深海魚のイデア




 めざす水面ははるか遠く。
 鰭が千切れても泳げ深海魚。
 すべてなにもかもうまく転がらなくても。
 理想はそんなもんだ。
 掲げとけ。
 何の邪魔にもならないさ。



1.

 リリ>私なんてさー、もう一ヶ月昼間外に出てないよ(笑)。>ALL
 セイ>ああー、そんなもんだよ、いいじゃんw>リリ
 櫂>だって、面倒くさいしね、色々ね。
 リリ>そうだよね!(笑) メンドイもんね!(笑)

 アハハ、アハハハ。
 文字と顔文字が乱舞して、画面で踊っていた。
 平気だよー、やるときやるもん。
 今、休暇中。
 そうだよねぇ、今お休み中だからねーぇ。
 大丈夫大丈夫。


 じゃあ、休暇が終わるのはいつ?


            *


 玄関で靴を履く。
 スニーカー。
 端の汚れた紐を結ぶ。
「朝日、出かけるならお醤油、買ってきて」
 んー。
 母親の声に生返事で、もう片方の靴紐を結ぶ。
 台所からは、洗い物の音。
 横に放り出してあった財布と携帯電話を拾い上げる。
 時刻は夜の十時半。
 別に夜遊びに行くのでも仕事に行くのでもない。
 ただの散歩だ。
 親は何も言わない。
 逆に、すこし喜んでもいる。
 いつもの散歩コースからすこし外れたところにあるコンビニに寄って醤油を買ってこいと命じるのも、少しでも遠回りすればいい、と思っているからだ。

 半年間。
 俺が、閉じこもったままだった自分の二階の奥の部屋から、階下の居間に下りていったときの、母親の大粒の涙を思い出した。
 自宅の、自分の部屋から。
 自宅の、居間に。
 扉を開けて階段を下りてまた扉を開けた。
 それだけで、母親が泣いた。
 ひどいことをしていたんだろうか。
 わんわん泣いたんじゃない。驚いて、こみあげて、どうにもできずに泣いた顔だった。
(その証拠にすぐに涙をぬぐって平気な顔をして、どうしたの、と訊いた)
 半年。
 俺は、生まれ育った家の、自分に与えられた部屋の中で過ごした。
 風呂とか便所とかそういうものは別にして、だけど。
 自分に与えられた殻の内側だけにいた。
 世間でいうところの、ひきこもりという生きもの。
 大学にも半年前から行っていない。
 昼間も外には出ない。
 居間に下りてからもしばらくは家の外には出なかった。
 ようやく、夜の散歩をする気になったところだ。
 それが一ヶ月前。
 今では日課のようになっている。
 いってきます、と声をかけると台所から、いってらっしゃい、と母親の声が応えた。


            *


 別に欲しいものがあって、目的があって出かけるわけではない。
 社会は今、ひきこもりにとてもやさしくできている。
(大抵のものは、パソコンで注文すれば家に届く)
 労力は要らない。
 店員との応対も不要だ。
 誰と会わなくても、ほとんど手に入る。
 コミュニケイションが稀薄になっているって。
 つけっぱなしのテレビでどこかの教授が言っていたっけ。
 子どもの精神形成上に問題が。
 人に対する思いやりが薄くなる。
 対人恐怖症とか。
 パーセンテイジ。
 右肩上がりのグラフ。
(ヒキコモリの数は)
(年々増加の一途を)
 数字は、各個人の胸の裡(うち)まではカバーしていない。
 統計と総計。表層。一枚、皮を捲れば、無数の事情が幾千万うごめいているのも、きれいに見ないふりをできる。
 表層の数字だけ掲げて、現在の社会を糾弾する武器につくりかえる。
 社会がいけないから。政治が、経済が、いけないから。だから。
 改革を。
 もっとよりよい明日に。
 崇高なきれいごと。理想論ばかりが踊っている。

 俺たちも、パソコンの画面の中で同じような話をする。
 今のあれはね、良くないよね。
 セイジカが。大国が。
 俺たち僕たち私たち、繊細だからさ。
 そういうゆがみに対応できないんだよね。
 そうそう。繊細だから。
 外なんてさ、怖くて歩いてらんないよねェ。
 どこから刺されるか分かんないしね。
 間違っているのは、わたしたちじゃありません。
 世界が悪い。
 まわりが。全部。
 腐ってる。腐っちまってる。
 そうだよね、だからだよね。
 外界を馬鹿にして、笑ってる。

