35.

「サージェントって、大きな街だね……」
 城塞都市サージェントの、うつくしく舗装された石畳を踏んで、ルクスは歩く。
 数歩前を歩いていたゲルダが、艶やかな金髪を揺らして振り返った。
「ルクスは来たことなかったの?」
「こんなに大きな街は、初めてだよ……」
 ルクスの生まれたヴィントは、小さな村だった。
 細々と作物を作り、家畜を育て、必要なものは近くにある小さな町に買いに行く程度。
 自給自足に近い生活だった。
 強固な城塞と独自の軍隊を持つサージェントは、ラッセル領内でも有数の街だ。
 学園都市としても名を馳せており、いくつもの研究施設があるという。
 道は綺麗に整備され、人も多い。
 目に見るもの全てが忙しなく、ぶつからないように歩くのが精一杯だ。
「あたしは何度か来たことがあるよ。"仕事"の途中にね」
「仕事……?」
「サージェントはブリガンディア神聖国のすぐ隣だから。聖都のお偉いさんから盗みを働いたあとに、身を隠したりしてたの」
 その言葉を体現するように、ゲルダの歩みに迷いはない。
 大胆に露出した脚を動かして、颯爽と歩いてゆく。

 血にまみれたゲルダの服を新調するために、二人は街に出た。
 ひっそりと迎え入れられたサージェントの城で、一応替えの服を与えられたのだが、動きやすいものがいいと言い出したゲルダに、ルクスが引っ張り出されたのだった。
 首に下げた指輪を残し、身に着けていた宝飾品すべてを金に換え、ゲルダは新たな服に袖を通した。
 肩や腕や脚を惜しげもなく晒す、軽装中の軽装。
 けれど、鍛え上げられて引き締まった体躯には、良く似合っている。
 女性的な体だな、とルクスは思った。
 細いのに、貧相ではない。
 ある種の迫力すら感じるその肢体に、ルクスは自らを振り返る。
 凹凸のすくない、面白みのない体型であることは、誰よりも自分が知っている。
 今まであまり気にしたことはなかったが、ゲルダの隣に並ぶのは気が引けた。
「ねえ、ルクスってさ」
 隊列を作って大通りを巡回する白い鎧の騎士たちを眺めて、ゲルダが他愛もないことのように口を開いた。
「シグルドのことが好きなの?」
「ええっ!?」
 自分でも驚くような声が飛び出した。
 少女の悲鳴に、ゲルダがすみれ色の目を眇める。
「……あやしい」
「ち、ちがう! そういうのじゃないから!」
 わざとらしいほどに両手を振って、否定を示した。
 説得力があるはずもなく、ゲルダは更に見定めるように目を細める。
「ゲルダには話したでしょ! あたしも村が焼かれて、ドラゴンの正体が何か知りたくてついてきたって、だから……」
 言葉をつなげばつなぐほど、嘘っぽくなる気がした。
 尻つぼみに黙り込んでしまう。
「なんか納得いかないけど……。ま、本人がそう言うんだから、いっか」
「……え?」
「あたし、遠慮しなくていいってことでしょ?」
 ゲルダは、紅をささなくても充分に赤い唇を笑みの形にゆるめる。
 言葉の意味を飲み込めず、ルクスは数度まばたきを繰り返した。
「それって……」
「あんな男、探したって滅多にめぐりあえない」
 サージェントのシンボルである尖塔を見上げるゲルダの瞳は、熱っぽい光をたたえている。
「あんなに、強く人を惹きつける人間、見たことないよ。助けてもらったってこともあるけど……。前だけ見つめてる強い目が、あたしはたまらなく好きなんだ。絶望の淵から、引きずりあげてくれた、あの目が」
「ゲルダ……」
「身分違いなのも、シグルドが全然そういう方面のことを考えてないのも知ってるけど、あたしはシグルドについていきたい。レンとの決着もつけなきゃいけないけど……。痛々しいほどがむしゃらなあいつが、願いを叶えるところが見たい」
 シグルドがどこへ向かうのか見届けたい。
 その欲望は、ルクスにも覚えがある。
 初めは、村をつぶした張本人と激しく憎んだ。
 大罪人と言われる男がどういう人間なのか見定めようと同行を決めた。
 けれど―――。
 背にドラゴンの業火を負い、右手に魔力を食らう契約を刻み、親殺しの汚名を着せられて尚、一歩も立ち止まろうとしないその姿から、目を離せない。
 本当は、誰よりも民を愛し、誰よりも平和を望んでいることも知っていた。
 決して器用とはいえない、気難しい男だというのに。
 フェスターもヴァンもゲルダも、揺らがぬ背に惹かれている。
(多分、あたしも……)
 腰に下げた、シグルドから託された短刀に触れる。
 彼が報われる瞬間を見届けたい。
 心から笑えるそのときに、近くにいられたら……。
 時折湧き上がるその感情に、ルクスはまだ名前を与えられずにいる。
 顔を上げて、真っ直ぐに想いを口にできるゲルダを見ると、ちくりと胸が痛んだ。
 擦れ違う男のほとんどが驚いて振り返るような美貌と、抜群のスタイルを持つゲルダに、まぶしさすら感じる。
 自分はまだ、こんなにも幼い……。

