グッドバイ
―――寒いから、体に気をつけて。お父さんもいつも貴方の心配をしているんだから。
1.
はたして。
あの日、受話器を取ったほうが良かったのか否か。
「俺には分からんのだよ」
つめたいカウンターのおもてに右側の頬を押し付けて、ぼやいた。
「なんですか、唐突に」
呆れ成分をふくんだ声が、後頭部に降ってきた。
つむじを向けているほうに、連れが座っている。
ライターを使う気配を、背中で感じる。
「結果的に俺は、傷つけちまったんじゃないのかな」
説明もせずに、勝手に話を進めても、大学時代の後輩は黙っている。この男はこういうやつだ。余計なことは何も言わない。
紫煙を吐き出す音に、俺はようやく体を起こす。
馴染みのカウンターの奥には洒落たインテリアと敵対するような額縁がひとつ、かけられている。
勧 君 金 屈 巵
満 酌 不 須 辞
花 発 多 風 雨
人 生 別 離 足
有名な漢詩だ。
日本じゃ、井伏某がつけた訳の方がだいぶ有名だろう。
「吾妻先輩」
大学時代なんて最早遥か遠くに過ぎ去ったのに、律儀にこいつは先輩、と呼ぶ。
カウンターについた頬杖の先で指を絡め、その上に顎を乗せて、目線だけを右隣に向けた。
「愚痴るために呼び出したんですか」
丁寧なのは言葉だけだ。呆れた様子を隠しもしないで、男は短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
「俺はなぐさめてほしいのだ」
真剣に、言ってみた。
軽蔑の眼差しが帰ってきた。
「それだったら、もっと色気のある相手を選んだらどうなんです。俺だっていつも暇なわけじゃない」
「ばかだなぁ」
セブンスターの箱から一本、引きずり出して火をつける。
罵倒された相手は、明らかにむっとしたらしい。大人しめな外見をしておきながら、この男は案外短気だ。
「女性の前では醜態を晒したくないじゃないか」
とたん、興味を無くした様子で後輩の成瀬一馬という男は深い溜息を落とした。
「さっきの話、別に先輩が落ち込む必要なんてないじゃないですか」
「……だっておまえ、せつないだろう」
「別にあなたが、ひどいことをしたわけじゃない」
きっぱりと言う。
わかってるよ。
口の中で、つぶやいた。
だけどおまえ、やりきれないじゃないか。
「本当のことを突きつけられるだけが、しあわせってわけでもないだろう」
正しいことばかりがやさしいわけじゃないだろう。
時折は、間違っていると分かっていても、ぬるま湯のほうが心地いいときもある。
何か思うところがあるものか、成瀬はグラスを持ち上げたまましばらく黙っていた。
「―――でもね、先輩」
癖のない漆黒の髪と揃いに見える瞳とで、グラスの内容物(なかみ)の色を透かすように眺める。
「いつかはみんな、認めなければいけないものだよ。清も濁も」
“あるがままを”。
そうかなぁ、と俺は思う。
心が疲れているときは、やさしい幻の方が心地よくはないだろうか。
いつだって、完璧に強いままの人間なんて、嘘だろう。
「時々は、さ」
唇を舌先で舐めると、苦い味がした。
成瀬が伺うようにこちらを見ていた。
「時々は、夢を見たってバチはあたらんだろうに」
後輩が、目元を含ませるように緩めて、苦い笑みを作った。
「本当に先輩は、ロマンチストでやさしい人だな」
そうなのかな。
「折角繋がった一本の線を、無慈悲に鋏でばっさりやるこたないだろう」
少なくとも、俺はそう思うのだ。
*
奇妙な電話がかかってくるようになったのは、一ヶ月ほど前からのことだ。
一応モノカキを生業にして、食いつなぐぐらいは出来ている生き物は、世間一般の偏見を体現するかのように夜型の生活を送っていて、その奇妙な電話にはじめに気がついたのは、真っ暗な室内に灯る赤い点滅を目の当たりにしたからだった。
つまりは、留守番電話だった。
ふらふらと特に目的もなく散歩に出かけて帰ってきてみたら、部屋の隅でFAXつきの電話機が意思表示をしていた。
窓からは、マンションの直ぐ傍にある街灯の、目に悪そうなオレンジ色が差し込んでいる。うすぼんやりと橙に照らされる室内を横切って、赤く点滅するボタンを押した。