 だけど。
 誰も本当は、社会のせいにしたいわけじゃない。
 各々の事情を、世界情勢とか社会のゆがみとかに委ねちまいたいわけじゃない。
 自分の辿ってきた道程だとか、抱えている傷痕とか、そういうものを。
 簡単に片付けられるわけがなくて。
 皆が皆、「世界が悪い」って同じ理由で傷ついてるわけじゃなくて。
 そんなこと、分かってる。
 分かっててもどうしようもないから、転嫁を。
 重い荷物を棚上げに。
 真面目に真剣に自分の行く末を考えろと、大人のひとは言うのだけれど。
 なにもかも棚上げにして、なんにも考えたくないときだってあるのだ。
 それが、俺の半年。


            *


 誘蛾灯。
 闇の中の鮮烈なひかり。
 住宅街からすこし離れている。静かで、人気のない場所にぽつりと、強烈な発光体があるのだ。
 コンビニエンスストアの光量は、半端じゃない。
 その異常な光に、人々は吸い寄せられるんだと、思う。
 獣は炎を恐れるというけれど。
 虫は火に飛び込むという。
 人間は獣だけれど火を手に入れたように錯覚して身近に置いて。
 獣というよりは虫に近いのかもしれない。
(むしけら)
 虫けら、か。
 そんなことを思う。ぼんやりと。
 ようやく、最寄のコンビニにたどりつく。
 家の近くをわざと複雑に歩き回ってたどりつく。
 コンビニの前。ゴミ箱の、灰皿の前。
 男が数人、屯していた。
 指先にはさんだ、煙を細く上げる筒。
 誘蛾灯の下で、楽しそうに話をして、笑っている。
 指先を、向け合って。
 おまえ、それってさァ。
 アハハ、馬鹿じゃないのほんと。
 指をさして、馬鹿にし合って、なんてこともないような笑い話に。


 笑われてるのは、俺じゃあないのか。


 錯覚に、足早にコンビニに飛び込む。
 そんなはずないだろう。
 くだらない。
 くだらなすぎる。
 どっと、噴き出した汗がこめかみから顎に落ちる。
 左胸の内側で、重い鼓動が鳴っている。
(イラッシャイマセコンバンワー)
 間延びした形式的な常套句。
 応えなど期待していない一方通行の挨拶。
 営業用。マニュアルどおり。
 カウンターを盗み見る。制服姿の人間は、うつむいて作業をしていた。
 こちらなど、見ていない。
 誰も注目なんてしていない。落ち着け。
 落ち着くんだ。
 誰も見ちゃいない。笑ってなんかいない指なんか、さされてない。


 落ち着け!


 有線の、J-POP。
 アイドルの安っぽいラブソングが、耳元に戻ってきた。
(アイラブユーアイラブユーアイラブユー)
 ふざけんな馬鹿、狂気の沙汰だそんなもの。
 醤油の目の前でそんなことを思って、舌打ちが落ちそうになって我に返った。
 まただ。
 また、駄目になっている。
 色々、駄目になっている。判断ができなくなっている、分からなくなっている。
 半年前まではこんなふうになるなんて、ちっとも思っていなかったのに。
 醤油のボトルを持ち上げる。一リットル。やけに重い。
 本棚の向こう側にゴミ箱や灰皿が。
 軽そうな男たちがまだ屯している。
 ああ、昔はああいうのを見るたびに、心の底で馬鹿にしていた。あざけって、罵って、見下していたんだっけ。
 レジに、醤油を乗せる。
(イラッシャイマセ)
 排他的な人間だった。
 嫌いなものが多かった。
 夏目漱石を白いカウンターに置く。
 将来のことも考えずにのほほんと、気楽に遊んでいるやつらとか。
 馬鹿らしい理由で殺人を犯すガキとか。
 そうだ。ヒキコモリも。
 小銭を受け取る。(アリガトウゴザイマシター)笑顔もない礼に送り出される。すべてが流れ作業。マニュアルどおり。

 ヒキコモリや”うつ”も、大嫌いだった。馬鹿にしてたな。そういえば。
 あいつら弱いだけなんだ。
 いきなり何もできなくなるとか、具合が悪くなるとか、そんなの全部錯覚だし。
 いいわけだ。
 いいわけばっかりなんだ。
 できないんじゃなくて、”しない”んだ。
 くだらない。馬鹿馬鹿しい。
 負け犬だ。よわむし。むしけら。
 ああはならない。負けたりしない。
 街角で、学校で、ブラウン管の中で。そういう生きものを見るたびに言い聞かせていた。
 所詮は別世界の生きものだ。どう転んだって、ああはならないだろう。
 根拠のない、優越感。
 “勝ってる”んだ、と。
 意味もなく訳もなく、誇っていたっけ。


