ラグナロクの午後
まるで、世界の終わりのような、赤。
1.
アンダーグラウンド。
音は耳ではなく肌にぴりぴりと触れる。
振動。
空気がふるえている。
ああ、さっきアンプの前にいったからかな。
左耳が良く聞こえない。多分数日で治るからいいけれど。
反響。ハウリング。チューニングの、弦を弾く音とか。
カオス。アルコールと煙草の煙と話し声とSEがずっと、空気に混じっている。
片側だけ、麻痺した鼓膜。ふわりふわり、夢の中にいるような。
「じゅん!」
五十センチほどの段差。ステージから飛び降りて、小柄な男が駆け寄ってくる。
「わー、久しいじゃん! なんだよ今日来てくれたの? チケット誰から貰った?」
買ったよ、ちゃんと入り口で。
「うそだ、まじで!? 言ってくれたら俺流したのにさァッ!」
「ノルマあるんでしょ」
渡されたぶん捌かないと、自腹になるんでしょ。そんなにチラシみたいにばら撒いててどうするの。いつも赤貧のくせに。
「バァカ! 元メンバーにぐらい奢りますよ何言ってんの!」
そうかそうかー、じゅんの目には俺はそんなふうに映ってたのか。
大仰に腕組み。大袈裟な溜息。涌井敦は、肩を落とすフリをする。
なによバンド馬鹿。人に奢ってるお金があるなら、まともにご飯食べなさいよ。
苦笑した。
「よかったよ。まとまってた」
「ほんと!? 珍しい、じゅんが褒めるなんて!」
「私は嘘をつかないだけです」
「なんかくすぐったいっすね、それ」
敦は首の後ろを掻く。
「うん。ヴォーカルさんの声も、よく通ってた。きれいだったよ」
思ったままに褒めると、元メンバーのギタリストはすこしだけ複雑そうな顔をして鼻の下を人差し指で擦る。
うん、と視線を落としたままで頷いた。
「サンキュ。あいつも、頑張ってんし」
私とあまり身長差のない敦の肩越し、向こう側。ヴォーカルマイクの傍にいる女の子と目が合った。
気まずそうに、会釈だけをして楽屋に消えてしまった。
「なんか、合ってる気がする。私の声より。藤田さん、だったっけ?」
楽屋に引っ込んでしまった、あの子。
「じゅん、俺さ、じゅんに酷いこと言ったと思ってんだ、今。あのとき、すっげ、焦ってたからさ。うまくなんなきゃって必死だったからさ」
「いつまで気にしてるの、小さい男」
右手で拳を作って、ギタリストの左肩をすこし強めに打った。
「私も今、頑張ってるし。気にしてるんなら、端からライヴなんか見に来ないから。あてつけに来たんじゃないから」
「ごめんな」
「そんな話したくて来たんじゃないんだって。新しいアルバムできたから、買って」
「うわ、営業!?」
「転んでもただじゃ起きないの」
「じゅんちゃん相変わらず」
ようやく、気まずそうな表情をとっぱらって、敦が笑った。
そう。あんたはニギヤカ担当なんだから、ただの音楽馬鹿なんだから、他のことで悩んでたらバンドが傾くでしょ。
そうやって、サル顔で笑ってればいいんじゃん。
そのほうがいいよ。
「私、好きだなって言っておいて」
パソコンで焼いたCD−ROM。レコード会社のバックもないアマチュアバンドではこれが精一杯の自主制作。敦に押し付けて、代わりに漱石をせしめる。
「へ?」
間の抜けた聞き返し。
ああ、ごめんね。赤貧から漱石なんか貰っちゃって。
「藤田さんに。私、あなたの声好きだって。伝えておいて」
敦はもう一度鼻の下を指先で擦る。癖だ。
「サンキュ。伝えとくわ。帰るの?」
「明日朝から練習なの」
「がんばれよ」
お前もな。
軽く、拳と拳をぶつけて、踵を返した。