「おや、こんなところで会うなんて」
 背後から、聞き覚えのある飄々とした声がかかった。
「見たことのない綺麗な娘さんもご一緒で」
「カイル!」
「何こいつ、知り合い?」
 声に驚いて振り返ると、いつも通り胡散臭い行商人がそこに立っていた。
 へらっと笑うそのしまりのない表情に、ゲルダが渋面を作った。
「偶然だね、ルクス」
「……絶対、偶然じゃないでしょ? またシグルドのこと追いかけてるの?」
 偶然にしては出来すぎている。
 身構えて、ルクスは怪しい男と距離を置いた。
「またまた。公子ご一行は俺を買いかぶりすぎだよ。サージェントは大きな街だから、商売も上手くいくかと思って……と、全然信じていない顔だな」
 警戒心を剥き出しにして、ルクスはカイルを睨みつける。
「アンタ誰? シグルドのことを追いかけてるって、敵?」
 威嚇の体勢をくずさないルクスをかばうように、ゲルダが間に割って入った。
「お初にお目にかかります、綺麗なお嬢さん」
 カイルはさりげなくゲルダの右手を取ると、堂に入った素振りでくちづけた。
「私はカイル・モーガン。見たとおりのしがない商人です。公子の敵というよりは、いわばファンのようなものだと思ってもらえれば助かります」
「……ふうん」
 さっとカイルから手を引き離して、ゲルダは訝しげに目を眇める。
「害がないなら別にいいけど。シグルドに手出ししたら、あたしが許さないからね」
「……相変わらず、公子は愛されていらっしゃる」
 あっけなく離された手を持ち上げて、カイルは肩をすくめた。
「……ただの商人が、手甲当ててるのがおかしいって言ってんの。近づいてくる気配も感じなかったし、あんた、本当は相当腕が立つんでしょ?」
「ああ、これ?」
 カイルは、ゲルダに跳ね除けられた右手をひらひらと揺らして見せる。
 商人の右手の甲は、革で作られた手甲に包まれていた。掌と腕の半ばまでを覆うそれは、確かに戦いを生業としないものには必要がないものだ。
「お見苦しい古傷があるんです。昔ちょっと、ね。商売は心証も大きく関わるから」
 隠しているんです、とカイルは笑う。
 ゲルダは更に眉間に皺を増やした。
 言葉の駆け引きがあまり上手くはないルクスにさえ、その言い訳は苦しく聞こえた。
 けれど、カイルはへらへらしているだけで、それ以上は語ろうとしない。
「ところで、公子はどちらに?」
 へらっと笑ったまま、話題をそらしてしまう。
「シグルドなら―――」
 ルクスは咽喉を反らし、街の中央に鎮座するサージェントの城を仰いだ。

―――シグルド!
 感極まった、麗しい女性の声が蘇った。



36.

「シグルド!」
 通された部屋に入るなり、華奢な影がシグルドの腕に飛び込んだ。
 何事かを飲み込めないルクスの視界に、シグルドと同じ色の長い髪が揺れた。
「生きていてくれたのね……」
 シグルドの胸から顔を上げた女性の顔を見て、息を飲む。
 何て、うつくしい人なんだろう。
 それ以外に形容する言葉が見つからない。
 ルクスの姉も綺麗な娘だった。隣で唇を尖らせているゲルダも、ぱっと目を引く艶やかな美貌の持ち主である。
 けれど。
 彼女―――サージェント候の一人娘であるオーガスタは、俗っぽい賛辞がはばかられるほど、神聖で清浄な輝きを放っている。
「心配をかけてすまなかった」
 後ろに立っているルクスには、シグルドの表情を窺うことができない。
 それでも……。
(やさしい声)
 いまだかつて、自分には向けられたことのない類の、柔らかい声音だった。
「いいえ、無事に戻ってくれただけで充分だわ。―――フェスターも、よくシグルドを支えてくれましたね。貴方には、何とお礼を言っていいか……」
 オーガスタの、シグルドと同じ深緑の瞳が、いたわるようにフェスターの左腕に注がれる。
「そのお言葉だけで充分です、オーガスタ様。わたくしが若と共にあるのは、当たり前のことですから」
「ありがとう、心強いわ」
 慈愛に満ちた微笑をフェスターに向けたあと、オーガスタはようやく入り口に立ち尽くすルクスたちに目を向けた。
「貴方がたも、シグルドを支えてくれているのですね」
 慈愛と気品に溢れる瞳に見つめられて、ルクスは声を出すこともできなかった。
 貴族への口の利き方など、知らない。
 何より、女神のようなオーガスタと自分を引き比べて、萎縮してしまう。
「先に城へ報せに来てくれたフェスターから話は聞きました。従弟をここまで導いてくれたこと、感謝しています」
「……こんな城の奥に部外者を導き入れて、平気なの?」
 明らかに挑発的なゲルダの口調に、室内の空気が凍りついた。
「あたしは隣の国の盗賊の娘で、ヴァンはアスガルドでは憎まれてるイドゥナでしょ? いくらお姫様だからって、勝手にこんなことしたら……」
「貴方がたがシグルドの仲間だと言うのなら、部外者ではありません」
 拗ねたようなゲルダの言葉にかぶせるように、きっぱりとオーガスタが言い切った。
「むしろ、彼の危険な旅に同道してくれることに、感謝と畏敬の念を感じています。身分だけで境界を引いて、一体何になるでしょう。私はただ幸運に恵まれ、この血筋に生まれただけですよ」
 やさしい声の中に、確かな意志の強さを感じ取って、ゲルダは目を瞠った。
 何より、深緑の瞳がたたえる強さが、従弟と良く似ている。
「負けたわ」
 嘆息して、ゲルダは肩をすくめた。
「生意気な口を利いて、ごめんなさい」
「いいえ、分かっていただけて嬉しいわ。―――立ち話をさせてしまってごめんなさい。お茶を用意させますから、お座りになって」