 ある日突然、立てなくなった。


 脚に、力が入らなくて。
 なんだこれ、嘘だろ冗談。
 ぺったり。座りこんだ脚の表面から、床に。何かが吸い取られてゆくような錯覚。
 どっと、涙が出た。
 かなしいとか、くやしいとか、そういうレベルではなくもう、涙が出て仕方がなかった。
(なんで泣いてるんだ?)
 冷静な自分も、どこか奥にいた。
 これはなんだ?
 なにが起こっているのか分からなかった。
 これじゃ駄目だ、負ける。
 信じられない。ナシだ、嘘だ。冗談にしたい。
 “引き返したい”。
 負けたのか?
 一体何に。
 何に勝とうとしていた?
 それすら、分からなくて涙が。
(あんなふうには)
(ならないとおもっていた)
 立ち上がれなくて、床を引っかきすぎて爪が割れた。
 血が、フローリングを汚した。
 鉄の臭いがした。
 吐き気がした。具合が悪いわけじゃないのに。
 指を咽喉に突っ込んで、全部吐いた。
 座ってすらいられなくて、床に転がった。頬に血がついた。
 立てない。
 どうしたのか、どうすればいいのかも、分からなくなった。


 コンビニの扉を押し開ける。
 笑い声。
 煙。
 視線を感じるのは、錯覚。周囲はそんなに、他人に注目なんてしない。
 すぐに忘れる。
 通り過ぎるだけだ。
 顔なんて、すぐに忘れるんだ。

「朝日くんじゃん」
 心臓が止まった。
 足早に立ち去りかけた背に、人の声。
「宇野っちだろ」
 無様に、振り返れずに立ちすくんでいる。
 圧迫感のある光に背を向けている。
 右手に下げた醤油の、一リットルの重み。
 誰。
(逃げ出したい)
 役立たずの脚、動け、と思った。
 走り出せ。
 無様に逃げ出してしまえ。
 体は恐る恐る振り返っていた。肩越し、後方。近づいてくる足音に。
「……」
 一瞬、名前を思い出せなかった。
 目を焼くような眩しさの中に、オレンジに近い茶色の髪が見えた。
「高、坂」
 思い出して、口にした。
「やっぱり。すっげぇ久しぶりじゃないすか」
 柄悪く。口の端を歪める感じで相手が笑った。
 大学の、大まかに分けられたクラスの、クラスメートだった。
 授業なんて細かく分かれていて、同じものばかりを取るなんてほとんどないから、クラスメートなんて意味もない形式だけなのだ。
 あまり接点のないいきものだと思う。
 服装も派手で柄も悪く見えるけれど、案外人付き合いがマメな男だった。
 お軽い、ふわふわと生きている大学生たちと、またすこし違う。
 かといって、優等生というわけでもない。
 わけがわからない。
 あまり接点のないはずの、俺の名前なんかも覚えていたりする。
 こいつの、下の名前はなんだったけ、と俺はぼんやり考え込んでいる始末なのに。
 宇野朝日と。こいつはフルネームをちゃんと覚えている。
 暇で、馬鹿な奴だな。無駄が多い。
 接点のない相手なんて、覚えていて得にもならないはずなのに。
「家、この近くだったんだ?」
 高坂が言った。
(ああ、そうだカヲル)
 ようやく俺は相手の名前を思い出す。
 高坂カヲル。
「ここから、すこしだけど」
 家族以外と言葉を交わすのはいつぶりだろう。
 声に、緊張が混じっていないだろうか。
 正直に言うなら、怯えている。
「宇野さぁ、大学辞めたんだっけ?」
 直球だった。腹を殴られたような気分になった。
 ぐらりと、眩暈。吐き気がする。
「そ、そうだけど」
 顔は、何故か笑顔を作った。
 接客をする、店員のような、マニュアルどおりの、営業用。
 へぇ、と高坂は感心したように目を開く。
「やりたいことが、見つかったんだ」
 口が。
 勝手に。
「だから、これ以上大学にいても仕方がないと、思ったし」
(いいわけ)
「そうなんだ? なにやってんの?」
 勘繰られているのかな。
 素直に疑問で聞いているのかもしれない。
 分からない。
「雑誌の、編集の手伝い。カメラとか」
 するすると、零れ落ちる。
 口からでまかせ。
「すげーじゃん、そういえば前からカメラとか好きだって言ってたしね。そりゃ大学いる場合じゃねぇわ。正解」
 素で、驚いて、うれしそうな顔をした。
 自分のことでもないのに、喜んだ顔を。
「高坂は、なんでこんなところにいるんだよ」
 居たたまれなくなって、話題を変えた。
「ああ、俺は知り合いに会いにきた帰り」
 知り合い?
「そう。この近くに住んでるんだけど。作家さん。一方的に、俺が慕ってんの」
「女?」
「男。ああ、言っとくけどそういう趣味じゃねーから。慕ってんのは人間的に。おもしろくて」
 どうでもいい。そんなの。
 関係がない。
 そう、とそっけなく相槌を打った。
「じゃ、あ、そろそろ帰るから。色々、やることあるし」
 切り出した。
 やることなんて、特にないくせに。
「ああ、ごめんごめん。忙しいんだっけ。悪いな、引き止めてさ」
 友達のように、高坂が笑った。
 一リットルを右手に下げて、じゃあ、と踵を返す。
 がんばれよ、と高坂が言った。
 がんばれ。