ライヴハウスの、もう大分客の引いたフロア。扉が開く。
「久方ぶりッス」
すこし照れた様子で片腕を持ち上げた男。
ライヴハウスの時間が、一瞬止まった。
「センパイ!」
私のすぐ傍を、敦が風のように駆け抜ける。
「センパイ久しぶりじゃないっスか! もう、見舞いにも行かせてくれないから俺すっげぇ心配してたのに!」
忠犬よろしく、敦は来訪者に抱きついた。
淡い茶の髪が、記憶よりも短くなっていた。最後に会ったときには、肩の下あたりまで伸ばしてたのに。
形から入るのが好きなギタリストだった。
悪い悪い、167しかない敦の頭を、犬にするように撫でてから、乱入者はこちらを見た。
「久しぶり、潤」
すこしだけ、痛みを堪える顔をして。笑った。
大野博貴。
私が、半年に別れた男だった。
*
「じゃァ、センパイの全快を祝してェ!」
カンパーイ。
チェーン店の居酒屋に、何故か一緒くたに連れてこられてしまった。
ちょっとだけ、じゅんもちょっとだけ、と敦に引きずられてきた結果だ。
一時間ぐらいいたら、帰らなくちゃ。
声が。咽喉が嗄れてしまったら、明日の練習なんて行く意味がない。
歌い手だから。
私の、楽器だから。
大事にしないと。
「あのォ」
控えめな声が、右側から聞こえた。
可愛らしい声だった。
「あ、藤田、さん」
気がつけば、隣にヴォーカリストが座っていた。
こちらの顔色をうかがうように上目遣いだった。
「あの、はじめまして」
体半分、こちらに向き直って深く頭を下げた。
白っぽい金髪だった。
十八だって、言っていたかな。
かわいかった。
「あの、わたし、頑張るんで!」
まだお酒も飲み始めたばかりなのに、頬が上気していて、ほんのり赤い。
こちらに身を乗り出して、真摯な目で、言った。
「わたし、一生懸命頑張ってるんで。麻生さん」
テーブルが、一瞬静まる。
まるで、愛の告白をするような必死な顔だった。
「分かりました」
押し流されるように、それだけしか。返事はできなかった。
強張っていた藤田さんの顔が、徐々に崩れるように緩んだ。
左手を胸に当てて、ハァ、と深く吐息を零す。
「よかったァ、わたし、麻生さんに無視されたらどうしようとか、思ってた」
「どうして?」
心底安堵した顔をするので聞き返した。
「それは、だって」
藤田さんは口篭もった。
以前、私とこのバンドのメンバーに起こった悶着を気にしているのだろうか。
確かに、それが原因で落ち込んだこともあったけれど、それはなにも彼女のせいではないし。
私の中では既に、カタのついた話だった。
「どうせアツシが、潤は怖いとか言ってたんでしょ」
グラスの中の氷を揺らして、博貴が、ぽつりと言った。
「ええっ!? なんでセンパイ、俺!?」
斜め向かいで敦が腰を浮かす。
そうそう、敦は潤に弱いから。
平伏だから。服従だから。
四方から笑い声が上がった。
“元”バンドメンバーが、笑っていた。ぎゃはは。
そりゃ俺そーっすけどォ。だって、じゅんいつもきびしいんだもん。
負け惜しみみたいに、敦が怒鳴った。
また笑った。
私の隣で、藤田さんが、小さく噴き出していた。
センパイもーォ、意地悪いっスよー。
敦はねぇ、イジりやすいんだって。頭も撫でやすいしー。
そうやって、頭撫でるのやめてくださいよーマジで!
子どもみたい。
子どものじゃれあいみたい。
そんな容易いことで、空気なんてすぐに変わる。
やさしい温度が、空気に溶けていた。
「じゃあ、私はそろそろ帰るから」
グラス一杯を空にして、席を立つ。いくら置いていったらいい?
