リトルガールマーメイド
1.
「御伽噺のお姫様なんて、馬鹿ばっかりでしょう」
喫茶店で向かい合わせた、まだ少女を脱しきらないような華奢な女の子が、開口一番に言った。
それで、その日の主導権は、勝手に向こうに奪い去られてしまったのだ。
「いやな奴ばっかりで、嫌いなんです。自分ばっかりかわいそうだと思ってるの。そのくせ、まわりを巻き込んで不幸にして、自分だけ幸せになるの。かわいいくせに残酷で、きらいです」
「へ、ぇ」
そう、相槌を打つのが精一杯だった。
「それとも、吾妻さんて、そういう我儘な女がかわいいと思います?」
細い足を組み合わせ、テーブルに僅かに身を乗り出す。
生足だ。
「いや、そういうわけじゃないけど」
完璧に、圧されていた。
「じゃあ、小野田さんはなんで、御伽噺をモチーフにした話を書くの」
我ながら、会心の一撃だと思った。
嫌いなら、なんでモチーフに使うの。それってすこし、おかしくないか。
「私、御伽噺のヒロインを幸せにした話なんて、書いてないですよ。モチーフにはしてるけど、だからってそれがイコールで好きに繋がるわけじゃないでしょう?」
新進気鋭の作家は紫のラメが入った指先を、カップの耳に絡ませた。
すこしだけ陶器の音を響かせて、まだ辛うじて熱いカフェオレを口に運ぶ。
またすこしだけ音をさせてカップを置くと、鞄の中からシガレットケースを取り出した。
新発売の、1ミリグラムのメンソール。若い女性をターゲットにした淡いピンクの。
喫煙者だったのか、とすこし複雑なこころもちになる。
女性の前だからと、珍しくフェミニストの気持ちになって、愛飲のセブンスターを封印していた自分がなんとなく馬鹿らしく思えたので。
けれど、いまだ少女を脱しきっていないような彼女の指先に細身のメンソールがおさまるのは、なんだか不似合いのような気がした。
それは、俺が年を取ったからだろうか?
若い子が背伸びで飲酒喫煙に憧れる様を、「若ェなァ」としみじみ目を細めるようになっちまったということか。それだけはちょっと勘弁願いたいものだ。
言っておくが、まだ二十七年ほどしか生きていない。
「私なりの、御伽噺に関する新解釈というか。女のきたないところをね、書いているつもりなんです」
若い女性を中心に支持を受ける若手作家であるところの小野田玖美(くみ)は、毅然と顔を上げて、真っ直ぐにこちらを見据えて、言った。
「だから、女のひとに一番読んでもらいたいし、共感を受けるのも、うれしいです」
*
「俺はもうだめかもしれん」
「ええっ、ちょっと待って吾妻くん。なんでそんな弱気なのめずらしい」
サヨリさんは相変わらずオーバーリアクションだった。
大袈裟に、のけぞって、いっぱいに瞠目している。
それではまるで、俺がいつでも強気一本調子みたいじゃないですか、というと、大体はそうでしょ、とそっけない返答を頂いた。
平内サヨリ女史は、かわいそうなことに、しがないモノカキであるところの俺―――吾妻珪丞(あがつま けいすけ)の担当編集者である。
サヨリ女史がのけぞって驚いているのも、実はしがないモノカキの自宅であるわけで。
「……って、吾妻くんが強気か弱気かなんてどうでもいいのよ今はそんなことは! 重要なのは、吾妻くんが参ってるってことなのね。っていうか、参ってもらっちゃ困るのよ、なんで、何が不満なの?」
一時停止状態から復活して、サヨリ女史は、今度は逆に身を乗り出してきた。
鬼気迫るとは、まさにこのようなことを言うのかもしれない。
「文芸雑誌で対談連載だなんて、これから先あるかないか分からないでしょう、っていうかないわよ多分今回を棒に振ったら! 何が不満なのやりたがってたじゃない討論好きでしょう!?」
テーブルに両手を突いて、こちらに覆い被さらん勢いのサヨリさんに、今度はこちらの方がのけぞった。
いつ息継ぎしてるんですか、と純粋に疑問に思って訊いたら、殴られた。
理不尽な暴力は反対だ。
「対談連載のね、あり方自体に疑問も不満もさらっさらないんですけど。俺はこれからあとニ回も耐えられない気がするんです。本当、マジで」
とりあえず、落ち着いて座って聞いてくださいよ。
思いっきりこちらに身を乗り出したサヨリさんの肩を押し込めるようにして、浮かした腰をおろしてもらった。
失礼しますよ、と一言だけ断りを入れて、セブンスターに火をつけた。
「なんつーの、これがジェネレーションギャップってやつ? きついわー、ほんと」
「玖美ちゃん?」
紫煙と共に吐き出すと、サヨリさんが大袈裟に首を傾げた。
なんで? と顔に書いてある。
「いやぁ、なんというか、俺苦手なんすよね、実のところ」
「女の子が?」
「ちがいます。そこじゃない」
むしろ女の子は好きの部類だ。
「苦手なんです、中高生とか。ジャリンコが」
「玖美ちゃんは二十一でしょう」
「最後まで聞いてくださいお願いだから」
結論を急ぎすぎです。