一件 です。
―――チエ? お母さんです。
落ち着いた女のひとの声が流れてきた。
五十代ぐらいの、品の良さそうな家庭的な母親を連想する。
あら。また間違い電話かしらん。
口の端に煙草をはさんだままで、なんとなくやりきれない気持ちになったりする。
何の因果か、うちの電話はよく間違い電話の標的にされる。
電話を取るなり、「工作機の話だけど」と切り出されたこともあれば、今回のように留守番電話に「高橋さん、緒方です。午後一時からの会議ですが、場所が別のビルに変更になりました」という切実なものまで。
直接俺が取ったのであれば間違い電話と訂正できたんだけれどな。果たして、タカハシさんは会議に間に合ったんだろうか、とか。要らぬ心配をしてしまったりする。
俺は、擦れ違いが嫌いなのだ。
ひとの、好意と好意とが、うまく重ならないことが嫌なのだ。
そんな”ねじれ”を目の当たりにすると、遣り切れない心持ちになる。
―――学校の調子はどう? 今度の休みには帰ってこられそう? おうちの桜も綺麗に咲きそうよ。また電話するわね。
午後八時三十二分 です。
首をめぐらせて、デスクの上の液晶時計を見る。
一時間ほど前だった。
なんだか急に、くすぐったい気持ちになってしまった。
母親からこのような電話がかかってきたことは殆ど皆無だったから、自分に向けられたものじゃなかったのに、気恥ずかしかった。
やさしさを横取りしてしまったような気がして、チエさんに申し訳なくも思った。
間違っている、と。
ねじれていると教えてあげられたらよかったけれど。
煙草に火をつけると、暗闇にホタルのように高熱の火がひかった。
その日はそんなに気にしなかったけれど。
2.
一件 です。
―――チエちゃん、今日もバイトかしら。
数日置いて、また同じ人の声が留守番電話に録音されていた。
またしても、リアルタイムに電話を取ることは出来なかった。
その日を境に、ねじれた電話はコンスタントに録音されるようになった。
―――お父さんが、何か必要なものはないか、って言っているから、何かあったら電話頂戴ね。
何度も録音される、一方通行の留守番電話。
俺は次第に、違和感を覚えていた。
なにかがおかしい。
あれだけ何度も声を届けても、なんのレスポンスもない娘に、お母さんは不安にはならないんだろうか?
それとも案外そんなものか?
便りがないのは良い便りというけれど。
俺の場合は数年前に母親が亡くなってからは、実家とは本当に疎遠になってしまった。男というのは存外、身内と連絡を取るのが気恥ずかしいイキモノなのだ。
俺も親父も良く似ている。近況は気になるけれど、受話器をはさむと途端に会話がなくなってしまうもんだから、母という通信士を失ってからは、滅多に電話をしない。
仲が悪いわけじゃないんだけれど。根がズボラなものだから、ほうっておくと本当に連絡をしない。
母は律儀だったな、と思う。しばらく音信不通になると、なにをしてるの、と怒られることもしばしば。
それが二十歳をおおきく回っても続いたものだから、少しばかり過保護なんじゃないか、と思ったりもしたものだけれど。
なくなると、存外寂しいものだ。
親父はどうしているんだろう。
実家はそれほど距離を隔ててるわけでもないが、いつでも行ける場所というものはなかなか行かないもんだ。地元の観光名所とおなじ。
今は小ぢんまりとした一軒家でひとりで暮らしているはずだ。
たまには電話をしてみるのもいいものかと思った。
昔は無理にでも、話をしなければいけないような気がして、なんとなくどちらも話を切り出せない沈黙が居心地悪く感じたこともあったものだが。
線が繋がっているということが、一番大事なのかもしれない。
元気? とか。他愛ないもんもいいな、なんて。
年取ったかもしれん。
*
「ということで、俺は次の日待ち構えることにしたのだ」
左腕の頬杖に顎を預けて、俺は額縁を睨む。
―――コノ杯ヲ受ケテクレ。
「先輩らしいですね」
褒めているのか貶しているのかいまいち分からない相槌を、後輩が寄越した。
「俺は家族の思いやりというやつに弱いんだよ」
