31.

 容赦もなく、全身の重みを預けて。
 男の体が倒れこんでくる。
 愕然と、ゲルダはその体を受け止めた。
 重い。
 貧相な男の体に、これほどの重量があるなど、思ったこともなかった。
 声を振り絞って、名前を呼ぶ。体を揺すってみても、指一本動かない。
 触れ合った肌が、失われてゆく温度を伝える。
 不意に、命を失ったはずのエギルの体が、激しく震えた。
 背に刺さった化け物の肢が、無理矢理に引き抜かれたからだった。
 生暖かい血しぶきが跳ね、ゲルダの頬に飛んだ。
 頬に散る血潮のあたたかさに、見開かれた目から涙が溢れた。
 やけにゆるやかに、化け物の肢が振り上げられる。
 今度はエギルの体ごと、この身を貫くつもりだろうか?
 エギルの亡骸の重みと、全身を包む虚脱感のせいで、動けない。
 だつだつと落ちる雫が、容赦なく降り注ぐ。
「レン……」
 エギルの体からあふれ出した血で、全身が濡れる。
 涙で視界が曇る。何も見えない。
 どうして、こんなことになってしまったんだろう。
 やさしくかけてくれた言葉も、この身を抱いてくれた温かい腕も。
 全て、嘘だったのだろうか?
 高々と振り上げられた肢が、確実にこの体を狙って振り下ろされる。
 凶暴な槍を、突然飛び込んできた影が、受け止めた。衝撃に、地面が揺れる。
「ゲルダ、逃げろ!」
 屈強な肩に化け物の肢を抱えて、ブラギが叫んだ。
 凶暴な力に全身が軋む音が聞こえるようだ。
「ブラギ……」
 体が動かない。掠れた声で名を呼ぶのが精一杯だ。
 ブラギは、血に濡れた肢の一本を抱えながら、首だけを動かして後方を振り返った。
 苦悶に歪む顔で、まっすぐにシグルドを見つめる。
「お嬢を……助けてくれ!」
 全身の力を振り絞るような、絶叫だった。
 弾かれたように動いたのは―――ルクスだった。
 シグルドの傍を飛び出し、エギルを抱きかかえたまま動けずにいるゲルダの腕を取る。
「いやだ……」
 ゲルダがその細い腕を振り払う。
 必死に、エギルの亡骸を抱きしめた。
「あたしひとり、逃げるなんて……」
「だってこのままじゃ!」
 強い声がゲルダを一喝した。
 ぎこちなく瞬いて、ゲルダは初めて少女の顔を見た。
「このままじゃ、みんな死んじゃうよ!」
 少女の胸元で揺れている石が、淡く輝いている。
 その輝きを跳ね返すように、ルクスの目が濡れていた。
「みんな、貴方のこと助けようとしてるんだよ!」
 ゲルダの二の腕を掴み、ルクスは必死に引っ張り起こそうとする。
 意思を失ったエギルの骸が、ゲルダの腕から転がり落ちる。
 少女のものとは思えぬ力に引き起こされ、ゲルダは震える足で地面に立った。
「ゲルダ、ここは、あぶない」
 全身に、過ぎるほどの重みを抱えてきながら、ブラギが優しく促した。
 まるであの日、制止を無視して遺跡の奥に踏み込むゲルダを、たしなめたときのように。
 少女の腕が、強くゲルダを引く。
 石畳に躓きそうになりながら、ゲルダはエギルとブラギの元を離れた。

