リビドー



 リビドー【libido】:人間の行動の元になる性的欲望。性衝動。


1.

 人間としてそれはどうよ、な生活をしている。最近。
 コンビニ←→マンションの往復。
 時々編集部と打ち合わせのファミレス。
 起床就寝の時間はバラバラで、煙草の数も増えて。
(それもこれも最後の10枚が……)
 まとまらないおかげだ。
 液晶のモニターとのにらめっこもいい加減疲れてきた。
 煙草とインスタントコーヒーが切れて、ようやく外に出たぐらいだ。
 吾妻珪丞―――アガツマ ケイスケ―――。26歳。(一応)作家。良く訊かれるが本名だ。

 溜息交じりに空を見ると、まだ夕焼け小焼けのお時間。なのに。
(……眠い)
 深夜二時から起きだして今に至るアガツマは、既にオネムだった。

 耳の、棒状のピアスが重い。
 伸びかけた前髪が邪魔だ。
 シャツ一枚で外に出るんじゃなかった、寒い。
 ぼんやりとした頭では、一度に様々なことを考えられることに気がついた。
 ちょっとお徳かもとは思ったが、すぐに考えを改める。
 考えるだけで、何一つまとまらないことに気づいたからだ。
 人間、アタマはすっきりしていたほうがいい。結論。

 ぴりぴりと疲労を訴える瞼を飼ったまま、マンションの自動ドアを幽霊のようにくぐった。
 郵便受けから、押し付けがましいぐらいに新聞が自己アピールしていた―――無視。活字なんて、今は見たくない。
 自分の文字だけで精一杯。全部、自分の思い通りにならない化け物に見えるからだ。被害妄想。
 エレベーターへ直行。
 押すボタンはいつもと同じ"7"。ラッキー7なんて迷信に決まってんだ。
 心地よい浮遊感が睡魔を呼び起こすのも束の間、エレベーターの扉が開いた。
 買ったばかりの煙草の、ビニールを引き剥がして一本くわえる。ライターが見当たらない。
 部屋に置いてきたかな。まぁいいや、どうせ部屋は目の前だ。
 今日はもう駄目だ、今日はもう寝よう。
 このまま708までたどり着いて。
 @ドアを開け、Aコンビニの袋を床に置いて、Bベッドに倒れこむ。
 以上がこれからの今日の予定。手順もばっちり。
 すみませんゴメンナサイ平内サヨリ女史(担当)。
 アガツマは今日も、残り10枚がまとまりませんでした。

 人間、意識が朦朧としてくると、擬似トリップに入るもので。
 カフェインとニコチン&タールしか摂取していないとグロッキーにもなるもので。
 引きずるような足取りで、自分の部屋の扉を目指す。
 すぐそこまでだからと鍵もかけずに出かけてしまうのは、悪い癖だとは思うが。治らない。
「あれ」
 自分の扉の前にたどり着いたところで、いつもと違うところに気がついて、思わず口に出した。
 隣の部屋には、麻生潤という、ヴォーカリストを目指している20の女の子が住んでいる。とりあえずお友達なのだが。
 その部屋の前。扉に背中を預けるようにして、紺のコートを着込んで、茶色の髪が肩につくぐらいの女子高生が座っていた。
 膝を抱えてカバンを抱いて、眠っているように俯いている。ひくりとも動かない。
「あのー」
 人間は擬似トリップに入ると、大胆になるもので。
 思わず声をかけてしまった。
 肩のあたりがぴくん、と動いただけで、顔はあげない。生きてはいるみたいだけど。
「潤ちゃんだったら、今日はバイトだからまだ帰ってきませんけど」
 反応なし。
 (予定を知っているのは、今日届いた宅急便を預かっているからだ。別に色っぽい事情はない)

「コンクリート、寒いんじゃないんスか」
 無視。
 頑として、彼女はそこを動くつもりはないようだ。
 仕方がない、とズボンのポケットから携帯電話を引きずり出す。気は進まないが呼び出し開始。
 しばらくコール音が鳴って。

