子どもは寝る時間




1.

 そこはせめてメンソールじゃないか。
 嫌煙が声高に叫ばれる世間に堂々と立ち向かうかのように、タール12ミリの煙を吐き出す彼女を真向かいから眺めて思ったことはそれだ。俺なりの現実逃避ではないかと思う。
 けれども多分、思わず現実逃避をしたのは俺だけではあるまい。この場に居合わせた野郎どもはみな一様に、現在目の前で繰り広げられている現実を認められずにいるに違いない。
「だから高校の同窓会だって言ったでしょ、嘘ついてどうすんのよ。いい? 切るからね!」
 左手に煙草、右手に携帯電話を持った彼女は噛み付く勢いで”吠えて”、電話を切った。
「ホント最悪。ひとを信用するってこと知らないのよね」
 料理とアルコールとがところ狭しと並べられたテーブルに携帯電話を投げ出して、彼女は体全体で嘆息した。慣れた手つきで灰を落とす。

 ―――本当に相崎だろうか。

 高校時代の同窓会が開始されてから一時間が経過した今もいまいちエンジンがかからないのは、男どもがダウンしたまま復活できないでいるからだ。
 それだけ彼女の先制パンチが強すぎた。
「吾妻くん、吾妻くん」
 件の相崎香奈が、真向かいから俺の手元あたりをぱたぱたと叩いた。手入れの行き届いた爪には無数のラインストーンが貼り付けられ、きらきらと輝いている。
「最近どーなの、書いてる? ショーセツ」
「ええまあ」
 他人行儀な返事をした。
「スゴイよねぇ。あ! あとでサインちょうだい、サイン」
 カナちゃんへって書いてね、と相崎は微笑した。完璧に作りこまれた顔は遠目から見てもぱっと目を引くぐらいに美しい。ほそく長い指先にあたらしい煙草を挟んで、目を眇めて火をつけた。
 別に俺は嫌煙家というわけではない。というよりも、他人のことはまったく何も言えない。右手にはしっかりとセブンスターを携えているからだ。
 女性蔑視というわけでもない。吸いたいやつはまわりに迷惑をかけないように吸えばいいのだ。
 ならばどうしてこんなにも彼女の指先に目が行くのかといえば。
 あまりにも昔とかけ離れているからだ。彼女の、雰囲気が。