 高いいななきと共に、自ら光を放つ美しい天馬が石畳を蹴った。
 ブラギの体を別の方向から突き刺そうとする禍々しい肢に、その肢体ごとぶつかってゆく。
 化け物の体が、ぐらりと傾いた。
 その隙に、シグルドとフェスターは剣を抜き、ブラギの元へ駆けつける。
 しかし、ブラギは凶悪な肢の一本を抱えたまま、助力を拒んだ。
「俺は、いい。ゲルダを……助けてくれ!」
 力ない呟きを最後に、ブラギの体は、シグルドたちの目の前で、血に濡れた肢に押しつぶされた。
 剣を握ったまま愕然とするシグルドを新たな獲物と見定め、ブラギを押しつぶしたその肢が振り下ろされる。
 舌打ちを落とし、シグルドは後方に飛びのいた。
 肢は強固な甲殻に覆われている。剣を抜いたところで、ダメージは与えられないだろう。
 剣を握る右手を、見る。
 契約の紋章が刻み込まれた手だ。
 先程、この化け物を退けた、あの光。
 必要なのは、今だ。
 しかし、どれほど念じても、右手がその輝きを宿す気配はない。
「くそっ……!」
「シグルド! 今は退いたほうがいい!」
 どこか離れたところから、ヴァンの声が飛んでくる。
 間髪いれず、暴風が巻き起こった。化け物の侵攻が、止まる。
「シグルド!」
「若様!」
 闇の中から呼ぶいくつもの声に引きずられるように、シグルドは化け物に背を向けた。
(肝心なときに使えないなら……)
 忌々しげに、右手を見つめる。
(何のための力だっていうんだ!)





 少女に手を引かれ、がむしゃらに走った。
 走る少女の胸元で揺れる石が、ちらちらと光る。
「……戻ってきちまったか」
 先頭を走っていたヴァンが、深い溜息と共に足を止めた。
 ルクスが立ち止まるのと同時に、ゲルダは膝から崩れ落ちた。
 床に突いた左手が、びちゃりと音を立てる。生ぬるい感触だった。
「ここは……アジト? なんか、生臭いにおいがする……」
 走り通しで、息が上がっている。ルクスはゲルダの右手を掴んだまま、壁に背を預けた。
 シグルドとフェスターは無言だった。
「……明かり、つけるぞ」
 少しためらう様子を見せたあと、ヴァンが壁の松明に火をつけた。
 ぼっと音を立て、赤々とした炎が周囲を照らし出した。
 ひっ、とルクスの咽喉が鳴った。
 ゲルダは、床に突いた左手を濡らす水を見下ろした。
 炎を受けて、赤く光っている。
「……ひどい」
 ゲルダの手を離し、ルクスは両手で口元を覆った。
 公子と従者は、痛ましげに目を伏せた。

 ゲルダは視線をさまよわせた。
 手を濡らす、赤い水。その傍に、人の手が見えた。しわがれている、老人の腕だ。
 ゆるく開かれたその掌の傍に、光るものがあった。
 かじかんだようにうまく動かない指先で、ゲルダは黄金色に光るものを拾い上げる。
 指先でつまめるぐらいの、ちいさな……。
 金色の指輪だった。
 鎖を通してあり、首からかけられるようになっている。
 ぺたりと地面に座り込んで、指輪を掌にのせる。

―――ほら! これ、きっと純金だよ!

 親指と人差し指の間に挟んで、得意げに差し出した。まだ、子供を脱したばかりの自分だ。
 初仕事の戦利品だった。
 義賊の娘に生まれながら、男どもはゲルダを仕事場へは連れて行かなかった。
 “仕事”への同行が許されたのは、十五の年。ようやく一人前に数えられるようになったのだと、ゲルダは鼻高々だった。

―――そのような小物、爺はたくさん見てきておる。

 鼻を鳴らし、父親の右腕であった男が笑った。仕事の最中に片足を失ってからは、アジトで留守番をする事の多くなった、ゲルダの教育係だった。

―――もう! じゃあ、こんなのバル爺にやるよ!

 初めての仕事なのに、もっと褒めてくれたらいいのに。
 半ば拗ねながら、ゲルダは男にその指輪を押し付けた。

―――いつか絶対、もっと凄いもの見せてやるから! それまで持ってて!