≪……今バイト中なんですけど≫
 ほら、不機嫌な声です。
「いや、知ってるんだけど。潤ちゃんの部屋の前に、お客がいるからさ」
≪客?≫
「あのね、ジョシコウセイ。ドアの前で座ってるんだけど、知り合い?」
≪本当ですか!?≫
 きぃん、と響くぐらいに大きな声で叫ばれた。元々淡々としている麻生女史だけに、これは珍しい反応だった。
「……知り合い?」
≪ええと、今、バイト切り上げて帰るんで、それまでそこに引き止めといてくれますか!≫
「はい!?」
≪説明すると長くなるんで、面倒くさいから帰ってから話します。とりあえずユキを―――その子、ユキって言うんですけど、帰さないでくださいね!≫
 ぶちっ。
 切れた。
 なんなんだ。うまく回らない頭では状況判断は無理。
 とりあえず携帯電話を仕舞いこみ、玄関のドアを開け、コンビニの袋を置き、下駄箱の上に置いたままのライターを取る。
 おかしいな、今日これからする手順はベッドに沈むことだったはずなのに。

「あの」
 ジッポの蓋を空しく開閉させながら、もう一度呼びかけてみる。
「ユキ、さん? 俺、麻生潤のお隣のアガツマってモンですけど」
 ある程度距離をおいて話し掛けると、今度はゆっくりとその女子高生が頭を持ち上げてこちらを酷く億劫そうに見た。
 興味なさそうな、どうでもいいような、投げやりの、そんな目で。
 その目が一度だけ不快そうに細められたので、アガツマは自分の格好を振り返る。
 伸びかかって目にかかった、茶金の前髪。耳に下がった棒状のピアス、趣味の悪い花柄のシャツ。レザーのパンツ。
 ……ああ、胡散臭い。典型チンピラ。見本だ。
「潤ちゃん、今帰ってくるみたいなんで、とりあえずうちにあがんなよ。寒いんじゃない?」
 視線を合わせるようにしゃがみこんで訊いてみる。
 すると途端に投げやりの瞳が怯えた。
「いや、大丈夫だから」
 何が大丈夫なのか自分でもわからない。とりあえずなだめる。
 けれど、彼女は一切の言葉を聞きたくないというように耳をふさいでしまった。
「風邪ひくよ」
 言ってみたものの、彼女は小さく首を横に振って見せただけだ。
 そりゃ、初対面の男に家に上がれって言われても、そりゃ嫌か。思い直してみる。
 溜息をひとつだけ吐き出して、吾妻はユキという少女の横に座り込んだ。びくっと一瞬だけユキが震える。
「煙草、吸ってもいい?」
 出来るだけ優しく―――元々舌ったらずで柄の悪いしゃべり方といわれるし―――言ってみる。
 と、ユキがそっと顔をあげて、一度口を開いたあと、すぐに閉じて、ただ首を前に倒して頷いた。
(あ……)
 ピンと来た。けど、気づかないふりをして。
 ようやくめぐり合えたジッポで煙草に火をつける。一口目が好きだ。
 煙草を銜えたまま立ち上がり、自分の部屋まで戻る。不思議そうな視線だけがついてきた。
 電気もつけずに部屋に乗り込み、走り書き用に使っているノートを一冊と、手近の青いサインペンを持ち、再び外へ出る。
 玄関の扉を閉めると、ユキが不思議そうにこちらを見ていた。
 悪戯をするように笑って見せると、何も書いていないページを開く。

『何時からここにいんの?』

 支えのない場所で書く文字は歪む。
 ノートを半分にして、文字を書き込んだページをユキに差し出した。ペンも一緒に。
 恐る恐るユキが受け取るのを確かめてから、もう一度同じ場所に座り込んだ。ズボン越しにもコンクリートが冷たい。

 先程、何か話そうと口を開いて、ユキは苦しそうに口を閉じた。
 もしかしたら、言葉が出ないのかもしれないと、直感で思った。
 頷いたり反応を示すから、耳は聞こえていると思うけど。精神的な要因で言葉は失われることがある。
 それは知ってる。
 それに、なんだか俺が喋るたびに怯えるみたいだから、声をかけて矢継ぎ早に質問するのもためらわれた。
 もしそうじゃなかったら、ノートを渡した時点で怒ったりするだろう。これはテストだ。
 すると、ユキは、膝に抱えたカバンの上にノートを置いて、少し特徴のあるペンの握り方で。
『2時間まえ』
 と書いた。
 あれ? 俺、さっきコンビニに出かけるとき、気づかなかったのか、それじゃあ?
 疲れ果てて視野が狭くなっていたのかもしれない。精神的にやばい、それは。
 落ち込みながら、差し戻されたノートを受け取って。