「えー、もう帰るの?」
「潤ちゃん久しぶりなのに」
だから、明日朝からスタジオなの。
アアー、そりゃしょうがないよね。いいよ、一杯だからそのまま帰んなよ。
チケット買って入ったんだろ。キャッシュバックってことで。
四方八方から喋られて、なんだか丸め込まれた。
そう、それならいいや。
出しかけた、敦から徴収した漱石を財布に押し込める。
「んー、じゃあ、俺も。帰るわ」
意外な男が席を立つ。
「センパイ主賓なのに!」
「俺がいなくても打ち上げしたんでしょ。そうやって引き止めようとしたって、ダメ」
博貴だった。
左手でぽん、と敦の頭を叩いて財布から諭吉を。敦に渡した。
「悪いっスよ」
握り締めた福沢諭吉に、敦が顔をしかめた。
「オツカレってことで。年長者には甘えとけ、極貧ども」
すがすがしく言い放って、上から敦の手を押さえつけた。
すいません、と敦が頭を下げた。
「じゃ、帰るか、潤」
こっちに向き直ってそんなことを言う。
ちょっと待って。私いつの間に、あんたと帰ることになってんの。
「あ、そっか。そうですよねーぇ」
諭吉を握り締めて、敦がうれしそうな顔をした。
なによそれ。
センパイがんばってー、がんばっちゃってー。
変な応援に送り出されるようにして、居酒屋を後にした。
今度会ったら、一発殴ってやらなくちゃ。
*
「結局、『バブルス』辞めたんだ?」
ひさしぶりに、並んで歩く。
「うん。敦に、お前の声じゃダメだって言われてね」
お前の声じゃ、もうだめなんだよ。俺、弾けないんだよ。
「相変わらず直球で酷ぇやつだな、あいつは」
「へこんだ。すこし。でも、薄々感じてはいたんだ、ずれてるの。だけど、ずっと一緒にやってきてたから、あそこを抜けることが全部終わりみたいに思えてたし、歌にも自信がなくなったし。歌うのも辞めようかと思った。けど」
「けど?」
「結局今は、別のバンドで歌ってる」
「やっぱり」
最初から全て分かっていたことのように、博貴が笑った。
潤は、歌が命だからねぇ。
すこし遠くを見るようにして、言う。
遠くを見るときの、目を細める顔が、私は好きだった。
「ああ、潤、申し訳ないんだけどさ」
十字路を、左に折れようとする。そっちに曲がると駅まで最短距離だ。
「すこし遠回りしてくれない。急いでるなら無理にとは言わないけど」
「え?」
「俺、正直なところそっちの道、まだ怖いんで」
情けない男で悪いけど、と自嘲気味に笑って、言った。
ああ、そうか。ごめん。
気がつかなかった。
通い慣れた、馴染みのライブハウスへの道程。
帰り道も体にインプットされていて、自然にそっちに曲がろうとしていた。
ごめんね。
博貴が事故に遭ったのって、この先の交差点だったよね。
ごめん、気がつかなくて。
2.
バイクで。
センパイが。
車に突っ込まれて。
救急車で今。
練習中のスタジオに駆け込んできた敦の第一声。
閃光が目の前で爆発して、ほとんど何も考えられずにスタジオを飛び出そうとする。
その腕を後ろから敦が掴んだ。
送ってく。
大丈夫、大丈夫だから。
それしか言葉が出てこなかった。
馬鹿野郎お前、そんなふるえてんのに。
ふるえていることに、自分で気がつかなかった。
あんたの手だって、ふるえてる。のに。
その日の記憶は、曖昧にぶつぶつと途切れている。
気がついたら、病室の、ベッドの横に立っていた。
体中に包帯や湿布を施されていたけれど、足の骨を折っていたけれど、命には別状はない。
右腕に、過剰なほどに包帯と添え木があてられていることを除けば。
患者は虚ろに、天井を見ていた。
冗談。
声に笑いを混ぜ込んで、つぶやく。
嘘つけ、そんなの。
嘘だろ。
嘘だよな。
嘘だって言えよ。
右腕に、力を入れようとして、挫折する。
ふざけんじゃねぇぞ!
叫んだ。
ふざけんな、足も目も要らねんだよ、使えなくたって。
右手が使えなきゃ!