            *


 玄関に醤油を置き去りにする。
 財布も、携帯も。
 重い体を引きずるように階段をのぼる。
 一リットルで痺れた右手で口元を覆う。吐きそうだ。
 体当たりするように、突き当たりの扉を開ける。
 ころがりこむ。

(がんばれよ)

 なにを。
 ベッドに体を投げる。
 つけっぱなしのパソコンが、闇の中でぼんやりと発光する。
 つなげっぱなしのメッセンジャーから。
 今日はどうしたの。
 メッセージ。
 最近チャットに来ないけど。
 どうしたの。

 うるさい。
 うるさいんだよ。
 かまうな、誰も。放っておいてくれ。

 いらつきの、絶望の、この吐き気の原因ならもう分かってる。
 壮絶な、自己嫌悪だ。
 あんな、嘘を。
 体面を取り繕ったり。
 ベッドの、壁際に体を寄せる。
 子どものように体をまるめる。
 腕を口に当てて、噛む。
 気持ち悪い。きもちわるい。

 さも、自分が勝者のように繕うなんて。
 通えていないだけの大学を、自分のために、辞めた、なんて。
 格好いい台詞を。
 邪魔なだけの、高いプライド。
 “みくだされたくない”。
 歯形が残るぐらいに噛むくせに痛くはなくて。
 内出血ばかり残される。
 無様な、型。
 みじめな印ばかり、増えてゆく。

 人生の休暇中だと、言うやつもいる。
 世間は、家の外は、面倒くさいことばかりだから。
 少しばかりのドロップアウト。
 モラトリアム。
 執行猶予。
 すべてのことを後回し。
 ゆとりのある生活を。
 あしたから、あしたから。

(あしたっていつだ)

 棚上げにして、後回しにして。
 あしたが今日になったらまた口にする。
 またあした。
 あしたから。
 頑張る。


 そんなあしたなんてあるのか。



2.

 いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
 目が覚めたら、次の日の夕方になっていた。
 後頭部のあたりが、にぶく痛い。偏頭痛だ。
 寝返りをうつことも億劫だった。
 淡い緑の壁紙と向き合って、しばらくじっとしていた。
 目が痛くなって、まばたきをした。
「血のにおいがする……」
 つぶやいてみた。
 鉄の、におい。
 右手の、手首のあたり。
 血がにじんでいる。乾いてしまっていた。
 白いシーツに、いくつか染みが。
 赤黒い内出血。歯のかたちに。
 左手の指先で、軽くなぞってみる。
 ぴりりと痛んだ。
(噛んでるときは痛みとか、感じないくせに)
 あとから痛む。

 一体いつになったら、楽になるんだろう。
 噛みあとだらけの腕。
 おもてに見える傷なら、いつか消えるだろう。人の体の再生能力がそうさせる。
 それでも、この内側の澱(おり)は、積もりに積もって幾重にも。
 ぐるぐる渦を巻いて、なくなりはしない。

 どうして他の誰もができることができないのだろう。
 夜中に散歩に出かけられるようになったって。
 結局何も変わっていない。
 人に会うのも嫌だ。
 つかれる。
 つかれると、また、この部屋で、このベッドの上で、際限がないぐらいに眠るのだ。
 目が覚めても、なにもかもが面倒くさくて転がったまま。
 何時間も。