 得心がいった様子で、カイルが頷いた。
「なるほど。サージェントは、公子の母君のご実家か。"サージェントの美姫"オーガスタ様とは、従姉弟同士でしたね」
「いい女ね、彼女」
 ゲルダは、不本意そうに唇をとがらせる。
「サージェントの美姫といえば、王都にも噂が届くほどだからね」
「認めるのは悔しいけど、初対面はあたしの負けだわ」
「……何を賭けて張り合うつもり?」
「当たり前じゃない、シグルドよ」
「それはまた。美女ふたりに取り合われるとは、公子も罪なお方だな」
「あんたもファンだっていうなら分かるでしょ。シグルドがどれだけ人を惹きつけるのか」
「確かに、彼は魅力的な人間だ」
 カイルがふと、口元に笑みを浮かべた。
(あれ?)
 ルクスは違和感を覚えた。
 飄々とつかみ所のない、覇気のない笑いならいくらでも見たことがある。
 けれど、カイルが口元に刻んだその笑みは、今まで見たことのないような、どこか酷薄なものだった。
 しかし、ルクスがまばたきをした次の瞬間には、いつものへらへらとした微笑に戻っている。
「ああいうのを、英雄の器というのかな」
「……安っぽい言い方」
 辟易した様子で、ゲルダがばっさりと切り捨てた。
「やれやれ、また気の強いお嬢さんが仲間に加わったものだな」
 困った様子で眉を下げて、カイルが苦笑する。
 その横顔をじっと見つめていると、青く透き通ったその眼差しが、不意にルクスに向いた。
「どうかした? 俺の顔に何かついてる?」
 和やかに笑いかける、その表情。
 やはり、先程の冷たい表情は、見間違いだろうか?
「ううん、なんでもない」
 ぎこちなく、ルクスはごまかした。

 重厚な鐘の音が鳴り出したのは、そのときだった。
 いつの間にか、閉門の時間だ。
 サージェントは夜間の出入りを制限している。
 その時間は厳しく守られ、まだ日が落ちきっていなくても、城門は閉ざされる。
 鐘は、その合図だった。
 白い鎧の騎士たちが、城塞の四方に開いた門へ向かう。
「聖騎士たちは働きものだなぁ」
 重い鎧をまといながら機敏に動く若者たちを見て、カイルが老人のようなことを言った。
「聖騎士って、サージェント独自の騎士団でしょ?」
「そう。サージェントは実力至上主義だから、実力と人柄を認められれば貴族でなくても騎士になることができる。たとえば今、獅子軍を率いているロキエル・アレス軍団長のようにね」
「ロキエルさん……。あの人が?」
「なんだ、君たちはもう会ったのか。まぁ、獅子軍はオーガスタ様の私軍のようなものだから、当然か」
 城に迎え入れられたあの日、オーガスタの後ろに控えていた若い騎士。
 金の髪に薄い青の瞳を持つ、整った顔立ちの青年だった。
 まるで御伽噺に出てくる騎士がそのまま抜け出してきたかのようなその姿に、ルクスも目を奪われた。
 オーガスタとの会見の間は、ほとんど口を開かなかったが、その洗練された物腰や凛々しい顔立ちに、てっきり貴族の子息だと思っていた。
「彼は、庶民の出なんだよ。努力と才能だけで、今の地位に上りつめた。だからこそ、サージェントでも人気が高い。まぁ、娘たちにはあの容姿と騎士道に則ったやさしさが人気のようだけどね」
 オーガスタの応接室を退出する際に、ロキエルが自ら扉を開けて通してくれたのを思い出す。
 どうぞ、とやさしく促され、穏やかな笑みを向けられ、鼓動が跳ねた。
 村の男どもは粗野で、ルクスもおてんばだったから、女性らしい扱いを受けたことがない。
 旅を共にするシグルドは、全く女心の分からない男だし。
 初めて男の人を素敵だと思った。
 どぎまぎしてしまって、ろくに礼も言えなかったけれど。
「あたしは断然、シグルドの方が素敵だと思うけど」
「ゲルダ嬢は揺らぎがなくて、実に凛々しいね」
「あたしは決めたんだもの。シグルドについていくって」
 きっぱりと言い切るゲルダの目には、確かな決意がある。
「帰るよ、ルクス。日暮れまでには戻れって言われてるでしょ」
 ゲルダは、怪しげな行商人に興味を失ったらしい。
 城へ続く道を、大股に歩き出す。
「う、うん……」
「"草"には気をつけて」
 立ち去りかけた二人の娘に、行商人が声をかけた。
「……くさ?」
 肩越しに振り返ったルクスの目に、意味深な微笑が映る。
「草って、何……」
「ルクス!」
 聞きかけたルクスの声を遮るように、誰かが大声を上げた。
 声変わりを終えたばかりの、少年の声だろうか?
 自分の名を呼ぶ声の方へルクスは顔を向け、そして言葉を失った。



37.