 黄金の指輪を渡されたバル爺は、訝しげに親指と人差し指に挟んで目を眇める。

―――どうかの。こんなもの、酒代の足しにもならん。

 コインのように宙に投げては受け止める。軽い扱い方だった。
 ゲルダ自身も、今の今までそんな約束をしていたことなど忘れていた。
 指輪から顔を上げ、ゲルダは地面に投げ出されているしわがれた腕を見た。
 血に濡れた腕を伝って、その顔、その体を順番に見た。
 老人の骸には、腰から下が無かった。
 別の男の足、腕。
 血にまみれた床には、まるで人形のように亡骸が折り重なっている。

―――絶対! 絶対捨てるなよ!
―――さあな、爺の気分次第よ。

 指輪を乗せる手が、震える。
 千切れた鎖が、赤い海の中に落ちた。
 急に、体の奥から大波がこみ上げてきた。
 両手で、強く指輪を握り締めた。拳を額に押し付ける。
 咽喉に力を入れても押し戻せない嗚咽が、噛み締めた唇の間から零れ落ちた。
 なくしてしまった。
 何もかも。
 一体、何が間違っていたというのだろう。
 ひとり、残されて。
 どうやって生きていけばいいのだろう?



32.

 まさに、血の海だった。
 屈強な男たちの体が無惨に引き裂かれ、あちこちに散らばっている。
 これほど残虐な虐殺を、シグルドは見たことがなかった。
 五体満足に残っている体は見当たらない。
 うめき声と共に、ルクスが口元を覆う。
 シグルドも凝視することが出来ず、地獄絵図から目をそむけた。
 視界の端に、光るものを見たのは、そのときだった。
 松明の光を受けて光る、刃を。
「やめろ!」
 ぞっと背筋を這い上がる悪寒と共に、体が動いた。
 力なく座り込む娘の手の腕を掴む。
「離してよォ……ッ!」
 首筋にナイフを当てたまま、ゲルダがもがいた。
 炎の輝きを受けて、小刀がぎらぎらと光った。
 ゲルダががむしゃらに振り回すナイフを、シグルドは乱暴に、もぎ取った。
 音を立てて、ナイフが遠くへ転がる。
 涙で濡れた瞳に怒りをたぎらせ、ゲルダはシグルドを睨み据えた。
「何するのよ……!」
 爛々と輝く憤怒の瞳に、シグルドの胸にも激情がこみ上げた。
「ふざけるな!」
 自分でも聞いたことのないほどの怒声だった。
 手負いの獣のようにうずくまるゲルダの肩が、震えた。
 咽喉の奥から、こみ上げる熱をそのまま吐き出す。
「お前は、自分がどれだけの人々に生かされたのか、気づいていないのか!」
 一度あふれ出したら、激情は止められなかった。
 腹立たしくて仕方がなかった。怒りで、声が震える。
「お前を守るために、どれだけの命が失われたと思っているんだ! そのうちのたった一つだって、こんな死に方をするべきじゃなかった! お前はそれほどまでに愛された命を、自分から捨てるつもりなのか!?」
 きつく噛み締められたゲルダの唇から、こらえきれない嗚咽が零れ落ちた。
 大きな瞳に張った涙の膜が、炎を受けて、光った。
「だって……」
 掠れた声が、細く、落ちる。
「だってあたし……もう、どうしたら……いいのか」
 ふくれあがった涙が、雨のようにばたばたと落ちた。
「わかんないよ……だってみんな……みんな死んじゃっ……」
 仕舞いまで言葉は続かなかった。
 ふたたびこみ上げた嗚咽に、咽喉をふさがれてしまった。
 肩を震わせるゲルダに、シグルドは。
 紋章の刻まれた右手をそっと、差し出した。
 差し出された手の真意を測りかねて、ゲルダが泣き腫らした目をシグルドに向けた。
「立て」
 きっぱりと、シグルドは告げた。
 ゲルダの大きな瞳が、更に見開かれた。
「お前には、立ち上がって歩く義務がある」
 強い、けれども静かな声だった。
「お前を逃がした誰一人、お前の死を願う者はいないはずだ」
 差し出されたシグルドの手を、ゲルダはじっと見つめる。
 奇妙な紋様が刻まれた手だ。
 レンは、彼らを信用するなと言っていた。
(だけど、レンは……)
 ゲルダから全てを奪ったのは、レン―――なのだ。
 もう、何を信じていいのか、ゲルダには分からなかった。
「……エギルとブラギの最期の言葉を覚えているか」
「え……?」
「お前に、逃げ延びて欲しいと言ったはずだ」

―――あんたは、一党全員の娘だ。絶対に……、生き残って……。
―――ゲルダ、ここから逃げるんだ!