(眠ってしまえ)

 催眠。
 自己暗示。
 何も考えるな。
 痛みも、焦りも。
 得意技の棚上げで。

 どろり、と意識が溶け出す。
 結局それから、二日ぐらい何も喰わずに、ベッドに転がっていた。


            *


 良く顔を出していたチャットに行かなくなったのは、なんとなく隙間を感じるようになったからだ。
 すこし前までは、同じ境遇のひとびとと他愛のない話をして、傷をなめあっていたら、落ち着いていられた。
 私もそうだよ。
 ひとりじゃないんだよと。
 大丈夫、大丈夫だから。
 舐めあいをしていたら、孤独ではなかった。
 安心した。
 孤立無援ではない。
 “自分ひとりが悪いわけじゃない”。
 同じように駄目になってしまったやつらが、不特定多数。様々な場所にいるということを知るためだったのだ。
 ぬるま湯に、浸っていれば安心だった。
(羊水)
 外敵のいない、誰もこちらを傷つけない場所に、いた。
 心地よかったんだ。

 その、波立たない、さざめかないぬるま湯に、首を傾げ出したのはいつの頃か。
 笑いあって、慰めあっているだけで、安堵できなくなった。
 不安が、ふくれる。
 このままで、いいはずがない。
 焦りばかり、ふくらむ。増幅する。
 どうにかしなければ。
 めんどいから。繊細だから、どうしようもないから。
 モラトリアムを声高に叫んで笑いあっている世界に、壁を感じ始めたのは、いいことなのか?
 かといって、現実社会に適合できているわけでもない。
 どこに所属しているのか、どういう部類の、くわけの生きものなのか、分からなくなってしまった。
 不定形。
 はみだしもの。
 どれとも溶け合えていないなら、ひとりだ。孤独だ。
 それが怖い。

―――不安だったり焦りを感じるのは、君の気持ちが、変わってきているからだよ。

 いい方向に、向かっているよ。
 最近通い始めたカウンセラーが、そう言っていたっけ。
 はじめは、カウンセリングを受けることも、嫌で嫌で仕方がなかった。
 自分が「駄目」なことを、公にみとめないといけないような気がしたから。
 君が、このままじゃ駄目だから、立ち直ろうと思っているからだよ。
 それでも、体を噛むくせは治らないんですけど。
 昼間外に出るのも、できないんですけど。
 焦ったら駄目だよ、とカウンセラーが諭す。
 焦ったりするのがいい兆候なのに、焦ったら駄目なのか?
 それって一体どういうことなんだ。
 つじつまが合わない。
 矛盾している。
 ああ、そういうことを考えるとまた、噛みあとがうずいたりして。
 掻き毟りたくなったりする。
 だめだ。


 どうしたらいいかわからない。


『どうしたの、最近上がってこないね。最近はどんな―――』
 ハンドルネームしか知らない人間のメールを、最後まで目も通さずに、ゴミ箱に捨てた。


            *


「今夜こそおまえを落とす! とかどう?」
 突拍子もない言葉で、我に返った。
 気がついたら、外にいた。
 携帯も、財布も持っていなかった。
 街灯がまぶしい。
 それ以上に眩しいのは、コンビニの―――照明。
「……おまえのセンスが二昔ぐらい前だってことは、よく分かった」
 呆れた声が、こたえた。
 同じ意見だな、とぼんやりと考える。
「口説き文句なんてさァ、大体全部、かっこつけて言ったら陳腐っしょ」
「それは認めよう」
 足元の地面は、何かの工事のあとのようで、アスファルトが奇妙に盛り上がっていた。
 なめらかではなかった。
 凹凸。つまづきやすい。
 アスファルトから視線を引き剥がした。
 声は、莫大な光量の方向から聞こえていた。
 男、ふたりの。
 瞳を灼くような眩しい”箱”のなかから、後光のように白色のひかりを背負って、マニュアルどおりの声に送られて、人が、出てきた。
 片方は、不自然なほどに黒い髪だった。敢えて染めている色。
「アガツマさん、だってさー」
 少しばかり遅れて、黒髪に従うようなのは、オレンジに近い茶色の髪の―――。


(にげろ)
 耳元で、何かが叫んだ。
 逃げろ。
 目を合わせるな。
 足が、すくんで動かなかった.