「かたくななのが、肌に合わないのね。結構、中高生の子って、自分の正しさとか前面に押し出してくるところがあるじゃない。言葉にも断定が多くて、どんなに大きな生きものにでも怯まずに突っかかってくところがあってさ。そういうの、俺はちょっと苦手でね。多分、昔の自分がそういうところがあったからだ思うんだけどさ」
「……吾妻くん今もあんまり変わってないじゃないの」
その突っ込みは少々痛い。
そうですが。一応俺はいつまでも青臭いガキのままなんですけどね。
「……同族嫌悪って奴です」
認めた。
「そうかなァ、玖美ちゃんて、そんな融通利かないかんじ?」
私はそうは思わないんだけどなぁ。
サヨリさんは首を傾げている。
「うーん、他の人にはどうなのかなんて、今日会ったばっかりだから分かんないんだけどさ。なんというか、理由は良く分からないの。でもあるでしょサヨリさんにもさ、なんか苦手って奴が」
あんまりないわね、と返されてしまった。
ああ、俺は社交的なサヨリさんの性格を失念していた。
どうせ俺はヒキコモリな職業作家という奴ですよ。どんなに取り繕っても社交的とはいえない部類の生きものですよ。
そんなヒキコモリで協調性のない生き物に、文芸の隔週刊誌「レオナルド」なんかが、どうして対談連載を持ちかけたのか、実のところ俺本人にも分かりかねるところではある。
ただ、俺は同じ穴のムジナとのアツい討論が嫌いなわけではないのと、担当女史平内サヨリの熱烈なプッシュによって、その対談を引き受けたわけだった。
そして、第一回目の対談相手というやつが、例の新進気鋭若手美人作家という、いくつもの肩書きをくっつけた看板を背負っている、小野田玖美(21)だったわけである。
ひとつここでお断りしておきたいのは、対談といっても、完璧に整えられた対談場が設営されるわけでも、専属のカメラマンがついてくるわけでもなくて。テレコに収録した会話を、改めて再構築して俺が書き直す、という種類のものであるのだ。
いわゆる、殆ど金がかかっていないというヤツだ。
写真撮影は、最後にやるとか、言ってたなぁ。でも、おそらく一般人が持っている「対談」というイメージからはかけ離れた、実に質素なものなのである。
ちいさいなぁ。
それが、小野田玖美を初めて見たときの印象だった。
全体に、なにもかもが、コンパクトでかっちりとおさまっている感じなのだ。
身長は百五十の前半だったと思うし、腕も足も細い。
挑みかかるようにこちらを真っ直ぐに見据える目だとか、小さな耳に牙をたてるように噛み付いているシルバーのピアスだとかに気付いたのは、すこしあと。
ちいさいなぁ。
はじめはそればかり。
評判は知っていた。
この業界は広いようで、せまい。
特に紙媒体以上のメディアでもてはやされていると、すぐに知れ渡る。
彼女はいわゆる、そういう人種だった。
まず、デビューが早かった。
十八ほどで短編の新人賞を受賞してから、とんとんと実績を積み重ねていた。
そして、この業界では天然記念物に指定されるほどにに可愛らしく、文芸以外の様々なメディアにも敏感なイマドキの女性でもあった。
つまり、話題には事欠かなかったのだ。
そんな彼女が一回目の対談相手だと告げられたときに、正直に言おう、俺はマジかよ嘘だろと、日付を確かめた。エイプリルフールではなかった。
格が違ったのだ、格が。
俺などのような、印税でなんとか食ってるような部類の二流三流と、今をときめくスターが同格に話なんてしていいのか、と思った。のだが。
これもあれだ、多分おそらく編集部側の話題作りなのだな、と解釈することにした。
一回目からコケるわけにもいかんのだろう。
俺は編集部の意気込みと、妙な圧力をしみじみと感じることになる。
そして本日は件の小野田玖美との顔合わせだったわけだが。
実のところ、俺は少々楽しみにしていた。
二十歳前後の若い女の子とお話することが、というわけではなく、あの特異な作風を紡ぐ人間に生で会うということに、創作畑の人間らしく、心ときめかせていたわけだ。
彼女の作品は童話をモチーフに使っているものが多い。
しかも、大抵が悲劇のヒロインが登場する話だ。
荊姫、シンデレラ、白雪姫。
しかし、幼い少女がプリンセスにあこがれるようなものでは、決してない。
シュールでリアルで、常になまなましい。
女特有の情欲と衝動とにみちみちている。
たとえば、人魚姫の話をしよう。
表題は「リトルガールマーメイド」。
人魚姫は、外界を知らずに、海の王者の末娘として真綿で包まれるように育てられる。
好奇心に身を任せて海から顔を出し、王子を助けるのは御伽噺の通りだ。
陸に戻った王子に恋焦がれ、魔女と呼ばれるつまはじきものから声と引き換えにひとの足を手に入れる。
誰もが一度は耳にしたことのあるストーリー展開が、緻密でやわらかく、読みやすい文体で綴られる。
読み進めるうち、このまま童話と同じように海の泡に消えるのだろうかと、漠然と不安になる。
繊細で緻密なリメイクなんじゃないだろうか?
