ、やつあたり」
 きれいに持ち上げた睫毛をふっと伏せて、繰りかえす。
 ぺたんと折った膝の上に両手を重ねて、右手の爪の先を左手の指の腹で撫でた。
「最近ぜんぜん、きてくれないし、連絡、だめだっていわれてるから」
 一度奥方にばれて、文字どおりの修羅場となったのだそうだ。
 それから一切、リリィはケンイチさんの住処近くには近寄れないんだそうで。
 ごめんね、とこっちも詫びた。
 土足で上がりこんで、無遠慮に傷口に触れたみたいなもんだ。
 無神経でした。
「ムシンケイ?」
 あどけなく、リリィが訊き返した。
 うーん、気が訊かないっていうか、空気が読めないっていうか。説明するごとに分からなくなっていくような気がする。
 しっかりしろ、文字で飯を食ってるんじゃないのか。ボキャブラリーの貧困さに愕然とする。
 しどろもどろに説明を試みているうち、リリィが小さく吹き出した。
 一瞬の間を置いて、はじけるような笑いが狭い部屋に響いた。
 いつもはもっと、湿った声が響いているはずの、灰暗い部屋の中では不自然なぐらい。
 つられて、笑ってしまった。



3.

 肌が照り焼きになりそうだった。
 足下にあるアスファルトと、じりじり照りつける太陽とに挟まれて、逃場はなかった。
 握り締めたメモが徐々にふやけてきた。
 ただでさえ夜型の生活を送っている人間が、日曜の午前中に外出するなんて、天変地異の前触れとまわりに言われかねない。
 自分だってどうかしてると思う。
 ケンイチさんの家を探しているなんてな。


 リリィから聞き出した住所を頼りに、閑静な住宅街を右往左往する。
 立ち並ぶのは豪勢な一軒家と高級そうなマンションばかりの界隈だ。
 元々地道な作業というのが死ぬほどキライなのだ。もっと首尾よく、地図などで調べてくれば良かったのだろうけれど、アバウトな性格が災いして、なかなか目的地にはたどり着けない。
 結構いつものことなのだが、教訓になってない。学習能力というものがないらしい。
 冬は寒いので嫌いだが、夏も暑いので嫌いなのだ。
 いい加減汗だくになってきたので、自分にとてつもなく優しい悪魔が囁きかける。
 何ムキになってるの。やめちまえよ。
 それは、とてつもなく甘美な誘惑だ。
 甘いものはとても好きだ。自然とそちらに傾きかけてしまう。
 だけど、そのたびに。
 リリィの姿が蘇った。

 あれから数度顔を合わせたあと、どういういきさつだったかは忘れたのだが、様子を見てこようか、という話になった。
 俺にはまだ、興味本位の部分が多少あったのかもしれない。
 彼女も彼女で、ケンイチさんに迷惑がかかるので、その界隈をうろつくことは出来ない。なので、申し出を拒まなかった。
 住所を知りたいと告げると、リリィはいそいそと手帳を持ち出してきた。
 アドレスのページにでも書き込んであるのかと思っていたら、彼女の華奢な指先は、手帳のとあるページにはさんであった一枚のメモを取り出した。
 メモは日に焼けて黄色味を帯びている。何度もたたんだり開いたりしていたのか、くっきりと折り目がついて、そこから破れそうだ。
 少し癖のある男の文字で住所と電話番号が書かれていた。
 詳しくは訊かなかった。
 おそらくそれが、件のケンイチさんから貰ったメモなんだろうということは、いくら鈍感な俺でも察しがつく。
 まるで壊れものを扱うかのような指先に、胃のあたりが気持ち悪くなった。
 不快感でもかなしみでもないこの感情は一体なんだろう。
 哀れと、思うわけではないけれど。
 彼女の注ぐ慈愛のようなものが、どれほど報われているのかと思うと、やりきれなくなる。


 何ムキになってるの。
 ずるずると足を引きずるように歩きながら、何度目かの自問。
 恋愛感情かといえば、確実に違うだろう。
 恋焦がれているわけではない。
 では一体何が、この体を突き動かしているのか。
 醜い好奇心かと思ったけれど、それとも少し食い違う。
 だって、彼女があまりにも盲目だから。
 現実を確かめたくなったのかもしれない。
 残酷な現実を。
 やさしい言葉に丸め込まれて、海の外まで追っかけてきてしまった風俗嬢なんてそ知らぬふりで、穏やかに生活している商社マンなんかを確かめたら。
 腑に落ちるのかもしれないな。
 彼女を不当な呪縛から解放できる、そんなエラソーなことを、考えていたのかもしれない。