 天然で図書委員で引っ込み思案。
 高校時代の相崎香奈は、まるでアニメから抜け出してきたかのような完璧な”萌え”属性だったのである。
 彼女を思い出そうとすると、教室の隅で文庫本をひらいていた姿が一番に浮かんでくる。目立つことが苦手な、言ってしまえば地味な子だった。
 ぐっと視線を引き寄せる華やかさこそなかったものの、清楚な雰囲気にひそかなファンは多かった。萌えってなんだよ、と口先では馬鹿にしながらも野郎どもは結局、王道が好きなものである。
 俺のひねくれた性格はその頃にはもうすでに完成していたから、彼女との接点はほぼ皆無だったと言っていい。大人の事情もわからずに、気に入らないものは気に入らんと真っ向から突撃する俺と、従順で清楚な彼女。
 唯一の接点といえば、図書室だっただろうか。
 彼女は真面目な図書委員だったから、名前だけですぐにさぼりたがる”同僚”の穴埋めも笑顔でこなしていたものだった。頼まれるといやとは言えない性質なのかな、と思ったりもしたけれど。
 放課後の図書室に彼女がいる確率はずいぶんと高かった。
 俺は、本を買うという行為は募金活動と同じだとかたくなに信じていた。今も信じているかもしれない。だから、つまんねえものに律儀に募金をしてやる度量のひろさも金銭的余裕もなかったから、図書室によく通った。市立の図書館に行くこともあったが、とりあえず通わねばならぬ場所に付属でついているほうが余計な手間がなくて便利だったのだ。
 図書室のカウンターでも、彼女はおとなしく本を読んでいた。ひっそりと静まり返った図書室の中にあっては、黙々となにかの修行のようにページを繰ってゆくことこそが至上の時の過ごし方であるかのように思われた。
 だからきっと俺もずいぶんと、彼女を神聖視していたのかもしれない。
 が、週に何度も顔をあわせることが、イコールで仲の深さにつながるかというとそうではなく、俺はあくまで図書室の利用者で、彼女は貸し出し担当者だった。クラスメートだから他愛のない話はすれども、お互いの内側に抱えた何かを共有するほどではなかった。
 俺にとっての相崎のイメージが常に制服であることを考えるとわかるだろう。学校以外に接点なんてなかったんだから。
 ああでもひとつ、俺と彼女だけのエピソードがある。
 放課後、半ば錆ついてぎしぎしと鳴る自転車を引っ張って、校門を出たところだった。
 校門からすこしはなれたところにあるバス停の前で、相崎が真っ青な顔をしておろおろしていた。挙動不審にあたりを見回して、やがて校門を振り返って、俺に目を留める。
 大きな目に涙をいっぱいに溜めて、どうしよう、と言った。
 吾妻くん、どうしよう。
 名指しされては逃げることもできない。俺は年代ものの自転車を引きずって、相崎に近づいた。
「どうしたの」
 小柄な彼女を見下ろして声を掛けると、相崎は唇を噛んでうつむいた。なんだかこれでは俺が泣かせているみたいだ。急に落ち着かない気持ちになった。
「黙ってちゃわかんないだろ」
 落ち着かない自分の気持ちをごまかすために口をついて出た台詞は、ずいぶんと強かった。はっと相崎が息を詰めて顔を上げる。しまった。責めるつもりでは決してなかったのに。獣に狙われた小動物のように、相崎は身をかたくしている。
 気まずくなって、相崎の顔から視線をそらす。そのときようやく俺は、相崎が何かのお守りのように胸に抱えているものに気がついた。
 黒い革の―――手帳?
「バ、バスに乗ったおとこのひとが」
 俺が手帳を見とめたのに気がついたのか、たどたどしく相崎は説明を始めた。
「これ、鞄から落として。わたし……」
 唇を噛んで、相崎はまたうつむいてしまった。
 つまり、定期か何かを取り出そうとした拍子に男の鞄から手帳が落ちて、その現場を相崎は見ていたのだが、声を掛ける間もなくバスは発車してしまい、バス停にこの手帳だけが残されたということらしい。
「伝えようと、思ったんだけど……」
 相崎はとうとう、ほとほとと泣き出した。
 俺はそのとき、若干拍子抜けした。口には出さなかったが、そんなことかと思った。相崎がまるでこの世の終わりの如くに絶望的な顔つきをしているから、もっと酷いことが起こったのかと思ったのだけれど。
 簡単だ。大声を出して、手帳が落ちたことを伝えてやればよかった。俺ならそうする。
 だが、引っ込み思案な相崎には、きっとそれが出来なかったのだ。慎み深さも度が過ぎるとどうかと思ったが、同時に相崎らしいとも感じた。
 いかにも、キャラに合っている。
 後生大事に手帳を抱えて、相崎はまたどうしよう、とつぶやいた。
「載ってないの? 連絡先」
 俺は手帳なんかを持ち歩かない人間だからよくはわからないけれど、手帳の最後あたりには名前や連絡先を書くページがあったりするものじゃないのか。
 純粋に疑問に思って問いかけると、相崎はぱちくりとまばたきをした。そんなことにはまったく気づかなかった顔だった。
「で、でも手帳勝手に開けたら……」
 ダメなんじゃないのかな、という言葉が尻つぼみに消える。
 静電気のような、ちりっとしたかすかな苛立ちを、胸のあたりに感じた。
「べつに興味本位で隅から隅まで見るわけじゃないだろ。連絡先が分かれば届けたり、すくなくとも落としたことを伝えられるだろ。手帳が自分で持ち主のもとに帰ってくわけじゃないんだから。届けるつもりがないなら、そこのベンチにでも置いておけばいいんじゃないの」
 一息に言った。
 俺は自分がすでに大人であるつもりだったけれど、ずいぶんと潔癖で狭量で妥協知らずだった。理屈は一丁前だが、ひとの気持ちには鈍感だった。
 雷に打たれたように、相崎の肩がびくっと震える。
 嘆息して、俺は相崎に右手を差し出した。
「貸して、それ」
 相崎は従順に、震える手で手帳を手渡してくる。後ろ側からめくった。そこには自宅のみならず職場の連絡先までも几帳面に記入されていた。
 戸惑う相崎を置き去りにして、今は撤去されてしまった公衆電話に向かう。あの頃はまだ携帯電話なんて普及しちゃいなかった。
 テレホンカードも持ち合わせがなかったので、小銭を突っ込む。肩に重い受話器をはさんで、手帳に記載されている電話番号を押した。背中にずっと、刺さるような視線を感じていた。
 女のひとが出た。奥さんかもしれない。
「ええと、××さんの(名前はもう忘れた)お宅ですか。その方の手帳を拾ったものなんですけど。はい。黒い革の。明星高校の校門前のバス停なんですけど」
 それから俺はどうやって話をつけたんだったかな。学校の事務室にでも届けておくから取りに来てもらえるように、と言ったんだったか。
 当時は今のように、学校も部外者にそこまでぴりぴりしていなかったから出来たような芸当だけれど。とにかくそれでカタがついた。
 相崎は充血した目で、なぜか俺をまぶしそうに見て。
「……ありがとう」
 申し訳なさそうに礼を言った。