「彼らの命がけの遺言を、僕は守る覚悟がある。僕のことを信じられないなら、二人の言葉を信じればいい」
 ゲルダは、老人が残した指輪を強く握り締めた。
 彼らはどんなときも、いつだって。ずっと一緒にいて。
 ゲルダの味方だった。
「立ち上がる覚悟があるなら、彼らの誇りにかけて―――お前を守る」
 真摯な、深い緑の瞳だ。
 ゲルダは、こわばった腕をそっと、持ち上げた。
 奇妙な紋様を刻み込んだ青年の手に、血に濡れた自分の手を、重ねた。
 思っていたよりもずっと、あたたかい手だった。
「立てるな?」
 シグルドの手が、ゲルダの震える指先をしっかりと包み込む。
 幼子を諭すような、優しい声だった。
「……うん」
 震える声で頷いて、ゲルダはその手を、強く握り返した。





「……”はざま”って、何? ヴァン、知ってる?」
 木箱に腰掛けて、ルクスが呟いた。
 亡骸の折り重なる酒場を避けて、一行は食糧庫に身を寄せた。
 一本の松明が作り出す、わずかな光に寄り添う。
「聞いたことがない」
 片膝を立てて座ったヴァンが、静かに答えた。
「スレイプニル(あいつ)、そんなこと今まで一言も……」
 松明の光が描くいびつな円の境界に、ゲルダは自分の肩を抱くように座っている。
 シグルドが手渡してくれたケープを肩から羽織り、体を小さく丸めている。
 ふと、左の二の腕を握る、自分の右手を見つめた。
 糸の切れた人形のように言うことを聞かなくなった体を、力強く引き起こした掌を思い出した。
 その温度を。
「……あの魔物、どうやって現れたのでしょうか?」
 倉庫の入り口の側に立ち、見張りの役目を務めながら、フェスターが呟いた。
「突然に、あの男の頭上に現れたように見えましたが……」
「僕もそのことを考えていた」
 炎の灯りが届かぬ場所で、壁に背を預けて立ったままのシグルドが応える。
「天井を伝って来たにしては、音がしなかった」
 本性を現したグレンデルの頭上に、一瞬にして現れたあの化物。
 ドラゴンイーターの力におののいて、遠くへ逃げたのではなかったのか?
「魔物は、空間を越えることができるのか?」
「……力による」
 うつむいたまま、ヴァンがシグルドの問いに応える。
「力の弱いやつは、動物と同じだ。少し雨を降らせることができたり、風を起こすことができたり……そのぐらい。だけど、力の強いやつは、距離だけじゃなく、時間も越える。あのバケモノが何かは分からないけど、強い力があれば、できないことじゃない」
「だったら……」
 ルクスがこわばった顔を上げた。
 そのすぐ傍で、ヴァンがゆっくりと頷く。
「この遺跡のどこだって、安全な場所はないってこと」
「―――その通り」
 地の底から響くような声が、含み笑った。
 ぞっと、背筋が粟立つような感覚に、ゲルダが顔を上げる。
 入り口の傍に立っていたフェスターが、はじかれたように戸口から離れ、身構えた。
 ヴァンはバネのように跳ね起き、シグルドは剣の柄に手をかけた。
 戸口に、いつのまにか人影がある。
「グレンデル―――!」
 しぼり出すように、シグルドが人影の名を呼んだ。
 闇の中でさえ爛々と輝く赤い瞳が、舐めるように一同を見渡した。
 そっと、自分の肩に触れた手がある。
 ゲルダはその感触に体を震わせた。
 すぐ傍に少女の姿があった。
 自分よりも小さな体で、肩に触れる指先だって震えているのに―――。
 ルクスはまるでゲルダをいたわるように、守るようにそこにいる。

―――このままじゃ、みんな死んじゃうよ!