「コレステロールは控えてくださいって、お医者様にも言われているじゃないの」
 今度こそ! と見当をつけて角を曲がったところで。
 楽しそうな笑い声と共に女の声が飛んできた。
 決して広くはない道を塞ぐかのように、大きなトラックが、とある家の玄関に横付けされている。
「本当、体には気をつけてくださいよ。これからまた忙しくなるんですから」
 トラックのあたりに立っている四十ほどの女の人が、笑った。その傍らに立っている中年の男が、苦笑する。
 白と紺とで統一された制服にキャップ姿。複数の男たちが、忙しなく家の中から家財道具を運び出しているところだった。
 無数のダンボール、運び出されるテレビに洗濯機にステレオ。
 これって。
 雷に打たれたように、急に動けなくなった。
 これって。こんなことって。

 ふと、人の気配を感じて左手側を見れば、近所の主婦と思しき人が玄関から出てきたところだった。
 見かけない男が立ち尽くしているのを、怪訝そうな目で見ている。
「引越し、ですか、タテノさん」
 なんでそんなこと訊くの、と顔に書いておきながら、彼女はあっさりと。
「海外ですってよ、栄転ね」
 言った。

 そのときの。
 腹のそこから一気に脳天に抜けた怒りを、俺は今でも覚えている。
 キレる、という現象が本当にあるのならば、それだろう。
 毛細血管が千切れる音すら、聞いた気がした。
 大事そうにメモをしまうリリィの繊細な指先のことを思い出した。
 なんてこった!
 ここまでの現実を求めていたわけじゃない。
 タテノケンイチは、そこそこしあわせに暮らしているだけでよかったんだ。
 その様を見届けて、リリィに教えてやるつもりだった。つまんねぇ男だから止めてしまいなさいよ、って。
 だけど。
 これじゃあ。
 こんなこと。
 どうやって言えばいい。

 殺気に近い怒りと共に、大きく一歩を踏み出した。
 このままじゃおさまらねぇ。一発ぐらい、殴ってやらないと。
 全て教えてやろうか、あの子がどんな想いで今も店にいるのか。
 なにもかも。赤裸々に暴露してやろうか。
 そうして、少しは苦しめばいい。
 このまま殴りかかったら、暴行の現行犯で逮捕されるかもしれないな。いや、多分そうだろう。
 それでもいいさ。
 それでも―――。

「おとうさん!」
 襲撃者の脚をぴたりと押しとどめたのは、あどけない子どもの声だった。
 家の中から、ロボットの玩具を抱えて飛び出してくる。荷物の搬入を見届けていた男に駆け寄った。
 タテノケンイチは、足元にまとわりつく五つにも満たないだろう子どもを、くしゃくしゃにした笑顔で抱き上げた。
 そこにはただ、完璧な家族の肖像がある。
 遅くに出来た子どもを溺愛する父親の顔がある。

 なんだそれ。
 なんだよ、それは。

 外国から女を連れてきておいて、放置して海外に逃げようなんて言う卑怯な変態オヤジにぶつけるはずだった拳の行き場は、どこにも。

 どこにも、なくなってしまった。



4.

「あ、アガツマさん! しらべてみたのね。ムシンケイってやつ」
 リリィはすぐには結果を促さなかった。
 怖かったのかもしれない。
 予期は、していたんだろう。
 きっといい結果じゃないってことぐらいは。
「他人に対する思いやりやきくばりがないこと、insensitive。なるほど」
 必要以上に、おどけているようにも見えた。
 俺はなんだかとても、とてつもなく、残虐な気分になった。
「海外」
 狭い部屋の、分厚い扉を後ろ手で閉めて、溜息のように零した。
 きびきびと動き回っていたリリィの動きが、冗談のように固まった。
「家族も連れて、海外勤務だってよ」
 俺の口元は何故か、笑う形に歪んだ。
 リリィの顔が、うすぼんやりしたピンクの照明の中でもわかるほどに青ざめた。
「だからもう、ここには来ない」
 なんて鬼悪魔だ、もっと言葉を選べたはずなのに。
 余裕がなくなっていた。俺も少なからず、打ちのめされていたのかな。
 泣き叫ぶかな、とぼんやりと思った。
 心の回路がどこかでぶつりと切れたようで、上手く機能していなかった。麻痺しているようで、リアリティが足りてない。
 泣き叫んで、不条理だって言えばいい。罵ればいい。お前にはそれをする権利がある。
 憤れ、憎悪してくれ。
 まるで、祈るように願った。
 だけど、リリィは少し強張ってはいたけれど、笑った。
 悪ガキの悪戯を耳にした母親のように。
「しょうがないね」
 諦めたように、笑った。許す顔だった。

