嘘吐の帰還







 あのころ。
 世界があたたかいだけでも、厳しいだけでもなくって。
 様々な人びとが色々な生き方をしていて。
 事実は小説よりも奇なり、なんていう言葉が示す意味を。
 分かっていると信じていた、あのころ。



1.

 死と再生のことを、近頃よく考える。
 いつか必ず、誰にでもやってくる、すでに決まっている未来のことを。
 魂がどうなるかなんて死んだことがないから分からないけれど、肉体の方はほうっておいてもいつかは土に還る。
 Resycle.
 Reっていう文字は「くりかえし」を意味するんだったっけかな。
 Rebirthとかも同じ使い方だった気がする。
 リ=サイクル。ふたたび、循環する。
 日常生活ではゴミと資源に対してしかつかわない言葉だけれど、改めて考えるとデカい言葉かもしれない。

 古代の人間は、一日の終わりを、太陽が一度死んで生まれ変わることだと思っていたんだっけな。
 復活。一度死んで、蘇る。
 不死鳥。
 ああ、磔にされてすぐに生き返った聖人の話もあるな。
 だが残念なことに、そんな素晴らしい奇跡は現実には転がっちゃいない。
 死と再生。
 いずれ誰にでも逃れようもなくやってくる、終わり。
 そのくせまったく怖くないのは結局、自分に訪れるってことを、分かっちゃいないのかもしれないな。
 
 とはいえ。
 別段哲学をしているわけではないのだ。
 死と再生、なんて観念的な言葉を使うから、高尚に聞こえるだろうけれど。
 つまりは今が三月で、卒業式のシーズンだとか、そろそろ桜が咲くだろうとか、そんなことを考えているうちに、死と再生とにたどりつく。
 価値観が変わるような奇跡はなくったって、花は毎年咲いて散る。散ってまた芽吹く。
 リ=サイクル。
 もしかしたら、旅立ちの季節にすこし、感傷的になっているのかもしれないな。
 生まれ変わりなんか信じちゃいないくせに、同じ季節に決まってうつくしく咲く花を愛でるんだ。
 吹雪のように散る花を果敢ないと憂うのは、どこかで自分もいつかそうなることを知ってるからだろうか。
 ああ、なんだか分からなくなってきた。
 結局死ぬのが怖いんだか、怖くないんだか。

 最寄のコンビニから自宅に戻る道すがら、買ったばかりの煙草の封を切る。
 少しばかり雨が降ってすぐに止んだから、アスファルトは黒く濡れているのに空はぴかぴかひかっていた。
 暖かな日差しが降ってくるのに、湿ったにおいがする。
 アンバランスだな、案外好きだ。非日常的な気配がする。
 マンションの手前、曲がり角で、煙草に火をつけるためにしばし立ち止まる。
 ひとくち紫煙を吐いてから慣れた角を折れて、それで。
 また立ち止まった。
 マンションの入り口の手前。数段の段差に、人影を見つけたからだ。
 一段目に立って、愛想のない建物を見上げている。
 気づけば、大股に歩き出していた。
 不審人物を発見した、わけじゃなかった。
 “見覚えがあった”。
 そして彼女は、ここにいるはずのない人物だった。
 乱暴な足音に気づいて、人影が振り返る。女の中では上背があるほうの、細い体が。
「遙」
 名前を呼んだ。
 背まであった髪がばっさりと短くなっていた。
 変わっていたのはそのぐらいだ。
 呼ばれて、彼女は少しだけ驚いたような、ほっとしたような、残念がるような、複雑な笑みを浮かべて見せて。
「やっぱりまだここに住んでたんだね、珪丞」
 はにかむように、悔やむように、つぶやいた。
「何かあったのか」
 よほど困ることでも、あったのだろうか。
 それ以外、彼女がここを訪れる理由がない。
 二年前までは、訪れる理由など要らなかったはずなのに、今は色々なものが変わってしまっていた。
 だってもう、別れてしまっていた。
 遠慮も理由も約束もなく、時間も関係なく連絡をつけたり、会ったりできる関係ではなくなっていた。
 面会に、手続きが必要な間柄に戻っていた。
 遙は色々な感情を混ぜた笑みをうかべたまま、少しだけ俯いて、腹を括ったように顔をあげた。
「謝りに来たんだ」
 右手に痛みを感じて、思わず挟んでいたものを取り落とした。
 一口しか吸っていなかった煙草が、根元までじりじりと燃えていた。
 まだ濡れているアスファルトに落下して、細い煙を上げる。
 動揺していた。
 靴の爪先で止めを刺してから、ふたたび遙に向き直った。
「何かあったのか」
 壊れたレコードのように繰り返す。
 謝る?
 心あたりがなかった。
 残念なことに、遠い昔の話になってしまっていて。
 細かいことは大分忘れていた。
 大規模な事件を除いて些細な諍いなんかは、かなしいことに、過去の話だった。
「わたしずっと」
 一拍、呼吸を置いて。
「あなたに嘘、ついたままだった」
 過去の恋人は、告白した。



2.