が、マーメイドは王子と人間の姫との三角関係に、引き下がりはしなかった。
人魚姫は、嫉妬に耐えかねて人間の姫を刺し殺し、海に突き落とした。
が、そのときのもみ合いで、自らも背に大きな傷を負ってしまう。
人間の姫は海の藻屑に消え、その死体が発見されたときには、生前のうつくしさは欠片もなく、水を吸い魚に食い荒らされ、醜いものだった。
勝ったのだと、人魚姫は思う。
はじめは絶望に打ちひしがれていた王子もやがて、人魚姫に偏ってゆく。
そのたびに。
背の傷が、激しくうずくのだ。
王子は、背の傷を見るたびに問う。
一体、この傷はなんだい、どうしたんだい。
唇がその肌に触れるたびに傷は激しく痛む。が、懺悔しようにも美しい声は海底の魔女に奪われている
人間の文字が書けるわけでもない。
やがて気がふれて、人魚姫は高台から海へと身を投げた。
人魚に戻ることも、泡になることもできずに、彼女はかつて自分が海に突き落とした人間の姫と同じように、醜い姿で岸辺に流れつく。
*
《”リトルガール”のリトルっていうのは、かわいいっていう意味なんです》
サヨリ女史が帰ってから、俺は今日の分のテレコを再生する。
明日までに今日の分をまとめた草稿をファックスで送るように、という命令が下ったからだった。
《『かわいい人魚姫』っていうニュアンスで使っているんです。小さな子どもにかわいいね、っていうかんじ。実際は、かわいいとは程遠い事をしているわけですから、なんというか、皮肉みたいなニュアンスですね》
はきはきと歯切れのよい声は、イメージを裏切らないすこし高めの通る声。
よどみなく、凛とつよい。
曲がらぬ、鋼鉄の意志がぴんと張っている。そんな声だった。
どんな方向からパンチを受けても、かっくりと折れ曲がったりはしない。
そんな無敵のつよさに、少しばかり腰が引けてしまうのだった。
鋭利な刃物のようだ。
常に臨戦体勢。
四方八方に敵の、四面楚歌。
孤独なソルジャー。戦場を駆け抜けているような。
孤立無援で、全てのものと戦っているような、手負いの獣のような。
攻撃性。
そう言えばすこし前まで、俺もこんなふうに世界中に敵が多かったなぁなんて、思い返すこと自体、年を取った証拠だろうか。
彼女は挑みかかるようにこちらを見ていた。
一歩も引かぬ、挑戦者の目をしていた。
それほどまでの鋭さは、今この手元にはない。
年を重ねるごとに、昔は許せなかったものが許容できるようになって、色々な事情も見えてきて、人々の気苦労も知れるようになって、だから「これはこれでアリか」なんて妥協できるようになった身には、少々鋭すぎる気もして、腰が引ける。
肩に力が入りすぎていて、疲れないのかな。
彼女から見たならばおそらく、俺は萎えた大人に見えるんだろう。
鋭すぎる若さと鈍化した老いを互いに「しょうがないな」と思っているから、互いに話をするのは疲れるのかもしれないなァ。
ふと、そんなことを思ってテレコを止めた。
彼女の口調には熱がこもっていたと思ったから。
この、劣化している人間の目を覚まさせてやろうとでもいうような気負いすらあったと思うのは、穿ちすぎだったりするんだろうか。
だが、俺にとってもう世界中は敵ではなく、淘汰し淘汰されるものではなくなっていて。
愛したり慈しんだりするものだから、世界中と戦っている彼女とは、基本的根本的な部分で姿勢が合わないのだった。
合わない姿勢を無理矢理あわせようとするから、肩が凝るんだな。
対談をまとめることよりも、そんな下らないことを自分なりに分析してみた。
彼女とは、あとニ回会うことになっている。
2.
「ちょっとアガツマさん困りますぅ、こっちだってスケジュール調整してるんですぅ」
編集部の応接室を開けた途端に罵声が飛んできた。
「はぁ、スミマセン」
謝った。
時計を確かめる。十分の遅刻であった。
ぴっしりとスーツを着て、焦げ茶の髪を後ろでひとつにまとめた、就職活動中の女子大生のような人が、仁王立ちになっている。
仁王立ちになってはいるものの、小柄なのであんまり怖くはなかった。むしろ可愛らしい部類だ。
「ほんと、お願いしますよほんとに」
小野田玖美のマネージャーの、桂木香夏子だ。
デビュー当時から二人三脚でやってきたというだけあって、桂木は小野田玖美にとても親身だ。
そして同時に、少々神経質でもある。
「気をつけます」
そうしてくださいねっ、と釘をさされた。
「じゃあクミ、私はちょっと打ち合わせで席外すからね」
既に、出されたコーヒーを半ばほど消費していた小野田玖美にそう語りかけて、颯爽と応接室を出ていく。
ヒールの音が高らかだ。
その小さな体にも妙に力が入っているような気がするなぁ。
そんなことを言ったら、おそらくサヨリさんには、吾妻くんが力抜きすぎなんでしょうと突っ込まれる気がする。そしてその突っ込みは、当たっているのだ。
ぱたんっ、と音を立てて扉が閉められた。
「すいません遅れて。桂木さん怒らせちゃったみたいだし」
これでも早いほうなのだとは、畏れおおいので言わないでおいた。
「だいじょうぶです」
小野田玖美がソファーから立ち上がって、凛と笑った。
「香夏は、ああいうふうに怒るのが仕事なんです」
今日はよろしくお願いします、と彼女は頭を下げた。
*
人間的に衰弱している部分を書くことが多いですよね、と彼女が言った。
え、それはなに俺の話?