 どっと。
 堰が崩れた気がした。
 昼間に感じた、稲妻のように体を貫く怒りが、噴火したように溢れ出した。
「お前なァッ!」
 握り締めた拳を、背にした扉に叩きつけていた。防音処理が施された扉は、鈍い音を少し立てただけだった。
 びくっと、リリィが体をふるわせた。
 よく見たら、ずっと震えていた。
「なんでそんなふうに、なんでもかんでも!」
 許すなよ!
 どうして。
 神様のように何もかもを愛そうとするんだ。
 震えているくせに。本当は、痛みもちゃんと、感じているくせに。
「俺のことも、罵ればいいじゃないか! わざわざそんなこと教えに来て、何しに来たんだって思うだろ!」
 そうだ。
 俺は一体、何をしに来たんだろう。
 わざわざ残酷な現実を彼女に突きつけたりして。一体何がしたかったんだろう。
「引越し準備してるのを見て、殴ってやりたいぐらいにムカついたのに、子どもが―――」
 子どもが飛び出してきたら。急に怖気づいた。
 憤りよりも、理性が勝った。
 無垢な子どもの前で、父親をぶん殴るのが正しいことなのか、分からなくなってしまって、憤りを宥めすかした。
 だけど、だけど、だけど。
 俺は一体、どうするべきだったのか。
 どうすることが、一番正しかったんだろう。
 不完全燃焼のまま、わざわざ現実をリリィに突きつけに来た。それって、ただ俺が自分の中の嫌悪感を薄めたかったからじゃないのか!
 狂ってる。
 ただ自分可愛さに、弱者をいたぶりにきただけだ。

 リリィを日本に連れてきておいて、見捨てるように海外に栄転するタテノケンイチの身勝手さも。
 ぶん殴りたいほどに憤ったのに、完璧な家族の肖像の前に尻込みをした、自分の意気地のなさも。
 気持ち悪くて、吐きそうだ。
 社会的な生きものにもどって、尻尾を巻いて逃げてきた。


 そっと、白い手が伸びてきて、頬に触れた。
 親指が、かすかに目元を撫でて過ぎた。
「ありがとう」
 硝子玉のように目を潤ませて、リリィが微笑した。
 目元を拭う指先の動きで、俺はようやく自分が、無様に泣き出しそうになっていたことに気がついた。
 手が触れた反対側の頬に顔を寄せて、リリィはかすかに接吻けを落として。
 そっと、この体を抱き締めた。
「……どうかしてるよ」
 項のあたりを撫でる指先は繊細だった。
 頭ひとつ分も低いところにある肩に、額を凭せ掛けた。

 どうかしてる。
 聖母のように許すなよ。
 簡単に抱き締めるなよ。
 どうかしてるよ、女ってやつは。
 深い懐に抱きすくめて許すから、男はいつまでも、自分の罪に気がつかない。
 ガキのままで、何度も同じことをするじゃないか。
 傷つくのは君たちだよ。
 いつもいつもいつも、そうじゃないか。

「だいじょうぶ」
 背を擦りながら、異国の言葉をリリィは繰り返した。
 泣き止まない子どもをなだめるように。
 だいじょうぶ。
 摩訶不思議な魔法の呪文のように。

 俺は、リリィの薄い体を抱き返す。
「ごめん」
 詫びるだけで、精一杯だった。
「ありがとう」
 震える声で、リリィは、卑怯者の俺に言った。
 そう言って俺を許した。



5.

 ある日唐突に、リリィは日本からいなくなった。
 あれから何度か店に通って他愛もない話をして、結局一度も風俗嬢と客という立場になることはなかった。
 それでよかったんだと思う。
 俺の周りでは一時期だけ「アガツマが風俗に嵌まった」という噂がたって、それもすぐに消えた。
 国に帰った、という話だけを耳に挟んだぐらいで、彼女に関する消息は全く知らなかったけれど。
 それでいいと思っていた。
 少なくとも、【ニホン】にいるよりは、しあわせなんじゃないかと。

 ぐるりと季節は巡って、嫌いな夏の代わりに嫌いな冬がやってきて、大分風化し始めた頃に、彼女からの手紙が届いた。

 たどたどしい日本語で綴られていた手紙は途中から見事な英文に変わっていて、読解するのに一日を要した。
 今現在の暮らしだとか、家族のことだとかが丁寧に綴られていた。
 地元のレストランで働いていて、同じ職場の同僚が気になるらしい。
 今度はちゃんと、未婚の相手です、と冗談めかして綴られてあった。

 手紙の最後は、また不慣れな日本語で、こう締めくくられてあった。



―――たぶん、もうワタシはニホンには住みません。
 あのころも、シアワセだって感じてた。けど。
 やっぱりどこか、くるしかった。
 アガツマさんに会えなくなるのがやっぱりザンネンです。
 どうか元気でいてください。
 もしもどこかで会ったとしても、ワタシと気づいてもらえないかも。
 国にもどってから、ふとってしまいました。
 たくさん、どうもありがとう。ありがとう。

 ありがとう。


<了>

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