意味が、ない。
ギターが。
弾けなきゃ。
嘘だろ。
愕然と、こぼして。
私から顔をそむけた。
*
右腕が。指先が。一番ひどいですね、と医者が言った。
握力が、多分戻らないと思いますよ。
日常生活がこなせるレベルに戻すのが、精一杯だと思います。
ギター? 難しいでしょうね。
*
死んだほうがマシだ。
あの時死んじまったほうが、マシだったんだ。
やつれた顔で、くりかえす。
あんたそんなこと、と上京してきていたお母さんが涙ぐむ。
生きてるだけで、儲けもんだと思わなきゃ。
もう少し当たり所が悪かったら死んでたってお医者さんも。
お前に分かるかよ! 右手が使えねぇならっ……。
怒鳴り散らそうとして、お母さんの目が涙を湛えているのを目の当たりにして、語尾を飲み込む。
帰ってよ、今日はもう。悪いけど。
顔をそらす。
明日また、来るから。
数日のやりとりで慣れてしまったのか、お母さんは手早く荷物をまとめ始めた。
また明日、と私も言った。
返事はなかった。
ごめんなさいね、麻生さん。
でもあの子本当に昔から、ギターだったから。
ギターしかない子だったから。
駅までの帰り道、お母さんが謝った。
理解者だったって、言っていたっけ。
周囲の誰が反対しても、お母さんだけはいつも、自分の側にいて。
口煩くはしても、ゆるしてくれたって、言ってた。
そのことを、とつとつと伝えると、お母さんは目頭を抑えて笑う。
だってあの子、頑固なんだもの。
あのひとに。
ギターしかないことぐらい、私にだってわかっていた。
私にだって、結局は歌しか残らなかったように。
命を削ってもいいと思うぐらい、何にも代えられないぐらいに愛してくるってどうしようもなくなっていることぐらい。
私がもし、ある日唐突に、声を奪われたら。
理不尽な理由で奪われてしまって、歌えなくなったらどうしただろう。
想像がつかなくて、やめる。
なくなるなんて。
歌えなくなるなんて。
そんな恐ろしいこと。
その只中に、博貴はひとりで、いるのだ。
急に放り込まれて、置き去りにされている。
きっと、私の手もとどかない。
分かったふりで、なぐさめたり。
そんなことはできなかった。
それは偽善だ。自己満足だ。
必死で彼氏思いの女を演じて酔うだけだ。
私は、人から見ると無表情であるらしい。
黙っていると、なんで怒ってるの、と怯えられることもある。
ただ黙っているだけだというのに、それはなかなか理解されない。
たまにさおまえ、何も考えてないだろ。
不躾に指をさされた。不機嫌になったので、睨んだ。
それが、初対面の対バン相手にいうことなのか。
だから、第一印象は最悪だったのだ。
イキいいな、おまえの彼女は。
睨んだら苦笑して、敦に向き直る。敦の先輩だった。
ええっ、違いますよ、じゅんは。
何、ちがうの? おまえが散々話題にするからてっきりそうだと。
センパーイ、頼みますよォ。
ごめんごめん、と。あまり誠意のない謝り方をして、巷でも噂になるギタリストは、右手で、敦を小突く。
じゅんはー、だって、うちの看板だから。そりゃ自慢もするよ、と。
敦が笑って言う。うれしそうに。
うちの看板だからって。
まだ、胸張っておどけていられた頃。
辞めてくれ、なんて言われる前。
あの頃は何でもすぐに笑い話になった。
あのさー、例の。女ドラムのバンドさ。
うん。
解散したみたいよ。ケンカして。
うそ、たいへんだねぇ。
俺らはさーァ。平気だよな。頑張るし。
うん。
言いたいこと言ってるし。
そうだね。
このままで、イケる。よな。
うん。きっと、大丈夫。
大丈夫って。
保証のないことを信じていた。
楽しかった。
言いたいこと言ったから、ばらばらになるなんて。
そんなのすこしも、気付かなかったんだよね。
まだ庭の中だ。幼稚園の。夢だらけの。
箱庭にいた。
何にだってなれた。
思うように歌えなくなったのは、それからすこし経ってからだった。
少しずつ、なにかが決定的にずれて、亀裂がうまれて。
それでも必死に軌道修正をかけようとしては、挫折して、泣いた。
初めてまともに組んだバンドだったから、そこを失ったらなにもかもなくなってしまうような気がして、必死に。
笑えていた頃のことを思い出そうとする。
必死になって、体中こわばるから、またうまくいかないのにそんなことを繰り返す。