「せっかくの人里でも、外に出られないのではつまらないんじゃないか?」
 背に声がかかって、シグルドは体をひねって振り返った。
 大きく開かれた窓から、はるか下方に広がるサージェントの大通りを眺めていたところだった。
 窓から差し込む光は傾き、柔らかい橙に染まっている。もうすぐ、門が閉まる時間だ。
 声の主は、開かれた部屋の入り口に立っていた。
 夕暮れ時の陽光に、男の白っぽい金髪が光る。
「いや、大きな街は久しぶりで、戸惑っていたところだ」
 シグルドは窓際から離れ、男に歩み寄る。
 男は軽装だった。重厚な白い鎧ではなく、同じ色の騎士団の平服を身にまとっている。
「白磁の都と呼ばれたイル・ラッセルで生まれ育った人間が、何を言う」
 男は、呆れたように薄い青の瞳を細めた。黙っていれば冷たささえ感じさせる端麗な顔に、温度が生まれる。
「昔の話だ」
 しかしシグルドは男のからかいには乗らずに、つまらなそうに呟いた。
「相変わらずだな、シグルド。おまえらしくて嬉しいよ」
「おまえは変わったな、ロキ」
「そうか?」
 ロキエルは驚いたように目を瞠った。
「いや、悪い意味じゃない」
 自分の言葉が足りないことを、シグルドも一応は理解している。
 小さく頭(かぶり)を振って、用意された客間の椅子に腰を下ろした。ロキエルも向かい側に座る。
「すっかり、聖騎士らしくなった」
「お前に言われると、くすぐったいな。私など、まだまだ若輩だ」
「街に出たフェスターから聞いたぞ。大した評判らしいじゃないか。庶民の希望の星だと」
「そう言われているうちは、まだまだなのさ」
 少しだけ憂えた表情で笑い、ロキエルは目を伏せた。
「サージェントは実力主義の街だ。当代のサージェント候に代替わりされてから、要職も広く一般に開放された。貴族方の意識も変わってきている。ただ……」
 ロキエルは言葉を切った。何かを思案する間をおいて、そののちに深い溜息を落とした。
「ただ、民衆の気持ちが変わらないのさ。支配され、虐げられていると不平を言いながら、上れる階段に足をかけない。自分たちの権利を、はじめから放棄している。私を星と仰ぐのは、だからだろう?」
「……前言撤回だ」
 シグルドのつぶやきに、ロキエルが伏せていた顔を上げた。
 苦笑をしている公子と目が合った。
「おまえは何も変わっていない。学院にいたころから」
 珍しく上機嫌で笑って、シグルドが言った。