聞き返していた。
「私はそう思ったんですけど」
小野田玖美の視線は、今日も真っ直ぐに凛と強い。
相も変わらず今日も今日とて、スターのペースだ。
「メンタルの部分がすごく強いような気がするんです。それって、男の人だと結構珍しい気がするんですけど」
実はそれは、良く言われる部分だった。
メンタル、メンタルねぇ、と口の中で繰り返してみる。
自分では実は全く意識していない部分だったりするのだ。
「面白いから、やっぱり」
人間の心の動きとか言うもののほうが、書いていて楽しいじゃない。
「小野田さんはさ」
質問されっぱなしもなんだか癪な話なので、切り込んでみることにした。
「因果応報の話が結構多いよね」
今日は遠慮せずに、セブンスターに火をつける。
「因果応報、ですか」
「そう。色んなことに、ちゃんとケリをつけてるっていうか、やったことの分、ちゃんと仕返ししてあるっていうか」
ケリとか仕返しとか、ちょっとだけ聞いてるとヤンキーのような言葉の選び方だな、と頭の隅で思ったり。
かわいい人魚姫だってそうだろう。報いをちゃんと受けている。
彼女のことだから、すぐにするどい切り返しが帰ってくるのだと思った。
私のコンセプトは、と。巧みに言葉を操って。
けれど、実力派の若手は黙った。
すこしだけ俯いて、細い指と指を絡ませて手を握る。
「生きていくには」
煙草を一本吸い終わるぐらいの沈黙を置いてから、小野田さんはもう一度口を開く。
「生きていくためには、色々なものを背負っていかなければ駄目で」
方向の定まっていない切り出し方が珍しくて、しばらく俺はまばたくのも忘れて小野田玖美を見ていた。
彼女は、いつも結論をしっかりと据えた話の仕方をする。研究発表の話し方だ。
ゆくさきが分かっているから、迷ったりしない。
出口へたどり着くために、ちゃんと話を組み立てる。わかりやすく、誘導する。
単純明快で、一本道で、だから強い。アピールの仕方を、良く分かっている。
けれど今は、出口が分からないような口ぶりだ。
五里霧中を、手探りで歩いている。
指先を何度もほどいては、からめる。
言葉を探している仕草。即興(アドリブ)。
「その……背負ったものの重みは、自分でちゃんと感じていなければいけないと、思うんです」
普段なら真っ直ぐに目を見て話すはずの子が、うつむきがちだった。
「私は、そういうものはひとつも、忘れたふりをしたくないんです」
悲壮な決意を表情ににじませて、小野田さんは、ほどいてはからめていた指先を、組み合わせて握った。
決戦を前にした、兵士のように。
細い肩が、重そうだなと思った。ちいさいのに。
体に見合わぬぐらいのものが、その双肩にかかっているのかな。
それはちょっと、なんだか、かわいそうだ。
「戦ってんの?」
あまりに必死の顔なので。
生き残ろうともがいているように見えるので。
訊いた。
すると、小野田玖美は驚いたように、握った指先から視線を持ち上げた。
瞠目していた。
「戦ってますよ」
つけこまれる隙をおおい隠すように、こちらを睨んで言った。
*
「哀愁背中ですか」
足音が近づいてきたと思ったら、訳の分からない声をかけられた。
住処であるマンションの、通路。地上を見下ろせる壁際で、胸よりすこし上あたりにある塀に腕を預けてホタル族よろしく一服中だった。考え事をしていたので。
「俺の背中には哀愁が漂ってるかね」
部屋の中から持ち出してきた灰皿に、煙草の先を押し付けて消してから、振り返った。
振り返った先にはお隣さんが立っている。
人形のように顔に表情がないのは別に怒っているわけではなくて、それが彼女の素なのである。
「ひとりでホタル族なんてやってもかっこよくないですよ。別に部屋の中で吸っても変わらないじゃないですか。鍵なくしたわけじゃないんでしょう」
無表情であるうえに、容赦のない実にさっぱりとした毒舌を聞かせてくれるのが、彼女の醍醐味である。
肩の下あたりまでの髪は今は明るい茶だった。耳からチェーンのようなピアスが髪と同じぐらいの長さまで下がっている。
隣人の麻生潤は、現役の女子大生で、夢に生きる同志である。
歌手志望。現在アマチュアバンドの自主制作アルバムのレコーディングではなかったか。
「気分だ」
人間、星も見えない夜空を見上げてぼんやりしたいときもあるのだ。
そうですか、とだけ返ってきた。
相変わらずつれないですね、潤ちゃんは。
「このあいだまで、ものすごくテンション高かったのに、どうしたのかなって思って。大きな仕事入ってたんでしょう」
「それがねぇ……」
考え事の根源はそこなのだよ。麻生君。
俺は潤ちゃんの印象にもしっかり残るぐらいにはしゃいでいたのか。
全く、新しい玩具を与えられたお子様のごとき振る舞いではないか。はしゃいでいた自覚がないところがまた痛々しい。
「天下の小野田玖美なのだよ。お話し相手がね」
「ええっ?」
無表情の子が驚いた顔をした。レアだ。
「有名人でしょう」
その反応にはせつないものがある。一応こっちもね、ちゃんとした出版社から本を出してもらっている身であるのだが。
扱いの差は、格の差だ。
「やっぱり、潤ちゃんも読んだことある?」
先程までもたれかかっていた塀に両腕を預けるようにして、もたれかかった。
ありますよ。
どうなのよ、女性的に。
俺は根本的に男であるがゆえに、多分捕らえ方が違うと思うのだが。
「しんどいので、あんまり一気には読めません」
しんどい?