「朝日くん」
 路傍にぼんやりと立ち尽くしている人間に、黒と赤の派手なシャツの男は目ざとく気がついた。
「最近良く会うっすね」
 高坂が、へらへらと笑いながら近づいてきた。
 俺は一刻を争うから先帰る。黒髪の男が高坂に言う。
 うす。原稿がんばって。
 高坂が答えた。
 原稿。
 この間言っていた、作家?
(どうでもいい)
 おまえだって、別に俺のところまで来なくていいから、帰れよ。
 言葉にはできなかった。
 うやむやに、頷いた。

 俺は、もう帰るから。
 きっぱりと言って、踵を返そうとした。
 おまえも、慕ってる作家のところに行ったらいい。
「コンビニの近くまで来てんのに、寄っていかなくていいの」
 純粋な、質問だったのかもしれない。
 でも、急に馬鹿にされたような気がした。
 いいんだよ。散歩だから。
 苛立たしげに、言った。
「この間会ったときよりも、痩せたんじゃねーの? 頬、こけてる。忙しくてもちゃんとメシは―――」
「ふざけんなよ俺がどうなったって、おまえには関係ないだろ!!」
 吐き出した。
「おまえなんかと」
 急に泣きたくなった。
 咽喉元まで、こみ上げた。
「おまえと俺なんか、何も関係ないだろ。友達面して心配したフリして、本当は別に心配でも何でもないんだろ。社交辞令なんだろ。笑って、話せればそれでいいんだろ。そうやって、表側だけ繕って、やさしいふりして、馬鹿にしてんじゃないのか。噂ぐらい、流れてるんだろ学校でも、俺が辞めたんじゃないって、知ってていってるんだろどうせ、ふざけんなよ」
 吐きそうだ。気持ち悪い。
 全部、吐き出してしまえ、と思った。
 どうにでもなってしまえ。
「おまえはいいよ。強いから。派手な恰好で目立ってても、ずばずばもの言っても。誰に何言われたって平気で立ってられるもんな」
「宇野」
「俺はこわいんだ!」
 嗚咽が混じって、声がふるえた。
 深夜の住宅街に、きっと煩く響いている。
 恰好悪い。
 無様だ。
「誰に、どんなふうに見られてるか、思われてるか、馬鹿にされてないか、見下されてないか、嫌われてないか、ぜんぶ、全部こわいんだ。誰かに見られるのがこわいんだ!」
 弱虫。
 むしけらな、自分。
 人の視線が怖いから、昼間は出歩けない。
 誰にもみないで欲しい。視界に入れないで欲しい。
 値踏み、されたくない。
 厭われて、嫌われたり。
 わらわれたくないよ。

「俺だって、そうだ」
 こまったような顔をして、高坂が答えた。
 うそつき。
 うそつきうそつき。

 高坂は、チンピラのような派手な柄のシャツを、よく着ている。
 ずけずけと、物を言う。
 だから大学でも目立っていた。
 打たれても、へこまないやつだと。
 俺がまだ”平気だった”ころから、そう思っていた。
 他人の目など、他人の評価など、気にしていない男だと思っていた。
 そうなんだろう?
 俺みたいな弱虫より、つよい。
「誰だって、馬鹿にされたり、嫌われたくなんてないだろ。そんなの、皆同じだ」
 あたりまえの。
 真理のように。
 高坂が言った。
「俺は、宇野が病気だって聞いてて。でも何の病気かは聞いてなくて。久しぶりに見かけたら仕事してるっていうから。良かったなって安心して。でも、具合よくなさそうだから心配したんだ。なんか、気に障ったならあやまる。ごめん」
 俺から視線を外して、凹凸のあるアスファルトに落として、申し訳なさそうに、言う。
 頭から冷水を浴びせられた気持ちになった。
 はずかしい。
 右手の、噛んだあとが疼いた。
 思わず、左手で撫でる。
 塞がりきっていない傷口が、ぴりりと痛んだ。爪を立てる。
「こわくて、行けないんだ、大学」
 無様に、カミングアウトした。
 足がふるえた。だらしなく。
 泣きそうだ。
「全部の目が、こっちを見てる気がするんだ。笑い声が、全部、俺を馬鹿にしてるみたいに聞こえるんだ。そんなはずないのに」
 かくん、と膝が崩れた。
 膝から、アスファルトに座りこんだ。
 無言で、高坂が手を伸べた。
 立てる? と。訊いた。
 無様に座りこんだ俺に何も、訊かずに。
 ただ、立てる? とだけ。
 恐る恐る、伸べられた手に、触れた。
 人の肌の温度が、熱くて。
 訳も分からなくなって、涙が溢れた。
 立てない。
 立てないよ。体が、いうこときかない。
 あの日みたいに、アスファルトに力が全部吸い取られていっているみたいだ。
「ぜんぶうそだ」
「うん?」
 アスファルトに座り込んで、高坂の片手だけを握って、泣いた。
「仕事してるなんて、うそだ」
 うん、と。
 何も、訊かず。咎めずに、高坂が頷いた。
 分かった、と言った。
「分かったから、とりあえず立って、別のとこ座るべ」
 掴んだ俺の手を、軽く、高坂が引いた。
 立てないよ。
 体が動かないから立てない。
 できないよ。
「できるよ」
 すこし強く、俺の腕を引くちから。
「宇野、スゲー奴だもん。立てるだろ」
「すごくなんてない」
「頭いいじゃない。成績」
「そんなもの、やれば誰だってできるんだ」
 マニュアルがある。やり方が決まってる。
 点数なんて。
 評価なんて、人間性には意味がないんだ。
「やり方分かってても、宇野みたいにできないやつもいるんだ。おまえは努力して、こなしてんだろ。すげーんだよ」
 噛みあとのある右手を、凹凸のあるアスファルトに滑らせる。
 萎えたような足を、片方、立てた。
 腰を浮かすと、強い力で高坂が引きずり上げた。
「ほら」
 できた。
 やっぱり、できた。
(できた)
 二本の足で、立っていた。
 確かに、立っていた。
「……魔法?」
 俺は、びっくりしている。
 突然座りこんだあの日は、どうやっても自分じゃ起き上がれなかったのに。
「俺ってば、魔法使い?」
 大仰に、芝居がかったように、高坂が肩をすくめる。
「違うよ、魔法なんてない。俺は何もしてない」
 手が、離れる。
「宇野が。あんたが自分で立ったんだろ」