          *


 初めて出会ったときのことを、シグルドは今でも良く覚えている。
 十二のころだった。
 当時から、サージェントは堅固な城塞都市であると共に、学園都市であった。
 母の故郷ということもあり、シグルドはしばらくの間サージェント候のもとに預けられ、国内でも有数と言われる学院に通っていたのだ。
 学ぶだけならばイル・ラッセルでも可能だった。けれど、シグルドの父であるバルドルは、息子を多くの人間と交わらせることを望んだ。
 いずれは人の上に立つ身。ならばこそ、広く様々な人と触れ合い、その考えを知るべきだ。
 望むものには広く門戸を開いているサージェントの学院は、バルデルの求める格好の社交場なのだった。
 ロキエルは奨学生だった。
 決して裕福ではない家の生まれで、もちろん貴族ではない。
 昼間は勉学や剣の鍛錬にいそしみ、夜は遅くまで酒場で働いていた。
 そしてその頃から、サージェントの現状を憂えていたひとりだったのだ。
「あのころはもっと拗ねていたさ。おまえと、オーガスタ様に出会うまでは」
「確かに目つきが悪かった」
「酷い言い草だ。だが、否定はしないよ。―――私は随分、世間を憎んでいた」
 実力至上主義とはいえ、貴族と庶民との間には深くて広い溝と意識の差があった。
 貴族の子息たちには家柄に対するプライドがあり、何とか学院にもぐりこんだ庶民の子供たちは、血筋だけで優遇される貴族たちを遠巻きに眺めながら、心の底で嫌悪していた。
 ロキエルもそのひとりだった。
 文武両道で、将来有望と目されていたロキエルは、貴族の子息たちから妬まれ、自らもまた、彼らと距離を置いていた。
 そんなロキエルにまず近づいたのは、オーガスタだった。
 シグルドは、オーガスタを介してロキエルと知り合ったのだった。
「はじめは驚いた。サージェントの姫君がなんの嫌味かと思ったよ」
「オーガスタにそんな器用な真似ができるわけがないだろう」
「すぐに分かったさ。そして、オーガスタ様やおまえと関わるうちに、身分の壁をぶち壊したいと思いながら、自分が一番壁を作っていたことに気がついたんだ」
 オーガスタは実に分け隔てのない性格だ。
 どんな人間に対しても、地位や身分ではなく、一個人として接する。
 それが、サージェントの美姫と民衆から絶大な支持を受ける理由でもある。
「自ら歩み寄らなければいけない、そんな簡単なことにも気づかなかった」
 庶民の出でありながら、一軍を預かる将になるまでには、おそらく筆舌に尽くしがたい苦労があったに違いない。オーガスタ自身、ロキエルには感服すると語っていた。
 しかしロキエルは、自らの苦労を美談のように語ることはしない。
 そこが、人々から愛される。
 騎士の器だと褒めそやされる。
 ここに至るまで、恵まれ、喜ばれたことばかりではなかったはずだ。多くの壁を乗り越えたからこそ、ロキエルには現状が不満なのだろう。
「……つまらない話をしてしまったな」
 苦笑をして、ロキエルは話を切り上げようとした。
「つまらなくはない」
 すぐさま否定が返って、ロキエルは訝しげに眉根を寄せた。
「おまえの言うことは正論だ。ごまかす必要があるのか?」
 シグルドは真剣だった。
 心の底から不思議そうな昔馴染みの様子に、ロキエルは驚いた様子で目を瞠り、そのあとで困ったように笑った。
「おまえこそ、昔からまったく変わらない。涙が出そうだ」
「馬鹿にしているのか?」
「失礼なことを言うな。素直に喜んでいるんだ。―――生きていてくれると信じていたからな」
 閉門を報せる鐘の音が、大きく響き渡った。
「……心配をかけたな」
 鐘がきっかり六つ鳴り終わるまで待ってから、シグルドがつぶやく。
「謝るならオーガスタ様だろう。誰よりもおまえの身を案じていたんだ」
「そうだな……」
「私のことなど、二の次でいいだろう」
「どうして変えたんだ?」
「……何がだ?」
 主語のない問いかけに、ロキエルはまた怪訝な顔をする。
 シグルドの話には、往々にして言葉が足りない。
「おまえが自分のことを"私"と呼ぶと、違和感がある」
 さも重大であるかのように真面目な顔で、シグルドが言った。
 さすがにロキエルも絶句した。
 幾度か目をしばたいたあとで、こらえきれずに吹き出す。
「何がおかしい」
 当然、真剣なシグルドは笑われたことが面白くはない。
「これが笑わずにいられるか。少しは"俺"の立場のことも考えてくれ。これでも一応、一軍を預かる身なんだ」
 騎士には騎士なりの振る舞いがあるのだ、とロキエルは続けた。それも、笑い声で途切れ途切れではあったが。
「……似合わないな」
「そう思われるなら、私もまだまだということさ」
 つまらなそうに顔を背けるシグルドに、ロキエルは口元をほころばせた。

「アレス軍団長殿、こちらにいらっしゃいますか?」
 重みのある女性の声が、扉の向こう側から届いた。
 オーガスタ付きの侍女頭の声だった。
 素早く椅子を立ったロキエルが、廊下に通じる扉を開く。
「ご足労させてしまいましたか、メリア殿」
 髪を一つにまとめて束ねた、初老の女性が立っていた。
 背は高いが体が細く、全体的に印象がいかめしい。
「若様も、失礼いたします」
 オーガスタのみならず、シグルドの母フリッグの世話役でもあった侍女頭のメリアは、シグルドに向けて丁寧に頭を下げて見せた。
 シグルドは、彼女が笑ったところを見たことがない。それでも、彼女が誰よりもサージェント家に忠誠を誓っていることは、母やオーガスタから伝え聞いていた。
「姫がお呼びですか?」
「……そうでした、アレス殿。すぐに応接の間においでくださいまし」
「何かあったのですか?」
「黒旗騎士団の、アルヴィース殿がお見えなのです」


          *


 オーガスタは応接の間の扉を押し開いた。
 サージェントが誇る美姫の登場に、ソファに腰掛けていた若い男が立ち上がる。
 頭の先からつま先まで、黒づくめの男だった。
「わざわざお時間を取っていただいて、申し訳ございません」
 艶のある黒髪をさらりと揺らして、男は深々と腰を折った。
「父の具合が良くないものですから。わたくしではご不満でしょうが……」
「とんでもない。美姫と名高いオーガスタ様にお会いできるだけで、身に余る光栄です」
 黒旗騎士団の参謀総長をつとめるアルヴィースは、やわらかい微笑を浮かべた。



38.