            *


 少女漫画かなにかのように、そこから俺たちの仲は劇的に親密に―――なったりもせずに。
 いつもどおりの図書室利用者と図書委員に戻って、個人的な連絡先を交換することもなく高校を卒業して、当然の如くに連絡は途絶えた。
 そして、今に至る。
「あれ、本当に相崎か?」
 彼女が携帯電話を持って席を立った隙を逃さずに、隣に座っていた浅田が絶望的な声を上げた。
 狐につままれたような顔をして、派手な女が消えた方向を見つめている。
「オレの、青春……」
 がっくりとうなだれて、両腕で頭を抱える。
 ああ、おまえも相崎にあこがれていたクチか。
「オンナって変わるんだなぁ」
 新種の生物の生態を語るように、ふくふくと幸せそうな体型をした内藤が言った。
 おまえの弾力のありそうな体型は昔から変わらないな、とは言わなかったが。
「あたしもびっくりしたぁ。でも香奈ってとおくの大学にいってたよねぇ。やっぱり環境が変わるとひとって変わるのかなぁ」
 学級委員だった高橋なおが日本酒の徳利を持ったままで割り込んでくる。ちょっと待てよ、おまえそれ何本目だよ。
「それにしても吾妻は変わんないねぇ」
 なんだそれは。
 不本意だと顔に出ていたらしく、高橋はお猪口に日本酒を注ぎながらからからと笑った。
「ぜんぜん嘘つけないとこが変わってないっつーの」
「いやだなぁイインチョー、こんな席で手酌はないでしょ手酌はさぁ」
 真横から内藤が徳利をひったくる。昔からホントおまえは調子がいいな。ムードメイカーなところは変わらない。
「ただいまー!」
 ふわりと香水のかおりが漂ってきた。上機嫌で相崎が戻ってきたのだった。少し酔っ払っているらしい。頬のあたりが赤い。
「相崎、大学どこ行ったんだっけ」
 向かい側に座りなおす相崎に訊いた。自分でもずいぶんと唐突な質問だとは思ったが、そこまで突拍子もないものではなかったはずだ。高校を卒業してからはじめての同窓会なのだし、それぞれの行く先や空白を尋ねることは、決して無遠慮ではないだろう。
 しかし、中途半端に腰を浮かしたまま、相崎はフリーズした。時間にしてはごくわずかなものだったけれど、確かに違和感があった。頬の赤みが引いた、ように思えた。
「―――福岡」
 口元がぎこちなく笑みの形を作った。
 ざらりと。
 紙やすりを撫でたような気持ち悪さを感じた。
 ちょうどそこに居酒屋の店員が追加のアルコールを運んできて、俺と相崎の間をさえぎった。
 新たな注文を受け付けて店員が再びテーブルを離れる頃には、相崎はしっかりと向かい側に座りなおし、何事もなかったかのように高橋と笑いあっていた。



2.