「呼吸困難になるかんじ。酸素が足りないかんじ」
生命の危機。
潤ちゃんそんなふうになるの?
純粋な疑問を口にしたら、細い眉をひそめられた。
「吾妻さん、私のことなんだと思ってるの」
いや、なんというか。アレだよね。
強そうだから。
「それ、私以外の女の人には言わないほうがいいです」
むっとした顔のままで、釘をさされた。
よく、お前は歯に衣着せなさ過ぎると言われてしまう。
イコールでデリカシーが足りないということなんだろう。
以後気をつけます。
「必死だから、しんどいんです」
気を取り直して、良く鍛えられた声で潤ちゃんが言う。
俺は煙草を仕舞いこむ。
彼女が声に気を遣っているのを知っている。咽喉が商売道具だってこと。
夢追いの同志で戦友なら、そこは察して譲るべきだ。嗜好品など。
「必死なの。上からものすごい重圧が落ちてくるのを、ひとりで支えている感じなの。瀕死の重傷で、でも仁王立ちしてる感じなの。それが迫ってくるからくるしいんです。倒れるのを、ゆるせないかんじ」
抽象的で申し訳ないですけど。
最後にそう断った。
いやいや、なんとなく分かる。向かい合ったときの、小野田玖美の悲壮な決意とか、細い肩に必要以上に力が入っていることとか。照らし合わせてみると。
でもそれが、文章から迫ってくるなんて、それはすごい、表現力だなァ。
話題だけではないんだ。やっぱりプロなんだ。
ポッと出の、一発屋ではなくて、生き残ってきたからには。
「吾妻さんにも、そういうとこあるよ」
予想外の攻撃に、ハァ? と柄悪く語尾を吊り上げて訊いてしまった。
「好きです、案外。みんな無敵じゃないから」
レアな笑顔で、告白された。
反射で、ありがとうが出た。ありがとう。
「じゃあ私、帰りますね、そこに」
すぐ後ろの扉を指差して、ヴォーカリストが言った。
お気をつけて。ドアに指なんか挟まないように。
おやすみなさい。
みんな、無敵じゃないから。
それって実はとても、嬉しい褒め言葉だとは気付いていないのかなァ、ヴォーカリスト。
目の前で扉が閉まるまで見送って、あと、もう一服することにする。
みんな、無敵じゃない。
それって、あれでしょう。
人間らしいってことでしょう。
―――人間的に衰弱している部分を書くことが多いですよね。
衰弱したり上昇したりさ、繰り返してゆくのは。
誰もがやっぱり万能ではないからで。
他愛ない一言で打ちのめされたり、手を繋ぐそれだけで笑ってしまったり。
誰も完璧じゃないよ。
無敵じゃない人間じゃなきゃ、書いても何にも面白くないよ。
完璧なヒーローなんて、何されても笑ってるなんて。自信たっぷりで前ばっか上ばっか見てるなんて。つまづいても転ばないなんて。
つまんねんだよなァ。
打ちのめされても立ち上がるから。
俺たちはいつも、そんなもんを見たいんだろう。
血まみれでも、ふらふらでも、太陽のぼるだろう。
最後には笑ってる。
そんな、希望のひかりが見たいんだ。
3.