『潤ちゃんの隣の吾妻珪丞って言うんだけど。ユキさん、どういう漢字書くの』
 俯いて字を書くと、煙草の煙が目に染みた。くそう、もみ消してやる。
『麻生由季』
『麻生? 潤ちゃんの親戚?』
『いとこ』
 静まり返った廊下に、時折ペンを走らせる音だけが響き。
 遠くのサイレンや車の走行音がやけに良く聞こえる。
 戸締りをしっかりしましょう、防犯週間です。
『家は?』
 筆談なんて、ほとんどしたことない。何だか奇妙な感覚だ。
 こんなにすぐ傍で、声を使わずに。言葉だけが行き交うのはなんだか、ちょっと快感かもしれない。
 短く書いて渡すと、由季はしばらく迷ったようにペンを止めた。
 しばらく悩んだあと由季が書き込んだ地名は、ここから新幹線でも数時間かかるぐらい離れた場所だった。
 由季がノートを抱えたままなので、人差し指を立てて、小さな声で「ひとりで?」と訊いた。
 すると、由季はこくりと首を前に倒した。首肯ってやつだ。


            *


『なにしてるひと?』
 少し丸い文字が訊く。
『作家』
『見えないね』
『よく言われる』
 短文のやり取り。別にこっちは口で話してもいいわけだが、なんだか筆談がもう、一種のゲームみたいになっていた。
 これなら、潤が帰ってくるまで退屈しないで済みそうだ。
 すると由季は少し考え込んだ後。
『でも、字はけっこうきれい』
 と書いた。
 ありがとう。はしりがきは結構酷いけどね。

『どういうもの書くの』
『どういうものって、言われても。なんていうのかな……』
 ペンが止まる。
『読んでもらわないと分からないと思うけど。……でも、文字にすると、喋るより考えがまとまってスッキリするね』
 素直に、思ったことも書ける。口に出来ないことでも。
 文章は、そういうところが素敵だ。青いといわれてもそう思うんだから仕方ないのだ。
 無力だけど強いのが文字だ。

 かちり。ジッポの、立てる音。
 しばらく通信が途絶えた。
 やがて由季が、決意したようにきゅっと唇を引き締めて。
 さらさらと文字を書いた。
 ノートをこちらに押し付けるようにして、顔を逸らす。
 明らかに今までと違うその態度に戸惑いながら、ノートを見た。

『男のひとって、そんなにヤリたいもんなの?』


            *


 困った。
 いや、本気で。
 いきなりなんでそこに話が飛ぶんだ、いやそれ以前に。
 初対面にする話かと、少々どころじゃなく、かなり戸惑った。
 ううん、10歳ぐらい年が離れるとこんなかんじなのか? ジェネレイションギャップ。

『別に、そんな、下半身だけの生き物でもないと、思うけどね、俺は』
 答える文章にもあんまり品がないな。
『ちからとか、立場とか、そうゆうところで、不公平だと思う。オトコとオンナって』
 話題が移ってから、由季はほとんどこちらを見なくなった。
 肩ぐらいの髪の毛が横顔を覆い隠してしまうから、表情も分からない。
『たとえば気になったからとか、ちょっとタイプだったからとか、そういうことで、組み敷いたり、出来ちゃうの? 感情抜きで?』
 何だか雲行きが怪しくなってきた。……大体色々と想像はつくが、こちらから問い掛けていいものかどうか……。