 他に好きなひとが出来た。
 ごめんね。

 記憶が確かだったら、最後に交わした会話はそんなものだったと思う。
 中学生の別れ話じゃないんだぞ。
 俺はどうやって答えたんだったっけか。
 物分りのいいひとの、ふりをしたような気がする。
 それこそ中学生じゃないんだってば。
 曖昧に頷きあって、結局のところ深入りなんてせずに、そのまま別れたんじゃなかったかな。
 あっけなく。
 さもお互い大人の顔をしていたけれど、実際はどうだったんだろう。
 好きなひとと、一緒にいたいんだ、と。
 だからもうこうやっては会えないと、君は去っていったはずなのに。
 それから数ヵ月後、風の噂で君が女の子とふたりで暮らし始めたのを聞いた。
 好きなひとと、一緒にいたいんだ、と。
 唯一絶対の真理のようにきっぱりと告げて、こちら側に背を向けたのに。
 一体どういうことなのか、すぐには判断がつかずに、しばらく何も考えられずにぼんやりして。
 そしてようやく、傷ついていることに気がついた。
 真実があるのなら、きっぱりと真っ向から投げつけてくれればよかったのに。
 当り障りのない、どこにでも転がっている理由のほかに、わけがあるなら。
 おおいかくさずに。
 だけど、今になって思い返してみれば、随分とムシのいい話だ。
 あのころはさも、自分が被害者のように思っていて、君を卑怯だと思っていたけれど。
 腕を掴まずに、あっさりと頷いた俺だって、随分逃げていた。
 こころが移ってしまったら、引き止めても仕方がない、なんてさ。
 物分りのいい大人のふりをしていただけで、大人ではなかった。
 もし、当り障りのない、どこにでも転がっている理由のほかに、わけがあるなら。
 他に、愛を傾ける相手が出来たわけじゃなくって、それでもつないだ手を解こうとするのなら、なにか、解きたい理由ができたってことだ。
 その理由を真っ向から投げつけられて、受け止められる勇気も自信もなかったから、大人の顔をして、踏み込まなかったんだ。
 保身をした。
 自分の意気地の無さを、自分勝手に棚上げして、君の嘘を憎んだ。
 弱虫だったからさ。

 君がついた嘘といえば、そのぐらいしか思い当たらない。
 それで今更何で、二年も経っているのに。
 解かれないままだった謎を今になって解き明かして、何かが劇的に変化するもんじゃない。
 二年は、短いわけじゃないよ。
 当時の熱情や未練なんかは随分、薄まっている。
 だったら君の望みは、一体何なんだろう。
 だから、「何かあったの」なんて訊いた。
 行き違いや歪みを訂正するのに、もう理由が要る。
 さっきはゴメンネ、と可愛らしく詫びて過ごすには、時が経ちすぎた。