涙を堪えると、声がつまる。声がつまると、歌えなくなる。
歌えないなら、意味がないんだ。
負けず嫌いが、何泣いてんの。
スタジオからの帰り道にはちあわせたのは、不躾な男だった。
関係ないです。
小さないさかいがあった。
でも、誰にも情けをかけてもらいたくなかった。
どうせ歌しか歌えないんだろ。
そんなこと、はじめから知ってるんだとばかりに言った。
俺にだって、ギターしかないし。
なら、歌えよ。黙っててもしょうがないじゃん。
俺だって、弾かなきゃ。
弾けなきゃ意味ないし。
そうだ、私は結局、歌えなきゃ意味ないんだ。
歌いたい。
すとんと、答えが落ちてきたら、泣けた。
人前で泣くのは嫌いなのに。俯いて、嗚咽を噛み殺す。
そしたら、黄金の右手が。そう公言して憚らない、嵐のような旋律を生む右手が、俯いた私の頭に乗った。掻き乱した。
そのちからを。乱暴さを。
ほしいと思ったのは、そのときから。
*
うまくいかなくて、ずれて、齟齬がうまれる。
亀裂とか、断絶とか、何か決定的なものが、横たわっている。
一緒にいて疲れる。そんな日が来るなんて想像したこともなかったけれど。
「クスリって、トべるとおもう?」
「何言ってるの」
事故から一ヶ月後。半ば無理矢理退院して、自宅療養に切り替えていた。
最近は会話も減った。
窓際に寄せたベッドの上で空を見ている。
体の横に、重装備の右手を下ろしたままだ。
「前に捕まった友達が」
視線は窓の外。
部屋の中にはギターとアンプと譜面と、ピックなんかが無造作に転がっている。
逃げるように、視線は窓の、外。
「オヤジが死んで、色々ドン詰まりになっても笑ってたから。楽かと思って」
「本気で言ってるの」
「馬鹿、嘘だよ」
口の端を歪めるように笑う。こっちも見ずに。
嘘だよ、というなら。目を見なさいよ。
言えなかった。
そんなごまかしで、いいの?
ジャンキーに、なんて。そんなの逃げてるだけだよ、と。
言えなかった。
そんな本当のことも面と向かって言えないぐらいに、気付けば亀裂は深く広くなっていた。
勇気で飛び越えられない。
ちょっとしばらく、会うのやめよう、と。
言い出したのはどちらのほうだったから分からない。
ただ、お互いに何の反論もなくすとんと納得したということは、肌で、すれちがいを感じていたからかもしれない。
日常生活、大丈夫なの。
それだけ、聞いた。
なんとかするし。
返事はそれだけで、終わってしまった。
うん。分かった。
気ィつけて帰れよ、と。とん、と小さく肩を小突いた手は、左手だった。
泣きそうになったから、急いで立ち去った。
こいつの前だったら泣くの平気かも、って思ったのは、いつのことだったかな。
そんなに昔じゃないはずなのに、太古のことのような気持ちがした。
*
短い電話とか、メールとかの交換だけなんて。
そんなの本当に、付き合っているというのかな。
会いたいとか、思うけれど。
会うのが怖いとか、思う。
何か決定的な差が間にあるから。
それがなんなのか、うまく言葉にはできないけれど。
だけど、あの日は無性に顔が見たくなって、夕焼けがきれいだったからとか、そんな理由だけど。
会いたいと、思ったから。
アパートまで行った。
貰ったままの合鍵で玄関を開けて上がりこむと、西日の差し込んだベッドの上は、赤く染まってきれいだった。
おそろしいぐらいの夕焼けだった。
そんな日差しが注ぐベッドの上に、いる。あたりまえのように。
窓の外を見ていた。
博貴。
呼ぶと、驚いたようにこちらを見た。
危ない遊びを、親に見つかった子どものような動作だった。
すばやくて、すこし怯えているような。
何しに来たの、と言った。
それは、彼氏が彼女に言う挨拶かな、と思った。
予感が、そのとき、した。
なにかが分かった。
でも、分からないふりをして、気がつかないふりをして、上がりこんだ。
鈍感なふりをした。馬鹿な女になった。
具合はどう? 不便なこととか、ないの。
近況については何も知らなかった。どんな具合に回復しているのかとか。
何も知らない自分にまたすこし傷つく。
それも無視して、ベッドの傍まで。
赤に染め上げられたシーツの上に投げ出された右腕を見た。
添え木も包帯もなかった。
驚いて、立ちすくむ。
なに、それ。
なにその腕。
なにしてんの。
投げ出された、黄金の右手の、指先や、腕。二の腕。
切り傷、が。