子どもってやつは、時折それを鬱陶しく思ったり払い除けたりしてしまうもんだ。ふと我に返って顧みて、自分の仕打ちに後悔したりもするものだ。
だけど親の愛ってやつはどういうわけか傾いたり逸れたりしないから凄い。
人並みに拗ねたり反抗してたりしていた頃は、どうして見限らないのだろうと不思議に思っていた。今でもそうだ。
人の親にでもなれば、理屈抜きで会得できる慈愛だろうか。
すげぇイキモノだ。
とても同じ血肉で構成されてるような気がしない。
兄が結婚するとか、言っていたっけな。チエちゃんのお母さん。
思い返すと、せつない。
どんな気持ちで受話器を握ってたのか。
俺は蜘蛛の糸を切ったのかも知れん。
「そのな、チエちゃんのお母さんというのがな、本当に優しいひとなのだよ」
グラスの中で氷が涼しげな音を立てる。
「おだやかで、言葉の端々が柔らかいんだ。母親の電話の見本、みたいなんだ」
ちゃんと食べているのか、とか。
風邪はひいていないのか、とか。
一方通行でもかまわないような、なんの報いも求めないような絶対的な。
慈愛。
「チエちゃんが大好きなんだろうね」
からりん。耳に涼しい音色。
「俺はそんなに今まで、誰かに骨抜きにメロメロになったことがないな」
「恋愛(それ)とはまた別の話でしょう」
「そこが第一歩だろ。家族ってのは初めは他人だからな」
「……それなら俺も、覚えはないかな」
苦い顔で成瀬が笑う。骨抜きになるぐらいの衝撃は、知らないかな。
「お互い、冷酷ないきものだよ」
自嘲気味に吐き出せば、隣でかすかな笑いが答えた。咽喉で。
「どうするんだろな、そうなったら」
骨を、抜かれたらさ。
「想像できないな」
自分よりも、何よりも、相手を尊重するという。そうせずには居られなくなる感覚なんて。
味わったことがないもの。
正直に、後輩が白状する。
「でも、いつ事故に遭うか分かんないよな」
氷が溶けて薄くなったアルコールを咽喉に流し込んだ。焼けるような熱が咽喉を通り過ぎる。
そう。事故に遭うように。
何かと唐突にぶつかることもあるかもしれない。
「そしたら全部、投げてもいいとか思うのかねぇ」
「怖いなぁ」
まるで他人事のように、成瀬は笑ってみせる。
かかわりがない次元の話のようだ。
分かんないぞ、と思った。
いつどこで誰が、何かとぶつかるかなんて、誰にも予測できないんだ。
俺も、おまえも。
無条件に何かに注ぐ慈愛だとか。
うっかり覚えちゃったりするのかもしれないよ。
「……ってか、これが二十代も半ばを過ぎた男ふたりの会話か」
ふと、思い返してげんなりとした。
「色気の欠片もないってこういうことですね」
あっさりと同意するぐらいなら途中で止めなさいよ、ほんとに。
「案外冷めた答え方をするやつに限って、娘とかにメロメロになったりするんだよな」
「何の話ですか、それ」
厭味に返す言葉は、取り付く島もないものだ。
冷たい男だ。昔から。拗ねたくなる。
「それで、どうしたんです?」
あまり見かけない黒い煙草の箱から一本、取り出して後輩が促した。
ああそうだ、奇妙な留守番電話の話だったっけな。
*
―――お兄ちゃんが、結婚することになったのよ。
そんなメッセージが吹き込まれた次の日、俺は一日オフであることをいいことに、どこにも出かけずに、電話を待っていた。
決まってかかってくる時間は八時頃。
時計の針が八に近づくにつれて、柄にもなく緊張し始めた。
数度繰り返して聞いた留守番電話のメッセージを思い出す。
―――あなたにも見てほしいって言ってるわ。貴方とお兄ちゃん、年が少し離れているから、喧嘩なんかしなくって、仲良しだったものね。最近旧いアルバムを見つけてね、チエが三つぐらいの。
何かが、おかしい―――。
違和感に、芝居がかったように腕組みをする。そうすると、なんとなく考えている気分になる。
首を傾げて、顎を撫でる。
いくらなんでも、兄が結婚するという一大事に、レスポンスがなくていいのか?
焦ってもう一度ぐらい、メッセージを入れてもいいだろうに。
そもそも何で家の電話なんだろう。
今時の子だったら携帯電話ぐらい持っているだろう。
届かなくっても、いいのか?