三回目。
開始は午後五時から、先日と同じ応接室待ち合わせ。
怒られたくないので、今度は五分前行動を心がけてみる。
「ちィす」
気の抜けた挨拶と共にドアを押し開くと、ひかり。
結局貫徹をしていた目に、白色蛍光灯は眩しく痛く。
「私にだってわからないんです、連絡繋がらないしっ!」
金切り声に出迎えられて、立ち止まる。
あれ、誰だろ。
編集長のデスクの前で叫んでるのは。
柄物のシャツに、ジーンズ姿。焦げ茶の髪が肩甲骨のあたりまである。
「ああ、吾妻くん! 連絡したのに携帯は!?」
サヨリさんが血相変えて飛んできた。
急いでいたので置き忘れてきてしまいました、と白状すると「馬鹿!」と罵られた。
「サヨリさん、あれ、もしかして桂木さん?」
顎で、デスク前で金切り声を上げている女性をしゃくる。
小野田玖美専属マネージャーの桂木さん。
就職活動中の女子大生のように、いつもぴしりとスーツを着こなして髪をまとめていて、黒ぶちの眼鏡までかけていた。
あんなラフな恰好は初めて見た。案外ちいさいんだな、と思ったのは、今日はヒールを履いていないからだろうか。
「吾妻くん、本当に知らないの何も?」
目を丸くして、サヨリさんが少し声を細めて言う。
え、何が? 俺は家を出るその瞬間までパソコンの前にいたんで、何も知らないけど。
吾妻くんじゃァしょうがないわよね、と諦めたかのように溜息を落として、サヨリさんは近くのデスクから一冊の週刊誌を取り上げた。
女性週刊誌。
黄色の、付箋が覗いていた。開き癖がついている。
開く。
―――消えぬ罪の意識と贖罪! 人気作家が背負いつづける十字架の重さ。
勿体つけたような見出しが、派手な文字装飾を施されて、紙面に踊っていた。
―――人気若手作家、小野田玖美(21)。実は彼女には同じ日に生まれるはずの兄弟がいた。しかし、彼女の出産に時間がかかりすぎたため、一卵性双生児であったその兄弟は、産み落とされることなく生を終えた―――。
*
『そういえば、そういうところがあるかも。なんていうか、小さい頃から自分を責めてるっていうか、すごく頑張っちゃってる感じの』
と、中学校の同級生は語る。
『すごく大人びた子だったですけど、どこか背伸びしてるなってかんじることはありましたよ』
元バイト先の店長の話。
*
ひきさかれる、と思った。
灼熱に、左右から引っ張られて、真っ二つに引き裂かれる。
必死に体を縮め、疼きが去るのを待つ。
選ばれたのは私だというのに、どうしてこんなに痛いのか?
(『リトルガールマーメイド』)
*
どこまで近しいか分からない知り合いのコメントと、切り貼りされた作中の文章ばかりが、そこに踊っている。
こんなふうに切り貼りされて、かわいそうにな。
彼女が小説を書くのは、贖罪なのだ。
今も彼女は、罪の意識に追い立てられている。
同情するような文章で〆られていた。
応接室のソファーに座って、目の前に灰皿を据えてある。
開かれたままの週刊誌はテーブルの上。
部屋は紫煙のせいで曇っている。
小野田玖美が、昨日の夜から消息不明なのだそうだ。
向かい合わせたソファーに、頭を抱えるように縮こまって、桂木香夏子が座っている。
目の前に携帯電話を投げ出してある。いつ鳴っても、取れるように。
「これでまた、売れるんじゃないですか小野田さんの本」
編集部に向かって開け放たれた扉の向こうから、小馬鹿にしたような声が届いた。
「話題性ばっちりじゃないですか。案外この週刊誌の内容って、的射てるのかも―――」
馬鹿野郎、と俺は怒鳴ろうとした。
そんな侮辱ってあるか。
興味と好奇の目で、色眼鏡で見られたくて書いてる奴なんて、そんなの下種だ。
小野田は違うだろう。
あいつは、戦ってるんだ。自分と、自分を取り巻く世界と、全部を敵に回すようにして、必死に立って、戦ってるんじゃないか。
「ふざけないでよォッ!」
甲高い怒鳴り声が、向かい側から上がって。
飛び出すように桂木が立ち上がった。
「そんな売り方したくてやってきたんじゃないんだから、あの子のこと知らないくせに口ばっかりで言ってるんじゃないわよ!」
応接室の、開け放たれた扉から向こう側。編集部に向かって、怒鳴りつけた。
桂木の声は嗚咽でふるえていた。かすれてもいた。
昨日から、寝ていないんだそうだ。
編集部が静まり返る。
荒々しく、編集部と応接室を隔絶して、その扉に背を預ける。
手の甲を強く唇に当てる動作をして、苦しそうな顔をした。
なんだか、安心した。
孤立無援で戦っているようなあの子の前には、こんな盾があったのか。
―――香夏は、怒るのが仕事なんです。
形振り構わず怒鳴って、守ってくれる盾が、あるんだな。
「なんですか」
ようやく嗚咽の波をこらえきったのか、桂木がきっと顔を上げた。
視線に気付いた様子だった。
「いや、安心して」
「なんですかそれ」
噛み付く勢いだった。
「桂木さんが、今回のことをラッキーって思わない人で、良かったと思って」
小野田玖美の本は、売れるだろう。
興味本位の視線に晒されて、全ての文句が深読みされるだろう。
色々なところを、切り貼りされて氾濫するだろう。
それでも、”売れる”のだ。
それが、ラッキーなところもある。
漱石や諭吉が動くのが、ラッキーだって。
あんたが、そういう人じゃなくて良かった。
「馬鹿にしてるんですか」
せっかく抑えた嗚咽が、また咽喉元までせりあがってきた様子だった。
怯えて逃げるかのように扉にぴったりと背をつけて、威嚇するように視線を鋭くした。
「ただでさえ、好奇の目に晒されてる子ですよ、デビューのときから。私は、それでもあの子がちゃんと、怯えずに書いていけるように守るのが仕事なんです。体張ってでも守るのが仕事なんです!」
泣き腫らした、充血した目がこちらを睨んでいる。
「だって私、小野田玖美のいちばんのファンですから」
どんなに目に力を込めて睨んでも、堪えきれなかった一滴が頬に落ちた。
「あの子が、あの子らしく書くのが、好きなんです」
一滴、溢れ出したら。
あとは決壊したダムと同じで。
桂木は両手で顔を覆った。
ずるずると滑り落ちるようにへたり込んで、その場にしゃがみこんだ。
玖美ちゃん、こんな近くにこんな熱烈なファンがいて。
君はとても幸せだよ。
俺との対談とか、仕事の話とか、全部クリアしてキャンセルしてゼロにして。
どこにいてもいいけど。
桂木さんには電話してあげなよ。
電源も切って、家にもいなくて、どこにいるの。
君を愛している人が、泣いてるよ。
4.