そこかしこに。
もう塞がって痕になってしまったものや、治りかけのかさぶたとか。
数え切れないぐらいだった。
「なにしてんのよなんでこんなことしてるのよ!」
料理はしないー、とふざけて言っていたのを急に思い出した。
だって、大事な右手だから。この右手全部、ギターのためだから。
怪我したら、困る。弾けなくなったら、死んじゃうよ。
いとおしそうに、目を細めて見る。
おまえにも、やらないよ。
そんなことを、急に思い出した。
思い出したら、視界が濁った。我慢なんて出来なかった。
零れて、とまらない。
「違うよ」
苦笑して、言った。違う。
別に、死のうとかそういうことじゃないから。
ただ、うまく動かないから。
「だから自分で、傷つけてんの?」
大事にしていた指先に、細かい傷がある。縦と横が交差したりしている。何度も、何度も傷つけたあとだ。
右腕のおもて。手の甲から肘にかけて。
躊躇いなく一本の線を引いたようなあとがある。
まだ赤黒い。塞がりきってない。
いつ、切ったのだろう。
会わないことにしよう、と決めるまではこんな傷なかった。
あれから、今まで。そんなに長くない。長くない間に。
いつ、切ったんだろう。
「なんで?」
こんな腕をお母さんに見せるの。
皆になんていうの。
いつまでもここに、ひとりで、いるわけじゃないのに。
死ぬつもりがないなんて、本当?
本当は、死んでもいいとか思ってるんじゃないの。
「せっかく助かったのになんでそんなことするの!」
「おまえがっ!」
本気の、容赦のない怒鳴り声だった。
一瞬で、沸点に達したような。オンからオフに、スイッチが切り替わったような。
唐突な、苛烈な怒りだった。
「おまえが言うのかそれ!」
殴るような声で、言って。
左手で私の腕を掴んだ。
痛いぐらいの力に引きずられて、気がついたら、ベッドに仰向けに押し倒されていた。
覆い被さる男の向こう側に、赤が見える。
「助かったのにって、おまえが、いうなよ」
傷だらけの腕は、力なく体の横に落ちているだけで。
左手が、私の咽喉を抑えた。
「歌えんだろ、おまえは」
頑張って鍛えた声帯は、咽喉仏のようにかたい。そこを左手の親指で強く、押す。
「おまえの咽喉、生きてんだろ、まだ」
小馬鹿にするような顔で、笑っている。
「ふざけんなよそんなので説教すんなよ、おまえ、咽喉潰れたら平気なわけ? 歌はもうダメデスネェって言われて、平気で生きてけんのかよ!」
でもあの子本当に昔から、ギターだったから。
ギターしかない子だったから。
唐突に、博貴のお母さんの言葉を思い出した。
弾けなくなったら、死んじゃうよ。
冗談めかして言っていた。
そうだよねぇ、私も。歌えなくなったら。
死んじゃうよ。
だからおまえにも、この右手は絶対。
やらないよ。
ああ。
そうか。
私と博貴はずっと、同じ生きものだったのに。同じ原動力で動いていたのに。
決定的に違うものになってしまった。
無理に、強引に、突然に、うばわれて。
私だけ、こっち側に残された。
先に、道がある人間から、まだ歩いていける人間から心配されたって、そんなの。
刃だ。
傷つけるだけだ。
それでも、私はそばにいたくて。
だから気がつかないふりをした。
「死んでんだよ、もう」
私の咽喉に左の掌を押し当てたままで、言った。
「弾けなきゃ、何のためにあるんだよ腕なんか。生き残ったって、誰が喜んでくれたって、弾けないまま生かされるんなら、死んだほうがましだ。こんなの」
力をこめようとしても、うまく動かない腕を、傷だらけの腕を、にらんだ。
「畜生」
搾り出した声だった。
腹の底から、溜まったものを、どうしようもなくて吐き出したのと同じ。
「なんで…」
なんで動かないんだよ。
うな垂れた頭が、私の顎の下に。
咽喉に。
落ちてきた。
ふるえを、温度を生の肌に感じても、以前のように、抱き締められなかった。
もう、できなかった。
終わりだ。
もう、終わり。
押し倒された向こう側の、窓の外。
真っ赤に焼け爛れた空。
まるで、世界の終わりのような、赤が、ひたすらにきれいだった。
どんなに好きでも。
もうどうしようもない。
好きなのに。
目の前で、ふるえているのに抱き締める勇気も、起きないなんて。
もう終わりだ。
多分、分かっていたんだろう私は、随分前に。
こうして、私たちは終わった。
3.