 店に散々迷惑をかけてから、元明星高校ご一行様は一次会を終えた。
 酔っ払いの大集団ほど面倒なものはないだろうな。特に同窓会なんて最悪だろうに。数年来の再会にいやがおうにもテンションがあがるのだ。俺は飲食店のアルバイトをしたことはないが、もしも自分自身が店員だったりしたら、五六回はこいつらを殴り倒したくなっただろう。頭が下がる思いだ。
 カラオケにゆくのだ、朝まで騒ぐのだ、という馬鹿どもの腕を振り払って、駅に向かって歩き出す。こういうときに職業作家という肩書きは便利なものだ。そんじょそこらにあふれている職種ではないから、みんな実態を知らない。
 締め切りだからさ、と一言告げれば大体は解放してもらえるのだ。実際は締め切りは今朝終わっている。睡眠時間が足りていないので、甚だ眠いのだ。
 おまえらだって俺と同い年だろうに。朝まで騒いで平気なのか。幸い明日は日曜日だけれども、近頃は貫徹(オール)なんかしてしまうと次の日が丸々つぶれてしまう。朝方家に帰って布団に突っ伏すと夜まで寝ていた、という哀れな事態になりかねないのだ。
 俺は貧乏性だから、”勿体ない”が嫌いだ。遊びつかれて眠って、次の日丸々寝ていました、となると自己嫌悪でしばらく立ち直れなくなる。
 起きていたって別段すばらしいことをするわけではないが、それはまぁ、気分の問題だ。
「吾妻くんだぁ」
 若干舌っ足らずな声が追いかけてきた。立ち止まり、体半分振り返る。
「カラオケいかなくていいの?」
 ヒールの音も高らかに、駆け寄ってきたのは相崎だった。
「もう若くはないのだよ、そんなに」
 芝居がかった調子で肩をすくめると、相崎は楽しそうに笑った。
「おまえも帰るのか」
「うん。うるさいのがちょっとね」
 えへへ、と相崎はごまかすように明るく笑った。
 そういえば同窓会の最中も何度も電話が鳴っていたっけか。男か、と思ったけれど、わざわざ訊くのは無粋な気がして黙った。


「あたしってさぁ、変わったかなぁ」
 なんとなく連れ立って歩き出して、しばらくしてから。至極答えづらい質問を、相崎は投げつけてきた。
「もう八年だぞ、変わるだろ」
 無難な答え方をした。
「変わるとなにかマズイのか」
「だってみんながさぁ」
 相崎は唇をとがらせた。
「宇宙人見るみたいな顔するんだもの」
「図書室のマドンナにあこがれてたやつが大勢いたんだよ」
「ええ、なにそれ」
 気の利いた冗談を聞いたかのようにくすくすと笑って、すぐに相崎は真顔になった。
「何がよかったのかなぁ」
 ゆっくりと運ぶミュールのつま先を見下ろして、独白のようにこぼした。
「あたしねぇ、吾妻くん。昔から自分のことが嫌いだったんだ。後ろ向きで、考えすぎで、いっつも不安で。誰かに大丈夫だよって背中ささえてもらわないと、自分の思ったことも言えなくって。―――大っ嫌いだった」
 あの頃の。
 小動物のような相崎のまなざしを、俺はまだ覚えていた。
 いつだって不安げに揺れている、水面のような頼りない瞳だ。
 何か言いたげなのに、踏み込んでは来ない。
「ちいさな頃は、大人になったらしっかり出来るって信じてた。全部がうまくいくって。ハタチになったら、自動的に切り替わるものだって思ってたんだ」
 かわいいでしょう、と相崎は苦笑した。
 俺は笑えなかった。その感情には覚えがあった。
 大人になれば、すべてのことがうまくまわり出すものだと信じていたころもあった。別に二十歳になったからといって大人の免許がもらえるわけでもないのに、年を重ねるということがイコールで成長だと信じていた。
「だけど、高校に入って三年になって、あと二年でハタチだって思ったら。自分なんてぜんぜんダメだって思ったの。このまま普通に大学に行ってさ、二年が経ってもあたしきっと変わらないなって。だから―――福岡に行くことにしたんだ。とおくに」
 誰も、自分のことを知らない場所に。
「着々と変わっていけたら一番いいんだけど、あたしにはそんな器用なこと出来なくって。いわゆる”デビュー”を狙ったわけなのよ。誰も昔のあたしを知らないんだから、って思ったら色んなことができた。少しずつだけど、自分に自信も持てるようになってきた。そのおかげでこんな、キバツなやつになっちゃったけど」
 横目で相崎を盗み見る。俺はこの数時間で、高校の三年間分よりも彼女の笑顔を見ているような気がした。
「でもねぇ、根っこって全然変わらないんだよね。普段の生活だとあんまりわからないんだけど、壁とかにぶつかったり落ち込んだりしたらダメなの。考えてもしょうがないことをぐるぐると考えたり、肝心なところでうまく言葉が出てこなくなっちゃったり。外見とか口調とか勢いとかが変わっても、やっぱり結局、あの頃のままなんだよね」
 ふわふわと軽快な口調はいつのまにか、しっとりと落ち着いていた。昔の話し方だった。特別意識しているわけではないだろうが、軽快なしゃべり方はやはり、ある程度よそ行きのものなのだろう。
 けれど、完璧に昔とおなじではなかった。始終相手の顔色を窺うようなゆらぎはなくなっていた。一本の芯を獲得していた。
「吾妻くんなんて、イライラしてたでしょう、わたしのこと」
「……なんだ、いきなり」
「吾妻くん正直だもの」
 またしても不本意そうな顔をしていたのか、相崎はこちらをちらりと覗き見てくすくすと笑った。
「昔に比べれば、オブラートに包むようになったんですけれども」
 すくなくとも、理性の検閲をかけるようにはなったよ。相変わらず突撃型ではあっても。自分の思ったことはすべて吐き出せばいいなんて、思わなくなった。
 自分の意見はしっかりと言ったほうがいい、だなんて。
 間違っているとか歪んでいるとかズレているものを素通り出来ずに、時と場合も選ばずに指を指していたけど。
 正しい言葉で痛みを感じるやつもいる。
 馬鹿正直は決してやさしくない。もしかしたらあの頃、俺は無遠慮に相崎を傷つけていたかもしれなかった。覚えていないだけで。
 相崎の慎み深さに感じていた、静電気のような苛立ちが彼女に、伝わっていたのなら。
 傷つけたかもしれない。
「大人になった?」
 首をかしげて、相崎が訊いた。さりげなく。
 それはずいぶんと、深い問いに聞こえた。
「……いや」
 俺は自分が、大人になったとは思わない。なれるかどうかも自信がない。
 社会的には数年前にしっかりと、大人の仲間入りをしたけれど。
 あのひとは大人だと、崇めたいひとならたくさんいるが、同じようになれるとはとても思えないもの。どれだけ研磨されても、俺に巣食った天邪鬼は退治できないような気がするよ。
 変わりたいとは、いつだって思っているけどね。今このときよりも逞しく、しなやかに。
「大人ってのがなんなのか、まだよくわからんよ」
「あはは、あたしもそうだ」