 奇妙な男だった。
 身にまとう黒旗騎士団の騎士服から、艶やかに肩にこぼれる髪まで、全て漆黒だった。
 肌は白く、顔立ちも整っている。
 切れ長の右目も、今は穏やかな微笑をたたえていた。
 左目は―――長く伸ばされた前髪に隠されて見えなかった。
「ご無礼をお許しください。顔の左側は、醜く爛れておりますので」
「お話を伺いましょう。どうぞお掛けになってください」
 先に腰掛けたオーガスタに促され、黒旗騎士団の参謀総長をつとめるアルヴィースは改めてソファに掛けなおした。
「突然の来訪にも関わらず、お時間を取って下さったこと、感謝しております。是非ともお耳に入れたいことがございまして」
「何でしょう」
「シグルドのことです」
 本来ならば主君に当たる人物の名を、アルヴィースはためらいもなく呼び捨てにする。
 壁際に控えたロキエルは、隣に並んだメリアがかすかに顔をしかめるのを見逃さなかった。
「彼は、二年前に死んだはずでは?」
 オーガスタは顔色ひとつ変えずに、アルヴィースを見つめ返す。
 凛とした眼差しを受け止め、アルヴィースは和やかに微笑してみせた。
「フレイヤの遺跡が崩落した一件は、既にお耳に届いていると思いますが……」
「……死んだはずの人間が、遺跡の崩落に関わっていると? 二年間、ブリガンディアで潜伏していたとでもおっしゃるのですか?」
「大罪人とはいえ、姫にとっては血のつながりのある存在、認めたくないお心も重々承知の上です。しかし、ここ最近になってシグルドの足取りが各地で確認されている。神の庭で呪われた民と接触したという情報も入ってきております。先だって崩落したフレイヤの遺跡はサージェントと目と鼻の先。我が主であるカリストフ伯爵閣下も、サージェントを案じておられます」
「……黒旗騎士団はさすがですわね、お耳が早い」
 オーガスタはそのうつくしい顔にやわらかな微笑を浮かべた。
「フレイヤの遺跡が崩落したのは、つい先日のこと。イル・ラッセルはここからかなり離れておりますのに、随分前からご存知だったようなご様子ですわ」
「民の安寧のために身を粉にしろと、我々は常々叩き込まれておりますので」
 やんわりと、アルヴィースはオーガスタの追及を逃れた。
「それゆえ、しばらくサージェントに滞在する許可をいただきたい」
「我らでは用が足りぬということですか」
 さすがにこらえきれず、ロキエルが口をはさんだ。
 サージェントには独自の軍である聖騎士団がある。彼らはサージェント家に忠誠を誓い、己の力で領土を護ることを使命としている。
 いくらラッセル家直属の騎士団である黒旗騎士団とはいえ、我がもの顔で踏み込んでこられると矜持に傷がつく。
 アルヴィースは、オーガスタの後方に控える騎士に、ゆっくりと視線を移した。
「サージェントの聖騎士団がアスガルド王内でも指折り数えられるほど優秀な騎士団であることは、私も存じ上げております、アレス軍団長」
「ならば!」
「それほどまでに強力な騎士団がありながら!」
 ロキエルの反論を、強めの声でアルヴィースが遮った。
「それで尚、サージェントにシグルドが潜伏しているとするならば―――そちらのほうが問題なのです」
 アルヴィースの真意を汲んで、ロキエルは唇を噛んだ。
 サージェントは、ラッセル公爵家と主従の関係で結ばれている。しかし、イル・ラッセルとの間に深い峡谷を挟んでいることもあり、ドラゴンが現れはじめてからも、黒旗騎士団の介入を受けずに自衛の道を選んできた。
 我々には聖騎士団がある。ゆえに心配は無用、と。跳ね除けることができたのだ。
 しかし、今回ばかりはそうはいかない。シグルドにとってサージェントは母方の故郷。彼の足取りが間近で途切れたとなれば、まず疑われるのはここだ。
 サージェントが街ぐるみで大罪人を匿っているなどと思われたら……。
 カリストフはここぞとばかりに武力に訴えかけるかもしれない。
 黒旗騎士団にとって、シグルドがいようがいまいが、かまわないのだ。
 サージェントに介入する足がかりになりさえすれば、それでいい。
「ご迷惑はおかけしません。滞在をお許しいただけますか?」
 アルヴィースは柔和な笑みを浮かべた。
 答えなど、元からひとつだ。
 自ら道を塞いでおいて、どこへ行きたいか尋ねるなど、白々しい。
 オーガスタは長い睫毛を伏せるようにして目をつぶる。
 応接室を沈黙が包み込んだ。
「分かりました」
 静かな声のあと、アルヴィースは無言で深く頭を垂れた。


            *


 手をつけられないまま冷めた紅茶を見下ろし、オーガスタは吐息をひとつ落とす。
 さすがの手腕だ。あの男、侮れない。
 従弟にはゆっくりと疲れた心身を癒してほしいが、長期滞在させるわけにもいかなくなった。
 今後、どのようにして彼らをサージェントから逃がすべきか。
「姫様!」
 慌しい足音が駆け寄ってきて、応接室の扉を叩いた。
 若いメイドの声だった。
「騒々しい、何事です!」
 規律に厳しいメリアが、扉を開けながら若い娘を怒鳴りつける。
 厳しい侍従長の一喝に、少女を脱したばかりの娘が身をすくめた。
「メリア、いいわ。どうしたの?」
 自ら椅子を立ち、オーガスタはメイドに歩み寄った。
 日々メリアの教育が行き届いている彼女が廊下を駆け回るなど、尋常ではない。
「姫に、お会いしたいという者がおりまして……」
「私に?」
「はい。若い男の方でした。これを―――」
 鼻にそばかすの残るメイドが、オーガスタの前で右手を開いて見せた。
 美姫と侍従長は、そろって息を飲む。
 メイドの手には、サージェント家の家紋が刻まれた腕輪が乗せられていた。
「これを見せれば、姫にはお分かりだと……」
「姫……」
 メリアが震える声で呼びかけた。
 オーガスタはまばたきも忘れ、じっとその腕輪に見入っている。
「罠やも……使いは戻らなかったではありませんか」
「いいえ」
 きっぱりと、オーガスタはメリアの言葉を跳ね除けた。
「会いましょう。その方はまだいらっしゃる?」
「……は、はい。裏門にお待ちいただいておりますが」
「こちらにお通ししてちょうだい」
「姫、危のうございます!」
「ロキ、同席してくれますね?」
 追いすがるメリアの言葉を遮るように、オーガスタはロキエルを振り返った。
「もちろん」
 サージェントの希望の星と呼ばれる騎士は、左胸に右手を当て、主に応えた。