 もしもあのとき、この子が腕を掴んでくれなかったら……。
 立ち上がれていただろうか?
(あたしは今、何を信じるべきなんだろう)
 どちらの手を、信じるべきなのだろう?
 小さなルクスの手。そして、幼い頃から優しく包んでくれていた、レンの手。
 いい加減に目を覚ませ、と。体の内側から叫ぶ自分の声も聞こえる。
 甘やかな夢は終わったのだ、この地獄を見ろ―――と。
(だけど、体はずっと覚えてる)
 凍えそうな夜に、優しく抱きしめてくれたあのぬくもり。
 簡単に忘れるなんてできない。
「ひとりにして済まなかったね、ゲルダ」
 揺れるゲルダの心を見透かすように、グレンデルはそっと右手を差し伸べた。
「寂しかっただろう、おいで」
 足が動いた。
 差し出された手に導かれるように、立ち上がる。肩から、シグルドのケープが落ちた。
 血に濡れたままの姿で、しっかりと立った。
「ゲルダ……」
 すがるようにルクスに名を呼ばれた。
 けれど、少女を振り返らずに、足を前に進める。
 一歩ずつ、石の床を踏んで差し伸べられた手の方へ向かう。
 四方から注がれる、刺さるような視線のどれにも、振り向かなかった。
 真っ直ぐに、赤く光る瞳だけを見据えた。
 手を伸ばせば届く距離。そこまで近づいて、見つめ合った。
「ねぇ、レン」
 よく知っているようで、全くの他人に思えた。
 まがまがしく輝く赤い瞳が、穏やかな記憶をかき乱す。
 小さく首をかしげて、レンは言葉の続きを待った。
 その仕草は、彼の癖だ。
「あたしのこと、好き?」
 恥らう乙女のように、ゲルダは問いかける。
 優しく目を細めて、レンは微笑んだ。
「愛しているよ、ゲルダ」
 ゲルダは泣き顔で笑った。
「―――うそつき」
 松明の炎を受けて、闇の中で刃が光った。



33.

「愛しているよ、ゲルダ」
 まるで土にしっとりとしみこむような、情愛に満ちた声音だった。
 こんな場面で、そんな潤った声を出せるなんて。
 ゲルダは思わず、笑ってしまった。
「―――うそつき!」
 手が素早く、腰に伸びた。
 慣れ親しんだ得物をつかみ出す。闇の中で、小刀が炎を浴びて光った。
 二本の短刀を交差させ、グレンデルの喉元に押し当てる。
「……もう下手な芝居はいいよ」
 すみれ色の瞳が、強い意志の炎をたたえていた。
「何を信じて、何を掴むのか。これからはあたしが決める」
 掴めなかった、世話役と幼馴染の。
 地獄から救い出してくれた、か弱い少女の。
 自ら選べと差し出された、魔力を持った青年の―――。
 いくつもの手。
「あんたのこと、ひとつも……」
 うっすらと、瞳に涙が滲む。決してこぼさぬように、喉元を掻っ切れるその距離で相手をきつく睨んだ。
「ひとつだって! 知らなかった!」
 どこで生まれて、何のために。
 思い返せば、何も知らない。本当の、名前さえ。
 ただ、あやすように与えられた温度に縋りついていただけ。
 その記憶も、甘く幸福ではあるけれど……。
「だからあたしは、自分の耳で聞いたものを信じる。エギルの、ブラギの言葉……。あんたの言葉も!」
 あとからあとから滲み出す涙を振り払うように、ゲルダは頭を揺すった。
「あんたが、親父や皆をあんなふうにしたなら……。あたしは、フィルハイム一党の娘として、あんたを絶対許さない!」
「……たったひとりで一党か。細腕一本で、何ができる」
「ひとりでも! あたしはフィルハイムの―――義賊の娘だ!」
 交差させた刃を、腕を開くように振るう。
 しかしその刃は、低い天井から真っ直ぐに振り下ろされた化物の肢にはじかれた。
 はじき返される反動を利用して、ゲルダは後方に飛ぶ。
 猫のように体を丸めて、しなやかに着地した。
 間髪を入れず、グレンデルの背から二本の化物の肢が伸び、ゲルダを追尾する。
 体勢を立て直す間もない。
 迫る鋭い爪に、あまりに無力な短刀を掲げた。
 しかし凶暴な牙は、ゲルダに届く手前ではじき返された。
「―――シグルド!」
 美しい顔立ちをゆがめ、グレンデルが吐き捨てた。
 ゲルダは、掲げた短刀の向こうに立つ背中を見た。
 右手に輝く剣を持ち、ゲルダをかばうように立つ、青年の背だ。
「信じるものは決まったな?」
 肩越しにわずかに振り返り、シグルドが問う。
 右手から淡い光が湧き立ち、髪や服が揺れていた。
 愛用の短剣を握りなおし、ゲルダはしっかりと頷いた。