「由季!!」
 静寂を割って入った声に、正直感謝すらした。
 金色に染めた髪が、揺れて。
「よかった。いなくなったって聞いて、心配してた」
 滅多に慌てることのないお隣の潤ちゃんが。息を切らして帰ってきたので。
 アガツマちょっとびっくり。
 ……まぁ、由季ちゃんがずいぶん離れた場所からここまで来たとすれば、その慌て方は普通かもしれない。
 潤を見上げた由季の口が、小さく「潤ちゃん」と動いた。
「吾妻さん、なにしてるんですか」
 と、麻生女史はこちらを見て冷たく言い放ってくれた。あのね、君が引き止めておいてっていったんじゃなかった?
「こんな寒いところで何してるんですか、って聞いてるんですけど」
「いや、それは俺も考慮には入れてたんだが……」
 問い詰める口調の潤ちゃんの腕に、由季がしがみついた。何かを訴えるように首を横に振っている。
 物言わぬ由季を前にして、潤は少し悲しそうに目を伏せた。
「分かった。もう部屋はいろ。―――吾妻さん、ありがと。後で荷物取りに行きますんで」
「おぉ。お疲れ」
「……いい加減立ったほういいと思いますけど。そうやって座り込んでるとますます柄悪いですよ」
 潤ちゃんはいつも容赦がないのだ……。
 はいはい、柄が悪いのはいつものことですよ。溜息をついて立ち上がると、少々めまいがした。
 ああ、そうだ。眠いんだった、俺。
 思い出したら、連鎖してもっと厳しい現実も思い出した。
「そういえば」
 ま、待て潤ちゃん、皆まで言うな。
「原稿あがったんですか?」
 ……君はサドだろう、絶対。


            *


「……なるほどね。まぁ、感づいてはいたんだけどさ」
 買ってきたばかりのインスタントコーヒーを作成して、荷物を取りに来た―――という建前で話をしに来た潤の前に置く。
「朝、急にいなくなっちゃったっておばさんから連絡入ってて。もしかしたらこっちに来てるのかもって。でも、見つかってよかったです」
「あの失語症―――みたいなのは、そのショックか」
「元々はすごくお喋りな子だし、それに明るい子。二週間前って言ったかな。そこら辺からだからやっぱりショックなんじゃないですか」
 俯いたままで潤がぼそぼそと言った。そりゃあ、男に話しやすい話でもないだろうし。
 ただ、いつも淡々と、あまり落ち込んでいるところを見せない麻生潤くんが、渋い顔をしているのはやはり可哀相だと思う。

 麻生由季は、二週間ほど前、部活帰りの夜道で男数人に暴行された。
 コトに及ぶどころか殴られたりもしたらしく、数日は入院していた。
 退院してみたら、声が出なくなっていた、ということらしい。

「ちっちゃな頃から仲良くしてたから、すごく心配で……。でも、吾妻さんが見つけてくれてよかった」
「いや、ははは……」
 コンビニに出かけるときは気づきませんでした、だなんて口が裂けても言えない。
 また冷静な言葉でいじめられるに決まってる。
「対人恐怖症っていうか、男性恐怖症にもなってて。でも吾妻さんとは随分話できたみたいで」
「筆談のなせるわざかな」
「年の功ですよね」
 ……またさらりとそういうことを。まだ26です、俺は。
「明日、朝からどうしてもはずせない講義があるんですよ」
 潤の言葉が、被害妄想に陥っている吾妻を呼び戻す。
 うん、一応大学生だからね、潤ちゃんも。そう返したら、一応って何ですかと切り返しを食らった。
 眠いんだからもういじめないでほしい。
「説得はしたんですけど、すぐは戻りたくないって言うから……明日午前中だけでいいんで」
 ん?
「だって、吾妻さん、明日も家にいるでしょ」
 そんな、断言しなくてもいいじゃない。
 ……いや、いるけどさ。



2.

 ぴんぽーん。
 午前9時過ぎ。
 インターホンで目が覚めると、ベッドの上だった。いつの間に。
 布団もかぶらずに大の字だった。……いつ寝たんだっけ。
 ぴんぽーん。
 なんだ、こんな朝から。
 言っておくが俺は寝起きはよくないぞ。
 もぞもぞとベッドから降りて、玄関のドアをあけたところで。
 ……覚醒いたしました。
「……おはよう、由季ちゃん」
 そこには、おそらく潤ちゃんから借りたであろう私服に着替えた麻生由季嬢が立っていた。
 午前中だけでいいから、面倒を見てほしい。そう頼まれたのだ。
 17の子に面倒もないでしょうに、と言ったのだが、「またふらりといなくなられたら困るんで」と言われてしまった。
 俺は監視役ですか、汚れ役ですか、別にいいけどね。
 まだ重い頭で、自分の部屋を想像する。……大丈夫、のはずだ。
「どうぞ」
 大きくドアを開くと、まだ俯きがちの由季が入ってきた。
「つまんない部屋だけど、適当に、そこらへんにあるモンとか、いじってもいいから」
 居間兼仕事場に由季を通してざっと部屋の説明なんかをして。とりあえず隣の潤ちゃんの部屋と間取りは一緒だから。
「俺はとりあえず……」
 机の上に放り出したままの眼鏡を拾い上げてかけた途端に、再び現実がやってきた。
「……俺はとりあえず、仕事を……」
 脳裏に、怒りに打ち震える平内サヨリ女史の姿が浮かんだ。スイマセン、今日には上げるんでどうにか、極刑だけは……。
 由季は、狭い居間をさらに狭くするように立ち並ぶ本棚の前をうろうろしていた。
 確かに普通の20代の男の部屋にある本の量ではない。一応ほら、職業柄。
「コーヒー飲める?」
 あまり立派とは言えないキッチン―――いいのだ、ほぼ使わないから―――に踏み込んで聞いた。こっちを振り向いて、由季は小さく頷く。
 結構。
 頷き返して、あまり使用していないコーヒーメーカーの電源を入れた。客仕様である。
 あぁ、コーヒーの匂いでやっとスッキリしてきた。それで今日は残りの10枚をまとめて……。