 俺も相崎も、根っこは決して変わってなんかいないんだろう。
 生まれ持った素質や育まれてきた環境がもたらした性質を、丸投げになんてできない。
 俺の中の天邪鬼も相崎に吹く臆病風も、服を脱ぐように身から離せるもんじゃない。

 ―――やっぱり環境が変わるとひとって変わるのかなぁ。

 環境や時間が人間を変えたりはしない。
 変わりたいと、願うから。明るく朗らかにふるまったり、オブラートに包んだり、誰かにやさしくしようとしたりする。
 自分が嫌いじゃなきゃ、ひとは多分、変わらない。
 そして、どれだけ変わっても脱皮が出来ないどうしようもないところとも、付き合ってやらなきゃならないんだろう。
 厄介な荷物でも引きずっていってやらなきゃ、じたばたもがいていた昔の自分があんまりにも可哀相だもの。
 昔よりも簡単にハードルを乗り越えられるようになっても、膝をぶつけた痛みならちゃんと覚えている。
 歩くことが巧みにはならなくても、同じ穴にはきっと落ちない。
 大人かどうかなんて知りもしないけれど、ある程度ひとや社会や、自分とは境界を異にするものと折り合いをつけられるようになったからさ。
 こんな子どもなら寝ている時間に出歩けるようになったんだろう。

「あ」
 ちいさな叫び声をあげて、俺の傍らから相崎が飛び出した。
 前方で、足元のおぼつかないあきらかに酔っ払いの若い女が、ぺったりと地面にへたり込むのが見えた。
「だいじょうぶ?」
 何のためらいもなく、大学生と思われる女の子の傍らにしゃがみこむ。紅潮した顔で、女の子は平気ですぅと笑った。ああ、あの調子なら気持ちいいレベルだろうな、と俺は遠くから傍観した。
「アサミー、何してんだよ平気かよー」
 近くにある居酒屋の入り口から、金に近い茶色の髪を逆立てた男が駆け寄ってきた。ドーモスイマセン、と相崎に詫びている。
 ふわふわとした足取りの彼女と、彼氏らしい派手な男は小刻みに相崎に頭を下げて、遠ざかっていった。
「だめだね、あれは」
 俺は、すべてが片付いてからようやく相崎のもとにたどり着いた。
 肩越しにこちらを仰ぎ見て、相崎が苦笑する。
「まだ限界を知らないんだねぇ、可愛いなぁ」
 どこか遠くを見るように、若者が消えた雑踏を眺める。
 その横顔は、なんだか気高かった。