3.

 うらぎりもの、と。罵られた。
 最近、夜散歩に出かけている、とカミングアウトしただけで。
 同じように家の外に怯えている、ハンドルネームしか知らない相手から、するどく糾弾された。
 “櫂”くんだけは、わたしと同じだって信じていたのに。
 なんで、ひとりで勝手に、外になんか。

 多分、彼女からメールがくることは、もうないだろう。
 そして俺からも送らないだろう。
 理不尽だと、怒る気にはならなかった。
 ただ寂しかったけれど。
 俺と彼女の立場が逆だったりしたら、きっと俺だって裏切り者、と罵っただろう。
 置いていかれると、自分ばかり取り残される気持ちになるだろうから。
 そういう意味で、俺は確かに、彼女を裏切ったのかもしれなかった。

(でも、おんなじ人間ではないから)
 溶け合ったりはできない。
 同じ場所で生きているわけでもなければ、同じ血が流れているわけでもなく。
 まして、顔も知らない相手だし。
 いつまでも慰めあって、互いの傷を舐めあっているわけには行かなかった。
 すくなくとも俺は、そう思った。


―――あの日。
 あまり接点がないはずの高坂と、気がついたら人気のない夜の公園にいて。
 俺は、思いつくまま即興で喋った。
 いろいろなものの螺子や箍(たが)が全部はずれて、垂れ流しだった。


 半年前に行われた、大手カメラ会社主催の写真コンテストの話をした。
 昔から、写真が好きだった。
 別にそれで生計を立てていきたいとか、そういうことを思っていたわけではなく。
 一般人が当たり前のように重ねてゆく道の先。
(大学へ進学して就職を。安定した生活を)
 そこで、有意義な趣味になったらいいな、とは思っていた。
 最大限の努力をして、最良の選択をして、順調に昇ってゆけば、到達できる場所だと、ずっと思っていた。
 努力したぶんは、報われるのが世の中だと、なんとなく信じていた。

―――コンテストはデキレースだった。
 露見して、ニュースにもなった。
 体中の力が、抜けた気がした。
 愕然としたのは、俺がそのデキレースにエントリーしていたからではない。
 入賞するかも、とは全然思っていなかったから、選ばれなかったことが悔しかったわけではない。

 こわくなってしまったのだ。

 世の中は、かいた分の汗や、流した分の涙に、報いるようにはできていないのだと、知った。
 どれだけ努力して、必死こいて、高見を目指したとしても。
 様々なしがらみや、思惑にはばまれて。
 どうしようもない理由で届きかけた場所から手を振り払われることも、あるのだ。
 だから、こわくなった。