 ……まとまらないのは、ラストのせいだ。
 最初から考えておけばよかったとか、計画性がないとか。
 散々言われるけど。迷うモンだろう。
 締めって、そういうもんだろう。いくら考えてても。
 それに俺は全く考えてないわけじゃない。二者択一、究極の選択のハザマで揺れているのだ。

「砂糖とミルクは?」
 本棚から引っ張り出してきた本を開いていた由季に問い掛ける。すると人差し指を一本立てて、口で「いち」と形作ってみせる。
「了解。普通の味覚でよかった」
「?」
「いや、コーヒーに角砂糖を3つ入れる奴を知ってんだ。男で」
 ぷっ、と小さく由季が吹き出した。そうだろう、おかしいだろう。笑ってやってくれ。
 ふと由季の手元を見ると、彼女が持っていたのはなんと拙作だった。
 なんとなく、身内以外の人間の手にその本が納まっていると、ちょっと、気恥ずかしい。
「…………あげようか、それ」
 ちょっと控えめに言ってみる。だって、要らないと突っ返されたらショックだし。
 すると素直に頷いてくれた。いい子だね、由季ちゃん。

 ピンポーン。
 インターホンが鳴った。今度こそ覚えがない。
「ちょい待って」
 あたりの和やかな雰囲気にすっかり溶け込んでいた俺は、緊張感もなく玄関を開けて。
「アガツマーッ!!」
 激しく後悔しました。
 反射的に扉を閉めようとするよりも先に、がつっと爪先が挟まった。映画みたいだ。そう、ホラー映画。
「10枚はどうしたの、当然もう出来てるんでしょうね」
 気迫で扉をこじ開けて玄関に不法侵入してきたのは担当女史だった。
 答えずにいると、(年の割に)童顔の顔がどんどんと般若に変形する。
 ああ、どうしてこう、俺の周りは気の強い女ばかりなんだ。
「あんたねーっ! あと10枚よ、たった10枚! 早く上げてちょうだい! 何迷ってんの!」
「たった!? サヨリさんその発言は駄目だよ、締めが一番大事なんだから! そのぐらいわかってよ、編集さんなんだから!」
「分かってるけど、あんたは悩みすぎ! だいたいねーっ!」
 思わず反抗して後悔しました。こういうときは口答えしないほうがいいのだ。
 火に油を注ぐ所業。ああ、考えよりも先に口が出るって、小学校の先生の記入欄にも書いてあったっけ(フロム通信簿)。
「あら……」
 ふと、サヨリ女史の視線が足元に落ちた。
 そこには見慣れぬローファーが一足。
「……吾妻、あんたまさか……」
 サヨリ女史の顔が恐怖と哀れみと侮蔑を足してかき混ぜた感じに歪んだ。
「女子高生連れ込……」
「わーっ、うるさいっ!!」
「分かってるの、犯罪なんだからね、あんた自分の年……」
「親戚だって!」
「親戚?」
「……潤ちゃんのね」
「他人じゃない!!」
「預かってるんだってば! もういいから今のところは大人の女性らしく引き下がってよ。今日中に書くから!」
「……その言葉、忘れんじゃないわよ」
 背筋が凍るような声音で捨て台詞ひとつ、ようやく平内女史は引き下がってくれた。
 これで明日までに原稿があがらなかったら、それは臨終を意味するんだろう。