            *


 用意された部屋の扉が開いたとき、ヴァンはやわらかすぎる寝台に仰向けに転がっていた。
 大きな街であるサージェントで、不用意に出歩くわけにはいかない。自分の姿がどのような影響を及ぼすのか、ヴァンは良く知っていた。
 室内に閉じこもっているというのはあまり性には合わないのだが、この際仕方がない。とはいえ、他にすることも見つからず、ここ数日はこのようにごろごろと転がっていることが多い。
 体がなまってしまいそうだ。
 やわらかい寝台も、もふもふと体が沈み、どうにも落ち着かない。

 寝返りをうっているうちに、娘ふたりが戻ってきたことに気がついた。
「おかえり。……うわぁ」
「……何よ、その嫌そうな顔」
 ベッドの上で上体を起こしたヴァンの視界に、いささか刺激的すぎるゲルダの装いが飛び込んできた。
「何よ、って。それ、体守る気ないじゃないか」
「いいの。身軽さの方が大事なの!」
「そんなこと言って、シグルドのこと誘惑するつもりなんじゃないの? 無理無理、あいつにはそういうの、効かないって」
「な、何よ、そんなのやってみなくちゃ分からないじゃない!」
「分かるよ。な、ルクス……」
 ルクスはまるで亡霊のように部屋に滑り込み、そのまま間続きになっている女性陣の寝室へと消えた。
 うつむいたまま、一言も話さずに。
 力なく閉ざされた扉を見つめて、ヴァンが怪訝そうに首をかしげる。
「あいつ、どうかしたのか?」
「実は……」
「扉を開け放ったまま、何をしているんだ」
 ヴァンの問いを受けて、ゲルダが声のトーンを落としたそのとき。
 神経質そうな声と共に、シグルドが現れた。
 続いて入室したフェスターが、丁寧に扉を閉める。
「ルクスの様子がおかしいんだ」
 足を投げ出したままベッドに座っているヴァンが、公子に告げる。
 シグルドは、訝しげに目を細めた。
「会ったんだよ、街で」
「会った? 誰にです?」
 言葉の足りないゲルダの説明に、フェスターが重ねて問う。
 ゲルダは普段は活き活きとしているその表情に憂いを浮かべて、告げた。
「同じ村の奴ら。ヴィントの村の、―――生き残りだって」



39.

 まるで雲のうえを歩いているような心地だ。
 毛の長い上質な絨毯は、足元をおぼつかなくさせる。
 ルクスは、後ろ手に寝室の扉を閉ざし、体を引きずるようにして寝台に倒れこんだ。
 反発はすくない。体が沈みこんでゆく。最高級の寝台である証拠だ。
 サージェント城に身を寄せるまで、体感したことのない柔らかさだった。心地よくもあり、落ち着かなくもある。
 今は、違和感のほうが強かった。
 鳥の羽をふんだんに使った枕を腕に抱え込み、顔をうずめる。
 本来ならば、決して味わうことのなかった最高級の調度品。しかし、共に旅をする男は、これらと同じようなものに囲まれて育ったのだ。
 この城を訪れてから、シグルドと会話を交わすことが減った。
 彼が時折見せる貴族としての顔を、これまで以上に強烈に意識してしまうからだ。しかも彼は、ルクスの住む土地を治める公爵の息子。いわば、王子のような存在なのだ。
 野山を駆け、地に潜り、人目をかいくぐるようにして生活をしていた頃は、生き残ることが最優先で、それ以外に意識が向かなかった。けれど、こうして人里に滞在するようになってからは、身分の差というものをより一層感じるようになっていた。
(住んでいる世界が違う)
 勿論、生まれの違いなどでシグルドが態度を変えることはない。イル・ラッセルの領城で、貴族に囲まれて育ったとは思えぬほど、分け隔てがない。
 それでも、ルクスは萎縮してしまうのだ。
 王都にまで名が知れ渡る、この世のものとは思われぬほどの美しい姫君オーガスタ。騎士の中の騎士と、市民の羨望を集めるロキエル。眩しすぎて、まともに目も合わせられないような人々と、対等に言葉を交わすシグルドを見ていると―――。
(あたしには、理由がないから)
 ヴァンやゲルダのように。
 共に旅をする、確固たる理由が見当たらない。

 ぎゅっと、枕に顔を押し付けた。
 手首が額に触れる。
 不意に、強い力で握られた感覚が蘇った。

―――ルクス!