「太ったね」
駅まで遠回り。
今はもうすっかりと人気のない商店街をあるく。
博貴の左腕を、掴まえてみた。
昔よりも自然にできたのが不思議だった。
「まァねぇ。今はちゃんと、食べてますから」
一時は本当、やつれてたから、前と同じぐらいに戻ったかんじかな。
そうだね、骸骨みたいだったよ。
ハハ、言い得て妙ってそういうことかもね。
話し声は、よく響く。
「あ、猫じゃん」
商店街の隅に、三毛猫が横たわっていた。
すこし汚れているから野良だとは思うけど、人に馴れていて逃げなかった。
すたすたと博貴が近づいていって、目の前にかがみこむ。
右手を、ゆっくり持ち上げて、猫の背を撫でた。咽喉を。
その指の動きは、やさしかった。
あの日、私の咽喉を押さえたような、乱暴な力ではなかった。
「皆に会えて、よかったわ」
咽喉を鳴らす猫を、目を細めていとおしそうに見下ろしながら、言った。
「お別れをね、しに行ったのよ、実は」
「?」
「実家にね、戻ることにしたから」
なんだか照れくさそうに、告白した。
母親が、戻ってこいってうるさいし。
「それに、ここにいると嫌でも、思い出すじゃない。実家に戻ってもそうだけど、特にこっちにいると、まだ正直しんどいから。ちょっと静かに、色々考えるつもりだから」
ちょっとの間ならいいけどねぇ、長時間、音楽馬鹿と一緒にいるのはやっぱり、ツライからさ。でも。
「おまえは、やめんなよ、歌」
しゃがみこんだまま、私を振り仰いだ。
「やめんな」
目が、強かった。
昔のように。
猫を撫でるその手には、古くなってしまった傷痕が、今もたくさんあるけれど。
ちゃんと今、持ち上がって、動いてる。
やめないよ。
やめられない。
泣き出しそうになるのを堪えて、無理に笑って頷いた。
そうだよな、潤は。
穏やかな顔で笑って、立ち上がる。
「じいちゃんがさ。今年で八十六なんだけど」
うん。
ゆっくり、駅へ続く商店街を歩きながら、相槌をうつ。
「今も現役ばりばりで畑に出ててさ。根性たたきなおしてやるから帰って来いーって、うるせェんだって」
もう、正直困ってんの。口煩いったらさ。
肩をすくめながら、それでもなんだかうれしそうだった。
鍛えなおしてもらえばいいじゃない。そしたら、握力も、つくかもよ。
勢いで言ってしまってから、すこし後悔した。
しばらく黙ってから、博貴はふふ、と笑った。
そうね。畑でリハビリしてくるわ。
冗談めかして、苦笑していた。
そして、黙った。
雑踏が、近づいてくる。
駅が近い。
何か話そうかと思ったけれど、うまく言葉にならなかった。
信号に引っかかる。
車も通っていないのに、立ち止まる。
「潤に会えて、よかったわ、今日」
歩行者用の信号が青になっても動かずに、顎をすこし持ち上げて遠くを見る動作。
「嫌いになんて、なってないし未練がないわけじゃないけど、俺は絶対おまえを妬むから、だから、―――ダメ」
私だってきっと、博貴に気を遣う。
疲弊する。
好きでも、ぼろぼろになる。
ぼろぼろにする。お互いに。
だからきっと―――ダメ、なんだろう。
「ゆっくり、何か探すわ。すぐには、無理だろうけど」
畑仕事でもしながらね、と茶化した。
見つかるといい。思ったけど、口にはしないでおいた。
気休めに聞こえる気がした。
だから、ただ、心の中で祈ることした。
「見つかったら、おまえに一番に、報告する」
ぽん、と。
頭を軽く押すような重みは、傷だらけの右手だった。
潤には迷惑かけたし、泣かせたし、酷いこと言ったし。
すこしだけ、髪の毛をかき混ぜるような指先の動きは、以前のような乱暴さはない。
でも、やさしかった。
「ありがとう」
私の頭から手を外して、差し出した。握手を求めるように。