 へろへろに疲れきって仕事場へ戻ると、床に座った由季が目を丸くしていた。
「……ごめんね」
 心から謝った。それもこれも、俺の10枚のせいだ。
 素直にパソコンの電源を入れる。淹れたばっかりだったはずのコーヒーがすっかり冷えていた。

 "悩みすぎ"。
 ……決められた時間を守れないのはダメなことだけど。
 悩みすぎるのは、ダメなことだろうか。
 パソコンデスクに座ると、由季にちょうど背中を向ける体勢になる。
 しばらく視線を感じていたが、それもいつか消えた。あとは沈黙だけ。ときおり、ページを繰る音だけが聞こえた。
 こっちは、キィボードを叩く音だけ。

 それから10分キィボードと格闘して、結局書いたぶんを全部消した。
 まだ迷っている。
 結局、かけたままだった眼鏡を抜き取って、机に投げ出してしまった。
 ぎぃと、安っぽい椅子の背もたれが、体重をかけられて悲鳴をあげた。
 『人生の岐路に立つとき人は迷う』。
 そんな言葉を思い出してみたりして。
 何が人生の岐路? そんな書き物ごときで? そういう人もいるんだろう。
 だが、人は迷うもんだろう。大きな岐路の前に立って。大きな決断の前に。
 俺には確かに岐路で、決断である。
 受け取ってくれる人々に、今。自分で出来る最高レベルの「自分らしい」エンディングを。
 提供するために。

 ぼんやりと画面を見つめていると、焦点がぶれて文字が見えなくなった。
 ただの記号に俺は、生命かけてんだなぁ。馬鹿だなぁ。

 ぽん、と不意に肩を叩かれた。振り返ると、由季が、昨日使ったまま放り出していたノートの1ページに何かを書いて差し出す。
 気分転換に筆談もいいだろう。

『"リビドー"って何』

 どうやら、本を読んでいる間に分からない単語に出くわしたらしい。
 こういうときアガツマは偉そうに、「自分でひいてみなさい辞書を、そのほうが覚えるから」なんて言ってやるのだが。
 彼女に引かせるには、少々酷な単語だと、思った。
 無言でペンを受け取って、紙に走らせる。たった三文字。やけに緊張した。
 なんて偶然だろう。

『性衝動』

 そしてふと思った、俺は一体いつ、リビドーなんて言葉を作中で使ったろう?
 "そんなリビドー的な、簡単な衝動で"。だったかな。
 辞書で覚えた意味だけで、簡単な比喩に、ちょっとかっこいいフリをして。
 その一単語がたとえば見知らぬ相手に、どんな影響を与えるのかなんて。本当は知りもしなかったのかもしれない。
 格好のために言葉を、簡単に使いすぎたかな。俺は由季の顔を見れない。
 すると、背後でさらさらと、ペンが動く音がする。

『声でないのは、レイプのショックじゃないの』



3.

 パソコンデスクの上にノートを置いて、由季はペンを走らせている。
 言葉が、あふれるようにこぼれてくる。
 声帯を使わずに。

『大丈夫って、いうのに疲れた』
『周りがずっと、かわいそうだって、言いつづけるから』
『確かに怖いしいやだけど、わすれようとしてるのに』
『ずっとみんな、なぐさめてばっかだから』
『もう平気、だからいつもどうりにしてって。いうのに疲れた。大丈夫だって言ったらみんな、もっとかわいそうだって言う』
『だから、ここにきてみた。家も、学校も、居心地わるかったから』
『ちょっとだけでいいから、誰もなぐさめない場所で、関係ない話とか、したくて』

 ふと、ペンが止まった。
 そして、由季は震える手で書いた。3文字だけ。

『彼氏が』

 そこで、ペンが止まった。
 ぱたっと落ちた雫で、その文字が歪んだ。
『いちばん、彼氏が、かわいそうって私にいう』
 ごめんねって、謝る。夜道ひとりで帰してごめんねって。
 部活、一緒じゃないし、いつも一緒にいられるわけじゃなくて。何も悪くないのに、謝る。
 酷い目に遭わせて、かわいそうに。
 毎日会いに来てくれては、慰めて、でも。
『さわってくれない』
 頭を、撫でてくれない。手を、握ってくれない。
 キスしてくれない。
 抱いてくれない。