朝方、雨が降ったみたいだった。
いつのまにかソファーで転寝をしていたらしい。
目が覚めた頃にはすっかりと、編集部内は静まり返っている。
電気はまだついているから、人はいるのだろう。
向かいのソファーでは、泣き疲れたように桂木さんが眠っている。
起こさないように、扉を開く。
「おはよう」
昨日と同じ服で、サヨリさんが苦笑して言った。
「帰らなかったの」
「だって」
放り出していけなかったんだもの。
「お人好しだね」
だからダンナに拗ねられるのよ、あなた。
「性分だから放っておいて」
紙コップに注いだコーヒーをこちらに突きつける。
砂糖もミルクも入っていない、真っ黒な。
目を覚ませ、と言われているようだ。
雨降ったんだねぇ。
煮詰まったような濃いコーヒーを流し込む。猫舌の先が焼ける。
目が覚めた。
桂木さんはどうしてるの。
寝てるよ。疲れ果ててるみたい。
そう、よかった。寝ないとね。
そうだね、寝ないと。人間だから。
無敵で完璧で最強の、サイボーグじゃないんだから。
そのとき、編集部の扉が開いた。
「遅れました」
凛とした声が、沈みきった編集部の色を変えた。
しっとりと髪を濡らしたまま、目のまわりを赤く腫らして、化粧っけのない顔で、小野田玖美が立っていた。
目が、水分を多く湛えていて、潤んでいる。
それでも毅然と、顔を上げていた。
「遅れてすみません」
重ねて、言った。
劣化したオトナなら、「遅れてスミマセンじゃないよどれだけまわりに心配かけたと思ってるの」とか。諭すんだろうか。
相変わらず彼女は、周囲の手助けを撥ね付けるような戦士のままで、孤立無援のソルジャーでかまわない顔をしていた。
まだ戦いは続いているのだ。
「……十二時間押しです」
時計を見て、茶化すように言った。
俺の、十分遅刻なんて問題にならないねぇ。
夕方から夜明けまで、待ってたよ。
小野田玖美は、くしゃっと顔をゆがめるようにして、笑って、すぐに。
桂木さんがしたように手の甲を唇に押し当てて、泣くのを我慢する。
「十分、逃げ隠れはできた?」
前線に戻る覚悟がかたまるぐらいまで、逃亡はできたかい。
小さく咳払いをして、溢れそうな涙をぬぐって、顔を上げる。
挑む目で、こっちを見た。
「はい。好きなだけ逃げてきました」
不器用な子だ。
全部自分の内側で消化しようとする子だ。
他人の肩や腕を、借りられない。
人前に出るときはいつも、戦闘中なんだ。
それは、ジャリンコ特有の向こう見ずでも、自己主張でもない。ただ不器用でカッコつけなだけだ。見栄っ張りだ。
ああ、俺がこの子が苦手だと思ったのは、自分を見てる気分だったからか。
むかし、俺は、自力で立派に立ってられないなんて、恰好悪くて嫌だった。
もたれかかることは、負けることだって信じ込んでいたんだ。
年齢を重ねるごとにしょうがなさとか、妥協点とかを見つけて、慣れて馴らされても。
まだ俺は信じてる、きっと。
無様でも血まみれでも泣いても転んでも、自力で立ち上がるのがかっこいいってさ。
泣き顔は誰にも見せないんだ。
「私、縛られてるわけじゃありませんから」
高らかに宣言した。
「つみほろぼしとかじゃない。確かに、私は生き残ったけど、そればっかり悔いて生きてるんじゃない。だから書いてるんじゃない。弟がいたことは忘れないけど、背負ってくけど、重みでも痛みでもないです。生きてるぶん、勝っていきたいから。だから私、人の二倍、野心家なんです」
一息に言って、大きく息をついた。
生きていくためには、色々なものを背負っていかなければ駄目で。
背負ったものの重みは、自分でちゃんと感じていなければ。
そういうものをひとつも、忘れたふりをしたくないんです。
ふたりぶん野心家だから、ふたりぶん貪欲だから。
常に、世界中が敵でいいんだ。
「それ、メディアの真ん中で言わなくていいの」
こんな、夜明けの人気のない編集部なんかで発表しても。
「吾妻さんだけ、知ってればいいよ。他はどうでもいい。流行なんてすぐに廃れるし、本当に好きでいてくれる人だけが、最後に残ってくれるんだもの」
「俺なんかでいいんだ?」
「小説書いてる人には、誤解されたくないです」
「そんなの、小説馬鹿なんかは、読めば分かるよ。贖罪でもなんでもなく、小説書くのが楽しくて楽しくて仕方がなくて、誰かに読んでほしくてじたばたしてるんだって。君の文章読んだら分かるよ。いわなくったって」
結局俺ら、同じ穴のムジナだろう。
そんなこと心配しなくていいよ。
言葉を遊んでるつもりで逆に遊ばれてる生き物には、変なアンテナがついててさ。
同類はすぐに見分けられんだぜ。
そして、勝手に敵対心燃やすんだ。
負けず嫌いだからな。
ナルシストだから。
だから、心配しなくていいよ。
君が、小ずるく計算してさ、罪滅ぼしのためなんかに書けるヤツじゃないってことは。
結局楽しくてしょうがないことは、知ってるからいいよ。
特殊なアンテナで、ひろうから。
平気だ。
玖美が笑った。
顔中に張り詰めた力をふっと緩めて、眉は八の字で。
なんだか泣きそうな顔をした。
化粧もしていなければ髪もばさばさなので、なんだか迷子の子どものようだった。
煙草は?