 こわいんだよ、と高坂に言った。
 珍しかったり特殊ではないにしても、俺にはずっと理想があって。
 それに向かって邁進してきたんだ。ずっと。
 優秀な成績を収めるのも、一流企業への就職を目指すのも、その手段。
 思い描いた青写真のような生活が、こんなふうに頑張っていたら、いつか手が届くものだと。
 信じていたから。

 こわいんだよ。
 思い描いていた自分に、なれなかったら。
 届かなかったら。
 どんなに頑張っても駄目だったら。
 理不尽に、はばまれたら。
 そのときはどうやって。
 なだめすかしたらいいのか。
 それなら、はじめから、気負わないほうが楽かもしれないなんて。
 思ったら。
 頑張ってきた自分が、張り切りつづけてきたことが。
 肩に力を入れて歩いてきた自分が、ひとりでクソ真面目に踊っているような気がして。
 力が抜けてしまって、立ち上がれなくなってしまった。

―――理想って、届かないところにあるんだぜ、きっと。
 理想って、望みの、願望の、100パーセントのことだから、と高坂が言った。
 どんな願いだって、完全にはかなわないだろう。
―――夢とか目標とかとはちがう。夢や目標がかなっても、理想なんて絶対、100パー、実現するもんじゃないから。胸張って高いところに、掲げといていいんだよ。
 太陽のように。
 仰ぎ見るものだ。
 かなわないから、手が届かないからって、恥ずかしがって仕舞いこむものじゃないんだって。
 理想が全て現実になるってことが、しあわせとおんなじじゃ、ないだろうし。
 だから、高いところに、掲げておいても、邪魔になんてならないさ。
 叶わなかったからって、恥ずかしいことじゃない。
 理想(イデア)は、遠くへ、おいておけばいいんだ。
 絵空事でいいから。


 俺はね探偵に憧れてんの。いつかそれで探偵御殿建てるんだぜ、と突拍子もないことを高坂が言った。
 何を馬鹿なことを。そんなの、どうするんだ。
 第一そんなに稼げる商売とも思わないけれど。
 渋面をつくった。
 わかんねーな、朝日クン。それが理想なんだろ。
 こうなったら一番素敵ね、っていう話なんだろう。
 手段とか目的とか、そんなもんはいいんだよ。非現実でも。
 こうなったら一番素敵ね、って。
 顔を上げていられたらそれで。
 十分なんだ。

 金とか、今の状況とか全部無視して、ほしいものとかないのかよおまえ。
(カメラ)
 脳裏に、一瞬で浮かび上がった。
 福沢諭吉を大量に家出させる額の、高性能のやつだ。
 でも無理だ。そんな金どこから。
 働こうにも、俺は今、外に出るのがこわい。
 無理をしてもすぐに弊害が出る。
 立ち上がれなくなったり、眠ったまま起きなくなったり、またこの腕を噛んだりするだろう。
 だから、今の俺には無理だ。

 だから、いつか手に入ったら、素敵だろ。

 今の状況じゃ絶対に無理でも。
 いつか、どうにかして、どういうわけか手に入ったら。
 素敵だろ。
 宇野は真面目だから、堅実に手段を考えるんだろうけどさ。
 いつか、この手に入ったら。
(素敵だな)と思った。



 ときたま高坂とはコンビニで会う。
 他愛のない世間話をする。
 いつか、一緒にメシ喰いにいこう、と高坂がいう。
 今のところ、実現の予定はない。
 俺はまだ、昼間の外出や、人々の視線や笑い声が、こわい。
 腕から噛みあともなくなっていないし、時折は、泥のように何十時間も眠ったりする。
 チャットには行かなくなった。
 それでもまだ、パソコンで買い物を続けている。
 小さいことが変わったようで、大きなところはまだ何も変わっていなかった。
 焦りもするし、泣きたくもなれば、突然怒りたくなったり。
 変わっちゃいない。

 ただ、いつか。
 大枚はたいて、ぽん、と。
 高性能のカメラが手に入ったら素敵ね、と思う。
 いつになるかは分からないけれど。


 玄関で靴を履く。
 スニーカー。
 端の汚れた紐を結ぶ。
「朝日、出かけるならお酢」
「わかった」

 横に放り出してあった財布と携帯電話を拾い上げる。
 時刻は、夜の八時。

 闇の底で、必死にもがいて泳いでいる。
 浮かび上がっているのか、沈んでいっているのか。
 まだ今は分からないけれど。


 いってきます、と声をかけると、台所のほうから、母親が答えた。
 いってらっしゃい。


 めざす水面ははるか遠くに見えている。




<了>

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