 それは私がつまり、あの冷たい路地裏で、殴られて、組み敷かれたからなのか。
 汚されてしまったからもう、触る気になれないのか。


 そのとき、視界の端で何かが光った。細かい点滅。
 机の上に置かれた、携帯電話の着信イルミネーションだった。
 細かく瞬いて、やがて消える。着信音もバイブレーターも切ってるようだった。
 見てないと気づかないぐらいの、ちいさなひかり。シグナル。
 吾妻は椅子から立ち上がって、机の上に置かれたままだった由季の携帯電話を持ち上げた。
 着信あり。
 声は出ないはずなのに由季はそれを、ずっと持ち歩いていた、そういえば。
 由季の承諾なしに携帯電話を開く。少しだけいじって、溜息をついた。
 なんだ。
 安堵の吐息。
 事態はそんなに、深刻じゃないみたいだ。

 パソコンデスクに座り直し、キーボードに向かう。
 書くより早いので許してね、こっちで。

≪怖かったんじゃないの?≫
 打ち込んだ。
 後ろから由季がそれを覗き込む。
≪不安になるでしょう。彼氏だって。触ったら嫌なこと思い出すんじゃないか、怖いんじゃないか。そう思うと、触れないでしょう≫
≪男は基本的に、リビドーに突き動かされてる人種だから、欲望には弱いし。動物だからねぇ≫
≪それを、必死に押し殺して我慢して、君のこと考えてるのは、彼氏が君のこと、大事にしているからじゃないの≫
 打ち込んで、顔をあげて由季を見た。
 由季は何度か画面に打ち込まれた文字を読み返してから、不安そうな顔をする。
 やっぱり、物的証拠が必要か。
 にんまりと笑い返してやってから、由季の携帯電話を手渡す。証拠物件だ。収めたまえ。
≪男は結構面倒くさがりで、単純な生き物だからさ、好きじゃない子にそんなに連絡はしないと思うよ≫
 打ち込んでみると、由季が慌てて携帯電話を調べる。
 そうして数秒後。力が抜けたようにそこに座り込んだ。

 携帯電話の着信履歴は、全てひとりの男の名前で埋まっていた。



            *


 窓から差し込む夕日が、ベッドのシーツを赤く染める。
 そろそろ電気をつけなければ暗い。でも今は、この空間のほうが気持ちよかった。
 煙草に火をつける。冷えたコーヒーはそのまま。

 ようやく、10枚がまとまりそうだ。
 ずっと迷っていた。

 "生き別れになった二人を、会わせてやろうか、そのまま別れさせようか"。

 悲劇的で感動的で、余韻を残すなら、別れさせたほうが勝ちだろう。
 "結局二人は、会えませんでした"。fin。なんてつづってみたりして。

 だけど、結局迷いに迷った末に書いた一文。

―――やっと会えた。

 時々はこういう、ハッピーエンドもいいのかもしれない。
 あまりにベタで、奇抜じゃないけど。
 ホッとはするよ。おめでとう。お幸せに。

 そろそろ彼女も会えたかな。そんなことを思いながら、インスタントコーヒーを淹れに台所に行く。
 客はもういない。
 机の上には一冊、あげるといった本が残されたままだ。お前、置いてかれたな。
 滑稽で、笑ってしまった。なんだかいい気分だ。
 静謐な空気に、CDコンポの電源を入れる。男の声が歌いだす。"恋に狂ったことはあるかい?"
 ねぇなぁ。今は文字との格闘で精一杯だ。
 ブラックのままのコーヒーを喉に流し込む。カフェインを嚥下。
 でもいいな。人を好きになるって。幸せなシステムだ。人のシステム。
 本能の衝動を、押し込めるぐらいの。強いちからだ。

 <了>の字を書き忘れて、パソコンデスクに戻った。そこには、開かれたままのノートが置かれている。
 今度はその声で、電話くれるといいけど。まぁ、彼氏が許してくれないかもね。
 苦笑い。17に比べれば26はもうオジサンだろうしね。


 青いサインペンの走り書きをもう一度見直してから、<了>の字を打ち込んで、保存。
 電源を落とす。
 脱稿おめでとう。

 オメデトウ。
 青い文字に呟いて、ノートを閉じた。
 たった4文字。



『家に帰る』



<了>



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