ふと、そんなことを思った瞬間に、着信音が鳴り響いた。
今の家庭用電話は、携帯のように呼び出し音にメロディを使えたりするらしい。もちろんこいつにもその機能もついているんだろうが、変なところ古風とよく言われる俺はそれが気に食わない。
だから、デジタルの耳に馴染んだ音が、暗い部屋に鳴り響いている。
液晶画面がバックライトで黄緑にかがやいて、着信を知らせている。
手を伸ばして、ためらう。受話器に手をあてたまま、しばらく待った。緊張していた。
六コールで、留守電に切り替わった。
《もしもし》
聞きなれた女の人の、柔らかい声が流れてきた。
穏やかで、深い。
受話器を持ち上げた。
「もしもし」
受話器の向こうで、明らかに息を飲む気配を感じる。
「あの、吾妻というものです」
チエちゃんのお母さんは黙っている。
「随分前から留守番電話を受けとっていたんですけど、タイミングの問題で出られなくって。お掛け間違いじゃないかと……」
《ごめんなさい》
震える声が返ってきた。
「いいえ、平気―――」
《ごめんなさい、……知っていました》
平気です、とは言えなかった。知っていた、とはどういうことだろう。
小さく、嗚咽を堪える気配が耳に染み込む。
《貴方が使っていた電話番号、昔は娘が使っていたんです。息子の結婚が決まってから、思い出してダイヤルしてみたら、繋がって。別の人だろうと、分かっていたんです。ご迷惑をお掛けしました》
涙声だった。
俺は急に、いけないことをしているような気がしてきた。
この電話、取ったらいけなかったんじゃないだろうか。
俺が後悔していると、向こうはしばらく黙った後で。
《あの子はもう、いないんですよね》
呟いた。
俺は絶句した。
《分かっているつもりで分かっていなかったんです。どこかであの子に届いている気がしてた。あなたに電話に出ていただけて、ようやく目が覚めました。ごめんなさい。もう、ご迷惑はお掛けしませんから》
失礼しました、と。
告げて、彼女は電話を切った。
耳元で繰り返す、通話音をしばらく聞きながら、俺は呆然としていた。
彼女が留守電にメッセージを吹き込んだしっかりとした理由も、名前も、どこにいる人なのかも、何も聞いていないのに、自分がとてつもなく残酷に引導を渡したような気分になった。
ぎくしゃくと、硬い動作で受話器を置いた。
液晶のバックライトがふっと、消えた。
3.
はたして。
あの日、受話器を取ったほうが良かったのか否か。
その答えは、まだ出ない。
俺はせつなくって仕方がないのだ。
どんな思いで、お母さんは留守番電話に吹き込んでいたんだろう。
返事なんて、期待していなかったんだ。そう考えたら、あのメッセージ全てに納得が行った。
いずれは、認めなければいけないものかもしれない。
清も、濁も。
ただ、”あるがまま”を、”あるがまま”に。
現実を、しっかりと中央に据えて、生きていかなければいつかは歪むだろう。
それでも。
時々ぐらい、夢を見たって。
甘やかされたっていいんじゃないのか。
だから俺は、あの電話を取ったほうが良かったのか、分からずにいる。
ぼんやりと、額縁を見た。
洒落たバーの奥に陣取る、明らかに異彩をはなつ、毛筆体。
勧 君 金 屈 巵
満 酌 不 須 辞
花 発 多 風 雨
人 生 別 離 足
コノ杯ヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミ注ガセテオクレ
花ニ嵐ノタトエモアルゾ
サヨナラダケガ人生ダ
井伏鱒二が残した名訳は、色々なところで使われている。
さっぱりしているようで、前向きなようで、だけど、ねぇ。
「サヨナラだけが人生、なんて」
せつないじゃないか。
だから別れを悲しんでも、引きずっても、泣いても、喚いても、いいよ。
別れを繰り返してゆくのは、死んでゆくことが決まっている生き物である限り、しょうがない。
生きていても、どうしようもなくて擦れ違って、もう交わらない道もあるだろう。
だけど、一緒に笑ったことや、手を握ったぬくもりだとか、抱き締めたいと思った気持ち。
いとしさは。
風化しない。
だから別れは、いつだって苦しい。
「しょうがない人だな」
カウンターにまた、べたりと倒れこむと、成瀬が苦笑する。
うるせぇ。俺は繊細なんだ。きずついてるだよ。
「やさしい人は、困りますね」
本音なのか皮肉なのか、いまいち図りづらい言葉を、後輩は寄越した。
「ホントにな」
「あなたはでも、それでいいと思う」
なんだよそれ。
そのまんまの意味ですよ、と後輩は笑った。
サヨナラだけが人生なら。
みんなに、やさしくしてやりたいじゃないか。
最後に手を振ったら、みんな振り返してくれるように。
そう。
どうせいつか、サヨナラするのなら。
<了>
別れは、いつでも苦しい。
(20050529)