―――立て。

 シグルドからぶつけられた言葉を、今度は自分に言い聞かせる。
 立ち上がって、前に進め。
 生き残る、義務がある。

 両の足でしっかりと立つゲルダを見届け、シグルドは背から凶悪な肢を生やす男に向き直った。
「それならお前はひとりじゃない」
 淡い光を放つ剣の柄を、両手で握りなおす。
「僕も一緒だ」
 一瞬で胸が満たされ、全身に震えが走った。
「うん―――!」
 体中を満たしてゆく興奮をおさえるように強く、強く頷いた。





「ドラゴンイーターか」
 憎々しげに舌打ちを落とし、グレンデルは淡い光をまとう青年を睨みすえた。
「目的は何だ?」
 シグルドは足を開いて立ち、強い意志の宿る瞳で仇敵の下僕に問いかける。
「私が欲しいのは貴様の命だ、シグルド。ドラゴンイーターを手に入れたというのなら尚更、見過ごすわけには行かない」
「カリストフの望みは何だ? ただラッセルだけを望むような男じゃないはずだ」
「その望みを知る必要はあるまい。貴様はここで―――死ぬんだ」
 グレンデルの背の皮膚を突き破るように、禍々しい肢が飛び出した。
 人でも魔物でもない、その凶悪な姿にシグルドは息を呑んだ。
「そこの契約者が言うように、私はある程度の距離ならば越えることができる。それなりに力もあると自負もしているよ。だが、その剣だけはいただけないな。スルトを一刀に伏したというその力、まがい物ではあるまい」
 シグルドは唇を噛んだ。
 この剣を受けて崩れ落ちた、炎の使い手を思い出していた。
「ドラゴンイーターを手に入れたとはいえ、貴様はまだ生身の人間。この遺跡が崩れれば、生き残れまい」
 グレンデルが右上を挙げ、掌を天井に向けた。
 細くしなやかな腕が、肘から禍々しい爪に変わって伸び、石造りの天井に突き刺さる。
「ゲルダ」
 優しい声音で、グレンデルが呼びかけた。
「私を憎むがいい。体のすみずみ、血の一滴まで、憎しみを刻み込むがいい。それは、自らの命を憎むことだ」
「……どういう、こと?」
「私とお前には、同じ血が流れている」
 ゲルダが息を飲んだ、そのとき。
 天井を突き破って、禍々しい化け物の爪が槍のように降り注いだ。
 砕かれた天井が、一気に崩れ落ちる。
 分厚く積み重ねられた石を、一気に刺し貫いた無数の爪。
 地響きが足元を容赦なく揺すった。
「この遺跡を貫く、柱の根幹を破壊した。まもなく崩れ去るだろう」
 降り注ぐつぶてに逃げ場を失う公子一行を楽しげに眺め、グレンデルは口元をゆるめる。
「その力が本物だというのなら、生き残ってみせるがいい。その力が、降り注ぐ石すら防げるというのなら、な」
 ゆらりと、グレンデルの姿が揺らいだ。
「私を追っておいで、ゲルダ。―――愛しているよ」
 まるで煙のように、その姿が掻き消えた。



34.