 だけど今更、インスタントで悪いけど、と詫びる仲でもないのがむず痒い。
 社交辞令が要らなければ、沈黙を埋める術が無い。
 リビングのテーブルの上に、コーヒーのマグカップを置く。
 手持ち無沙汰になって、煙草に火をつけた。
 しばらく遙は黙って、ぐるりと部屋を見回した。
 見慣れているはずで、それでも所々不明な風景だろう。日々暮らしていれば気づかないけれど、おそらく大分変わっている。
「珪丞の本、ちゃんと買ってるよ」
 本棚に目を留めて、からかうように言った。
 それはどうも。俺を養ってくれて。ようやく自分ひとりを養える程度の職業作家として、礼を述べた。
 なつかしさを共有する顔でお互いに少し笑って、また黙った。
「わたしね」
 きっかり煙草一本分の間合いを取ってから、ようやく遙は口を開いた。
 まるで唯一のぬくもりであるかのように、マグカップを両手で包んでいる。
「オランダに行くの」
 リビングの隅に寄せてあるパソコンデスクに、自分のカップを置いた。
 ちょっと予想しない展開だった。
「向こうに住むの。来週発つから、もしかしたら会えるかと思って」
 ミルクも溶かさない黒い水面を見下ろして、普段の快活さからは想像できないぐらい、煮え切らない口調で紡ぐ。
 世間話のように、理由だとかを促せなかった。
 一体何処に嘘があって、どの道すじからそこに至るかが想像できなかったから。
 うっかり、落とし穴に嵌まってしまうかもしれない。
 恋情が薄らいでも、見えていなかった真実を突きつけられたら傷つかないわけじゃない。
 まだ、傷つくことを恐れている。
「向こうでね、結婚するの」
 一瞬、鼓動が止まった錯覚を覚える。
 ほら、一歩引いて防衛線を引いていたって、ちくりとする。身構えていたって注射は痛いのと一緒だ。
 結局、おめでとうは咽喉まで出かかって、言葉にはならなかった。
 茶化して流すことも、出来なかった。
 こんなとき、自分の不器用さを憂う。咄嗟に上手く取り繕えない。こんな正直さを潔いと褒めてくれるひともいるけれど、賢くはない。やさしくもない。
 唇の端で、遙は苦味を味わう顔をする。
「日本じゃあ、認められてないからね」
 認める?
 遙はコーヒーから顔をあげて、今度は真っ直ぐに、こちらを見た。
「結婚するの。―――女の子と」
 くわえかけた新しい煙草が、ぽろりとあっけなく床に落ちた。
 やけに穏やかな顔で遙は微笑しているから、身を屈めて煙草を拾うことも出来なかった。目を逸らせなかった。
「あのとき、本当のこと何も話さずに逃げ帰ったのに、今更になって気になりだして。ごめんね、わたしただ、自分がすっきりしたいだけで、今日も」
「”いつから”?」
 ようやく口にしたことといえば、そんな問いだ。
 一体、いつから。
「……たぶん、子どもの頃からあったんだと思うけど。自覚してなくって。男のひととも何人か付き合ったりしたけど、楽しかったりほのぼのするのが好きだってことだと思ってた。だけど」
 もっと醜い感情を、別の人間に覚えたのだ、と言った。
 通り過ぎる背中の、腕や肩を捕まえてしまおうか、だとか。
 他のひとと楽しそうに話す、その後ろ側から両目を覆ってしまおうかだとか。
 それは、狂気の沙汰だ。
 穏やかで、安定した日常とは違う。
 嫉妬だとか独占欲だとか、そんな名前を与えられたものを、体で識った。
 他人を縛りつけようとする貪欲さに触れて、ようやく、分かった。
「だから、男のひとと付き合って、ごまかしてたわけじゃないよ」
 先回りをして、フォローをしてくれた。
 隠れ蓑にしていたわけではないよ。
「あのときは珪丞のことが好きだった―――けど」
 それが、実は嘘だったのかもしれないねとつぶやいて、遙は俯いた。
 ショックじゃないか? そんなわけはない。
 相当混乱して、動揺して、へこんでもいる。けどね。
 それは嘘とは違うよ。
 だって謀るつもりなんてなかったんだろう。
 隠れ蓑にされていたんだったらね、腹も立つかもしれないけど。
 自覚のない嘘だったら、俺は罪は問わない。
 なんだ、それならあの時、すっきり言ってくれれば、なんて思って。
 やっぱり思い返した。
 違う。
 すべての感情が薄まっている今だから、不問にできるんだ。
 二年前のあのときに、唐突にそんなことを切り出されたら、どうしただろう。
 こんなふうに嘘なんかじゃないよ、なんて言えなかっただろうな。
 理不尽だ、なんて。
 頭に血がのぼって、とても冷静ではいられなかったかもしれない。
 あのころ。
 世界があたたかいだけでも、厳しいだけでもなくって。
 様々な人びとが色々な生き方をしていて。
 事実は小説よりも奇なり、なんていう言葉が示す意味を、分かっていると信じていた。
 だけど結局、猟奇的な連続殺人も凶悪なテロリズムも、ブラウン管の中でだけ行われているんだって、思っていたんだろう。
 おなじつくりの生きものを愛するってことも。
 寛容に認めているようで、頭の中に入っていない。シナプスになっていない。
 繋がらなかった。

 そういう生き方もあるよ。
 差別も偏見もないよ。
 認められている国もあるよ。
 理解のある”フリ”をして、ポーズだけとって。
 しっかりと根付いてなんかいなかったんだな。
 “身近にある”なんて、まさか、そんなこと。
 遠い世界の、別の人種だとでも思っていたのか。
 ファンタジーだと。
 偏見よりもひどい。