フィルターはキツいんでいいです。
それは残念。
何か秘密を共有したような気分になって、また笑った。
「クミー!!」
弾丸が飛んできた。
応接室の方からだった。
「ばかー! ばか、なんなのあんた、ばか!」
憔悴しきっていた桂木さんは、ボキャブラリーが少なくなっていた。
飛びついて抱きついて、二人で床に座りこんだ。
「香夏ちゃん」
「心配するじゃないのもう、ばか、なんでいつもあんたはそうやって」
ぎゅう、と音がしそうだ。
それぐらいきつく、桂木さんはちいさな作家の体を抱き締めた。
「よかった」
呟きが、漏れた。
紙を一気に丸めたみたいにくしゃっと、玖美の顔が歪んだ。
細い腕で、マネージャーで熱烈なファンを、抱き返した。
「ごめんなさい」
5.
【求む、探検隊員!!】
開かれたページには大きな見出しが載っていた。
新企画だった。
あなたのお気に入りの一冊のレビューを募集するコーナーらしい。
そんな雑誌は、月刊文芸誌「レオナルド」。
そのページは、三流の作家が対談連載をするはずだったスペース。
「断っちゃったんですか、対談連載」
潤ちゃんの耳には、今日は薔薇のピアスがついている。
「んー。やっぱり、ヤメたわ」
真昼のホタル族は、今日はベランダ越しで会話をしている。
お隣さんだからできること。
ベランダの柵にだらりと腕をたらして、件の三流作家は銜え煙草の体だ。
「なんで? もったいない」
もったいない、か。
それはもう、ここ一週間で何度聞いたか分からない言葉だよ、麻生君。
特に、サヨリさんからは散々連呼されました。
もったいないもったいないもったいないもったいないもったいないもったいないもったいないもったいない。
いつ息継ぎしてるんですか? とまた訊いたら、また殴られた。
そう。
話題性なら、十分だったはずなのだ。
あれから、予想通りに小野田玖美の本は少しばかり売上を伸ばし、メディアにもそこそこ取り上げられた。だから、彼女が第一回のゲストならば、ネームバリューでいつもよりはすこし多く売れただろうし、それだけ多くの人の目に俺の名前も留まっただろうし、そこで更にモノズキな輩が俺の本を買ったかもしれないしね。
逃した魚は多分デカイ。
「もったいない、よねぇ、きっと。でもスガスガシイのでよしとする」
だって、同じ穴のムジナを、売り物にできないでしょう。
そんな好奇の目に晒されたって、嬉しくないでしょう。
俺は、俺の書いたものでしか、評価されたくないよ。
それが我儘だというのは分かっているけど。
純粋に愛してほしいよ。
「へんなの」
潤ちゃんが肩を竦めた。
変で結構。
「でも、吾妻さんらしいから、いいですねそれ」
「そう?」
どうしたの、潤ちゃん。最近俺にやさしいね。
「ここで一気に名前が売れたりしたら、なんか吾妻さんらしくないです」
「なんだそれ。俺は底辺(ここ)でもがいてるのがお似合いだってことですか」
「吾妻さんて、ストイックですよね」
「ええー! 俺ってば、めちゃくちゃ貪欲だよ!?」
ほしいものたくさんあるよ。
「気付いてないんですか、吾妻さんって、すごくストイックなドリーマーですよ」
ドリーマー。か。
「だから、吾妻さんには、純粋に売れて、じりじり這い上がっていってほしいです」
純粋に、愛されて。
「それって、本当理想だねそうありたいね」
愛されて、紡ぐ言葉を求められて、這い上がっていけたらいいね。
しあわせだね。
無敵じゃなくてさ、いいのよ。
全部うまくいかなくても、時には魚逃がしちゃったりしても。
傷つけられて泣いても、凹んでも、逃げても。
また、前線に戻ってこれる奴がヒーローだ。
ぼろぼろでもさ、いいのよ。
最後に勝って笑えるんならいいのよ。
リトルガール。
どれだけ犠牲にしたものを背負ってさ、どれだけ重くても。
傷が疼いて痛くても。
俺らは崖から身を投げたりしないだろう。
負けず嫌いだからな。
ナルシストだから。
それでいて、無様でかっこわるくてよわっちいからな。
血まみれでも、ふらふらでも。
やっぱり太陽のぼるだろう。
最後には笑ってる。
そんな、めでたい夢を見てるんだ。
海の泡になって儚く消えてたまるもんか。
<了>