 遺跡は跡形もなく崩壊していた。
 かろうじて支えあっていた部分もすべて破壊され、ただの瓦礫の山と化していた。
 全景を見下ろせる高台に立ち、ゲルダは吹き付ける風に目を細める。
「ゲルダ……」
 後ろからそっと、あどけない少女の声がかかる。
「あたしが皆を殺したのかもしれない」
 振り返らずに、ゲルダは呟いた。
 背後で、少女が息を飲む音が聞こえた。
「あたしが、レンを信じてたから。皆の気持ちを、信じられなかったから……」
「ゲルダのせいじゃないよ」
 後ろからおずおずと伸びてきた手が、ゲルダの右手を優しく包んだ。
「……だったらあたしは、何を憎んだらいいの?」
 手首に触れる、他人の体温。
 少し熱いその温度に、景色がにじむ。
「あんなことになったのに、あたしまだレンのこと信じたがってる。……馬鹿みたい」
 ルクスと結ばれていないほうの手で、ゲルダは滲み出した涙をぬぐう。
 自分でも信じられない。
 心のどこかでまだ、あの男を憎みきれない自分がいる。
 エギルとブラギの最期を見届けて、尚―――。
 幼い頃に、甘い菓子のように与えられた温度を、忘れられずにいる。
「でもゲルダは、あたしたちのこと助けてくれたでしょ」
 震えるゲルダの手を、ルクスは少し強めに握った。
「自分がやったなんて、信じられない……」

 食料庫の入り口を崩れた岩で塞がれ、逃げ場がなくなったそのとき。
 ゲルダの体からまばゆい光が爆発した。
 溢れ出す光に包まれた、次の瞬間。
 シグルドたちは、この丘に立っていたのだった。

 涙をぬぐったその掌を見つめる。
 一体、何が起こったというのだろう?
 今まで一度だって、あんな力が現れたことはない。
 強い魔力を感じた、とヴァンは言う。
 助けてくれた、とルクスは言う。
 けれど、自分の力だとはとても信じられない。