            *


「ルクス!」
 夕暮れを告げる塔の鐘をかき消すほどの声で、少年がルクスを呼んだ。
 サージェントの、大通りだ。
 行き交う人波を押し分けて、石畳を駆け寄ってくるその姿。
 まばたきもできずに、呆然と立ち尽くすルクスの手首を、彼は掴んだ。
 息を切らし、肩を上下させ、少年はルクスを見つめる。
 髪も瞳も濡れているように黒く、鼻の頭にはそばかすが残っている。背丈は、ルクスよりも少し高い。
 ありえないことに、見慣れた姿だった。
 共に村の中を駆け回って育った。
 幼馴染。
「フォルグ……?」
「よかった!」
 半信半疑のまま名を呼んだルクスは、次の瞬間、強い力で抱き締められていた。
 背骨を折られてしまいそうなほどの力と、触れ合う体温に、ルクスはようやく、目の前の存在が幻ではないことを実感した。
「生きてたんだな、ルクス」
 耳元に届く幼馴染の声は、震えていた。
「フォルグこそ……」
 おずおずと背に腕を回し、抱き返す。
 酷く混乱していた。
 自分以外、村の人間はすべて死んだと思っていた。それなのに、幼馴染が目の前に現れた。
 そして彼が、記憶の中よりもずっと逞しくなっていることにも、戸惑った。
「……どうして?」
 様々な疑問が、一言になって零れ落ちた。
「あのときオレ、山にいたんだ。もしかしたら、新しい鉱脈が見つかるかもしれないって話だったから。兄貴と一緒に……」
 ルクスは驚いて、フォルグから少し体を離した。
 漆黒の瞳を見つめ返す。
「ラルグ兄さんも、生きてるの?」
「ああ」
 頷いたフォルグは、その瞳に憂いを滲ませ、うつむいた。
「足をやられちまって、まともに立てなくなっちまったけど、さ」
 ルクスも声を失って、目を伏せた。
 フォルグの兄であるラルグは、屈強な若者だった。村の誰よりも働き者で、豪快で逞しい。ルクスの面倒もよく看てくれた。そして―――。
 本当の兄に、なるはずの人だった。
 姉と一緒にいるときのラルグの笑顔を、今でもありありと思い出すことができる。
 力自慢の彼がまともに歩けないなんて、なんという拷問なのだろう。
「怪我が治るまで、親戚の世話になってたんだ。ここで仕立て屋やっててさ。本当は、サージェントなんかに来るのはイヤだったけど……」
 フォルグの顔に、苦渋の色が滲んだ。
 無邪気に遊んでいた頃には、一度も見せたことのないような表情だった。
 急に、よく知っているはずの幼馴染が、他人のように見えた。
「どうして?」
 サージェントはこれほどまでに大きな街で、ドラゴンの攻撃を受けたこともない。サージェント侯爵は善政を行っているし、強力な騎士団もある。
 傷を癒すのに、これほど恵まれた環境もあるまい。
「だってさ、サージェントって、シグルドの母親の家なんだろ?」
 唾棄するように吐き捨てるフォルグの言葉に、ルクスの心がさっと凍った。
 苦渋に歪ませた瞳に、憎しみすら滾らせて、フォルグは続ける。
「村を焼いたのは、シグルドだからな」


          *


 胸にじんわりと広がる冷たい傷みに、ルクスはきつく目を閉じた。
 柔らかい枕に強く顔を押し付ける。

―――しばらくはサージェントにいるから訪ねてこいよ! 兄貴も喜ぶ!

 瞳に宿した憎しみを振り払うように、フォルグは笑った。
 その笑顔すら、ルクスの胸に突き刺さる。
(どうしよう)
 フォルグと別れて、この部屋に戻るまで、何度も何度も繰り返した。
 一体、どうしたらいいのだろう?
(帰る場所なんて、もうないと思ってたのに)
 この手は、固い土を掻いた感触を今でも覚えている。
 土に混じった石で、爪が割れた。命を失った人々の、重い体を引きずった腕の痺れすら、まだ残っている気がする。

 ひとりだ、と思ったから。
 もう誰も、自分を知る人がいなくなったと思っていたから。
 無鉄砲になれたのだ。
 獣や魔物が息を殺す深い森にも、ためらわずに踏み込むことができた。
 大罪人として恐れられる公子と共に、旅立つことも。
 勿論はじめは、目的があった。
 シグルドが何者なのかを見極める、という目的が。
 けれど、ルクスはもうシグルドを疑わない。
 彼を知ったからだ。
 決して逞しいとは言えないその肩に、悲壮なほどの決意を背負って立っていることを、知ってしまったから。
 命を預ける、と託されたラッセル家の短剣も、はじめは絆だった。
 それも今は重い。
 与えられた剣の重みに見合うものを、持ち合わせていないからだ。
 ヴァンにもゲルダにも、戦う理由がある。
 彼らにしかできない役割がある。
 自分はどうだろう?
 命を賭ける旅に同道する資格が、あるのだろうか?
 戦うこともできない、非力な小娘だというのに。
 足を引っ張らないと言えるだろうか?
 優しい彼らのことだから、きっと許してくれるだろう。
 それでも、自分の存在が妨げになったときのことを考えると、胸が締め付けられるように痛む。
(あたし、どうしたら)
 このまま共に―――シグルドと共に、旅を続けてもいいのだろうか?

(どうしたらいいの?)


【つづく】