 だから、きみが。
 “他に好きなひとができた”、と言っていなくなって。
 女の子と暮らしていると耳に挟んだときだって、体よく逃げられたんじゃないか、なんて。
 思ったんだ。
 嘘を吐いてまで、逃げたかったのかな。
 そこまで嫌われるようなことをなにか、したのかな。
 元々人間的に、及第点をもらえるような性格でもないから、いくら省みたところで自分では見つけられない何かが、向き合うことを放棄させるぐらいの傷を。
 つけたんだろうか。そんなことばかり。
 真っ向からきみが、嘘を吐いていたんだって決め付けたりして。
 盲目だった。
 自分のものさしでしか測らなかった。
 きみは嘘なんか、吐いてなかったのにさ。
 無意識に狭量だった。寛大なのは上っ面だけだった。
 だからきっと、穏やかではいられなかっただろうな。
 間に横たわる、決して短くはない年月が冷静さを連れてくるなんて、皮肉だけれど。
 だけど今は、それは嘘じゃない、罪じゃない、と不問にできることを嬉しく思った。
 そうだよ、それに。
 俺はきみの、めぐりめぐって、結局潔癖なところが好きだったんだよ。
 まあいいか、となあなあにして通り過ぎた後で、結局振り返ってしまうような。
 不真面目に成り切れないところが。
 ねぇ、だから結局帰ってきたんだろう。

「おまえにとっては自己満足でも」
 ようやく身を屈めて、煙草を拾った。
「俺は随分すっきりした気分だ」
 多分、未練や恋情が風化しかけているから、割り切れるんだろうけど。
 悲観的なことはいいんだ。
 本当に、刺さったまんまだった棘が抜けた気分なんだから。
 俺の人間性が著しくきみを、傷つけたわけじゃなかったんだってことが分かっただけで、嬉しいよ。
「でもまぁ、二回ふられた気分だけどね」
 ようやく茶化すことができた。
 強張った顔をほぐして、ごめんね、と遙は苦笑して。
「……ごめん」
 くりかえしてから、両手で顔を覆った。
 馬鹿だなぁ、なんで泣くのよ。
 拾い上げた煙草をパソコンデスクに転がして、寄りかからせていた体を起こす。
 抱き締めることなら簡単だけれど、俺ときみの間にもう、そんな慰めは要らないんだろうな。
 さっきから、よろこんだり寂しがったり、いそがしいな。
 泣くなよ。
 拳をつくって、俯く頭をかるく小突いた。精一杯だな、これが。
「泣くなら俺でしょう。おまえはしあわせになるんじゃないの」
 マリッジブルーってやつですか。
 ちいさく頷いて、遙は顔をあげて。
「ホッとした」
 バツが悪そうに、視線を逃がした。



3.

 結局、連絡先なんかは聞かなかった。
 もうしばらくここに住んでいるつもりだから、その気があれば向こうからなにか届くだろう。
 だけどそんなことは、あんまり重要な問題じゃない。
 便りはあればうれしいものだけど。
 お互いずっと蟠ったままだったものを取り除いて、じゃあね、と言えたんなら、上等な別れだろう。
 なんにも感じていないわけじゃないし、そりゃあ切なさだとか、残ってはいるさ。
 たとえ、立つ鳥が跡を濁さぬように、彼女が自己満足に清算に訪れたんだとしても。
 ホッとしたのは、俺も同じだ。

 同じ相手に二度もふられるなんて、器用なひとですね。
 大学時代の後輩が、純粋に驚いた顔をして感想を述べたけれど。
 純朴だと言って欲しいものだ。
 たとえ情熱が高波をつくることはなくなっても、限られた時間でも、一緒に泣いたり怒ったりした相手だったらさ。
 心底憎んだりできないじゃないか。
 たとえふられたんだとしてもさ。どこかでずっと泣いていればいいなんて、思わないだろう。
 不幸になれなんて、祈らないだろう。
 どこかでしあわせでいてくれればいい。

 しあわせになりなさいよ、と送り出した。
 そっちもね、と切りかえされた。
 お互い笑って、手を振って、わかれた。
 それだけできみが一度ここに、戻ってきた意味は十分にあるよ。


 今年もやっぱり、桜は咲いた。
 約定を違えることはなく。理をゆがめることはなく。
 花は毎年咲いて散る。散ってまた芽吹く。
 いつまでも冬が続くなんて、嘘だろう。
 道端に雪が残っても、風はつめたくっても。
 いずれ、若葉は萌えて、花は咲く。
 季節も、こころも。



<了>

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