―――私とお前には、同じ血が流れている。

(どういうことか分からないよ、レン―――)
 何の変哲もない掌を、きゅっと握った。





「間違いない。サージェントの尖塔だ」
 高台から、遺跡とは反対の方向を見渡して、シグルドが呟いた。
「出来すぎているようにも思えますが、結果的に良い方に動きましたね」
 隣に並んだフェスターが、目を細めて同じ塔を見つめる。
「サージェントって、城塞都市だろ? 独自の軍隊を持ってるって聞いたことがある」
「ヴァンは本当に物知りですね。守り人として、里を離れられなかったでしょうに」
「長は……婆様は、本当に色んなことを知ってるひとだったんだ。それに、スレイプニルも人間のことを良く観察してた。外の世界も知らなきゃいけないって、ずっと言われてたから……」
「言われたことを実践できる者は少ない。お前の長所だな、ヴァン」
 渡る風に亜麻色の髪をなびかせて、シグルドが呟く。
 その足元に腰掛けて、眼下に広がる平野を見下ろしていたヴァンが、噎せた。
「……シグルドって、時々恥ずかしいこと平気で言うよな」
「それが、若のいいところですよ」
 小さな呟きを耳にとめて、フェスターが冗談めかして言った。
「何の話だ」
「なんでもねぇよ」
 怪訝そうな顔をするシグルドの足元から、ヴァンは立ち上がった。
「それより、日暮れまでに街にたどりつかなければ。サージェントは夜間の出入りは禁止のはずです」
「そうだな」
 頷いて、シグルドは後方を振り返る。
 無残に崩れた遺跡を見下ろした。
 たくさんの命が奪われた場所だ。
 あそこまで崩落してしまったら、弔うことも許されない。
 紋様の刻まれた右手を見下ろす。
 この力を、思うように使えていたら―――。
 失わなくても済む命があっただろうか。
「若」
 空の掌をじっと見つめる主君の傍らに、フェスターが寄り添った。
「前を向いて、歩く義務があると―――彼女に告げたのは貴方ですよ」
 フェスターの言葉に導かれるように、掌から顔を上げる。
 ゲルダが立っていた。
「行くの?」
 すみれ色の瞳は赤く腫れていた。
 それでも、もう泣いてはいなかった。
「サージェントへ行く。母方の類縁である、サージェント候のお力を借りることになるだろう」
 旅の目的と自分の素性は、すでに彼女に告げていた。
 彼女は知る権利があった。
 グレンデルがカリストフの配下であるというのなら、フィルハイム一党は巻き込まれ、利用され、命を奪われたのかもしれない。
 ゲルダがシグルドを憎むのなら、仕方がない。
「できることなら何でもしてくれるって、言ったよね」
「今の僕にできることは、そう多くない。それでもいいのなら」
「あたしも一緒に行く」
 きっぱりとゲルダが告げた。
 シグルドは、驚きに目を瞠った。
「あんたについていったら、またあいつに会えるんでしょ」
「……おそらく」
 一度で諦めることはないだろう。
 カリストフの元へたどりつくためには、配下の妨害を退ける必要がある。
「この、訳のわかんない気持ちに、ケリをつけたい。レンが―――グレンデルが一体何を考えてるのか。あたしの力が何なのか。自分の目で確かめたい」
「生きて帰れる保証はない」
「このままここに残ってひとりで安全に生きても、きっと後悔する。それに……」
 難しい顔をしているシグルドに、ゲルダは笑顔を向けた。
「なんでもしてくれるって言ったよね?」
 シグルドは、眉間の皺を更に増やした。
「ヴァンといいお前といい、物好きばかりだ」
 嘆息と共に吐き出す。
 それは、了承だった。
「日暮れまでにサージェントの門をくぐる。早く行くぞ」
 フェスターとヴァンは顔を見合わせて肩をすくめ、丘を下り始める。
 ルクスはゲルダの背中を軽く叩いてから、従者と少年の背を追った。
「シグルド」
 相変わらず難しい顔をしたままのシグルドを、ゲルダは呼び止めた。
 踏み出しかけた足を止めて、シグルドは肩越しに振り返る。
「ありがとう、『一緒だ』って言ってくれて」

―――それならお前はひとりじゃない。
―――僕も一緒だ。

 あの一言が、どれほど心強かったか。
 すべて失って、自分はひとりだと思っていたのに。
 倒れそうになった背を支えてくれた。
 だから、共に行こうと決めた。

「お前は、ひとりじゃない」
 改めてゲルダに向き直り、シグルドはしっかりと告げた。
「託された命すべてが、お前と生きていく」
 ゲルダの胸元に揺れる黄金のリングの放つ輝きに、目を細める。
「自分を信じろ。お前に託された命を、信じるんだ」
「シグルドのことも信じるよ」
 ゲルダは、鎖に通して首から下げたその指輪を、そっと右手で包む。
「信じても、いいよね?」
 真っ直ぐにシグルドを見つめるゲルダの瞳には、迷いがない。
 凛々しい瞳だった。
「期待に応えられるかは分からない」
 信じてもらえるほど、高尚な人間ではない。
「あんたはそのままでいいんだ。そのままのシグルドでいてくれたら、あたしはあんたのことを信じていられる」
「……そのまま?」
「真っ直ぐ前を見ててくれたらいいんだ。自分の信じるようにしてくれたらいい」
 真摯な眼差しを、シグルドは受け止める。
「分かった」
「約束だからね」
 頷くと、花がほころぶようにゲルダが笑った。



【つづく】