困ったように笑っている顔から徐々に視線を下ろして私に向けて差し出された右手を見下ろしたら、つ、と。
目から頬、頬から顎に、一本線を引くような。
涙。
私も右手を差し出した。
手の甲から腕にかけての、大きな傷痕は、まだ残ってる。
消えないのかもしれない。
手首の内側にも、指先にも、数え切れないほど。
この右手は、博貴のすべてだ。
これだけ、傷ついたのだ。いや、これ以上、ぼろぼろに。
重ねて、握り合わせると、かすかに握り返すちから。
「私も、一緒にいられて、よかった」
つよく、傷だらけの手を握って、伝えた。
後悔は、してないよ。
「好きだよ」
あの頃とはなにもかもが違って、箱庭の中ではない。
音楽が鳴っているだけで、箸が転んでもおかしい、みたいに笑い転げてはいられない。
弦を。
はじいて。
そのコード、変だね、とか。
今のおまえ、半音ずれてる、とか。
そんな小さなことではしゃげなくなってしまったけど。
あの頃を思い返すと、今もまだ胸が鈍く痛んだりするけど。
大丈夫、何も、捨ててない。忘れてないから、大丈夫。
大事だから。好きだから。
今も。
だって、握った手が、あったかい。
なんだこれ、中学生みたい。
手を繋いだままで、博貴が笑った。
ほんと。
おかしかった。
笑ってるのか泣いてるのかどっちか分からなくなった。
帰ろうか。
どちらともなしに切り出して、どちらともなしに、手を離した。
4.
実家の住所は、聞かなかった。
じゃあねまたねと言って、別れた。
さよならではなく。
またね、と。言ったけれど。
もしかしたらもう二度と会わない人かもしれなかった。
そう。
もう、会えないかもしれない。
電車を下りて、マンションに向かう道すがらそんなことに気付いて、慌てて携帯を取り出して、やっぱり仕舞った。
「うわ」
どん、と。
何かにぶつかった。
素っ頓狂な声がした。
ああ、誰かにぶつかったのか。
声がすこし上のほうからしたから、男の人だと思って。
顔を上げてしまってから後悔する。泣き腫らした目だったんだ。
「潤ちゃん、どうしたの」
驚いた顔が、見上げた先にあった。
見覚えがある。
髪の色がころころ変わる人だ。服の趣味がヤンキーみたいで柄が悪い人だ。
でも、ストイックなドリーマーで、職業作家で、お隣さんだった。
「吾妻さんこそ、どうしたんですか」
「煙草が切れたのでちょっとそこまで」
ヘヴィースモーカーな職業作家は、夜の闇の中でぼんやりと光る自動販売機を指差した。
会話が、そこで途切れてしまった。
吾妻さんはそれ以上、私に何があったかは訊かなかった。
ただ。おかえり、と。言った。
ほっとした。
張り詰めていた気持ちが、ゆるんだ。
「ねぇ、吾妻さん」
職業作家が、すぐ傍の自販機に近づいていった。セブンスターのボックスを買っているその背に、思いつきで声を掛けた。
「んー? なに?」
「好きなのに、どうして一緒にいられないんだと思う?」
言っている途中で、堤防が決壊した。
ひとしずく、ふたしずく。
我慢できずに、涙が落ちてどうしようもなくなった。
「タイミングが悪いからじゃないかな」
生きている時間が。ほんの少し噛みあわないだけだ。
それだけ?
それだけ。きっとね。
そっか。それだけなんだ。
他愛ないことが楽しかった。
何でも笑っていられた。
隣にいるだけで、よかったんだ。
チューニングずれてるじゃない。
そんな当たり前のことも、笑い話になったんだ。
今はそれができないタイミング。それだけなのかな。
―――だったら。
「大丈夫?」
新しい煙草のフィルムを破って、吾妻さんがそれだけ、言った。
はい。大丈夫。もう少し泣いたら、落ち着きますから。
噛みあわないだけなら、またいつか、重なる日も来るだろうか。
もし、そんな日がきたら。
傷つけずに、話ができたら。いい。
いつか。
<了>