 ―――ど、どうしよう吾妻くん、どうしよう。

 気高くきらきらとした彼女の傍らで、あの日の相崎の幻影がおろおろと俺を見る。
 潤みきって、光を跳ね返す怯えた瞳。手渡せなかった落し物をきつく胸に抱いて震えている。
 制服姿の頼りなげな幻は、すぐにかすんで消えた。
「……おまえ、変わったよ」
 なぜか俺は、手放しで相崎を褒め称えたくなった。手を伸ばせば届く位置にある形のいい頭を、撫でてやりたい気持ちになった。
 頑張ったな、ここに来るまで。
「ええ? なにが?」
 大きな目を見開いて、相崎はなんてこともないように聞き返す。
「恰好よくなった」
「ホントにぃ?」
 気の利いた冗談を聞いたかのように、楽しそうに声を上げて笑った。
 本当だよ。
「でも良かった、うれしい」
 口の端に笑みを残したまま、相崎は歩き出した。もう駅が近い。
「みんな、腫れ物にさわるみたいだったから、今日。あたしもしかして、ダメになっちゃったのかなぁって思ってたんだ」
 自分じゃ分からないもんね、そういうの。
「それはあいつらが知らないからだろ」
 ここに至る過程を。
 親戚の子どもなんてすぐに大きくなっちまうだろう。この間まで言葉も話せなかったはずなのにもう中学校か、なんてさ。
 別にその子にだけ特別な時間が流れているわけじゃなくて。知らないからだ。
 それぞれに過ごした時間を。
 寝ておきたら劇的な変化を遂げて、強い人間になれる方法なんてない。
 おまえだって。
 一瞬であの頃から今に、変身したわけじゃないだろう。
 俺だってまったく知らなかったから、驚いたけど。

 ちらりとこちらを盗み見るような相崎の視線をしばらく感じていた。何故か横を向いて見詰め合う気分ではなかった。
「あの頃ねあたし、吾妻くんにあこがれてたんだ」
 まっすぐに顔を戻して、相崎がしんみりと切り出した。
 お互いかたくなに前を見て、駅を目指した。
「だから、良かった。吾妻くんにはイヤな顔されたくなかったから」
 照れ隠しに苦笑した。おまえ、どうかしてるぞ。つられて相崎も笑った。
 あとは黙ったままで、高架下をくぐる。人が流れ出しては注ぎ込まれる改札口を目指した。
「遅ぇよ!」
 突然真横から伸びた腕が、相崎の細い手首を捕まえた。ぐっと引き寄せる。
 前触れなんてなかったから、ふたりとも驚いた。
「店出るっていってからどれだけ経ってんだよ」
 が、闖入者は相崎だけを見ていた。目くじらを立てて彼女を責めた。ひとしきり文句を言ってから、胡散臭そうにこちらを見た。バンドでもやっていそうな、きれいな顔をした男だった。
 軽く会釈をして、相崎にじゃあなとだけ声をかけて、改札に向かって歩き出した。長居をするとあらぬ誤解を受けそうだ。
 じゃあね、という声だけが追いかけてきた。またね、とは言わなかった。それが賢いよ。
 拍子抜けしちゃったよ。自動改札に切符を飲み込ませて、自嘲のような笑いが出た。
 なんだかんだ言いながらここまで迎えに来る彼も彼だし。ごめんねぇと謝る相崎には、緊迫感なんてまったくなかった。笑っていたもの。
 ちょっとだけ。ほんの少しだけドキッとしてしまった俺が恥ずかしいぐらい、楽しそうだったな。

 週末の、終電も近いホームは混んでいた。
 今ここで素面のやつなんてどれぐらいいるんだろうな。
 大声で笑いあったりぐったりとしゃがみこんだり。どれぐらいが、法的に飲酒を許された人間なのかなんて俺にはわからない。
 どれぐらいが大人なのかなんて、わからないよ。
 だけどもうみんな、親に手を引かれないと歩けないほど子どもじゃないはずで。
 くくり方や境界線の引き方は、千差万別だ。
 難しいな。難しい。

 今日は、昔と全然変わらないと言われたことをひとりで嘆こうか。
 大人だって褒められるよりも、大幅な時間を隔てた人間に、前よりはマシになったって言われるほうが、俺には価値があるような気がするんだよ。
(ああ、サイン)
 カナちゃんへ、と書き添えて。
 渡してやるのを忘れたな。
 告白された直後にフラれてしまったというのに、なんだかほろ酔いのいい気分で、俺は背後から迫る人波に押されて、狭い電車に詰めこまれた。


<了>


一文字漢字御題百選 41:誰